1074 八切日本史 10

               われらの中のコマ

戦意日米交渉

 大新聞文化部の話では、連載小説に葉書が一枚くると一万人に読まれている計算で、
五十枚で五十万に毎日読まれていると、測定をするそうである。つまり、日本人の確
固たる意思表示率は万分の一という事になる。となると人口一億を割れば百万人がそ
の確立にあたる。ところが6.23の安保継続反対デモは七十七万、警備側二十三万
の報道である。
 こうなると、この割合では、そのために給料をとり手当を貰う制服集団は、みな戦
争はいやだというのらしい。
 かつて、「挙国一致体制」といった教育をうけてきた私など、国家目的と国民意識
が、こんなに分裂しているのに唖然とさせられる。
 恐らくこれは軍事評論家のO氏が、
「もし中ソの大陸国家と米国に衝突が生じた場合、先制攻撃をうけたら、アメリカ本
土では十五分から二十分の余裕があるから、GOと応戦命令を出し国民を避難させら
れるが、日本にアトムが落下するまでには六分間」といいはって、はっきり計算をだ
して説明しているから、
「六分では恐らく避難命令など出しても混乱を招くだけだから、じたばたせずに静か
に眠らしてやろうと政府は親心を示しサイレンもならさず、テレビでもまぁ報道しな
かろう」などと云うものだから、もはやアキラメしかないといえよう。つまり、
「六分間で、あっという間に消えちゃったでは、何かのCMソングみたいではないか」
「一億総火の玉‥‥なんだねぇ」
 という事になってオバサンや娘さんも、
「歩け歩け、南へ北へ、デモに歩け」
 と、みんなアベックまでが参加し大行進となったものと想像される。が、そうなる
と自衛隊はあってもなくても同じみたいだが、軍事評論家のO氏に云わせると、それ
は局地戦争用なのだという。
 はっきり云えば在韓二個師団の兵力をアメリカが近く引揚げるから、その肩代わり
にあてるためにそれは存在するのだそうである。
「東洋平和の為ならば、なんで惜しかろこの命‥‥」とナツメロ軍歌で進軍せよとの
意図らしい。ところが相手は、
「来るなら来てみろ」というのである。
 猛虎師団としてヴェトナムへ参戦し、敵を散々殺してきてあげくはソンミの韓国版
もしてきたと伝わる勇猛な向こうの軍隊は、
「もし日本軍が来るならば、吾々は銃を逆さまに向け戦う覚悟である。何故かなれば
北鮮はあれでも同胞だが日本は違う。かつての侵略を吾々は忘れていないのである」
 きわめてスサマジイ声明をしている。
 わが防衛長官もその総長をしていた大学の事件で、拓忍的人材は僅かで、それに反
対の学生が拓大にも沢山いるのに、今さらのごとく驚いたろうが、日本の自衛隊も今
や昔の帝国陸海空軍とは違うのである。進んで応募した若者ばかりで頼もしい。心配
する事はないそうだ。
 筋の通ったのはコニシ君みたいに隊内で、反戦運動をしているし、でないのはレン
トゲンをごまかされて入隊したような隊士、と三島事件で人気を落としているらしい。
 尉官以上は歩くことを今はしないから、運動不足で体力があまり強くなく、それに
将官たるや、
「三菱重工へ天下りしようか、日立か?」
 と、そんな自分の転身作戦ばかり考えている向きが、多いやにもきいている。
 かつての乃木大将は「真田十五代記」といった講談本しか読まず、「旅順攻撃」で
二万からの兵を殺してから、改めて「攻城法」というのをインスタントに勉強したと
いわれる。
 が、それでも腹を叩っ切る気概はあった。
 しかし今の日本の自衛隊にそうした人を求めよう、としてもそれは土台無理だろう。
 なのに彼らをして、強い韓国軍や、それよりも遥かに果敢と宣伝される北朝鮮軍に
当てようとは、これはムチャというものである。
 ひとつ間違うと、南ベトナム軍に煽られ、北ベトナム軍にやられてしまって国家総
動員法をしき、十六歳以上はオンナノコも第一線におくりだすカンボジアの二の舞で
ある。
「せんい日米交渉」を前の通産相はやってきたが、防衛長官も向こうへ行って、
「戦意日米交渉決裂」をやってきて欲しい。
 明治生れの日本お老人共は身びいきというのか、かつての日本軍の幻想をまだもっ
ているかも知れぬが、どうだろうか。うっかりアメリカさんの肩代わりに朝鮮半島へ
進駐しようものなら、追払われた上に向こうから押しかけられる心配さえあるのであ
る。
 そうなったら六分間でドカアンより生きとし生ききれば、遥かにもっとみじめった
らしいだろう。
 というのは、外国映画や小説にはレジスタンスものというジャンルがあって、占領
軍に対し反抗する精神のあり方が描かれているが、日本人というのはアンクルトム的
で奴隷根性だから、すぐ体制にべったりしたがって、レジスタンスなんかよぉしない
からである。
 これはかつて天孫族なるものが、原日本系住民を徹底的に弾圧したので、それから
天神ヒゲや髪を長くしたのに畏怖してしまい、「長いものには巻かれろ」となったの
だろう。
 しかし、その歴史は匿されてしまっているから、あのマッカーサーでさえ、
「薄気味悪い。日本人はみなネコを冠って、吾々を一斉にみな殺しにするチャンスを、
隠忍自重して待っているのではあるまいか」
 コーンのパイプをこんこん叩いては、しきりに気にし心配していたそうだが、日本
人はその点では腰抜けなのである。たとえば、
「脱獄」というのはよく向こうのストーリーに使われ、何人もが協力して地下トンネ
ルを掘って脱出というのが映画にもあるが、日本では、
「伝馬町の大火でときほぐしになり、そのまま戻らず結果的に個人脱獄になった」
 というのはあるが、集団という例は皆無である。ただ、
「ども安」こと武居の安五郎が、甲州人二名武州人五名の計七名で、新島から逃げて
きたのが本邦唯一の集団脱走である。当時の黒船騒ぎで成功したといわれる。
 このため、ども安は、日本開闢以来の獄破りというので尊敬され、嘉永二年から文
久二年までの十二年間、生れ在所では大親分で通していられた程のものである。
 つまり日本人というのは、親方が日の丸であれアメちゃんであれ、伝統的に奴隷的
生き方が身にしみこんでいるから、
「おかみに対し奉って」とすぐこうなる。
 だから猛虎軍が日本へ上陸してきても、トラだといわずに、
「われらがオカミ‥‥だぞ」とでも宣伝されるや、
「うへえッ」となってしまって、町会は、
「猛虎御用自警団」でも作って、棒をもって協力するのが関の山である。


国辱的歴史学者

 さて、こういう情勢下において、国士館高校の腕白坊主共が先制攻撃のためか、朝
鮮人高校生徒をぶん殴っては問題を起こしているが、在日の朝鮮文化人達も今やしき
りと、
「日本の中の朝鮮文化」とか、「われらの中の朝鮮」をうたって、事前宣撫工作みた
いな傾向を示しているやにも思われ、獄内の金嬉老でさえ、出刃包丁を写真にとらせ
て、
「真相をあばくぞ」とすごみをきかせ、そのため気の毒にも看守さん一人が自殺にま
で追いこまれている。国外的にも大島渚の、
「絞首刑」は、日本で差別待遇をうけ絞首刑になった哀れな朝鮮少年の悲劇を、ひろ
く海外キャンペーンして効果をあげている。
 つまり、われらの中のコマとは、コマスタジアムではなく朝鮮の古名コマであるが、
これに対し金達寿は、はっきりと、
「古代日本文化は帰化人を通じ朝鮮から多くのものを学んでいる‥‥と日本の歴史家
たちはとく。が帰化人などというものは古代の、少なくとも七世紀以前の日本には一
人もいなかった‥‥何故かなら、彼らこそ古代日本を作ったそのもの自身、だったか
らに他ならぬからである」
 とまで言い切って発表している。確かに、「いにしえの奈良の都」のナラが、朝鮮
語の国を意味する「ナラ」と同じであることも、私は認めるのに反対はしない。しか
し、
「日本の歴史家はデタラメである」とここまで中外に喝破されては立つ瀬がない。
 私は戦国史専門で十五六世紀を主に勉学しているから古代史は埒外である。
 とはいうものの、ロンドンデリーの囲み物連載にまで堂々と、
「Korean culture induced Japan」
(コリアによって日本は作られた)式のものを書かれて、日本の歴史家は阿呆や何も
知りよらんと、銭もうけの本ばかり作っとる、とまでケイベツされては黙っていられ
ぬ。
 まことに不得手な古代史だが、義をみてせざるは勇なきなりで、これに反論を加え
たい。
 とは云うものの、しかし日本の歴史家も、もうすこし眼をさましてもらいたい。
 なにしろ70年6月9日の読売新聞では、大きな見出しで、
「わが国へきてまだ二年しかたっていない、二十六歳のハンガリー青年が、これまで
日本歴史学会でも解明できなかった吾国最古の漢詩集「懐風藻」の編集者を研究中に
発見し、近く日本語で学会に発表する」
 と報道されていたが、オハヨウ、コンニチワくらいしかいえぬ青年に、日本歴史学
会でも手がつけられていなかったものを解明されたとは、これは国辱以外の何もので
もないというしかない。
 もし英国あたりだったら、王立学士院会の大問題になって、その方面の研究者は詰
問され学位まで剥奪されてしまうのである。なにしろ歴史学は天文学ではない。空の
新星なら素人の青少年に発見されても恥ずかしくないが、
「懐風藻」のように昔からの物を放っておいたのは困る。これは手がつけられなかっ
たのではなく、手をつけても一文も儲からんものゆえ歴史学者は知らん顔をしていた
だけだろう。
 とはいえ、こんなオサムイ話はない。だいたい日本の歴史家なるものは、「歴史学」
そのものを知っているのだろうか?疑いたくなる。
 十八世紀に入ってヴォルテールが、それまでのスーパーマンや神人や英雄たちの古
い話を‥‥歴史とする考えをすてるよう提説し、
「人間の群生形態が国家になってゆくのは、風土寒暖や民族の風習によって形成され
る」
 と唱えたモンテスキューによって、
「真実の歴史」こそ「歴史学」であると見直されてから、キゾーは階級制交替発展説。
 ヘーゲルは弁証法による歴史証明論。
 これがミシュレからトインビーに至る、郷土史学の徹底的解明による専門分野の集
成。
 という今日の「歴史学」となり、その実証的記述法としては、英国のスコットの歴
史小説が、レシ(記録体)の元祖とされた。
 だからして日本で発行される世界文学全集の類でも、ドキホーテしかり、赤と黒し
かり、戦争と平和にしろ、小説が歴史そのものの観を呈し、歴史を扱っていない文学
書はないような有様で、オーギュスタンも、
「歴史、それは歴史小説家の書くもの。私共は彼らの記述に資す方法論を解明するの
み」
 とまでいっている。しかし日本には、
「時代小説作家」というのはいるが、歴史小説家があまりいないせいか、ハンガリー
の二十六歳の青年に、とんだ赤恥をかかされるようなドンな目にもあったのだろう。

いじめたのは誰

 さて、われらの中のコマは、馬を駒とよび、ポックリから駒下駄になり、彼らから
の迫害が、「コマっちゃうな」として残っている。
 金達寿のいうように朝鮮のクダラ人が、奈良朝だけでなく、朝鮮の新笠姫のうみ奉
った御方が、開発された当時の平安京いまの京を都にした当初は、彼らクダラ人以外
の原住日本人たちは、人間でないような扱いかたをされたのではないかとも想えるの
は、なにしろ私らは今日ですら「くだらでない」の言葉を無心に、「クダラねえ」と
かつて自分らの先祖が嘲られた罵言とも知らず、時たまはよく使用しているせいもあ
る。
 そして、かつて吾々が義務教育として強制的に学ばされた、
「小学国史、尋常科用」に、
「われら日本臣民は、つねに和気清麻呂のような心がけを持つことを忘れてはならな
い」
 と書かれ、国民精神の手本とされた和気氏たるや戦後になって解明されたところで
は、「百済人純蛇の裔」であるとされる。
 お壕端の第一生命ビルを日本御座所にしていたマッカーサーが、いまダイジェスト
社ビル前の和気清麻呂像だけを、他の像は撤去を命じたのに拘らず残しておいたのも、
あれは、
(先輩の占領軍司令官に敬意を表してか)と判ってくると、阿呆らしくてものもいえ
ぬ。
 このクダラ人たちが、「今来ノカミ」として日本へ持ち込んできたのが、平野四神
で、
「三代実録」によれば、
「平野今来神正二位が、従一位」
 それが「祝詞式」の記録では、その今来ノ神様が、「皇大御神(スメラノオオカミ)
」になったという。
「今来」というのは、のちの大和の国の高市郡のことだが、発音通り、
「今来たばかり最新到来のクダラ人の神」のことであろう。だから、
「日本神祇史」などをみると、「玉海」からの引用で、
「宮内省に坐す神は園神一座、韓(カラ)神社二座の三座なり」と明記されている。
 また金達寿は、中島利一郎著をひき、
「大仏殿をこしらえた行基大僧正や、比叡山のてっぺんに延暦寺をたてた最澄上人。
東大寺を建立した良弁和尚が、みな朝鮮人であったことを、いまだに知らぬ日本人が
多いのは情けない」
 責任は怠惰にして研究心に欠如したわが歴史家にこそ帰せられるべきなのに、氏は
何も知らされずにきた日本人を、真っ向から責めるのである。
 しかし、そんな事をいわれたところで、
「どうもおみそれ申しまして、済みません」
 とは私はいわない。云えはしないのだ。
 今日の奈良の大仏は松永弾正に焼かれたあと、豊臣秀頼によって修復されまた江戸
時代にも改築されたものだが、行基大僧正らによって鋳造された時点、
 起重機も電気溶接もガスバーナーも何もなく、すべてを人間の二本の手でやらなけ
ればならなかった時、あれだけ見上げるばかり巨大な物を作る場合には、どれだけ多
くの人間が溶鉱炉の業火の中へ落ちて死んだか‥‥。
 行基やそのブレーンは朝鮮人であったとしても、そこで使役された労務者は誰だっ
たか。
 まさか当時の朝鮮に、いまの清水建設や大林組のような建設会社があったとは思え
ぬ。
 といって行基たちが、朝鮮から徴用で人を集めてくる筈もなく、また半島の季節労
務者が、当時のことゆえ出稼ぎにきたとも考えられぬ。
 何万人と集められ鞭打たれ、赤々と燃えるルツボの中へ足ふみはずし、次々と、
「ヒェイッ」と悲鳴をあげ、火中に生きながら呑みこまれていった何千人の者たち。
もちろん労災保険もなかったこの人間共は、いったい何処の誰だったのであろうか?
 二十世紀の今でさえケーブルカーにのらなければ、とても登ってゆけぬ比叡の山頂
に、大きな石や材木を担わされ延々と蟻のような行列を作って、這い上がってゆき、
すこしでももたつけば鞭や棒で乱打され、見せしめのため石で撲り殺された人々。
 逃亡を防ぐために鎖をつけられていた故、あの比叡の山の崖で一人でも足を滑らせ
たら、何十人も一度に曳きずられるよう、
「ワアッ」断末魔の悲鳴をあげて墜落し、粉々に谷底に死んでいったろう人々。
 東大寺にしてからが、あれを建てるのに何万の奴隷が酷使され何千の人間が血を吐
き虐殺されるみたいに死んでいったか。
 ‥‥さて、そうした奴隷の群は、誰であったかを金達寿に考えてもらいたいのであ
る。
 いくら氏でも、それらまで朝鮮人だとはいわないだろう。それら奴隷は、日本列島
にそれまで平穏に暮らしていた何の罪もない、吾ら日本原住民に他ならないからであ
る。
 なにしろ日本人は、原爆を落としてよこしたトルーマンの手先が進駐してきても、
レジスタンスどころか何の仕返しもできず、
「過ちはくりかえしません」と自らの手で原爆記念碑をたてるようなまねをしたり、
「ヘイ・ウェルカム・ユゥ」と、いまだに基地ちよぶスペシャル・ランドで、一回5
ドルで日本ムスメを公然と彼らに抱かせているのは、みな行基や最澄らの時点におい
て、
「占領軍にさからったら、どんな目に逢わされるか、よぉ覚えておけ」と散々にしご
かれ、徹底して恐怖をしみこませられたためではなかろうか。
 つまり日本人の、体制べったり志向とか、「長い物にはまかれろ」といった、ご無
理ごもっともの奴隷根性を、今や国民性になってしまうまで浸透させたのは、彼らの
せいでなくてなんであろうかと、それをいいたい。
「エエコーラ、エエコーラ、もう一つエエコーラ」といったヴォルガの舟唄が、かつ
ての日本人に愛好されたり、アンクルトム達の、「黒人霊歌」が日本でもてはやされ、
亡国流浪ジプシーの「フラメンコ」が流行する下地もそこにあるのではないだろうか。
 福岡徹の『軍神』をみると、旅順戦の日本軍は、
「私らは消耗品ですから踏んで通って下さいと応招達は、児玉大将が見廻りにくると
反抗ではなく、動けぬ身体をその靴の下におこうとした」といった場面がある。
 最近もイオウ島の洞窟で、手つかずの一升瓶の水をそのままに、かわきと飢えで死
んでいった日本兵の白骨の山が、遺骨蒐集隊によって発見されたと報道され哀れ人々
の涙を誘ったものである。
 なんというべきか、この従順さ、そして命令されれば、
「死んで帰れと励まされ」の唄通りに挺身するけなげさ。しかし一旦だめとなって無
条件降服してしまうと、またしても、
「アメリカさんのためならエンヤコラ」
 と、火中の栗をひろうどころか、六分間で一億一心総火の玉となってしまおうとも、
あの憎っくきかつての敵さんにさえ、お仕えしようというその忠義ぶり。これは涙な
くしては語れもしない。
 つまり、こうした家畜人ヤポンスキーに、吾々を仕込んでしまったことを考えてく
れるなら、
「加藤清正がきれいな女をもっていった」
「島津豊久が陶工を薩摩へ伴っていった」
「伊藤博文によって、日韓併合を強行された」
「大震災のとき、町会自警団に撲殺された」
 といった非難も勘弁してほしいものだ。
 朝鮮征伐のときに此方が荒らしたことばかりを、しきりにいうが、秀吉の急死によ
る引きあげで休戦協定もできずの撤兵だったから、取り残され虐待された日本人がい
かに多かったかを、日本の歴史家は忙しいから、現地のそちらで、ぜひとも調べて頂
きたいものである。
「日韓併合」も、あの時ああしなければ、韓ソ併合だったのではあるまいかと思うし、
日本の自警団や町会のオッサンが権力側の手先になるのは、かつてのクダラ人の教育
というかシツケだったことも判ってほしいものである。
 箱根権現神社も伊豆山神社も、コマのカラ神さまだというのならよくも参拝しよう。
 だから安保継続で日本の青年が、アメリカさんの命令で行かねばならぬその節は、
どうぞお手柔らかにと、今からせつに頼んでおきたい。

悲惨が人肉を呼ぶ

「アシュラ」という劇画で、人肉を食うのがいけないと、各地で批難されている。
 しかし、げてもの食いで芋虫やゲジゲジを口にするのとは違う。作中の人物にそれ
を食させねばならぬ必然性があって書くのだろう。『魔女裁判』を書きにリスボンへ
行っていて、又ぞろ私は十五六世紀の古い記録を見て廻っていたら、(生きた女の生
肌をはがした皮製)というB4版程の大きさの物をみつけた。
 しかし若い女にしろ老婆であったにせよ、なめし方が悪いのか、四五百年もたつと
人間の皮はもろいもので、縮んだり裂け目ができていて、羊皮張りの方が遥かに堅牢
だった。
 だから人肉もいくらビールを連日のみマッサージしている人のでも、和田金や人形
町日山の肉ほどは、食しても美味ではなかろうと想える。
 ところが大気汚染や海洋公害のため、人口増加に比例して食料増加は望めぬから、
近い将来には人間は食するものに事欠き、やがては、「完全人造肉」を口にするやも
知れぬといわれる。
 といってそれは石油製の人口肉ではないのである。
 そうなると地球は、もはや大きな荒野にしかすぎなくなるが、その時のためにと、
「家康は二人いた」を七百枚書くとき、十六世紀の駿河にはその風習があり、幼き日
の家康も骨の間に残った生肉の残滓(ざんし)をしゃぶっていたのを書いたが,これ
は満州で終戦直後に私は自分の眼で見てきたから、抵抗なく書けたらしい。
 というのはトルーマンが原爆を日本へ落とした二十六年前の、あの暑かった夏。
 白い入道雲の浮かぶ満州の荒野へ、条約を無視した赤軍が怒涛のごとく侵攻してき
た。
「無敵関東軍」とそれまで豪語していたのが妻子を疎開させ、現地召集のシロウト兵
に、「死して護国の鬼となれ」と命じ自分らも逃げてしまった。ひどいものである。
おかげで彼らが口を酸っぱくして演説していた「武士道」なるものを、それからは信
用できなくなったのだが、さて当時の関東軍は現地満人に衣料切符は与えたが、現物
は殆どやらなかった。
 そこで孫呉や興安からの引揚げ邦人婦女子は、着物やモンペどころか腰巻やショー
ツの類まで、途中で掠奪されみな丸裸だった。
 ところが、そこへ襲ってきた赤軍の機甲軍団。
 第一線はシベリアの囚人部隊であるときいたが、これが物凄いなんてものではなく
て、荒野を逃げ惑う邦人婦女子は、彼らの波状攻撃により、性の迫害が生そのものに
まで及んで、何とか致死でばたばた死んでしまった。
 さて、山で遭難した遺骸を燃した経験者は御存じだろうが、人体というのは水分が
その殆どのパーセンテージをしめているから、マッチと枯草位では焼けっこない。そ
こで引揚同胞は、遺体を放ってもこられず、といって焼くには手間がかかるので、よ
く燃えるように骨から水分の多い肉片をむしり取った。
 が、それも棄ててくると山犬に後をつけられ、生きている方までが、ついでに餌食
にされ食い殺される。
 だから、骨からはずした部分を携帯しての逃避行となったが、さて次々襲ってくる
連中は、「オーチン・ハラでショウ」とばかり、荒野の中で包囲した生きた日本女性
の体を、寄ってたかってほしいままにしたあげくが、死んでる肉片まで、彼女らの携
行食糧の鹿の乾肉かと勘違いしてもりもりかじって食した。
 やがて性的に経験の浅い少女たちは、日に数十回の迫害に堪えかねて荒野で死んだ
が、辛うじて生きのびられた女性は、カナカ土人のように腰に草葉をまいたり、破れ
た麻袋を拾ってかぶり、獣のごとく奉天へ辿りついた。
 そして、北春日小学校へ彼女らは収容されたが、赤軍包囲下のため初めは食料がな
く、彼女らの中からも餓死者が一日おき位にはでていた。
 やがて残った彼女らが白粉や口紅を手に入れ、やむなくロスケ相手の性行を始め出
すまで、何人かは、いや全部の女達が窓硝子の割れた教室の中で「鹿肉」とよんでい
たそれを食べ、悲惨な話だが飢えをしのいでいたのを私は眺めている。


武士は真をもみつけるもの

 さて私は幼児、尾州徳川家の臣だった血脈の母方の祖母[八切氏によれば山窩の出
自といわれる]に、桃太郎や金太郎の話の後で、
「人間の肉は食べると酸っぱい」といったような話を、寝つきが悪かったので、話の
種のつきた彼女からよく聞かされた憶えがある。
 祖母の父が維新戦争の時に尾州集義隊の小隊長として、越後国へ戦をしに行ったと
き、そこで見聞してきた難民たちの話か。
 それとも大垣の奥の美濃の山者が天保以来の飢饉の折に、武儀の荒地で展開してい
た共食いの地獄図絵の模様を、尾州領へ逃げこんできて話したのか、そこまでは惜し
いが子供のことゆえ聞き返してはいなかった。
 が、そうした予備知識が有ったからして、
「食うも食われるも同じ日本人どうし」
 と、ロスケに食されるよりは増しだろうと考えて、北春日小学校に収容した女性た
ちを、私は咎めだてする気にはなれなかった。
 しかし、祖母が教えてくれた言葉の、
「人肉は酸っぱい」の真相は、同じ人間どうしゆえ、どうしても気がひけて切羽詰ま
るまでは口にしかね、いよいよ堪らなくなって頬ばる頃はもう腐りかけていて、そん
な酸味がしたのだろうとしか今となっては考えられぬ。聞いたところで新鮮な肉なら
決して変な味はしないもののようである。
 さて、尾州徳川家というのは、幕末になって薩長側に立ったので、体制べったりみ
たいに誤解されているが、なかなかもって反骨な家柄である。昨春、縁あって尾張藩
門外不出の、
「重代記」を見せてもらって驚かされた。というのは、よく大衆小説や古い映画の
「万五郎青春記」という尾張宗春の部屋住み時代のチャンバラものがあるが、宗春は、
通春の名で幼児から奥州梁川三万石をついでいて、部屋住みではなかった。また紀州
の吉宗と将軍職を争ったのは、彼ではなく兄継友の方である。
 さて大岡越前守忠相によって公布された当時の法令、つまり、
「徳川宗家に対し、とやかく異議を申すまじく。権現(家康)さまについて異議をた
てるは固く御法度のこと」というのを、
(当時の物書き共への体制側の弾圧策)と私は考えていたが、その「重代記」を読む
とそうではないのである。この法令で引っかけられ六十二万石をふっ飛ばされたのは、
ご三家尾張七代目藩主の宗春だったのである。
 彼が自分の名で出した「温故知要」の本はまぁ良かったが、室鳩巣序文、堀杏庵名
で出した「庚申闘記」というのは、
(桶狭間合戦の勝利は徳川家康開運の緒戦だった‥‥というのは信長を案内し義元を
討たせたのは、誰かといえば)といった意外史。
 書物奉行堀田恒山の名で出した本たるや、
(家康公[松平元康のこと]と権現さま[世良田二郎三郎‥‥後の徳川家康]は石ヶ
瀬と和田山で二度まで一騎討ちをなされたが、三河の兵はプロなのに、権現さまの方
は伊勢の榊原とか駿河の酒井や渥美の大久保みたいな寄せ集めゆえに二度とも惜敗さ
れた‥‥)という内容。
 家康の玄孫にあたり、幼児から奥州へやられていた彼としては、尾張へ戻ってきて
当主となると、儒臣や侍臣を総動員し今でいう郷土史家を集めさせ、尾張に残ってい
る資料によって、古老談の型式で発表したのだが、
「徳川家康は二人いた‥‥のである」
 というのを御三家の当主に公にされては、江戸の将軍家では立場上困ってしまう。
「不都合のかどあり」と処分されたのは、この筆禍事件がもとで、世にいう遊所通い
の放蕩が原因というのは作為されたものらしい。そして彼は閉じこめ処分で子はみな
早死にさせられる。
 現代の立川談志は常識的には、当然なことをいっては舌禍事件を起こしているが、
宗春も本当のことをいってクビにされたのである。
 また、ヨーロッパの歴史学というのは、
(郷土史家を大切にし、郷土史を集成した地方史の積み重ねが、その国の歴史)
 の構成になっているのに、日本では、
(御抱えの御用歴史家が、まず先に国家目的で国史を作り、末端はそれに合せる。そ
こで郷土史家というのは頭ごなしに軽視される)
 といった謎もこれでようやく解けてきたものの、名古屋の徳川さまは、
「家康[元康のこと]は長顔だったが、権現さまは丸顔なり」
 などと、第九子義直のため名古屋城を築いた時に立ち寄ったのを拝顔した当時の者
の云い伝えまで、よくもあの時代に書いたものであると、感心させられる。私どもは
今でもよく折にふれ、
「彼奴はサムライだ」などと人を評する。
 が、それと、「忠義一途」体制べったりの士道との間には感覚的なムジュンを感ず
る。
 その点、真実をあくまで君臣一致で追求した名古屋武士たるや、郷土愛でいうので
はないが、「サムライだったのだ」と思わざるをえない。もちろん、このおかげで、
御三家とはいえ尾張から江戸城へは、将軍としては一人も入れず、また尾張徳川家に
はその後は、田安家から代々養子が廻されてきて、又ぞろ何か書くのを防いでいた。
 そこで、その「重代記」も表むきは名古屋城巾下三の丸へ保管されていた恰好にな
っていたが、実際は、書物奉行が受け書をだして自宅保管をしていたため、維新から
一世紀たっても無事に伝わってきたようである。