1073 八切日本史  9

勤王思想をうけつぐのは?

「週間現代」に連載した「実説樅の木は残った」で、この真相を、
「これまでの説では伊達安芸と兵部の党派争いとするのが、最も新しく正しいものと
されているが、安芸は伊達領内で二万二千石の大禄をはんでいた。それが谷地十町歩
位の境界争いで己が江戸表へ訴え出たのでは、一つ間違えば二万二千石さえ失いかね
ないのだから、それは冒険にすぎはしまいか」そして、
「今でも、うちの会社は脱税していると投書したり、公にする者がないではないが、
それらは会社をやめさせられた腹いせか、しっぺい返しであって、常識からしても在
職中の者が会社を潰すような真似はしないものだ」
 という観点からして、私は、「党派争い」という見方はあまりにも、卑近すぎはし
ないかと考えざるをえないのである。そこで念のために、
「皇室典範」をみて、当時の天皇さまの御名をみると、「後西天皇」であらせられる。
 徳川秀忠の娘の和子が後水尾帝の中宮として入内し、うみ奉った女一宮が七歳のと
き。
 恐れ多くも徳川の権力をもって後水尾帝は退位させられ、
「明正帝」とそのまだ七歳の頑是なき御方さまを即位させ次の御光明帝さまの次が、
この非徳川系の後西帝であらせられる。
 だから、ようやく徳川系の帝でなく即位されたのが、この天皇さまということにな
る。
 ところがこの天皇さまも伊達綱宗が二十二歳で隠居のあと、すぐ後を追うごとく退
位。
 次なる霊元天皇さまに慌ただしく御位を譲ることを余儀なくされ遊ばしている。
 もちろんすべては徳川家のなすところで、二十七歳のお若い天皇さまが、まだ十歳
の霊元さまとご自分から代わられるわけがない。
 そこで後西さまの御生母をさぐると、「櫛笥(くしげ)左中将隆致(たかむね)卿」
の長女で御匣局(みくしげのつぼね)隆子とある。
 ところが、その御方がのちの後西さまである良仁親王を生まれた頃は、徳川系の天
皇の御代だったから、左中将一家は生活に窮していたらしい。
 そこで末の姫君の貝姫が遥か東下りして、伊達政宗の倅忠宗の側室となられた。そ
の御子が綱宗なのである。つまり綱宗と後西天皇は従兄弟の御血縁、という事実がこ
こに浮かび上がってくる。
 さて吾々は幕末になって初めて、東山三十六峯草木もねむる丑満刻の剣戟の響きに
より、勤皇の志士が現われ討幕運動が起きたごとく錯覚しがちであるが、いつの世に
も反体制はある。
 反徳川運動、つまり討幕運動も、「島原の乱」とか「由井正雪の謀叛」といった徳
川史観の表現で伝わっているから、こんがらがって判らなくなるが、これとてありて
いは、討幕運動に他ならない。
 すると、それまでの徳川系の天皇とは違う後西さまが、伝奉の園池中納言宗朝に命
じ、
「奥州の伊達六十二万石の伊達綱宗が、従弟に当るとは心強いことである」
 秘かに討幕を策されたとしても不思議ではない。ところがこれが京所司代に新任し
た牧野佐渡守親成の探るところとなって、小石川堀工事中の綱宗は突如として謹慎処
分で隠居。
 天皇さまも御位を追われて譲位となった。
 丁度そのころ、仙台評定役から江戸勤め家老として出府してきたのが原田甲斐であ
る。
 山本周五郎説や大槻文彦説のように、女郎買いや高尾太夫を斬った咎で、隠居させ
られたような綱宗なら別だが、本当は、
「討幕運動のお咎め」なので、甲斐は正宗の末子の伊達兵部と共に、秘かに、
「勤皇運動」を企てたらしい。そこで佐幕派の安芸がこれは一大事と訴え出たのが、
「伊達騒動」の真相であろう。だから事が事ゆえ幕閣では、甲斐と安芸を始末して口
封じをし、兵部は殺さず流罪にし、あれだけの大事件なのにウヤムヤに終わらせてい
るのもこの為なのである。これは弾左衛門家で芝居を監理していたから、
「先代萩」で、原田甲斐を、「仁木弾正」という名にしている点でも、それとなく、
この真相を暗示している。
 というのは前々章にも書いているが、弾正とか弾左衛門といった弾正台から転化し
た名称は、原住系のボス称号だからである。
 さて、かつて山路愛山、柳田国男らは、
「原住民というのは天孫系に征服された俘囚の裔だから、反体制の民であろう」
 といった徳川史観に誤られて、それを解明することは反体制運動にもなろう、とい
うので遠慮してしまい、挫折して民俗学へ迂回してしまった。
 だが、実際は、新田別所の新田義貞や楠木正成といった建武の中興の連中を引例す
るまでもなく、原住系たるや天皇教信者に他ならず、新田別所から後に高山彦九郎、
楠木の河内よりは天誅組がでている。なのに、
「天孫系の中には皇位を窺った不敬な者もいたが、原住系はこれみな天皇一辺倒だっ
た」ことが、徳川史観では隠されていたので、これが間違えられてきているのである
らしい。
 つまり大東亜戦争でアメリカに負けると、素直に潔く一度もレジスタンスをしなか
ったのが、今も原住系が多い日本人なるものである。
 幕末まで天皇さまを押さえつけようとした徳川政権から見て、原田甲斐ら原住系は、
これことごとく悪臣であり逆臣であったにすぎないのである。
 また、これが起因となって伊達騒動から十六年後に、日本原住民系の弾圧が始まり、
やがて浅野の刃傷事件となるのである。



               われ銃をとらず

間女狩り間男狩り

 破壊活動、襲撃事件八十余回に及ぶプロレタリア左派機関誌の、就任すれば捕まる
だろう編集長の椅子にサルトルがついたという。
 そして学生たちとサルトルは共闘すると伝えられたから、私はこの夏リスボンへゆ
くついでにフランスの入国査証をも、一緒にとるつもりである。日本からだとパリは
遠いが、リスボンからならわけはない。
 朝刊をみてイベリア航空にのれば、ニース、パリと三時間でオルリー空港につき、
ターミナルから神田の学生街にあたるカルテェ・ラタンまで、昼すぎにはついてしま
えるからだ。
「となりの大人はおおきく見えます」
 六十五歳になっても桃色のシャツをきて、学生たちの先頭にたつサルトルに、男心
に男がほれて飛んでゆきたいような、そんな心境でもあろうか。
 さて、かつては「英雄待望論」といったのが叫ばれた事があって、豊臣秀吉や西郷
隆盛、乃木大将や東郷元帥がもてはやされた。つまり日本的英雄というのは、どうも
戦争に対して積極的な関心をもちるぎる型が多いので、そういうのは流行した後は、
勝つならまた話は別だが、負けるような戦まで、勢いこんでやるから困らされる。そ
こで日本でもサルトルのような大人が現れてくれて、
「左派右派」を問わず信念をもって立たない事には、今の青少年たちが哀れである。
「亀の甲より年の甲」というが、いくら早熟でも才たけていても、二十歳は二十年の
人生経験しかなく、サルトルにはなんといっても、その三倍余の人間としての体験が
あるのである。
 なにしろ、前には、
「人間の生命は、地球全体より重い」
 といっていたくせに、今や日本の大人は、この前のシージャックの公開死刑みたい
な時には、
「見事に命中し倒れました。なお用心のため危険をおかして駆けよった係官は、後手
にねじあげ手錠をかけました」と、いっていた警官の行動説明のアナウンスに驚かな
かった。
 だからテレビで現場放映をみている側は、
「人工衛星の飛ぶ世ともなれば、地球も軽くなったものだ‥‥まして人命のごときは
こうなのか」とアフリカの猛獣狩りの実況放送みたいに諦めてしまう感覚さえもって
しまった。そして後日、これをめぐって街頭討論にでてきたK氏が、
「アメリカでは警官が誰何し三度目に撃ちます。私は実際に見てきています」
 とまでやっつけたのには、うちへきていた学生達などは口をあんぐりさせてしまい、
「ああ、日本のオトナは‥‥」と、ニャロメよばわりして。俳人として有名なK氏は、
射殺やむなしの側で発言したのだろうが、学生達は三度目に撃たれるのはアメリカ人
といっても白人でなく、黒人に限定されているのを知っているからしてその不満を口
にしたらしい。
 ところがK氏だけでなく日本の指導層の大人たるや、非常に時流の動きに敏感で、
頭の回転レシーブがよくきくのか順応性が実に早い。
 終戦直後の日本内地は知らないが、満州奉天にあっては、その年の八月十四日まで
は、
「北辺の守りは堅し関東軍」と叫び、
「在満邦人に告ぐ、鬼畜米英を防がん」
 ラジオ放送していた奉天総務局の大人は、十七日に赤旗をたてた重戦車隊が、カタ
ピラをがなりたてて北陵から進攻してくると、
「在満日本人に告ぐ、決して反抗してはならない、街路を掃除して友好ソ連軍を迎え
なさい」
 となり、掠奪のダワイ騒ぎが始まると、
「すすんで友交を示し国際親善のため、記念品の供出に協力すべし」となり、掠奪を
防いでくれるどころか、持って行かれるのに邪魔するなとなり、やがては、親善使節
の名目で二十代の日本女性の供出まで、日本人指導者は町会へ割り当ててきた。
 そして十月になると今度は、
「かつて兵役にあった男子は調査したいことがありますから、各自その日本人町会事
務所へきて下さい。これは配給を高梁から米に換えるための人員調べです」命令して
きた。
 クラフチェンコ赤軍元帥の占領宣言以来、日本人は米食を許されず高梁配給であっ
た。
 それに、紛れこんできた兵隊が、日本人の家に作男や下男みたいな恰好で住みつい
ていたが、彼らは幽霊人口ゆえ配給はなかった。駅前の振興洋行の今は亡き佐奈木十
郎さんのお世話でもらっていた粟で彼らや難民の婦女子を食わせていた。だからして、
「これは助かる」と町会の事務所へ、ぞろぞろ集まったら、邦人会の幹部がこれをト
ラックにのせ北陵へと連れていってしまった。
 ところが脱走してきている兵隊は勘が良い。(これはおかしい)とトラックから逃
げた。
 こうなると頭数が合わなくなる。そこで在満邦人会幹部は奉天総務局の役人と共に、
(兵隊あがりらしい男が匿れていないか)
 と邦人の家々を調べて廻っては連行した。
 夫が出征した留守宅などは赤軍派のダワイを恐れて、用心棒代りに住まわせていた
処も多かったので、これを当時、
「間男狩り」ともいったが、十一月になると北陵の収容所は発疹チフスで死ぬ者が多
く、又しても人員が不足してきた。そこで、
「お国の為であり在満邦人全体の為である。兵役の有無に係らず四十歳以下の男子は、
進んで名のり出るよう」回覧板がまわされた。
 が、どうもシベリア送りになるらしいという噂がたったので、誰もそうなっては志
願者など現われようはずもなかった。すると、
「該当者にふさわしい男子の所在地を密告した者に限り、ソ連軍協力者としての目印
の腕章を与え、自由に街路も歩けるようにする。他に粟五斤を一人につき報奨として
渡す」
 となった。密告の奨励である。町会長や町会の幹部は、町会名簿名簿から名を拾い
出した。
 だから、ふつうシベリア抑留者というと、戦線で武装解除をされ連れてゆかれたよ
うに思われがちだが、都市周辺で集められたのは、殆ど同胞のオトナに売られた連中
である。
 樺太や千島からの引揚者は今でも交際しあっているが、満州引揚者というのは相互
の不信感がひどく、全然行ききをし合わぬのは、こうした密告がひどかった所為であ
る。
 さて赤軍が片っ端からダワイした機械類を、強制的に狩り集めた邦人の男共を人夫
にし、運びださせた後に、今度はすぐ国府軍がきてしまった。
 そこで、こうなると、
「在満邦人に告ぐ。ソ連軍進駐時にその利便を計った者は、すぐさま届け出て下さい。
もし国府軍によって摘発された場合は、邦人会になんの援助もできません」と命令が
目めぐるしく変わって、また伝わってきた。



満州千早隊の結成

「日本人ほど信念がなく権力に弱く、べったりしたがるのはない」がっかりさせられ
た。しみじみといやになってしまった。
 なにしろ邦人会へAが呼び出されたとなると、拷問されたわけでもないのに、
「BとCがもと共産党員だったらしいから、ソ連に協力していた」と告げてしまい、
そのBやCが呼び出されると、これまた同じように彼らは、
「DやEがくさい」と教えるのである。
 事実そう想いこんで云うのなら仕方もない話だが、付和雷同的、まこと単純そのも
のに、
「長いものには巻かれろ」で考えもなしに、進んで協力し、ご愛嬌に他人を密告する
のである。
 こういうとき満州にサルトルがいて、
「なぜ日本人どうしが庇いあえないのか。日本のオトナよ。君らは若い人達をエスコ
ートしてやるのが義理というものではないか」とやってくれたら良かったろうが、あ
いにくいなかった。今おもうと田中総一郎とか古今亭志ん生なんてオッサンはいたが、
あれは日本にいても自警団か、交通安全の白服をきたがる町会の役員なみの体制派な
のだから、とても、
「風の中の羽のようにいつも変わる女心で一昨日までは関東軍、昨日はソ連軍、今日
は国府軍べったりり、おのれの保身にキュウキュウとはなんたるこっちゃ」とはいわ
なかった。
 男はみな密告に脅え満服をきて旧城内へ逃げこみ、残った日本女性の若いのだけが、
「タワリシッチ」と昨日までよんでたのを、今度は、
「ワンさん待っててチョウダイね」とはりきっていた。美しく装いだした若い娘たち
に同胞の男として、私はヤキモチでかっかとした。
「こんな蓮っ葉な女共を守ってやろうと、銃をとるのはいやなことだ。今度もし戦争
になったら彼女に銃をもたせたらよいんだ」とさえ思った。私の女性不信の始まりで
ある。
 ところが、さて目まぐるしいが十二月になると、
「国府軍撤退」が密かに伝わってきた。
 そして国府軍に編入されていた旧関東軍将校が、長さん姿で馬にのって現れ、
「恐れ多くも天朝さまは鬼畜マッカーサーのため幽閉の身であらせられる。われわれ
はこの満州に陛下をお迎え申し上げるため、今こそ銃をとって迫りくる八路軍を防ぐ
のだ」
 ということになった。つまり当時は、
「東北(トンペイ)」とよばれていた旧満州国は、ソ連軍引揚後は空家みたいなもの
で、
(もし在留日本人の手で確保できたら、アメリカ占領下の天皇さまを救出し、ここに
新日本国を建設する)のを、蒋総統の息子が承認したというのである。さて、女の為
に銃はとらなくても、一天万乗の大君のためには蹶起しなければならないこととなっ
た。
 さて当時私は在郷軍人会春日分会長だった。嘘みたいだが本当である。そのわけは
満州へ入ると一週間以内に兵籍の如何を問わず関東軍は在郷軍人会へ入れさせこれを
搾った。
 私は丙種合格だったが、それでも入れられていた。ところがである。五月一日と八
月八日に根こそぎ動員があって、私を除く全員に揃ってみな赤紙が一度にどっときて
しまった。七百名からいた分会員が私ひとりしかいなくなり、よってやむなく、
「貴方では心細いが、なにしろあんたしかおらんのだから」と、関東軍北春日分会四
十九代目の分会長に私はされてしまっていた。
 それまで町会や在満邦人会の密告から私が助かったのも、モスコーへ一度つれて行
かれた事と、この役つきのせいだったのだが、さて、義勇軍募集となって、
「本地区の在郷軍人会はどうしたか?」
 満服の旧関東軍将校に気合をかけられ、
「はい、自分が分会長であります」
 申告したところ、分会長が何人いるかも聞いてくれず、その将校は、
「ここは奉天駅前の春日町浪速通りの日本人街の中心地であり、北春日神社の所在地
である。北春日分会は、本日より、殉忠千早隊となのって当地区を死守せい」と命令
された。
 このとき全満一斉に、国府軍の通達で各地にこういう隊ができ、やがて全滅させら
れた経緯はいずれ他日書くことにするが、わが千早隊たるや、なにしろ私一人きりで
ある。
 千年前に千早城にたてこもった楠木正成にしろ三百や四百の兵はいたろうに、唯の
一人ではなんともならぬ。
 そこで中央郵便局前の町会長近江洋行へ、仕方なく相談にいった。すると、
「北春日小学校へ収容している難民の間から有志を募ったら」という。だからそちら
へ行ってみたが、ソ連軍に徹底的にやられて北満から辿りついた連中は、負け犬とい
うか、もう気力などなくして唯ぼろ布みたいに、かたまりあっているだけである。
 天皇さまは御存じない話だろうが、私の二十世紀の千早隊の結成は大変だった。
 満州医大に残っていた学生二人と、青葉中学の四年と三年が参加してくれ今でいえ
ば、「全学共闘派」のようなものができた。
 北春日分区事務所の在郷軍人会格納庫に、「訓練用」擬銃百挺に廃銃二十挺があっ
て、実弾が千発と教官用銃五挺も別にあったが、総員五人の千早隊では、南下してく
る八路軍十万の精鋭とは、とても戦えるものではない。
 今にして想えば、向こうは、
「毛沢東語録」を唱えながら突進してくる勇ましい中共軍精鋭の朱徳隊だったが、そ
の頃は、
「パーロとは八路から湧いてきた匪賊」
 といった奉天毎日や満州新聞の記事しか読まされていなかったから、
「たかが馬賊ではないか」と北春日神社の社務所に頑張っていたが、どうにも心細い。
 そこで天皇さまが半鐘泥棒みたいなマッカーサーと写っている新聞をもって歩き、
「鬼畜アメリカに捕われ同様の、至尊をお救い申しあげるために」と勧誘して廻ると、
(皇室ファン)ともいうべきオバハン達が、
「おいたわしい」「恐れ多い」と口にし、「私らでよければ」と参加してきた。
 若い女はチャラチャラしていたが、オバハン達は貞操が危ない、それを守るのが婦
徳だと髪を坊主頭にし顔にススをつけ、満服をきて男装していたので一見すこしも不
自然ではなかった。
 それどころか実弾演習をさせると、吾々より彼女らの方が落ち着きがあるのか、廃
銃でも弾丸がまっすぐに前へ飛んだ。だから、
「これはよい。おっちょこちょいな男より、女の方が尻がでっかくて腰に安定性があ
るせいか、射撃にはもってこいだ」
 と考え、愛国婦人会のたすきを鉢巻にした満服の男装兵十余名を集め、
「来たらば来れ」とばかり八路軍を待ち受けていた。
 ところが十二月十八日。まんじ巴とふる雪の中で、交番襲撃事件というのが起きた。
 在満邦人会と手を共に同じ同胞のくせに、その時どきの権力にべったりくっつき、
男狩り女狩り財産狩りを手伝っていた奉天総務局の日系指導者に対し、これまで怨み
を抱いていた邦人青年が銃器を渡された途端に蹶起し、「撃ちてしやまむ」と、浪速
通交番、平安通交番、鉄西筋交番を一斉に襲い、総局の日系幹部を雪の中へ曳きずり
だし、満州興銀前の並木にずらりと吊してしまったのである。
 今でいう内ゲバ騒ぎになったので、二十日に八路軍はなんの抵抗もうけずに入って
きた。
 こうなっては仕方がない。せっかく実弾訓練もしていたがついに鳩一羽うたず、千
早隊は、解散式もあげずバラバラになった。ところが、
「わが軍を阻止せんと計った反革命行為」
 として朱徳司令官は十二月事件の摘発を行った。すると吾が身だけ可愛い日本のオ
トナが、又しても密告や訴人をした。おっかない国民である。このため、新京にいた
吾が友、「白川五郎」は大国公路で銃殺にされた。
 が幸か不幸か、私は事前に町会長に相談しに行っていたので、街のボス共は、
(もし訴えれば自分らも巻き添えになる)と心配したのか、おかげで千早隊は検挙さ
れずにすんだ。しかし安心はできない。私は難民収容所の死体処理をやりながら、厳
しい冬を過した。
 ところが春になって中共軍の好意で、錦県のコロ島からの引揚げが始まった。さて
そうなると、
「天皇さまの御為に死のう」と、かつて誓いあった町内のオバハン達から、
「あれならば、若いけれど‥‥」と‥‥見込まれ、私が北春日地区の婦女子二千二百
四十何人かを、つれ戻る梯団長にされてしまった。
 と書くと、さも私が立派みたいだが、今でもトロいが二十代の私はもっとバカタワ
ケだった。
 いつ同胞のオトナから、密告されるやも知れぬといった不安から臆病者の私は、土
匪がひしめきあい発疹チフスとペストが発生していた錦県へというので、みな尻込み
して誰も引きうけてのなかったのに、梯団長となって、書けば六百枚位になる苦労を
して博多まで辿りついただけである。


肘鉄砲起源説

 さて話変わって、町火消「を組」新門辰五郎の娘芳を、のちの十五代将軍慶喜の側
室に取りもった水戸の権臣原忠之進を調べてゆくと、
「われ銃をとらず」と叫んで斬りつけてきた旗本二人のために、彼は京上長者町の水
戸京屋敷のお長屋で文久三年八月十四日に惨殺され最後をとげたことが判ってきた。
従来の説では、この二人は高橋伊勢守の門弟で、義弟山岡鉄太郎が策動して京まで刺
客にやったものだという。
 しかし、それだけでは、
「銃をとらず」ではおかしいから調べると、長州征伐の結果、これまでの槍や弓では
もはや仕方がないからと、慶喜に進言して原忠之進が台命とし、
「旗本といえども鉄砲訓練をなすべし」と江戸表へ指図したのに対し、
「おかしくって銃なんか持てるものか」
 と旗本一同が揃って憤激。そこで、たまたま上洛した二人の旗本が彼を斬殺したと
ころ、原に憎まれていた高橋泥舟門下の者らなので、策士山岡鉄舟の仕業とみられた
ものらしい。
 さて、今でこそウェスタンクラブなどというのまであって、大の男が玩具の銃をぐ
るぐる指先で廻し弄んでいるのに、なぜ昔は、旗本らに毛嫌いされてしまう程、そん
なにまで銃は冷たく軽蔑されていたのか。当時は西部劇映画が輸入されず、ガンさば
きがまだ日本人には馴染み薄だったせいなのか、とも考えてしまう。しかし日本史で
は、
「天文十二年鉄砲伝来。この新奇の銃器はたちまち戦国大名に広まった」と、天文ガ
ンブームを説明している。そして、
「天正三年五月の長篠合戦において、織田信長は人ごとに柵木一本縄一把を携行させ、
これで馬塞ぎの柵をゆわえさせ、武田勝頼三万の大軍を鉄砲によって撃退させた」と、
近代戦のさきがけがおこなわれたとする。
 そしてこの合戦で、武田方の山県昌景、真田信綱、土屋昌統、甘利信康、内藤昌豊、
馬場信景ら信玄の頃からの名将をはじめ名の通った武者一万余が弾丸に倒れたそうだ
が、
「川藤展久(シージャック)を射った加川巌巡査部長」
 といった具合には一人も、勇ましくその名までは発表されていない。
 普通なら武田方の有名武将ゆえ、一人仕止めれば何百貫もの加増になるべき大手柄
なのに、誰一人として殊勲者が明らかにされていないのは、なんのためであろうかと
いった疑問もここに生じてくる。
 それからこの三十四年後。フィリッピン長官ドン・ロドリゴが日本近海で難破し、
江戸城の徳川英忠を訪れた際の見聞記にも、
「一の釣橋(のちの大手橋)には長銃手小銃手がいた。しかし第二門(のちの二重橋)
の内側は長槍短槍の四百人の軍勢。第三門の将軍の親衛隊は、アラバルダに似た薙刀
をもった三百人の屈強な武士だった。スペインならば王の警備隊は銃をもつのに、何
故この国では銃手は王の側近におかれないのか」と不思議がって書き残している。
 そういえば日本では、「槍一筋の家柄」と武門の程を誇らしげにいうが、
「鉄砲一挺の家柄」といえばそれは猟師である。
 ふつうこの解釈を、鉄砲は鉄砲足軽といって身分の卑しい者がもち、ひとかどの武
士は自分では持たなかったからだと説明される。
 だからして前の大戦でもアメちゃんは准将クラスの閣下でも、野戦服に自動小銃を
かかえバリバリ撃ってくるのに、日本軍たるや曹長以上は、切れもせぬ昭和刀をふり
廻し、
「鉄砲は兵隊のもの」と軽蔑してかかり、切羽詰ると自分らに合わさせて、兵にもゴ
ボウ剣で斬り込みをかけさせ玉砕させてしまった。
 また、こんな無茶をくり返されては困る。だから鉄砲とはそもそも日本では最初な
んであったか考えたい。
 というのは今のテレビや映画でも日本のは、鉄砲をもって現れるのはおおかた悪人
に決まっていて、射つ前に殺されてしまう設定が殆どである。そこで、
「長篠合戦屏風」の鉄砲隊の中には髪をまるめて女兵と判るのが、射撃手として加わ
っている絵姿があるので突きつめて調べたら、
「日本で初めに鉄砲隊を編成したのは立花道雪の娘のぎん」で、朝鮮征伐の時にも鉄
砲女軍が出征したから、天下の豪傑塙団右衛門でさえ加藤嘉明に、鉄砲大将を命ぜら
れるや、
「われ、銃はとらず」と泣きだしているような、聞くも哀れな物語すらある。
 人口が僅かな昔は女性も戦にでたが、槍や刀の接近戦には向かぬし、弓をひくには
ボインが邪魔なので日本女性は舶来した鉄砲を用い、為に男は鉄砲を無視したり嫌っ
たものであるらしい。
 女が男をふるのを「肘鉄砲」というのもこのためだと調べたのを『大阪夏の陣』の
短篇集へ入れたが、次の戦争はどうか和田アキ子のような女兵に出てもらいたいもの
である。あの方が、へたな男より遥かに勇ましそうで恰好も良い。
 自衛隊にも婦人部隊がいくらかいるが、他国なみに銃をとる女兵をどんどん教育す
べきである。