1072 八切日本史  8

                われらの幻想

同胞殺しが英雄の座に

 テレビや映画では舌かみ切って自決するが、実際は死にはしないのと同じ。
 が歴史小説や時代小説を本当の事実と思いたがる読者がいるゆえ私は作者たちに好
かれず、今も変わらない。
「江戸時代にチャンバラがなかったのは、本当ですか?」恨めしげにやれらた事であ
る。
 もの書きはモノ知りのわけだが、どうも幼い時からの講談や映画、それに昨今のテ
レビの影響で虚像のはずのチャンバラが、すっかり本当にされているのらしい。つま
り、
「侍は刀をさしている。だから道場へ通ってレッスンをする。エリートは殿様の指南
役にもなってコーチする。だから忠義の為や女のことでカアスケになると、おのれッ
と刀を抜いて互いに斬り合いをするもの」
 との概念からチャンバラこそ、封建時代には何処にでもみられたとし、
「武士道華やかなりし頃の日常茶飯事」みたいな幻想にとらわれすぎている向きもあ
る。
 勿論、そんなバカげた物騒な考え方は、妄想でしかない位は常識的に判りそうなも
のだが、これまた誰も首をひねろうとはしない。
 なにしろ変な引例だがアーサー王や円卓の騎士にしろ、マケドニア王アレクサンド
ロスにしろ、外国では、異邦人を突き伏せる者だけしか英雄にされぬ。ところが日本
では違うのである。これまでの英雄豪傑たるや、
「遠からん者は音にもきけ。近くば寄って眼にも見よ」と、同胞の日本人を沢山に殺
傷したのが、英雄視されまかり通っている。
 まこと変な話だが、虎退治したといわれる加藤清正以外は、日本人の豪傑たるや、
「日本人を多く殺したやつ」ということになっている。しかし、同胞をそんなに多く
殺した者に、どうして人気があるものだろうか?
 かつて<かけとり武者>の題名で書いた山中鹿之助を例にもってきても、彼が尼子
家の臣として毛利の家来をそんなに殺傷したものなら多くの遺族から恨まれ、福山市
鞆町の静観寺の鹿之助の首塚など、井野行戒め和尚が金網でも冠せておかなければな
らぬはずである。
 ところがである。森下仁丹の檀那寺である同寺は江戸時代から毛利家中よりの供養
がある。
 和尚は講談の影響か「山中鹿之助ちゅうお人は、われに七難を与え給えといやはっ
て、片っ端から殺しはったでなあ」という。が、どうして殺害された遺族の子孫が、
「ようも御先祖さまを殺して下されました」などと礼をいいに寺までくるものか。
 山中鹿之助という男に人気があったのは、(殺せる能力や立場にあったのに、敵毛
利の臣を多く見逃してやった。なのに自分は瞞し討ちにあって川中へ曳ずりこまれて、
毛利方に討たれてしまった)ためではなかろうか。
 三億円の犯人に案外な人気があるのも、人を殺傷していないからであり、金嬉老が
二人殺して平然としているのも、殺したのが、金とは違う異邦人だったせいなのでは
あるまいか。
 なにしろ私の子供の頃の話だが、千葉に、「鬼熊」というのがいて同じ日本人を沢
山殺したのがいた。しかし、彼のことを新聞で、「昭和の剣豪」とはいわなかった。
 しかし日支事変の時に、伝家の刀で十余人も斬ったという准尉には、その肩書きを
与えた新聞記事がでた。つまり昭和ともなると、
「いくら片っ端から殺しても、相手が同じ日本人では英雄豪傑とは認められぬ」
 という具合になってきたようにも見える。が、今の命題は江戸時代であって、その、
「元和偃武(げんなえんぶ)から幕末までの二百五十年間」
 武士は刀をさしていた。だから時として、「おのれ、無礼者ッ」と抜き斬ったり、
「侍の意地だ。覚悟さらせ」斬り合ったか?
 ということについての解明なのである。
 といって、それは元和元年七月七日に武家諸法度第十三条が発布され、私闘が厳禁
されたことをさすのではなく、同三年二月五日に永井尚政の作成したという、
「東照宮御遺訓」に「弓は袋に槍は鞘に」という掟書がはっきりしてきた時の、刀の
あり方についての問題である。これが知られていないからして、元禄事件でも、
「喧嘩両成敗なのに、浅野内匠頭の方だけが処分されて、即日切腹城地没取は酷なり」
などいうが『営中刃傷記』にある三十四例の内では、刀の柄に手をかけ引き抜き掛け
ただけで、死罪になっている者もある。
 殺傷という結果論より、それを目的とする予備行為が、未遂でも処罰されたのであ
る。
 だから、刀を抜く時は、
「他意なき証拠」に白旗を立てるか、略して白紙を口に挟むような形式化さえ始まっ
た。
 講談では(口から吐く息を刀身に吹きかけぬ為)などというが、昔でも大抵の人は
鼻で呼吸したものだから、それならば鼻へも紙をねじって詰めねばならぬことになる。
だが、それでは刀をぬくと、誰もが息が詰まってみな卒倒してしまう。つまり講談の
嘘である。
『尾州家高木伝八郎覚書』『鈴木斧八郎家伝書』などの、武士とは斬合わなかったも
のであるのデータは揃えてあるが、ここでは有名な藤田東湖の『常陸帯』や『回天詩
史』を例証に引用する。
 何故かというと、『東湖全集』は活字本で刊行されていて、まじめに検討したい向
きにはすぐ読めて便利だろうからである。
 といって長々と内容の引用もできぬし、後者は漢文なので判りやすくすれば、
「水戸のご城下に初めて、試合剣術と称して、割り竹を束ねた偽刀で、叩き合いの真
似をする道場なるものができた。父の幽谷が当時十四歳の私をそこへ通わせた。とこ
ろが当時の水戸の藩士は、生れて初めて見る剣術におったまげて、わいわい肩をいか
らせ覗きに集まってきて、指さして罵ったり蔑んだりしたものだ」
 と記しているこれは、藤田東湖の父たるや、古着屋の小僧から士分に取立てられた
人なので、同じ家中の世襲の武士階級に、
「あれは、似非(えせ)侍だ」と蔭口をきかれていたからして、その倅の東湖も、
「まじめな武士ならば、あんなバカなことはせぬものだ」と嘲笑されたという無念話
である。
 この東湖の倅の藤田小四郎が元治元年の天狗党事件で二十四歳で殺されるから、東
湖の頃やはり幕末に近く、彼が撃剣を初めて見て入門したのは1819年で十九世紀
初頭である。
 つまり藤田東湖の書き残したものと、チャンバラ作家や講談師の話とは違うからそ
れを比べて、いずれを信用するかということになるが、どれを信仰するかはそれは読
者の自由である。


『国家権力の手先』論

 水戸の城下に戸ガ崎熊太郎系の剣術師によって、剣術道場が輸入されたのが、十九
世紀の文政二年だったという事実は、それまでは一般に、
「お面ッ」「お小手ッ」などという道場はなかったことを意味する。つまりこれまで
の、
「道場の跡目争い」とか「道場の看板をもってゆく」などという話は架空でしかなか
ったことになる。これの説明として、藤田東湖は、
「身体髪膚これ父母に受く。あえて傷つけざるが孝行の原点であると同様に、お禄を
貰って奉公している武士が、勝手に竹刀や木刀で叩きあって、もし怪我でもしたら、
親には不孝、殿へは不忠となる。だから士分の者は御奉公の妨げになっては怖れ多し
と、誰も撃剣などは当時は習わなかったものである」
 と、その『常陸帯』の中でといている。
 これは会社員が勝手にスポーツをやって、怪我などして仕事を休んではいけないと、
上司からいましめられるタブーと同じことであるらしい。
 また徳川三百年間の当時の国家体制は、
「御用」という提灯と六尺棒、十手ぐらいで治安の取締りが十分たりていたのである。
 そうした時代に、六尺棒や十手よりも協力武器である刀を、勝手気ままに振りまわ
すレッスンの場所が、公然と認められていたかどうかは、後世の吾々は常識で考える
しかない。
 十手の代りに、ジュラルミン楯やガス銃、装甲車まで揃えられている今の時代でさ
え、
「ゲバ棒ジム、一棒流指南」とか、又は、
「火焔瓶ボーリング練習場」などをオープンできるかどうか、誰か始めてみたらよい。
 もしテレビや小説みたいに町道場があり、みんながお面お胴と人斬りのレッスンを
していたならば、取締側は火縄銃でも持って出動しなければ、とても治安維持はでき
なかった筈である。
 それゆえこのムジュンのため、かつてのチャンバラ映画なるものは、刀をふり廻す
相手に、
「御用ッ」「御用ッ」掛かってゆくが、途端に、
「死人の山を築いてくれん」
 と、バッタバッタ斬られていったものである。
 しかしペニシリンもなく救急車も来ない時代に、あんなに斬られては、当時の捕方
の補充はつかなかったろう。又それでは、斬られ役専門みたいな捕方さんに、現実的
には誰もなりてはなかったろうと思われる。
 それで治安など保てるわけがない。
 なのが不思議なことに、幕末まで十手だけで徳川三百年の平和が守れ、交番の焼討
ちなどというのは明治以降の椿事である。
 すると、あの十手なるものが極めて、有効適切な武器かと思われるがどうでもない。
 故野村胡堂が、旧幕時代の十手を古道具屋で見つけてきて、これで木刀と打ちあっ
てみたところ、下のくいこみには木刀の刃先といえど挟みこむのは難しく、もし、そ
れが出来たとしても、まともに当ると木刀の方が重量があるから、十手を持った手は
押され飛ばされる。
 従って木刀の刃先はどうしても十手を持つ人間に衝撃を与える。つまり切りこまれ
る。
 木刀だから当って脹れあがった個所は、打ち身の膏薬をはれば済むが、真剣だった
ら大変。
 十手で受け止めようとすれば力学の関係で重量八キロの刀身が、三キロしかない十
手に激突した場合は、軽い方がぶっとばされてしまうから、十手もちが真剣の相手に
ぶつかった場合は、百発百中相手に斬られてしまう。つまり十手とやり合えるのは匕
首(あいくち)しかない。
「これでは困る。近よってはゆけない」
 というので野村胡堂は、平次が殺されてしまってはシリーズを書くのに困るから、
遠くからの飛び道具として、一文銭を投げることを考えつき、それをまた愛読してい
た村山知義が、それにヒントをえて、
「忍びの者」をアカハタに書くときに、投げ道具のマキビシに転用して創案。それが
今では、さも実在であったごとく、鋳物で作られたのが伊賀の忍術館に麗々しく陳列
されているのである。
 観光用のゼニ儲けとなれば、金色夜叉のお宮の松さえ作ってしまう位だから、こん
なのはお茶のこさいさいであろう。
 しかし、これも種明かしすると、マキビシは本物の池中の菱の実であり、
「栗のイガを俵につめて持っていって撒いたのが、イガ者こと伊賀衆」
「くこの実やからたちをコガというが、棘のある実や枝で落し穴の蓋にしたのが甲賀
者」ということになろう。
 昔から、本当のことをいうと実もフタもないというが、恐らくこれから出来た言葉
であろう。
 現代でも合併した八幡富士を初め日本の製鉄会社は、外国からスクラップブックや
原鉱を輸入している。そうした鉄鉱資源の乏しい日本を考えたら、鉄製のマキビシな
どまけなかった事は、これまたよく常識でも判ることである。


抜くに抜けない話

「武士は刀をさしていたから、たえず武をねり、必要に応じてさあっと引き抜いた」
という妄想は、では何処からといえば西部劇映画からきている。
 腰のベルトにさしこんだ拳銃を、すぐさまぬいてバンバン撃つのが大正時代のハリ
ケンハッチあたりから拡まり、新国劇の沢正が、「此方もあれでゆこう」と真似たの
である。
 なにしろ、それまでのカブキでは、
「おのれッ」と鞘から抜くところでミエをきるか、ここで思い入れが入る。と書くと、
頭の良い人ならハハアンと感づくだろうが、
「鯉口を切る」所作たるや<梅川忠兵衛>の「封印切り」と同じカテゴリーに入るた
めだ。
 抜刀すること自体が、厳しい法度とされていたからである。
 そこでカブキの院本(まるほん)物でも、どうしても刀と刀を合わせねばならぬ斬
り合い物には、本当らしく、「源平時代」とか「北条時代」と年代設定がさかのぼら
せてあるのもこのためなのである。
 つまり沢田正二郎は、そうしたカブキの約束事を深く考えず勝手をしたので、当時
は珍しがられたのである。

 さて、開拓当時のアメリカにあった銃器の数よりも、現在のステーツに有る方が多
い。
 なのに今のアメリカ人は、ソンミあたりではバンバン撃ちまくっても国内では余り
撃たない。なぜなら百年前のアメリカはとても法治国とはいえぬが、今ではニクソン
氏が、
「法律を守らせる」公約で国民に選ばれ大統領になっている位だからである。
 さて、わがニッポンはアメリカよりも早く江戸時代でも、すでにれっきとした法律
があり、それを守る国だったのである。
 そして「刀」なるものは当時の法制では前述のごとく「公刀」と「私刀」に分かれ
ていた。
 これを逆に説明してゆくと明治九年に、
「廃刀令」がでて旧士族が公刀を佩用して歩くのは免除されたが、非武士階級の私刀
は、「凶器所持取締法」などなかったから、まだおおっぴらだった。そこで明治政府
は、「志士」なる称号で、私刀をおびた連中を使って、自由を叫ぶ不逞な輩へ斬りこ
ませた。
 これは、コーンパイプをくわえて進駐してきたマッカーサーが、お巡りさんのサー
ベルを怖れ、
「あれで斬り込んでこられたら」大変だと、アメリカ式の棍棒に替えさせるよう廃刀
令を出したものの、町のやあさんの日本刀はそのままだったのと同じことである。さ
て私刀というのは、
「道中差」として、当時の住民票に当る関所手形を下しおかれる者に限って、道中自
衛のため許しおかれた物にその源を発するが、
「公刀」というのは、サラリーを貰っている殿を守るべく、その腰へさすものであっ
て、
「上意討ち」と幕末ではいうが、文化文政までは、あれは「上意抜き」つまり許可を
貰わねば抜いたり斬ったりは出来なかったのである。つまり、
「鯉口三寸抜いたならば、お家は断絶、身は切腹」とナニワブシでいうが、あれはな
にも松の廊下だけの限定適用ではなく、公刀一般の戒律だった。つまり、これは、
「食わせて貰っている殿様の為にこそ抜くものを、プライベートに抜いてはいけない」
ということで、昔の姦通罪のように、
「食わせて貰っている人妻が、夫以外の男に気ままに抜かせるのは懲役何年」
 といったのと同じシステムのものである。
 だったら食わせて貰っている妻は、夫の御用にたつべく部分的にセッサタクマすれ
ば良い。なのにレッスンや努力をしないとこれまた同様に、武士も公刀をおびている
癖に御用にたつようには、てんでその練習はしていなかったものらしい。
 万延元年三月三日。八十三名の公刀所持者が随行しながら、自邸から目と鼻の先で
殿様の首をとられたことを反省し、井伊家より、「近江彦根家お取潰し方」をその江
戸詰めの木股清左衛門などは、潔よく申し出ている位である。
 といって井伊家の武士が、それでは、みなそれぞれ、「身体髪膚これ父母に受く、
殿の御為に傷つけることなかれ」と平素からサボッていたのが原因でもない。なにし
ろ何処の大名も、
「謀叛とみられる」ことを用心し、城の石垣が崩れても、おいそれと修理できなかっ
た時代なので、家中の者が武術稽古などしては、「叛乱予備罪」とも、公儀から怪し
まれようと用心し、槍も刀もてんで少しも練習などさせなかったからなのでもある。
 変な引例だが高田馬場十八番斬りという中山安兵衛が、播州赤穂の堀部弥兵衛の婿
になり採用され別に扶持を貰っている。もし「指南役制度」といったものがあったら、
浅野内匠頭は、せっかくサラリーを払うの故、たとえ月に一度でもレッスンを受ける
べきだったろうと想われる。
 ところがである。実際は抜くのが精一杯で、素手の吉良上野に対し、三度も斬りつ
けながら、「擦過傷」しか与えていない[八切氏の別書では、『吉良を挑発して抜刀
させるのが目的だったから』という説もあるようです]。当時の、
『浅野家分限帖』という公務員台帖でも、堀部安兵衛は無役で指南などしていなかっ
た証明がある。
 又これは吉良側にもいえることで、翌年の本所松坂町のゲバ騒ぎでも、四十六人の
やせ浪人にやられて、上杉家の出向武士は役たたずで、上杉家二十五万石はこのため
十五万石にダウンさせられた。
 つまり武士というのは、おびているのが公刀なるがゆえに、それのレッスンをする
ことができず、文化文政から天保にかけては、私刀の非武士の方が、公然と練習でき
て刀術を磨き得るという珍現象が生じた。戦国期には剣客や剣豪はいないが、幕末に
は輩出という現実も、彼らの経歴が、
 鈴木斧八郎=木こり出身。 千葉周作=馬医者の倅。 本間彦一郎=検校の倅。
 岡田十松=百姓の倅。  土方歳三=松坂屋の丁稚。 近藤勇=多摩百姓の倅。
 村上俊五郎=指物職人。
と並べてゆくと一目リョウゼンである。
 もちろん慶長期でも同じで、宮本武蔵は仏徒系出身の百姓の倅で、彼が一乗寺下り
松で幼い又七郎まで殺してしまう吉岡道場も、前に書いておいたが、
「紺屋又三郎」こと吉岡拳法を開祖とする、ちゃきちゃきの神徒派で、そのため彼は、
「卑しき俘囚の裔なるに、御所に入り来りて、能楽拝見とは身分をわきまえぬもの、
梟首」
 と慶長九年六月二十一日に、御所の衛士によってたかって殺されてしまっている。
 つまり士という階級は、「槍一筋の家柄」といわれるものであり、又これは、
「槍先の功名」「一番槍」といわれるよう、「道具」とよばれた槍を武器にしていた
せいである。判りきったことだが、
「刀一本の家柄」「刀先の功名」「一番刀」
 などといわぬのもこのわけで、刀は「打ち刀」つまり武将の護身用具で、突きくる
槍先を打ち払ったり、又は身分の低い足軽などが、とびくる矢を露払いと称して、
「ヤアヤア」左右に二本ふり廻し払って突撃したものであって、その武士としての表
道具でない刀は、公刀として義務制にされなくては、江戸初期には卑しんで佩用を拒
む者さえあったのは、正徳版の、『慶長見聞記』に三浦浄心も書いている。
 つまり非武士階級のやくざなんかは、堂々とチャンバラをしたが、エリートの武士
は、刀を抜くときは、己れのプライドを守るため、
「潔よく腹はっさばいて」といった時しか用いぬものとされていたと、<武者物語>
にはある。
 だから刀術とか剣術を、水戸家の武士が文政年間に入っても蔑視したのはこのため
だし、
「寛永御前試合」などは、講釈師の張り扇から生れたデフォルメにすぎず、町道場な
るものは有っても、幕末まで町奉行所の専用道場だったのもこのせいである。
 捕物をする側はその職務上の必要から訓練したが、一般には禁止されていたから、
地方の百姓たちの間で流行したのである。江戸期の武術に「棒術」が重要視されたり、
郷土芸能に棒踊りが多いのも、捕物術の名残りであろう。昔は集団で訓練していたか
らである。


                われら原住民

空で視てしまった

 動物は本能的に死ぬ時期を知るというが、私もそうした感覚はもっているようであ
る。だからでもあろうか近頃は、地震や大火が近づいて周章てふためく鼠的な衝動に、
ともすれば脅えがちである。といって日本は島国なので、外国みたいに国境をこえて
他国へ、すんなり逃げこむということは不可能である。
 追い詰められエスケープしたければ、ハプニングな赤軍派的な行動しかないのかも
知れない。そして次々の事件を契機に、
「日本や韓国というのはアメリカ支配下だ」
 という現実をありありと再認識させられただけに、吾々がこれから先どうなるか不
安になってくる。できればカアター大統領閣下にでもどうすりゃいいのかと伺いをた
てたくなる。
 なにしろコロンビア大学でプリントされ日本では、これまで発表させなかった原爆
の骸骨の山の情景をテレビでみせられたとき、
 かく悲惨ゆえ核戦争は止めようというテーゼでこれは公開されたものか、はたまた
それは、カンボジアの政変がその直後に起きているので、共和党も民主党もそれぞれ、
「こうすれば、すべてが思いのままになる」
 という示唆のものだろうかとさえ迷わされる。
 ともすれば私たちは自分の生命がさも永遠に続くような、そんな錯覚の中で日々を
過ごしているが、書店の店頭で、昔の修身教科書の復刻版などを見せつけられたりす
ると、
「今度はいよいよ死なされるな」そんな感慨を神経質かも知れないがひしひし感じた
ものである。
 そしてキグチコヘイは死ぬまではラッパを口から離さなかったというが、トランペ
ットの日野みたいな男だったかなどとも考えさせられた。
 どうせ死ぬのならカッコよくと想うと、
「あんな原爆の下で粉々にふっとぶのは、あまりよくないな」そんな想いにかられる。
 そして、私と戦争と死が結びついたのは、いったいいつ頃だったかなと思い起こす
と、青く澄んだ浜松の空が、いつも青白い刃物のように脳裏をかすめる。その頃、文
藝春秋社の文壇航空会というのがあって、ものかき共は、航空本部の西原少佐から月
に一度の割りで、航空思想を国民に広めるようにといった講演を聴かされていた。
 その内に会長の故北村小松や石川達三他四十名程が、浜松飛行場へとつれてゆかれ
た。
 皆は一泊だけで帰っていったが、他のセンセイ方に比べ父子程も齢の違う私だけは
残されてしまった。そして特訓というのか翌朝の六時に司令部からの車が迎えにきて、
「赤トンボ」とよぶ朱褐色の布がはりつけられ、端がゾウキンみたいにヒラヒラする
のに乗せられた。練習機なので前には私、後部には教官の曹長どのがのりこんだ。
 初めは高度も千から千五百位の水平飛行ゆえ、教官のいうなりに操縦棹をひいてい
れば無難だった。が二日目になると、
「横転」「急上昇」「急降下」となり、三日目には、ついに「逆転」つまり宙返りま
でやらされた。
 赤トンボの練習機はオープンカーみたいなもので、何の覆いもなくて、身体を支え
るベルトも今の航空機用の物とは違って、帯シンみたいな頼りないものだった。
 だからその一本で胴を押え、踏んばった足が宙に浮き、身体がエビみたいに曲がっ
てくる、逆立ち飛行では鼻血がたらたら出た。私は、(自分のような青二才が慰官待
遇で将校扱いされているのに、この下士官は腹をたてイジワルしているのかな)とも
初めは想った。
 そこで手心を加えて貰いたい一心で、将校用酒保で買える物を曹長に届けて、
(お手やわらかに)と連日たのんでいる。それなのにひどい事をするとも考えた。が、
曹長は、
「お国のためです。航空小説をかいて貰うため、単独飛行ができるよう速成訓練をす
るのです」
 それに対して言い、四日目も、端がめくれて赤布がひらひらする練習機に私はのせ
られ、コバルト色の浜松の空へ突きこまされた。もちろん私も、
「お国のために」と五日目も危なっかしい手つきで棹を握った。が、その日は鼻血で
はなく、ベルトがビリッと裂けかけた気がした。
 あわてて逆立ちの恰好のまま側壁にしがみつき、非常用ベルをおし操縦を換って貰
った。着陸後点検して貰ったらベルトに異常はなかった。そこで曹長は耳へ指をやり、
「鼓膜がやられて、そうした幻覚をよんだのでしょう」と、いたわってくれた。だが
である。
「そうですか」うなずきはしたが、まっ逆さまにスカイダイビングして、落ちてゆく
自分をはっきり自分の網膜で視てしまった私は、もはや六日目には飛行場へ出られな
かった。
「滞空時間二十八時間までいったのに‥‥」曹長は迎えにまできてくれて、惜しがっ
てくれたが駄目だった。
 ひと想いにベルトが切れ落下して死んでいたら良かったが、それを幻視の中で死の
恐怖におののく自分のミニクい顔をはっきり見てしまった後では、もはやなんともな
らなかった。正直なところ怯えきってしまっていた。
 土浦などの少年航空兵もやはりそうした特訓をうけ、若ワシとして飛立っていった
だろうに、私は意気地なしだったのである。
 だからでもあろう。三つ子の魂百までもというが、この時のショックからか、自家
用機が五百万円で買えると、丸紅からすすめにこられても、
「自動車の免許証さえとっていない」と断っているし去年アメリカのネバダで、チャ
ーター料一時間八十ドルの軽飛行機を、
「三十時間ものったことがあれば大丈夫」
 しきりにカーボーイ帽のおっさんにすすめられたが、とても操縦棹は握れなかった。
 さて、市ヶ谷の航空本部よりの許しがなくては浜松から離れられないから、その時
の私はひとまず駅前の旅館へ戻されたが足止めを命ぜられていた。
 しかし部屋にいると、いつ、軍の車が迎えにきてまた赤トンボへのせられるかとい
う不安から、臆病な私はじっとしていられず、宿の下駄をはき浜松市内を夜まで歩き
廻った。
 映画は一週間替りだったし当時はパチンコ店もなく、行先がなく華陽院とか寺廻り
ばかりだし、その頃の住持とも話したりするうち、「徳川家康というのは、俗説の岡
崎生れというのは間違いで、この浜松出身だな」
 といったことが朦げながら掴めてきた。
 しかし、せっかく最年少の私をどうにか一人前のパイロットにして、すばらしい航
空小説を書かせようとした空軍の期待は、私のフガイなさから挫折してしまったらし
く、半月後には戻ってよろしいと青切符が渡された。
 が、この不心得で文壇航空会のメンバーからはずされ、主催出版社にも迷惑をかけ
てしまい、それが今日に到るも尾をひいているらしく、何賞の候補作にもあげられな
いのは、この時の祟りであるのかもしれない。


原住民史観の確立

「世の中かわった」とか「変革の時代」というが、変ってゆくのはどうも新しい方向
へではなく、旧通りにひっくり返る事ではなかろうかとさえ近頃では危惧される。せ
っかく、「歴史」も、これまでの徳川史観の引きつぎでない、新しいものが真実とし
て見つかりかけているのに、また講談的歴史に逆転の気味がある。たとえば、「徳川
実紀」とか「徳川台紀」といったものは、かつては柳営の奥深くにあるだけだったか
ら、たとえそれに、
「神君家康公は三州岡崎に生れられた」とあっても一般民衆には関係などなかったし、
講談がそれに合せて作られてもエンターテイメントだったから構わなかった。しかし、
それが史料に逆戻りしては困るのである。
 さて今では芝居の台詞と思われているが、「生れは遠州浜松」という一言は、江戸
時代には千金の重みがあったものらしい。
 といって、弁天小僧菊之助が豪かったというのではない。ちょんまげ時代の世では、
「浜松生れ」というのは東照権現さまの事を意味していたせいらしい。なにしろ幕末
までは、
「そもそもこの駿遠の地は、東照大権現の垂迹(生誕)の処なり」
 といった銘の入った鐘が駿府城には吊り下がっていたし、家康の祖母源応尼をまつ
った静岡市の華陽院にあった家康真筆の額にも、
「永禄三年五月に自分は義軍を、浜松であげて運をひらくことができた」
 と堂々とでている程である。
 だからして地方の木っ端役人などに対し、
「おう、じたばたしやぁがるな。こうみえても、こちとらはな、生れは遠州浜松在‥
‥」
 とやろうものなら、お上御威光に、うへえッと這いつくばってしまったものらしい。
 なにしろ浜松には幕末まで梅屋、大米屋、いたや、なべやの四軒の旅篭兼問屋があ
ったが、ここには、土地のいい伝えでは、
「お七里役」とよぶ民間の保安官みたいなのがいて、旅篭へ泊る旅人に、
「てめえらこの地をなんと思っていやぁがるんだ。恐れ多くも浜松だぁナ」
 と脅し、荷物調べとか嫌がらせをしては、片っ端から金品をまきあげていたそうだ。
 だから三州岡崎城が家康生誕の地とされ、青線区域に接した岡崎公園よりの古井戸
が、「竹千代さま産湯の井」となったのは観光ブームで、鉄筋コンクリートで岡崎城
が再建された戦後のことであって、竹千代というのも家康ではなく、本当は二股で殺
された岡崎三郎信康の事である。
 この裏付けは寛永時代の<加藤図書資料>をみても、その真相は歴然とわかり得る。
 なにしろ徳川時代は、歴史などというものは一般には必要なかったから、将軍家お
抱えの御用学者か、さもなくば、「名物」と称して、まがいの茶器を扱い商人が、そ
の名称をことさらに列記した歴史書まがいを、カタログ代りに広めただけにすぎぬ。
 ところが明治になっての富国強兵策で義務教育が始まり、学校で歴史を教えたり、
今やテレビで歴史まがいのドラマまでやり出すようになると、いつの間にか家康は幻
想化され、
「生れは遠州浜松」ではなくなって、
「三州岡崎」に変えられ広まってしまう。
 さて、家康一人の生れや素性などは、どうでもよいとして、困るのは明治以降、山
路愛山、白柳秀湖、柳田国男らが取り組もうとして、はたせなかった日本原住民系の
歴史の解明が、又しても消されかけていることである。
 かつての史観では‥‥明治二十年代にできた「正史」と称する「記紀」による日本
歴史なるものも、今は岩波文庫に入っている新井白石の「読史余論」十二巻や林羅山
の「本朝編年史」を定本にした。
 だから他の国では、政権の交替と共に史観も変わり、スターリン時代のものはフル
シチョフにひっくり返され、それもまた、コスイギン政府に一変されてしまうものな
のに、日本では上に頂く天皇さまが万世一系にわたらせられるからと、足利史観も徳
川史観も、それそのままで戦前までは通用してきた。
 しかし実際にこんなことは有りえないのである。政権はいつの世にも自分に都合よ
く歴史を作ってしまうものだから、こんな事のくり返しでは砂上楼閣の歴史になって
しまう。
 またこれまでの日本の歴史学のように、引用例証だけが第一主義で、自分では責任
をとらずに、
「こうした物には、かくかるある」と都合のよい個所だけ抜き取って援用し、なるべ
く先輩や恩師の学説にそむかぬように、憎まれないように自分の立身や保身に、
「歴史を利用する」やり方では、とても本当の日本史など解明できないのではないか
といいたくなるし、心配されもするのである。
 たとえば「樅の木は残った」の伊達騒動にしてからが、明治時代に、芝居の「先代
萩」に迎合して上下二巻の、
「伊達騒動実録」をだしたのが、字引きの「大言海」の著者の大槻文彦で、彼は、
「文学博士」の称号をもっていたゆえ、
「原田甲斐は、芝居の仁木弾正の原型だけであって、不忠不孝の大悪臣であった」
 ときめつけてしまうと、それが一般に、定説というものになってしまった。
 歴史畑では、明治、大正、昭和にわたってそれに異説をはっきりたてる者はなかっ
た。
 だから山本周五郎の「原田甲斐忠臣説」が現われると、びっくりしもてはやすので
ある。
 しかし「樅の木は残った」の発端にしてもそれは、
「殿様である伊達綱宗を遊里へ案内し、そのため二十二歳で隠居させられたのゆえ、
不忠者として四人の手引きをしたと思われた家臣が殺される処」から始まっている。
 これでは講談と同じでしかない。つまらない話である。
「綱宗が吉原へ通って高尾太夫を身うけしたが、云うことをきかぬ。ために船中で、
可愛さあまって憎さが百倍と吊し斬りにした。だから大名としては素行が不良すぎる
と、二十二歳の若さだが、隠居させられてしまった」
 という話と、山周さんのは、女郎の名が、「おかる」と変っているだけのことであ
る。
 しかし吉原という処は、マンツウマンならぬマンツウチンの営業地帯である。そし
て高尾太夫はそこの女性である。私は、
「酒屋で酒を売らぬ店があるわけはなく、セックス屋でセックスを貸さぬ女がいるわ
けはない。どうして高尾が誰にも入れさせていた部分貸与を綱宗だけ拒み、あくまで
貞操を守って殺されてしまうものか?」
「高尾はあまりにも商売柄そこを使いすぎ、オーバーホールでもしなくては綱宗とい
え、そこは使わせられなかったのではあるまいか」
 など考えたが、しかし経験者の女性にきくと日に何十回も用いては、腰骨が痛んで
背中が曲がらなくなることはあるが、
「そこ自体」は、開けよさらば入れられんと、新訳のコリント書にでてくる聖なる教
えの、
「アビダラの門」のごとく、潜りぬけは自由だという。だから男のように過度に使い
すぎたから駄目ということはないらしい。
 となると高尾を斬ったり、赤線地帯へ入りこんだりしたのが、伊達綱宗が二十二歳
で隠居させられた原因にはならなくなる。