1067 八切日本史  3

藤吉郎の素性

 昭和三十四年七月広島大の河合正治氏が、『安国寺恵瓊』をY館[吉川弘文館]の
人物叢書の一冊として刊行した。その口絵写真にグラビヤで、「安国寺自筆書状」を
掲げ、その中の、「藤吉郎さりとて八の者にて候」の原文を、最後の部分だけ「ハの
者にて候」と注をし、本分四十六頁で「はの者にて候」と変え、「藤吉郎が後に天下
をとるごとき人物であることを喝破。このケイ眼[慧眼]は驚くべきである」
 と書いている。そんなに安国寺がケイ眼ならば関ヶ原合戦に連座し、何故三条河原
で打首にされてしまうのか、という疑問は後廻しにして、『豊臣秀吉』という著書に
前述の盗作先生は、これまた、堂々と河合氏のものそのままに、「藤吉郎、さりとて
はの者にて候」と「八」を(は)に間違えたままで失敬して、
「秀吉は、なかなかの男だと、その前途を祝福したのである」と堂々と書いている。
 初めの河合氏は知らずに間違えたとしても何故盗作先生までがご年輩なのに、そっ
くりそのまま失敬するのだろうかと不思議でならぬ。

「紺屋の白袴」という言葉があるし、
「論語よみの論語知らず」ともいうが、
「盗作先生は歴史知らずの歴史屋」なのか。
 なにしろこの人あたりは戦時中に、
「天皇は神さまであられる。日本は皇紀二千六百年である。アア‥‥」
 と平然と講義をして、多くの学生を教壇から見送って死なせたことに対して、戦後
もなんら「自己の告発」をしていない老人である。
 そういう人によって作られる歴史とは何か?
 盗作盗用以前に、その存在の根拠をこそ、私は追求したい。また秀吉を例にとれば、
『豊臣太閤素性記』のごとき幕末のよみ本をもって、講談でしかないことを周知しつ
つ、それをさも史料のごとく装わせて、
「生家は百姓」といいきる。しかし後述するが、八系統の原住系は非農耕人種である。
 これの裏書資料は、当時日本へきていた者の見聞として、シュタインシェンの、
『キリシタン大名』では「樵夫(きこり)の子」
『日本西教史』のクラセの著書では、
「秀吉は若きとき木こりにて柴木の細きを集め、これを市中に売り歩いた」という。
 また盗作先生は、その著に講談種そのままを用いて、なんらの躊躇もなく、
「羽柴という姓は、丹羽と柴田から取ったものである」と明記しているが、これが一
般にはそのままで<歴史>ということになってしまうのが日本の現状である。
 しかし木下藤吉郎が羽柴姓を名のった頃。
 柴田勝家は北陸の重鎮だったが、丹羽長秀は安土城でエンヤコラの奉行の身分に過
ぎない。
 丹羽長秀が百万石と豪くなったのは秀吉がしてやったのである。つまり羽柴の命名
は、スペインのトレド僧院の古文書保管室日本資料の一部にも、バートレの手紙であ
ろうか。
「ハシェバウリイ」といた綴りで、秀吉の渾名をしるしたものがあるのを私はみてき
ている。
 つまり当時、火付木に枯柴の羽のように拡がっていた部分が珍重されていたが、こ
れを山から降ろしてくるのは、かさばかりはって儲けにならず、よって他の山がつが
いやがったのを彼は、すすんで背負って戻り、
「ええ、はしばのひえよしでござい」
 と売り廻ったらしい。のち日吉権現の使いが猿なのにあわせ「日吉丸」と講談では
いうが、尾張という国は江戸中期、薩摩藩士が身命を賭して木曾川の治水工事をやる
までは溢水が多く稲作の被害が多かったが稗はよく育った。だから、この地方には
「ひえよし」という名は多い。
 尾張中島郡三丸淵本源寺は戦国時代からの古刹で、私は愛知一中の二年生の夏休み
にそこへ坊主にやられかけたが、お経はならわず納屋の中で、板みたいにはりついた
反古の束をはがして過ごした。そのとき中に、
「米吉(よねよし)」という名もあったが、それより古い過去帖では、「稗吉」とか
「粟吉」「水よし」といった名のあった覚えである。しかしこれらの話は、『真書太
閤記』[日本シェル出版]にすこし紹介したからやめにするが、問題は、「八」その
ものである。古語辞典にも、
「さりとて=(なかなかもって)」とあるが、
「さりとてはの者」などというのはない。
 河合氏は知らずに書き、戦国物の大家という盗作先生もそっくり転用しているが、
「八」は原文通りで、これはストレートに「さりとて八の者」とよむべきである。
 しかるに、その「八」を歴史専門家のごとくみられ、また自称している先生が無知
であるということに、ご自分でも感性的に抵抗を感じないのであろうか。
 畠山清行氏への盗作問題は菓子箱をもってわびに済ませたと仄聞するが、この方は
誰に詫びにゆけばよいのだろう。なぜ、「歴史を虚妄化させてゆく混乱」の底辺に反
省し自分自身を告発し、これまでの知識をもって真面目に解明しないのかを私は責め
たい。


YA・八とは何か

 さて山岡荘八の短編に『八弥の忠義』というのがあるが、あれも部族名を個人と取
り違えたものだろう。八の根源は、古事記や日本書紀などにあって天孫系に徐伐され
た八十梟(やそたける)とか八十建(やそたて)の八である。
 この八が当時渡来してきていた大陸系に、「パア」と発音され、パアとなった民族
とみても、また可であるといえる。そして、これが和訓読みの「や」となってからも、
津々浦々に、この「や」印の後裔はひろがっている。
 試みにテレビドラマや小説にでてくる、
「悪いやつ」「ぱあなやつ」「やくざ」など、これ殆どが、姓の上はYAになってい
る。
 ということは、作者が見知っている人間の中で、YAのつくのが多く、それれがま
たおあつらえむきに、ケンカ早かったり放浪性があって、つい無意識にそれを想い出
し作中の姓を「ヤ印」にしてしまう結果らしい。
 明治六年に一般にも苗字は許されたが、それまでにも蔭姓というのがあったし、ま
た居住地で姓は殆んど決まっていたから、
「ヤン衆」とか「ハチヤ」といわれたいたのは、みなヤ印かハ姓を姓の上につけてい
る。
 江戸の弾家が幕末に「矢野内記」となるのも、手代の首斬り浅右が山田姓。芝居の
花川戸助六のモデルの手代が柳原助六。三河松助も安田松助とヤ印集団だったためだ
ろう。
 表格式三千石裏十万石といわれた弾家では手代といっても彼らは家老なみだが、こ
こへ薩摩の益満休之助が密かにゆき、
「おはんらは源頼朝公嫡流ではごわせんか。三田屋敷へ加勢ばしてつかあさい」と申
込んだのは三田村鳶魚もその随筆に引用している。
 なにしろYAとかHAが上につくのは、
(清和源氏)などという、なにも根拠のないものと違って、純粋の頼朝系ということ
になっていたからして戦国時代には、信長は、軍事費を鉄砲万能時代になっていても、
「ヤ(矢)銭」とよんでいたし、また信長が商売を同じ原住系だけに限定してしまい、
楽市を施行したり、面倒くさい関所もとりやめたから(原出典・掛川史稿)、この時
点より、商い店のことを、「何々ヤ」と称するようにもなった。
 つまり今日の看板で「XX屋」は信長の頃からのものである。しかし、なにしろY
AとかHAのつくのは、私もそうだが世渡りが巧くなく、幕末のインフレについてゆ
けず、
「ヤア公」「ヤアさん」と転落してゆき、
「清水次郎長こと本姓山本長五郎」
 とか今でも、美空ひばりの親代りになっている山口組なども神戸にあるが、みなぐ
れはまになったのが多いらしい。
 そして今でこそ寿司屋はだれでもやれるが、封建時代は、生ものは彼らの所管ゆえ、
生種を用いる寿司のことを、
「やすけ」というのも、またこのためである。

[通説では「やすけ」とは、

やすけ【弥助】
  (1)うそ。いつわり。物類称呼「いつわり…九州にてすうごといふ。また、
    ―といふ」
  (2)(「義経千本桜」に出て来る鮨屋の名に基づく) 鮨(スシ)。
                           (EB広辞苑第四版)
と、その由来を「義経千本桜」(浄瑠璃)に求めているようです。

 また、東京堂書店刊「隠語辞典」(楳垣実編)では、

 やすけ〔弥助〕すし。〔『義経千本桜』鮨屋の段の弥助。→おさと〕(俗)江

 と、これも浄瑠璃に由来するという説ですね。「江」というのは「江戸時代の隠語」
であるという意味です。「おさと」というのも、同書によれば、「寿司」「酢」の隠
語であるとか。

「義経千本桜」は、「岩波文庫リクエスト復刊'94春」シリーズで、お手軽に読めます。
問題の個所はというと、その58頁(第三段)。
 「‥‥親爺は釣瓶鮓(つるべすし)やの彌助の彌左衛門様というて、此村で口も
 利くお方‥‥」
という「いがみの權太」の台詞。
 「いがみの權太」は、「彌左衛門」の惣領(長男)、「おさと」は「彌左衛門」の
娘です。そして、どうやら、「彌左衛門」は元々「彌助」と名乗っていたが、義理の
息子(おさとの夫)に「彌助」名を与え、自分は「彌左衛門」と名乗るようになった
という事です。だから彌助とは二人いるわけですね‥‥
 「おさと」の夫というのが、熊野浦で入水自殺せんとする「平惟盛」を「彌左衛門」
が救って伴った姿であるという設定。「彌左衛門」がなぜ惟盛を下働きとして匿い、
己が娘と祝言までさせるのかというと、昔、平家全盛の頃、彌左衛門は船頭をしてい
て不手際を咎められるところを惟盛の父(平重盛)に助けられ、「御恩を受けた」と
書いてあります(66頁)。
「彌左衛門」というのは、どうも今日考えるような、単なる「寿司屋」ではなかった
ようですね、作り話にしても。。。
 んで、結局、「鮨やの彌助の彌左衛門」の「彌助」の語源なんですが、単なる屋号
なのかどうか、わかりません^^;。(影丸)]

 さて、姓の上に「や」のつくのや「は」の他に、日本原住民の人間は数限りなく多
い。そこで従来の歴史は天孫系中心だから、
「何とかして真相を」という願望の現れなのか、歴史物や時代物は、上に「や」をつ
けた作者のものがよく読まれるというジンクスがある。
 そこで、そのせいか、どうか判らないが、
「井口姓山手樹一郎」「藤野姓山岡荘八」「清水姓山本周五郎」といった流行作家が
かつておおいに読まれている。
 しかし、「ヤ印」ばかり書いても仕方がないから、「八」に戻るが、これも「ヤ」
とよんで同じものだが、現代では、すぐ当て字とか誤字といって入社試験などでもや
かましくいう。
 だが明治までは、ヤとつけば山田も安井も八田も矢田も同一だったように、
「HACHI」と読めれば、「鉢」「蜂」「羽地」みな同じである。
 現存している古文書に、
「出雲広瀬はちや文書」というのがある。
 尼子家に尽した者の感状を集めた『雲陽軍実記』にも収録されているが、
「金庭はち屋三郎次郎屋敷(やかた)のこと。従前之はち屋の職を(尼子義久の殿が)
御存知なく候間は大串へやられていたのを、このたびの戦功により、はちや掃部頭に
仰せつけられる事となった。よって掃部以下はちや衆は懇ろに当家へ奉公致すべきと
の御諚なり」
 というのは小林又左より多賀対馬守宛。年号は永禄六年(1563)三月十日であ
る。
 この<はちや職>というのは、現在でいえば、司法、警察権だが、一旦カンキュウ
[緩急]あるときは、防衛の任務もあったらしく、別名を尼子家では「十阿弥」とも
いい、
「はちや掃部長々の篭城にたえ神妙に候。なおこのたび抱口合戦にて、鉄砲をもって
敵数人を討捕りし忠儀(義)。よって国中の弓弦さしなどは今後一切をはちや親分に
申付候」
 などという永禄八年十月付の尼子義久のものが、当時はちやのボスだった豪傑河本
左京宛で今も残されている。つまり親分といった呼称は、はち個有のものだったらし
い。

八の史的考察

 この「はち」に関しては平安後期のものとして「本朝はちや由来記」がある。それ
は、
「洛中洛外から畿内まで夜になると忍び出てあらし廻り、官裁をもって警戒しても、
元来が忍びになれた者ゆえ、ここかと思えば又あちらの飛燕のような早業にて立ち廻
り」
 と、その反体制ぶりをとき、なんとしても取締りのできかねた当時の模様をのべ、
「よって京はいうに及ばず、国々にても手をやき、毒をもって薬になさんと、八の者
をよび、これに乱暴盗賊の防ぎをさせたところ、その功が現われてか日本国中にこの
八の支配(司法警察)がひろまった」とでている。「日本列島原住民史」[朝日新聞
社刊、日本シェル出版刊]に詳しく解明はしてある。
 つまり戦国時代にあっては、
「八の者」つまり「はちや」といわれた連中は、安国寺といった寺方や、それまでの
既成勢力側からみれば、それは賎民にひとしい原住系の人間だからして、
「藤吉郎さりとて八[の者]にて候」とは、これは軽蔑をこめて書かれたのが原文で
ある。
 それを間違えて、安国寺はケイ眼[慧眼]で藤吉郎を、さりとてはの者とみて天下
をとることを予見していたなどと書くのは、盗作か借作して歴史とするにしても、あ
まりに出鱈目すぎはしないか。
 八の部族がはっきりした存在だった事は、『集古十種』に、「摂津国天王寺蔵、佐
々木四郎高綱旗図、長三尺八寸二分幅二尺五寸」
 と説明されている源平時代の旗にも、「治承二戊戌年八月上旬。討敵事如蜂起。無
退無転無二無三、兵術自由自在、己割鉄石而己」と高綱の自著の上に「蜂起」の大文
字がある。蜂と八は同じである。
 また、梶原源太の布旗には、ただ一字。「八」とだけ大きくでている。
 つまり日本歴史専門家はご存じないが、「八はた」を信仰する「みなもと」の原住
系が日本にはいて、これが足利時代には、
「白旗党余類之徒」とか「八」といわれていた。なにしろ秀吉も信長に仕えていた頃
は、旗さし物には、丸に「八」を入れたのをもって戦った。
 そこで日本の大都市名古屋では、
「郷土のうんだ英雄をしのび」その○八を市章にさえしている。なのにそれも知らず
に、
「藤吉郎はさりとて八」を間違えたり盗用しているのには、なんといったらよいのだ
ろう。
 また附言すれば、出雲などでは明治まで、「郡巡りはちや」の下に「村うけはちや」
があって、彼ら八部衆というのは、つねに捕物用の棒術、剣術、柔術のけいこに励ん
だ。
 そして各地とも上役人見廻りや年貢納め、又は祭りの時には、
「大小二刀をさし、棒をもって警護役」をつとめ、各受持の村方の非違を訊(ただ)
し、
「あげ米」と称し一般百姓は稗や麦が常食なのに、はち衆は献納させた米を食してい
た。
 だからして江戸期やそれ以前のものに、
「八木」とかいて「よね」「こめ」とよませているのも、このためである。
 また羽仁五郎氏は『都市の論理』で、アテネの例をひき、憲兵警察官は奴隷の仕事
だったというが、これは日本でも同じことで、
「天孫系に制圧された原住系の八」が、その役割をはたしていたのである。だからし
て、よくチャンバラ映画で、主人公がみえをきり、
「おのれ不浄役人め」とか「不浄な縄目をうけるものか」というのもこれからである。
 バッタバッタと江戸時代の捕手が斬られる場面だけが許可されるのも、そのせいな
のである。
 もちろん、ヤ印の八部衆全部が体制側の走狗で、
「御用ッ」「御用」をしていたわけでもなかろうが、岡っ引や番太もみな同じである。
 ところが村方に寄食して威張って米をくっていた八部衆も、明治七年に警察制度が
変ると、前御用族の彼らは村方一同から迫害された。
 もちろん、もう米を献じてくれる者もなく、あべこべに殴られ蹴られ爪はじきにさ
れた。
 これが「村八分」という文字にかえられている具象の真実である。つまりこうした、
「八」の歴史でさえ専門外といわれる私などしか知らぬところに、日本歴史に虚妄が
沈澱する。



                 われらの告発

白日下の戦争体験

 中央公論のグラビヤ撮影のため、生れて初めてオヤジさんと二人きりで写真をとっ
た。
 もう七十をすぎているのに弁護士として忙しく、リオから戻ってきたばかりである。
 他人ならば、お元気で何よりですというところだろうが、親だけに考えさせられる。
(自分もあんな年齢になるまで、あくせく動き廻らねばならぬのか)と思うとリツゼ
ン[慄然]として、早く死なねば困るとしみじみ考える。
 なにしろ私は1945年の夏、あまりに死をみすぎている。ふつうの戦争体験とい
うのは、命令下において束縛されながらのものだが、私は、まったく自由の立場で、
8月18日に、油で汚れた赤黒いボロ布をさげた重戦車の後から麻袋をかぶったり、
一糸まとわぬ生れたままの姿の日本人が、元寇のときの捕虜のような格好で、群れを
ないぞくぞくと続いてくるのに、まずドギモをぬかれたものだ。
 彼らは引揚げの途中で満人に襲撃され、(当時衣料切符が満人へは配給がなく、不
足してきていたので)身ぐるみはがされていた。
 抵抗すれば叩き殺されてしまう。そこで仕方なく赤い戦車のキャタピラの音をきく
と、女達をギセイに供してその後に命からがらついてきたという話だった。
 さて苦しい時の神頼みというが、奉天へ入ってきた開拓団の男女の生き残り八百は、
「あっちだ‥‥」と春日町から浪花通りをこえ、北春日神社へと移ってきた。そして
神前にぬかずくと、遥か東方を伏しおがみ、
「テンノオヘイカ、バンザイ」を三唱した。すると、そこへ北春日派出所の巡警を伴
った日本人の金星をつけた豪いのが現われてきて、
「オマエラ、チンポコまるだしで不敬だぞ」
 と一喝した。すると餓鬼のような連中が、
「うおッ」と叫んで、その奉天警察総局の高級警察官を囲んで、もみくちゃにした。
 やがて満人警官が発砲してその高官の死骸は曳きずっていったが、八百人の連中は
神社につづいた夏休み中の小学校の建物へ入りこんだ。
 満人や赤軍に散々いためつけられた彼らは日本人には強く、三々五々お貰いという
よりは遥か高圧的に、食料その他の徴発にきた。
「尻をまくる」という言葉があるが、私のところへ現われた三十女のごときは、
「こうみえたって、わたしゃ満人は五十と二人、ロスケ[ロシア人への蔑称]だって
四十余人にやられてる女なんだ」
 縮毛のはえたところをめくって、下から逆かなでしながら喚きたてた。
 やがて進駐した赤軍が占領体制をとると、
「ダワイ」「ダワイ」と夜ごとに銃声をならして訪れてくる連中をさけるため、社宅
のようなところは棟が一つだから、窓や戸に板をはって出入りは梯子を使う俄か作り
の城塞をこしらえたが、私の住まっていた春日町や浪速通りは商店街なので、一棟が
二戸ずつに分かれ、そうはゆかなかった。
 兵役はないのだが人手不足のため、嘘みたいな話だが、当時の北春日在郷軍人分団
長にされていた私が、商店街のおっさんから警備方をコンモウ[懇望]された。しか
し私は弱った。
 分団長に私がなったのは、根こそぎ現地動員でみな持ってゆかれ、誰もいなかった
からである。一人ではなんともなるはずがない。
 そこで西部劇のような具合に、北春日小学校へ行って補助シェリフを募集した。
「難民」とよばれている彼らの中から、用心棒を選んだ。鉄西から運搬途中に入手し
た銃器弾薬があったからだ。しかし、ダワイよけに編成したはずの連中が、雪のふり
だした十一月の末に、脱走兵と組んで暴発をした。
 なにしろ前は憲兵隊と組み、赤軍進駐後はロスケの手先となって脱走兵狩りをし、
同胞をシベリヤ送りにしていた奉天警察総局へ「それっ」と暁の攻撃をかけ、日本人
が日本人の警官を雪中にひきずり出し、興銀前の並木を、ずらりと首吊りの木にして
しまった。
 さてこの後が大変で、案外に日本人にはレジスタンス精神がなく、すぐ、長いもの
には巻かれろといった考えが多いのか、自分だけ助かろうと密告者が多く私も逮捕さ
れた。
 しかしクラフチェンコ司令官の見解が、「旧日本軍残党の暴動」という方針だった
らしく、一旦はモスコー送りになった私も、全然兵役経験がなかったせいなのか戻さ
れた。
 しかし、この結果。
 次々と南下してくる難民がふえ、多い時には三千人にもふくれあがった北春日小学
校の連中には、やがてけわしい冬が訪れてきた。
 形ばかりの配給だった粟もこなくなった。
 銀行が封鎖され金のなくなった私は、自分の蔵書を並べて売り、見るにみかねて資
金のカンパをしたが、とてもそんなことでは、餓えた同胞たちへの助けにはならなか
った。
 女は切羽詰れば身体を売るというが、それも買手があればこそで、化粧でもしなけ
れば飢えた女たちを、誰も相手にしなかった。
 だから子供づれの女は、眼前のチェンピーやマントウをかうためや、己れを売る化
粧品代に、赤と紫の赤軍軍票の百円か二百円で、わが子をみな売っていた。毎朝、北
春日小学校の入口には、子供を買うマーチョが並んでいた。つまりこんな具合だった
から栄養失調やハッシンチブスで一日に二十人位は死んだ。
 北陵の日本人墓地まで運べないし、火葬にする薪もない。凍った校庭の土は掘りよ
うもない。だから並べて積むしかない。しかし月六〜七百の死体が零下二十度の気候
では、冷凍マグロのごとく固まってくっついてしまう。
 なのに時たま極寒のショックで生き返ってくるのもいる。ところが困ったことに、
夜中に堂々と満人が荷車をもってきて、頭だけを斧で叩き落して運んで持ってゆくの
である。「六神丸」の原料にするためだという。
 それが贋物の八路軍だとは後で判ったが、「救国革命軍」の本営へ、やむなく文句
というか陳情にいったところ、髪のはえた大男が、
「死んだ者が生きている人間の役にたって、薬になるのに‥‥なにを吐かすか」と青
竜刀をひきぬかれ、私はコツンとやられてしまった。
 だから私は今でも漢方薬の黒焼きを嫌う。
 異民族支配下になることも厭で堪らない。共産主義を敬遠するのも肌身にしみてい
るからだろう。


首をとるのは‥‥

 時には満人の馬車を追いかけ、漢方薬の材料にと盗まれてゆく首を取り返したから、
人間の首がどんな具合で重さがどの位あるか。おかげで戦国ものを書く時などには、
非常に参考になっているが、あの重さは約6キロはある。両手で一個ずつ抱えると、
私なんか息切れして追われても百米と走れなかった。
 しかるに軍記物などをよむと、草縄であんだ袋へ西瓜のように入れて、三つも四つ
も腰にさげて歩いたというが、あれは変てこである。
 余程それが巧妙になる首なら別だが、でなかったら己れの行動の自由がそがれてし
まう。
『戦国武家事典』などでは、
『軍礼抄』を引き、首実験は寺でやるとか幕をはって、物具をつけ弓をもって検分と
する。
 などとあるが、これは「切腹作法」と同じことで、江戸時代に入ってから芝居のめ
りはりをみた作者が、そのありさまをまことらしく書いたものではなかろうか。なに
しろ、
(首対面の次第はまず床机に腰かけた大将の前に肴をすえ、三々九度の祝いをなし、
次に首の前に肴をおき、一つの盃に二度酒をつぎ、これをすすめ、やがて終れば幕を
下ろし、大将は床机より立ち上り陣屋へ帰り給う)
 といただけの順序が十段に分かれ、一々その動作を示してあるが、これでは、
「死者への尊厳」というより、主役の大将の見世場。つまり、これは舞台でしかない。
 そんなに大切に扱わねばならぬのなら、殺して首にすることはないし、首だけの相
手に肴をすすめ酒をつぐなど、たとえ恰好だけでも可笑しい。しかしこういうのを日
本では、
「武士道なんだ」という。そこで、織田信長が妹婿の浅井長政や、その伜[父の間違
い]の首をドクロにし、漆でかためコップにして酒を呑んだような話は残酷だと嫌わ
れる。
 しかし、生体から首をちょん切ってもぐのと、個体化したのを盃にするのと、どっ
ちが残忍かは誰も比べず、ただただキレイ事にしたがる。
 だから死者の霊を慰めるため、殺した相手の首をもいできて供養するように、これ
までの話は皆なっているが、本当はなんなのだろう。
 どうして大西瓜より重いのをわざわざ持ち帰ったのか。やはり<武士の情け>とい
う嵩高な精神のせいだろうか。変でならない。
 さて、『信長殺し、光秀ではない』の続篇、『謀殺』を書いた時に用いた樫原重軒
の、『養生訓読解例集』という手書き本には、
「島原御陣後は泰平にて合戦なし。よって小塚原などの獄門台にさらされる生首は、
両三日をへずして紛失。これみな味噌をとりだしかためて丸薬となし、骸骨は黒焼に
なす、これ腎の病にきく為なり。されど小なるは野猿の頭の黒焼なり。なぜかなれば
ご当代にありては幼児は遠島処分になすことあれど、打首にはならざるゆえなり。心
すべきことにてあれ」などちう個所もあるし、
 備前史記の『赤松合戦記』には、
「河内のからうど(朝鮮人)[八切氏は『唐人』と書いて、中国人としている著書も
ある]医者にもってゆけば、首一つにて、たらふく呑めると勇みたちし者らは」とい
うのも残っている。
 今でも河内弁で、「ど頭かちわってミソとったるでぇ」などというのは、
(集荷した生首の頭を叩きわって脳味噌を抜きだし丸薬にしたり、骸骨の黒焼)を製
造する製薬工場が河内には栄えていた為らしいと思われる。
 現在のように化学薬品などで新薬がどんどん出来る時代ではないし、それに日本人
は昔から薬好きだったから、戦国時代は、もっぱら生首が薬の原料になっていたよう
である。
 ボルネオの土人や昔の高砂族は、唯たんに、他へ見せびらかすために、首を切って
持ってきたらしいが、そこへゆくと勤勉かつ合理的な日本人の武者は製薬原料にする
ため、「えんやこら」と携えて帰ったのだろう。
 でないことには、赤の他人の並首なんか、重いのを我慢して持ってくるわけはない。
 それを、これまでの日本史では、さも恰好よくしてしまうからわけが判らなくなる。
『おあむ物語』に、大坂城内の腰元が味方のとってきた生首にお歯黒をつけた話があ
り、
「白い歯の首よりも、お歯黒をつけた首の方が、よき首なりと賞翫した為」などとい
うが、これも写本している内の間違いらしい。
 口中にお歯黒をつけたのは、今川義元から三好党あたりまでの室町御所直系の公家
首。
 戦国時代から後、お歯黒をつけたのは武家の女房だけだから、これでは、男首より
女首の方がよき首ということになってしまう。
 まだ女権の強かった頃ゆえそうかも知れぬが、『備中治乱記抄』に、お歯黒を口だ
けでなく首全体にコールタールのごとく塗布した話もある。だから篭城中では生首は
売りにゆけぬから、そのために、「保存をきかせるため」にお歯黒塗りを腰元共にさ
せていたとも考えられる。なにしろ、
『Archivo Portugvez-Oriental』にも、
「インドのゴアに於て、軍役に従う奴隷はみな日本人で、それゆえ彼らは首をとりそ
れに防腐剤、としてビンロウ樹の実をかませる習慣があった」とあるからである。