1066 八切日本史  2

反抗原住民の末裔

「土一揆」というのは原住民系の暴動だが、
「徳政一揆」は田畑の年貢を何年分も先取りしておき、それを帳消ししようというモ
ラトリアムに対する別個の百姓の反抗運動である。
 さて、かつて先祖がご馳走政策につられて農奴化した連中を反抗原住民は敵視して
いた。だから睨み合った種族が映画みたいに一つになることはない。その証拠に原住
系は絶対に明治まで農耕をせず、これは江戸隅田川向こうの弾左衛門地が幕末までず
っと一面の草原で、田畑などなかったことでも周知の事実である。
 また今日では誤って一般大衆=百姓と扱っているが、百姓でない原住民がほぼ同数
いたことは、明治五年に壬申戸籍をつくったとき、従来お寺の人別帳で掌握していた
人口が約倍に増えたことでも、これは判りうる。
 では百姓でない原住民は何をしていたかというと、封建時代というのは独占世襲制
だから、きわめて判りやすく分類できる。
「土を耕して種をまき取り入れしたり、桑の木をうえて、これで養蚕するがごとき付
加労力的な仕事は、外来者のやること」だが、「土を耕さず自然発生的に育っている
草や樹木、木の実。そして山繭(やままゆ)とよばれる天然の糸や、蜂蜜。そして山
に自然にある石や土。そして山野をかける獣や人間それ自体」
 に関しては、日本列島に以前から住んでいた地主として、ナチュラルなものは反抗
原住民系の子孫が一手に押さえていた。つまり、かつて万屋錦之助が「祇園祭」を作
ったが、
「映画にでてきた渥美清の弓のつる打ち業」
 は、にかわが獣脂で弓の材料が藤や矢だからそうだし、石切りの石工や、壁土を塗
る左官。土でこしらえる瀬戸物や土器製造。土を入れてやく鋳物師。また[映画の中
で]石工の頭である岩下志麻の父が庭師をしたのも、「坪立(つぼだて)」とよぶ庭
作りは、木は自然なものとされ石工と同じにみられていたからである。
 また木のある山を守る、いわゆる、
「山がつ」「山もの」もこの仲間に入るし、「山の草」で作る「みの作り」から薬草
屋。
 そして当時の染料は、あかねにしろ藍にしろみな草木だったから、
「青屋」とよばれる紺屋もこの仲間である。
 なのに、この点だけは錦之助の主人公の立場は、これまた惜しいことに間違ってい
る。
 これは、余談になるが、宮本武蔵一乗寺下り松の決闘で有名な吉岡道場の初代、
「吉岡憲法」は又三郎の名で紺屋が本職だったが、慶長九年六月二十一日のこと。
 新内裏奉納能楽を見物に御所へ入ったところ、夏のことなので袖で隠していた指先
を、うっかり出して青く染まったのを見咎められ、
「おのれッ青屋の分際にて、不届き者」
 よってたかって公家の連中に取り囲まれ、
「京八流の手並みを見せまっせ」とばかり孤軍奮闘したが、ついに召捕られてしまい、
「人外の身もわきまえず」と、その肩から上を晒首にされたという事実も、『時慶卿
記』という当時のお公卿さんの日記や、家康史料の『駿府記』などに出ている。
 つまり吉岡といえば、これは小太刀の名人と知られているが、公家側からみれば、
「なんや反抗原住民の末裔やないか。やってこまそ」という存在でしかなかったよう
だ。


河原者発生譚

 映画『祇園祭』に「山科の百姓」がでてくるがあれも嘘である。山科は別所のあと
で反抗原住系の巣だから当然彼処は農耕していない。
 山科を領していた権中納言山科言経卿も、天正十一年八月二十一日付けで、
「信長から貰った飯米用の西梅津からの三十石を、本能寺変后[後?]の昨年十月二
十六日から秀吉に押えられ、当家は山科よりは米一粒も入らぬから、その三十石が入
らなくては食してゆけぬゆえお返し下され」と、ときの京町奉行の前田玄以あてに嘆
願書をだしている。
 その父の言継日記でも、山科から貢祖としてもってくるものは青竹ばかりだったと
ある。
「山科閉居」として、のち大石内蔵助が入りこむのも、治外法権の別所だったからだ
ようだ。

 さて、河原者の発生は1107年の嘉承二年の、『中右記』五月二十三日の条に、
「また、近日、京中下人、辻ごとに飛礫」
『百練抄』の、やはり同日のものに、
「飛礫、去春よりこのこと起る」とある。
 これは反抗原住民は院地とよぶ収容地内で農耕もせずに暮らし、廻りの農奴化した
連中が彼らの対する反感から、五月五日の国府宮祭の当日一日限り、農奴民が院地へ
投石しにゆくのを認め、ふつうの意志ではあまり飛ばぬから、笹を結わえた勝負石を
投げたのが、今日の「ちまき」の起りで、昔は餅を巻くのも一本笹だった。
 そこで反抗原住民の側も、
「きみもやるなら俺もやる」というので、石ころの多い河原に出て対戦。そこで農奴
側の連中が、もし勝ったら川の鯉をとって帰り、これを竿につけて飾ったのが、現在
の「鯉のぼり」の初めで、勝負の節句が、「菖蒲の節句」と転化したのがその歴史で
ある。
 映画祇園祭のラスト・シーンでは、青屋たちと侍所の対決となってはいるが、この
当時の関白一条兼良の『尺素往来』では「祇園御霊会五月五日。夕方には白川ほこが
入洛との風聞あり、六地蔵の党(馬借をふくむ反抗原住民の群)例のごとく院地打と
なり洛中騒動になりやも知れず、警固のため侍所之者共、すぐ打って出られるごとく
河原におしだしたり」とある。
 現在舗道の石を学生に割られ投石用にされてはと、これをめくりとって外しアスフ
ァルトに代えてしまうごとく、十二世紀の機動隊は、先に小石の多い川原を占領規制
した。
 こうなると投石用の石を確保するため、反抗原住民は先んじて川原へ出ばり、ここ
を年中確保するの止むなきになった。
 しかし投石は五月五日の年一回きりである。
 あとは他にやることが何もない。
 そこで川原占領部隊は、資金カンパの目的もあって、それぞれ小屋掛けして、
「ああ、いらはい、いらはい」
 一人相撲、人形芝居、猿楽といったタレント業を始め、数が多くなると、これが地
方巡演にもでかけるようになった。
 今でこそ能楽や歌舞伎というとエリート扱いをするが、公家全盛時代には、彼らが
反抗原住系の子孫ゆえ、これを河原者としか遇さなかったのは、このためなのである。
 また彼らは相互でしか大正昭和まで通婚していないから、天孫系と反抗原住系との
区別は、以前は生国の場所。(この見分けに用いられたのが、現在の本籍)それと苗
字の最初の発音だが、ふつうの鑑別では、
「もっともらしい顔をして、嘘のいえる」
 特技をもっているのが天孫系。その反対で照れ屋だったりサービス精神があって、
お人好しの欠点をもち、案外に動物に好かれるのが今も限りなく多い原住系の末裔で
ある。


                われ歴史の虚妄に

もの書きのさだめ

 もの書きとは哀れなものである。
 私がそういう人に初めて逢ったのは、愛知一中の先輩というので十五歳の時に家出
してとびこんでいって、叱りとばされた佐々木味津三氏である。このひとは「佐々木
光三」の名で、初期にはまともな自分のものを書いていた。
 少年の日の私が原稿用紙にせっせと書き写した位のものだから、きわめて感銘をよ
ぶ作品だったろう。ところが今となっては、光三の名では誰も知らない。むっつり右
門でしか記憶されていない。だが、それでもまだ増しな方かも知れない。死んでしま
えば、はいそれまでよで、一顧だにされない人も多い。
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 佐々木味津三の、純文学から大衆小説への転向については、
 今東光著「東光金襴帖」(中公文庫)によると、佐々木氏の兄の借金返済が理由
 だそうです。要するにお金が必要だったわけで、菊池寛も同じ理由で大衆小説を
 書いたといわれますね。『文藝春秋』残しておいてくれたけど‥‥ (影丸)
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 私が十代から原稿料稼ぎできた恩人の、加藤武雄先生も、そのおひとりである。
「きみは若すぎるから、絶対に自分が本人だといってはいけないよ」と注意してくれ
た。
 今にしておもえば厚かましい話だが、成城学園のお宅へ自作をもっていっては、大
きな蒲団の中から入道みたいな頭をだしている先生に、お願いしますと取次ぎをたの
み、お金を頂いてくるような横着も許されていた。
 先生の御不幸のとき私は外地にいて葬列にも加われなかったが、今でも先生の著書
を、位牌代りにも思い、感謝して暮している。
 だからいいにくいが、さて先生の御本をその死後に集めるのに、私はどれ程の苦労
をしたか判らない。
 ご生前は菊池寛先生と並ぶ大御所だったのに、もの書きというものは、誰も悲しい
さだめをもっている。
 なにしろ書いている時は、紙質が存する限り活字が読める間は後世に残るであろう
と、そんな想いにかられもするが、しょせんは虚しいものらしい。一つの時代に流行
したものは、その時代と共に消滅してゆくのである。思いきった死に方でもしなくて
は読んで貰えない。
 が、まあ、そういってしまえばそれまでだが、ありては何かというと、その活殺の
鍵を握っているのが古書組合である為らしい。
 だいたい古本は、詩歌小説、歴史地理、科学法律、外国語学の四種にわけて取引さ
れる。
 この中で詩歌小説というのは新本屋では店頭で幅をきかしているが、古本屋では長
く寝かして置いてもノーベル賞のあてのないのは値上がりするものではないから、あ
まり歓迎されはしない。さっさと、
「つぶし」にされ、トイレットペーパーか何かに再生されてしまうらしいと私は考え
た。
 いくら頑張って書いても行末は水洗で流されるのかと、諸行無常を感じてしまうと
書けなくなる。私もそれゆえ臨時休業をした。そこで考えた。
 その結果、これなら古本屋で棚へ並べてくれるというのを見つけた。歴史ものであ
る。
 後世の人間の種本か資料になるだけのものを、真剣に書き残すというのを思いつい
た。
 しかし考えついたからといって、すぐ始められるものではない。年期が掛りすぎた。
 なにしろ歴史屋さんのものは、昭和二十年まで、天皇さまは神さまだとか紀元は二
千六百年などと堂々といっていられたのだから、とてもじゃないが御信頼いたしかね
る。
 そこで、こけの一念というやつで自分なりに、徹底的に日本歴史を私はやり直した。
 しかし、そんなだいそれた暴挙を、すべてを投げうち何故やったかといえば、なに
も私の悲しき愚かさには、それは起因しているわけでもない。
 これにはわけがある。少年の日の私を加藤先生が新潮[社]の編集にいた奥村五十
嵐に命じ、
「文学建設」なる同人誌にいれてくれたからである。そこでは当時連載中だった『新
平家物語』に対する批判を、毎号二十頁ぐらい、
「ここの時代考証は違う」「あれは変だ」
 と、小学校卒だけの作者[吉川英治?]には気の毒な位に、亡きMや現存のNの名
前で手きびしい論難が浴びせられていた。だから、この同人誌の統帥者に私は、すっ
かり恐れをなしてしまい、
「どうして、あんなにまで」と聞いたら、当の海音寺[潮五郎?]氏は、
「歴史小説というのは相撲と同じだ。胸をかりて稽古をつけて貰った先輩を、その間
違いをついて倒すのは、恩返しというものだ」
 と教えられた。だから三つ子の魂百までもというが、愚かな私はそれを、そうと思
いこんでいたので、一心不乱に、恩返しするために勉強をしてしまったのである。が、
この頃になって、どうも、それは読みを誤ったのではあるまいかと、いくら馬鹿でも
考えている。


ああ誤読

 読みを誤るというと、まことに感心させられるのは、戦争中に、『葉隠』をひろめ、
「葉隠れ武士道」とか「葉隠れ武士山本五十六」などといいだした歴史屋たちである。
 私のような軽率で早のみこみの者は、そそっかしく誤読というのもあるが、頭のよ
いはずの人が、どうして間違え読みをするのであろうか。そこのところがさっぱり判
らない。
 それも戦時中だけの戦意高揚のためにといったテーゼのため、血走った眼でよんだ
せいなら、その為かとも思えるが、戦後二十余年たった現代に、またこの誤読という
怪物は復活しかけている。なんの理由によるのだろう。
 あまり利口ではない私は、どうしても、
「新軍国主義の再現」と畏怖してしまう。
 私だって子供の時はヘイタイさんは好きだった。そこで恐れ多いが、陛下の名を叫
び、
「バンザイ」と叫んで死ねるのを理想となした少年の日もあった。ところが戦時下に
なると、女と歩けば交番へよびこまれ、聞くに堪えない露骨な職務尋問をされ、喫茶
店で煙草をすっていただけで殴られ、豚箱へもってゆかれて、補導だと蹴っとばされ
たものだ。
 どうして虎の威を借る官憲というのは、いつの時代でも学生を目の仇にするのだろ
う。
 それに南洋群島へ行っていたとき、
「軍事務員」の美名で応募してきたモンペ姿の少女達が、軍慰安婦に廻される前に、
「臨検」の名目で南洋庁警官に初夜権を奪われていたのをも、私は実地にみている。
 だから戦争という錦の御旗が揚げられ、人民がそのため苛められる時代を臆病者の
私は恐ろしく想うし、新しい軍国主義の片棒をかつぎお先走りせんとする輩へは反感
を抱く。『葉隠』などを、今さらもちだしてきて、
「この無私の徹底した厳しさは、読む者をしておのずから心のひきしまることを覚え
しめる崇高なものである」と臆面もなく書きだし、
「葉隠との対決の中に、われわれの新しい倫理を追求することであると思う。対決は
抹殺することではない。対決を通して葉隠のもつ様々な可能性、特に心情の無私性を
追求するきびしさが、われわれの内に新しく行かされてゆくであろう」と「伝統と現
代」誌にかく、東大助教授の相良氏らもいる。私は悲しく泣き声で、「またですか‥
‥」と抗議をしたい。そしてひらき直ってそういう筆者に、
「星二つで売られている岩波文庫のものや、現代語版が徳間書店から刊行され、多く
の人がよんでいるのを知っているか」ときき、「その葉隠聞書第二の最後の百四十条
を、あなたは読まれているのか。誤読というよりそれは今日の一部の批評家のごとく、
自分の営業に都合のよいものだけに眼を通し、後は一切瞑読するの類ではないか」と
借問(しゃもん)したい。
 というのは葉隠の原作者は、その個所に、
「奉公の至極の忠義は主人に諌言し国家を治むる事なり。下の方にぐどつき廻り(出
世せず身分の低いとこで這い廻っていても)益々たたず。しかれば家老になるのが、
奉公の至極なり。私の名利(冥利)を思わず奉公名利を思うことぞととく胸に落ち
(納得)、さらば一度は御家老になりてみるべしと覚悟をきめ」
 と書いているからである。つまり当人の山本常朝が、現代の専務や常務に当る家老
になりたくて、猛烈社員ぶりを発揮したのだと、正直に書いているのを、何故その通
りに東大助教授はいわず、それを包み隠し、つまり、
(立身したさ)(出世したかったのだ)
 と当人がはっきり明言しているものを、
「葉隠のこの無私の追求の徹底したきびしさは‥‥」と、無欲の行為と称するのだろ
うか。
 こんな講義では私もゲバ棒をもつだろう。
 さらに続けて本人の山本常朝は、
「もっとも早出頭は古来のうじなく(封建制は家門制ゆえ、自分が家老の家柄に生ま
れついていれば、労することもなく早くからお召し出しになれ、そのポストへつけも
しようが、自分は塩売りにやられそうになった程の身分いやしき出身で士分ではない
からして)なんとか五十歳になってからでも、(殿のお眼鏡にかなうて立身できるよ
う)仕立て(用意のために計画をたて)申すべくと呑みこみ、二六時中工夫修行にて
骨を折り、(女ではないから)紅涙までにはなく候へども、黄色などの涙はいで申し
候程にてそうろ」
 とまで書いている。これは、
「塩売りにやられかけたのが小僧役として召され、小姓にまでなれ書きもの役にもな
れた自分は、ついているかも知れないと思った。そこで人一倍働いて、その猛烈さが
認められるものなら、立身も不可能ではなかろう」
 といった士分の出でない山本の心境である。これは、現代ならば、
「給仕に採用されたが定時制高校をでたら正社員に抜擢された。この分でゆくと自分
は認められているから、猛烈社員ぶりを発揮すれば、五十五歳の定年までには、係長
課長部長と立身し、専務になれるかも知れんぞ」
 といったところでもあろう。ところが、
「しかるところに御主人におくれ(肝心な殿さまに先立たれ)兼々出頭仕り候者はす
くたれ(亡き殿の側近に仕えていた者共は、新殿さまになると遠ざけられてしまい)
御外聞を失ひ申し候につき、かくのごとくまかりなり候(新殿には新殿の側近がいる
から、それらの者に交替されお役扶持が召し上げになると、自分のような小禄ものは
本俸よりもお役手当だけで生活していたのだから、こうなっては対外的な附合いも経
済的に不能になり、今やこうなっては致し方とてなく自分は、お城の北にある佐賀郡
金立村黒土原に、掘立て小屋をつくって暮すようなことになってしまった)といった
具合に彼は落伍者になってしまった状態をのべている。そこで彼は失意落胆した後は、
講談本なら、
「おれ程の男を‥‥」と、まだ五十二歳ゆえ他へ再就職にもゆけたろうが、鍋島の国
法は、一度でも扶持を与えた者は有事にそなえて、在郷軍人制をとり国境を出さずと
じこめにしていた。そこで、むしゃくしゃしながら彼は、負け惜しみもあったろうが、
「本意はとげず候共(家老になろうとしたがはたさず、出世するどころか先君の死と
共に放り出されてしまったが)しかと本意をとげ申し候こと段々咄(はな)し申して
そうろう通りにそうろ(聞書第一に、武士道というは死ぬことと見つけたり、つまり
仏家でとく捨身立命説のごとくに、おれは家老になりたいと思えばこそ、よい所をお
目にかけようと死にもの狂いに働いたいきさつは話ずみだが)思い立つと本望をとぐ
るものに候(男というものは一端こうと心に決めそれに努力してうちこんだら、よし
成功せず一生がむだになったとしても、それは悔いることではない。1970年代の
若者でも詩人になろう作家になりたいと頑張って、なれない者もいようが、自分で努
力したという確信さえ持てれば後悔することはないし、男として耻しがることもない。
何故ならば悔いても始まらんからである。つまりいうではないか。男は諦めが肝心と
‥‥)」

 と書きつづってから、
「まことに身の上話が(肥前一国三十五万七千石の家老になりあがろうなどとは)高
慢のように候へども奥底なく不思議の因縁にて‥‥」
 と、その聞書の第二は終了している。
 だから私と同様に東大助教授も頭が悪く、それで誤読をしたにしても、まともに目
を通していたら、呆れるよりも、怖しい話である。だからして、
「そこには何か‥‥意企されたものがあるのではなかろうか」私は心配になって、お
ろおろしてしまう。とても怯えるからである。
 新渡戸稲造の『武士道』が、名著であっても、それが、軍国主義の経典でしかない
ことは、中央公論の『切腹論考』[『論考・八切史観』のこと。当コーナーにアップ
済み]に詳述したが、それとこの『葉隠』が故意に誤読され、世にひろめられる時点
では、私どもはそこに何を迎えるのだろう。思うだに慄然とさせられる。それに対し、
ただわれ泣きぬれて何を書き何を叫べば、それを防げるのだろうか。


葉隠武士道

 後世で誤読されるようなものを書き残しておくと、古本屋に嫌われ「つぶし」にさ
れてしまうのが助かりその本も残るらしいから、
「武士道は昭和の世にもいきていて、汚職事件がおきると、日大の富沢のように古田
会頭を守って行方不明になるものや、官庁でも課長補佐という人は、忠義とは死ぬこ
ととみつけたりとみな自決して、伝統精神を守って死んでいった」といったものを書
いてみようかと、愚かな私ゆえ、時には誘惑をも感ずることもある。
 なにしろ、そういう内容のものを書くようにと、私など依頼され要求されるからで
ある。
 しかし、もの書きというものは、本質として泣く代り喚く代りに文字を書くのだか
ら、癪にさわって立腹しないことには筆はとれない。
 子供ではないから嬉しかったとか感心したことなど書けはしない。つまり繰り返せ
ば、
『葉隠』なるものも山本常朝の憤りの書で、皮肉たっぷりに書かれた内容の物である。
 なのに前述の東大助教授一人だけでなく、これまでの葉隠の解説者は、みな故意か
偶然かこれを誤読して、おおいに武士道精神を押しつけようとする。だからして、も
う今後はそういう間違いのないようにと、改めて、
『葉隠』そのものを根本的に解明すると、この言葉が佐賀で初見されるのは、
『竜造寺文書』あたりであろう。
 もともと鍋島家というのは、『史徴墨宝考証』によると、「鍋島氏の祖は詳かなら
ず」とあるし、『九州治乱記』には、
「本名を隠し、佐賀郡鍋島村にありしゆえ、それを姓となす」といった家柄で、竜造
寺隆信の時代には、野武士のようなものだった。
 ところが、いつの時代にも、良い女は徳をするが、良い男っぷりも儲かるもので、
弘治二年(1556)竜造寺隆信の母が、鍋島清房に、よき後添えを世話してやると
いったが、他に適当なのがいなかったのか白むくをきて、「嫁入りよう」の行列に自
分がおもむいた。
 この四十六歳の花嫁に清房も困ったろう。だが鍋島の伜共は、おかげで当主竜造寺
隆信の兄弟ということになってしまい、それから、それぞれ重く用いられることとな
った。
 さて天正十二年のこと、島原半島で薩摩の島津勢と、竜造寺勢が戦うことになった。
『ルイス・フロイス書簡』によると、竜造寺軍は長銃、長槍、長刀、弓矢の部隊二万
五千で大砲隊もあったという。これに対する島津勢は有馬勢と共で計一万だったが背
水の陣をしいて、これを迎えうった。島津勢は誘きよせ作戦をたて、故意に敗走し竜
造寺勢を深田に誘きよせ落しこみ、身動きできぬようにさせ弓と鉄砲でうちとった。
 五島二州の太守と仰がれた竜造寺隆信も、ついに薩摩の川上左京亮に首をとられた。
 さて、このとき、鍋島の伜は、
「ご思慮深ければ、葉隠れなされ進みたまわず、よって敵の奇計にあわず無事めでた
く生還遊す」
 と、大将の隆信は首にされたが、そちらは『葉隠』したおかげで生きて戻った。
 すると四十六歳で鍋島へ再婚した寧子が、
「隆信公御年譜」によると、
「いまは鍋島清房の伜どもの飛騨守ならでは、天下に御奉公を申しあげ家を存続すべ
き者はなし、討死せし隆信と兄弟の首尾なれば」
 といいだし、隆信には伜の政家がいたが、孫よりも惚れた男の息子の飛騨守の方が
よいと、ついに十九代まで続いた竜造寺家をつぶしてしまい、佐賀一国三十五万七千
石の家を、鍋島飛騨守直茂のものとしてしまい、竜造寺政家の子の長法師は、これを
直茂の養子にした。
 ところが不思議なことに、その長法師は慶長十二年九月六日。自殺か他殺か不明だ
が江戸づめで上京中。その妻と共に、なぜか夫婦で心中をしてしまうことになった。
 よって、ここにめでたく佐賀一国は、鍋島から竜造寺家へ戻すことなく、直茂の子
孫があいついで、それが明治までつづいた。
 このため滅ぼされた竜造寺の遺臣が、しきりに怨み、
「御家横領は、寧子の祟り」ということにして、鍋島ねこ騒動とか隆信が討死した原
因が有馬の裏切りによると、有馬ねこ騒動といった話が語りつがれた。(「戦国意外
史武将列伝」に詳細にでている。)
 このため本物の猫族がどれ程の迷惑をこうむったか計り知れない。
 さて、話は前へ戻るが、この佐賀弁でいう、
「ええことし」の鍋島直茂の伜の光茂に、山本常朝は仕えていたのだから、
(自分も巧くやって、ええことしよう)と家老になろうとしたところ、その光茂から、
「慰め方に使っている其方ごときに加増は遠慮ゆえ、志までに呉れてやる。年より
(老臣)どもへの礼はいらぬ」と夜具だけ貰えた。
 そして、その後は期待したが何の音沙汰もなく、ついに光茂に死なれてしまい、新
しい主君の替わったから追放同然となった。
 だから山本常朝の、『葉隠』の中の、
「あわれ昔ならば、この蒲団をしき夜具をかぶって追腹仕るべきもの」
 といった心境は、本当は和辻哲郎や古川哲史の、ご都合主義の解釈とは違い、それ
は、(口惜しさ)の発露でなくてなんであろう。なにしろ夜具を一組あてがわれて死
にたくなる話は、『廓物語』にでてくる江戸時代の、吉原へ初めて女郎に売られてき
た十六歳のたねとよぶ少女が、最初の客をとらされたあと、首を吊る哀話と同じでし
かない。
 さて、黒土原へひっこんだ山本常朝は、
「もはや俺は人生の落伍者だから、この葉隠れに埋まってゆけばいいんだ‥‥」
 といった自嘲精神で、その表題につけたのか。
 それとも佐賀では(藩祖直茂公が竜造寺の三十五万石を、めでたくそっくり頂戴で
きた由縁にもとずく)と、『葉隠』とは結構な言葉なりと題名にしたか、そこまでは
判らない。
 しかし戦国時代の資料では端隠れとか、
「葉隠れして押寄せて参らず」は、敵を軽蔑する形容詞に使われている。つまり現代
の、「ひよる」という言葉と同義語らしい。だから、これを武士道の聖典に用いるの
ならば、「葉隠れする者への書」とでもしないことには、すこし可笑しくはなかろう
か。
「葉隠れ武士道」などというの[は]、歴史的にはナンセンスでしかないことになる。
 日本には松下村塾で吉田松陰が用いていた、立派な武士道精神を伝える各書がある
のを、どうして史家は勉強しないのだろう。戦国確定史料『当代記』でさえ読んでな
い老人の歴史家もいるから無理かも知れぬが「奴隷の思想」の押売りは困りものであ
る。
 が盗作というのは何も今始まったものではない。佐々木味津三でさえ「改造」に書
いた歴史創作物を、事実のごとくとられ、一年後のS誌で、Kに盗用されたのを難じ
たあとに続け、
「世にいわれる歴史なるものの大半は、(この場合のごとく作り話を他人が失敬して
こしらえた)嘘と出鱈目ではなかろうか。古事記の稗田阿礼でさえ一個の物語作家だ
ったろうし、歴史はくり返すというが、もっともらしい嘘や出鱈目が盗用され、やが
ては<正史>になってゆくのだろう」と、今から四十四年前にすでに「歴史の虚妄性」
をといている。
 つまり佐々木味津三がいいたかったのは、
「盗作はもってのほかだが、こと歴史関係に関しては、嘘や出鱈目も読みとれず盗用
する輩が、正史さえ誤る者だ」の意であろう。
 さて、半世紀後の現代。堂々とテレビ放映で、
「盗作だァ」とブラウン管に写された歴史屋さんがいる。彼の著の『埋蔵金』の本に
対し、畠山晴行氏が自作の『埋蔵金物語』の原著と風呂敷包み二つの資料をもって対
決し、「あなたが、その中で失敬しているのは、私が面白くご愛嬌に作った話だ。そ
れをそのまま引き写しでは‥‥こりゃオール盗作だ」
 笑いながら繰り返しヤユされ、相手は無言のまま顔を伏せてしまった一場面がある。
 畠山氏が流行作家なら新聞種になったろう。が歴史屋さんの方が売れている人なの
で、このハプニングはそのままで終ったが、同氏の本の広告はそれっきり出なくなっ
た。
 さてこれは埋蔵金の話だから、畠山氏が昔かいたのを古本で見つけてきて盗作して
も、たいして一般的には害はないかも知れぬが、この先生は大学で歴史を教えている
し、「歴史」種の刊行物が多いから、こときわめて厄介である。なにしろ日本には事
大主義というのがあって、大学の教授だの文学博士だというのが権威をもち、一個二、
三百円の土碗でもそういう人が箱書をすると十万円にもなり、また、その著の中で片
っ端から、「名物」といったリストへ色んな名称を並べ列記。
 それに合わせたものは数百万円にさえ土碗がなり、古道具屋さんが儲かるという。
 こうなると盗作だけでなく、ジイドの小説の題名みたいなことにもなりかねない。