1065 八切日本史  1

 これは「隠匿の日本史(合本)」(1982年3月 日本シェル出版)
の後半部です。「合本」とあるように、元々は別々の作品を一本にまとめたものと思
われます(前半は、『元治元年の全学連』という幕末モノです)。
八切氏は、晩年よくこういう合本を多く出版されたようです。
 このファイルでは、八切氏自身が作品の終わりに書かれている「八切日本史」
をタイトルとさせていただきました。

                          1996年4月 登録
                        影丸(PQA43495)

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              われ愚かなりせば

わが義務教育

 枯木に花を咲かせるのは、花咲爺のおとぎ噺だけかと思ったら、国営放送の大河ド
ラマに、枯木に花を咲かせた神さまものが登場する。そして原作でも、妻のお琴は
[大村]益次郎の女ぐせの悪さに立腹して死後だいぶたってから、ようやく渋々と出
てきたにすぎないのに事実を変え、日本人民を善導のために、
「それではマイホーム精神に合致しない、社会教育上に害がある」と、どうにか死に
目に間に合うように駆けつけてくるように脚本では替えてしまう。これでは大村が江
戸へ単身でてきて鍋島のアームストロング砲で、上野の山を焼き払ってしまった後、
敗戦の江戸の旗本共が目だつように娘を着飾らせて薩長軍へ慰安に供出。今でいうサ
ッポロチョンみたいな江戸チョンの彼らの江戸妻にしたからといって、それからケバ
ケバしい派手な柄を「江戸づま模様」といった謂われや、そうした女たちへ、
「権僧正」とか「権中納言」といったように、吝な大村が何人も召し抱えた旧旗本の
江戸妻に対し、供与や手当は出さずに「権妻」といった形式ばった名称をつけてやり、
死後も昭和の初めまでは、愛人といった称号はなかったから、おてかけおめかけより
は格式があると使われた。大村の世に残した手柄は、国営放送では原作者も知ってい
ない位ゆえ出てこないだろう。
 それに、いうならば西郷とか大村といった連中は、江戸人にとっては不倶戴天の仇
である。なのに上野の山や九段にある二人の銅像が戦争中にも回収されず、マッカー
サー進駐のとき、
「あの二つは、ミイら進駐の先輩だから構わぬ」と楠木正成らはみな取り払われたの
に、西郷と大村の二人の像だけは保護されて残された点、これまで誰も指摘しなかっ
たか不思議である。
 大村は徳川体制にそむいて革命を成功させた男。西郷ときたら革命して出来た新政
府を倒そうとした反乱軍の首領。マッカーサーの立場からみれば危険きわまりない象
徴なのに、残したのには残した訳があるのである。なのに江戸ッ子と自称するのがい
ても、銅像を引っくり返したという話はきかない。逆に有難がっている。
「砲火を浴びず無血で占領してくれた恩は忘れてはならぬ」との理由だが、だったら
ついでにコーンパイプをくわえた銅像さえ作りかねないのが、日本人なのかと考える。
広島にさえ、
「あやまちはくり返しません」と原爆を落した側みたいな、碑をたてる奴隷精神の発
露らしい。
 が、西郷や大村を、さも東京の恩人のごとく祀りあげてしまったのは、新政府が義
務教育として学校をたて、当てがい扶持の教科書を作り、自分らに都合のよい歴史を
ば、「暗記もの」として集めた児童らに各学校で叩きこんで教えたからである。それ
に薩摩出身の林房雄や海音寺潮五郎が、まるで大英雄のごとく西郷を書きに書いた。
 あくまで抗戦すると頑張る西郷をかかずに、もはやかくなる上はショウヨウとして
自決したような美談を作りあげた。しかし、そんな善意のかたまりみたいな英雄で、
丸紅の大久保専務の祖父の一蔵と組み、岩倉具視を参謀にし、薩摩では疎外されてい
た土地者の益満休之助や田中新兵衛を、江戸や京へ送りだし、あれだけの大陰謀が出
来たであろうか。疑わしいものである。
 なにしろ皇室典範や日本国憲法を作成する必要上、長州人は陸軍のドイツ教官に頼
んで向こうの歴史屋を招いた。きたのが後にベルリン陸大の教授となったリースやア
ドルフだった。
「ゲルマンは優秀な純血民族なり」とカイゼル宣言を金科玉条にした彼らは、それを
そのまま日本へもちこんできて、日本列島は西南から黒潮暖流、東北からベーリング
海峡が突き当たってくる吹き溜りなり、とは海洋学を知らぬから気づかずに、大和民
族は一なりときめてしまった
 平家はみな壇の浦の藻屑になったと決めてかかって、その一門の墓が下関にたてら
れたのは、ラフカディオ・ハーンが、小泉八雲の名で「怪談」の中に、「耳なし抱一」
を書いたからであるが、「史学会」が明治22年に彼らドイツ人の指導によって作ら
れ、その教示にとって国定教科書の学校歴史は作られた。だから戦前はタカマが原へ
天孫民族として空からきた事になった。
 が戦後はジェット気流にロケット噴射の巨大機を打ち上げ地球の自転作用で航空と
なったから、もはや空から舞い下りてきた話も通らず、北東からの騎馬民族の進出ま
では一般化した。
 が、黒潮にのってアラブ語の水を「アワ」とか「アマ」といって渡ってきていた今
も子孫の多い拝火教の先住民族は解明しようとせず、まだフビライ汗の頃のシルクロ
ードが紀元前からあったごとき幻想にとらわれている。それゆえ大和民族が複合民族
とわからず、同和問題など解明しようがなく、彼らこそ白村江のあと進駐してきた公
家によって差別された先住民族と知らずか故意に逆にしている。

 ごまかしが好きというか、されるのを承知で喜んでいるのか、なんでも良い事にし
たがって甘言を好み美化したがるのが、日本人には受けるようだが、そんなことで本
当によいのだろうか?
 道楽をやりとげなくては一人前の芸人にはなれぬと日本でもいっているし、役者は
背徳に身を浸さなくては舞台がこなせぬと英国のオリヴィエもいっている。死んだピ
カソも、
「作家も詩人も絵かきも体制に背をむけてこそ存在の価値がある。だから体制によっ
て追放されたり手錠をかけられた者でなくては、真のものはうみ出せぬ。彼らは御用
商人ではないからである」という。
 サルトルも、刑務所からでてきた男に「泥棒日記」をかかせて推薦している。なの
に日本では芸者買いしたとかバクチに手を出したとか脱税したのとスキャンダルでタ
レントをほしてしまう。
 いくらテレビが各家庭で見られるからといえ、タレントを道徳家にする事はない。
 殺人といっても見ず知らずの相手ではなく、殺さねばならぬ必然性も彼にはあった
のだし、
「本当に愛しているのなら、その手にかかって死にたい」のも、一つの願望だという
ことが判っている人も多いのゆえ、出所後には歌手として再出発させる思いやりが、
彼にはほしい。
 演歌と当て字されているが本当は怨歌である。本当に女を殺した男でなければ、女
への愛憎は心から唱えない。勲何等かを貰って直立不動での唄い屋よりは、遥かに本
物であるといえよう。
 今でもパリーの市場辺りや裏通りのBALへゆくと、腰の曲ったお婆さんのシャン
ソン歌手がいて何人も流しに回っている。話をきくと警察に協力しなかったり何かし
て為に舞台をほされたとか、かって愛人を刺した経歴があるといった女性たちで、温
かい拍手に迎えられそして拍手に送られて店から店への流しをしている。本物のシャ
ンソンは挫折した人間共の恨みつらみの歌である。ポルトガルのファードにしても刑
務所の囚人の歌からであるし、黒人霊歌にしても奴隷怨歌である。
 一杯のんで唱う鼻歌や学校で習わせる唱歌と、声なき民の抗議と諦めの怨歌とは違
うのである。
 血を吐く想いで涙ながらに叫ぶのが、日本的ごまかしによって美化されたり戯画化
される。
 よく言われて一般大衆の庶民のもの民謡とされ、悪く扱われるとゲスとされるのに、
アラエッサッサの安来節と八木節がある。浅草の演芸ホールや木場館で、赤い腰巻が
出るのがストリップ以前には広く好色ごのみに流行したからであるし、また盆踊りの
櫓で空樽たたいて、博徒国定忠治の一節を語り、ちょいとでました三角野郎がと、片
肌ぬきで唸るから野卑であるとされている為らしい。
 しかし今は漢字のあて字で安来と八木は別個のごとく思われる。が、YASKIと
YAGIである。八切とは日本原住民へ公家が課した体内の血が1/3まで流れ出血
多量で、のたうちまわって死なねばならぬ割腹のことである。後には故意に美化され
て「切腹」となるのである。
 八付も、ふつうの張付は両手両脚を縛りつけて止めは錆槍でさすのだが、日本原住
系に対しては公家と差別して、手は掌を脚は土ふまずから先に釘づけ、つまり残酷に
も半殺しにしておいてからである。むごい仕置をされていたのに日本歴史のでっちあ
げに踊らされて、さも名誉のごとく想うのは、もう大概にしてやめて欲しいものであ
る。
 さて安来千軒といった歌詞から、その昔は千も民家のあった所と漢字の当て字から
誤られているが、これはしいて漢字にあてれば、「千」軒である。つまり先住民族と
して扱われた日本原住民のタウンのあった個所をさす。つまりセンが千の字になった
ゆえ今では、出雲大社の神主さまも隠岐の神主さんや茶湯も、その文字を苗字にあて
ている。千葉や山梨にも千軒の文字で、昔は栄えた土地なりと伝承されているのは間
違いで、みな日本原住民系の捕虜収容地の名残りである。
 八木節とても同様で榛名山系は、天慶の乱で公家に滅ぼされた坂東八ヶ国の、帰順
しない原住民系が逃げ込んで住みついた限定地。後には強制的に米作りをさせられ、
一粒も残らず供出することで命は助けられていたから、戦国時代までは八木とかいて
ヨネつまり米という。
 歴史を収入源の材料に使っている人は、なにしろ原料が限定されているから、本文
や読み下しはその侭で使う。しかし出典を一々付けるのは面倒で読みにくかろうと省
くのが多い。
 同業の歴史屋どうしは互いにナアナアで用いあっているくせに、丹羽文雄が<親鸞
>をかいた時など盗作よばわりをして抗議までした。私が「*古代資史料大成」を編纂
した時も、
「平将門の存在は藤家史料には反乱者の代表氏名のごとく書き出されているが、中華
の風俗になじまずと大弾圧をされ反乱した坂東八国の日本原住民の中に、そうした個
人はいたかどうかさだかでない。物語は里見八犬伝と同じ中国種にすぎぬ」としたら、
そうした徒輩からの抗議をうけた。
 *『古代争乱資料大成 別巻』の事か?/確定史料保存会・編 日本シェル出版刊。
  限定出版 定価3400円(特価2900円)『将門記』などの平将門に関する
  史料集。初期の出版なので割と丁寧な造本。

 かって書いた「忍術論考」のごとく、
「現在でさえ鉄は日本ではとれない。八幡富士でもスクラップまで輸入している。だ
から採鉱技術の劣っていた昔は鉄は貴重品で、矢の先につける矢尻でさえ米一升に二
個。あんな小さな物でも百円以上した。それなのに忍者が、マキビシと称して投げる
あれは、どうも当時としては一個千円位なのに、あんなに気前よくパッパと投げられ
るのは可笑しすぎる」と考え、「甲斐郡志」に「固き菱の棘を刺したる面々あわてふ
ためき逃げ去る」などと出ているから、
(まきびし)というのは今いう鉄製の高価なものではなく、沼や沢に自然にはえてい
た菱の実ではなかろうか。黒い実をゆでて中の白い果実をたべ、殻は鼠よけとか泥棒
よけといって塀の上に並べておいたものと違うだろうか。と素直な疑問を持ち、そし
て、
「伊賀者、甲賀者」というのも、
「足利年代記」によると鹿伏山の者が山栗のイガを俵へつめてきてまいたのを、当時
は裸足か草鞋(ぞうり)だった兵が踏みぬきして迷惑したとあるから、これが栗のイ
ガ者の起りだろうし、「伊賀者」も「和田家記」というのには、
「くご(現在のくこ)こご(からたち)をもって敵を防ぐ」とあるから同巧異曲であ
ろうなどとも考えた。
 こうした話では「続応仁私記」に出てくる、信長から矢銭をいいつけられた堺の町
では、入口の堀を深くして、菱の実をまき防御陣地にしたのが有名であるから、今の
ような消費ブームの時代でなかった昔にあっては、
「池をさらえヒシをまき、木のイガを叩き落し、なるべく銭の掛らん方法をとったの
ではあるまいか」と帰納法をとってみた。
 次に、いわゆる伝承された忍術は、中国朝鮮の兵書の孫引きに、列子の黄帝篇や周
王篇の神仙説を加味したもので、みな当時としては舶来ものだった。だからして、
「荒唐無稽という文字をみても、唐国を荒し読まれている伝書だが、稽古しても無駄
だぞ」
 とあるではないか。だが、それにしても、
「呪文を唱えればスーパーマンになれる忍術が、もし実在していたものとしたら、な
ぜあんな便利なものが消え失せてしまったのだろうか?」とも悩んだ。
 これまでの忍術研究家は、
「天下泰平になって、その必要がなくなったから滅びてしまった」というけれど、
「隠形(いんけいではなくオンギョウの由)の呪文を口中で唱えれば、観音隠れ又は
うずら隠れといい、瞬時にその身を消すことをえて、何びとの目にもとまらず」
 といった透明人間になれる術があるものなら、篠山紀信のスタジオへ入りこんで、
フォートならぬ実物をなまで鑑賞もできるし、さわって撫ぜまわしても、
「あらッ、へんてこな風ね」ぐらいですむ。もし、その意志があるのなら可愛いとこ
ろへなどもぐりこんで、といったことも不可能ではない。
 つまり、いつの時代でも、こんな便利かつ重宝なものはない。考えようによっては、
天下泰平であればある程、利用度は大きい。私だってアラジンのランプみたいな忍術
使いになりたい。
 なのにドロンをしてしまった理由は、というと、
「端的にいうならば戦国時代に火薬が輸入され、これが耳目を愕かせているとき、そ
れを利用せんとしたのが、従来オハナシにすぎなかった忍術だが、島原の乱でこりた
徳川家は火薬の七割五分の主要成分の硝石の輸入を一般に禁止し長崎の出島で己れが
独占した。だから幕末になって、長州や薩摩が上海から輸入できるようになるまで、
泰平も続いたが忍術も火薬禁止でうやむやになった」
 つまり従来の忍術というのは、歴史ではなく講談の世界のものでしかないと解明し
た。
 珍しがられたとみえ、日本読売新聞や色んなものに転用され多く読まれたらしい。
 さてである。運悪くこの時にあたり、かつて、貸本屋用だった、
「忍法風魔一族」とか「忍術なんとか草子」
 といった本が駅売り店や町の本屋さんに、一度に十数点も同じ著書のものがずらり
と並ぶという盛観をしめした。しかも帯封に、
「歴史文学界に頼もしい‥‥」といった海音寺氏の選評までが借用されて印刷してあ
るものだから、そのはねっ返りというのか、
「おまえはなんだ、けしからんぞ」
「忍術はえらい先生でも歴史文学と認めておられるのに、なんてバカをかくのか」
 名張町の忍術ようかん本舗の従業員だけではなく、各地からヒナン抗議の葉書がき
た。電話をかけてきて、かみつかれた例も二度や三度ではない。というのは、この前
にも一つひっかかりがあったせいによるらしい。


赤だし謙信

 かつて、『信長殺し、光秀ではない』を発表したときは、故日本歴史学会会長高柳
光寿先生も、
「家康が光秀遺愛の槍を家臣の水野勝成にわたすとき、汝も光秀にあやかれといって
いる程だから、当時としては信長殺しは明智光秀ということはなかったようである」
 と裏付けをしてくれて、他の歴史畑の人もこれには何もいえずじまいだったが、さ
て、
「謙信は男か」を連載小説とし読売新聞夕刊にかきだしたとき、これは大変だった。
「これが男か、ああアア」といった演歌調に早とちりした方が多かったらしく、
「謙信公博覧会開催につき講演にこい」
 などと地元からいってきて断っている内に、あっという間に謙信ブームになった。
 ところが私の解明していたのは、
「吉良上野の伜が上杉家へ養子に入ったところ、赤穂浪士が本所松坂町へ乱入したあ
おりをくって、十五万石に減封されたので、なんとか会津百万石の頃の半分なり三分
の一にでも戻してほしいと、江戸時代に高野山へ祈願をたてる時に想像でかかせた画
の、ぶしょう髯のおっさんの謙信」ではなかったのである。
 生前に画工をよんで「後影」とよばれた肖像画をかかせるとき、自分の姿や形はこ
れを拒み、直系1mもある赤い木盃だけを、
「おのが姿を影とみて‥‥」とかかした。それはあまりにも悲しく寂しい人物である。
 十六、七歳から四十二歳までの間は、いくら激戦中でも、毎月十日になると、
「腹がやむ」「馬にのれぬ」と停戦し、静かにひきこもってしまった一人の人間であ
る。
 現行の太陽暦と違って昔の太陰暦は一月が同じで、うるうもかためて一月にしてい
た。
 だから、ぴったり毎月十日からはそれにひっかかった。つまり世にいう永承四年九
月十日の川中島合戦を、
「血ぞめ合戦」と特にいうのも、その血に意味があるからである。
 武田信玄が、やがて謙信が腹痛だ馬からおりたいといいだすだろうと見当をつけ、
前半は悪戦したが持ちこたえ、後半においてもり返して勝ったのである。
 その証拠に上杉史料では、
(アンネのため甲斐勢に裏をかかれ、せっかく信玄の弟をうちとり、信玄やその長子
まで傷つけした大勝を無にされた)とは書きにくいから、この大激戦は「川中島五度
戦記」からも削除され、無かったことになっている。これは周知の事実である。さて、
昔は回虫が多く体内から出る長虫をみて、
「生きとる、動いとる」とびっくりした人たちは、それが寄生虫とは思わず、人間を
操るエンジンとでも考えたらしい。そこで、
「腹の虫がおさまらぬ」とか「虫が好かぬ」から始まって、ついに子供のひきつけを、
「小虫」とよび、女性のあれは「大虫」の仕業ときめつけた。そこで福井には今も、
婦人病の道の神さまとして官幣小社の大虫神社もある。
 さて大虫とはアンネ、つまり「赤」という連想から、ショウユを紫というごとく、
「赤ミソを大虫」といういいかたもある。
 式亭三馬の「浮世床」にも、「おめえんちの雑煮は大虫かい」などとでている。今
では、「赤だし」と、そのものずばりに大虫をよぶからして、知らずに呑んでいる男
が多いようだ。
 だから、伊勢亀山城主松平忠明のつけていたという当時の日記の「当代記」にも、
越後景虎つまり後にいう謙信は「大虫で死んだ」つまり婦人病で死んだのだと明記さ
れている。
 常識で考えても、男が婦人病で死ぬのは変だからと「謙信は男か」を書いたのだが、
それがブームになると、
「なんで石原祐次郎や石坂浩二の謙信が女なのか」
「よくNHKのテレビをみろ」といった文句がまいこんできて、本当に泣かされてし
まった。
 ・・というのは、いつかは自分の誰かにテストされ試されるであろうかと山周理論
の考察で心配のあまり、私はくる手紙や葉書に対して、忙しい時は口授筆記にしてい
るが、神経質になって全部返事をだすたてまえをとっていたので、忍術と謙信の二つ
で、カナエの軽重をとわれてどんどん投書を貰うと、この返事におわれ小説をかいて
いる暇のなくなったのである。
 がこの頃の世の中は慌しく、テレビの放映が終ると、もう上杉謙信のことも忘れら
れてしまう。だから謙信女人説もこれで消え去ってしまいそうなので、私の打ち明け
話をつけ加えておくと、これに気づいたのはスペインへ行き、マドリッドの先のトレ
ドへ行った時、そこのスペイン革命時代に城砦になっていた司書館の中の十五世紀か
ら十六世紀の舟乗りや宣教師の報告書の綴りの中に、「上杉景勝の伯母」として政虎
のことが、佐渡金山に関して書かれているのに目がつき、後述するが「政虎=伯母」
とは、世に伝えられる上杉謙信は女人ではなかったかと驚き、それからせっせと裏付
けをとって調べたところ、明治二十二年からの史学会雑誌が入手できたり、越後長岡
の「山本ごい文書」が見つかって、はっきり女人だったと判ったからであるが、そん
なことにせっせと骨を折っても誰からも賞められはしない。かえって眉ツバ視され、
「彼奴はバカだ」の一言で片づけられるような羽目にもなった。
 つまり賢い人間のやることではないのを、せっせとスペインまで往復してやるごと
きは「われ愚かなりせば」の一言しかないようである。

[以下↓の文は、原本では活字をゴシックに変えて印刷してあります。合本にした際
に書き加えたのかもしれません]

 当時読売新聞に書いた「謙信は男か」は「利休殺しの雨がふる」にいれてあるし、
九月十日の衝突は「血戦川中島」として刊行されている。真相を判って頂くためには
読んで頂きたいものである。


                            われ何をかいわん

ムジュンの形而上学

 人間なにか一つ位は楽しみがあるものだというが。私は酒はのまず麻雀や競馬もだ
め。釣り盆栽なにもない。哀れきわまるやぼてんである。
 ・・よくそれで生きていますね。と初めて逢うひとは、必ずいうから、私は人見知
りをして近頃は殆ど誰にも逢わない。ぐれている。
 仙人をきどっているわけではないが、ココナツの実とかピーナツ類を机の左へおき、
サイダーをのみそれをかじって生きている。好きでやっているのではないが仕方がな
い。
 食事の時間を惜しんでというのではなく、ふつうに食するとバタンキューとすぐ睡
くなってしまうからだ。『葉隠』に、武士道とは物狂いなりとあるが、人間誰しも生
きるということは同じらしい。ただ利口な人はそういうことを表面に出さないだけで、
私のようなバカまるだしの人間が、そうした手の内をさらけだしてしまうだけらしい。
 なのに付き合いが悪いと、よってたかって叱られて、これには泣かされる。
 泣くといえば先日、何処へでも失禁して歩く連中の始末に困って、苦くない睡眠薬
を湯にとかして肴につけてやったら、ぞろぞろ皆が千鳥足になって人目につかぬ所へ
消えてしまった。そこで分量が多すぎて病院へ連れてゆく前に死んでしまったのかと
反省し、「申訳ない」と三日めに家政婦をよんで大掃除をさせていたら、揃って後脚
をひっぱり、(ああよく寝られました)といわんばかりに自由猫の連中が欠伸をしな
がら現れてきた。
 すると処分する気でいたくせに、私は、「よかった」と手放しで泣いてしまった。
 が、こうしたムジュンは世に多い。
「通説を批判否定するところに学問がある」
 と九大にいた頃の井上正治がいっても、それに、「当り前のことだ」とは誰もいわ
ない。
 学とは他からの受け売りを覚えこみ、それを己れの教養のごとく錯覚するのではな
く、自分で通説を打破する行為だが、ムジュンした話だが、日本では学者もこれを口
にしない。
 が、こんなことは四百年前にデカルトが、
「学ぶということは、疑義をもってそれをとく技術である。一切の先入観をすててす
べてを疑い、そこに自己の存在を不可疑として確立。われ指向しわれ疑うゆえにわれ
有り」
 と形而上学の課題を、ここに出したし、また、
「真実をみきわめそして、これを言ったり書くということは、どんなに世俗的には不
利益か判りません。何故かと申しますと真実を探求する者は、通説や俗説を守りそれ
で富や虚名をえ、地位を守る俗物共から、よってたかって蛇蝎視されるからです」
 と賭博の確率論を発表したあとポールロアイヤル修道院に入ったパスカルも、『パ
ンセ(Pensees)』の中でそう述べている。
 つまり学問とは、通説への疑い、真実に対する追求だから、前例とか言い伝えの慣
わしで、権力を押さえた輩からの迫害は必然という。そこで、
「学問の府は、中世紀より国家政権から圧迫されぬよう配慮され治外法権下におかれ
た」
 と、英国の史家トインビーも書いている。
 ところが日本においては明治に入って、「なにがなんでも西欧に追いつかねば‥‥」
というので、思考したり疑ったり、真実は何かと追求する本質には、構っておられず、
「ただ早く覚えろ、暗記してマスターしろ」税金を納めてるからの反対給付ではない
義務教育ゆえというのが、勉強ということになった。
 つまり俗説であろうが、通説であろうが、「教科書」通りに頭へつめこむことが可
とされ、それに疑義を挟むどころではなかった。
 そして明治時代の、末は博士か大臣かといった立身出世コースが、学問なるものと
間違えられ、
「国家が必要とする官吏養成機関」として大学が設置された。これでは、
「真実を追求することこそ、学問だった」のが何処かへ消えてしまった。そして本当
の学問とは、
「世俗から嫌われ、それは立身栄達とはまったく逆なものである」という観念が日本
では宙ぶらりんになった。そこで心配して、
「諸君は、痩せたソクラテスになれ」
 前東大学長も卒業式に訓辞したのである。


輸入カースト制度

 現在、日本歴史がさっぱり判らないまま、通俗史でごま化され、まかり通っている
のは明治軍部が国民を戦争にかりたてるため、
「大和民族は一つである」としたせいだが、原住系、騎馬系、船舶系の三つは歴然と
分かれている。
 しかし明治からの発想では、
「日本=関釜連絡船=朝鮮=満鉄=満州」
 だからして、これまでの日本歴史というのは、『魏誌倭人伝』や、その百三十年後
の、『後漢書』にでてくる、
『耶馬台国』とか後者の『耶馬壱(ひと)国』ばかりを問題にし、天孫民族の渡来を
朝鮮や中国に搾るが、これはどうであろうか。肝心なことは日本が島国であって、日
本海域には年二回にわたり季節風と貿易風が交互にふき、蒸気機関が発明される前は
それで航海し、織田信長の時代には、
「天川船」とよばれたマカオ堺間の定期航路さえ、厳然としてあったということであ
る。
 陸路で印度までの交通は大変だが、海路なら簡単だったことは、だるま大師ばかり
でなく多くの印度のヒンズー教徒が、日本へきている例でも判る。これらの古記録は
かなりある。
 [これは前にも書きましたが、八切氏の勘違いで、天竺(インド)人一般はともか
く、達磨大師個人(架空の人物という説もある)は、来日していないようです。]

 つまり先住民族で戦いに負けた者を、
「賎民(シュードラ)とし、奴隷(エターラ)」の扱いをするカースト制度が日本へ
持ちこまれたのも、ヒンズー教徒によるものだが、想像以上に海上の交通は多かった
らしい。が、これを歴史屋さんは調べていない。
 インド航空にのると、ヒンズーのミセスは額に朱丸をつけているが、奥地へゆくと
今も男も子供まで眉間に二つ丸をつけている。
 色は黒いが、昔のお公卿さんや牛若丸なみである。

 また、テヘランへ今いっている日本イラン研究所長の本田実信などは、
「菊の紋章はサラセン文化のものだから、十六枚のご紋章も此方で原型が見つかるは
ず」
 目下、十三枚、十四枚の菊の紋のレリーフまで集め、おおいにはりきっている。
 これがはっきりすると、原住民族はサラセンと明白になるのだが、おそらく日本の
歴史屋はついてゆけず黙殺の一手をとるだろう。
 サラセンといえば、カスティーリア王フェルディナンドと、アラゴン王女イサベラ
が結婚。サラセン最後の根拠地だったグラナダを落しスペインを白人の手に取り戻し
たあと、サラセンの血を残した連中がグラナダの近くの山肌に匿れ、今も穴居してい
る。
 この連中がフラメンコをもって、世界各地を流れ歩いているのだが、彼らの間で、
「ヒターノ」「ヒターナ」とよばれる部落の男女が年頃になると、本人同志には無関
係で族長どうしで、グラナダのサクラモンテ祭りの時に出逢って結婚の話をとりきめ
あう。
 そしてまったく一方的に、同族だからと次の祭に見合いをさせ、すぐぶっつけ本番
で結婚させてしまう風習が、今でも堂々と続いている。
 さて日本にも「見合い」というのがある。
 今では写真で選びそれから実物鑑定だが、昔はジプシーなみに双方をいきなりつれ
てきて、三々九度というやり方だったらしい。
 これは何故かというと、日本原住民系には、
「他民族と通婚同火はしない」というタブーがあったから、同族どうしならよいでは
ないかと、民族の血の純潔[純血]を守るため、本人の意志など問題にしなかったせ
いであろう。
 またアメリカを征服した白人が、有色人種の血が混じった相手とは結婚したがらな
かったように、船舶民族の天孫系も、騎馬民族の後裔である原住民との婚姻はやはり
避けた。
「どこの馬の骨かわからん」という台詞は天孫系のものだし、これに反して、
「馬にはのってみろ、人には添ってみろ」
「ウマがあう」というのが原住系である。
 一つの日本列島なのに、この両者は頑固に戦前まで通婚は一切していない。いわゆ
る、
「身許調べ」とか「血統改め」というのも、なにもレプラとか精神病とかの調査では
なく、これは天孫系か原住系かの日本列島における民族区分を確かめあうことであっ
た。


原住民二分説

 さて原住民というと、常識的に、
「弱小民族」「滅びゆく民族」という感じがするが、どうも、この日本列島ではそう
ではない。
「書紀」四年、つまり斉明四年(658)というのは、飛鳥文化から大化の改新が終
った頃だが、船師百八十隻をもって天孫系は、
「阿部引太の臣、比羅夫は有間の浜にエミシを集め大いに饗応して帰す」
「翌五年三月、再び比羅夫は北征し能代や津軽のエミシと共に、秋田のいぶりのエミ
シも招いて、おおいに馳走を振舞って帰した」
 といった事例のように、七世紀までは懐柔策をとり、人的資源を大切にした。
 これは、いつの時代何処でも同じように、占領軍は原住民より数が僅少であったせ
いだろう。だからして今でも日本人口の半分以上は原住系で占められていたわけでも
ある。
 さて、原住民の中で御馳走政策につられ、
「へい、よろしゅうに」と天孫系の奴隷になっていった連中は、どうなったかという
と、
「延暦六年(787)正月二十一日付」の「太政官符」には、
「聞くがごとくんば、王臣及国司らは、彼らの馬や俘囚の奴婢を争うて買う」
 といった有様で、『日本後紀』などに、
「田夷」という名称で現れてくる。つまり、「ど百姓」という侮称は今でいう、土の
「ど」でなく、奴隷の「ど」であった。この名残りは明治初年まで続き、彼らドレイ
の子孫は寺を、
「だんな寺」とよばされ、そこの人別帳に生まれた時から記入された。そして田租や
助郷とよぶ労役を課せられ、その田畑をもし放って、みだりに他国へ行こうとすると、
「逃散」の罪で死刑だった。
 もちろん俘囚の中で身体壮健な者は、壮丁として軍役にまわされ、これが武士の始
まりとなる。だから俘囚の末の武家と公家が仲が悪かったのも、遠くはここに起因し
ている。
 さて、原住系といっても、ご馳走につられず頑張った連中も、かなり多くいる。
 だからレジスタンスをして殺掠されたり捕まって、
「別所(さんしょ、いんだい、いんぢ、地方により呼方が違う)」へ送られたのも多
い。
「太政官符の延暦十九年(800)二月」
「俘囚キミコベタカリ女、同ルシ女らまだ野心を改めず賊地に往還す、よって、党類
と共に身を禁じ陸奥より土佐国に配す」とある。
 交通機関のない時代に、わざわざ遠くの方へ送られたという事は、いかに彼女らの
率いた部族がドウモウだったかということになる。
 平塚雷鳥が「太古の女性は太陽だった」と昔いっていたが、原住系は女上位で、こ
うした女将のことを「かみ」とよんでいた。
 今でも水商売などで、男性を手軽に、
「男しゅう」などとよぶ所では、この言葉は生きていて「おかみ」などと呼ばれ用い
られている。
 さて、こうした反抗原住民は、山間僻地の捕虜収容地へ入れられていたが、
「文治革命」とよばれる源頼朝の時に一斉に蜂起した。しかし北条政権によってまた
山へ追われてしまい、応仁の乱の人手不足に、ようやく人買いの手で、また平地へお
りてきたのが、映画祇園祭の時代ということになる。
 これは珍しく原住民制度を扱っているもので、みた方も多いだろうから、違う点を
あげつつこれをテキストに解明してゆきたい。