1063 古代史入門 15

「出雲風土記に記されたことから考察すれば、昔の知井宮の場所は、出雲地方の東北
から北には斐伊川があり、西北から西へかけて神門水海があって、水郷ともいうべき
所である。換言すれば、知井宮は飽浪葦墻宮の名にふさわしい地形の場所を占めてい
る」と「古建築秘話」にあり、「斑鳩は、法隆寺伽藍縁起并流記資材帳には、「伊河
留(いかる)我」と記している。日本書紀には斑鳩と記し、斑鳩宮と斑鳩寺のことを
書いている。思うに、聖徳太子は推古天皇の小墾田宮よりも便利な場所に居らなけれ
ば、摂政の役目をなすことができないので、斐伊川によって、本陸から遮られている
小墾田宮からは離れた所にあっても、交通至便な場所に限る。知井宮は丁度、出雲大
神の南方であって、斐伊河や神門水海を距てた対岸の地であって伊河留我の名にふさ
わしい。
「聖徳太子伝暦」には太子が斑鳩宮にかえったとき、推古天皇はこれを快くしないと
ころであるとしていたので、そこで太子がいうに、「別宅に居るけれども、何ぞ以て、
あえて宿衛の下を離れるでありましょうか」と述べて、その後は、毎日駒に騎乗して
通い、政事を奏し、日々斑鳩宮へ還り、時人はこれを異とした、と記している。
 さて、斑鳩宮から小墾田宮までの距離は、これをみれば毎日騎乗で通勤し得る程度
であるらしい。思うに、その道程は十粁以内というところであろう。大和の飛鳥の地
から斑鳩町辺までは、おおよそ二十五粁程の道路で、馬でも無理といわねばならない。
いくら乗馬達者の人でも、毎日通勤することは、頗る困難なことといわねばならない。
時人異之とすと文献にあって超人的と解釈しても実行不可能な事は承服することがで
きない。また病弱な聖徳太子は超人的健康者でないようであり不可能事である。この
ことを出雲で考えてみるならば、小墾田宮(出雲大社)と、斑鳩宮(知井宮)との間
の直線距離は七粁程であり、この間には神門水海があるから、舟の利用も可能であり、
陸路でも乗馬で通ったならば、左程困難とはいわれないことである。この点からも考
察すれば、奈良県の飛鳥と斑鳩の距たりは、あまりにも遠きに過ぎることが判る。聖
徳太子が大和国に居住したということは、絶対真実でないとすることが、どうしても
常識からも考えられることである」
 梅原猛は日本書紀の記載通りに法隆寺の謎ときにかかり、聖徳太子を実在の唯一人
としている。が、伊東平左衛門の五十年に及ぶ解明で、イルカの宮が大和ではなく出
雲であって、聖徳太子は大和へは全然その姿をみせていないとすると、梅原猛のとく
処の聖徳太子とは誰だろう。
 出雲王朝の聖徳王の実存は明白にされているが、吉備地方よりの進攻で殺されてい
られる。
 死人が蘇ってまで聖徳太子となって仏教興隆のために大和に出現する訳などありは
しない。
 木村鷹太郎著作集にあるように、イエスキリスト降誕の話が中国に伝わり、それを
日本へもちこんできて、総人口の九割以上をしめていた縄文日本人つまり日本原住民
を宣撫するために、日本書紀では、聖徳太子は創作された理想の存在というように見
るしかできないようである。
 さて出雲風土記の御井社は、延喜式では、御井神社となっている。思うに、中臣金
連が祝詞を宣べたのであるから、それから神社になっていたのであろう。風土記抄に
は「漆沼郷直江村に在り」とし、この神社の祭神は木俣神とする。境内には、生井
(いい)、福井(さくい)、綱長井(つながい)の三つの井戸がある。が日本書紀で
は近江の三井寺と故意にとり違え変えている。そして、元亨釈書は、天智、天武、持
統三皇の産湯の井としている。これに関しては、江戸後期の日本書紀の作者の伴信友
も、「三皇ともに、大和で誕生せられたのに、何の理由あってか、おかしく想える。
三代も相続いて、はるばるこの出雲の地の井水を、わざわざ大和まで運び御産湯に用
い給うのであるか」
と疑って、まったく信じえぬこととしているのである。
 皇国史観の黒板勝美の前の日本書紀を纒めた伴信友でさえ呆れ、匙を投げている程
である。
 その日本書紀の崇神記の記するところは、武日照の命が天から将来した神宝が、出
雲の大神の宮に蔵してあるゆえ、天皇がそれを見たいといった。出雲振根がその神宝
をつかさどっていた。時あたかも、振根は筑紫の国へ往き不在であった。その弟の飯
入根が天皇の命を受け弟甘美韓日狭と、子の鵜濡淳(うがつくぬ)に、神宝を付けて
差し上げてしまった。出雲振根は筑紫から還ってくると、弟の飯入根が兄に相談もせ
ず、勝手に神宝を渡したあとであるから、それを恨み憤り遂に倒す計画をして、止屋
(やむや)の淵(塩治の淵)で共に游泳し、兄は木刀を用意しておき、水から上がっ
て、弟の真剣と取り換えて佩き、知らずに弟は木刀を取り、そこで相撃ち合った。弟
は木刀であるため、刀を抜くことができず、兄は弟の飯入根を撃ち倒した。ゆえ時の
人が歌っていうに、「やくもたつ出雲梟帥がはける太刀黒葛多巻き身無しにあはれ」
と、こうしたぐあいに日本書紀に書かれたことを、もし、その侭に解釈すれば、出雲
振根は、宝物を無断で他へ渡した弟の処置を怒って、肉親を害したことになるのであ
る。これは現代人でも想像もできない極悪非道のことである。
 しかし、個人的のことではなく、権勢にありがちな勢力争いであって、余儀なき骨
肉の争いとなったのであろう。日本書紀の出雲振根の行動は、古事記のヤマトタケル
の行為とは同じであって、振根が即ちヤマトタケルであると考えてみても、まぁ良い
ようでもある。
 故に神門臣古禰(ふるね)は出雲振根で、どうも本当はヤマトタケルの作り変えみ
たいである。
 また日本書紀では、郭ムソウ将軍が藤原鎌足の日本名となって国務一切を仕切り、
藤原王朝を創設した事を匿すみたいに、臆面もなく開き直った書き方をして、
「天智天皇の喪を郭ムソウ等に告げ、甲冑弓矢を郭ムソウ等に賜い、この日、郭ムソ
ウ等の賜いし物はすべて粗絹一千六百七十三匹、布二千八百五十二端、綿六百六十六
斤である」と記されている。
 これはまったくの作り話である。絹布や綿布は中国が本場であって、向こうから輸
入していた品なのに、それを贈って喜ばれたなどという事はありえない。本国へ引き
あげた筈の郭将軍は九州から五月には御所に入って、漢字使用令や積石供出令を布告
しているのである。絹、布、綿等、婦人の喜ぶ品を莫大に贈与されたことで、彼らは
満足して本国へ引き上げたとでているが、「白村江の戦いで大勝して日本へ進駐して
きたのに」、甲冑弓矢を賜いというのはおかしい。事実は取り上げられ、武装解除さ
れた事であろうし、粗絹や布や綿をだしたにしても、数がみな半端すぎるのは、御所
にあっただけを、すっかりみな没収されたものとみるべきだろう。何千も兵を伴って
進駐してきて布を貰っただけで戻る訳などないのは当然である。
 つまり郷土史家までが盲信的に金科玉条としている黒板勝美の日本書紀も、こうし
た矛盾だらけの辻つまの合わぬものである。だからして本当に古代史をやってゆこう
とす志す者にとっては、あまり参考にならぬ事はまぎれもない。(戦前の三省堂歴史
年表には郭将軍のことが詳しい)
 しかし前述のように西暦720年の第一次から始まって、次々と焚書され、そして
また時の権力者によって改め、また書き直されてきた日本書紀は、内容は如何であれ
国書としての必要性があったからであろう。でなければ今みられる決定版のようなも
のも生まれなかったろう。


高天原は無数にある

 宝塚といえば関西だが、別名佐与布の墓とよばれ出雲地磯長六陵の近くにもある。
出雲より名前だけ勝手に持ってこられた名残りであろう。居付地でオカミが二束三文
で払い下げたから故小林一三が買い占めて、宝塚少女歌劇団の劇場をつくって商才を
おおいに発揮していたのは有名である。
「継体王朝」は裏日本から帝を迎えて新王朝をたてたと早大水野教授はとくが、継体
帝の皇子安閑天皇はコシの国、つまり越前越中越後の親潮寒流がベーリング海から流
れてくる当時の白山島の渡来者の血統だった証明にコシつまり当字は古市、古志で、
越前高向の能登半島からの方が継体さまであるらしい。これも日本書紀では出雲なの
に大阪河内の古市としているが、河内は韓国のクダラのコロニーゆえ、その土地へ騎
馬民族の沿海州や蒙古、北朝鮮の者らが入り込める訳はない。当字をうまく使いこな
しての作為としか考えられはしないのである。つまり大陸勢力が、騎馬系の「四つ」
を手馴けるための政策で継体さまを立てたらしい。
 さて、

                 新 宮 殿
---------------------------------------------------------------------------
天皇名      宮殿名称            付記
---------------------------------------------------------------------------
聖武天皇   恭仁(くに)宮  久迩宮或は布当の宮人という。
                大宮の名称あり。清流、青山の地にあり、
---------------------------------------------------------------------------
全右     近求紫香楽宮   近江国甲賀郡紫香楽村にあり。
                琵琶湖に近い所である。
---------------------------------------------------------------------------
全右     難波(長柄)宮  味原宮ともいう。海辺の地にあり。
                今は大阪市内。
---------------------------------------------------------------------------

                 古 宮 殿
---------------------------------------------------------------------------
天皇又は    宮殿名称             付記
皇子名
---------------------------------------------------------------------------
舒明天皇    百済宮     出雲の大宮の名称あり。
                出雲の青山の地にあり。
---------------------------------------------------------------------------
斉明天皇の代
大海人皇子   淡海大津宮   出雲の宍道湖に近い所にある。
草壁皇子尊
---------------------------------------------------------------------------
孝徳天皇   難波長柄豊崎宮  出雲恵曇町附近の地と思われる。
                日本海の港。

との対比表を「古建築秘話」の199頁に、伊東平左衛門は判りやすくつけているの
である。

「出雲佐太神社では、十一月二十一日から二十五日まで、お忌み祭の祭事が行われる。
出雲地方ではお忌みさんと称している。これは出雲大社に集まった怨念の八百万の神
々が、この神社に立寄られて相い集われ、そしてまた一斉にたち去ってゆかれるを称
しているのである。
 出雲大社の方にも御忌祭がある。旧暦十月十日、神迎祭が行われ、翌十一日から十
七日までの七日間、合せて八日間出雲大社に神集いがあると、神在祭(かみありさい)
が行われる。日御崎神社でも同日に神在祭が行われる。故に素戔嗚尊が祀ってある神
社で行われると称してよい。古来旧暦十月を神無月というが、出雲では神在月と称し
ている。この祭事中には、謹慎斎戒、歌舞音楽を停止し、庭を掃かず、春杵きもせず、
最も静粛に祭祀をするという習慣になっている。旧幕時代まで、出雲大社の勢力をそ
ぎ取るため、佐太神社を盛大ならしめる政策を取ってきたので出雲大社の御忌祭を、
佐太神社にもなさせたのだ、との説もある。旧幕時代には政策として、御忌祭を双方
に行わせたかどうかは判らないものであるが、佐太神社にもお忌み祭を行うことの理
由があったろう。また両神社に御忌祭があるのが敗戦国の出雲として当然のことだろ
う。
 お忌み祭りとは、思うに忌中の祭事での祭の意味である。歌舞音曲の停止につき想
い出すことは、明治天皇、大正天皇の崩御の際には、諒闇と称し、国内一斉に歌舞音
曲を停止し、国民悉く喪章をつけ、謹慎静粛にし、哀悼の意を表わした。まずこれと
同様のことを、祭事として毎年繰り返えされてきたのが、御忌祭であるとみるのが妥
当であろう。察するに、素戔嗚尊が他界したので、その葬儀が執行されたことを、祭
事として毎年続けてきたもののようである」
と「お忌み祭」前記書の200頁には出ているが、この出雲佐太神社の北側に、難波
宮がある。
 日本書紀では今の大阪にあったものとするが、その以前に出雲に難波宮は存在した
のである。
 なにしろ宮とか社とか寺といって区別しても、往古は大きな建物であれば住居とす
れば宮殿。神祇の一室を設ければ宮か社。仏像をおけば寺となってしまうから、佐太
神社にしても、難波宮の別殿を社に変えたものらしい。また佐太大神は猿田彦ともい
われるが、孝徳帝らしい。
「隠れ丘」といわれるスサノヲさまの前方後円墳は、島根半島西海岸の山頂にあり、
「大坂」とよばれ、古墳のあたりは「山崎」という。のちそっくり日本書紀に合せる
為に関西に移入。
 今でも各都市で住民の意向を無視しても、地名変更を強行している処が多い。どう
もこれは伝統精神かもしれないが、大和や京、大阪の地名が悉く出雲よりそっくりそ
の侭で移し変えられた日本書紀は、第三次の勧学院派創作のものらしいが、巧妙に作
為されているのはえらいもの。
 しかし五十年に及ぶ実地探索で出雲がまぎれもない古都で、高天原であると解明さ
れると、富士王朝の高天原。近江琵琶湖弁天涯の高天原。それに日本書紀で一般化さ
れている高千穂峯の高天原と、すくなくも四つ以上があるし、これに白山王朝高天原
も実存は明瞭ゆえ五つとなる。
 日本全体の統一がまだとれていない古代ゆえ、各地に王朝があって、後世それぞれ
を高天原と称しても差つかえはない。なにも高天原を一つに搾ってしまう事はない。
問題は、それが何系の高天原であるかということではなかろうか。判りやすく列挙し
て解明をしてみれば、
@高千穂高天原‥‥天孫民族が空から降りたったという日本書紀の記載で、学校
         歴史となる。
A出雲高天原‥‥‥ヤマトタケルの死をもって滅ぼされ継体帝はのちにでる裏日本
         騎馬民族系。
B白山高天原‥‥‥白頭山信仰を白山信仰に変えた日本海渡来の、菊理姫の裏日本
         騎馬民族系。
C富士高天原‥‥‥宮下文書で有名な黒潮渡来の太平洋沿岸に這い上がった古代
         海人族八幡国群。
D近江高天原‥‥‥最後まで中ツ国の吉備王朝と戦い弁天涯より投身玉砕した最後
         の天の王朝。

 もちろん、この他にも東北に追われた日本原住民を組織化し、クダラ人征東大将軍
紀ノ古佐美の率いる五万の大軍を北上川で全滅させ、鉄武器を奪って田子の浦へ攻め
込んだアテルイ。
 江戸時代の奥州の義満が鹿島神宮へ奉納したアテルイの首を、河北新報が複製して
水沢市と多賀城市東北歴史資料館に「悪路王の首」として寄贈されているが、夷(胆)
沢城主として、「アテルイ王朝」を藤原王朝から夷として東北へ追われた日本原住民
の大同団結をはかり、強力な王国を作り延暦八年(789)から十二年間にわたり、
攻め込んでくる坂上田村麻呂と次々戦ったのだが、大陸の援助で鉄製武器を大量に補
給された進攻のクダラ部隊に制圧され滅びた。
 アテルイは今の大阪府枝方市の杜山まで連れてゆかれて斬首、さらし首にされたが、
東北に残っていた残党やその妻子は、大きな穴を掘らされて生きながら埋められ惨殺
されたのは、パレスチナ難民の群れをユダヤ人のイスラエル兵が皆殺しにしたのと、
まるで同じ状態だった。
 ただ違うのは、生き埋めの上に土をかけ、その上を出てこられぬように降伏し奴隷
となった者らに踏みつけるようにさせた。これが今の東北三大奇祭のネブタ。つまり
根(死)の国へ追いやる為の土かぶせの蓋ゆえ、そっと踏んづける恰好をするだけの
踊りで土地の各会社より寄贈の、坂上田村麻呂の山車が賑々しく色どりをそえる。エ
ルサレム難民が、惨殺を指揮のキリスト教右派の少佐の山車を担ぎだしワッショイワ
ッショイとは、まさかやる訳はないだろう。
 万邦無比の日本人の勤勉さというのも、真実は反抗すれば反体制として徹底的に苛
められ、非国民扱いされるから、やむなく奴隷的従順さでオカミの言いなりになって
きた伝統だろう。
 犬は他へ貰われて行っても、もとの主人を恋しがってまた戻ってきてしまうといわ
れる。
 ところがアメリカの奴隷だって、A家で可愛がられていてもB家は奴隷商人に売ら
れてゆくと、いくらA家が恋しくても戻るような事はない。牧師にお説教されるみた
いに、主のお召しがあるまでは、つまり自然死をするまでは、いくら仕事が辛くとも
自殺などせず一所懸命に働け。御主人の言いなりに、なんでも抗らわずに仕事をせね
ばならぬというのが黒人讃歌なのである。
 かつて「戦陣訓」で「虜囚の辱めを受くるなかれ」とされ、野戦病院の動けぬ患者
にも自決用の手瑠弾がわたされた。何故かといえば戦奴の日本兵は親方日の丸の時は
絶対服従だが、捕虜になると、今度は親方紅旗であって学歴のあるのは延安へ送られ
野坂参造の教育をうけた。
 そうでないのでも、飯を喰わせてもらっている義理なのか、捕虜にされたのは、す
ぐさま勝手知ったる味方の陣地へ手引きをして、先頭にたって真っ先かけて突入する。
 文禄の役でも、加藤清正を篭城にまで追い込んだのは、降倭とよばれた旧日本軍だ
った。
 特別攻撃隊として日の丸や海軍旗をふられて出撃した筈の捕虜第一号となったS大
尉は、「姓名S、認識番号は何番」とだけ答えればよいものを、進んで今日からは、
かえりみなくて親方は星条旗とばかり、海軍特別暗号から日本海軍の微に入り細にい
ったレポートを提出した。
 のち山本五十六元帥を撃墜した時には、勲章代りにシャンペンを届けられたとさえ
伝わる。
 戦奴の兵だけでなく大尉でさえ、好かれようと媚びるみたいに、奴隷根性その侭で
ある。
 だから捕虜にされたら将棋の駒みたいに、進んで向こうの機嫌とりに使われる国民
性ゆえ、「捕らえずに自滅してくれ」と口封じに、身動きできぬ怪我人さえも自殺さ
せたのが皇軍。
 どうして国民性が万邦無比な奴隷根性なのか?という根本的な問題を歴史屋が解明
しないから、軍人は、その奴隷性の謎ときはせず、忠誠心と解釈して、ぶん殴る事で
鍛えに鍛えた。
 つまり言って聞かせるのではなく、殴打することで命令に従わせ軍隊の末端に組織
化した。
 七世紀から始まった藤原王朝の日本原住民捕虜奴隷制が今の20世紀になって続い
ている。
 だから日本の古代史は、縄文時代が武力で弥生時代に変えられた七世紀以前を調べ
てゆかねばならない。が日本書紀や古事記などは藤原王朝になってからのもので、し
かも江戸時代に完成というか出来たものだが、この徳川時代史というのが明治新政府
が解明をぜんぜんせずに、華族会長に徳川公爵がなり史学会を統轄したので、徳川家
の会社の社史みたいなものがその侭で確定史料。家康は世良田の二郎三郎だったこと
も、死人に口なしの侭で押し通されている。
 藤原王朝の公家日記も戦国時代の山科言継や山科言経父子の日記ぐらいしか信用は
おけぬ。
 火山灰地だったのが農地に変わった坂東八ヶ国を、各々その荘園にせんと討伐のデ
ッチあげの天慶の乱のごときは、当時の公家の日記が将門の乱とするも、己が領地に
したからのゴマカシである。
 だから「何処に出ている」「何処にも書かれている」といったのは、まったく信用
できぬ。
 書き残されたという事は、恰好づけというか、そうせねばならなかったせいも思う
べきだ。
 それゆえ「‥‥によれば」と援用するのは、そのお先棒を担ぐだけにすぎないだけ
の話。
 なのに歴史の話となると、きまって何々によればと裏書みたいに引用援用され、勿
体をつけるみたいに信頼性をつける。これはダマシである。「古代建築秘話」にある
みたいに、出雲の地名がそっくり関西に移されて地名変更されたものなど、曳っぱり
だしてきて立証しても、今では嘘の積み重ねみたいになってしまう惧れさえある。だ
から、史書を読むより、常識に頼るべきだ。
 そうでなくては次々と権力者によって書き改められ、都合よくされ伝えられてきた
もので、真実の古代史の解明などは到底できはしない。安易に日本書紀などを絶対視
すべきではない。
 もちろん調べるのは自分の足と眼で、それで自分の体内の血の流れによる常識によ
って、それを判断してゆくしかない。つまり日本書紀を一として、そこから始めたの
では駄目で、ゼロから出発してゆかぬと、聖徳太子が出雲の聖徳王の名を借りた何者
かも判りはしないのである。


古事記は江戸期の改作

「ウエツフミ」が戦後評価されだした。できた貞応二年二月というのは北条平政子の
命令で、御所を占領後鳥羽上皇を隠岐の土牢、順徳上皇を佐渡岩牢。土御門上皇を土
佐の石牢に幽閉。
 公卿の主だった者は斬首され、御所の南北から六波羅探題がおかれ見張られた翌年
のこと。
 大友能直が「出雲国造上世記」「常陸鹿島国造文」「夷津加茂三島伝書」「尾張中
島逆手記豊」「伊勢度会文」「摂津住吉大余座記」「肥後八代県文」「阿波田村記」
「筑前後老家文」「前後老家文」「薩摩霧島記」「越白山舟人文伝書」によって、構
成された内容であって、「上記」とも書くウエツフミは完成させられた。
 ところが、その前の平清盛の時に、常陸から第三次日本書紀つまり勧学院派の九世
紀のものが多賀城にあったと、献納しにきた者がある。
 みれば藤原王朝を天孫民族となしたもので、唐や韓国よりの大陸人を良とし、それ
以外は賎とされているのに立腹し、賞められるつもりで探し出してきた者を、清盛は
斬首にしてのけ、「改めて書き直せ」と、天(あま)とは、つまり古代アラブの水を
意味するゆえ、熊野浦に集団で入ってきた平家の一門新平家こそ、天の一門なりと書
き直させて第三次日本書紀を焼いた事は、兵庫県神戸西宮の荒深道太郎の研究による
「綜合古事記純正講本」の32Pにもふれている。
 この第四次日本書紀は壇の浦合戦で、恐れ多くも安徳帝の御座船にあったのを、梶
原源太が入手して、北条政子に奉ったのを平家一門でも新平家でなく、紀元前から漂
着の古平氏で夷津[伊豆]の夷頭[伊東]で漁業をしていた政子が、改めて、古平家
日本書紀を大江広元に書かせたが、北条時宗の時の元寇に際し用心して、門注所や記
録所文書と共に焚書されたのは前述したとおりである。
 が、大友能直が下敷にした各文献が一部でも今でも残っていれば、第四次第五次の
内容も判るのだが、反藤原体制のものゆえ北条時代が終ると、すべて焚書されるか書
き直されてしまい、「ウエツフミ」に援用された各文献は、明国の属国にされていた
足利時代に没収焚書らしい。
 が、その代り、住吉もんとか八代もん、中島もん、加茂もんといった称号が今も残
される。もちろんウエツフミに出てくるからと崇められたのではなく、被差別用語と
してである。