1062 古代史入門 14

No.3 出雲王朝高天原

 昭和三十七年に鳳書房から刊行された「古建築秘話」は日本書紀に合せているもの
の、まことに日本通史を裏返している点では、貴重な、希有な建築学上からの伊東平
左衛門の後世に残したい研究書であるが、刊行書房は廃絶。遺族は著作権法を楯にと
って覆刻を許可しないそうである。こうなると研究者には、実に残念で堪えられない
ことである。
 伊東家は慶長年間から三百余年続いた宮大工で、伊東氏は大正十一年、十一代目を
継いだ。全国の寺社の設計、建築二百四十件を手がけた。代表作に出雲大社の拝殿下
谷神社(東京)などがある。二十八年にはニューヨーク近代美術館庭内に展示する日
本の古典住宅の建築を担当。四十五年勲五等瑞宝章。長男要太郎氏は中部工大教授で、
文化財の保存技術の研究者、二男延男氏は文化庁建造物課長という立派な御一家のせ
いからであろう。
 さて、伊東平左衛門氏他界の節の中部日本新聞の当時の死亡記事をみれば、頑なに
遺族が、研究者には渇望の幻の本が陽の目をみないのも、こうした立場の遺族をもっ
ていればやむを得ない。せっかく故伊東老は心血を注ぎ一冊でも読んでもらいたいと
出版したが、あわれ黙殺されたままで、再版もできなくては故人は死んでも浮かばれ
まい。著作権法は有難迷惑である。
 昭和三十七年といえば四六版並製の本の定価は百円から百二十円。上製でも二百円
であった。
 七百円の定価は三千部ぐらいでも高くて売れず鳳書房は倒産したが、今のように神
田の書店が第二流通機構を独占支配していなくて、特価書籍とか特別定価といったゾ
ッキの本屋のあった頃ゆえ、三千部のうちで二百部は知人に贈り取次経由で書店で売
れたのが刊行部数の一割。残りの二千五百部が定価の一割でゾッキ本で卸され、倍の
売値でも消化できず一冊二十銭でつぶされ、この貴重な本は残されたのは四、五百部
で、後はトイレットペーパーの製紙原料にされてしまったらしい。良貨は悪貨を駆逐
するというが、こうした良書は復刻されない限りは、まったく消滅してゆくのである。
さて何故こうなったかの理由を改めて尊敬しつつ、ここで書く。
 伊勢皇大神宮は昔から「宮」がつくから誰も何も考えず、明治神宮ができてから
「宮」は、初めて畏れ多い存在と一変した。しかし元来が、社と宮とはまったく違う
のである。
 かしこくも御所におかせられても皇位継承の御方には「宮号」はおつけにならない。
もっとも拝む方にしても「社」はカラ神つまり韓国系のカラ神さまであって「宮」と
つくのは、反韓国系つまり海洋渡来の黒潮による日本原住民のものとされ、それゆえ、
一般の原住民の末孫は、それゆえ「お宮詣り」とはいっても、決して「お社詣り」と
は今でも言わないのである。
 明治大帝の神宮ができてから、徳川五代将軍綱吉の「神仏混合令」の法制化みたい
に今では、かつての区別がもはや、すっかり混同されてしまって「宮大工」が、さも
「寺大工」よりもはるか上位のごとくにも誤解を与えているけれど、これは違うので
ある。
 山に自生の樹木を切り、炭焼き羽柴木売り、そのまま植える造園業。その樹木や草
からの昔の染色業は、日本原住民の限定職として幕末まではっきりと区別されていた
が、宮大工は日本原住民系である。織田信長だけは部落解放のために、岡部の又左と
よぶ宮大工に、バテレンの設計図で安土城を造営させて築城をさせはしたものの、信
長の死後になると、またもとの侭の被差別の対象にされてしまったのである。一説で
は岡部の又左は、もとの徒弟だった加藤清正に引き取られ、肥後にゆき晩年は死ぬま
で土木工事や建築の監督をしたとも伝わる。
 しかし寺大工というのは、当初は日本海を渡ってきた高麗人の高麗尺によって建築
や後にいう「さし物」つまり今のハヤミズのような家具や戸襖を作った舶来職人で、
宮大工の上だったようである。後に江戸時代になって、貞享二十年代以降になって、
五街道目付が赤の道(堂)の者のハイウェイパトロールになった。同宗の赤の「八つ」
の者は伝達をつけてもらい都市へ流入した際に、金をだして町人別を購入したり、永
代供養料を納めて寺人別に入った者の他は、当時はもはや人べらしの行革で、人別に
は入れなかったのは、無宿者として、公儀は佃島と千葉へ強制収容し、今でいえば職
業指導をした。が原住民は限定職なのに公儀の方針として指物師やふつうの大工の徒
弟の訓練。つまり仏を信じさせ舶来業につくように寄せ場でしたので、江戸後期にな
ると、まったく区別が混同してしまった憾みがある。
 しかし、地方では宮大工というのは獄門台や張付柱といった被差別課役だけを強制
的に押しつけられていたのである。つまり「宮」は大工でも地方では仏教側の被差別
語だったのは紛れもない事実である。
 それが明治神宮の御名から、大正時代より誤られて由緒正しいもののごとく誤伝さ
れだしているのを、その家柄の者はよく知っているので、宮大工とよばれるのを、日
本原住民史が解明されていなかったので誤って、みな誰もが極端に忌み嫌ったものら
しい。
 つまり時代の変遷で北条政子や織田信長の時代は、部落解放で宮大工がすべての工
匠の頭梁で輸入宗教の仏教の寺院などは蔑んで建立しなかったが、五代将軍の神仏混
合令の発布からは、社有地や社領のある社や宮も坊主の被占領物となり、明治になっ
ても大阪の四天王寺などは凱旋門のように鳥居を、わざわざ持ってきて建てたのを残
していた。廃仏毀釈で荒らされ寺の像が毀されるのを防ぐ為もあったという。
 伊東平左衛門の「古建築秘話」では、法隆寺の各寸法をカネ尺の9寸8分に1.2
を掛けた曲尺1尺1寸7分6厘の高麗尺で割ってゆくとぴったり割りきれるゆえ、こ
の建物は、「大化の改新」以降の諸建築物は唐尺で作られているゆえ、騎馬民族[八
切説は江波教授説とは異なる]の高麗尺が使われたのは、日本海をば渡ってきた日本
原住民の制作したものであって、当時は奈良が都ではなかったから、日本海の出雲に
建てられていたものを、攻め滅ぼし戦利品とし権力で移したのだと主張する。
 ベーリング寒流は、沿海州や高麗の羅津から日本海を渡って、新潟や能登半島に突
き当り、そこで二つに分かれて右へ行けば岩手、左へ向かえば出雲だから、あながち
仮説とはいえまい。だから原文をその侭に紹介すれば、
「奈良の法隆寺が昔ながらそのままで現代まで残ってきたものだと思っている人が多
いようである。一万円紙幣には、聖徳太子と、夢殿の絵が印刷されているので、あた
かも聖徳太子が、現今見られるような夢殿の内に起居されたようにも想像されている
ようである。かように簡単に考えて、それが間違いでないとして、済ましてしまえば
甚だ安易なことであるが、しかし、それは真実でないことを銘記しなければならない。
法隆寺については、今を去る七十数年の前から、既に疑問が起きていて、次に再建説
と非再建説の両論に分かれ、以来その論争が、激しくしのぎを削り合ってきている。
再建論というのは、天智天皇九年に全焼し、その後において再建されたとして、法隆
寺建築のみならず、同寺所蔵の芸術品までも、推古天皇の時の作品とはいわれない、
とまで発展させてゆく。非再建論は、焼けないものが残っているのだ。法隆寺は焼け
たことはあったとしても、それは若草伽藍と称せられる堂と塔とであったのであろう。
現今残っている堂塔は、創建そのままの法隆寺の伽藍の一部であって、決して焼けた
ことのないものである。正に推古天皇の時の作品だ」
と主張する。
 ここに一言したいことは、非再建論の内に、建築物の尺度を測り、それで年代の限
界を調べようと試みたことがあった。これは建築史内に、数理による科学的要素を加
えようとした画期的な方法であった。即ち、高麗尺を算定し、法隆寺建築のみならず、
各古建築の各部寸法を測り、高麗尺を当てはめ、各長さに完数を求めて、建築当初の
設計を推測することである。そこで高麗尺を、曲尺の九寸八分に、1.2を掛けた曲
尺の一尺一寸七分六厘と定めて、法隆寺建築の各寸法を測定して、これを高麗尺の尺
度で割ることによって完数を求め、これにより、おおよその一尺一寸七分六厘を尺度
とする物差を用いて作ったものと認め、そして高麗尺は騎馬民族時代に用いられ、大
化改新以後は唐制にならい、唐の大尺を採用し常用したのだから、高麗尺を用いた法
隆寺建築は、推古朝の頃に日本海に面し建造されたものに相違ないと結論した。これ
は非再建論に決定的優位を与えたようにみえたが、こぞって実際は反対された。
 反対論の大要を述べれば、法隆寺等の古建築が高麗尺により設計されたと信ずべき
としても、大化を以て、高麗尺と唐大尺との使用の限界となるとは、それは単なる反
仮説である。故に高麗尺で作られたとしても、大化以前のものとする根拠とはならな
いというのだそうである。
 この尺度論につき、いささか私見を述べれば、寺の建築物は、物差を用いて作らな
ければ建てられないと称してもよいのであるから、古建築に尺度を当てはめてみるこ
とは良策といわなければならない。しかし近世建築ならば可能性も多いが、法隆寺建
築のような工作法上頗る粗な建造物に、尺度を求めることは困難である。解体したと
き、引き墨を検討すれば、比較的正確さを期することができるが、建っているその侭
のものから、建物の寸尺を測って、正確な寸法を求めることは非常にむつかしい。
 また、高麗尺は、文献によれば、大宝令前の尺であっても、推古朝に用いられたも
のだということは断言できない。ただ想像により、後魏の尺が用いられそうなものだ
と思うだけである。高麗尺は東後魏尺(東魏尺)から出たものだと称せられる。高麗
は東後魏に近かったからでもある。東魏尺は後魏大和尺と同じであることは、文献通
考によって解る。そして後魏尺は、曲尺の八寸程ということも判る。故に東魏尺を小
尺とした大尺の長さは、約曲尺の九寸六分とみてよいのである。そして令集解に記さ
れた、慶雲三年九月十日格により、高麗尺は唐大尺より僅かに短いことが推理される。
唐大尺はおよそ九寸八分位と思われるので、高麗尺は曲尺の九寸八分よりも、少し短
い尺度であることが判っている。故に曲尺の九寸六分程でよいのであるから、ここさ
え理解すれば一目瞭然。
 東魏尺につき数字的説明を左に記すこととする。
『文献通考』に記された東魏尺は、実比晋前尺一尺五分八毫(もう)である。文献通
考の書物の中でも、誤植のものがあり、それには実比晋前尺一尺五寸八毫としている。
この誤字の文献を盲信し、その上、晋前尺を八寸と仮定して次の如く計算した。
0.8尺×1.5008=1.20064尺
これを以て、高麗尺を曲尺の一尺二寸だと推定の誤説が信じられている。だが、これ
は研究不足というものである。特に文献は選択に心掛けねばならないもので、徒らに
盲信することは大禁物である。東魏尺は実比晋尺前尺一尺五分八毫であり、そして晋
前尺は、曲尺七寸六分と推定をなしているから、東魏尺は、
0.76尺×1.0508尺=0.798608尺
と、江戸期の狩谷掖斎の計算によってみても、東魏尺は約曲尺の八寸程であるのが正
しい」
と、専門的な立場から、つまり1メートルが曲尺の三尺三寸から推して法隆寺なる建
物は、仏像をおいたから奈良へ移送され寺に化けたが、もともとは出雲で建てられた
王宮で、制圧され勝利品として奈良へ解体して運ばれてきて、韓国人か中国人の工匠
の指示で、改めて建て直されたものとみられる。つまり法隆寺は出雲より運ばれてき
たものであることが、はっきりする。
 そして木村鷹太郎は、厩戸で生まれたといわれる聖徳太子の存在は、イエスがやは
り厩で生まれたという降誕とあまり相似しているから、これは日本の聖徳太子伝説は
キリスト教を巧く利用したものではないかと、俗にイエスさまと崇められるのは吾が
聖徳太子ではあるまいかと、「海洋渡来日本史」[日本シェル出版]には書いてある
が、伊東平左衛門は、いわゆる日本書紀にでてくる聖徳太子は、寺の仏教信奉者によ
って創作された架立の存在であって、本当は建築寸法から割り出しても出雲で法陵宮
にあらせられた聖徳王を殺してから、その名をとったというのである。
 科学的な理づめの尺貫法で、いまの法隆寺や夢殿建築のものは天孫系と称するトウ
製ではなく、親潮寒流で羅津からの、滅ぼされた日本原住系らの出雲でも建築物と立
証されてしまうと、壱万円札の聖徳太子の有難味も虚像となってしまい、むなしくな
ってしまう。


聖徳太子と出雲の聖徳王

 古代史としては聖徳さまが何人もというのは、日本古代史入門には欠かせぬゆえ引
用をする。
 古来工匠(大工職)は、その技術が聖徳太子から伝えられたものだと思って聖徳太
子を祀っていた。そして二月二十二日をその命日として、礼拝供養する習慣があった。
なるほどこの日は法隆寺の上宮聖徳法王(今いう聖徳太子)の命日である。
 しかし、日本書紀では、聖徳太子薨去の日は、二月五日としている。法隆寺の諸文
献は、いずれも二月二十二日薨逝である。これらの文献が、いずれも正しいとしたな
らば、「聖徳太子は二人あった」ということになる。これが重要な手掛かりの一つで
ある。「日本書紀に記された聖徳太子は、厩戸豊聡耳皇子」なのに「法隆寺の聖徳太
子は、上宮聖徳法王である」名が違っているばかりでなく、人間性に関し、同一人で
ないことが解る。上宮聖徳法王は大海人皇子であり、天武天皇であるかとも解ってく
る。
 法隆寺再建、非再建の両論は、共に法隆寺創建を、厩戸皇子である聖徳太子が行っ
たとし、これを疑っていない。これがそもそも根本的な誤りである。創建した上宮聖
徳法王が、厩戸皇子と別人であるのだから、再建だ、非再建だと騒いでみても、中心
の外れた見当違いのことで、論争しただけのことである。根本問題を究明せず、全貌
を把握することもなくして、枝葉末節のことを取り上げて議論したことは、あたかも
群盲が大象を撫ぜて、自説を固執したことと同様だと、批判されても、致し方のない
ことであるが、真面目に研究をして得たことは貴重である。

         厩戸豊聡耳皇子と上宮聖徳法王との比較
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対比事項  日本書紀によると、      法隆王朝最後の王 贈銘 東宮聖王
      厩戸豊聡耳皇子         出雲 上平聖徳法王  流紀
                                 帝説
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薨去日   推古天皇二十九年辛巳二月五日 釈銘 帝説
                     法興元世一年の翌年壬午二月二十二日
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王后    菟道貝鮹皇女         釈銘    帝説
       父は敏達天皇         于食王后  膳夫人
       母は豊御食炊屋姫尊            妻膳大刀自
         (推古天皇)      膳大娘
                        出雲ノ国ノ高橋ノ臣ノムスメ
                        でカシハテノ臣トモ名ヅク
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講 勝鬘経 推古天皇十よ年丙寅秋七月   流紀、帝説では後世は、戊午年四月
講 法華経 司 十四年丙寅        十五日法華勝鬘寺塾
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所領水田  播磨国水田町         流紀によれば、
      (推古天皇時の百町は大宝   播磨国佐四地五十万代としている。
      律令の百町と同一面積であ   (政事要略日
      るか否かは不明)        五十代興令段歩積一同、即ち
                      百町歩は五十万代)
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水田施入の 斑鳩寺            流紀では、出雲の伊河留我本寺、
寺名                   中宮尼寺、片岡僧寺
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父     用明天皇           敗戦にて王は死別し不明
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母     穴穂部間人皇女        中宮(出雲の御方)
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叔母    推古天皇 即ち用明天皇の   敗戦にて大陸人に殺されて不明
           同母妹
           欽明天皇の中女
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王子    書紀には王子の事をわざと   王子は十四人あらせられる。
      記さず。山背大兄は舒明紀   帝説には詳しく出雲で殺したのは
      に「山背大兄は斑鳩宮とあ   膳部加多夫右臣女子名菩岐岐美郎
      るけれども、厩戸皇子の王   娶る生児。春米女王。次長谷王。
      子とは言えない」と否定し   次九波多女王次波止利女娶王。次
      ている。           三枝王。次伊止志右王。次黒呂王。
      山背大兄の叔父が田村皇子   次馬屋古女王。蘇我馬右叔尼大臣
      となす。又「犬安寺縁起で   女子名負古郎聡女ノ生児。山代大
      は、上宮皇子命じて言う田   兄王。次財王 次日置王。次片岡
      村皇子愛哉善哉汝男自来問   女王。
      吾病はいかん」とあり田村   尾治王女子位奈部橘王娶る。生児
      皇子は厩戸皇子の甥で、即   白髪部王。次手島女王。
      ち兄弟の子に当るとすれば、  合計聖王の遺児は計十四王子であ
      田村皇子の甥に当る山背大   る。
      兄が厩戸皇子の王子でない   と明記して、出雲で大陸派遣軍に
      ことは明らかである。又日   よって、みな殺しにされたもうた
      本書紀に、二十九年春二月   と、御名を列記している。
      己丑朔発巳半夜厩戸豊聡耳
      皇子命は発病。斑鳩宮に歿
      す。是時諸王諸臣及天下百
      姓はみな哭くとあるが、王
      子の事は記さず。つまり厩
      戸豊聡耳皇子には王子は無
      いとすべきである。つまり
      0人である。
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 つまり法隆寺の創建の上宮聖徳法王は、大海人皇子らしいようにもとられるが、大
津宮に住んでいた。この大津宮は、淡海大津宮であって、天智天皇が遷都した近江宮
とは異なっていなければ理論が立たない。この故に、淡海を出雲の宍道湖とし、近江
は琵琶湖とし考究してゆくべきである。
 出雲は太古の頃は解らないとしても、欽明天皇の頃から、大海人皇子の頃までは、
わが国の首都があり、大国主命がいた都であるが、これを非常に古いことのように考
えていることは、大きな錯覚である。大国主命は、恐らく、飛鳥の時代に活躍した王
とみるべきである。これを信仰上の点から、あるいは非難を受けるかも知れないが、
真理を探求することは、信仰とは別物である。異なった方向を辿ることも、やむを得
ないことである。嘘としか思われない程の突飛な説であるが、大海人皇子へは、大国
主命の思いを廻らせてゆくべきである。これが法隆寺建立発願の根本問題であろう。
大海人皇子が、用命天皇のために、法隆寺を建立したとすれば、その動機は明瞭では
ない。用明天皇は池部天皇であるが、池部大宮御宇天皇ではない。それは山背大兄王
とすべきであり、薨去の後は神として封じ込め、大国主命、大黒様と称したのだと思
ってよいのである。後に詳記するが、もし大海人皇子としても、当然のことである。
出雲には大国主命も、大海人皇子も居たのであるから、飛鳥の時代は出雲に始まり、
天武、天智両帝の時に国譲りつまり征服されてから大和地方に移されたばかりでなく、
出雲の地名が、みな地名変更で大和へ移っていった。後に至って出雲の各地の名は、
大和の地名を顧慮し、色々と変更を加えられた。かように考察するのが真実そのもの
である。
 と、伊東氏はその著の中でのべ仏教側で創作した聖徳太子は上宮の聖徳王からのも
のとし、現に出雲大社町の稲佐の浜の近くに、今も上宮(かみの)という地名が現存。
また出雲大社町日御崎の浜に「厩島」とよぶ地名があり、日本海を渡ってきた騎馬民
族の放牧地で、稲佐には、島へゆく船つき場があって、往古にはここを「厩戸」とよ
んでいたという。
 現在は出雲市に合併されている大津町は、古代には淡海大津宮のあった処で、斐伊
川と神門水海とが一つになる宍道湖の淡水海であった処で、「出雲王朝の大津宮殿」
の遺跡とみられる。
 揖屋とは松江市と米子市の中間、八束郡東出雲町揖屋である。出雲風土記の余戸里
に含まれ、ここには伊布夜社として記された神社がある。延喜式には、揖夜神社(い
ふやのやしろ)となっている。日本書紀には斎明天皇五年、「狗、死人の手臂を言屋
(ふやの)社に噛み置いた。言屋、これをば伊浮という。天子崩じます兆である」思
うにこの地は、斎明天皇の由縁の地である。天皇は朝倉宮で崩ぜたようにみせかけ、
密かに出雲へ帰り、揖屋において、戦を避けて閉棲したと解せられる。死んだ筈では
あるが、揖屋へ戻っていたことを、崩御前にもう記事に書いた事が察せられる。よっ
て斎明天皇の時の都が出雲にあったことは、これを以てしても、はっきりと推察し得
る。


 舎人(とね)郷と出雲風土記に記されている。意宇郡の内の郷名である。現今では
安来市中央部に相当する処である。欽明天皇の御代に、倉舎人君達の祖の日置臣志毘
は大舎人として仕えた。志毘が住んでいた郷であるから、舎人という、と出雲風土記
は記している。欽明天皇の宮殿は、この郷の付近であって、その大舎人がここに住ん
でいたのだから郷名となったと解すべきである。
 玉造も八坂瓊曲玉を作った処といわれ、温泉としても、出雲風土記に載せられてい
る。大阪市の玉造よりは古い名称の地で、元祖というか移されてある筈。四天王寺は
玉造東岸上に、創建されたといわれるから、出雲玉造の宍道湖岸が、その初めて建て
られた地であるべきである。
 聖徳太子と今では誤られている聖徳王が、攻め込んできた大陸軍との奮戦の地とも
いえる。
 神守(かんもり)の地名が、大津町付近の地である。上古、宮中に奉仕した者に掃
部があった。掃部の居た処が神守と転訛したものだといわれている。出雲風土記の出
雲郡には、加毛利社と怨念封じこめ神社がある。この地の神社のことである。思うに、
昔は出雲市付近に聖徳王の「淡海大津宮」があったのだから、その掃部が住した土地
に、その名が残ったものとして差つかえない。
 阿宮は大津町から、斐伊川をさかのぼった処で、川の沿岸の景勝地であるから、淡
海大津宮の別宮とみてよい所である。出雲風土記に、阿具社を記している。付近の仏
経山と共に、天穂日命に由縁がある場所といわれる。天穂日命は大海人皇子だとする
日本書紀をば信用すれば、もしそうだとしても阿宮は、その別宮殿の一部だと考えた
い。

 出雲風土記に河内郷の名称がある。斐伊川の河の内にある郷の意のようである。想
像するに、斐伊川、神門川の間の、下流の地域を河内と称したこともあるのではなか
ろうか。河内磯長は御陵の在った処である。河内郡は大和遷都後において。同名が関
西でつけられたと考えたい。

 また出雲風土記には、健部郷を記している。これについては、健部となづけるわけ
は、纒向桧代宮御宇天皇(まきむくのしろのみやにあめのしたしろしめししすめらみ
こと)(景行天皇)勅せられて、「朕の子の倭健命の御名を忘れないようにしたい」
と仰せになり、健部を決められた。その時に、神門臣吉弥を健部と定めになった。即
ち健部臣等は、昔から今に至るまで、ここに住んでいる。それでこの郷を健部という
と言うように記している。これを側面から考えてみれば、日本海沿岸へ入ってこられ
た処の騎馬民族の景行天皇も、ヤマトタケルも、実際は大和でなく出雲に居られたと
いうことになる。

止屋(やむや)は出雲風土記には、塩治(やむや)郷としている。止屋淵は倭建命が
出雲建を誅した場所であり、また出雲振根が、弟飯入根を害した所で、物凄い魔の淵
を思わせる処のようであるが、現今では斐伊川の流れも変わり、神門水海もなく、陸
地ばかりであって、塩治には現今の地形では、それを思わせる処は見当たらない。ヤ
マトタケルは、出雲振根と同一人であらせられるとみられる。
 沿海州や北朝鮮から日本海を小さな馬を小舟や筏にのせて裏日本から入ってきた
「四つ」の部族が、表日本に住みついていた黒潮で漂着の古代海人族の「八つ」の部
族を統合。牧草を主として豊葦原となし「八つ」の農耕する瑞穂の国と建国をしたの
は判るし、中国系の竹内宿弥によってイブキ山中で毒害さらたもうたヤマトタケルに、
多くの騎馬系子孫である日本人がひかれ追慕する気持も判りうるといえる。忠臣蔵で
も浅野内匠頭の名をこれにとり「塩治判官」ともする。
 ヤマトタケルは小碓命と日本書紀には出ているが、騎馬系崇神王朝の孫にあたる景
行帝と、「八つ」の天の八坂姫との御子である。だから大陸系の竹内宿弥は、騎馬系
の「四つ」と「八つ」との間の御子として始末をなし、出雲の国を滅ぼして大和に新
国家を建て直し「日本書紀」を作成した。「国譲りしたまいて根の国へゆかれたもう
た」とする大国主命としても出雲王朝の最後の方で、国譲りとは平和裡のものではな
く、鉄製武器に貝刃や石斧が負け殺された事をいうのである。
 だから今でも出雲では小舟にワラで作った屍をのせ、根の国へと海へ流す神事があ
る。
 つまり安来節に、「安来せん軒、日の出た処」とあるのは千も家があったというの
ではなく、先住民族のタウンで敗戦までは栄えたが、今は、ああした笑いものの踊り
を強いられる奴隷として、怨みつらみがアラエッサッサとやけになるみたいな、おは
やし言葉を入れて呪文とす。

 つまり大陸人によって弥生時代とされる迄の日本列島は、裏日本には出雲王朝、い
まの新潟には白山王朝。表日本の太平洋沿岸には富士王朝、琵琶湖畔弁天涯には天の
王朝と多かった。
 その他にも、出雲王朝や白山王朝と同じ騎馬の「四つ」系の蘇我王朝が勢力を一番
もっていた。
 それをヤマトタケルを毒害し出雲王朝を滅亡させ次に蘇我王朝を滅ぼして大化の改
新と称し、出雲の王宮を大和に移して、昔からそこが都であったようにとりつくろい、
八幡国群を滅ぼした。
 柿本朝臣人麻呂は、石見国へ赴いた時の途中で、神の尊つまり日並皇子尊の大宮大
殿の跡かたも、今はまったく見当たらず、何処にも無い様子を眺めて、次のように詠
嘆した。
「淡海の国の さだなみの 大津の宮に天の下 知ろしめしけむ 天皇(すめろぎ)
の 神の御言(みこと)の大宮は、此処と聞けども 大殿は 此処と言へども
春草の 茂く生ひたる 霞立つ 春日の霧(き)れる百磯城(ももしき)の大宮所見
れば悲しも」
 つまり淡海とは出雲の宍道湖のことであって、柿本の人麻呂の時代には、もはやす
っかり跡形さえもなくされていたという、これは裏書であるといえよう。
 ただ後世の人間が「人麻呂の作れる歌」として、歌集になした時には、権力の都合
で出雲を故意に近江にしてしまっているが、石見国というのは山陰地方だという事だ
けはわかってほしい。
 日本の古代史が判らなくさせられている起因は、淡海が出雲の宍道湖から近江の琵
琶湖とすり換えられている点である。日本書紀とはそうした性質のもので、すべてが
換えられている。
 江戸時代に第七次日本書紀を書いた伴信友は、藤原がトウであることが、判らずじ
まいで、「藤原は地名で、鎌足の土地」とするが、そうなれば随国人が前からいた桃
原はどうなるか、「吉備地方とよばれる岡山は、日本書紀の『中ツ国』で、現代でも
『中国地方』とよばれ、そこをコロニーして随の時代から大陸人は住みついていた。
処が随を滅ぼした唐が、郭ムソウ将軍らの進駐軍を派遣してきた時、郭が藤原鎌足と
日本名を名乗り一族みな藤原姓をつけ、御所を占領して藤原王朝を確立の際に、前住
の随人は、桃原、桃成の発音は同じトウでも違う字をあて通弁にした。群書類従の
「唐和上伝」にも出てくるのだが、日本書紀では大和出身のごとく作為。
「陶淵明の『桃花源記』に、武陵の人が桃源をさかのぼって魚を捕っていたが、両岸
に桃林のある所へ進んで行った。洞穴があったので、そこへ這い上がってみると、仙
境があった。その仙境には、秦の乱世から逃避した人々が居った。そして仙境に住ん
でいる人から歓待を受けたという話がある。武陵桃源であり、桃源境である、とある
が、不思議にも藤原京を音読すれば、『とうげんきょう』であるから、桃源境ともな
る。」と伊東氏もここは書いているが、桃太郎というのは、藤に命名された旧隨の桃
人が日本原住民残党の隠忍退治のフィクションである。
 つまり岡山と出雲とが戦っている間に、神戸三の宮を拠点とした三韓勢力が以西を
次々と蚕食し、やがて奈良王朝をたてていた事になる。滅ぼされた出雲人の亡命も許
した。それゆえ、
「河内国の隣りは和泉国であるから、出雲の河内郷の隣郷は泉郷であったであろう。
泉の名称は出雲風土記にも記載されていないのであるが、河内の名称も出雲風土記に
あるのだから、河内郷の隣郷を流れる川は『泉の河』と称せられていたのは、当然の
ことのようである。昔は宍道湖南岸地方(現今では玉造温泉付近の地方)が摂津、斐
伊川が神門水海に注ぐ付近(現今では出雲市の南部)が河内で、その西部の地方を泉
と称したのであろうと思う。出雲風土記を書いた頃には、河内の名だけを残し、摂津、
泉の名は消え去り、現今では河内の名も残っていない。
 しかし、大阪府には、摂津、河内、和泉の三つの国が相接して残っている。この地
名の本場は出雲であったが、都が大和に遷ったので、出雲の地名が奈良県や大阪府に
移ってしまった」
と伊東氏も「古建築秘話」の78頁に書いているのは正しい解明で、これこそ作り変
えられた匿された古代史の真実であるといえよう。今でも上から勝手に町名変更す。
 日本書紀では、竹内宿弥を蘇我氏の先祖となしているが、蘇我は裏日本より渡来の
騎馬民族でヤマトタケルの後裔である。同族だったら竹内宿弥がタケルを毒害する訳
はない。松江市に竹内宿弥を祀る竹内神社はあるが、蘇我氏の先祖とする新撰姓氏録
はデッチあげで、竹内宿弥はヤマトタケルを害してから、出雲へ攻めこんだものとみ
るのが、どうも正しいようである。
 となると竹内宿弥は随の大陸人で、のち大和の奈良王朝にも対していた武将である
らしい。
 日本書紀では竹内宿弥が東の方の国を巡幸し豊かな地方であると、騎馬民族の崇神
帝の孫の景行帝にのべ、そのくせ、自分は討伐にゆかずで当時はまだ十六歳のミコト
に兵もつけず、途中で徴兵してでも行かるべしと送りだしたことになっている。とい
う事は、ミコトが単身で行っても同じ日本原住民が供になるだろうという目論見なの
か、竹内宿弥と日本名でよばれる軍団は、その侭で動かさず、三代をもって崇神王朝
を潰す意企らしく思える次第である。
 或いは景行帝の後は、竹内宿弥がついたのではあるまいかと想う。つまり自分の手
兵は温存して一兵も損なわぬようにしていたのは、そうした心づもりが当初からあっ
たものらしい。