1061 古代史入門 13

信長は部落解放者

----戦国時代と幕末が庶民の憧れなのは、下克上といわれる恵まれぬ底辺の者達が浮
かび上がれる唯一の機会だったからである。つまり加藤清正にしろ虎之助とよばれ岡
部又左の大工の徒弟だったのは、薮塚の加藤弾正の伜ですから居付地住まいの素性。
それから同じく秀吉のまたいとこにあたる福島市松がササラ衆の、桶屋の職人の伜だ
し、これも原住系に相違なく限定職だから居付地に入れられていた。秀吉も中村が後
に遊郭になる程ゆえ、居付部落の抜け人。
----家康も原住系の部落の出身ということですが‥‥
----勿論そうです。これはまだ、もう一回やらなきゃならないけども、明治三十五年
に村岡素一郎という、直木賞をとった榛葉英治の外祖父にあたる方で多摩書房刊の
「明治論叢」にも原文で収録されている『史疑徳川家康事蹟』という本を徳富蘇峯の
民友社から出した処、当時の華族会の圧力でもって警保局が全部、これを押さえてし
まったんです。そこでその外孫の榛葉英治が今から二十年前の昭和三十八年に吉川弘
文館からまた現代語訳で本を出した。
 処が、これも不思議なことに、どこかに全部、定価でみんな売れちゃった。その代
り絶版です。[1996年4月現在、入手可能です]
 不思議といえば正確には村岡素一郎の本が出た二年後の明治三十七年刊なのに、七
年前に発行年をさかのぼらせた「松平記」が「東大蔵版」と朱印つきで青山の青山堂
より木版刷り三百部が、紋入りの桐箱で各華族や歴史屋に配布された。この内容を水
増しして現代語で大河小説にしたのが、故山岡荘八の「徳川家康」で、内容はまった
く松平記と同じゆえ、発禁や絶版にもならず大ベストセラーになりNHKで三度も大
河ドラマとしてテレビ化された。
 なにしろ東大をはじめ官立大学の歴史学会は、華族会の援助をうけていたので、確
定史料と認知された。そのため岐阜城館主郷浩が、信長の美濃攻略は永禄七年といく
ら訴えても「松平記」には永禄十年とあると、いまだに相手にされない始末である。
せっかく岐阜城内の古資料を二十年も掛って調べあげた苦労も無駄である。
 さて日本原住民について八切史観を始める時には、判りやすくと、占領軍が黒で、
被占領軍が白であると、これは足利時代の室町御所の記録に、「白旗党余類」という
言葉で、彼らは被差別されておるので、ゲットーへ入れられている被占領民つまり賎
の賊軍扱いされているのと、官軍の黒と白の争いにし八切史観を判りやすくしたんで
す。
 ところが、どうしても赤をやらないと、私の出自血脈では困るから、「特殊部落発
生史」を書き、お稲荷さんとか祇園さんとかいった赤系をやったわけです。紅殻塗り
のお宮ですね。これやらないと日本原住民には白と赤がいるから話の辻褄が合わない。
それがいわゆる庶民。ところが純民がいるんです。日本にはあくまでも頑強に反藤原
勢力の‥‥民族です。
----その純民の観点からすると、庶民とはなんでしょう。信長も死ぬ時は平姓ですが
‥‥
----秀吉も平の秀吉で死んでます。北条政子も源の頼朝の妻でも平政子として死んで
ます。これは例の『大乗院寺社雑事記』という活字本にもなってますけど、あの中に、
西南より渡来せるものは堀川三条小路の囲地に収容し、僧籍に入らざるは古来より風
習にて平氏。要するに京都はお寺が多いから、今でいうとタレントみたいに目が青い
のだとか、一見毛色が変わったのを連れてって、それぞれの寺の目玉商品にしたわけ
です。言葉は通じないから執事が色んなカッコウして手真似で何とかこうこうとやる
わけです。ところが、いつまでたっても不器用でノースピーキング、ノーヒアリング
の者は結局、京都から追い払われ高崎へ行って、面壁九年ってのも、何も壁が好きで
九年も向き合ってたわけではない。あれは全然ヒアリングもスピーキグも苦手で、だ
からいくらいじめられても、じっと我慢しておったからでしょう。
 さて、山芋からつくる芋アメは、これはシノガラ特有のもので、ベッタラ漬もそう
です。サンカ用語でベッタラっていうのは特別の意味。上野のアメ横の入口に近くに
電話局があり向かえの角のところを入った通りのところまでは、浅草からかけて朝鮮
人町です。焼肉屋があったり、浅草瓢箪池の前などは堂々と朝鮮服屋が並んでいます。
ところがアメ横は一町入って通りまで入ると、全然もう違います。現代では終戦時の
事は何も知らないから、ヤクザがアメ横を守ったなどというけれど、あれはウソで、
アメリカ兵の中の日系シノガラ部隊が機銃をもってきて防いだんです。はじめは芋の
アメを売っていたから、アメ屋横丁になったのですが、その頃はアメリカ製のタバコ
なんかも持っていると、MPにぶんなぐられ、沖縄重労働だぞと怒られた時分に、シ
ノガラのアメリカ兵がどんどんあそこにはPXから流したから、アメリカ製のものは
アメ横へ行けば買えるといわれたのも、そういうつながりがあったんです。
 ただ言いたいことは、一般庶民の家庭は子供を沢山産むと、器量が落ちるからとい
って、一人か二人で子供をつくるのをやめます。ところが、シノガラの方では、本当
の純粋な日本種族ですから民族を増やさなきゃならないため、子供を沢山つくってい
ます。有名な方では、九州でこの間奥さんが癌で死んだ江口さんですが、あすこは十
六人。名古屋では伊東さんって方が十四人目の子供をうんでいます。なにも好きでつ
くるのではなくて民族の使命なんです。だからマンションなんか住んでいて隣同士で
も口もきかない人がいるのは、まぁシノガラの方達でしょう。
----さて八切史学では、私の読み方が判らない不勉強のせいなのかとも思ってるんで
すけれども、乱暴な質問をしますと、土地所有の問題はあまり多くは‥‥でていませ
んが‥‥
----藤原体制の時は賎には私有を認めず、みな公家のものでしたが、下克上の戦国時
代がおわり、江戸幕府になると土地は私有制ではなかった。青森弘前の殿様が九州へ
国替えになると、土地が私有だったら不動産屋を通し九州で居抜きの城と武家屋敷を
セットで出物を探し買ってから行かなきゃならない事になる。領民は奴隷で私有だが、
土地はオカミのもの。
----農地、農民の場合ですけれども、質に入れたり売買したりしてますね、中世から
盛んに‥‥
----江戸中期から旗本が知行地でも入れなくなる。そこで、大庄屋が全部代わって代
行することになった。つまり大庄屋が年貢米を集めるから土地が誰から誰へ行こうが
関係なしです。つまり吉村虎太郎の天誅組みたいに、非生産的な武士など廃止し、天
皇と百姓とを直結せん。そうすれば日本の国は豊かになると。農本主義というんです
か。これが討幕の最初のテーゼ。
 そもそも信長があそこまで行ったのは、まず桶狭間の合戦で、‥‥あの時、今川義
元は何も戦争をするんだったら、尾張なんか隣国だから、まず掃討作戦を先にやって
おくのが常識。彼は「なんとかして三万五千の軍勢を無傷で京都へ連れて行かなきゃ
困るわけ」なのゆえ、途中で道草を食って戦争なんてしたくないわけだから、あの時
点においては、信長は今川義元に、とっくに降参していたわけです。ところが桶狭間
というところは、今の中日グランドのあるところで、昔は平手庄といって平手政秀の
領地織田信長の生家です。
 休んでいる時に雨がザアーザァー降ってきた。そこで雨が降ると、当時の鉄砲は火
縄銃だから役に立たない。ただの棒キレにすぎない。先発隊には全然一挺も鉄砲をも
たせず、本陣に五百挺の鉄砲をみな置いていたのをば、信長は雨がふってきたので思
い切って襲った。結局は毛利小平太なんかが、今川義元の首をあげたけれど格別の出
世はしてないです。『当代記』を読むと、後に本能寺の変の時に二条城で、やっぱり
小姓頭で、伜の岩というのと共に一緒に討死してるわけです。信長の主目的は鉄砲を
ふんだくるだけでした。永禄初年ではまだ国産はできず貴重品で、鉄砲ゆえに降伏し
ていた信長は戦力を増したことになるわけです。
 ところが、それでも、織田信長の軍勢はあんまり強くないんです。そのせいか永禄
七年に「上総介布令」なるものが「駿河[掛川?]志稿」の中には残ってます。
「今後、印地院内のもの、つまりこれまでゲットーのものに限り商売を許すものとす。
その他のものは、いくら困っても大根一本売りの商いもしてはならぬ」と、商売とい
うものは全部、原住系の八に限ったわけです。要するに当時、遠州の掛川は朝比奈三
郎兵衛の城で、今川義元の伜の今川氏真がおったところです。そこへ秘かに布令を出
すというのは、今でいうと、今川方の残存勢力を崩す宣伝戦です。つまり信長が強く
なったのは、次々と居付き地部落を解放し、原住系の「八」をみな自分の味方にして
しまい、それで結局、いわゆる天の王朝がかつてあったとされる弁天涯への道は、
「八」の連中がつくったようなものです。
 ヤ号はその名残り、つまり天下布武とはいっても、居付地に収容されていた原住民
の「八」が解放され新武器の火銃で、延暦の昔は失敗したけれども、今度は天の王朝
を復活させようと信長へ協力し守りたてたのです。
 秀吉の頃からは、出征にはどこどこを攻めろといい軍資金は出しています。だが織
田信長は軍資金なんてものは一文も出してないんです。だから、例の勝軍地蔵といわ
れる愛宕山へ行って蜷川一族の金[かね]を借り、武将どもは出陣しているわけです。
しかし、今日行って銀行の窓口と一緒で、今日すぐは貸してくれない。そこで待たせ
ている間に、あんまり金がかかることやって、ご馳走するのはもったいないからとい
うので、費用のかからぬ連歌の会かなんかをしていた。
 つまり愛宕詣りするということは、当時は金借りに行くことです。武将は攻め占領、
何かそこの物資を奪うと、銀にかえてそれで借銀を返しているわけです。それが秀吉
の時代になると、各武将に、銀をちゃんと軍資金に与えています。家康の時になると、
もうまた違うんです。やはり原住系を使っても吝な男ゆえ貸したのはちゃんと証文と
って、がっちり返させています。つまり信長の天下布武というのは結局のところ「八」
の連中たちがやった仕事なのです。
----信長には一つの明確に、藤原体制とは別個の枠組みたいなものがあったんでしょ
う。そうすると、やっぱりそういうものは書き物とか文書とかそういうもので‥‥残
っていますか。
----何もかも秀吉の代で焼かれてしまい残っていません。それに信長という存在は江
戸時代においても、絶対に避けられていた人物。秀吉の方は『絵本太閤記』みたいに、
茶化したものは許されたけれど、いま桑田忠親の『信長公記』の本が出てますが、こ
れは全部彼の鑑定用の茶器茶道具の宣伝です。よく読めばまこと呆れてしまうが、朽
木越えに信長が浅井長政に裏切られて逃げる敗戦の大変な時なのに、『信長公記』で
は「お茶会を召さり松風の茶碗や何とか何とかの名器を集められて」と、まったく考
えられぬことが出ているし、それから本能寺の変の時だって、「その晩は、お茶会を
開いて夜分遅くまでなしたからやられたのである」というように書かれているが、こ
れはやはり茶器の宣伝と、忠臣蔵の芝居からの思いつきでしょう。
 さて切腹は、出血多量で死なせる酷い刑罰だが、その作法というと全部これまた芝
居の、「仮名手本忠臣蔵」の塩谷判官の腹切りの場からの模倣で、三宝を尻にあてる。
 だが、あの三宝というのはデパートへ行って、結婚結納売場へ行けば実物が桧の薄
皮でつくってある。あんなものを尻の下に敷いたら、ペチャンコになってひっくり返
るだけ。あれは芝居の場合は、マス席といって一番前のお客が高い金を払ってるから
お腹を切って血綿を引っ張りだしたところをよく見せなきゃならないので、背後から
黒子が黒塗りの風呂の腰掛けみたいなのを後ろから腰にあてがって見せるから、薄い
桧の三宝でも潰れず恰好がつきます。
 テレビでも小説でも切腹作法とされているのは、全部この芝居からきているわけで
す。
 日本の歴史は全部、芝居とテレビからといわれるのもこの訳です。信長は後年ポル
トガル船の船首についていたアポロの神像を自分に似ると、全部の者に安土城で礼拝
させてたから、『フロイス日本史』には、カリオン神父は「悪魔の如くおそれられて
いた信長が、ついに髪の毛一本残さずふっとんだ」と、ああよかったよかったとは書
いてないけれども、そういうふうになっているのが読みとれる。と言ってまさか信長
が己れの神像だとアポロを弁天涯の安土城で拝ませる訳はない。恐らくこれまで藤原
体制によって奴隷とされ酷使され殺掠された先祖の霊として祀り、解放運動に成功し
た信長は一般に礼拝させたのを、日本の古代史を知らぬイエズス派の宣教師が、イエ
スこそ唯一の神と信じこんでいるから異教を崇めると批難して悪魔として本国に報告
していたのではありましょう。信長につき従って天下布武をしたのは「八」の連中で
あって代々の臣ではない。それに「八」の殺された先祖を拝礼するのゆえ民族的儀礼
だから、信長を拝む気遣いではなく誤報であるといえます。徳川中期以降の近世では
なく、まだ宗教戦争の中世紀のことである。そこをよく考えねばならぬようでありま
す。
 さて家康も部落解放だが三代家光から反対になった徳川だが、松平元康ではない世
良田の二郎三郎が松平元康だと偽って、守山崩れで元康が殺されたあと築山御前から
頼まれ、人質になって熱田の加藤図書頭のところへ行っていた後の岡崎三郎信康を、
清洲城へ受け取りに行った時に、熊野権現の誓書を書いて、信康を取り戻すために彼
は松平元康として欺き通した。
 しかし家康は信長に露見していると後には気づき、何事も彼の言いなりに臣従した
が、天正十年五月には、許しを乞うため首代として金五千両をもって安土へ行った。
しかし信長は許すといわず京へ送った。だからカリオン神父は六月二日早朝に本能寺
に集まった一万三千の丹波兵は、家康を討つためだといっていたと本国へレポートを
送っている。もちろん家康も戻された黄金を斉藤内蔵介にわたし、五月二十九日の夕
刻に信長が上洛するや挨拶にもゆかず即刻京を逃げ出している。堺から船で逃げよう
としたが、堺の政所松井友閑にとめられ、やむなく伊勢のカブト山越えに服部半蔵ら
に守られ白子浦まで逃げ、渥美湾へでて本国へ戻り、すぐさま兵を集め斉藤内蔵介救
援の軍勢を、酒井忠次を先手にして津島まで出しているのである。
 しかし秀吉が早手廻しに光秀の娘婿の細川忠興の山崎円明寺川畔の勝竜寺城で、ま
んまと瞞し討ちにして光秀勢を始末し、京に入ると、謀反随一の斉藤内蔵介を討ちと
った。
 まぁ和平交渉は相当早くしていないと、六月二日に本能寺の変があった翌日に、備
中高松を開城させられぬ。早々に姫路城へ戻った秀吉が、どうも信長殺しの黒幕とし
ては、やはり臭い‥‥と言われたのも、あまりにも早手まわしのせいである。
 明智光秀が庇っていた時の正親町天皇の後継ぎの誠仁親王を秀吉がホウソと称し殺
したと、「多聞院日記」の中にも明白にでている。そして、である。
 今までの御所では狭苦しいと京の中央の人家や社寺を取り払って豪華な聚楽第を建
て、己が新御所とし、自分は後奈良帝の遺児なりと帝位を求め、自分が日本国は統治
するからと、兵を出し中国を征服して、御所にはお里帰りをしてもらおうと進言し、
御所には中国の中央にて四ヶ国、各公家にも、それぞれ一ヶ国ずつ進呈しますといっ
て‥‥承認をうけているのです。
----ちょっと誇大妄想ですね。
----中国よりの藤原政権に苛められた仕返しだと思ったんでしょう。フランシスコ派
から新開発のチリー新硝石を入手できるものと九州の名護屋で自分も渡海するため待
機していたんです。
----中世の仕上げをなした権力者は、三人ともアプローチは違うわけですか‥‥


古代史解明の必要

----日本シェル出版で刊行している「徳川合戦資料集大成」の中に全文収録されてい
る処の、根岸直利の『四戦紀聞』によれば、信長が桶狭間でしたのは裏切りです。和
平交渉が進んでいるのに裏切ったんだから、この時の生き証人は佐脇甚八、山口飛騨
守らの側近の四人だが全部、第一線にもってゆき棄て殺しにしようとしているのに、
彼ら四人は気づき、家康のところへ逃げ込んだ。信長には弱みのある家康は、いざと
いう時の生き証人として彼らを庇護したわけです。ですから、高天神城合戦の時など
は、信長はいくら求められても援兵を出さずゆえ、この四人を仕方なく家康は第一線
へ出して殺してしまって、はじめて信長は生き証人の四人が死んだのを確認してから、
ようやく本腰を入れて長篠の合戦で、武田方を三段構えの鉄砲隊で信長は討ちとり、
家康の味方をして勝ってのけたのである。
 秀吉は後奈良帝の遺児と自称した程ゆえ千の宗易に味方するササラ衆を「茶せん」
とし部落へ収容したけれど、信長に次いで部落解放を部分的だが敢行したのは家康で
あったといえる。
 このことの裏づけとして、小田原征伐後関東へ移された家康は、江戸の荒川という
のは、現在の川幅の四倍ぐらい大きい川だったわけで、そこの中州島には武蔵七党の
くずれ、つまり騎馬民族の「四つ」の三河島衆が前述のごとく何千と押しこめ居付限
定地の橋のない川の処だった。
 領地が三倍から四倍に増えて、人手もない時だから、これを全部、御家人とか旗本
にしたわけです。『野史辞典』をみると、三河譜代は太郎左と与五郎の二人になって
いる。これはいつの間にか、三河譜代というのは島の字を抜いたせいで、本当は江戸
創業に働いた三河島譜代です。
----最初に『日本原住民史』という本をお出しになりましたね。それで、公けの今ま
での歴史に対し、日本原住民史というのがあるんだということを打ち出された。最初
はこんがらかるから、白対黒という一つの対立として出したけれども、実は白といっ
ても、原住民の中には白と赤と、それから雑色とかに分かれるのですが‥‥そうなる
と、日本原住民の中の最も純粋な、最も頑強に抵抗したのがサンカという‥‥ことに
なるのでしょうか。
----それを庶民と分けて、日本純民と名付けたわけです。今でこそ、庶民は容貌が落
ちるからとか何とかいって、子供一人か二人のところが多くても、総人口の八割五分
おるけど、片っ方は十人以上の子供を作っているわけですから、何年かたてば比例は
違ってくる。だけど、かつてナポレオン戦争の時にオランダがナポレオンに負けて、
世界中どこにもオランダの旗は立っていなかったのに、日本の出島だけがオランダの
旗を立てていた歴史があるが、唐が契丹に滅びても、唐は藤原氏として、日本では厳
然たる勢力を発揮しておったのです。
 それに七福神は七曜神風俗ですが、今はアラブじゃなくサンカの信仰です。だから、
渥美半島になぜ米軍の彼らが上陸したかは、伊良子岬で有名な半島全体が、今も毘沙
門さん大黒さんと七福神の御旗がはためく土地。今でこそ鯨のことで騒ぐけれど、江
戸時代はアメリカの捕鯨船がみな日本へきていて、あそこだけは特別地域で薪とか水
をアメリカ捕鯨船に配るのを大目に認められておったせいです。だから田原藩の家老
渡辺華山が、「慎機論」や「西洋事情御答書」を書いて、蛮社の獄に連座して割腹。
つまり半島全体が、江戸時代にあっては特殊地でした。それに、家康四天王の大久保
一族の出身地で半島の中間にはバス停で兵助畑っていうのがあるんです。大久保彦左
衛門が若い頃、女の子を引っ張ってレイプしていた畑だといいます。
----兵助というのは大久保彦左衛門の若い頃の名前ですか。講談で有名なので、バス
停留所名‥‥
----日本では古代史はテレビや芝居であまりしないから、判らぬ侭で今になってます。
が書かれているからといって全然ひどすぎるものが多い。徳川時代の朝廷の歴史を書
いたものに『皇統紹運録』という本があるけれど、これは監督官庁の京都所司代の検
閲のものだから全部デタラメです。「謎だらけの日本史」[日本シェル出版]の本に
詳しいけれど、華族令が出た時に、畏れ多くも明治大帝が、華族は皇室の藩屏なりと
仰せられ、為に徳川時代の歴史は何ひとつ解明されず、みな嘘ばかり今もまかり通っ
ている。明治の歴史屋は華族さま御抱えゆえ解明もしてない。ローマのバチカン法皇
庁の法皇みたいに至上は今では象徴でいらっしゃるから、たとえば自民党の世の中だ
と自民党の天皇でいらっしゃるのは仕方のない話です。
 七世紀の白村江の戦いで郭ムソウが日本へ入ってきて占領してから、日本が中国大
陸と対等になれたのは、秀吉の朝鮮征伐で明兵と対決した時、というより明治の日清
戦争からです。今だってアメリカにもフォードもあるし、コダックもあります。失業
率がいまや二割ともなれば日本は邪魔というか不用でしょう。
 といって、またアトムを落としてしまうよりは、アメリカの国益のために活かして
使おうとするのだろう。そのうちには海外派兵も命じてくるだろう。敗戦国民ゆえ
「ノオ」とはいえまい。その時に、まさかアメちゃん万歳と叫んで死んでゆけぬ。ど
うしても昔通りだろう。
 今は敗戦の結果、国ぐるみでアメリカの奴隷だが、日本の古代史をよく見直せば、
やはり、原住民古代史は、どうしても奴隷史といえよう。となると、せめて外国の為
に戦死せねばならぬ者たちの為にも、隠さない真実の日本の古代史を、よく知ってお
かない事には、殺される日本人の彼らとしても、どうしても、やはり死んでも死にき
れまい。
 さて、「クダラにあらざれば人にあらず」とされて、今でもクダラヌ奴とかクダラ
ナイ事とされている桓武時代は、みな金大中の全羅南道の百済だが、周防とか安芸の
ように岡山に接近している中ツ国の近くは、魏の時代に多く移ってきた中国大陸人に
接収されたから、大内の多々良も鉄屑精練をしていたことで大陸系であるが正しい。
なにしろ皆だれも黄色人種ゆえに区別をはっきりさせるのは、当て字の逆転しかない
だろうとは、タタラを踏むの言葉からの考究である。
 皇国史観の頃は、えらいさまの歴史ばかりなので帰化族などといっても、日本列島
にきた進駐権力に対して帰化帰順したのが正しく、白村江の戦いで母国を喪失してし
まった百済人らがそうで、彼らは忠誠を示そうと高麗系新羅系を蕃族と日本原住民を
追討目標にして人間狩り。よって高麗系は遥か昔の移住では日本書紀に合わないとい
うのが、これまでの日本の古代史である。それに五代将軍の徳川綱吉の神仏混合令に
よって生まれた吉田習合神道が、異也を夷也としてしまった。が、今では稲荷で、狐
とされている。伏見稲荷の神官荷田春満は出府して、赤穂の討入りを当局のヤラセと
はみずに、加担するようは反体制志向に走ったのも、やむにやまれぬ原住民の血の流
れであるといえよう。つまりこれまでの古代史はみな作為されている。
 また淀川畔に幕末まであった淀姫宮の御神体はサマとワカとオノさまの御三体で、
貝原益軒の紀行文には、淀殿と秀頼と大野修理の木像三体が、ご神体として信仰をあ
つめているとある。いわば、この信仰は女上位の原住民のもので、オカミのいう賎民
の臭いがつきまとって興味深い。同時に信長は部落解放をしたが秀吉は部落差別を非
常に強化したゆえ、淀どのは大野修理の子をうんで、日本原住民系の世にしようとし
ていた謀みでもあったわけらしいとみられます。
----部落出身の人は出自を隠すためか部落の人を非常に嫌うものです。いま何とかリ
サーチとかいうところで、部落別の判る本を何万円で売ってるとかっていって、騒ぎ
まくっているが、部落出身の社長は、絶対に己が会社には部落の人間は採用したがら
ぬ方針のゆえだそうです。
----前の己が素性を隠したがるわけです。しかし案外と民間では随筆などで明記して
いるようです。初めは部落解放をした家康も、大坂落城後は豊臣一族の再起を恐れ死
期が近かったせいか、主だった生き残りを集め、九州に「豊臣松園」といった新しい
部落さえも作っています。
 さて、蘇民将来すらも訳もわからずに、俳句の季題にさえも奇麗事にされて今は入
れられている。が、それならば伊勢二見ヶ浦の「蘇民将来 来福之守」などという御
札は、現代でも配布されていて、伊勢市の各戸の入口に掲げられ出ている筈はないの
にも気づかないらしい。
「蘇民将来とは、後に源氏系になる蘇我の民の後裔をさすもの」と、真実を解釈しな
くては、てんで辻つまが合わぬ。それを疫病除けなどとゴマカシはコジツケも甚だし
いもので、ただ兄弟だなどと美化したり恰好づけだけしていては、てんで話にも何に
もならぬ。
 己れらの生まれ育った国は、愛し護ってゆかねばならぬ。それには明治大正みたい
な押しつけの義務教育では駄目。いいころ加減なゴマ化し歴史で恰好づけなどせず、
真実の古代史をはっきりさせるべきだろう。七世紀からはトウ政権に苛められた。今
度も、ベトナムみたいに国内戦にもちこんだら枯れ葉作戦をやられたかも知れぬが、
結局は勝てたかも知れなかった。
 それなのに、それができなかったのは、好いころ加減な歴史しか教えていなかった
ゆえ、本土決戦となったら、国民の八割以上をしめる賎の民が暴動を起こし、良を捕
らえるのではないかと自信がなく、水際で無条件降伏をしてしまった事への反省を、
改め愛国心で新たにすべきだろう。
※「同時代批評」5号誌による八切止夫氏インタビュー対談。岡庭昇、太田竜の両氏

[続く『日本古代史入門参考書』は、八切氏の著書の広告ですので割愛させていただ
きます]