1059 古代史入門 11

山霊崇敬の古俗(石井広夫説)

甲斐宮下文書の宮下本家の方が正しいのは、山霊崇敬は本邦の古来よりの風俗であっ
て、これを相模国にみると、そこには箱根山・足柄峠・大山などに何れも祭祀あるの
でもよくわかりうる。
 伊豆相模甲斐駿河の祭祀は富士神岳の山霊崇拝の古代民俗的信仰に起こつたのか、
それとも山へ追われて逃げこみ火をかけられて殺されたもうた御先祖のまつりだろう
か。山ツ神におわす大山詰祇神を主となし奉り姫神木花咲耶姫命(浅間神)を奉祇し、
浅間神の御夫神、瓊々杵尊及び二神の御子神におわす彦火々出見尊と八幡宮の御子の
若宮八幡や其他皆この神々に由緒を有する神祀をしたもので、この他に日本武尊やタ
ケツチノミコトなどの祭祀も見え、
「大山祇神、伊豆一宮三島神社、相模大山阿夫利神社、甲斐一ノ宮八代浅間神社山ノ
宮、駿河一ノ宮富士浅間神社山ノ宮 木花咲耶姫命、甲斐一宮八代浅間神社、駿河一
宮浅間神社」
 静岡市神戸(かんべ)神社に御正伝が残り給う。「駿河雑志」の本の45の下にも、
これはでている。
 同国一ノ宮富士浅間神社木花咲耶姫命は、主神の御父神大山祇神と共に封じこめで
ある。つまり富士山麓の足高神社もまたこの神におわしまし、富士山吉田口にも奉祀
されてあられる。
「林富士案内書」に云う処の吉田口富士嶽神社は、吉田村の尽くる所に祀られている。
祭神天彦瓊々杵尊・木花咲耶姫命・大山祇命なりとの古代より伝承されているのが、
富士王朝の名残りの、吾ら縄文日本人の御先祖さまとみるべきではなかろうか。
 しからば寒川神とは如何なる神におわすのか、この神も大山祇神御親縁の神におわ
して、明見・駿河・足柄上などの天神宮や浅間神とは、関係が最も深き神におわせる
ものと拝せられる。
 寒川神社は、大山祇命国狭槌尊、応神天皇木花咲耶姫命が祭神である。「大山祇命
ハ即チ寒川彦命・寒川姫命ハ加茂沢姫命」という処の寒川彦の寒川姫の娘菊理姫なり
とも推理される。

 甲斐宮下文書に見える寒川神社の御祭神説は、どうも後人の附加説も多く、つまり
国狭槌尊加茂沢姫命及び菊理姫は、吉田垂迦説者の加筆したものではあるまいか。応
神天皇は八幡の神名によっての後人のこじつけで、これは耶馬台国群の中国大陸より
鉄製武器援助によって滅ぼされた八幡国群の、女将の祟りよけに封じこめられたもの。
それでも吉田垂迦神道では八幡さまが「私は不運にも卑地の日本に現れてしまい困っ
ている」と仏に歎願され、仏も哀れに思召され、「菩薩」号を下され仏果を得られる
ようにと、御仏の弟子にされたとあるのをとって「神」とはしているのは村の鎮守の
氏神ぐらいで、公式には八幡菩薩として仏とみているのは、徳川五代綱吉の神仏混合
令から、法制化されてきたものだが、大山祇命・木花咲耶姫命・寒川彦命・寒川姫命
の四祭神が石井広夫著の古正伝にもでている処の実在の方であるとのことである。
「大日本史神祇志」によれば、伊勢国度会郡の園相神社は、大水上子曽名比々古命を
祀るという。大水上とは大山祇の別名のことであって「神名秘書」では、伊勢宇治の
大水上社は、大山祇御祖神で、倭姫の命の御世に定まった祀なりという。群書類従に
もこれはあるにはある。
 寒川神は、その御子神におわせるのである。「神祇志」伊勢国度会郡の条に「牟弥
(ムミノ)神社」として大水の上子寒川比古寒川比女命をまつるとでているのは宮下
本家のものが正しい。
 御子とは後裔の意味であり伊勢国にては此他にも大水上子神多くまつられ各神祇の
多くは倭姫命神宮、つまり伊勢の御官の奉斎のみぎりに内外両宮の河堤守護神として
祭祀し給いたるにてよって、大山祀神御関係の祇の祖神社と申べき朝熊神社は特に水
神として祀られているのは、海洋渡来をしめすゆえ「倭姫世紀」にも出ているゆえ天
照大神であろうか。
 伊勢までは水上は、伊勢の御宮の五十鈴川の守護神とされているが、京へ入ると別
である。
 なにしろ京は大陸系の手で坊都として延暦十三年十月二十二日より遷都された土地
柄もある。が水上の氏子たちは、日本原住民系ゆえ被差別の奴扱いを幕末までされて
いたのである。
 水戸弘道館で作成された「大日本史」では「神祇志」の四国讃岐寒川郡大簑神社の
条に、
「大水上神とは霊泉あれ覗き見る事も許されぬゆえ、神霊の御水なりと、その泉の上
に立つ宮をかく呼ぶのである。水上や寒川の地名や郡名もこれに由来するものである」
と水戸二十五万石の財力で愚にもつかぬ事を麗々しく、もっともらしく書いているが、
四国でも「水上」とか「寒川」の地名のついている場所は、おんぼの居付部落の被差
別地だった。
 だいたい「大日本史」は、水戸斉昭が京水戸屋敷の鵜飼幸吉父子に伝奏姉小路卿に
献銀。
 財政不如意の御所の困窮につけこみ、征夷大将軍の勅命を頂き自分が将軍職につこ
うとした、「密勅事件」で井伊大老より返還を求められ、安政の大獄として姉小路卿
をはじめ取次ぎを仲介した髪結いまでが捕らえられ処罰される前に、おおいに京寄り
の立場をみせようと水戸では一番勤皇の評判のあった水戸光圀編と名をだし、幕末に
水戸城三の丸の弘道館で儒者総動員で手分けして古年号で纏めあげたものゆえ、すべ
て京の大陸偏向日本史である。日本原住民は封じこめにされて遠い先祖だけが紅殻塗
りの宮だが、子孫は「特殊部落発生史」[日本シェル出版]の本のとおり。
 さて、
「大山阿夫利神社は大山祇神をまつりて同社は兼ねて雨の神におわせるなり」と、伴
信友はその「神名帳考証」に「阿夫利神社は世に称する大山これなり、平田篤胤が門
人守屋に言っていわく、
『大山を土地の者に雨降山という、八大龍王の社あり八大龍王とは仏者どもの言にて
は実は雨にておわすのであるゆえ、雨降山という』と教えしを思うべし、右大臣の歌
に八大龍王雨止め給へと詠じたるも、この山には由緒ありげなりともいうべきなり」
と、大山祇神を、若狭藩士である伴信友は「若狭の水上のオンボ」を領内でよく見知
っているゆえ、水上神とはせず雨降らせ神に変え、阿夫利神社であるとし、アブリは
アマブリとなした。
 三輪の神皇記は韓国史観寄りで、追われて富士山の裏側の甲斐に逃げられた宮下本
家の文書は、こうであるとする石井広夫の著は正しいが、それでさえ特別部落にふれ
る事を避けている。
 日本の古代史入門は、「奴隷史事典」や「契丹日本史」[共に日本シェル出版刊]
を読まなくては何も判らぬ。一言にしていえば、八幡国群の女将達が大陸援助の鉄製
武器をもつ耶馬台国群らに殺され、彼女らが迷って化けて出てこぬように、封じ込め
の宮に入れられ名だけの明神、当て字の明神となり、食糧耕作漁撈奴隷とするために
生かされた氏人は、居付き部落とよぶ、外へは出られぬゲットーに収容されたのであ
る。そして彼らをトウ化するため男は隔離し、先住民ゆえセンズリで済まさせ、子種
は大陸人種がもっぱら種つけした。男女一緒に暮らしたいという悲願が「オシラさま」
のコケシとなる。
 幕末まで松前藩も北海道で同じことをした。アイヌの男は孤島へ移し単身で課役労
働をさせる終生奴隷で、種つけは絶対にさせずに、自分のことは自分でしろと放りっ
ぱなしで絶滅させた。
「べんてん衆」とアイヌから呼ばれる七福神信仰の船頭や、シャモロから来たらしい
と「シャモ」とよぶ和人に、妻も娘も女と名のつくのは少女でも慰安婦とされ種つけ
をされ、その生まれた赤子もヒナの雌雄鑑別法みたいに股間をすぐ検査され、娘だけ
は残されて十歳すぎると性奴隷とし、和人の種つけの畑にされたとは、江戸時代の松
浦武四郎の考証随筆にも詳細がでている。
 純粋のアイヌ民俗は、北方四島の国後方面へ逃げて、オロチョンとなった者ぐらい
である。
 アイヌ民族の場合は、裏付けの松浦四郎の見聞記は、江戸後期のものゆえ今も残さ
れている。
 しかし本土の場合は、鬼が隔離されてしまい、女はみな「長いものには巻かれろ」
と、子種を植えつけられたのは、古代史のことゆえ、太平洋岸の三輪の宮下文書にも
甲斐の本家のものでも、日本書紀に合せて、みな神隠しみたいに、みなそっと匿しこ
んでいる。処が明治になって、アラヒト神が出でたまわれたので、神とは拝むもの、
豪い人が祀られるものと、神そのものの存在が、サワラヌ神にタタリナシの封じ込め
の対象から、改めて敬語をつけられるように、一変してしまったので、ますますもっ
て古代史は何がなんだか判らなくなってしまう。
 父だけが認知の子が庶子とよばれる。つまり庶民とよばれる平民にしても、何故に
認知されたかは、生母が種つけの畑にすぎなかったからであり、男も奴隷として酷く
働かされたからで、隠鬼とされ草と呼ばれ忍(従)の者の間でも、不義は法度で男女
の交わりが許されなかったのは、女は為政者の占有とされていた名残りからきている
ので、昔を伝える文書はみな作りものである。
「腹は借りもの」といった女性蔑視は、世変わりした七世紀からで、それまでの古代
にあっては日本原住民は母系家族ゆえ、「女人は太陽であった」と尊敬されていた。
 つまり女性の敵は、日本名藤原鎌足の世変わりからで、彼らによって圧迫されだし
た。「大日本神祇史」などが刊行され俄かに「神」が尊ばれたが、本願寺よりの御降
嫁の世になると仏教が官憲にて繁栄、「名僧高層物語」などが儲けの多い寺を相手に
次々とでっち上げ出版された。


吉田松陰将門記

 これは松沢保知先生が、真福寺の起源は、足利末期にできた万松院の塔頭ゆえ、ま
さか昔から伝わったものではなく、数多く筆写本が残っているのは幕末、御家大切に
と江戸表の幕閣を恐れた各藩の上士のもとへ、それぞれ提出するため数多く松下村塾
でも、皆が手分けして書かれたものであると教えて下さった維新の裏話である。

 私の恩師権藤成卿編著の「八隣通聘考」(昭和八年九月平野書房刊)の下巻の六十
三頁に、「朱雀朝九年己亥(西暦939年)十二月、平将門反し、関東奥羽大いに乱
る。十年庚午に誅に伏す。同十一年辛丑、首は都に来る。これ純友、将門と相応じ、
四国、九州を掻乱せしため」とあるのを、東大在学中より権藤先生の門下である網島
正興に不審に想って昭和八年暮に尋ねました処。
 当時植物学の牧野富太郎先生や商大の福田徳三博士とも昔から親交があり、彼は自
民党選出の代議士として長崎県より四回選出され逝去された人物でしたが、彼網島正
興は、丁度、権藤成卿先生の講義の始まる前でもあったし、権藤先生の本ゆえ遠慮し
てか、声を落として、
「しようもん伝説は講釈本みたいな小説のはしりで、瀬山陽の戯作芝居で比叡山上の
場でのやりとりが反体制そのもので大評判となった。そこで一般大衆動員には皇大神
宮の版本を何十も作って、各地で御札ふりをし、ええじゃないかと踊り狂わせたが、
各藩は徳川家に睨まれ改易されでもしては大変と、上士の連中は臆病だったのに対し、
薩長側は味方につけるため、『討幕は怖ろしくない。前に権勢に対して叛乱し失敗し
たものの前例もあると、京の儒学者で瀬山陽の遺児瀬三樹三郎が木版本は僅かで江戸
府内で売り尽くされているから、やむなく次々と勿体をつけ、ずっと古い年号をとっ
て附記させ、討幕用に各藩へ何部ずつも筆写本を送らせたものだ』と、品川弥二郎が
講演したのを、話をきかされよく権藤先生も知ってはいられるのだ」
と秘かに話してくれた事がある。そして同書つまり「八隣通聘考」の下巻の前半の6
2頁に、
「我れ独り、旧習例に依り、趙宗高麗の使聘を拒斥す。摂間の権いたずらに高く、州
郡彫弊を極むという第二節の小採題標題をよく読めば、幕末まで反徳川と睨まれたら
御家取潰しになると各藩が、戦々恐々としていた旧習例を、つまり上士階級の頑冥さ
が、いくら遊説しに行っても効果なく、筆写本の『しようもん記』で、ようやく東北
以外は、みな薩長側になって討幕側になった裏話が、ちゃんと出ているからよく読ま
なければいけません」と訓されたものです。
 「ええじゃないか」のお札ふりを各地でなさせた木梨精一郎は、上野戦争の時に千
代田城にいた大村益次郎の代理として、長州人だが西郷隆盛の先遺参謀を勤めていま
したが、英国公使館のパークスに事前に諒解をとりにいったのは有名ですが、「将門
記」を古い年号で筆写させ次々と各藩へ届けさせたのは、瀬三樹三郎は志半ばにして
安政の大獄で先に刑死してしまったので、その遺志をつぎ何百もの筆写本を、筆のた
つ志士に手分けして書かせたのは、吉田松陰の遺言によるもので、門下の白井小助と
いわれるものであります。
 白井は初めは長州藩家老靱負(ゆきえ)の家来でしたが、文久三年七月一日付けで
五人扶持恩米十石で長州家の直臣となれたのも吉田松陰の推挙という。馬関戦争の後
で高杉普作の奇兵隊が創立された際は、吉田松陰門下の白井は送りこまれて高杉に見
込まれ隊長となったが、安政元年に、吉田松陰がアメリカ艦にのって渡米せんとした
際の送別会が、江戸京橋際の酒棲伊勢本で催された時、集まった七名の内にも、もち
ろん在江戸の門下の白井小助もいて、
「如何なる方法をもっても箱根以西の諸藩を味方にせねばならぬ」と彼から後事を託
された。そこで吉田松陰が伝馬町の牢から萩の牢へ護送されて、獄中にあった際に衣
類を秘かに差し入れた件が知られ、幕府を恐れていた長州藩重役の激怒をかい、藩よ
り白井は過料の処分を受けた。
 昭和十三年、日光書院刊牧野謙次郎著の「維新伝疑史話」の中には、その163頁
に、「三浦梧棲陸軍中尉は、山口県平生町郊外に飯山塾を開き在野のまま後学の青年
を教育している彼白井小助こと改名素助が、時たま出京しても下谷の求昌寺に泊まっ
たり、嘉納治五郎の講道館にしか寄宿せぬのを戒め、後輩の山県狂助(有朋)や伊藤
俊輔、井上聞多も今は大臣である。白井先生の旧幕時代の裏話は酔余の雑談とは思う
が穏やかではないし、先生の大業(将門記を古い年号で数多く松下村塾でも筆写させ
る各藩主をして東軍に組させた功労のことをさすらしい)は、恐れ多くも、至尊もそ
の功大なりと認められておわす」と、山県や伊藤博文や井上馨が大先輩として吉田松
陰門下の白井を遇しはしたが、それでもせめて出京の時だけは顔だけでも出しておく
べきだと、いつも直ぐ長州へ戻ってゆく彼になんとか官途につくべきだと忠告をした。
 しかし白井素介と改名した小助は、至尊の御名が出ると忽ち座をすべりおり下座に
て平伏し、「草野の賎民、礼を知らず、まことに恐れ入り奉る」と大御心にたいし奉
って拝礼をしていた。
 権藤成卿の実父権藤直(号は松門)は医師で、久留米藩に籍があったが縁あって明
治十八年に十八歳で東京の二松学舎に入学の時、白井をたよって権藤直は、当時の農
商務大輔の品川弥次郎に保証人となってもらい、山県有朋や大隈重信の許へも出入り
していた。権藤成卿は、その直の息子ゆえ、白井の口から聞いたのか、二松学舎入学
の保証人の品川弥次郎の講演を聞きにゆき、幕末に将門記の筆写本が討幕のために大
量に写し書かれて西国の大名やその上士に出廻った事実を直接に伺い、そのためみな
各藩が西軍にお味方したのだと聞いていたものと思われます。
 なお討幕の際の裏話を、松下門下生生き残りの白井は他にも詳しくよく知っていた
ので、それをよく吹聴されて、明治の大官は、押込みもやった事もあるから、あまり
しゃべられて迷惑を皆していたが、そうはいっても明治三十年代に白井が死ぬと、
「友人白井小助こと素助君死亡」と東京日々新聞上に葬儀広告をその当時二度首相を
勤めていた山県有朋が大きく掲載させ、友人総代として、己が名を筆頭に出している
のは、「明治新聞編年誌」にもはっきりと出ております。まぁ瀬三樹三郎が口火をき
って始めた将門記筆写は、先生吉田松陰に引きつがれ、彼も小塚原で獄門にされてし
まい、白井小助が後をひきうけ、一藩に何部も書き写しを届けて、御一新の際には西
国大名を一人残らず西軍につけたものの、瀬三樹三郎や吉田松陰が次々と刑死してい
るだけに、いくらすすめられても、立身し官員になって出世する気にはなれず、世棄
て人のように寺に厄介になって大酒をのみ酔うと、
「あいつらは今は維新の元勲だと勲章をぶら下げ俄か華族になって、ふんぞり返って
いるが、昔は酒を呑む銭がなくなると黒っぽい手拭で頬かむりして町家へ押しこみ、
御用金にするのだと銭箱を持ち出して逃げた。なにしろ呑みたいし女を抱きたいが、
みんな生まれがよくないから銭をそうしてふんだくるしかなかったし、将門記の筆写
をさせた者へやる銭も要ったから、俺もついていって南りょう銀を、一つかみ貰って
きた事もある」と、当時の悪さをした連中の名を遠慮なくあげて、口角泡をとばして
話をしてから涙を流しつつ、
「死んだもの貧乏というが、瀬三樹三郎や吉田松陰先生も、緒口だけ開いて先に死ん
でいった」
 つまり明治になって生き残っているのは、役立たずの詰まらん輩ばかりだとまで言
い切った。
 選挙と同じで合戦も、ねじ廻しが充分されていて始めて火蓋をきるのが終盤戦での
決戦になる。なにも上海から買いつけてきた新しい硝石火薬で東軍に勝てたんじゃな
い。その前に何百部も筆写し、箱根以西の大名家へ、領主用上士用と何部ずつも秘か
に差し入れ読ませた為と、
「徳川家にさからって御家取潰しになったら、家中一統が困る‥‥といった考え方は
違う。ずっと飼い馴らされてきた犬みたいな習性にすぎん。自分から新皇と名乗り勇
ましく戦ったという将門伝説に目を通して頂ければ、力がすべてで勝ってしまったら
それで良いと、判って頂ける筈です」
と次々に説いて廻ったのが効を奏して、関東以北は別にして箱根より西では、筆写本
のおかげで西軍に加担しなかった大名家はいなかったではないか。根廻しがうまくい
っていたからだ。それを吉田松陰先生に言われて完全にやりとげたのが、この白井小
助なんだ」
 深酒がたたって今いう肺気腫になって吐血して死ぬ最期まで、維新は己が散布した
筆写本のせいであると言い切り、明治の元勲山県有朋も彼にかかると糞みそだったそ
うであります。
 北条政子の死ぬまでが日本の古代史のカテゴリーであるから、「しょうもん伝説」
は西暦939年の架空のでっちあげ天慶の乱の話だとしても、それを題材にした売講
子やデロレン祭文語りらの種本の筆写が、明治維新の世直しに、おおいに役立った事
になったのである。

 とはいえ古代史と一つの線をひいてしまって、神話と結びつけてしまうのは行きす
ぎと言うかあまりにも歴史離れとしか言いようがないような気がする。またヒミコに
戻るが、いくら面白がらせようとして、「ヒミコが天照大神か?」は矛盾しすぎる。
親魏政権で中国へ八幡国群から捕らえた珍しい身長1メートル20センチ以下でも、
頭でっかちで四肢が小さく普通のピグミーとは違う五体満足というか均整のとれた倭
人は向こうで歓ばれた。この生口進貢で、初めは木箱一つぐらいの鉄剣賜与が、やが
て青竜刀や鉄ぼこも貰え十箱になり百箱にもなった。
 さて徳川綱吉の神仏混合令の世となって、柳沢吉保の側室染子の方の実家の正親町
卿の処で青侍をしていた兵馬が、えびす島へ行き浄瑠璃作者となって近松門左ヱ門と
名を改めて「心中天の網島」で、おかみ御政道に迎合して、「この世には神も仏もな
いものか」と、それまで仇敵どうしの神と仏を一緒くたにしてしまった。だから世に
益ありとされて、それまでは門づけの唱門なみの乞食芸とされていた浄瑠璃が、俄か
に高級にランクアップされた。
 だからして「神仏に祈願して」などと心やすく講談や浪花節には使われるようにな
るのだが、「さわらぬ神に祟りなし」の言葉が残っているように明治になるまでの神
は、迷いでてこぬように封じ込めにした対象で、拝むのは仏の方だけで、神は、おは
らいと称して祟りをせぬように、その怨念を榊の葉でお払いしてのける存在で、今と
はまるで違ったものだったのである。
 新羅作りの社に、隷属した高麗系を象徴するのが、今の白木作りの社前の狛犬で、
その名残りであるけれど、「皇大神宮」と申し上げているものの、後で宮大工につい
ては詳述するが、これは桓武帝の時に蕃族として追討された新羅(今の慶尚道)人た
ちの怨念の封じ込めの社に対して、宮も被差別の対象にとされていた。判りやすく言
えば社は「四つ」の神さまであり、宮は「八つ」の方の分類に入るのである。それゆ
え、つまり品川弥次郎作と伝承されている処の、
「宮さん宮さん、おんまの前にヒラヒラするのはなんじゃいな」
の宮さんは、弥次と呼ばれていた「八つ」のこと。おんまは言わずと知れた馬つまり
「四つ」である。御家大切でビビっている大名を白井小助指図の将門記の書き写しで、
うまく開戦前に啓蒙開発できたものの、人工の八割五分をしめるゲットーにかつて収
容されていた庶民の大衆動員がなくては、民衆と離れての革命はあり得ないからで、
それに今では信ぜられぬ事だが、幕末までのお伊勢さまは一般から、「北条まん子さ
まの宮」と思いこまれていた。
 熱田神宮でさえ信長の頃は、「源太夫の宮」とよばれていたのは「信長公記」にも
明記されている。江戸期の無一文でゆく「オカゲ詣り」も「お庇げ詣り」ではなくし
て、本当は日影の連中の「お陰詣り」だったのが本当の処で、道中では、もちろん同
宗の蘇民や越後屋などのシンパの助けがあったのである。
「赤福」も今はふつうのコシアンで唯海洋渡来を形どる波型の斜線がつけられてある
だけだけど、幕末までの「赤福」は現代と違って砂糖の入手が難しかったせいもある
けれど、食用紅で真っ赤で、塩あんか、あんなしのものを、緋の毛氈をかけた床几で
客に出していたものである。
「お札うり」と称し「伊勢皇大神宮」の御札の版木を沢山彫ってそれぞれにもたせ、
宿場々々で上からまき、「四つ」や「八つ」の大衆動員に役立たせ、
「ええじゃないか」「ええじゃないか」と北条まん子さまが蘇ってこられて世変わり
すると男は白粉をつけ女のべべ。女は反対に男姿でねり歩き、「宮」の札だから祟り
があってはと怖れて、おはらいに町の年寄りが地酒の樽を持ち出して振る舞ったから、
彼女や彼はふるまい酒に酔っ払って、宿場全部をディスコみたいにしてしまった。が、
この大衆動員は成功。
 それゆえ街道の庶民にしめす感謝の歌が、まさかヤジさんヤジさんの呼び掛けでは
まずいからして、「宮さん宮さん」と呼びかけを変えて、ちょっと妙な行進歌にして、
東海道を札をのべつつ西軍は勝ち誇って下っていたそうである。
「御霊社」とよんで無実の罪で罠にはめられ非業の死をとげたのが、迷い出て祟りを
なすから封じ込めの為の社が、京福知山駅前の明智光秀を祀る御霊社のような存在も
あるにはある。
 しかし「宮」のつくのは「金色夜叉」の宮さんから一般化しだしたが、恐れ多くも
畏きあたりでも、皇位継承の順位から遠く離れている御方にのみ「宮号」をおつけに
なるのである。
 一言で神宮といっても、下に「宮」がつくのは被差別された存在という事を念頭に
まず入れておくべきである。ここの処がよく呑み込めず、一変した明治以降の観点で
考えてはならぬ。
 なにしろ京の祇園花街の発生も、赤塗りの宮を護ってゆくために、官女が身を挺し
て乱暴され壊されるのを防いだからで、こうした例は何処の宮にあって、「野史辞典」
[日本シェル出版]の「一夜官女」の項目に詳しい。
 さて吉田松陰の「討賊始末記」の本は詳しく私の「吉田松陰」にもでている。
 長門大津の川尻浦山王社の宮とよぶのがあり、宮番で堂守りの幸吉は妻登波の他に
両親と年頃の妹四人と、ひっそり居付き部落にいた処、喰いつめ者の浪人枯木竜之進
が目をつけ、
「宿場女郎では銭をとられる。しかし履物も許されぬ宮番の娘なら一文もいらぬから
儲かる」
と忍びこんで、まず邪魔になる幸吉と、その両親を叩っ斬ってから、十八歳十七歳十
五歳の三人の娘から、まだ子供の十四歳の末娘まで順ぐりにおかしてのけてから、後
の事を考えて、
「どうせ人外の宮で、寺人別帳にも入ってない者らゆえ、あやめても人殺しにはなら
ぬ」
と娘達を惨殺して逃亡。所用があって留守をしていた嫁登波は戻ってきて一家惨殺に
仰天。
 それから十年がかりで、ようやく仇討ちをとげた登波を松下村塾に泊めて、稀らし
い仇討ちの話をきき筆記した際、門下の高杉普作や久坂義助が門人一同を代表するみ
たいに、
「人外者の宮番づれの妻を、今のように何日も寝泊りさせるのは、塾の汚れとなりま
す」
と登波を即刻、松下村塾から追放して、塾をきよめ、お祓いをしようと申し出たのだ
が、
「何をいう。宮の者や社のつるそめ神人を非人としたのは、徳川綱吉の神仏混合令か
らの悪法である。吾らは徳川を倒し四民平等の世をと志しているのに、なんたる差別
思想か情けない」
と二歳年上の登波の十年をこす苦労をいたわり、素足で山野を駆け廻っていたので、
あかぎれと切り傷で腫んだ足に、自ら練り薬を塗ってやり膏薬をはって休ませ、身体
が本復するまで、松下村塾で休ませたのは、藩命で野山獄へ入れられる一ヶ月ほど前
の事であった。
 吉田松陰が「討賊始末記」に詳細書き残しておいてくれたから、幕末になっても、
まだ宮とか、宮の者といった存在が被差別対象にされていた事がよく判る。今の感覚
では判らない。
 なにしろ宮の者とか堂の者といわっるのは、本来は古代史の最後のしめくくりの平
政子の赤系なのだが、藤王朝のトウを滅ぼした契丹人が続々と日本海をわたって入っ
てくると、京では、
「江戸の仇は長崎でといやはるが、故国の恨みを此方ではらしたろまいか」と、でっ
ちあげの天慶(天刑)の乱で、彼らが火山灰地を耕して農地化した坂東八ヶ国を奪っ
て、京の公家どもが己が荘園にと分けあってしまった時、東北へ追討されてサンカの
シノガラの群れに彼らは隠れたからして、契丹系である菅原道真の天神信仰は、「封
じ込め祟りよけ」の堂にしても、紅殻塗りの「天満宮」と、宮扱いにされて残ってい
る。
 「稲荷」こと「夷也」とて同じ紅殻塗りで、エビスなりに被差別してのけられたの
は敵性人種とみなして唐でないつまりトウナイとなしてのことだろうか。唐が滅ぼし
た随の人々が住みついていた「中ツ国」つまり今の中国地方の者を、進駐した郭ムソ
ウ将軍も、通辞に使ったり便利がって用いたけれども、それでも、
「ズイズイ、ズイ転ばし、糠みそズイ」と陰では蔑ませ歌わせ、同じトウの発音でも
桃とした。「桃原」「桃成」と藤文書にでてくる連中が彼らであるのは、「良き鉄は
釘にならず、良き育ちは兵にならぬ」の中国の格言通りに、隠忍(おに)が島の討伐
にやらされるのも藤太郎ではなく桃太郎。


No.2 ‥‥対談‥‥

----なぜ日本の文化が全然理解されていないかといえば、島国というのは、たとえば
英国の場合でも、イングランドとスコットランドとアイルランドとは、みんな民族が
違うわけです。例のスコットランドのジェームス一世が自分の母親のマリー・アント
ワネットがエリザベス一世に首を切られるのを見殺しにし、エリザベス一世の後を継
ぎ、スコットランドとイングランドを合併した。しかし、人民はいまでもスコットラ
ンドは、ケルトというスカートをはき民族別を明らかに今もしている。アイルランド
ときたら二十世紀の今となっても独立運動をくり返し、ロンドンで爆弾を投げ英国と
分離することを望んでいる。つまり英国が三つの民族の合併されたものならば、日本
は九州、四国、北海道、本州と四つの島ゆえ、どうしても四種類以上の民族が複合さ
れているのは、眼にみえた当然の常識ではなかろうか。
 判りきった事ですが、学校歴史では西暦712年に古事記、八年後の720年に日
本書紀ができ、さも印刷されたかゼロックスでコピーでもとられ、そっくりその侭が
現在の活字本になって伝わってきているものと思いこまされ、信じきっている人がす
くなくないのが、まこと困った事というか、あまりにも悲しい国民性ではないでしょ
うか‥‥
『日本書紀』や『古事記』ができた時期よりも、桓武天皇が焚書した時代の方が遥か
に後なんです。ということは、『日本書紀』とか『古事記』という最初にあったもの
は、桓武天皇の時にすっかり焼かれてるわけです。ですから、偽史というよりも後年
の勧学院での創作史です。
 それから学校の歴史では、源頼朝が文治革命を起こしたことになってますけれども、
これはあくまでも北条政子のロボットです。要するに、戦争をする時には、馬をもつ
蘇民系の源氏が有利で便利だからと利用するため政略結婚を北条政子がやったのです。
平定すると無用になった源頼朝が馬から落ちて頭を打って即死ということになってま
す。北条政子に言わせると、梶原源太が殺したんだということにして、まず反北条平
氏派の旗頭ですから梶原一族を皮切りに下手人として殺し、次々と源氏系を、和田と
か三浦とか順々に滅ぼしてしまって、ゲットーへ収容。つまり平氏は北条の名でまた
天下をとったのに源氏は使い棄てゆえ「いつかは復仇せん」と初春狂言にと「誉曾蛾
仇討」を各地で彼らは上演。北条政子は古い平氏。なにしろ伊豆の伊東と今はいいま
すが、昔の古いものをあそこの現地で調べますと、伊はエビスの夷です。豆は津です。
伊東は夷頭です。夷津の夷頭で特殊部落です。また桓武天皇の書き直された『日本書
紀』は百済史の焼き直しだというようなことがいわれるのは、これは桓武さまが百済
系だからです。
 原住民大同団結決起の際、例の大宝律令で弁髪は貴種の良である。それ以外は賎の
民であるとしましたけれども、藤原氏が百済系まで敵に回してはしょうがないからと、
桓武天皇をたて、楯にしたわけで、百済系を、お前たちは今度から良の民にしてやる
から大いに奮励努力せよといって、それで今度も中国から、まだ日本原住民史の方は
石の斧だとか貝殻をこすった貝の刃刀だとか、せいぜい弓矢なのを、徹底的に鉄武器
で制圧したのです。けれども困ったことは、この原住民というのは女上位なんです。
いまでも花柳会へ行くと、女将と書いて、オカミと呼びます。男のことは全部男衆と
いうのです。男は結局、女にとっては全部、単なるセックスの対象にしか過ぎないわ
けなんです。
 さて、この時点において、百済系が良にされ藤原氏が唐で弁髪系ゆえ真似て髪を伸
ばし隠しこむ冠制もできたのです。それ以外の新羅とか高麗は蛮族です。ゆえ蛮族追
放といって討伐されました。『古松軒日記』というものが残っています。その中に、
『人馬市』というのがあるのです。泣き叫ぶ子どもまでセリにかけられている奴隷市
場として、人間と馬を一緒に売っていると書いています。人馬とは「四つ」のことで
ある。征圧された騎馬民族です。つまり日本海を渡って‥‥江上説では体制べったり
で、鴨緑江を渡って九州から入ってきたことになってるけども、実際は沿海州から入
ってきた種族。いまでもバイカル号はかつて横浜から出たんだけれども、今は不便が
られても裏日本新潟からです。片道燃料が助かるからです。最近ウラジオストックの
布設水雷がどんどん六時間で流れてきます。能登半島から佐渡に流れてくるわけです。
新潟のことを幕末までは白山島といっています。ここへぶつかったものが、ベーリン
グ海流ですから、右へと流れ岩手までいってしまうわけなんです。
 また反対の方へ流れてきますと、若狭から出雲にいっちゃうわけです。だからして、
『東日流外三郡誌』などという本を読むと、岩手県人と新潟県人は同種同系であると
され、新潟があぶなくなると、岩手が助けにくる。岩手があぶない時には、新潟が助
けにくる。いまでも新潟県人の田中角栄は岩手県人の鈴木善幸をロボットのように立
てている。白人のユダが有色人種のイエス様を裏切ったにしても、二千年もたってし
まえば時効。それでもなおかつ、ユダヤに対しては、ナチスは、片っ端から捕らえて
アウシュビッツで始末した。つまり民族の血というものは何千年たっても憎しみ合い
が残り、人類みな兄弟などと簡単なもんじゃない。
 さて、北条時代というのは北条政子の系統だが、源氏をみんなブッ殺したり、ゲッ
トーへ入れてのけて、北条氏だけの天下をたてた反藤原勢力です。つまり、南北の六
波羅探題というのは、これは御所のお目付で監視所。御所が謀反を企てぬ為の見張り
です。あの頃は、これは学校の歴史にも出てるけれども、恐れ多くも尊い方を隠岐島
や土佐や佐渡へ全部配流にし、本当の世直しをしてるんです。
 さて、この北条時宗の時に元寇があった。なぜに執拗に元寇なるものが、あんなに
まで何度も日本へ攻めてきたのかと考えてみるべきです。‥‥元寇が結局は正式に攻
めてきたのは二回でしたが、向こうで準備はしても此方へ来なかったのを入れると計
四回もあるわけです。何の目的だったのかというと、単なる進攻ではなかったのです。
今もハバロフスクへいらっしゃると、中央通りに民族館があります。ちょうど階段を
あがって、左側が勝利のウインド。例の二百三高地の時に使った青銅製の古い機関銃
が置いてあるケースで、日本兵がみんな山になって死んでる。
「彼らは我々の目標になるようにわざと白い布で胸を×印に飾って、進み重なって死
んでいった」という説明がついてるとこですけれども、さてです。この建物の正面口
にドカッと直径1メートルの大きさであるのが、笹竜胆のマークです。それからハバ
ロフスクから約5キロぐらい行って、今は軍事基地で全然入れませんが以前はチャリ
ボと言った町がありますけども、ここは面白いことに、笹竜胆のマークの横のところ
にパンダが笹を咥えて右端に出てくるんです。要するにトーテムポールといいますか。
似通ったもので、これから始まりまして、いわゆるジンギス汗源義経説なんていうの
は言語風俗が同じですから、それで出てくるわけです。
 さて、なぜそんなにまでしつこく日本に元寇などというのがきたのかといえば、要
するに北条氏が源氏を全部滅ぼしたりゲットーに入れてるので、元本国にしてみれば、
同じ民族ですから、これをもう一回、本当の源氏の世の中にしたいため、起死回生と
いうか、失地回復のために、損得ぬきで攻めてきた戦争じゃないでしょうか。ですか
ら、北条時宗がそれまで北条政子の時から約八十年ぐらいたちますけれど、清盛から
のあらゆる歴史書と、それから鎌倉の問注文書をはじめ、日本書紀の第五次改訂版ま
での歴史書をここでもう一回一綴も残さず集め焼いているんです。ですから桓武天皇
が百済文字で書いたものも、みなこの時、全部焼かれてるわけです。もちろん次の清
盛や北条氏の都合のいい歴史にできたものもみな全部焚書。何か偽史というと正史が
あって、偽史があるみたいだけれども、もともとはじめから正史などありはしない。
 それから次は、足利時代になりますが、例の足利氏というのは中国に対して「臣源
道義」などと自著し臣従してますから、学校歴史では文字通り源氏だと思って、教室
での歴史は教えています。だがあれは源氏ではありません。祖先の足利持氏は源氏と
いうよりも明白に平家民族なんです。ところが、源という字を付けないと、また元寇
みたいに失地回復に攻めてこられては困るから、外交的駆け引きとしたのです。だか
ら国内向きには、全然、源の何などとは足利氏は使ってないです。ただ対中国に対し
てだけ、臣源道義などと言ってたわけです。ですから日本書紀をはじめ歴史まがいは
完全に焼かれて‥‥いまと違ってゼロックスもなければ印刷屋もない時代で筆写で書
かれただけのものですから、武力権力で集める気になれば簡単ですから、武者所を使
って集めた一切のものは問注所の文書と一緒に、もし元軍が日本に‥‥神風が吹くな
んてことはその時はまだわかってなかったから、日本へ入ってきた場合にやばいから
と、それまでの歴史書と共に源氏をゲットーへ入れた武者所文書も全部焼いてしまっ
ているんです。だから、今の残ってますものは、その後の足利時代の創作。ですから
正史でもなんでもなく、頭をしぼって作った格好づけの創作史にすぎません。