1058 古代史入門 10

各地別の良賎制度

 岡山は今も高梁川の名も残る昔の中つ国。現在でも中国地方とよばれ、隋の国の当
時から大陸人が住みつき白村江で大勝した郭将軍が進駐してきた時は、ズイズイズッ
コロバシ、ヌカミソズイと、郭が唐を藤と名のった時には同音だが桃と名のらせ、桃
太郎の原住民の隠忍征伐の寓話も生れる。なにしろ藤王朝の基地ゆえ、討伐され連行
され囲地にいれられた原住民は多い。
「隠亡と彼らをいう。一般に『オンボウ』と呼ばれ、みな煙坊・穏坊・温坊・汚坊な
どの文字を用うるが、みな当て字にて定説なし。この部落民は一般に茶筅を作つて、
盆暮に各家に配付するが為に、『チャセン』の名あり。御津郡大野村正野田にては、
『セッキャウ』又『ササラ』と云い、児島郡荘村大字木目にては、『オホセ』(帆乾)
と云い、吉備郡足守町深茂にては『アゼチ』と云い、小田郡吉田村にては『キセイ』
と云う。共に其意を詳かにせず。『オンボウ』とは 『亡者を葬り隠すの意であろう』
と、『岡山の玄石生』なる方は、『地方部落研究報告』にかき、その職業の内訳を、
 手工業をなすは浅口郡黒崎村隠亡町、同三和村大字佐方字森、同鴨方村小阪西宇和
部、小田郡矢掛東町、後月郡木ノ子村岩ヶ市、吉備郡穂井田村大字陶字東山等にて、
藍・茶籃・団扇、其他の竹細工、唐臼の製造、貝杓子等を造り、又草鞋・草履などの
藁細工、竹の皮草履箒を作る。
 御津郡大野村正野田とか、児島郡庄内村木目にては、鍋釜の鋳かけ修理、又、桶直
しをなす。
 吉備郡大井村及阿会村にては、彼岸・中元・年末及追善には墓掃除を行い、又追善
には塔婆・花等を墓地に持ち行く仕事も命令されればやる。
 浅口郡長尾村後町・吉備郡下二万村萱原にては、葬儀にあたり棺桶その他装具類の
一切を調達し、土葬なれば埋葬をなし、また墓の建造をなし、火葬なれば茶毘・骨上
ゲ・納骨一切をもやる。都窪郡庄村大字下庄も同じである。
 和気郡香登村大字香登西奥や児島郡郷内村大字林にては、行旅病者、又行倒れを看
護し、身元不明の死者を埋葬することが義務づけられている。
 上道郡高島村祇園や児島郡郷内村にては、部落内の夜警や非常番に従事す。
 要するに貸し与えられた僅かな地面ゆえ、農耕は副業とし、葬儀を正業とし、修理
・掃除・看病、及竹細工・ぞうり作り。時に夜警・非常番をなしていた。
「年中行事」についても、岡山の玄石生は、「民族と歴史」の280頁に、
 吉備郡日近村大字吉村の旧名主役中尾氏の話によれば、同吉備郡の大井村筒井坂塚
谷の隠亡は、年々正月二日未明に、俗に「ヒイゴボシ」とて、仕丁の用ゆる鳥帽子に
浅黄染に直系一尺余の鶴の紋ある直垂を着用し、大小両刀を帯して人足を従え、その
檀家なる部落にゆき、予め定められたる順序により、まず名主の家にゆく。名主の家
にては当日主人早起きし、沐浴斎戒して出て玄関に迎え、玄関先に於て前宵来準備し
置きたる銚子土器を出して、まづ一献をすすめ、次に主人盃を受く。かくて隠亡は謡
ひ初めとして「鶴は千年亀は万年云々」と謡うのである。
 謡い終りて後でなくは、家人歌を謡はずと云う。謡い納めて後、夷・大黒の木版刷
の札を出す。主人は受けとり年玉として白米又玄米壱升と餅数個を興与う。そして受
けたる夷・大黒の札は畳の下に入れて、性根(しょうね)を入れると称して、再三強
く踏みつけて仇をせぬよう後に取出して、これを神棚に納めてしまい、向う一ヵ年は
家内安全が襲われぬよう封じこめするものなり。
 浅口郡黒崎村隠亡町にては、正月元旦万歳楽とて、檀家の主人はまづ門前を清め、
酒肴を準備し、鏡餅一重を盆に盛りて迎う。隠亡来れば万歳楽とて、「新玉の四角八
方八ツの門開き云々」と謡いて祝意を表し、終りて玄関より表の間に上り、ここで主
客賀辞を交換し、酒宴をなし去る。主人はこの時だけは門前にて送る。隠亡は両刀に
て白衣又浅黄に黒の立烏帽子なり。
 都窪郡倉敷町字向敷舞、隠亡部落の森安某という七十余歳の老翁の語る所によれば
正月の装束は維新前までは菊の五ッ紋ある袍を用い三月三日までは大小両刀を帯する
ことが許されしが、維新後の装束は「ヒイゴエボシ」に木綿地、浅黄染、直径一尺余
なる鶴の五ツ紋付たる袍を用うることもあれり、万歳楽の歌詞は「アータマノ(新玉
の)シンシカク ハツバウ ヤツノモン(四角の八方の八の者) オシヒラキ タン
マヒ(給い) シケンニタノシミ チキシノヤマ(真剣な愉みはモモシキならぬ千敷
の山)ナリ」といった意味合いであるらしい。
 ゆっくり判りやすく解読すれば、角型のゲットーに居付きさせられ隠坊奴隷として
西暦七世紀よりとじこめられていた恨みつらみを、自分の万歳として唄い上げるのゆ
え、彼らを先祖伝来酷使してきた名主や村役は暴れられたらと、正月だけは客として
もてなし機嫌をとり餅など与えていた。御津郡福浜十日市部落では、茶せんを持って
くるのに米や銭をだしていたという。
 もちろん正月に餅を貰うだけでは食にことかくから、春秋の彼岸にも例をひいてみ
れば、
「児島郡郷内村林にては、二季の彼岸にシキミを各家に持参して戸口又は軒頭に掲げ
て、志しの米銭や盆の内にのせられたものを受く」
「都窪郡加茂村大新庄字岩崎にても、二季の彼岸にシキミを各自にて持参して米や銭
を受く」
「同郡庄村下庄にては、年頭に夷・大黒を配札し、彼岸・中元にはシキミを届ける」
「吉備郡穂井村大字陶字東山、後月郡木之子村岩ヵ市にては、シキミ茶せんを各家の
軒頭に掲げて札として米や銭を受く」と、千の宗易こと利休の残党が部落民にされて
いたことをとく。
「同郡高松町大字和井元にては、彼岸には檀家の墓掃除をなしシキミを持参する」
「同郡総社町井手にては、シキミ二本を持参し一本は戸内に、一本は戸外に掛けて去
る」
「同郡二万村大昭下二万萱原にては、彼岸に茶筅を各戸へもち来る」
 反仏派の部落者が仏前にそなえるシキミをもってゆくのは可笑しいが食物を得る為
である。
 テレビなどでは百姓がワラジやゾウリを作っているが、雪駄と同じで足にはく物は
限定職。
 収穫時には稲束の番人をしたり、モミをもぐ手伝いをして不用のワラ束を貰いうけ
作った。
 岡山の特徴は同じ大陸人でも契丹系は、唐を滅亡させた国ゆえ、同じ中国人として
逃げこんできた者らも唐が滅した隋の者のようには「良」にはせず居付き地へ収容し
たから、天神信仰がかたまっているのが、他の土地のごとく匿さず、ここは何処の細
道じゃ、ではなくて公然だった。
 御津郡の石井村大字巌井字国守には、同所三門天ッ神社を氏神の天神とす。
 同 福浜村十日市にも、やはり氏神が部落には匿され天神宮あり。
 和気郡香登村大字香登西字奥部落には、氏神として祀られる天神宮あり。
 邑久郡牛窓町にては、天神山の千壷あれば、ここにも、天神宮ありしことが知られ
る。
 都窪郡の加茂村新庄字岩崎は、同帆崎天神宮に近し。同正清音村小屋にては、これ
を天神山の古墳と称す。
 吉備郡箭田村字土師谷(ひじや)には氏神として天神宮あり。
 同郡久代村土師谷には、式内社の横田天神宮あり。
 同郡大井村筒井坂塚谷には、和田天神宮あり。
 以上調査を了したるものに依れば、隠亡の大部分にほとんど、天神宮を氏神とし、
これと深き関係を有せしもののごとし。つまり天神信仰とは藤原氏に追いこまれた契
丹系の裏書である。
 四国の土佐となると、高地の寺石正路の研究が、それに続いて発表されている。
 旧藩の頃には、土佐の賎民には、長吏・非人・エタの三階級があった。長吏は其中
でも取締りを勤め、上級で、数も少なく、非人は極めて少数で、エタは下級で大多数
であった。其外には夙とか、隠坊とか。鐘打とかいうものらは一切無かった。住所は
左の通りに限られて居た。
 高地高岡郡
 舟戸 越知面(ヲチヨウモン) 梼原 四万川 仁井田 与津 窪川 久札
 須崎 日下 佐川 戸波(ヘワ) 高岡 高地土佐郡 森 一宮(イツク)
 潮江 小高坂 朝倉 神田
 高知香美郡
 西野地 野地 赤岡(その部落ヲ、垣内ト称ス) 前ノ浜 古川
 垣内は関東の開戸、皆戸、海渡と同じで奈良の夷(生)駒と同じで、居付き部落は
女だけで、
「長いものにはまかれろ、すぐさまに前をまくれ、絶対にもたつくな殺されるぞ」
という部落。
 高知長岡郡
 坂折(昔ハ大部落) 改田 豊永
 高知安芸郡
 唐ノ浜 奈半利 吉良川 羽根 浮津 領家 津呂 室津 元村 崎ノ浜
 野根 安芸西浜
 高知幡多郡
 三原柚(ユ)ノ木 山田 黒川 宿毛(スクモ)和田 三崎 布(スノ)中村
 右山 入野 佐賀 上山 十川 田野々 下川 橘
 高知吾川郡
 伊野 弘岡 新川 諸木 吉原 長浜(明治初期の特殊民の大同部落)

 高知近傍で小高坂村のものは小高坂山西谷を占め、潮江村のものは潮江・袋野の谷
を占め、谷の者といへばそれかと人が合点する。吾川郡伊野町でも山谷地を占め、矢
張り谷で通ずる。
 世界でも例のない印鑑証明を添付させ、サインなどでは法的には認められぬ日本独
特の苗字は、ここから生まれてきているのである。谷田でも谷川でも四国人なら特殊
とすぐ判る筈である。
 旧藩の頃の取扱いぶりを聞くに、何所でも同様に極めて卑下せられたもので、別居
別火はもとより、普通の民を御在家様、又階級によりて御侍様と称し、たまたまその
邸に参つて、土間に座し或は土下座の侭にて挨拶談話し、火は別火を給せられ、これ
にて煙草など吸い、いまだ縁や畳の上にあがるを許された事な無かつたとの事である。
それでも、郷土と彼らは自称した。
 その頃は正月の三ヵ日には、得意先の旦那の家を廻り、新年の賀詞を歌文句にて申
上げ、餅米酒銭などを貰受く。これを「ホメ」という。褒め祝するという恰好である。
又上巳・端午・棚おろしや神奈・盆の節季に、やはり得意を廻りや餅残肴など貰うを
例とした。女子は後帯を許されず、五寸幅位の前帯をまとひ、髪は島田・本島田を許
されず、唯の結髪であったといわれる。
 安永七年(1778)といえばロシア人が国後島へ来たり平賀源内が召捕られ翌年
獄死の年だが、
「近頃は百姓のようにばけ、はたご煮売りやに入りこみ酒食をなしたり泊りこみする
エタ非人共がいて、中国筋にては非人茶せんの類の悪党宿とか盗人宿まであり、そこ
に集っては村方へ盗みに行くは言語道断。郷土、町人や百姓の身なりをなしている者
は見つけ次第に捕え仕置」
と江戸表より土佐にも通達がきた、土佐山内家でも、それに準じて各奉行へ命令をだ
し、
「部落内の風儀よろしからず、秘かに抜けだして百姓や郷土風に紛れるは不届。百姓
家に入りこんだりするは、身分をわきまえぬ仕儀につき、部落よりの抜け人は、捕え
即刻打首とす」
 さらに差別を厳しくした。この部落から抜け出るのは「忍術論考」[日本シェル出
版]に詳しく、土佐の被差別地から幕末には岡田以蔵が京へ送られ「人殺し以蔵」と
して暴れたが捕えられると前述通り、「無宿者」と獄門さらし首にされたのも、民族
差別の、その筋の者のせいである。岡山の部落に「茶せん」の名がよく見かけられる
のは、千の宗易がササラ衆を集めて秀吉の外征の不在中に反乱するのではないかと、
今は表千家として残っている者らを出征に先立ち、居付き部落へ非人として追いこん
だのは「利休殺しの雨がふる」「利休殺しの秀吉」[などの]私の本に詳しい。
「源=元、平=ペルシャ、藤=唐、橘=契丹の四種の他に皮田は別にある」
と近江ではする。
 そして皮田は神功皇后の三韓征伐の際に、捕虜として連れ戻った者の後裔ゆえ、卑
しめるのだと言われているが、今では三韓の一つの馬韓から日本へ攻めてこられたの
が、神功皇后だと言われる。すると馬韓からきて捕虜にされた者の子孫かといえば、
三韓の日本統治は彼らが互いに戦って続いたから、その子孫ならば良であって賎では
ないことになる訳けである。
 そのせいかも知れぬが、元国の源氏の子孫が製革業者になり、ペルシャの平氏の残
党が、エタとされて各部落に居付きにされゾウリ作りや農耕を苛酷に課役され逃げら
れはしなかった。
 特に近江は、その昔に「八つ」の高天原があって、鉄武器をもって攻めてくる中つ
国つまり中国勢の岡山軍と戦っていて貝刀や弓矢ではかなわず、富士まで追われて富
士王朝をたてた由緒地。
 のち織田信長が平氏を名乗るように、八田別所の出身の父信秀が尾張へゆき、勝幡
城の城番となって主家の織田姓を貰って名乗り、美濃を[信長の]妻奇蝶の謀略で入
手後は伊勢を奪い、やがて、「八の者に限り商売は許す」という永禄八年の信長の裁
可状で、清洲を楽市つまり無課税地にしたり、足利義昭に税をとるだけの関所の撤廃
をさせた。八だけが商売を許され無税でしめしができた。諸国の八の者たちが駆けつ
けて、戦には弱い尾張兵を助けて天下布武の世とした。
 かつて近江の高天原のあった琵琶湖の弁天涯に安土城をたて、敵の坊主を目の敵に
して、比叡山延暦寺を焼打ちにしたり、琵琶湖で寺詣りした次女三名も打首。甲斐攻
めでは生きながら坊主の丸焼きもしてのけ、各地の八の奴隷部落を解放し、天正七年
からは右大臣もやめ藤原王朝の御所とは対立の立場をとり、天正九年の馬比べには鉄
砲隊を率いて実弾を射ちこみ御所へ乱入して示威運動を敢行までしたのは前述した。
信長の今でも人気のあるのは部落解放者。
 つまり天正六年から八年に、秀吉が千の宗易の一味の反乱防止に刀狩りする時に、
また居付き部落へ戻してしまうまでの十五年間。全国の八の者らは信長を慕って近江
に集まり住みついた。
 恐らく八の者たちにとって北条時代が去って、足利の散所奉行によって狩りこみさ
れ、居付き部落へ入れられてから、初めて自由に呼吸ができ、生きとし生きられたの
も束の間の仕合せ。
 だが足利時代の京の蜷川の銀で各大名の京屋敷の者が買収され、京の各山も応援し
て蜷川道斉の姪の夫の斎藤内蔵介が本能寺を爆発させ、毛髪一本残さず信長が吹っ飛
ばされて死ぬまで、近江に集っていた八は仕合せだったが、さて秀吉の代になると翌
年には早や手廻しに、「天正十一年裁可状」なるものが各寺の本山からの政治献金を
集めた秀吉によって出された。
 信長は八ゆえ絶対に反仏派だったが、秀吉も八なのに、銀こそすべてと妥協したの
である。
 こうなると反仏派の近江の八は追われて「近江乞食」などといわれた蔑称が今だに
残る。
「近江における武士と旧エタ」の題名で「民族と歴史」の297頁から柏原の中川泉
三の投稿では、
「近江に於ける佐々木蒲生氏等の武士が、屠児をその居城附近に置きしは、甲冑刀弓
馬具等武具には、必ず革工を必需とせしためなり。この意味を解して武家時代の城跡
と附近の特殊部落とを参照すれば、はっきりと繋っていてよくわかる」
と大正初年に、もう説明している。
「蒲生郡に於ては中野村大字小脇に島前あり。程遠からずして野口の部落あるは、佐
々木氏小脇の館と、布施氏の布施山城跡に接し、北比都佐村大字豊田の屠児は日野の
蒲生氏に深き縁を有し、綿向神社の例祭には草履を納めていし古例あり」
「武佐村南野の大部落は金田村の大手より移住せし伝説を存す。金田は佐々木時信の
時より城館の地となり、時信を金田殿と称せし程なれば、城大手に屠児在住の必要あ
りしは前例通り」
「佐々木高頼が、足利義尚及義材の為に前後二回の討伐を受けしより、金田の城や館
亡び。其子定頼義賢に至り大に観音寺城を修築し、其の城下町に繁栄を計りたれば、
金田の屠児も随うて蒲生野に移住せしは、当然の事とす。織田信長の安土城下に宮津
の部落あり。現今屠獣せざるも昔は屠児なり。自からいう信長に属して此所に移住せ
りと。豊臣秀次の八幡山城下に大字大森の地名がある、何れも武士と革工の離る可か
らざる由縁を語るにあらずや」
「犬上郡呉竹部落は京極氏の甲良庄に属し、坂田郡の大部落千草は上坂氏の根拠に住
し、息郷村の三吉は堀氏や樋口氏に属し、浅井郡虎姫の大井は浅井家の小谷城と遠か
らず、伊香郡木ノ本の広瀬は千田氏の根拠に接して、革工の部落ある附近を探れば、
各々城と接近するものが多い」
 信長が安土城を築くまでは、「八つ」よりも皮組工の「四つ」の部落が、当時の軍
属工場として近江にはかなり多かったものとする。
 近江は信長が征圧するまでは「四つ」が多く、足利家では僧籍の山岡景隆を近江半
国の守護代として残り半国を、仏教系の六角承偵とした。「小谷千人まいす」とよば
れるように、彼らを各地の探索方とさせるため、秘かに各地へ送りこんで勤めさせて
いた。
 浅野長政の城の近くの脇坂は八の部落であって、小谷攻めの信長の先手となったが、
信長の死後は「四つ」が取って変ったから、頭目の脇坂甚内によって部落民は武士と
なったらしい。

 名古屋市というのは市章でさえ○に八。「塩尻百巻」の絵図をみると、ぐるり元禄
時代は八の部落である。なにしろ東海道五十三次といっても、今の鳴海球場の星ヶ崎
からは舟で宮の渡し。そこからまた海上七里で桑名で、名古屋市内へは他国者も足を
絶対に踏み入れさせなかった。
 亨保二年二月その前月に紀州より八代将軍となった吉宗が大岡忠相を登用して、八
の者を、
「斬髪頭にしても、笠や頬かむりにて隠せば見分けがつかなくなるゆえ、首はねて処
分す」
と苛酷な布令に対し、兄継友を紀州の御庭番村垣左太夫の手の者に毒害され、奥州梁
川三万石より戻って尾張藩主となった宗春は部落弾圧に対して拒み通して、
「そんなとろいこと‥‥よぉせんでいかんわ」
と名古屋の八には斬髪などせずだった。
 この布令違反と、章善院目録に「権現さまの唯一の曾孫として書くが、松平元康の
改名でなく世良田の二郎三郎だった」の筆禍で改易閉門。尾張藩主は代々、吉宗の子
の田安家と一橋家が継いだ。
 だから居付地もなしで全部が自由で、見分けの斬髪もしてなかったので、御三家の
家柄でもよそ者には通行はさせなかったのだろう。名古屋の三宅光華が下奥田町の部
落をかいているが、「由来する処は不明」と前もって断わっているのは、尾張宗春の
閉門、その子らの一斉早死を宗春の素行不良といった徳川家の宣伝で、今も八の斬髪
を拒んだ真相は判らずじまいである。
 昔の名古屋の市電は西裏までで、一つ手前が私の父が弁護士をしていた車道。その
電車通りを越した突きあたりが下奥田町で、私は遊びにゆき東田町の白山社までの大
正時代を知っている。
 明治新政府になって国民皆兵皆税となって名古屋の八も生活がきびしくなり、此処
へ困窮者が集まり市営アパートの建設となった。が、名古屋弁にはアラブ語が多く混
じって八母音である。「野史辞典」の「袋槍」の項に、仙台は昔の多賀城の中国軍進
駐の落し種で一国をなし、東北地方では唯一の藤原王朝系の土地で武士の道具も中国
風の凸槍だったと書いてある。「旧仙台藩封内のエタ」として、「みのかさ」との筆
名の投稿にも、
「非人、乞食の称は仙台になく、皮坊、ホイト、他ではトウナイというのをジュウと
よび、新河原町に居付地として幕末まで木戸を設けた一区画に、みな押し込めていた
が、会津戦争に彼らは敵の西軍に味方をして、それで解放され自由となった」
とでている。
 裏日本の越中永中見郡のトーナイについて、鳥尾正一の小文は、奈良四天王寺の原
住民の隠忍(おに)を征圧した勝利記念碑とし四本指に作られているのが、皮田がカ
タワと誤られているのと同じで、外から見られぬ指骨が十本なく、二本たらぬと仏像
に踏まれ蔑視されたと書いてある。
「神主、医者十無い」といって貰いで生活するから、裏日本では蔑められているが、
越の国は日本海で渡ってきた「四つ」の本場ゆえ、場違いの契丹系だけを特殊視した
傾きがある。
 さて京都駅の近く一帯が靴屋で四つの旧居付地。大阪の梅田駅はその直前が渡辺橋
で、五ヶとよばれ皮なめし用に小便桶が並べられていた処。名古屋駅も明治の初めに
笹島部落とされていた土地。昔の鉄道院はオカミの権力で安く買い叩ける土地として、
旧部落地を否応なしに駅用地にと収容したのであろう。(トウナイは指が八本の意で
はなく、本当は唐で無い契丹のこととは前述)
 同じ越後魚沼地方についての宮沢万平説でも、明治になって初めて番太の制度がで
き夏番と秋番に分かれて村の番を取締役の指図でした。死亡者が出た時も米餅や銭を
貰って始末した。
 川船頭や橋番となって、米麦や餅を定期的に貰って暮していたが、もし誤って一度
でも常人と交わると、やがて死んで焼いても女は陰部だけじめじめして焼け残るとの
言い伝えもある。
「播磨印南のモチ」としての投稿では、五木の子守唄にでてくる「オドマ勧進々々」
の勧進が代官の先導役となって大小をおび六尺棒を携えて、百姓の収穫高を調べ報告
し、手間代としての米麦を得る。村役人もかねていて、危険な捕物に当たらねばなら
ぬので、代官に真剣の試合や棒術、捕物術の披露をしてみせた。つまり幕末の剣豪は
みな賎。千葉周作にしても馬飼医の伜。斉藤弥九郎は越後高田の部落から油屋の下働
きから賎業の薬屋の小僧上りであった。
 アサリ河岸の桃井道場の初代八郎左は紺屋。伊庭軍兵衛も、やはり勧進者の出身で
ある。
「千金の子は盗賊に死なず」の唐の諺が藤原王朝にももちこまれ、危ない捕物は、死
なしても惜しくない賎の勧進や八部の限定職とされていた。治安維持のため抜刀罪と
禁止されていたので、武士は刀をおびていても抜く事はなかったのは「忍術論考」に
詳しく、黒船来航の幕末までは町道場や剣術師範など武家法度の法律で厳禁ゆえ、幕
末までは存在せず、つまり刀をさしていても抜刀は厳しく取締まられていたので、小
さな十手や六尺棒でも文久二年までは召捕りができた。
 「四つ」の里の柳生でさえ、ずっと伝わっていたのは新陰流ではなくして山田流の
棒術だった。
 居付勧進は貧乏したが、大名領の勧進は黒船来航からは身分は足軽なみでも剣術棒
術を捕物に稽古していたから師範として、幕末になって初めて採用され、勧進の衆は
改めて相撲興行などして儲けたりした。つまり町道場は各藩の内ゲバで上土の暗殺防
ぎのガードマンに就職口ができたからして、幕末から各道場が江戸でも黙認されだし
たので、町道場が田舎廻りの旅絵師なみから、初めて江戸にも進出できた。剣客の言
葉は、庄屋や名主の許で客として泊めてもらい、小作人の若者に稽古をつけていた頃
の名残りなのである。茶湯、生花、能、芝居、すべての芸術が全人口の九割をしめる
賎の民の所産であるが、「剣だ剣だ」という刀術も、実際はカンジンとかトウナイ八
部衆がオカミの捕物として伝承されてきたもの。彼らが村役人として二刀をさし維新
後は写真をとったりしたから、二を抜き三一サンピンとの蔭口も生れたのである。


「神皇記」否定 甲斐宮下文書

 古代史の内ゲバみたいであるが、三輪氏「宮下文書」が最近三万円の定価で復刻さ
れたが、石井広夫は、その「神祇古正伝」で、三輪氏は宮下の神人(こうど)つまり
奉公して仕えていた身分の者で、真の宮下文書は延暦の大噴火にて、富士山の裏側の
甲斐国へ待避した宮下本家の本物のとは似ても似つかぬものだと主張をする。石井は
憤りを露骨にしめして反撃をして、「三輪氏の神皇記は、宮下文書に拠り、富士山丑
寅の地方をもつて高天原なりとしているが、その説くところは本家宮下家の伝書とは、
余りにもかけ距った作りものめいたもので、否定するしかないようなものであるとい
える。つまり韓国系の人の加筆訂除の感すらないでもない」と主張がされている。
「記紀を虎の巻みたいに、それと食い違う点を互いに論難する古代史論争は別に珍し
くない。しかし富士王朝を立証する宮下文書ををめぐって、宮下家の当主が正統な記
録をもって裏日本へ逃げている。太平洋岸で残存のものをつなぎ合せ、お目つけの進
駐軍の桓武帝のクダラ系の武力に脅かされ、使用人三輪の先祖が書きつづり作成した
今の神皇記は信用性のあまりないものだ」
とする本家争いみたいな論争は、これが唯一のものであろう。唯一の古代史のつもり
で大金を投じて購入した人には、まったく浮かぶ瀬もなく、お気の毒としかいいよう
がないようである。
 昭和八年十月建設社より有坂与太郎の「日本玩具史」や「日本雛祭考」と共に刊行
された石井広夫著の「神祇古正伝」第一巻によれば、今の「神皇記」は覆刻で初版は、
昭和四年七月に三輪美煕氏が発見し世に問うと刊行されたゆえ、それへの否定として
石井によって書かれたものであって、まず本物の宮下文書の所在地として、甲斐国南
都留郡明見村大明見の宮下家と明記されている。
 そして三輪著神皇記と対比して誤りを指摘するため、相違する内容の重要点をば、
個条書きにして、六ヶ条を次々とあげて、甲斐の宮下本家の方が正しいとし、三輪氏
の神皇記を、絶対唯一のもののごとく過信するのは、まったくの誤りであると石井広
夫は証明しているのである。

(1)富士山根本浅間神社 大川見 小室沢
   御神体は天照大神之剣、ニニギノミコト御夫妻の衣類の断片。
  (註)船形石、この石はニニギノミコトが天降りたもうた時のものであると日本
   書紀にはあるがアラブのヤスドや明日香に残存の酒匂石と同じで、四方拝で火を
   たき水を流した祭壇らしい。
  (註)木花咲耶姫之御鏡 小舟や筏をつらねて日本列島へ渡来してきた時に、は
  ぐれぬように、相互に反射しあって水先案内に用いたものであるらしい。
   本社浅間神社々地に、太古より船か筏にてつかれた時の形見らしいものと想定さ
  れる。
(2)富士山根元(本)福地にある八幡大神大明見
   崇峻天皇二年と日本書紀にはでているが、寒川尾の富士の裏側に移り合祀されて
  寒川大明神として、神社よりは格下げの「名だけの神」の意味の、名神つまり明
  神としてまつられている。
(3)延暦十九年の富士噴火大焼けの後に、太平洋沿岸の相模国より富士山の裏側の寒
  川の神尾に移られまつられたのであると甲斐宮下文書には明白にしている。
(4)福地八幡の宮地は社地千六百十坪内で千二百十坪は天神地としてゲットーの除地
   であった。
   (註)江戸時代の寛永三年戌七月十日の日付けと明記されている。
(5)寒川八幡大神、神領二貫
   小室浅間神社、  同一貫半
   天満天神宮、云々
   享禄三年[1530]寅七月八日

 この西暦1530年は戦国時代の始まりで、西では正月、蝮の道三こと信長の室奇
蝶の父の斉藤道三が美濃一国の当主となる。六月には関東管領上杉朝興が、家来の小
田原の北条氏康に攻めたてられた時、苦しい時の神頼みで、崇拝する余りではなく、
ただ北条氏康反乱の封じ込めに寒川八幡や小室のセンゲンや同地に、やはり封じ込め
の契丹系信仰の天神も敵に味方をせぬようと義理がけするために、銭を二貫文等を買
収するために出したのであって、御所から認められたとか、時の征夷大将軍足利義晴
より寄進されたというものではない。とはいえ、太平洋岸の富士王朝が絶滅させられ
山裾を廻って裏日本の甲斐へ運ばれた宮下本家のもの。

(6)寒川の祭神は、日本書紀の記載では大山祇命国狭槌尊なりとしてしまっているが
   、応神天皇記では、木花咲耶姫尊と前後で違っていて信頼できぬ。しかし大山祇
   命というのは寒川彦命・寒川姫命加茂沢姫命と言われる御方であるらしい。また
   寒川彦、寒川姫菊理姫なりとも申しあぐ。
(註)命と書きミコトと呼ばせるが、古代アラブ語では逃亡奴隷をMIKOTOと書
くと「天皇アラブ渡来説」にはある。つまりアレキサンダー大王によって征服された
アラブの首都SUSAの民は、日本ではスサノオノミコト。スメラ山脈のならぶ今の
シュメールのアブダビ海より、開拓奴隷としてガレーリナとギリシャ語でよぶマレー
シア及び今の雲南北ベトナムへ送られ、そこから黒潮にのり日本列島の瀬戸内海へ漂
着し這い上がったのを一括して、スメラミコトという。
 富士王朝とは、そもそもが太平洋沿岸へ流れてくる黒潮渡来の人々のだが、富士山
の大噴火や藤原王朝の討伐のため東北や裏日本へ逃避した「八の民」が主としてかつ
て建てたものである。

 以上によれば、甲斐国明見に、浅間神社や寒川神社及び天神や八幡宮鎮座とあって
寒川及び八幡の二社を合祀しもうしあげ寒川神社となし、延暦年中相模国より還し奉
ったのが、太平洋沿岸の浅間神社でなく今の甲斐寒川神社で宮下本家も、御神体に伴
してきたり仕えて、そのまま住みついたものなりと伝わっている。
 右につき、まず明見の御祭神より改めて、従来の宮下文書に対して考証とすること
とす。