1057 古代史入門  9

紺屋高尾浪花節考

 紺屋の職人久六が吉原の花魁道中を見物し、全盛の高尾太夫を見染め、三年間とい
うもの必死になって働き、ようやく遊興費を貯め、若旦那の恰好で行ったものの、正
直に久六は、
「本当は、わっしは紺屋の職人。まだ三年がとこ働かなくては此処へは来られません」
といえば、
「まあ、よく実(じつ)のある話をしてくんなました。なにも三年も待たいでも、来
年三月にはわちきの年期があけまする。そしたら、ぬしさんさえ添うてくださるんな
ら参りまするぞえ」
「えッ、大名衆でも気に入らねば首をふるという、今、里では全盛の高尾太夫が‥‥
まさか」
「傾城にも、まことは有りんす。わちきは三年も働き、逢いにきやんしたおまえに、
ぞっこん惚れんしたわえ」との言葉。
 久六は夢かとばかりに驚いて、戻るなり脇目もふらずに仕事をして紺まみれになり
つつ、
「来年三月、高尾がくる」と唄うようにくり返しつも半信半疑で悩んでいた処、本当
に年があけ三月になると、久六の実にうたれた高尾太夫が、素人のおかみさん姿で駕
できたという話。
 故篠田実の、この浪花節が一世を風靡したのは、紺屋というのは関西では青屋とよ
び、部落者のせいである。言うなれば社会の最低辺の人外者でも誠実にまじめに働き
さえすれば高峯の花のような高尾のごとき太夫でさえも嫁にくる‥‥だから一心不乱
に仕事に精を出して働けば夢も希望も与えられるという教訓めいた浪花節だが、作ら
れ流行したのは江戸時代ではなく。昭和初年の満州事変の始まる前のこと。という事
は紺屋は鋳かけ屋わらじ作りと同じ最低層のエタだったからで、四十年前までは被差
別部落の彼らを、もっと国益のために働かせようとの施政方針。
 さて紺屋こと青屋に関して「慶長見聞書」には、日本原住民の事とはせず、勿体を
つけ、
「(前略)日本に墨なし。木のやにをねりて物をかく。色悪し。にかわ唐より渡る。
重宝と思召され、小野妹子大臣御使にて唐へ渡らせられ、初めて、にかわ作りを覚え
具足を作る。太子御感なさる。其後音楽人渡る。又かわら焼も渡る。大工も渡る。但
し大工はエタより先に渡る。後に渡る者共は言葉が通用せざるゆえ、かのエタに万事
を教へられ、案内されし故、今に音楽のやから、あをや・すみやき・筆ゆひ迄、己が
身分より下と申すは此時より初る」
と、江多以下の非人のランクをさす。
 太子とは聖徳太子のことらしいが、ディーゼル機関が発明される迄は日本から中国
へは北東へ潮流が流れる時、中国からは南西へ潮が変る時だけ、つまり冬だけ向こう
へゆけ戻るのは夏。
 契丹に唐が滅ぼされるまでは遣唐船が冬に出航し、夏に戻ってくるが二年がかりの
往復である。
 それなのに墨や革具足が重宝だからといって、楽人や瓦焼き大工までが来るのはお
かしい。
 正しくは遣唐船の戻りに向こうの食い詰めたのが同行して日本へ来たので、同書は
文禄の役で明国と戦った後の慶長年間ゆえ、エタは中国渡りの人種としてしまいたい
為の妄説だろう。
 なにしろ事実は逆で中国渡りが藤原王朝。彼らによってその侭の大宝律令が輸入さ
れ、それまでの日本原住民が賎とされていたゆえ、何が当てにならぬといって、日本
の古書ぐらい、まったく好い加減なものはないと言っても、あえて過言ではあるまい。
そもそもがである。
 良賎の区別は、山野に昔から自生している木や草や土、獣に山繭といったものは古
来からの物ゆえ賎の既得権益で、植木職の坪立、木こり、炭やき、土をこねる左官、
薬草や染物をする藍草の紺屋。獣を捕えて革をはぐ仕事や山繭を編む仕事も、彼らの
限定職とされていた。
 つまり桑をうえて養蚕や、切り出した木で細工する大工や指物師の加工仕事は良と
された。
「特殊部落発生史」[日本シェル出版]に私が初めて解明し、よく詳述してあるが、
宮本武蔵と一乗寺で決闘したようにかいた吉川英治の創作の、吉岡道場の初代吉岡拳
法は、御所に入って能見物中に、編笠を目深く冠っていたが、家業が紺屋なので指先
が青いのを衛士に見つかってしまい取り囲まれ、
「おのれッ不浄なエタめッ」と槍ぶすまで突き殺されている。藤原王朝の御所の内だ
から、敵は大勢で味方は一人。いくら吉岡流小太刀をあみだした剣豪でも殺されて晒
し首となった。
 さて「雍州府志」には、「青屋はエタの種類なり」と書かれ「芸苑日渉」にもはっ
きりと、
「むし風呂屋や藍染屋のごときは、これまた厠戸(カワヤ)と同じものなり」と出て
いる。
 阿波の国は、阿波の鳴門から黒潮が太平洋へ抜けてゆく最後の陸地へ、とり縋って
泳ぎついて這い上がった古代海人族、つまり後の平氏の祖先が多く住み、彼らが藍玉
を作り出したゆえ、「三好記」という足利時代のものには、「三好長春が滅亡したの
は青屋四郎兵衛としたしく、その子の大太夫を小姓に召し抱えたのが、反仏の者ゆえ
仏罰にあたった」と、さえ出ている。
「青屋と申すは化物にて、年寄どもしか知らぬが、化けてこの世に現れて仏敵となる
もの」とか、「エツタが皮にした毛皮を染めて青屋染という」と「三好記」の筆者の
僧侶の道智は、仏教に転向せぬ紺屋をくそみそである。しかし当時の紺屋は、皮屋と
共に儲かっていた。

 寺では何とかして彼らを転向させて、おおいに布施をとって儲けようと、堅久寺な
どでは莫大な銀をとつて寺人別に入れはしたが、他の寺にやっかまれて、やむなくや
めたともある。
「慶長見聞書」と違う「慶長見聞集」の一節に、「雲蔵乞食のこと」と題をして紺屋
の悪口を、
「雲蔵とよぶ若者が阿波江戸町にいたが、神田の真行寺へ跣足で、代々紺掻きの職人
をしていたが、親も死んだことゆえ足を洗って、ぜひとも仏果を賜りたい」と布施を
出して頼んだが、
「今さら親代々の紺屋をやめることはない。『みちのくの忍ぶ文字ずり誰ゆえに、乱
れそめにし、我なら泣くに』という古歌もあるくらいで、藍作りは阿波にとって大切
な国産ゆえ、その職に励み、殿様におつくしせい」と諌めたとある。
 この作り話の雲蔵とは、後の「雲助」と同じで、先祖が遠いアラブからきたという
言い伝えは、黒潮暖流が判らぬ当時としては、さながら空の彼方から雲にでものって
きた輩とみての意味らしいようである。
「源平盛衰記」には紺掻きの紺五郎が、尾張で殺された面識のある源の義朝の首が獄
門台にさらされたのをみて、秘かに奪って、それを人知れず埋葬したゆえ、義朝の子
の頼朝の代になると、北条政子に鎌倉へ召されて平家の武者に取り立てられた話もで
ている。

「令集解」には、唐の大宝律令の「染戸」を引用して、やはり紺屋を反仏派のエタと
定めているのである。限定職の紺屋は青ばかりでなく、紅花を採ってきてそれで紅布
も作っていた。
 だから「私訓栞[しおり]」にも、
『藍屋を賎むのは「陀羅尼経」に、藍染屋は往来を歩くことえず」という制あるによ
れりと云えり、青を染むるには多く虫を殺すと云うのも「薩婆多論」には見えたり』
とでている。
 これの下敷となったと伝わる寂照和尚の「谷響集」にしても、元禄二年にできたも
ので、反仏教派の革屋弾圧のため皮を剥ぐなの「生類憐れみの令」が発布されて三年
目のものである。
 つまり四つの製革業はオカミの法律で取締まっているから、反仏派の「八つ」の紺
屋も、ついでに叩きつぶしてしまえとばかり、和尚が、お経を勝手に引用して適当に
勿体をつけて書いたのが、
「この国にては俗に、藍染屋を賎しみこれを嫌う」とし、防羅尼経や薩婆多論を引用
して、
「よって藍染屋の家業をなす者は屠児つまり皮屋と同じにして、賎しむべきばなれば
なり」
と、藍草や紅草を山でとってきて染物にしては法にふれぬから、各寺の説教で一般に
広めようとした。テレビや新聞もない時代である。石山本願寺浄土真宗の説教僧は各
寺を廻って歩き、
「仏敵織田信長は、石山攻めの先手をさせた明智光秀に殺された。因果応報、仏罰て
き面」
と、有難やの有難やと節廻し面白く話したのが広まって本当みたいにされ、公家の日
記類さえ徳川家の京所司代の指図で、今みられるよう信長殺しは光秀となった。説教
の効果は大きい。
 関東はみなそうだが、捕虜奴隷として囲地に収容されて目立っていた関西では、友
禅屋もエタの頭に「八つ」の人頭勢を棟銭として支払わされた。水上のオンボ取締の
支配下のせいである。
「京都御所役所向き大概覚書」の亨保二年の「エタ青屋ども勤め方のこと」の掟があ
る。
一、粟田口刑場にて鋸挽き御仕置の課役。さらしものにして昼夜三日にわたり寝ず
  に張り番する、三日目には磔で処刑し、よって見張り番として昼夜七日続けて
  相勤めること。
一、同所火罪御仕置の課役 但昼夜七日番相勤めること。
一、張付御仕置の課役 但昼夜三日番相勤めること。
一、獄門御仕置の課役 但昼夜三日番相勤めること。
一、西大手斬罪御仕置ものが有る時は、首斬りの始末にまかりでること。
一、東西の御仕置の場所の掃除を相勤めること。
一、二条御城之堀へ身を投げ自殺する者あれば、奉行所より指図申つけるゆえそれ
  を千本通三条の辻にて三日さらしその番人申付く、居住相知れず身許不明の屍
  体は取片付けをなすこと。
一、牢屋の敷内外之掃除を相勤めること。
一、牢死之者あれば、その屍体を取片付けさせ候。
一、京都にてもし出火の節は、屋敷へ、火消し人足召連れて相詰めるように、延宝
  元年己十一月より申付けられ候。
一、斬罪役の勤めは何時頃より相勤めしたか、古いことにて判らねど、きっと勤め
  候こと。
  斬罪並びに牢屋外番・洛中・洛外見廻り役も相勤め候の村は左にこれを記す。

                    京都愛宕郡天部村(年寄五人、名略)
                    同国同 郡六条村(年寄三人、名略)
                    同国同 郡川崎村(年寄一人、名略)
                    同  所蓮台野村(年寄一人、名略)
                    同  所北小路村(年寄一人、名略)
                    同  所九条村(六条囲地内なり)

 江戸の南北町奉行所では、新地の弾左衛門より差出す者と四谷者つまり「四つ」の
騎馬系。
 処が京では町奉行所は、やはり「四つ」だが、京所司代支配の目明し火消し処刑は
紺屋だった。
 しかし紺屋は忙しいので粟田口の刑場に詰めたきりで、さらし者の番人や首斬りの
手伝いは、友禅染めが流行しだしてから当惑して、夫(ぶ)代銀とよぶのを差し出し
て勘弁してもらっていた。
 処が、鹿の子しぼりが流行し関東へも出荷するようになってくると、「禁中御用」
の鑑札を貰っていても、当時は御所よりも監督官庁の京所司代の方が上だから聴き入
れられずだった。
 今では宮大工というとお宮をたてる大工だからと美化されているので後述するが、
紺屋つまり青屋が京では、刑死をあつかっていた関係から染物の他に大工もさせられ
ていたのである。
「恐れながら、さしあげまする口上書」という古文書がさしだされ、今も現存してい
る。
一、牢御番屋敷外の番人の他に、部落の者共青屋らに仰付けなされ御用をさして頂
  くのは有難いことでございます。五月十七日より青屋共に申渡し候えば、すぐ
  さま御上意の御趣意を畏まり奉りまして、順々に相勤め申候。しかる処に御上
  意に相そむきて、御番の人足を出さぬ者も御座候に付き書付けを以って申上げ
  奉りあげ候。
一、大宮通西寺壱丁目上半町、炭屋市郎兵衛借家青屋治兵衛、同かぢ屋町五条上ル
  町いづつや五郎右衛門借家青屋平右衛門、同本誓願寺千本東入町米屋興三次、
  右三人之者共は牢御屋敷外番の御用も相勤めぬようなりました。この者共はこ
  ん屋を致し候ゆえ、青屋役を仕り候は忙しき由と申したてての我侭にて候。

 つまり紺屋だけで青屋大工までは、とてもやれぬと我侭をいうと、罰してほしいと
の訴状。
 定まった夫(ぶ、人夫)代銀だけでは、手間賃が値上りしていて困ると、富士山噴
火の宝永七年六月の日付で水上のオンボ配下の部落頭分らが、後で自分らの咎となっ
てはと差し出したもの。
 しかし本職の染物課役で鹿の子しぼりや友禅をそめ、寒中でも川へ入ってさらす傍
ら牢屋番や処刑の片づけぐらいならまだしも、熟練のいる大工仕事まではと部落内で
分業したらしい。
「八付」といって、八の者の処刑は張付柱に縛って立て突き殺すのと違い、初めから
手足を竹釘で打ちこんで放置し、出血多量で半死になってから立て止めを刺すのが関
西の習慣であるが、関東なら区別なく打ち首の斬首刑も、関西では「野史辞典」[日
本シェル出版]の「八虐」にもあるように江戸時代でも竹鋸で、ギッコギッコ引き殺
した。捕隷奴隷への見せしめに始めた伝統らしく想える。
 粟田口で竹鋸で八の部落者に生きながら首をひかせるのは、頚骨があって竹鋸では
切断できず出血多量で生殺しにするだけだが、鉄がなく四肢を釘づけにする代りのよ
うである。
 紺屋部落の青屋大工の許には、半死半生の者をかける張付木などの御定法の寸法も
書き残されているが、カネ尺の三尺三寸が今の1メートルで京尺は唐の大尺ゆえクジ
ラ尺で二割増しゆえ約四尺。壱間は六尺となって書き残されている。
一、張付木用材 柱は五寸五分四方、同ぬき四寸に八分。ただし弐間物は二ツ切り
  で、長サ一丈三尺五寸。下に十文字ぬき切懸けに打ち申すこと。
一、獄門木 柱は栗の木の末口三寸五分。長さ一間半。下に十文字ぬき打ち。
一、火罪の生きながら燃やす用材 柱壱丈物六寸四方。上より下へ壱尺の真切りか
  けつかまり、先を筆なりの恰好に仕り候。輪を入れ、とめにかすがい四本打ち
  申し候。
一、獄門板 首をのせるため幅壱尺八寸、桧木。
一、板札 壱人前けづり立て五分、幅壱尺八分、長サ弐尺五分。但し桧木拵えて、
  ふしなし。
一、獄門櫛 さらし首を前から持ってゆかれぬようにはめこみ木。かね尺で長サ壱
  尺弐寸。

 青屋六左ヱ門の名がつけてある。しかし焼き殺しの火をつけるのや、突き殺すには、
「四つ」の課役で、宮大工の仕事。「八つ」の青屋大工は準備と跡かたづけだった。
が大工仕事専門となると粟田口刑場の仕事だけでは食してゆけぬから、遊女屋やむし
風呂屋、芝居小屋、見世物小屋、お宮といったものの建築は、すべて自分の方の縄張
りだと主張し、一般大工の寺大工とよばれるのとは別個なりと互いに幕末まで対立し
あった事も各地では記録がある。
「紺屋のあさって」というのは、まだ分業せず大工と染物を一緒にしていた頃、忙し
すぎて約束しても、なかなか期限に間に合わず、あてにならぬことをそうした言い方
でするらしい。


エタは四でも八でもなくエの民

 古代史はもちろん近代史を調べてゆく上にも、良賎からどうしても入ってゆかねば
ならない。東北へ追った日本原住民の団結一帯進攻が富士王朝復活のために静岡の田
子浦まで追ってきたので、桓武帝即位からクダラ系だけは賎から良に変ったが、後は
戦国期で下克上と称された時代。
 ブシン(不信)の飼戸の者の生き残りが武力によって、武士や武将になったからで
ある。維新ものと戦国ものが、一般受けするのも救いのない底辺の庶民の賎の者が、
どうにか陽のあたる場所へ浮き上れる機会の夢が、そこにはあるからであろう。なに
しろ江戸の貞亨年間に居付き部落から大多数が都市に脱出して銭で町人別や寺人別に
入る迄は、人口の八割以上は限定収容されていて、逃げ出せば、逃散の咎めで殺され
る奴隷だったからである。
 つまり部落から出ることもかなわずで、死なぬ程度に酷く搾取されてきた名残りが、
今になっても「他所者(よそもの)」とし、新入りを排斥する風習を残している。東
京近辺にもマンションが建ち並び新居住者が入ってくると、毛嫌いして反感をもつの
は「来りびと」意識からなのである。
「見かけ銀」というのを、新しく入ってきた者は納めねば、そこの土地では住めなか
った。
 それでも外来の新しく住みついた者は、前からの者たちに「その筋の者」と被差別
された。
 江戸末期になると怠けていないかどうかと見廻りだけでは判らぬから、その筋の者
を紛れこませて目を光らせていた。つまり警戒され用心していたのだが「民族と歴史」
では誤って、
(空き地に住まわせて貰い火の番や泥棒番とか人の嫌がる仕事をうけもたされ、ある
き筋とか番太すじ、掃除すじと言われ、来たりびと、として差別されている)と、さ
も後から来たのがエタみたいな書き方をしている。が村落の方が昔からそうだったの
を知らぬせいらしい。
 また「遠州地方の足洗い」として同誌にはエタは非人の上にたって、これを支配監
督するが、非人は足を洗って常人になれるがエタは皮や肉を扱うからして駄目である
として、例として、「打上げ」と称して、足洗いの出来る道が設けられて居つた。
 「全国民事慣例類集」に遠江国敷知郡地方では、「三代皮剥ぎの業をなさざれば、
平民となるの例あり。穢多は所持地多分ありて、貢租を納め、中には富豪の家あり。
平民へ金銭を貸附る者もあるなり」と見えて居る。幕府の制では弾左衛門の主張のま
まに、「絶対に足洗ひを許さぬ方針を定め」とでているのに、「四つ」と「八つ」と
を混同している。弾左衛門は「四つ」の長吏で人頭税をとっていたから、足を洗って
抜けられては収入が減る。だから差別されてもよいから自分らの資金源を減らさぬよ
うにした。
 が根本的な官制歴史の誤りは、「四つ」と「八つ」の区別を知らぬのか、知ってい
ながら知らないそぶりか、故意にごちゃまぜにしていることである。「八つ」の古代
海人族は農耕、漁業、製塩から川守りとよぶ渡し船と仕事が山ほども押しつけられて
いる。決して獣を捕え皮など剥がぬ。
 処が遊牧民族の「四つ」は何もしない。明治になっても浅草新地より小菅から奥州
まで弾左衛門地一帯には、ただ草のみ茂っていて何も生えていなかったのは有名で色
んな本にでている。
 つまり製革業は、弾左ヱ門支配の「四つ」だけの限定職で、「八つ」は野兎すらと
ってもいかぬ事になっていた。公儀においては藤原王朝のとっていた、夷を以って夷
を制する方式を前述のごとく、「四つ」の弾左の下には、「八つ」の車善七、その下
に四谷者や吉原四郎兵衛手下その支配下に谷津の「八つ」ものの各部落、といった組
み合せにして、相互に憎しみ合せて一つにならぬようにした。
 官製歴史の困ることは、「四つ」の弾左ヱ門からは集めた人頭税のうちより冥加金
を台所入りとして、年に五万両ずつ献金させ、年賀と八朔には十万石の格式で千代田
城へ伺候をしていたのを匿す。
 だから人頭税が減少せぬよう「四つ」の部落よりの抜人は厳しく取締りをし、洗足
を認めなかった理由はそこにある。明治になって矢野内記と改名の弾左は、大江卓造
と民政省御用係と高等官員となり、六人の手代はそれぞれ新設の東京府庁の助役にな
ったのは「サンカ生活体験記」[日本シェル出版]にある。
 表面では差別しているようでも関東の金をすべて握っていて、蔵前の札差しも弾家
の金だったのは三田村鳶魚の江戸考証随筆にも書かれている。つまり大公儀に献金し
ているゆえ便宜をはかられ、心中の仕損いの生き残りや破戒僧として人別から削られ
た連中の払い下げもうけていた。「非人」つまり「人非人」というのは、このてあい
で、海藻みたいなボロを着て裸馬にのせられた死刑囚につきそっていた連中だが、身
寄りの者が首代として黄金五枚をなんとかして作って持ってゆけば、地獄の沙汰も金
次第で許され、非人の境遇から足を洗って常人に戻れた。
 穢多非人と一律にいうが、「八つ」の穢多だけを目の敵にしているのは、「四つ」
の弾左は体制側ゆえ「四つ」は表面にでず、穢多非人と二大区別に官製歴史がごまか
しているのはこのわけである。
 東京にも浅草に先族の当て字の千束町や鈴ヶ森に近い大森には洗足そのままの地名
が残っているのは、人頭税をぼちぼち取るより、大きく金をとれるので、非人を次々
と戻したからである。
 明治四年の壬申戸籍で、非人の親類が見受けに来ず残った非人が穢多の一割近くも
いたと発表されるのは、さも彼らが「四つ」みたいに取り繕うためのものだったろう。
実際は百倍はいた。
「四民平等」とは公家武士穢多非人の四民でなくして、元の源、ペルシャの平、唐の
藤、契丹の橘の四つの民族のことだが、その最底に位置して明治になっても被差別さ
れているのを、「帝国公道会」とよぶ前の民部省で、当時の内務省の外廓団体とし設
立した経緯を、大江卓造は、
「徳川氏が穢多に対する取扱いのことだけは『落穂集』であるとか、『地方大成録』
であるとか、其他の書類によってぼんやりと分かつたのである。これは御誓文の陋習
を破り天地の公道に基くべしと云う御趣旨に従つて、改革せんければならぬ。それに
は、とても神戸でこんなことを言つて居つたのではいかぬからと思うて、私は東京へ
出て第一に大隈重信の所に行つて話をしたのである。すると大隈もそれは至極よい思
付きである、つい忘却し、その侭にして居つたのである。しかし、これは民部省の取
扱うものであるから、お前も行つて話をして呉れと云うことで訪ねた。所が大隈から
も聴いたが実に今の侭に差置かれぬことである。良い気付けをして呉れた。平民籍に
編入すると云うことにしなければならぬが、その方法について、なにか考えがあるか
ときかれた」と回顧録として「民族と歴史」の第二巻第一巻に収載されている。
 当時、江戸城西の丸で新政府は、「帝国公道会」を設けて、「徳川時代は『四つ』
だけを懐柔し、味方につけただけだつたが、新政府は『八つ』も手馴けるようにと試
み成功をした」と自画自賛。
(神武天皇御陵のある処は洞(ホーラ)と云う。御維新までは、その部落が御陵の番
をしていた。御維新後は宮内省の出張所が出来て、昨年その土地を宮内省へ献上して
皆他に引越したのである。洞部落は如何なる人民かと云えば、神武天皇の大和征服の
場合に、彼の長随彦に一味して神武天皇の官軍に抵抗した所の居勢祝(こせのはふり)
・猪祝(ゐのはふり)の子孫であらう。祝(はふり)は古事記にも日本書紀にも出て
居るけれども、前にも其後にも多く出て居らぬが、「ハフリ」と云うのは人種の名で
はあるまいかと云うが、「ハフリ」と云う言葉は「ホーラ」と同系で、又「ホフル」
と云う言葉とも同じ、物を投げることの「ホール」とも同じ。「葬ル」と云うことも
同じ言葉。さうしてこれがもし、人種であると云うことであれば、旧約聖書にある
「ヘブライ」人と同じことではないか。「ハ」が「へ」になり、「へ」が「ハ」とな
ると云うことは、ハヒフヘホの行で何時もよくある変化である。「ライ」「リ」にな
る。「ブ」の濁音が「フ」の清音になると云うことも往々にあることである。文字の
ない時には言葉がさう云うように訛つて変ることが少くない。いわんや日本では濁音
と清音は唯だ点の有無によって見得るので、相混ずること頗る多いのであるから、
「ハブリ」が「ハフリ」になつたのであらうと思う。「ヘブライ」と同じことであつ
たならば、どうして「ヘブライ」人が我国に来たかとなる。
 「ヘブライ」人は御承知の通り印度の「セヌ」人種の一派である。一時はなかなか
盛んな人種であったが、昔からどうも一ヵ所に永住するという事の出来なかった人種
で、本国を逃げて阿弗利加に往き、又阿弗利加を逃れて本国に帰り、「シリア」人か
ら追い出されて処々方々に散在した、その散乱した一族は行く所を知らずという日本
に来たのであらう。年代を追うて見れば、神武天皇の日本を統御遊ばすより余程前の
数百年前のこと。海流の関係或は風の関係で、熊野辺に漂着して大和に蕃殖をした第
一の移住民。天孫人種が第二の移住者である。その第二の移住者が勢力が強かつたか
ら、やがて第一の移住者を征服して仕舞つたものらしい)
と木村鷹太郎著作集のようなことをのべている。
 つまり大江はいと簡単に第二移住者を良となし先住民を賎にする。が、印度のセヌ
系のヘブライではなく、アラブ方面からマレーシア経由の黒潮で流入。熊野浦に集団
上陸したのは後世の新平氏の忠盛らで、(古平氏の者らもアラブ語のアの水の意味を
もつ各地)へ這い上つた。
 安房、淡路、明石、阿波、安濃といった太平岸の各地に漂着。西南よりの先住民で
エケセテネの記号を苗字とし[江藤、千田、手塚などの意味]、後にはつけられた先
住民と共存共栄し、彼らに魚とりや焼畑、水田から製塩を教えて使った。つまり、こ
の第一の移住者よりも先にいた「エの民」こそ、本当のエタなのである。「根津権現」
を江戸でも特にエタの宮とよんでいたのも、彼らこそエタ第一号だからである。
 第二の移住者は太平洋岸へ黒潮で入ってきた古平氏の「八」だが、第三は日本海の
能登半島や昔は白山島とよばれた新潟に沿海州からベーリング寒流の親潮で入ってき
た騎馬民族の「四つ」。
 その後から入ってきて鉄武器でみな征圧した第四が、天孫民族と称するのが正しい
処である。
 大挙して騎馬系が入ってきたのが越前越中越後だから、「越多」と本物の「エケセ」
と混同され、「餌取り」から転化したものとされる。騎馬系は皮をなめすし鷹の餌と
りもし辻つまが合う。
 ところが「四つ」の彼らの弾左ヱ門が、財政不如意になった公儀の台所入りに、人
頭税の一部を年々納入し大名なみの格式をうけるようになると、彼らに無償で払い下
げられた非人をもって総称とし、エタの蔑称はゲットーに入れられ奴隷課役を、ずっ
とさせられている「八」に冠せられた。
 だからエタと非人の差別が判らなくなり、ごっちゃにされてしまい故三浦周行博士
でも、
「エタ非人と江戸時代の賎民は一緒にエタ・非人の称で呼ばれた。『エタ』は皮革類
から竹皮草履・裏付細工・燈心細工・破魔箭・茶筅等の簡単な手工芸を製造販売し、
『非人』は各種の演芸により、又は吉凶の事のあった家に行きて施興を請う『物貰い
渡世』の徒であった。エタに類するものに 『長吏』・『夙』、非人に類するものに
『乞胸(ごうむね)』・『猿飼(さるかひ)』などがある。地方によって名称を異に
するものがあるが、大体に於てエタ・非人の外を出ない」
とまず述べてから、
「エタは古くから皮革を扱つたが南北朝頃には井戸掘を家業としたものも見える。彼
等は都鄙ともその一隅に、城下町では外に、部落をして良民と隔離されて居た。非人
は室町時代にも乞食とされていた」
と、これも、やはり間違えている。屍馬の革はぎは「四つ」の限定職である。
「弾左衛門とは江戸に於ける賎民自治体で浅草新地の統轄の下にみなあった。弾左衛
門は徳川家康江戸入府の後、長吏以下の支配を命ぜられた。当時小田原の長吏太郎左
衛門が北条氏直の証文により、又元禄五年に上野下仁田村の馬左衛門が、武田信玄の
証文を提出し、弾左衛門から独立したいと訴えたが却下になって、幕府はその証文を
弾左衛門に下附したとの事である」
 弾左衛門は浅草に一区劃をなし新地とよび部下と共に住んでいた。これを「囲内
(かこひうち)」と云い、他の地方の管轄下のものを合せて「差配場」と云った。そ
の部下は「手下(てか)」と云い、「手代」・「書役」・「役人」がある。
 寛政十二年八月の届出によると、囲内なる手下が、すべて二百三十戸、其の中手代
及び書役が七戸、役人が六十戸で、其の余の百六十五戸が「平の者」であった。その
ほか弾左衛門差配場たる関八州及び甲斐・伊豆・陸奥・駿河の十二箇国内長吏の総戸
数が、五千四百三十二戸あったという。長吏はもと地方のエタ頭で、その下に「小頭」
あり、小は1ヶ村、多きは二十余ヶ村をも支配し、「行事役」をして実務に当たらし
め、「組下」の人別なども、これを弾左衛門に届出る制度であった。かかる制度が、
みな江戸を中心とする地方に限られて居るのを見ても、その管轄区域が、幕府創立以
来次々定められたものだとの事が知られる。弾左衛門の事を、公儀では浅草弾左衛門
と云ったが、諸大名・寺院・町家では、矢野弾左衛門と云い、その部下をも『矢の者』
と云つた」つまり今いうヤーさま。ヤア公である。
 「浅草新地の弾左衛門」は非人をも支配した。非人は各地に隔離せられて部落を作
つたが、江戸では浅草・品川等四ヶ所に居つた。「非人頭」が統一し、下に「小屋頭」
がある。非人頭中の最有力者は浅草の車善七と、品川の松右衛門である。非人頭は弾
左衛門に属し、手下の出入は弾左衛門に一々届ける。亨保七年に善七は弾左衛門支配
から脱けようとして、はたせなかつたらしい。駿河の非人の犯罪者を弾左衛門に引渡
さなかつたのでおおいに、もめた例がある。
「地方での管轄は弾左衛門に属しない地方にあってはエタは、所在の長吏・頭・年寄
等の支配を受けた。非人も同様で、京都では非人頭の水上のオンボを『悲田院年寄』
と云い、山城・丹波近江やその外、美濃・遠江・駿河・甲斐・丹後・因幡・美作・河
内・摂津を支配した。その中で摂津は大阪長吏と共同管轄であつた。これを『手下』
とも『支配下』ともいう。ここにも小屋頭があって、毎年一回年寄方に出頭せしめた。
『国制記』によると、京都のエタは三条余部村・六条中島村・田中川崎村・東山龍口
村・蓮台村・北小路村の六箇村で、部落民は千七百二十一人、悲田院年寄に属せる非
人の人口や八千三百十四人あつたという」
となしてから、
「エタ非人と良民が混同せぬよう、非人には物品の施与の強請を禁じた外、家業に就
いては放任した幕府も、社会階級の維持上、武士は勿論、町人・百姓と彼らの混同を
厳重に取締まつた」
「非人は斬髪し、元結を掛け結髪する事ができなかった。後にこの制度がややゆるん
だので、亨保八年十一月、将軍吉宗は先手頭山川安左衛門忠義の建議によって、非人
頭及び組頭の外は髷を切り、これを束ねる事を禁じた。頭巾其の他の冠り物も許さな
かった。これは彼等が囚徒を預るなどの公務に当るので、年と共に豪奢に流れ、美服
を着けて良民と区別しがたくなったからという。先手組から建議したのも、主として
罪人検挙目標を必要とした為と解せられる」
「非人の住宅を小屋という。天井のない小屋掛のことだ。よって彼等を「小屋者」と
いう。文化二年十月、善七の手下の非人小屋頭の三助事三右衛門が居小屋に天井を張
り、障子・襖を建て、絹紬を着し平人と音信を通じ、料理茶屋で交際したというので、
江戸町奉行は、非人の掟に叛したものと認めて検挙した事がある。
 又、文政十二年八月、永田興左衛門の仕置伺(しおきうかがひ)に、非人がその身
分を秘して武家の中間となり、更に侍となつて勤め中に、同僚の衣類を盗んで逃亡し
売払つて消費したので、「入墨の上で叩き」に相当する刑に処する事を命じて、弾左
衛門に引渡し非人にすべきことを載せて居る。大名の領分に於ては、合戦の際には、
彼らを軍役其の他には使用してもよいが、平時は良民と同一に使用することは、絶対
に禁ぜられた」
とは言うが、江戸の金は弾左支配で、みな蔵前の札差も入用の時には金を借り、交際
があったのは、三田村鳶魚の考証にも(前述したが)でている。
「処罰としては、非人の犯人は遠島処分以下は弾左衛門に引渡して相当の刑に処せし
め、地方は所在の頭に委かす事になつて居る。しかし事実は穢多・非人共に死罪・遠
島は幕府が処刑し、その遠島以下は刑の軽重を示して相当の処刑を命ずる事となつて
居た。『仕置』なるものの内容はまだ詳らかにせぬが、その中には非人を普通刑法の
入墨刑に処した事もあつた。しかし自然に幕府の刑法と違つたものもあつたらしく、
重叩き刑に相当すべく処刑を命じた囚人を、弾左衛門は叩きは五十日、重叩きは百日
の牢者にして居つたので、亨和元年七月江戸町奉行から共に命令通りに執行せしめる
事となつた。
 しかしこれでは、『公儀お仕置』によつて言渡をなすと同じく、非人の処刑を弾左
衛門に委任した精神にもとり、叩き以外に公儀お仕置きとの間に相違も多かろうから、
叩きのみ幕府の法によらしめるのは不可とのべたものもあつた。現に普通刑法の追放
刑の如きも、『江戸払い』は江戸から二、三里を離れて、地方の非人の手下とし、
『江戸十里四方追放』は、八、九里乃至十二、三里、『中追放』は十八、九里から二
十四、五里に、『重追放』は凡そ二十五、六里から三、四十里離れた地方の非人手下
とする事になつて居た」
とのべ、
「良民が非人となり、非人が良民となり得る場合もある。良民は本人の希望により非
人になれる。この場合非人頭に於て、本人及び親族の意志を確かめた上で非人の掟を
示して手下とし、小屋頭を定め、その人別に編入して弾左衛門は更にこれを江戸町奉
行に届ける。また不倫な情交、不義の情死未遂、主人と下女の情死未遂の際の主人、
離婚した妻に負傷させたもの、取退き無尽での空札売りは、弾左衛門立合の上で非人
頭に引渡してその手下とする。十五歳未満の無宿の盗人は、『遠国非人手下』とする
為に、地方に遣はすべき旨を弾左衛門に命じて引渡す」
「無宿の男女で非人であつたものを、後日その親族から素人に引き立てんことを小屋
頭に申出ずる場合には、非人頭から弾左衛門に届け出て、引立人から抱主たる小屋頭
に証文を入れさせて許す。十年以上非人小屋に居たものは、原則として復帰を許さぬ
のが掟の次第だが、申請の切な場合に限っては特に許した。しかし非人であつた間に、
非人の女を娶つて子を生んだ場合には、その妻子は夫と共に良民となる事は出来なか
った」
と小判でぬけにんを認めたことをいい、
「非人に対しても、非人頭から『ご政道廻り』を出して、毎日市中を巡邏せしめ、放
浪の無宿者は野非人を取り締らしめ見付次第に適宜に処置させた。これをば『刈込』
と『片付』とか云つた。幕府の無宿取締りの方針から出たものだが、一つは非人の
『持場』を荒されない為である。彼等の野非人等がもし非人の手下たらんと望む場合
は、一定の手続をへて許す。京都では、無宿の非人は悲田院年寄に引渡さずして、京
都町奉行で処分した。それでも他から地方非人の持場即ち勧進場所に来たつて施与を
乞おうとするものは、必ず所在の非人小屋に渡りを付ける必要がある。『諸勧進無用』
の縄につけた札は、つまり村の入口に土地の非人等が、他からの非人侵入を防がんが
為に掲示したものだからである」
「乞胸なる者は乞胸頭磯右衛門に属し、身分はもと町人でも、社寺の境内や空地で演
芸見せ物を業とし、その営業が非人に同じなので、慶長年中非人頭からその停止を迫
られ、遂に営業のみは非人頭善七の支配を受ける事となった。それから新に加入する
者は善七に届出で、ショバ代を払い、善七は日々手代を出して社寺の境内や市中を巡
視せしめ、鑑札を持たぬものは営業用の物品を没収し、詫証文を出さなければ追払っ
て叩きだし、その荷物は返付しなかつた」
 テレビなどでは、物売りしているのを「何々一家」と絆天を着たのが取締まってい
るのが、つまりそれだし、非人に対して、神皇(今では神農)と称して指図していた。
「御政道廻り」といった市中見張りをさせたのは、朱引内の御府内は定廻り同心六名
きりで手が廻らず、彼らに同心作付の鑑札を与え彼らの持場の新吉原と類似行為をす
る岡場所をみつけて女たちを捕えてきて吉原会所にだし、やっこ女郎にして四郎兵衛
溜の礼金を貰っていた。
 日本では奴隷といわず「やっこ」といい、「やっこさんは辛いね、雨がふるのに蓑
つけず」と唄にもされて躍りにされている。奴隷と、はっきりさせたのは阿部弘蔵の
「奴隷史事典」[日本シェル出版]からで、それゆえ喜田説は全人口の5%しかヤツ
コはいなかったなど、まるで逆に間違えている。
 良と賎の二大分類するのが、大宝律令からの日本史ゆえ、良が95%で賎が5%で
はおかしい。
 なにしろ良は西暦663年に初めに二千から四千に増え軍夫軍属八千の最低一万二
千から二万とはっきりしている。だから、その5%では僅か六百名にしかならぬ。七
世紀で千名たらずしかいない人種といえば、今でも有名人は多い割りに人口は極めて
僅かなエケセテネの発音が姓の上につく第一次日本列島へ漂着してきて移住の西南よ
りの、もっとも日本列島では古い民族をさしているのか知れない。いわゆる雑戸とか
雑色とよばれる頑くなな人々である。