1056 古代史入門  8

古代史は越多非人の創世紀

一、皮田の奴隷どもは近年まこと風儀良しからず、間々不らちの儀もこれ有り候間
  、同奴隷共へ別紙箇条の通り、かたく触れさせ候事。
一、市中は勿論居付地に在りたりといえども、通行の節は片寄り候て、往来の人へ
  いささかたりとも無礼がましきことは致すまじく。
一、朝の日出よりその日没まで之外は、市中は勿論、町はずれとても徘徊は絶対に
  禁止。居付地の垣内にても夜分みだりに往来相い成らざる事。
   但し節分の日は夜五時迄、大晦日だけは夜九時迄、に限って徘徊を差し許さ
   れ候事。
一、町内にては一切の飲食致し候儀は相成らざること。
一、雨天之外は笠かぶりものは絶対に相成らざる事、
一、履物は草履の外は総て相成らざる事。
 江戸時代か幕末までの居付部落に対する取締りの古い書付きの現存するものである
が、「除地」と江戸初期は部落の弾正や長吏に年貢を免除し、代りに人頭税をとらせ
保護したのは、今は松平元康の改名とごま化されている家康が、実は部落出の世良田
の二郎三郎だった為である。
 「天の古代史研究」の「世良田事件」の項目に詳しいが、なにしろ荒川の中川の三
河島に足利の散所奉行によって、収容されていたのを救出。旗本や御家人にした同系
統の家康ゆえ、居付き部落も生存中は庇護した。だが徳川の世も五代将軍の綱吉の皮
革業の大弾圧の、獣の皮を剥ぐなと、「生類憐れみの令」の発布から、柳沢吉保が吉
良上野介に堺の中村内蔵助へ銅を半分近く混ぜた元禄小判製造で、インフレ化すると
違ってきた。しわよせは弱い立場の居付き部落に押し寄せた。
 従来は部落の頭に人頭税を納入の他には、これという課税はなかったのに、各大名
や天領の代官が、川銭とか雨ふりにきる蓑にも課税したり、掃除や埋めたてにかりだ
し彼等を酷使した。
 土を耕す百姓ならヒエやアワを、漁をする部落ならアー元、地曳網もなかった昔な
のに網元というが、納入の魚介の他に、若干の鰯や小魚は塩にしたり乾かして、すこ
しは余裕もあったが、漁も農も許されぬ居付き部落には何の余裕もないゆえ、貧窮が
目にみえて厳しくなった。
(キヨメ或は河原の者と呼ばれて、社寺都邑の掃除夫・井戸掘・駕篭丁・植木屋など
の雑職をつとめ、勿論その職魚上、世間から幾分賎視されて居たであらうが、決して
彼等のみが特別に汚れたものとし疎外されるというような事はなかつたに相違ない。
ことにその賎視されたのは、必ずしも彼等ばかりではなかつた。古代の雑戸時代・傀
儡子時代から大多数の工業者・遊芸者等は皆賎しいものとされて居たのである。こと
にもと家人・侍などと呼ばれた賎者も、時を得ては武士となつて社会を睥睨するよう
になる世の中となっては、昔は「大みたから」と呼ばれた農民までが、同じように賎
者として、奴隷百姓とし見下されて居たのである。「三十二番職人歌合」には、
 千秋万歳法師 絵解き 獅子舞い 猿 鴬引飼 鳥さし 鋸挽き 石切り 桂女
 髪 捻り 算置易者 薦置 薦僧(虚無僧) 高野聖 巡礼 鐘叩 胸叩
 へうぼう絵師 張殿 渡守 興舁農人 庭掃 材木売 竹売 結桶師 火鉢売
 糖粽(ちまき)売 地黄煎売 箕作 樒売 菜売 鳥売
らの三十二者の名を並べて「ここに我等三十余人、賎しき身にて、品同じもの」と云
つている。この中にも、興舁き・庭掃きなどの或る者は、エタの源流の一をもなした
ものであるが、その庭掃き、即ち掃除夫が、歌合せに於て耕作課役の奴隷の農人と合
合せられて居るがごときは、もって当時の状勢を見るべきものであらう。つまり、
「鎌倉殿中問答記録」に、「鍛冶・番匠のようなる言いかいなき者」と云い、「当道
要集」に、「舞廻・猿楽等のしき筋目の者」というかごとき、ともかくこれらの徒が
賎者と見られて居た事は疑ない。それらの中に於て、ひとりキヨメ・河原の者等のみ
が、特別に賎しかったとは思われぬ。むしりエタの方が慶長以前に於て既に、「音楽
のやからは青屋・墨焼・筆結らの上だ」と言われて居た)
 歌舞音曲のミュージシャンは貴人の慰みものとして、召されることもあるから、そ
の方が刀鍛冶たちより身分が上だというのであると、喜田貞吉説は続けられている。
つまりである。
 今では京五山の住持は日本人かと誤られているが、鎌倉五山とは違い対明の黄金積
みだしの立会いで御所を五方から囲んで監視していた。京五山の漢詩集をみれば日本
人でない事が判る。
 つまり京の五山は、唐につぐ明僧のせいもあるが、反仏派である彼等を忌み嫌って
いたから、「臥雲日件録」の、文安三年十二月二十一日の条に、原文は明国の漢文で
あるが、
「宮に仕える役人が馬にのって、犬を射るのは、噛む犬だと、わざわいをもたらすか
らであるが、野犬は群がると逆襲してくる。よって一匹を捕らえたものに銭を十枚や
ってもよい。けだし人間の中でも、犬なみなのは最低であって、死んだ牛馬を食する
輩こそそれで、とても人間といえぬ」
とまで中国的に言い切っている。つまり騎馬系のカラ神や、祇とよぶ宮の信者、七福
神信仰で絶対に中国大陸よりの仏教を忌み嫌う連中は、寺へ銭を納めぬからして坊主
はみな厭がった。
「神仏混合令」から、仏を信仰するのが国教と定められたので、それでも白山さま始
め神祇への信仰をやめぬ反仏派の居付き部落の者は、今で言えば、非国民として扱わ
れだしたのである。
 それゆえ、「生類憐れみの令」発布後の元禄十二年から転向せぬ者らへは、次々と
課役を増やし、「身居り(居付き)棟付け帳」なる宗門帳が、寺の奴隷人別帳とは別
に元禄十二年より十四年後に各国に反仏帳とて付けられだした。歴史屋さんの中には、
「宗門調べ帳」を幕末になっても切支丹伴天連の調べと誤っているが、島原の乱を宗
教一揆として公表したからであって、いつまでもキリシタンなどオカミは怖れていた
訳ではない。拝仏でない者を苛酷になる為の人別帳である。
「居付き」のことを「棟付き」といったのは、「明治密偵史」[宮武外骨著、日本シ
ェル出版刊]の最後に風祭の部落の者が人力鉄道に使われ、逃亡せぬよう棟柱に八人
ずつ鎖につながれ「タコ部屋」とよばれた語源にもなるのである。
 亨保二年に八代将軍に吉宗がなり、大岡忠相を登用すると、彼は江戸では新地の弾
左衛門に由緒提出を命じ、京では水上のオンボ頭を始め、アマベ、六条、北小路、山
科、桂ら各地の部落に、「棟付き由来書」を京の町奉行所へ提出させた。仏教が国教
ゆえ彼らは反体制集団とされていた。
 テレビの大岡越前守は水戸黄門と共に、ええ恰好しで、きわめて美化されすぎてい
るけれど、「髪はマゲなどゆわず断髪のザンバラ髪にして、冠り物は雨天にても許さ
ず、一見してすぐ判別できるよう致すべきこと」と、今でいうなら人権無視の法令を
亨保八年に大岡は出している。
 定廻り同心八人に江戸の朱引内を見張らせていたので手が廻りかね、大岡越前はス
リには、「判別できるよう常人のごとく白元結にて髪を結ばず、スリ常習犯は黒元結
をば用いるべし。さすれば一見して、それと判るゆえ、盗む者より、すり取られる方
が粗相となって罪なしである」
と定め、大岡裁きといわれ、以降明治三十八年に仕立屋銀次が児玉源太郎の金時計を
すって軍部よりの強硬談判で犯罪とされる迄は、スリは泥棒ではなくて、手職人とよ
ばれたものである。
 スリは仕事をする時だけ黒元結とつけかえれば罪にならずで良かったが、強制断髪
で頬かむりしても捕えられる棟付き者は災難だった。松平定信が老中筆頭となった天
明七年からの、「寛政の改革」では、徳川家の財政難を打破するために、百姓は搾り
すぎれば一揆を起すが、彼らはいくら苛酷に扱っても各棟付地に分散居付きで、騒乱
はできぬし皆殺しにしても御定法には反せぬからと、搾取の限りをつくした。英国船
渡来の頃ゆえ、部落圧迫は十八世紀からである。
 福沢諭吉が明治になって「天は人の上に人を作らず」と叫んで大衆に随喜の涙を流
させたのは、日本の人口の殆ど大半を実質上しめている彼らが、徳川の御政道では
「人の下に人を作っていた」せいである。人間は他人の不遇や不幸をみれば微かでも
自己満足をするというが、
「わしらは、あいつらよりは増しだべさ」
と、寺の奴百姓や私有民として、税金をかける対象としてしかみない領主や代官の横
暴に対しても、今の庶民の御先祖さまは歯をくいしばって堪えた。
 幕末になると「四つ」も「八つ」も喘いで世直しを求めたが、彼らの大衆動員にお
陰げ詣りをさせ、薩長はまんまと天下をとり、鹿児島の棟木部落の鍛冶町からでた西
郷や大久保、海江田が世直しをし、のちに同じ部落より大山とか東郷といった偉い元
帥がでたので、伊集院に特殊部落をすりかえたが、同部落の益満休之助や自決した田
中新兵衛。土佐の部落から京へ、殺し屋として送りこまれた岡田以蔵も、捕えられる
と、斬髪していなかった為に、無宿人以蔵として獄門さらし首。
 大戦中に玉砕ときまっていたテニアンへ送りこまれた混合師団は、大阪の住吉もん
や河内もんを主にする彼らだけだったから、今でもテニアンには住吉神社の移された
跡が残っている。
 つまり昭和になっても藤原体制のオカミは、彼らは反体制的存在という考え方を変
えていぬ。
 さて、喜田貞吉博士は、契丹系で頭のよい人ゆえ、そうしたオカミの意向を旨とし
ているが、「壬申戸籍」つまり明治五年の第一回国勢調査を、もってきて、
(明治五年初めに約三千三百十一万と言われて居つた内地人の数が、大正五年末には
約五千五百六十四万となつて居る。近年の増加の数は、一年に約七十万乃至八十万で
あるから、大正九年初の数は恐らく約五千七百二十万にも達して居る事であろうと思
う。その毎年増加の率は、年と共に増して来る方で、明治五年以来の割合は、大体に
於て千人につき八人乃至十五人という事になって居る。大変な人口の増え方である。
かくも盛な増殖率を有するをみると特殊部落民の増加率はきわめて盛である。
 明治四年八月二十八日にエタ非人の称を廃した際の数を見るに「棟上げ宗門人別帳」
ではエタ二十八万と三百十一人、非人二万三千四百八十人、皮作等雑種七万九千と九
十五人、合計三十八万二千八百八十六人とある。この中非人と言われた方のものは、
其後大抵解放されて、もはや今は、特殊部落の待遇を受けて居ないのが多い。又右の
雑種ものの中にも、普通民に混じたのが多数であるとは察せられるが、仮にエタ及び
皮作等雑種と言われたものの全部が、今日の特殊部落のもとをなした、として見ても、
明治四年の称号廃止当時の数は三十五万九千四百と六人である。されば明治五年正月
二十九日調査の内地人口三千三百十一万と七百九十六人という統計にあらわれた数を
以て、その五ヶ月前に遡って、仮に三千三百と五万から六万の人口があつたとすれば、
こうした特殊部落民の増加は、まこと愕くべきである)
 ‥‥明治五年の壬申戸籍は、各町村役場でも初めてのことで不馴れゆえ、各寺の奴
隷人別帳と、「棟上げ居付反仏宗門帳」をもとにしたから総人口三千三百万だったが、
明治三十七年の日露戦争の時には乃木大将の機関銃への人海戦術で人手不足になり、
応仁の乱の時みたいに徹底的に人間狩りをして、捕えてきた者に居住地の名称を姓に
して新しく戸籍をこしらえたのである。
 故に大正五年の国勢調査には、それが加わったから倍近い五千五百万。大正九年で
は五千七百万と推定しているのも比例算である。
 しかし間違っているのである。各寺の私有財産目録の寺人別や、何処へも出られぬ
棟付き人口に、士族となった各旧大名の侍人別の合計では三千三百万が数字の上では
総人口でも、戸籍に縛られず放浪したり匿れていた者は遥かに多い。
 だからシベリア出征の頃には倍近くなっただけの話である。「貧乏人の子沢山」で、
彼らの子供の数が明治の聖代になって増加との考え方も違っている。明治四年八月の
称号廃止の時に計38万余だったものなら、翌年の壬申戸籍の時でも大差ない話で、
比例算でゆくなら半世紀で倍近くも日本人口の住民が増えているならば、彼らが50
万から60万で残りの五千五百万は一般人口となる計算である。それを全部そっくり
と、彼らの増加にもってゆくのは可笑しい。なのに、
(単に部落民だけの其の後の人口の統計に就いて調査してみると、案外にも増加数の
余りに夥しいのに驚かされる。ところが大正期に入ると、「治世方針報告書」の東京
府の一部、及び神奈川・宮城・岩手・秋田の四県を除き、其の他に於ける部落人口の
総数が八十三万四千七百四十五人。部落外居住者人口総数六万九千六百六十七人、合
計九十万四千四百十二人とある。この以外に他へ転籍もしくは移住し普通民の中に没
したり、またはもはや部落民として認められなくなつて射るものの数も、まったく驚
くべき増加ぶりである。過去四十余年間にわたつて少なからぬものであらうと思われ
る。現に北海道へ移住したものの如きは、一般社会からも殆ど区別することなく、従
って一人も右の統計には載つて居ないのである。東京のごとく雑多な地方人の混住の
場所にあつても、今や殆ど忘れられ、右の統計に載つて居ないのが多い。恐らく彼等
の子孫自身も、父祖がもと、そんな筋であつた事を知らないのであらう。
 そこで近ごろ或る部落有志者の概算では、大略百二十万乃至百三十万はあるであら
うという。甚だしいのに至つては、百五十万もあらうなどという統計を見積もって居
るが、今仮りにまづ最も少なく見て、概算百十三万人としたならば、部落民の総数は
内地人総数の約五十分の一、即ち五十人中にいる割合に相当することとなるのである。
即ち内地人全体が明治四年から四十七年余の間に七割六分弱を増す間に、部落民のみ
の間では、その二倍と一割強の数を増して居るのであります。その増加率に於ては、
実に普通民の、二倍八部にも相当して居るのである)と博士は説明する。
 がこれは喜田貞吉説の「日本にかつて存在した奴隷人口は、僅か五分なり」の自説
を守るもの。
 つまり古代では人口百人に五人だったのが「良」になってしまい二人にまで減少と
いうのだが、それでは(部落民人口の総計の調査をしてみると案外にもその増加数が
多い)とでは矛盾する。
 そもそも大宝律令の「良」のえらいさま95人を「賎」の奴隷が強制使役でも僅か
五人や二人で食わせ贅沢させられる訳はない。まるっきり反対の割合でなくては常識
的にもおかしい。
 歴史家ケントは「古代ローマ帝国のローマ市民は、一人で30から50名の奴隷を
もち、貴族は何百という耕作奴隷とは別に戦士奴隷を、それぞれ五百名以上はもって
いた」と著に書いている。
 判りやすい例では西暦663年の白村江の戦いの時に、クダラ系の官人が母国救援
に将軍となり将校となって、「四つ」の防人の戦奴二万七千をかりだしているから、
仮に壮丁は人口50名に一人とし、昔は赤紙の召集令状をだす市町村の兵事課もなか
ったから、百名に一人とすれば日本列島の当時のクダラでない系統の原住民人口は約
二百七十万人となる。終戦後、進駐してきた郭ムソウ後の藤原軍が初めは二千、後か
らは倍加。軍夫軍属や一旗組を倍とみて計二万余が。後の「良」で日本原住民は討伐
され捕虜となったのが「賎」ゆえ、喜田試算はまったく逆であって、古代でも部落民
は、良一人に対して二百七十人以上ということになる。奴隷は5%どころか、その5
0倍近い数字となる。それなのに「京都役所向大概覚書」の江戸時代の正徳五年の、
百八十軒   七百八十九人   六条村
四十六軒   百二十三人    蓮台村
二十軒    百十六人     北小路村
四十四軒   二百三十三人   川崎村
百二十八軒  五百九十人    天部村
十七軒    七十一人     小島村
七軒     二十七人     龍ヶ口村
十四軒    五十八人     舁揚村
八軒     三十五人     西代村
二軒     十五人      北河原村
二軒     七人       柳内村
合計十一部落、四百八十六軒、二千六十四人に対比し、百九十二年後の明治四十年調
査の、
千百六十九戸 五千三百九十六人 旧六条村
三百六十四戸 二千と一人    旧天部村
百六十三戸  千二百七十六人  旧蓮台野村
四十三戸   二百六十五人   旧川崎村
九十六戸   六百七十一人   旧北小路村
二百五十三戸 千五百八十七人  旧小島村
八十三戸   四百五十六人   旧龍ヶ口村
五十八戸   四百五十二人   旧舁揚村、北河原村
三十三戸   二百十六人    旧西代村
二十戸    百三十二人    旧柳内村

 この合計二千二百八十万戸にて一万二千四百五十二人と、前の約七倍となっている
とする。
 そして京の五条橋は昔の六条坊門で本能寺のあった処で、信長は故意に反体制の立
場から後の所司代役にあたる村井道勝邸をも、此処の居付地にわざわざおいていたの
である。
 つまり本能寺は当時は秘密に匿されていたチリー硝石によって、せっかく戦わずに
各大名の京屋敷よりの応援を待っていたのに信長も毛髪一本残さず、主従三十余名が
一度に吹っ飛んだ。
 そのサイカチの森から松原通りまでをば昔は六条河原とよんで、橋のない川の居付
部落だった。
 つまり江戸期の寛文時代までは、松原通り東洞院の東の「夷也」(今は稲荷)地だ
ったが、承徳二年から六条河原へ移ったのを、高瀬川にまた所変えしたのが、柵原六
条部落になったという。
 のち大岡越前の時に三軒七条出屋敷部落に、斬髪になれ追われて刑場や牢の番人に
使われた。
 七世紀から八世紀にかけ捕虜として連行され囲地収容の日本原住民は時代により場
所換え。
(明治四年以来全国人口が七割六分弱を増す間に、特殊部落民は二倍と十割強の増加
をなし、明治四年に全国人口の九十二分の一にしか当たらなかった部落民は、今は五
十分の一にも達して居ることの統計は、既に前に述べて置いた通りである。この著し
い増加率の相違は、更にそれ以前に於て如何なる状態であったか、普通民との増加率
の比較如何であつたであらうか、となる。
 徳川治世三百年間は、太平無事であつたが故に、我が人口も必ず大いに増加したで
あらうとは、何人も手軽に想像し得る所であるが、事実は反して、増殖率の案外低い
のには驚かざるを得ぬ。徳川幕府の人口調査は、亨保六年以後は、六年目に実施せら
れて居る。これより元治元年に至るまで二十五回の実施のうちで、十五回だけの数は
今日知る事が出来るが、その第二回目の亨保十一年の調査は二千六百五十四万八千九
百九十八人。第二十二回弘化三年が二千六百九十万七千六百二十五人で、百二十年間
僅か三十五万八千参十七人の増加を見るに過ぎなかつたのである。勿論この統計は、
決して正確とは言いがたいものであらうが、当時宗門改めのやかましかつた時代であ
るから信用するにたるものであらう。もちろんこの中には、公家・武家、並びにその
奉公人等を除外した数であるから、実際上の臣民の数は、更にこれよりも数割を見る
必要あるべく、かくて明治五年に至つて、三千三百十一万の統計を見るに至つた事で
あるが、徳川時代を通じて、甚しい増減のなかつたものなることだけは、承認して差
支えなからうと思われるのである)
と「民族と歴史」の「特殊部落の人口増殖」の153Pから154Pにかけ喜田貞吉
説は、さももっともらしく展開されている。
 徳川時代に泰平なのに人口が増えなかったのは、部落が苛酷に搾取されていて、子
供が生まれても育ててゆけず、大きくなれば人買いに売られてゆくのが関の山ゆえ、
水子にみなした為か。
 つまり現代のように美容上から不妊手術したり、避妊に失敗して中絶して水子にし
てしまうのとは違い、殺したくないのに処分を部落ではしたのだから圧迫のひどかっ
たのも判りうる。
 それに明治四年壬申戸籍の時より居付き部落の人口が倍以上に増加したのは、日露
戦争の時に消耗品として戸籍のない者まで人間狩りをし、新戸籍を作って戦死者の多
い第三軍の乃木大将の指揮下へ編入。それと軍事的資源として、将来の兵隊にするた
めに堕胎罪という法律で水子が禁止、生活は苦しくても御国のために、なんとか部落
でも育てねばならなかった為もある。
 それゆえ部落は、新戸籍者と育児で人口が倍加したが、それでもサンカのごときは
無戸籍の侭で、匿れ住んでいたし、部落からの脱出者は戸籍を作ると本籍で苗字が付
けられると避けている。つまり部落をよく知っている者は、戸籍台帳にいれられつけ
られると税金や徴兵だと嫌がる。
 つまり古代史とは良の鉄武器人が、縄文・原住民を征服し弥生期にエタ非人とした
歴史。
 ここの処を明確にしない事には、日本の古代史の解明などは不可能。できはしない
だろう。