1055 古代史入門  7

これまでの部落史

 部落史の解明は、体制寄りに美化してしまい、桓武帝の例をあげ大陸系の御方でも
日本人となってしまわれた方はそれなりに尊く、日本原住民でも王化したのは立身し
たとするのが喜田博士説で、彼の雑誌に投稿していたが、あきたらず日本書紀をもと
に民の側よりの解明をしたのが、「日本部落史料」の菊池山哉ということになり、タ
ブー的問題にされ発禁処分とされたのである。
「八切裏がえ史」「八切日本列島原住民史」「隠匿の日本史」「八切日本外史」をば、
被征服者を黒とし、奴隷にされた縄文日本人を白としたのを、「特殊部落発生史」で、
その他に太洋岸に這い上がって富士王朝をたてた紅殻塗りの「宮」に封じ込められた
赤を解明した。「天の古代史研究」で全体に把握できるようにし幹として大冊を刊行。
「野史辞典」「庶民日本史辞典」では枝とし項目別にし、八切史観を葉にして後学の
ために外国人にでも判って貰えるよう学校歴史の反対を纏めた。
 前人未踏の分野にふみこんで真実だけを追求してきたが、絶対安静とされて今や最
後である。
 自説だけ展開していては判って貰えぬ危惧もある。ゆえ権威ある喜田博士の部落史
研究を参照引用させて頂き、学術普及会の大正九年一月一日号の64頁の喜田論文よ
り説明をしてゆく。
(普通に越多は屠者で、彼らの事を古くは餌取りと云ひ、エタという名もその「エト
リ」の転訛だと言つて居ります。越多の名義に就いては私に別の考もありますが、
「エトリ」説もまた捨て兼ねますから、今は暫くこれに随つて置きませう。しかし餌
取りはもと屠者でなく、屠者はまた越多の全部ではありません。餌取とはもと主鷹司
の鷹や犬に喰わせる餌を取ることを職とする雑戸で、後で云えば餌差に当ります。餌
差は高尚な職業ではありませんが、さう越多の様にも賎まれません。主鷹司の餌取は
昔は随分威張り我侭をして、市人を困らせた事がありました。だから餌取のみが、他
の雑戸仲間よりも特別に賎まれたという理由はありません。むしろ幅がきいた方であ
つたでありませう。しかるに主鷹司は、殺生を忌む仏教信仰の思想から嫌われたり又
圧迫されたりしましたが、結局廃滅の運命に終つて、餌取の仕事はなくなりました。
平安京右京に餌取小路というのがあるのは、もと主鷹司の餌取の居た所です。あだか
も徳川時代の所々の城下に鷹匠町だの、餌差町だのがあるのと同じ事で、もと彼等は
京の真中に住んで居たのであります)
「幕末の群像 八切止夫著」には吉田松陰の片腕を取り返した幕末の鷹匠松岡万が、
やはり不浄者として扱われていた事がでている。つまり生物の餌とりをするので、赤
系ではなく白の騎馬系の末孫で、非人ゆえに不浄役人とか溝さらいとまで蔭口を叩か
れ蔑まれていたのである。
(屠者はもと猟師で、獣を獲り屠殺割肉の事をやつて居ました。又家畜の豚を屠る場
合には、猪飼がやつて居たのでありませう。随つて特別に屠者という専門の職業もな
かつたでありませうが、天武天皇以来牛馬を殺す事を禁ぜられ、年取つて役に立たぬ
様になつた牛馬で斃死したものは、屠者はその皮を剥ぎ肉を喰う)
というのが、養豚業が日本で始まったのは明治からです。屠者は四つ騎馬系で反仏派
ゆえ「殺生戒」で寺からは忌み嫌われ、屍体も投げ込みの畜生塚でした。
「かわた」の地名が多いように製革業は「四つ」の限定職業で、柳生なども「四つ足
の里」とよばれて仏教側から苛められていたのは私の、「柳生新陰流」に詳しい。レ
ザーのない時代で製革が儲かり、皮をなめすアンモニヤの代用に桶を沢山つんで馬車
隊で小水を集荷して廻ったから、今でも、「かわや」と便所のことをいうが、徳川綱
吉は「神仏混合令」を発布するに先立って、その当時、「犬も歩けば棒にあたる」と、
辻の木戸ごとの「四つ」の番太が野良犬をみつけると六尺棒で撲殺し、製革原料に渡
された。荒川の三河島に橋のない川として居付きさせられていたのが、関東入部の人
手不足の家康に、御家人、旗本に採用され略して三河譜代と称したが、彼らも白の
「四つ」の子孫ゆえ、革屋をスポンサーにガードマンとなり、「旗本白柄組」「神祇
組」と称して護衛していた。「生類憐れみの令」つまり獣を殺して皮を剥ぎ反仏派の
資金に充当するなという仏法護持の法律を施行するに先立ち、貞享四年に直参とはい
え皮屋加担の者は江戸だけで家族もろとも二千余、地方まで入れると二十万余が、居
つき限定地へ追われ収容される。
「猫を追うより皿をひけ」と、これ見よがしに四ツ谷と中野の「四つ」の限定地に犬
屋敷を作り、捕獲されぬよう野良犬を収容し、番人をつけていたが、綱吉自身は一匹
も飼っていない。また愛犬家ではないから一度も犬屋敷へなど訪れてはおらぬ。つま
り生類憐れみの令は反仏派退治のもので「犬公方」は、誤られた伝説。
(京都では下村庄助(文六)というものが、百九石余の手当取りで、越多頭として、多
くの皮田部落民を率いて、二条城の掃除をする役でありましたが、寛永五年に文六が
死んであとがなく、各部落は年寄支配になり、職務も牢屋の番人を命ぜられ、又非田
院のように犯人追補などの役目、又は死刑囚の処置など、嫌がる仕事の方へ向けられ
ました。なほ天部の小法師と称するものは、禁裏御所のお庭掃除のお役をつとめて居
りました。この小法師は後には蓮台野部落や、大和の部落から出て居ります)
とあるが、御所では江戸八百万石に対して僅かに三万石ゆえ、給与なしの彼らを、昔
つれ戻ってきた奴隷の子孫だったゆえ、ただで課役として安上りに使っただけの話。
(かくの如く江田[穢多?]の源流を尋ねて見ますれば、何も彼等のみが賎しまれる
理由はないのでありますが、ただ彼等は汚れたものである、同居同火は祖先に対して
忌むべきものであるとの迷信があったが為に、世が下るに従つてだんだんとひどく賎
められ、また人口が増す割りに仕事が殖えず、次第に生活難になったが為に、一掃人
の嫌がる仕事の方へ活路を求めて、ますます他から賎しまれる。それゆえひどく圧迫
されるという事になる。遂には幕末維新頃の様な最もひどい侮辱を受けることになっ
て、維新後解放されても、実際に世間が之を認めぬ有様になつたのであります)
 ‥‥時代観念を誤っている。幕末までの神は現代とは違い、「罪なくして殺した祟
りが化けて出てアダをするのを封じ込めにする」といった存在で、「さわらぬ神に祟
りなし」の世の中で、神に対して憚かって忌むといった事など有りようがない。「同
居同火」を嫌ったのは八の部落には「同堂同火の禁」というタブーがあって、他民族
とは通婚も煙草の火も貸さぬ戒律が厳しくあって、向こうの八の方で絶対に、同居同
火を断固として拒んだのである。なのに喜田博士の説は、
(要するに、我が国にては、民族の区別によって甚しく貴賎の区別を立てる事は致し
ません。従つてもと違つた民族であつても、うまく融和同化して、日本民族となつた
のであります。ただ境遇により、時の勢によつて、同じものでも貴となり、賎となる。
今日特殊部落と認められて居るものは、徳川時代でいう越多・非人でありますが、そ
れも非人の方は多くは解放されまして、越多のみがみな取り残されて居ります。しか
もその越多なるものは、もと雑戸とか浮浪人との方で法制上の昔の賎民というもので
はありません。それなのに法制上の真の賎民の多数は、つとに解放せられて、中には
大名とも武士ともなつたのが少くなく、さうでないにしても、いずれも解放され今日
はみな普通民の中に混じり込み、今では何等区別されぬものになつて居るのでありま
す)
と、藤原体制が定めた天孫民族と、「四つ」や「八つ」の民族とは、もともと別個と
初めて認めている。
 が、この説ではトウ輸入の大宝律令で良賎と二大分されたのを知らぬのか、ごま化
している。
「融和同和」というが、進駐軍と敗戦縄文人との関係では、主人と奴隷としての間柄
にすぎぬ。
「下克上」と足利末期の応仁の乱の人手不足で、露払い、ししっぱらいの矢よけの人
間楯として強制的に狩りこみされてきたのが、関白一条兼良の日記にもある「悪党」
で、仏閣を荒す足軽の中で、辛うじて生き残り戦場で武具や武器を拾い「寸法武者」
となったのが戦国武者。その中から戦国大名も出ただけの話。江戸貞享二十年から堂
の者が五街道目付になってから、同じ「八つ」ゆえ、居付地から都市へ紛れこんだの
が、銭をためて町人別を購い革屋でも永代供養料さえ喜捨すれば寺人別に入れて貰え
て、銭さえ儲けて差出せば人別に入り区別されぬようになったのである。
 前述八切止夫の母方の祖母の昔話では、やはり貞享の末、将軍吉宗が吾子の一橋や
田安を交互に尾張藩主にと宗春を処分した際、そのどさくさに紛れ名古屋へ先祖様は
入ってきたという。
 五街道に面していない辺鄙な居付部落で、脱出できなくて、くすぶっていた者だけ
が幕末まで取り残されてしまい、明治になっても被差別の対象となっただけで、「四
つ」で武士になった者らの侍人別や、寄進された寺奴隷の子孫の他に、庶民といま呼
ばれる人々の御先祖は、江戸貞享年間以前は、全人口の半分以上が部落にとじこめら
れ強制課役だったとみられる。それなのに、
(部落民の区別撤廃が出来ないのは、彼等の実質内容如何によることも多からうと存
じます。従って目下の必要は、彼等の実質の改善にある。世間の進歩に遅れ、距離が
だんだん遠ざかるようでは、如何に理論が徹底しても、融和の理想的実現はむづかし
い)
とする処の喜田文学博士のご意見は、まったく日本原住民を見下したオカミの側から
のエライさまの発言である、それに、
「足利末期の奈良大乗院の日記」に、「近日は土民・侍の階級を見ざる時なり。非人
三党の輩たりといえども、守護・国司の望をなすべく、左右するあたわざるものなり」
とある。この土民とは農民。
(もとの天下の公民として、家人・奴隷の上に立って居つたのが、久しく下方に押さ
へつけられて居たのであります。又侍とはもと賎しい職務であつても、実力を得た結
果で、ずっと土民の上位に立つようになつたものです。能の狂言などを見ますと、室
町時代の、守護・侍が、如何に威張つていてもまこと馬鹿のものが多かつたかが知ら
れます。その空威張りして、馬鹿者の多かつたのが地位を失い、土民との間に階級の
区別を見せない。非人でも実力によつては、守護・国司にもならうとするのを、誰も
押さへることは出来なかつたのであります。文明二年の条につぐ同じ文明の七年の条
に「近日はしかるべき種姓の者とて凡下にさされ、土民等は立身せんか。自国にても
他国も皆かくの如し。これしかしながら下極上(下克上)の到りなり)と引用されてい
る。
 唐語で、当てにならぬというのを不信とかきブシンと発音。「ン」をとってブシと
呼んだが、防人や飼戸の御楯に出しても相手が同じ「四つ」なら向こうに付いてしま
うので、実に始末に困る。
 その武士がクーデターみたいに武力をもっている強味から、明国に属従していた足
利の守護職や現地の守護代、公卿の荘園の守護代を追い払って、代りに領主となって
しまった事だろう。
 さて「エタ源流考」として「民族と歴史」第二巻第一号に発表された喜田博士の論
文だが、
(現在部落民として認められるものは、普通民との数の比較の上から云へば、畿内地
方から、兵庫・和歌山・三重・滋賀等、畿内の付近地方が最も濃厚で、岡山・広島等
の中国筋から。関東では、埼玉・群馬などに比較的多いようだが、奥羽の北部など中
央から遠ざかるに従つて次第に現象する)
となっている。しかしこれは江戸、つまりエの戸から考えれば、昔の江戸より東北は
みな桓武時代と天慶の乱と追われた日本原住民たちゆえ、言うなればオール部落であ
った。京や奈良や中ツ国の岡山辺に多く部落が残っているのは、奴隷として連行され
たのが居付部落へ入れられ、他とは隔離されていたゆえ目につくというか、特殊扱い
されていた名残りがひどかったせい。
 菊池山哉の「日本の特殊部落」にも収録されているが、関東は頼朝と釜利谷別所の
長吏の娘の菜つみとの間にうまれた頼兼が弾左ヱ門の祖先で、今の日本橋三越あたり
に住み、日本橋はその邸への出入り口で、家康入部以降は隅田川向こうの新地へ移っ
たが、日本橋の両側はアマ店(だな)とよぶ今は築地の魚河岸が並んでいた。が上方
では若狭の水上が、エタのオンボとして支配をしていた。
 正徳二年七月に、備後地方のエタと茶筅との間に於て、支配権限の争いが起った。
そこで福山のエタ頭三吉村関助・九郎助の二人が領主の命により、京都へ上って、若
狭よりきている水上のオンボ頭に従来の振合を問ひ合せにいったが、その時の六条村
の年寄留書に、
「今度備後国茶筅共と、我々共争いの義に付喧嘩出入にあいなり、よって御地頭様よ
り江田の水上が若狭よりきている京都へまかりこし甲乙之義を様子聞合せ申すべし。
もっとも備後・備中の故太閤より放逐の千の一派茶筅共らは、おんぼう仕りおります
が、江多の支配下にて無き由を申出をすぐ仰出されしためなり、福山越多頭より、京
都にて皮田の頭中へ右出入りのこと委曲に申上度候と申しますによって、則ち書付を
持参仕り候うの事」
一、このたび私共国方に、皮田村とちやせん共と甲乙の争いの義に付、御番所様へ
  先年の通り申し上げ候ひしに、さて仰せ出され候は、其方共の頭は京都皮田村
  へゆき、水上のオンボに尋ねて来るべしと仰せ出され候。依つて各々様へおた
  ずね申上候。
京都皮田村 頭 中 様  正徳二辰年七月側後国福山皮田三吉村 三八九郎助
                               同関助

 この争いの結末は、茶筅等は京都四条坊門極楽院空也堂の支配下であつて、彼等の
名前が同寺の古帳にあるとの主張に、調査の結果「本寺古帳に左様の者はかつてこれ
なく」と回答された。
(亨保三年にも江州甲賀郡森尻村のエタと、非人興次郎との間に、芝居櫓銭十分の一
を召すについて出入になり、京都へ問ひ合わせに来たことがあつた。其の結果代官所
の裁決にて、「諸芝居十分一右森尻村の皮田へ請取候様に仰せつけとなられ候て、番
人共は一切十分の一の受取りは致まじく」ということに判決権限のあったエタの水上
というのは、はたして如何なる意味であろうか)
と喜田は判らぬらしいが、若狭の神宮寺支配下の水上おオンボは水上勉らの祖先だが、
東の弾左衛門に匹敵する存在で雍州府志に起源を尋ねるものに取つて、見遁しがたい
文句がある。つまりそれは、「およそ越多の始めは、京の吉祥院南の桂川の小島から
である」とはっきり書いていることである。菊池山哉の「日本の特殊部落」の本にも、
この詳細な経緯はみな出ているが、六国史の「三代実録」の貞観十三年の条にも、
「百姓葬送の放牧の地を定めて制す。その一つに山城の葛野の五条荒木西里、六条の
久受原里。紀伊の十条の石原西外里、十一条下佐比里、十二条佐比里」といつた地名
すらも明白にでている。
 桂川の小島というのも昔は川洲で、今いう処の橋のない川。佐比の河原ともよばれ
ていた土地。
 昔の加茂川は今の京都河原町から寺町あたりまで水だった。そこで髪剃り小法師と
して原住民の「八」たちが葬いをしていて、若狭の水上のオンボが、たばねをその頃
からしていたらしい。
 その佐比の河原に続く第三坊の佐比大路の西三丁目に、餌とり小路の名称が残って
いる。
 「八つ」のゲットーの近くに「四つ」のゲットーが置かれてあるのは、「八つ」と
「四つ」を交互におき夷をもって夷を制するため、京へ連行してきて奴隷として居付
き地にいれた彼等を相互牽制の為。
「塩尻百巻」にも、「吉祥院の桂川より保里に処刑場あり、その執行人は交替に二条
城の掃除をなす」とあるのは中世紀のバスク人がスペインやポルトガルにおける扱い
とまったく同じ。
「芸苑日渉」にはアマベ部落のことを「江田の種族で居付き部落から、こぼれ落ちた
のを新に又も新しい居付き部落にしたもので、余り戸というのも同じ」という。アマ
が上につくからには、アラブ語の水の意味ゆえ、彼らは黒潮渡来で日本列島に這い上
がった古代海人族の「八つ」に違いない。
 江田とか非人という被差別がひどくなったのは、足利幕府の散所奉行による狩り込
みゆえ、「下学集」なる室町時代の文安元年の本には、「江田とは屠児、河原者をい
う」と露骨にあるし、「七十一番職人づくし歌合せ」でも室町時代の足利体制の頃ゆ
え、きわめて無遠慮に蔑んで、「人ながら、なんぞ畜生ぞ、馬牛同然の河原の者の月
見てもないもぞ」と生意気だと罵っている。
「河原物語」とか「河原細工由緒巻」といったものがあるが、これらは僧侶の舞文曲
筆にすぎない。
 そもそも河原者のいわれを判りたいのなら、院(因)地打ちを知らねば無理ではな
かろうか。
 毎年五月五日に限り寺百姓や荘園百姓の奴隷働きさせられている者らが、佐比や山
科の橋のない川の居付部落へ投石にゆき、年一回のうさ晴らしをし、川の鯉をとって
きて竿にたてて勝ちを誇る。ところが押し掛けて来る連中は一年掛りで石を集めてい
て、それを持ってきて投げるのだが、防ぐ方は河原の石を確保するしか対抗手段がな
い。といって、居付部落からは気侭に取りにはゆけない。そこで外にいる者に小石の
多い河原を確保させる為にいつも常駐させたが、河原に屯しているだけでは食してゆ
けない。そこで一人相撲とかクグツ芝居をなして銭を稼いで食した。
 これに後に、阿波浄瑠璃が入って来て、後世の歌舞伎役者となるのだが、<塩尻百
巻>に、
「禁裏、仙洞御所の御築地の芥を掃きそうじをなすは、丹波よりの、来りコボシとい
う」とある。
「塵袋」には「濫僧(みだりに僧体をなす私僧)という者が、門づけして食を乞うの
に与えるのを濫僧供と称し、てんで供養とは別なりという」ともでている前述の法界
坊や法印の有髪僧のこと。
 西暦七世紀から十三世紀までは居付き部落は弁髪の役人が見廻りにきて働きが悪い
とみれば、「八虐」の項目で「野史辞典」に酷刑ぶりがでているが、戦国時代に入る
と治外法権みたいになって落武者もきて隠れ、富士王朝のゲットーへ南朝の残党が逃
れ住みついたのと同じようになった。が、だからといって( )の喜田貞吉博士がい
うように社会の落伍者では絶対にありえない。