1053 古代史入門  5

耶馬台国群は中国の出先機関

 古代史探求にとって邪魔というか、妙な変てこな引っ掛かりになるのは耶馬台国の
存在だろう。
 昔は国といってもアフリカの部落なみの聚落で、魏志倭人伝の卑弥呼の君臨の状態
の仰々しさから文字に書かれている故とし、さも大きな国だったような錯覚をしては
ならない。
 自己に臣従して貢物をたえず献上しているのが、あんまりみすぼらしいのでは国威
にかかわると、誇張して書かれたものと判断すべきで、それでなければ魏書の中に倭
人伝は加えられていない筈である。書く者にとって、採録されれば名誉にもなるし銭
にもなる。不採用では一文にもならぬ。それゆえの記述とみて、あまりこだわったり、
とらわれてはいけないと想う。問題にならぬ。
 その記事よりも問題は、耶馬台国群と対立して戦っていた八幡国群である。「バハ
ン」と呼ぶのが正しく、現在のマレーシアである。私なんかは学校では馬乗半島の当
て字で教わり、ゆえに騎馬民族が此処から日本へ渡ってきたものかと、ずっと思い込
まされていたものである。
 さてバハンは英語読みで、ラテン語ではヤバアンなのである。それゆえ、
「日本人とはヤバアンから渡った民族」というので、ドイツでもアラブやインド各国
では、「ヤバーン」「ヤバアナ」とよび、ソ連でも「ヤポン」と今でも、どこでも呼
ばれているのである。
 紀元前三世紀のアレキサンダー大王遠征で首都スサを陥落されたペルシアの民は、
みそぎをするヤサカ川からGIONの神を奉じ、スメラ山脈のならぶアブタビ海より、
当時は、「ガレリーナ」とよばれたバハンのニコパルへ、開拓奴隷として送られ、そ
こから今の北ベトナム雲南へ送られる途中、黒潮暖流にうまく乗れたのは生魚をとっ
て海水で味つけして噛り、日本列島の瀬戸内海を抜け阿波の鳴門から出てゆく前に、
陸へ這い上がったのが今の日本人とされる。
「聖戦」と、かつての大東亜戦争を呼んだのも、シンガポールよりニコパルを先に占
領した為。そこから銀輪部隊でシンガポールの背後をついたからである。つまり後に
は「八」とよばれる古代海人族はここよりの南方民族にあたる。彼らは魚をとり塩も
つくるし、漂着地で農耕もする。
 ハングリーの時代である。バハン又はヤバアンとよばれる村落には、塩もあるし乾
魚もあり、粟も収穫がしまってある。だが襲って奪うのには武器がいる。かつては喰
いつくだけの攻撃だったから、歯が唯一の武器で、捕虜は前歯を石で叩き折られて武
装解除し使役にされていた。
 しかし西南よりの渡来の聚落では、大きな貝を探してきて貝刀を作り、真竹をもち
こんできて植えて増やし、弓矢を作って武器にしている。後に竹薮の多い所を八幡の
薮知らずというのもこれからで、ヤワタとは耶馬台国群と対立の八幡国群の名称から
の伝承である。
 耶馬台国に連合している各村長というか国群のボスが、牙をむくみたいに前歯をつ
きだし、
「貝刀に弓矢に、歯ではくいついてゆけんから、中国から何でも斬れるときく鉄の剣
を‥‥」
とヒミコのもとへ集まってきて、戦う武器援助を申しでてきた。今でいえば超能力の
霊媒で、占い専門のヒミコにしても、まさかお祈りでは中国の鉄剣はアラビアの魔法
のランプはないから無理。そこで北東に風がふき潮流が流れる時を見計って使者をた
て、泣きつくようにして、
「武器か、さもなくば食料のどちらを供与されたし」と入手したい旨を手真似で相手
に伝えさせた。
「食料を運ぶのには多くの船がいる。臣従するならば我が国より武器援助のほうもし
ようぞ」
となった。
 もちろんヒミコが美女だったら、まず彼女を武器援助の見返りに求めたかも知れぬ。
しかし、そうしなかったのは、使者の話でよくよくのブスだと判っていたせいかも知
れぬ。
 だから鉄剣は木箱一つぐらいで貸与されなかったらしいが、それまでは喰いつくた
めに突撃して近寄る前に弓矢で射られ動けなかったところを、鋭利な貝刀で血の脈を
斬られ殺されていた耶馬台国群のボスたちは、ひとふりずつでも鉄の剣を貰うと旱天
の慈雨のごとく感激した。
 この貝刀は八幡国群だけで、ペルシャやアラブでは多く作られ戦闘に使用されてい
たから、今でも切れ味の良さを貝のマークにした安全剃刀の刃も輸入されて出廻って
いる。
 サンカも焼印を五つ、柄につけた山刀をウメ貝とよぶ。しかし薄い貝刀と分厚い鉄
剣では勝負にならず、八幡国群は一つずつ略奪され、せっかく貯えた食料も奪われる
ようになった。
 そればかりでなく黒潮で流されてくる途中、インドの背丈1メートル余りのピグミ
ーが逃げてくるのを助けてきていたから、貯蔵食料の他にインドのピグミーをも捕虜
としヒミコの許へ伴ってつれ戻ってきた。恐らく助けられた八幡国群のために彼らピ
グミーも戦ったのだろう。
 当時はビデオも車もなかったから、武器援助の見返り進貢として背丈は小人だが顔
が小さく五体満足の珍しい生物として送った。魏志倭人伝に「生口」として出ている
のがこれである。
 現代でもカルカッタやボンベイへ行けば、幼い少女みたいのが、客とみるとパアッ
と前をまくって黒々したものを見せ、一人前の女であると安心させるピグミー達が屯
している。
 つまりそうした倭人の群れを貢進していたので、向こうでは「倭人国」とよんだも
のらしい。
 でなければ中国人に比べて耶馬台国群より使者として行ったものが、ぐっと背が低
かったわけでもなかろうから、頭ごなしに倭人とか倭国とか向こうが決めつけて呼ぶ
筈もないのである。
 さて、鉄剣が耶馬台国群に武器援助される迄は、八幡国群の方が弓矢と貝刀で優勢
で、食糧を略奪にくる耶馬台の各聚落の者を撃退していたのが、鉄武器をもってこら
れてはかなわぬ。
 貝刀や弓矢は一撃のもとに叩き折られ、食糧だけでなく聚落の男女が倭人と共に連
行されてゆき、奴隷として彼らの為に食糧作りをさせられた。古代史の耶馬台国は奴
隷国家の元祖といえる。そして日本列島には鉄資源が埋蔵されていないことが判った
ので向こうの屑鉄を送りこんできて、此方の山金と同量で交換し、その屑鉄を精練す
る多治比人を伴い南西の潮流で日本へ入ってきたのが、ヤマトタケルを毒害し崇神王
朝を倒した日本名竹内宿弥らその人である。
 藤原鎌足と改名した郭務ソウのように、前名は判っていないが、彼が北陸及び東北
へ巡って歩いたのは、鉄資源探しで自給自足の為らしく、山師の元祖ともいえる。日
本書紀では西暦95年のことだが、その五年前の景行二十年には「二月四日皇女五百
野姫をして、天照大神を祀らしめ」の記載がある。既にその一世紀前に天照大神を伊
勢大神宮として倭姫命に祀らしめ、89年前に天照大神は封じ込めで祟りをせぬよう
にと、今の奈良磯城郡織田に、とうにもはや祀られている。
 倭つまり中国からみて日本原住民系の倭姫を、祟りをせぬよう封じ込めていたとい
うのは、日本書紀では神話に入る時代にもう原住系の八の女将であった大神は謀殺さ
れて、化けて出てこぬように奈良に葬られていた事になる。
 今でも伊勢大祭は中国道教によって取りおこなわれているから、中国大陸の派遣勢
力が初めから日本原住民の大女将を葬ったものかとも推理される。
 が資源も何もない土地なので三韓の奪略や進攻にまかせて竹内宿弥の頃までは放り
っぱなしていたのかも知れぬ。日本書紀とは違うが、耶馬台国群に鉄剣をわたしてい
た時より、遥か以前らしい。もちろん東北といっても古い崇神王朝のごときは東北三
省の沿海州や羅津からの日本海よりの来攻ゆえ、後の白系ロシア人も入ってきた。だ
から、新潟や秋田にはその落し子が多く今も肌の白い新潟美人や秋田美人が混血で生
まれてくるのだが、中国本土となると違うらしい。
 つまり騎馬民族が、都井岬の野生馬なみのロバを伴って日本海を渡ってくる前から、
彼らは鴨緑江経由でなく親潮の潮流によって、日本列島へ前から渡来していたものと
みられる。
「何ものがおわしますかは知らねども、ただ有難さに涙こぼるる」と五十鈴川畔で江
戸時代によまれた句が有名である。つまり今から三世紀前にあってさえ、天照大神さ
まの御正体は判っていなくて、何がおわすのか不明だった、ということへの裏書きに
もなるのではあるまいか。
 それに大神にお仕えする皇女が、名前からして日本原住系とみられる夷のつく御方
だということは、親魏政権の耶馬台国のヒミコではない。滅ぼされた八幡国群の女王
さまという事になる。
 耶馬台国群が中国より鉄剣の武器援助を得て、食いつくだけしか武器のなかった彼
らは強力になった。ゆえ、それまでは食糧を充分に収穫し勢力をはっていたものの、
中国輸入の鉄剣によって滅ぼされ殺された女王であったとみるべきではないか。天変
地異の災難は、みな女王の怨念とみて、祟りよけの封じ込めに、大和の磯に宮をたて、
やがて夷瀬[伊勢]の夷須津川[五十鈴川]畔へ移したらしい。
 だから八の民らが、天照大神は平政子さまであると思いこみ、またそう信じ込んで、
おかげ詣りと称して、日蔭の身の立場から一日も早く助け出してもらいたいと各地よ
り群れをなしたのだ。
 そこで「四つ」の騎馬民族系の子孫も、お伊勢詣りの近くの二見が浦に「松下神社」
をたて、「蘇民将来之子孫也」といった平泉や八坂さんのような、六角棒の身分証明
書は出さずだが、「蘇民将来、来福之符」という紙の御幣をくばっている。現在でも
伊勢松坂市内の旧家には入口にみな掲げてある。官製歴史では歴史百科辞典の類にも、
これを包み隠してしまい、
「昔、疫病が流行した時、蘇民と将来の兄弟[蘇民将来(兄)と巨丹将来(弟)?]
が厄よけに薬草をとって治して廻った事から、疫病よけに兄弟の名を軒ごとに貼りだ
して、まじないとする」などと、まったく出鱈目が書かれている。
「蘇民」とは後の源氏の祖先にもあたる蘇我入鹿や蝦夷[毛人」の氏人のことで「四
つ」の騎馬系末孫である。
「東海道膝栗毛」によって、「四つ」も「八つ」と力を合せ世直しをせねばならぬと
黄表紙本で一般に広められた宣伝から、「八つ」の者も松下神社に、ついでに参拝す
るようになる者が増えだした。
 こうした土地柄ゆえ、伊勢松坂からは「古事記伝」がうまれたり、本居宣長の死後
も太平の許へ、伴信友らも弟子として集まってきて、はじめ明治新政府の太政官の上
の神祇省のもとをも作った。
 この場合の祇とは祇園さんの祇で、宮とか八とよばれる意味でもあり、神はカラ
[韓?]神で「四つ」。
 しかし新政府は「四つ」と「八つ」の大衆動員を、巧くして世替わりさせたからし
て、太政官の上に初めは神祇省を設けたわけ。廃仏毀釈の世となって、それまでは寺
の私有財産として、かつて寄進された奴婢の人別帳をもとに、雪どけして人買いがく
ると、馬なみに「青」とよんでいた彼らの子女を売っては寺の収入としていたから、
それゆえ「青春」の言葉も残るが、今は美化されている。

[『庶民日本史辞典』(日本シェル出版)』という八切氏の著書に、この『青春』に
ついて解説されてますので、御参考の為に以下に転載しておきます。
なお、適当に用字を変えている個所もあります。(例:符ちょう→符牒)
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青春
 現代では良い言葉だが、幕末までは、お寺の隠語で「見頃食べ頃」の少年少女を、
人買いが雪どけを待って訪れてきた時に渡すため寺人別帳に記入していた符牒。
 親の為に身売りをするとか、年貢を納める為に女郎屋へ売られてゆくといったよう
なプロセスは、ずっと後世の江戸期に入ってからのことです。それより昔は飼ってい
る牛や豚に子をうませたのを、市場へだしてせりで売るようにしていたのです。つま
り庭子とよばれたのが男女別々に寝泊りさせられていたのも、女達を主人専用にする
為だったと歴史家は説明していますが、そういうことも実際は当然あったでしょうが、
改良品種を市場へ出して値を良く売る為に、主人の眼鏡にかなった男と女だけが、時
々交配させられたのは、種とりが目的でもあったのです。つまり雪どけの春がくると
人買いが、せり市へ出す為に、器量の良い少女や働き者らしくみえる少年を求めに訪
れてきます。ですから食物なら食べ頃というのでしょうが、青の子供の「しし」たち
の売り頃が、青春なのでした。
 唐突のように思われるかもしれませんが、その為にこそ寺人別帳なるものが明治ま
であったのです。荘園はなくなっても寺院はずっとあったので、各寺の和尚さんは私
有財産の台帳として、太郎兵衛とお花の間に生まれたのが、ぼつぼつ十三、四になる
から値をよく売ってやろうと筆を動かし勘定をしていたのです。なにも御慈悲で親切
に戸籍係のような帳面をつけていたのではありません。<野史辞典>の巻末には、天
平十八年頃の25歳の娘の奴婢として値段がキビ千束とありますが、本当の処は高梁
の束のことで、奴隷市では売買されていた実存の奈良東大寺の売買記録もでています。
恰好よく使われても、本当の歴史で真実をたぐってゆくと庶民には哀れ悲しい苛酷な
恥辱の語源。
「本当のことを言ってしまっては、実も蓋もない」と古来よく言い伝えられてきてい
るのも、こうした訳け合いからでしょうし、「木が沈み、石が流れるのが世のならい」
とも賢しい方はおっしゃっています。
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 これは「庶民史辞典」に詳しく出ているが、つまり日本での古代史とはウエツフミ
はホツマツタエ。竹内文書の世界では木村鷹太郎の「海洋渡来日本史」や「旧約聖書
日本史」の方が、今イタリア語フランス語で訳され出廻っているのもあるが、判りや
すく難解でなく楽に読め入ってゆけるが、その後の西暦一世紀から「倭の五王」まで
の時代となると、学校歴史とは全然相違していても、「天の古代史研究」[八切氏の
著書]から読んでゆくしかない。真実の探り出しは他書では無理だろうと想う。
 この「古代史入門」と「天の古代史研究」の二冊しか、前人未到の分野の解明に突
入のものはないからである。つまりわけのわからぬ謎ときを何とかできる手引書は全
然ないゆえである。
 なにしろヨーロッパなら近接諸国の歴史からでも、ある程度の分析はできる。しか
し日本は明治大帝の仰せをかしこみ朝鮮までゆき、都合の悪い石碑の文字は削ったり、
史書は集め伊東博文が焚書し、ハルピンで安重根に暗殺されている。中国にあるもの
はヒミコの出てくる魏誌倭人伝だけで、明確に現存の15世紀のイエズス派史料は参
考にせぬ万邦無比の、ひとりよがりの歴史。
 だから今でも、天から高千穂の峯へ落下傘もつけずスーパーマンのごとく、来臨さ
れた天孫民族であるとする藤[唐]の勧学院製を下敷きにした江戸期の後西さまの日
本書紀を金科玉条としている学校歴史では、悲しいが、本当のところは何とも探求し
ようもない。もちろん後述のごとく焚書につぐ焚書の運命に史書はあってきていて、
いつの時代でも日本という国にあっては、「歴史」とは過去の真実を解明するような、
一銭にもならぬ無駄な徒労をする事ではなかった。
 リースを伊東博文が招いたのも、明治二十二年の憲法発布に利用するだけが目的で
あった。ところが突然に日本へ来たばかりのリースは、天孫民族説の神話を鵜呑みに
してあっさりと、「大和民族は単一民族なり」と発表し、当時大陸進出を志していた
明治軍部にすっかり歓ばれて、
「対外戦争をするには国民の一致団結が必要。よって国定教科書の歴史は彼に一任す
べし」
となって出来たのが、彼の門下三上参次や小川銀次郎、重田定一による、今も検定教
科書とされるもので、学校歴史とよばれる。つまり戦争目的に作成されたものゆえ、
国民精神作興に利用できれば可といったものだけゆえ、真実追求とは全く縁遠いのも、
これまた無理からぬ話である。戦前は国定教科書で丸暗記だったから、天孫降臨でよ
く紀元節とよぶ日に、紅白の饅頭を貰えた義理で、私も昔は頭から信じていたが、テ
レビで「ルーツ」など放映されだし皆も変ってきた。
「単一民族と学校の歴史では教わったが、鹿児島県人と青森県人がはたして一緒なの
だろうか?」
「同一民族というのは、同一宗教で同一通貨というが、日本では仏教に神道に富士講、
四方拝講から、若狭の神宮寺講に伊勢講中と数も知れないし、明治までは箱根から東
は金本位。西は九州まで銀本位と、まっ二つに分かれていて、とても同じ民族とは思
えない」
という事になってきた。
「契丹日本史」[日本シェル出版]を一読すれば、日本古代史の謎も解ける。だが、
自分ら日本人のルーツ探しに、あまりに従来の通俗史は都合よく、きわめて美化され
恰好良くされすぎているのを読んでいては、どうも徒労で誤ってしまい、真実の裏目
ではなかろうかと疑心暗鬼になる。
 もっともらしくされすぎの歴史ではない真実をという方には、記紀に誤まされぬよ
うにするための「天の古代史の研究」にあるごとき「天の何々」とされた遠い先祖の
ための挽歌としたい。



                 第二部


歴史まがいに注意

 昔のことをやっているのだから歴史だろうとテレビをみる人もいる。昭和の敗戦ま
では、やはり昔の事を談じるのだから、講談は歴史だろうと、寄席でも昔噺をする講
釈師と浪花節語りは、紋付羽織姿で、着流しで出る落語のような色物を演ずる人々か
らは、先生先生といわれたものである。もちろん、「講釈師みてきたような嘘をつき」
とは、江戸時代の川柳にもある。
「何々」によれば、と裏書するみたいに援用引用する例も多いが、平田門下で日本書
紀をも書いた伴信友にしても、若狭人ゆえ、事さらに「水上のオンボ(隠亡)」を隠
して、「水上は雨降りの阿夫利神」などと曲筆する。郷土愛といってしまえばそれま
でだが、藤原系となると、御所全体をもって一致団結して同じように筆を揃えて書く
のは、公卿日記が、どれもみな「将門謀叛」と、筆を揃えてデッチあげを、それぞれ
が、みな記録しているような例でもよく判りうる。
 会社の社史みたいに藤原王朝のすべてを美化してしまい、例証として引用した本な
どは、「まんまと罠にはまった」みたいで読むに堪えない本になってしまう。
 が、日本人の御都合主義というか、長いものには捲かれろで、過去に文字で書かれ
たものは、頭ごなしに郭ムソウこと藤原鎌足の法令の昔からお上の布令と信用してし
まうように、今も教える側が仕向けてしまう。
 文字で残されているということ自体が、そうする必要があったからである。つまり、
これでは真実など判りっこはありはしない。その時代その時代のオカミの都合のよい
ようにしてしまい、過去はすべて美化して葬り去り、わけがわからなくしてしまいた
がるのだから仕方がない。
 また庶民も過去のみじめさは知りたがろうとはせず、嘘とは薄々は、内心では疑っ
ていても、美化された過去の方が恰好が良いみたいだと、それを信用しているにすぎ
ないうらみがある。
 なにしろ江戸の享保二十年頃までは、庶民の先祖は大名領でも天領でも、居付き部
落に収容されていて、逃散すれば斬罪になる閉じ込め暮し。その昔、寺へ寄進された
子孫が、その寺を、「ダンナ寺」とよんで台帳に書き込まれ、寺奴にされ百姓をし、
奴百姓つまりド百姓とよばれる。海浜で漁をなしてアー元つまり今いう網元に人頭税
として納めるのは、ヤン衆とみなされていた。
 喜田貞吉全集がいま刊行されているが、「民族と歴史 特殊部落研究」も含まれて
いるが、大正八年七月には二十五銭現在の五百円で雑誌をだした途端に勤務先の大学
を追われ、その雑誌も発禁処分となったのは前述。が特別部落の研究発表をした反体
制的な存在と今もみられている。
 しかし翌年の大正九年一月一日に、半年たらずで最後の313頁から318頁の読
者の投稿の「紀伊の特殊部落 土井為一」の一文だけを削除しただけで発禁解除とな
り、今度は定価を四倍とし「壱円」としたから、小冊子でも二千円の高値になって、
雑誌だが発禁本というので六版から十八版まで古紙型で次々と刊行。喜田貞吉の日本
学術普及会でだしたのだから、一冊千九百円の差益の七掛けでも数が多いので莫大な、
今ならば数億円の儲けと、初めから作為がみえそうである。
 が、この一冊で反体制歴史家として令名が大いに広まり、菊池山哉も「日本の特殊
部落」の原稿を文学博士の彼を信用し次々と送ったが、大半を握り潰されて、使える
ものだけを自分の名で発表したから、堪りかね菊池は送稿をやめ自分も雑誌をと「多
摩史談」を自費で次々とだし、まだ無名だった棟方志功が毎号の表紙をその版画で飾
った。「長吏と長吏部落」は、その合本所産。
 大正年間で、一度発禁になった雑誌は紙型も没収され処分のもので、[喜田のよう
に]末尾の数頁のみの一部削除だけで紙型もその侭で返されて十余万冊も新しく再発
行できたというのは、内務省警保局傘下の「民族事業融和会」の前身である「同情融
和会」や、官製の「大日本公道会」の御用を勤める事を条件にしての、内務省の特別
考慮による特殊な計らいだったものであるらしいと考えられる。

「広く日本民族といっても、数百十万(実際は大正初年でも約五百万人)にも達する
特殊の一大部落あり(中略)明治四年エタ非人の称を廃されてから、半世紀もたつ今
日なのに、まだ特に限定社会とされ、その必要なき者まで一括して救済改善をいうの
は、まったく無用な事である」
と、彼[喜田]は巻頭言で、被差別して何が悪いのかと極言までし、日本人でない他
民族だと決めつけ、
「彼らは貧困、汚らしくトラホームやカサ[瘡]っかきの患者多く、その品性下劣に
して犯罪者が多いといった理由の他に、深い昔からの因縁が、その根底に存する為で
犯罪人が多く検挙者が多い」
 つまり、犯罪をおかすのは彼らゆえ、全部が彼ら犯罪予備集団だから、疑わしきは
捕え罰せよとの論を、彼は言っているけれど何も判っていない。
 幕末まで「八つ」の部落の、道とか堂の者が朱鞘と捕縄を亨保年間から渡されてい
た、本可打ちとよばれた二足草鞋の親分が、今でいう地方警察署長。
 警察庁にあたる大目付の配下の町奉行では非農耕漁業の「四つ」の飼戸の民を「千
金の子は盗賊に死せず」の中国の格言で、捕物課役には部落に人数を割りあてて「御
用ッ御用ッ」と捕方にした。
 「四つ」や「八つ」が目明かしや捕方にされ、「その筋のもの」とよばれていたか
らして、明治までは「おのれっ、不浄の縄目にかかるかっ」と、ばったばったと斬り
たおしても、彼らは寺人別にも町人別にも入っていないから殺人罪にはならなかった。
 ところが岩倉訪欧団が戻ってきて警察国家にすべく、警視庁ができ、旧士族が羅卒
となった。そこで以前の警察勢力であった彼ら「四つ」や「八つ」の者らを新しい威
信を示す為に片っ端から、デッチあげ(野史辞典[参照?])で検挙し犯罪者にした
のである。
 彼[喜田]は解放のためと称し己が雑誌への各史料の投稿を読者によびかけ、その
所見や成果を集め、それで他人の褌で相撲をとっているのだが、数十年前の明治初年
の警察権の異動も知らぬ男が、
「一学究の自分は平素より研究してきた日本民族成立上の知識から、何故に彼らが被
差別されてきたか(中略)と彼らに自覚反省するの資料にさせよう(中略)と過去の
特殊の部落の由来を明らかにして、その調査をすべく、諸氏の投稿を待つ。長く世の
落伍者として悲境に沈んでいる条理を、これは内務省地方局に於て開催された細民部
落改善協議会席上における講演なしたる筆記」
と、自ら官製歴史の立場に立ち、「四つ」「八つ」は縄文原住日本人なのに、高千穂
に降臨されたとするトウの天孫民族を純日本人化し、被差別の社会への落ちこぼれが
落伍者と決めつける。
 つまり天孫民族と自称したのは郭ムソウこと日本名藤原鎌足だったとは御存じなか
ったらしい。
 講演の速記だけを自説として雑誌の巻頭から掲げているが、秩父事件につぐ富山の
米騒動も、部落民の蜂起となれば、治安維持上、なんらかの名称をつけて区別排斥す
る必要もあるとして、細民部落、後進部落、密集部落と改名するべきかとも述べ、不
潔不衛生とも極限して差別を説く。が、
「特殊部落という名称には少しも悪い意味はない」
と言い切っているが、私の「特殊部落発生史」でも読み比べれば、いくら官制歴史で
もひどすぎ、また大宝律令の良賎までもってくるものの、
「トウ体制の大宝律令での良はトウ渡来の大陸系、日本原住民は前からゆえ賎」
の差別も知らぬ。
 しかし官制というか不勉強のゆえ何も判らぬみたいに匿したがりエタと非人の区別
もできぬ。
 が、まさか大儲けするための発売禁止処分とは知らずに、「特殊部落研究」の反体
制歴史屋のごとく一般い思い込まれて、大正九年からの信奉者も多く、大研究家のご
とく信用している向きも多いからして、その講演部分を分析して、彼の誤りを訂正し
ておかねばならぬと想うのである。

 が、予め言っておきたいのは、彼の趣旨はあくまでも「特殊部落でも新平民でも良
いではないか。真の部落開放とは、彼らが犯罪をおかさぬ善良な民となり、信頼すべ
き部落となって、被差別された新平民の侭でもよいからして、新進気鋭の人民なりと
の心意気をもち、実質を改良するよう心をみな入れかえ、内からのもので部落開放は
なされるのである」という、きわめて高尚な国益につながる説で、この論説のため上
海の「爆弾三勇士」に部落民はなるのである。つまり郭ムソウは武力をもって原住民
を討伐し王化しようとしたが、筆は剣よりも強しのやりくちなのである。

 さて、大正九年一月一日発行の喜田貞吉主筆の「民族と歴史特殊部落研究」日本学
術普及会発行の20頁より、漢字はみな当て字ゆえ判りやすく直して引用して、この
部分をみると、
(特殊部落は、大部分もとの江田[オリジナルでは『穢多』?]であります。もと江
田と非人とはどちらが卑しかったかと申すと、徳川時代の法令の上では同一に越多
[ママ]非人と並称しまして、もし区別するならば、むしろ非人の方が低いものにな
って居りました。その制度は、江戸を中心にした関東と、京を中心とした関西とでは
相違もありましたが、大体非人は共に天下の公民として認めて居りませぬ。さうであ
りましたから、幕府の法律は直接越多非人には及びませぬ。彼等にはそれぞれ頭があ
りまして、人頭税をとってその自治に任して居りました。よって越多非人の犯罪者で
もそれぞれ此の頭に引渡して、彼等の仲間の刑法に任すといふ有様であったのであり
ます。その越多と非人とどちらが多かったかと申すと、今日正確な数を知る事は出来
ませぬが、少なくとも京都附近では、非人の方が非常に多かった。
 正徳五年[1715)」(今より二百四年前)の調べに、洛外の非人の数八千五百
六人に対して、越多の数は僅に二千六十四人しかありません。その後非人といふ方は
だんだん減じまして、明治四年非人開放の際には、全国で越多二十八万三百十一人、
非人二万三千四百八十人、皮作等雑種七万九千九十五人とあります。この皮作はやは
り越多の仲間です。つまり維新前に於て既に多数の非人が消えてしまった、つまり良
民に混じてしまった証拠であります。維新後に於て既に多数の非人といふ方は解放さ
れ、もはや世の人は彼らを特殊部落民であるとは、考へなくなつて居るのが多いので
あります。京都附近でこれまで小屋者と言はれて居た悲田院の部落のものの中で、今
でも特殊部落として認められて居るものは、僅に柳原の一部に住んで居るもののみで、
一般民からはなほ多少の区別をするのがあつても、今は公署の統計上にも区別は認め
て居らんのであります。
 これらのもと非人と言はれたものの中で、最も種類の多いのは雑多の遊芸者であり
ますが、その中でも散楽(さるがく)即ち能役者のごときは、室町時代から解放せら
れて、立派な身分となって居るのであります。もっともこの仲間にも、手猿楽(てさ
るがく)・辻能(つじのう)などと称して、後までも非人扱いになつたのもあります
が、近ごろ著しいのは俳優即ち歌舞伎役者であります。彼らは、もとは非人の一つに
数えられて、河原者・河原乞食などといふ名称があつたのみならず、名優であっても、
もと非人部落と言はれて居た中から出た者も多いのでありますが、今日では芸術家と
いふことになりまして、貴頭紳士とも交際し、だれも特に賎しいものだとは認めなく
なりました。
 かうなつてまいりますると、もとからの非人でない、立派な身分の人々までも、進
んで仲間に入つて参ります。某文学博士の令息とか、某代議士の令嬢とかいふ方まで、
俳優となつて少しも恥かしいとは思いません。もとは河原乞食と言われて居ても、今
は俳優として立派に大道を濶歩して行けるやうになつて居ります。
 近ごろ世にもて囃される少女歌劇も、昔であれば乞胸(ごうむね)と云つて、その
頭の仁太夫の支配を受けなければならなかったのでありませうが、今日では、よい身
分の娘さんの寄り合いで、監督も厳重だし、教育の手当もよく行き届き、内容実質共
まったく賎しいものでありません。これは‥‥役者という者が事実上、非人階級から
解放された結果であります。今日に於てだれも、役者を以て特殊部落の仲間だなどと
考へる者はありませぬ。しかし地方に依りますと、彼等がまだ非人時代からの、もと
の部落に住んで居るが為で、附近のものからは、特殊民の待遇を受けて居る例がない
でもありません。播磨・但馬などにも、この例があるさうであります)

 屋根つきで興行するのが弾家の「四つ」の支配。乞胸とよばれる青天興行は、「八
つ」の方で東は車善七、西は山崎仁太夫の取締をうけていたのを、喜田博士は誤って
いる。また、越多と非人との区別も、てんで判っていないのは大正初年ゆえ仕方がな
いとしても、引用を続ければ、
(皮作りはもと賎民の仲間ではありません。彼等は雑戸と申して、賎民よりは資格の
よいものでありました。賎民といふのは此の以外にあります)
とも喜田貞吉説では説明される。
 その雑誌の二六頁に、はっきりと言い切っているが誤りである。江戸時代の五街道
地図にも、「かわた」の地名は多い。四つ足の獣の皮をはぐゆえに「四つ」と、彼ら
はよばれる騎馬民族系。
 かつて裏日本から入ってきた部族で蘇我氏となり白を民族カラーとして、後の源氏
となる。
「雑戸」とは「雑色」の名でよばれる騎馬系や古代海人族より先に日本列島に住みつ
いていた種族であって、朽葉色を民族カラーとしていたが、大宝律令では、いずれも
先住日本原住民として賎。
 それなのに賎民とは、皮作りや雑戸ではないというのは、暴論というか事実誤認で
しかない。わけが判らなくするのが目的なのか、賎民の解明はせずに奴婢とよぶが、
やはり賎のことである。
(官戸・家人は奴婢よりも資格がよく、同じ奴婢でも官の奴婢は私の奴婢よりも資格
がよい。それで官戸や家人と公私奴婢との間にも、結婚は出来ぬといふことになつて
居ります。こっらの家人・奴婢は一国の元首たる御方の御眼から御覧になれば、陪臣
とも云うべきもので、公民の資格は認められません。中でも私奴の如きは、すべて主
人の財産で売買譲渡も出来る、殆ど人間としての権利は認められて居なかったのであ
ります。
 この外には陵戸というのであります。即ち墓守で、後世で云へば穏坊の類です。こ
の陵戸は屍体に触はり、葬儀に係るものでありますから、次に申す雑戸の中に属すべ
きものではありながら、特に賎しいものとして、五種の賎民中に置かれる事になつて
居ります。即ち陵戸らは職業が賎しかつたからして、賎民として蔑められたのであり
ますが、家人・奴婢に至つては、まったく社会上に於ける境遇上の問題でありまして、
人その物が特別に卑しいとか、汚いとかいふ訳ではありません。当初賎民ができた時
には、良は被征服民とか、被掠奪者とかいう者であつたでありませうが、それも民族
の別からではない。後には貧乏して金が返せぬとか、父兄に売られたとか誘拐された
とかの原因で奴婢になるのもあれば、みずから好んで家人になるのもあります)
とまで出鱈目を喜田貞吉は述べています。
 陵戸が穏坊と同じ、というのはひどい。陵戸は騎馬民族で非農耕非漁業非製塩の遊
牧の民で、大江匡房の「くぐつ記」にあるような有様だったのは、初めは捕えられて
副葬品として生きながら埋められていたのが、「飼戸」の民としてナラ王朝の頃から
馬飼いをさせられ、食糧作りをせぬからシコの御楯として防人として出征させられ、
普段は陵の番人として森林の中に住まっていたから「森戸」「守戸」というのがこれ
で、血税を払う賎民として江戸期は奉行所の捕方の「四つ」である。
 穏坊は隠坊とも書くが、彼らは四方拝の中でも火を崇ぶゆえ、その火で屍体も葬っ
たので、「髪剃り法師」ともいわれ、素焼きの土器もその火で焼く処の「八つ」の民
で全然相違するのである。
 つまり江戸末期のヤジさんとキタさんを一緒くたにしている。歴史まがいであるか
ら、これで古代史を勉強しようとしても、根本的にどだい無理な話と、いわざるをえ
ないとしか書けぬ。
 なにしろ官戸奴隷や家人とかの、家の子郎党、蘇我氏の頃の氏人、氏族とは、その
部落に捕えられて臣属した連中で奴隷市場で購入の奴婢とは違うが、官戸や家人は働
き者を増やすため結婚は許されたが、捕虜とされた奴婢は男は生涯酷使されるだけで
生涯にわたって独身。女は買主の慰安用で双方の結婚などはなく、男女共に結ばれた
いとの悲願信仰が今も残るコケシなのである。