1052 古代史入門  4

記紀離れせねば判らない

「日本書紀」と「古事記」の二つを「記紀」とし、郷土史家だけではなく、一般の歴
史屋さんも、古代史をとくのに、この二つを引用援用して、神典とまであがめ奉って
いるのが今の日本史である。
 なにしろ、これしかないのだから、それらを唯一の原点としてしまい、本来なら歴
史の解明は、「零からの出発」であるべきなのに、日本では「記紀」を一とし、「一
からの出発」をしている。
 きわめて安易なやり方みたいだが、それしか方法がないというのが、今までの釈明
である。
 しかもゼロックスもなく木版で刊行されたのも江戸期の松下見林のものからで、そ
れ以前は筆写に筆写されてきただけで、次々と政権が交替するたびに、桓武焚書とか
時宗焚書にされたし、「臭いものには蓋をしろ」とか「本当の事を言ってしまえばみ
もふたもない」と平然と言われ、「木が沈み、石が沈まずに流れてゆくのが、世のな
らいである」と、浪花節や国民精神作興といえば聞えはよいが、諦めさせるような事
を平然と羽織袴で講釈師に語らせてきたお国柄である。
 古代史に新しい角度から突入してゆこうとする官立大学出でない歴史研究家もいる
にはいる。なんとかして真実を追求してゆこうとする彼らは、「記紀」を拠り所とし
ている歴史屋を、
「これは正史に対する日本の偽史である」と、勇ましく、従来の古代史研究家に警告
をする。
 しかし、学校歴史にでてくるのは、西暦712年に成ったという本居宣長説古事記
伝と、西暦720年に出来たとされる日本書紀の二つだけである。しかし、どちらも
今みられ、参考にと引用や援用され利用されているものではないのである。正史など
日本にはないのだから、偽史などといったしろものなどはない。はっきり言って、共
に創作されたものでいわば宮本武蔵なみである。
「日本書紀はクダラ史の漢字訳にすぎぬ」と主張する方が、まだ「記紀」を金科玉条
としている歴史屋さんよりは、遥かにまさっているだろう。これでは正史偽史どころ
の騒ぎではないらしい。
 それゆえ、日本人として真実の日本史をという学究が「古書三書」とよばれる「九
鬼文書」「竹内文書」「宮下文書」の三書。「古伝四書」と称せられる「ウエツフミ」
「ホツマツタエ」「ミカサキ」「物部四書」の四冊をだし、明治に入ってからは「富
士宮下文書の研究(原題高天原)」が工学博士神原信一郎著で、「富士王朝」の実在
的に科学的に研究したのをだした。「契丹日本史」を浜名寛祐が珍しく奉天城内で入
手して刊行(共に日本シェル出版で限定八百部で刊行)
 さて、三角寛はその著で北九州にはサンカのシノガラは一人もいないと再三にわた
って書いているが、シノガラ医者の戸上駒之助博士は、「サンカ」の文字は当時の警
保局で睨まれていたので、北九州セブリを廻診して廻り、その実態を、
「藤原王朝前日本歴史(原題・人種と言語よりみたる古代日本民族)を小倉で自費出
版した。[日本シェル出版刊]
「刀の郷の義弘と、お化けと、戸倉の本の実物は見たものがない」と言われるのも、
戸上駒之助博士が、壱千部自費出版を公表しているが、実際は半数ぐらいで(一説に
よると小倉警察に紙型全部と共に置く所がなく、印刷屋か製本屋に預けてあった六百
部を押収没収された)ものともいう。旧刑事訴訟法時代のおかみの弾圧で絶版。私も
入手したのはアメリカシノガラからだった。
 もちろん古代史入門を正確にする為には、是非とも一読せねばならぬものではある
が、「記紀」しか認めようともしない文部省一辺倒の、補助金で義理がけさせられて
いるか?それとも師弟関係でリース時代から繋がっている東大閥の権威かも知れぬが、
所謂学界では「古史三書」「古伝四書」と共に、戸上駒之助や浜名寛裕、神原信一郎
のものはタブー視されている。「第四次」「第五次日本書紀」は、これらの古伝が主
になっているゆえ異書として写しが見つかっても江戸時代までは焚書。明治十年以降
になると、宮内庁で警保局を通してみな買い上げてしまっている。
 しかし最近は、ウエツフミ、ホツマツタエから竹内文書までそれぞれ覆刻されてい
るし、「東日流[外]三郡誌」に関しては、刊行された寛政年間の時代からみて、蝦
夷奉行が公儀で設けられるに先立ち、どうみてもそれへの就職したさのものであるら
しいと、はっきりと、「庶民日本史辞典」[日本シェル出版]に、私は根掘り葉掘り
に書いておいた。この正篇の「野史辞典」は昭和四十八年から流行作家をやめ、後世
の参考になるようにと、延べ百二十人に地方の伝承を集めさせたりして、それまで他
社から出した三百にのぼる本の印税も、これにみなつぎこんだ産物なのである。
 「書紀」を金科玉条みたいに頭の中を硬くしている方には、とっつきにくい個所も
あろうが、古代史を本当に勉強なさるなら、この「野史辞典」と「庶民日本史辞典」
の二冊から枝として入って下さるか、「天の古代史の研究」を幹とみて一緒にみて下
されば、必死になって前人未到の口づたえの伝承を集めた悲しい努力が、どうにか後
世の役に立ち、日本の古代史入門との四冊が、唯一の道標になってくれるものと、己
が死後を固く信じてやまないし、私の生きたあかしでもある。
 が、気になるのは、「野史辞典」の中で、「三河譜代」を太郎左と与五郎の二名と
書いたのが説明不足で、よく質問されるが、「謎の徳川家康」にもあるように、観光
用に鉄筋の岡崎城はできているが、世良田の二郎三郎の家康にとって、三河は敵国も
同じだから、ずっと浜松城にいた。
 だから三河者は戦場でみな家康に使い棄てにされ、小田原役後に関東へ移された時、
荒川の中州の三河島の、同素性の筋の者らを家康は旗本や御家人とし江戸開府の創業
につくさせた。
 沢田源内という贋系図書きの「三河風土記」や「後三河風土記」を奉行所で認め、
三河島から、島の字を抜いて「江戸開府以来の三河侍」という事にし、本当の三河出
身は、一向一揆と俗にいわれる家康追い払いのため、三河一国の地侍が刃向かったの
に加わらず味方した中島太郎左や与五郎のみを、他の見せしめに家康は、低い身分だ
が旗本にとりたて、三河人への仕返しとしたのである。
 「庶民日本史辞典」では、オケラの部である。野村直弘先生[八切氏の主治医だと
いう]に御指摘をうけたが、虫ではなく漢方辞典では薬草だというのは、日本原住民
がレジスタンスをした際に、日本へ北七世紀の大陸人は、
「根の国で行かしてやる」と生き埋めのために土砂をかけて蓋とし奴隷となった者ら
に足で踏み固めさせるのが、今も東北三大祭りの「ネブタ」で、一つ穴に反抗し捕え
た何百人もの日本原住民を放り込んで生き埋めにしているので、怨霊が穴から這い出
してくるのではないかと根株が広がり、さながら地面にバリケードをはるように生い
茂る「求」という草の種をもってきて植えた。
 その草根に御先祖さまの霊があると、根をオケラとよんで八坂神社の神灯にされ、
その火を分けてもらって雑煮を作り、日本原住民は復仇を新年ごとに誓った[これは
大晦日に京都八坂神社で行われるオケラ参りについての推理かと想われます]。
 しかし、東北地方では、根蓋の根株を這い廻る地虫を今でもオケラと呼ぶ。「庶民
日本史辞典」は、東北を主にしたので根蓋の上に生い茂るオケラ草の根株を巣にする
地虫が、生き埋めにされた先祖の生まれ変わりとして、踏み殺すような事は絶対にし
ない点をとった。
 こうした具合に、取材した地方によっては異なるものがある。一、二のくい違いは
あるにしても、こつこつ日本全国の庶民の匿された歴史をアカサタナ順アイウエオ順
に分類した正編の「野史辞典」と共に、古代史入門には絶対に信頼できる処の、前人
未踏の分野のものと思える。
 なにしろ竹内文書やウエツフミやホツマツタエの覆刻をみても訳が判らぬからUF
Oの所産と決めつけてしまい、さも現代的感覚みたいに面白がらせる通俗史書ともい
えるものさえある。
 古代史研究を本当に志すのならこうした子供だましに、いくらUFOばやりだから
といって引っ掛かっては、もはや歴史探求でもなんでもなくなってしまう。それくら
いなら反トインビー派の一方の雄でなく雌であるポルトガルのオロラ・ケント歴史博
士が再訳をして、また西ドイツやローマやパリでよく読まれている日本人、木村鷹太
郎の著から入ってゆく方が、まだましである。「海洋渡来日本史」「旧約聖書日本史」
の二冊だが、かつてドイツ版と英版が出され、カイゼルをして「黄禍論」を叫ばせ、
アメリカのユダヤ歴史家ハバードをして「日本人抹殺論」を書かせ、ルーズベルト大
統領を威圧させFBIに日本の暗号を盗ませ、当時は数が少なく虎の子だった航空母
艦だけは待避させ、それから沈んでも惜しくない旧式軍艦だけを並べておいて、ハワ
イへは知らせず奇襲させるにまかせて放っておき、前もって作っておいた大義名分の
スローガンに、「リメンバー・パールハーバー」と、ステイツの雑多な複合民族に対
しての戦争熱を煽った。
 彼の副大統領だったトルーマンも、木村鷹太郎の英訳本をよんだ結果、断固として
原爆を、「地上から消滅させるべき危険な種族」と、テニアンからB29で広島と長
崎へ投下をさせた。
 スペイン戦争の余波みたいに両親をポルトガルでナチス党員に、共和党だというだ
けの理由で殺され孤児となり修道院で育ち、フランコ政権下には母校の大学を追われ
た彼女の、「不可思議な国ジャポネ」を、ようやくポルトガル語とイタリー語の字引
を首っぴきで訳しおえたが、彼女の説では魔女狩りの中世暗黒期に、当時五十万ぐら
い[の人口]だったポルトガルに日本のサイドシルバー(島原三角湾)から日本女性
が三万は硝石と交換でマカオ・ゴア経由で入ってきているから、博士自身も金髪で青
い目だが、ポルトガル全人口の最低20パーセントは日系の血をひいていると自称し
ている程である。([『不可思議な国ジャポネ』の]本のカバー写真は若かりし頃の
[ケント女史の]写真)
 カトリーコの彼女が「海洋渡来日本史」「旧約聖書日本史」の虜となったのは、イ
エスさまは太古日本人であったかも知れぬとする史観。プロテスタントは白人絶対主
義でトインビー白人世界史だが、もしイエスが白人だったらエルサレム難民はみな餓
えた者たちを何百人も率いて彷徨するわけはなかったろうし、純粋白人ならローマ市
民には呑みよい毒人参ジュースを自殺用に支給した神聖ローマ帝国が、ゴルゴダの丘
で盗人と共に処刑したのは純白人でなかったからであろうと推理する彼女は、和布莉
(めがり)の謡曲その侭の絵のあるヴァチカン法王庁内部に不審を抱き、木村鷹太郎
の著作が、絶対白人主義のイギリスやドイツやアメリカに嫌われ、それが日本人の抹
殺論になったのではないかと帰納している。竹内文書やウエツフミも、いきなり読ん
ではUFOだが、木村鷹太郎の古代史入門の二冊から先に読んでゆくとよく納得でき
るのは確実である。
 現代の千分の一どころか十万分の一ぐらいしか人口のなかった古代を正確に解明し
てゆくには、故木村毅も激賞していたが、これしかないらしく、山本五十六も熟読し
ていたと言われる。
 日本の暗号をずっと解読しているアメリカに撃墜された機内に半焼けの木村鷹太郎
の本が遺品として有ったというから、講談しか読まなかった乃木大将や東郷元帥に比
べ、さすが、近代戦の大家だけあって、故山本五十六元帥は勉強家であり、また世界
的視野の持主で武人離れした近代人で惜しかった人材といえる。
 日本の古代史の突破口は、本当は江戸時代にできた日本書紀や古事記を原点とする
ような大学教授諸氏のものからでは、まったくどうにもならない。なんら制約をうけ
ぬ自由人の生涯をかけた、記紀離れした史観のものからだけしか、新しく解明してゆ
くより途はないことを、古代史探求を志す人には注意するというか、ぜひともと、苦
言を呈したいものである。
 記紀を1として、それから2、3と進めてゆくのなら答えは、1に帰納されるのだ
から、最後の頁に答えがついているアンチョコの虎の巻みたいにわけはない、安易で
ある。
 しかしである。ゼロから進むとなると、1までの距離は無限に離れているから容易
には辿りつけはせぬ。それが故意に作為された10からとなると、これはゼロよりの
出発よりもさらに困難なものである。
 後述のNO.3の聖徳太子のように、紙幣にまで肖像画が刷られ、百人が百人とも
実在の人物と思い込まされているのが、ちょうど藤原体制のマザーランドの唐が契丹
に滅ぼされた危機に際して、突如として仏教護持の太子の出現は、あまりに話ができ
すぎていて変である。
 が、江戸時代でさえ仏教側の創作架空とは判らず、大工や仕事師は「太子講」とよ
ぶ信仰団体さえ作って詣っていた。平の将門と同じように実在と誤られているが、ま
ったくの権勢の作りもの。つまり10とは、こうした為にする必要から設定された厚
い壁なので、ゼロから進むにしても、まず、イエスと同じに馬小屋で生まれたゆえ、
厩戸皇子とよばれたという中国へ入ったキリスト教の景教の産物みたいな、その欺瞞
性を打破して仮面をはがしてからでなくては、とても突入できはせぬ。


八切史観の古代史

 日本にいない時は仕方がないけれど、連日午後から夜間にかけて質疑応答の電話に、
お答えしているが、年賀状11万枚、海外よりのクリスマスカード六百余枚の熱心な
私の愛読者がいらっしゃるので、多い日には百人はかかってくる。千差万別の質問だ
が、なんといっても多いのは、
「どの本の何処は、どんなのにのっていますか?」という出典についての質問が圧倒
的である。
 これは塙保巳一の群書類従的発想でしかない。彼は、どういう具合にしてでも、本
当の日本史を、その存命中に集めておこうとしたが、京所司代を通じ吉田垂加神道よ
りの献言として、
(勝手に取り調べさせては公儀の御政道に、きっと差し障りきたすべきにつき、野人
の儘[まま]にせず、いくぶんの扶持して取りたて御上御用に役立つようするが、す
べてに好都合と存じまする)と、京御所にあって、獅子身中の虫のごとくに徳川家に
儘して、銀を貰っていた吉田家よりの報告が届いたのは、1767年の明和四年で、
公儀はこの年の七月に側御用人となった田沼意次によって、竹内式部を八丈島へ流罪、
山懸大弐を死刑にし、藤井右門を獄門にと断罪した年でもある。
「調べて、裏付け証拠ともいうべき同一内容の他書のあるものに限り、収録すべきな
り」
 足軽なみの扶持米だが、公儀より押しつけられては先々代吉宗の時代から、今いう
警察国家に公儀は完全になっていたから、筆録して廻る門人どもにも、各地の代官手
代が事前検閲した。
 だから1782年の天明二年にようやく完成した群書類従正篇は、徳川宗家のこと
にふれず、一切、異端の説は収録しないという公儀検定の模範みたいなもので、表面
は塙保巳一の名でも実際は徳川五代将軍の神仏混合令につくした功績をかわれた吉田
垂迦神道の手になるものだった。
「和学講談所」の塙邸には、京所司代から差し廻しの吉田派の有髪僧が校閲に座りこ
んでいた。それゆえ、英艦が蝦夷へきた「東日流外三郡誌」のかかれた寛政九年に出
た「群書類従続篇」や、その後のものになると、たとえば合戦部においても、公儀へ
の事なかれ主義は徹底している。
 ゼロックスもなかった筆写時代に何故に同一種のものが複数に現存するかは、なん
らかの使用目的があったからで、そのため次々と複写するみたいに書き写され複数化
したのだ、つまり、
「何の為に、何の必要があって同じものが数多く各地に筆写されて残っていたか」の
解明が絶対にまず必要になってくるのではないだろうか。それを突きとめず、証拠主
義みたいに、裏付けできるものが見つかったから、これを採録するというのでは、い
くらおかみより扶持と保護をうけていたにしても安易にすぎまいか。
「庶民日本史辞典」[日本シェル出版]で「楠木合戦注文」の項目に、「湊川合戦の
楠木方配置表が今も各地に残存するのは、足利方も楠木正成の忠勇にうたれ」といっ
た美化した話ではなく、注文つまり要請書としての文字があるとおり、これは今いう
指名手配書である。明国経由でカースト制が入ってきて居付き(五木)部落つまりゲ
ットーへ足利尊氏創業の邪魔をした南朝方の子孫の一斉狩り込みを東西散所奉行をお
き次々となし、散所(産所、山所、因地、別所、界外)の人外地へ、捕えてきた南朝
方の子孫を今いう橋のない川へみな収容したのである。
 今でも特別部落の地名に、楠、湯浅、菊池、新田といった地名が多いのはそのわけ
である。つまり関東までは手が廻らぬから、関西の南朝方検挙用のが、数多く残る筆
写の合戦注文と解明。
 また藤原時代の公家の日記には、みな筆を揃えて「西暦939年の天慶二年十二月
十一日平将門反乱し新皇と号すれど、翌三年二月十四日に誅せられる」と揃って同じ
にでているのもしかり。
 何故に、藤原公卿がみな日記に書き並べているかといえば、「国家的大事件だから、
それぞれ書きとめたもの」と歴史屋さんは認める。しかし国家的な大事件なら、同時
に瀬戸内海より紀州和歌浦を根拠地として、京へ三度まで攻め込み「藤原」の賜姓を
し拒まれたり、従五位下の官位で懐柔しようとしても京の大半を何度も焼き払った純
友の方が、遥かに大事件なのに、何故に坂東八ヶ国の方だけを重要視し、みな公家が
揃って日記につけたか?を検討したものがあるだろうか。
 真相は桓武十三年の富士大爆発で坂東八ヶ国は火山灰地となって荒野になっていた
のを、唐を滅ぼした契丹人が次々と日本海を渡って入ってきたのを坂東へ送り込んだ
ところ、頭の良い彼らは苦労して火山灰を中和させ、次々と灰地を緑の農地に変えた。
そこで藤原王朝の公家どもは、多賀城の駐屯軍司令官に昇進を約し、出兵を求め彼ら
を討伐させて追い払ってしまい、公家の荘園に互いに分けあって、すこぶる各公家は
儲かったゴマかしの恰好づけではあるまいか‥‥。
 のちアメリカでも狩猟民族のインディアンを居留地へ入れコーンを一人一握りずつ
与え、彼らが苦労して川の水をひき、とうもろこし畑に変えると、転売できる農地に
変ったと、ワシントンに顔のきく政商が、リオグランデ砦の騎兵隊長へ栄転や昇進を
約束して討伐させて追い払い、また岩だらけの保護地へ追い込んでいったのは最近の
ことゆえ、例に引けばよく判り得るだろう。
 さて「群書類従」は続の刊行の時にも、同一内容のものが二種類以上あるものに限
って、裏づけのある信用度のあるものとして採録。「将門記」なる一文も幕末刊の続
篇合戦部の三番目にある。
 しかし何故に、「将門記」なる西暦940年の歴史小説みたいな読みづらいものが
数多く残されていて、群書類従の幕末続刊行時にも同一内容が沢山あったか?という
奇妙な疑問である。
 難波大助の子孫とか、幸徳秋水の子孫と名のり出る者はいない。しかし戦国初期に
平将門の子孫と自称する相馬氏や千葉氏が現れている。いくら戦国時代とはいえ「新
皇」とまで名のったという彼の子孫と、何故に自分からいい廻ったかの謎解きが、ま
だされていなくて不審である。
 かつて藤原王朝の公卿どもが山分けみたいに己が荘園にそれぞれしたのを、相馬や
千葉が力づくで奪って新領主となったが、土着の農耕民としっくりゆかない。そこで
考えついたのが、「唱門」といわれる契丹系の語部が、銭や食物を貰うために、自分
のことを「しょうもんは‥‥」と一人称にし、歓ばれるように勇ましく武勇伝を門付
けに語って廻って有名なのを利用しようと、
「われらはショウモンの子孫であるぞ」の一言である。
 荘園の農耕民は恐れ服して効果てきめん。
どうも、そうした横領した荘園の農奴を威圧する目的の為に、将門の子孫と名のって
脅かして利用し、それで働かせたのでなくては効果もないし、まったく何の意味もな
い。
「続日本紀」に小野の野主が、「異姓(異民族)猿女ら、小野の男どもを誘惑して伴
い去り、各関所を『小野』と称して通りまかり、今や小野の一族は絶滅せんとす。乞
う取締り退治されんことを」の奏上文がでている。唱門以前の語部は、騎馬民族系の
この猿女で、彼女らは自分を、「おの」と自称した。つまり「己が姿を影とみて」に
始まる「オノ伝説」はこれからきていて、「おのの小町に孔はない」という話も、女
体を強要された時の逃げ口上の説話であった。
 つまり唱門伝説が、語部のショウモンの自称からして今の将門伝説になっただけの
話だし、後世に名が伝わるのは、その利用価値があるものに限られている。日本書紀
をかいた伴信友も、「両島英雄記」の大入り芝居の台本をかいたが、頼山陽も、やは
り芝居をかき、その中の一つに、「君は新皇となれ、われは関白とならん」と、ショ
ウモンと純友が比叡山上での一場が、きわめて反体制な舞台なので、大阪方面の「比
えい山両雄会見記」なる芝居で虐げられていた庶民どもに大受けして大当たりをとっ
た。その子の頼三樹三郎に安政の大獄で捕えられ斬罪にされたが、当時の大名の家臣
の中で恵まれぬ下級武士や、百姓なみの郷土や、庶民どもは、世直しの反幕を志して
いたが、城主や上士は、必ずしもみな、そうではなかった。徳川の大公儀を恐れてい
た。
「万が一にも江戸表に睨まれて、御家お取り潰しにでもあったら大変である」と、討
幕などとは滅相もないと、てんで、橋本左内らが遊説して廻っても、まったく馬の耳
に念仏の有様だった。
 現状維持派は己が家来の中より不心得者の過激派が、勤皇などと不穏な叫びをあげ
江戸表に知れては御家の大事と、藩の横目付や徒士目付を動員して狩りこみに追われ
ていた。土佐藩や薩摩藩の大藩でも、手きびしく下級の過激派の弾圧はますます厳し
くなる一方だった。そこで、
「われらの敵は、江戸表よりもまず各藩の領主や上士どもである」と召捕られる前の
頼山陽の遺児の頼三樹三郎は、しきりと遊説した。やがて土佐山内家では武市半太が
家老を斬った咎めで山内容堂に捕えられ斬罪にされた。薩摩の田中新兵衛も自決。土
佐の岡田以蔵も獄門首。
 薩摩では西郷吉之助が沖永良島へ配流。そして寺田屋に集合した同じ藩士を勤皇か
ぶれで御家の不為なりと、藩主久光が、斬り込み隊を送り上意討ちで皆殺しにする有
様だった。
 それゆえ、どうあっても殿様や上士どもを何とか説得して、幕府に対立しても何等
臆することはないと洗脳するには如何なる方法が良かろうかと、御家大事でこりかた
まっている上層部を、如何にして再教育するかについて、散々に吉田松陰をはじめ皆
が頭を悩まして相談しあった。安政の大獄で刑死した同志頼三樹三郎の父山陽の芝居
を覚えている者がかなりいて、
「新しき皇になれの、あの芝居台本ではまずいが、書誌となって残っているものはあ
るまいか」と手分けして探し廻ると、唱門師が語り廻った時に、覚えのために書き残
した種本の前の部分は破れてないが、後半は漢文体で難しいが、その侭で残っている
ものが盲道支配取締の久我の屋敷で見つかった。関東では唱門が門づけに語り廻った
が、関西では盲法師が、琵琶法師よりは語るのに楽な、今の将門記を後のでろれん祭
文のごとく語っていたらしい。有松の版本にもなった。
 面白く聴かせて、より多く銭を貰う為に処々で声をはりあげ、「啖呵」とよぶ掛け
合いを入れたり、四ツ竹を鳴らし小さな技鐘をならし、場面を彷彿とさせたからして、
ちょぼくれ、でろれんの名称で親しまれ、後には「浪花節」と、今でいえば大阪節と
もなったのである。
 その将門記版本が、さも尤らしく幕末に一斉に次々と筆写されて拡まったのは、各
藩の上士連中や領主に勿体をつけて献上された為だったからであり、慶応四年正月三
日の鳥羽伏見合戦で三千の薩長兵が、大目付滝川土佐の三万余を破るや、関西から九
州までの諸大名が一人残らず加盟したのも、この将門記版本の写しのおかげであり、
同じものが沢山あるので「群書類従続篇」に加えられたのも、こうした裏話の理由が
あったからである。俗に「真福寺将門記」とよばれ、奥付に、
「承徳三年正月二十九日大智房に於て、酉の時ばかり書きおわんぬ。同年二月十日未
の時、読み了んぬ」と、西暦939年よりも、百三年後の古い年号を書き加えている
のも、各藩の領主や上士を納得させる為に、ことさらに門付け法師の語り原本の「し
ょうもん伝説」への恰好づけらしい。
 よく読めば「誰が正月の末に書きおえて、まさか当人だったら翌月の十日まで掛っ
て読みおえる事もあるまい」と想うのだが、井伊大老の白昼の暗殺で、世直し近しか
と幕末の大名や家老は、ようやく気づき、そこで古い年号だけで一驚し、細かく詮索
はしなかったものとみえる。
 大須万松院の塔頭(同じ境内の末寺)にあたる真福寺は、十四世紀末の応仁の乱の
始まる二年前の足利時代末期に、本山の万松院が、当時は大州と呼ばれた土地に建立
されている。まさか塔頭の末寺にあたる真福寺が、それよりも三百年前に、先だって、
ぽつり建っているわけはないから、だから、奥付の承徳三年[1099]当時には、
真福寺などはまったく影も形もなかった筈である。

[八切氏は勘違いされているようですので訂正をば‥‥

しんぷく‐じ【真福寺】
名古屋市中区にある真言宗の寺。別称、宝生院。通称、大須観音。建久(1190~1199)年
中、尾張国中島郡大須郷(岐阜県羽島市)に建立、中島観音堂と称したものを一六一二
年(慶長一七)現在地に移建。古事記・日本霊異記などの古写本を蔵し、大須本・真福
寺本と称する。(EB広辞苑より)

宝生院(大須観音)(名古屋市内中区大須二丁目)
北野山真福寺と称し、南北朝時代美濃国長岡庄大須郷(岐阜県羽鳥市大須)に創建さ
れた古刹で、創建の地名から今も「大須観音」の俗称で親しまれている。元享四年
(1324)後醍醐天皇が勅願によって長岡庄に北野天満宮を造営した際、開山の能
信に深く帰依した天皇は、当寺をその別当寺とし現山寺号を賜った。三世任瑜法親王
のころには七堂伽藍を備え、寺領も一万石に及び、東海五ヶ国と信濃の本宗寺院を末
寺とし、寺運も大いに栄えた。
 その後兵火にあい、織田信長も寺領五百石を寄進したが、慶長十年(1605)洪
水によって堂宇もことごとく流失してしまった。慶長十七年(1612)、徳川家康
が、尾張藩の付家老成瀬正茂に命じて現在地に移した。(以下割愛)

万松寺(ばんしょうじ)(名古屋市内中区大須三丁目)
天文九年(1540)古渡城にあった織田信秀が、名古屋村に大雲(信秀の叔父)を
開山として創建した。同二十年信秀が末森城で没した際、この寺で葬儀を営んでいる。
この信秀の葬儀の際、信長が抹香を手掴みにして仏前に投げつけ、「尾張の大うつけ」
ぶりを発揮した話は有名である。なお信秀の法号万松院殿桃巌道見はこの寺号からつ
けられたという。慶長十五年(1610)名古屋城築城の際、藩命によりこの地に移
転した。
以上「県別シリーズ21 郷土資料事典 愛知県・観光と旅」(人文社)より

ということで、宝生院(大須観音)は万松寺の塔頭(脇寺、大寺に属する別坊)では
ないようです。
創建年代も、
 宝生院‥‥建久年間(1190〜1199)
 万松寺‥‥天文九年(1540)
と宝生院の方が古い。
しかし「将門記」の奥付当時(承徳三年・1099)に「真福寺などまったく影も形
もなかった」は間違いないようですが‥‥]

 私の実父矢留文雄は愛知県中島郡丸淵の本源寺の長男で、その妹が名古屋赤塚の西
行寺へ縁づき、真福寺の老住職は西行寺より嫁とりしているから、俗に真福寺将門記
とよばれているものは、幕末になって写本にきた者が、祖父の代に預けていったもの
であると言明している。
 なにしろ元禄時代に、蔵書が多いというので筆写に隔日おきに通っていた尾州藩鉄
砲頭天野信景は、「真福寺蔵書一覧表」を、その「塩尻百巻」に記載しているが、将
門記など及びそれに類似するものは入っていないと明記。真福寺に昔からあったので
はなく、それ以降と裏付けられている。「張府志」の編者である天野信景がまさか一
日おきに寺へ通っていて、詳しく一覧表まで作っているのに、それを見逃したりする
筈などありようはないからである。
「群書類従」は正続ともに同書複数という原則によって採録されているだけに過ぎな
いから、それに「将門記」が入っているからとか、藤原時代の公卿の日記にみな裏付
けがあるからと、うのみに古いものと信用できぬのは前述のごとくである。坂東八ヶ
国を奪ってから彼ら公家がそれぞれの荘園に分け合っているから、つまりは、それへ
の免罪符みたいな作為のものである。