1046 江戸侠客伝 12

野州栃木陣屋(やしゅうとちぎじんや)

 さてサンフランシスコが、ゴールドラッシュの波にのって賑やかなタウンになると、
諸式すべてが派手になってきた。
 それにアメリカ自体に女が僅かしかいなかった頃なので、シスコも例外でなく女性
は、ほんのひと握りしかいなかった。
 だから男共はサクラメント渓谷から掘り出してきた黄金で、女性の歓心をかうべく
色々の贈物を求めた。だが、まだカトレアの花を捧げるような時代ではなかったので、
実質的に着るもの、つまり布地がおおいに要求された。
 この時代のチャイナ・シルクは、阿片戦争で清国を降伏させた英国が一手に販売権
を握り、アメリカへはカナダ経由で入っていた。
 そこで、もっと安価にシルクを入手しようというので、ペルリが日本へ派遣されて、
下田に領事屋敷(コンセル)をもうけ、日本産の絹布の輸入をはかった。しかし幕末
までの日本女性というのは、一般に地味だったから、ジャパン・シルクは黒っぽい柄
か、そうでなければ友禅柄のような突飛な大柄しかなかった。
 いくらゴールドラッシュにわきかえるサンフランシスコの女たちが、「シルク」
「シルク」と叫んでも、こうした柄物ではふり向けようもなかった。
 それに染色が、日本絹布は昔ながらの草木染めときているから、脱色して染め直し
という手段もとれなかった。つまり土地の昔からのスペイン女たちでさえ、「マンテ
ィラ」とよぶ頭掛けにさえ用いたがらぬ絹布では、これは致し方もなかった。
 そこでサンフランシスコでの自家生産をしようといった案がここにもち上がった。
 まだ染色していた生糸の束が、どんどん出荷された。しかし、それだけではとても
需要に追いつかないから、「蚕卵紙」とよばれる蚕の卵をつけた紙と桑の木の苗が、
野州上州から集められて、これがどんどんサンフランシスコへ送られてきた。「桑港」
という当て字が今も残っているのは、つまりこの時の名残りである。
 さて、生糸の束の方はよいが、蚕卵紙というのは、蚕の子が一枚の紙に縦横つけら
れている生き物である。現代のように空輸できる時代ならよいが、太平洋を三週間か
ら四週間かけ、蒸気船で送る時代だから、どうしても蚕につき従ってゆくエスコート
がいる。
 もちろん付き添いは蚕をかっている女なら申分ないが、まだ当時の女性は今日のよ
うに海外旅行は好きではなかった。それに上州などは、(かかあ天下にからっ風)と
までいわれている土地柄だが、女が強いのは内弁慶で亭主や子供にガミガミやるだけ
のことで、メリケンくんだりまで添乗員として行こうなどという、勇気のあるのは当
時はいなかった。
 それでは男はどうかというと、これもまたメリケン行きとなると、人口衛星にのっ
て他の惑星へ行くような考えをしていたから、
「滅相もない」
と、何処の商家の番頭手代もみな蒼ざめて尻ごみした。しかし、蚕卵紙には誰か此方
から人間をつけてやらない事には、悪徳商人が向こうにはいて、
「せっかく送荷してきたが、みな死んでいたから海へ放りこんだ」と一文も送ってよ
こさないような手合いが多い。だから、うっかり出荷もできない。といって儲かる輸
出を指をくわえて見逃す手もない。
「何とかしてくれと云ってこられても‥‥なにしろ板子一枚下は地獄というのに、メ
リケン国までは遠い。いくら儂の力をもってしても、そないな人選はちと難しかろ」
 この野州栃木陣屋では、よそ土地でいう「代官」の名称が、ここだけは、「出頭元
締」となっているが、その根岸多十郎は腕をこまぬいて首をかしげた。しかし、
「さあ、そこをなんとか考えて頂きません事には、てまえどもと致しましては‥‥難
儀しまする」
 栃木上町中町下町の各総代共は、拝まんばかりの口のきき方をした。
 元締といっても高が一万石の戸田家の家来だから、ものの百石とは取っていない。
 すべて一切合財は、これらの町屋からの付け届けで賄われている。そこで生糸問屋
の総代たちから、よってたかって強く談じこまれては、「うむ」と唇をへの字にまげ
て当惑しきるしかない。すると下役の手代熊倉嘉三が、
「恐れながら」見かねたように入ってきて、多十郎に耳うちした。
「‥‥それはよい」と、やっと愁眉をひらいた元締は、前に居並んだ各町総代共に、
「牢に入っている者を差し向ける事にする」と案をだして聞かせた。
 しかしこれには、
「せっかくではございますが‥‥御牢に入っているような者では」
 総代共は互いに顔を見合わせた。しかし脇から手代の熊倉が、
「何を申すか、こそ泥や掏摸(すり)をつけてやるというのではない‥‥長岡の忠治
郎の身内だった無職(ぶしょく)の者が、江戸表を散々うろついたあげく、ご当地へ
また舞い戻ってきたのを召捕ってあるゆえ、それらを廻そうと元締さまは仰せあるの
だぞ」叱りつけるように睨みつけた。
 忠治郎というのは上州佐波郡国定村の五右衛門の子で、これを縮めて「国定忠治」
ともいい、野州川越の栄五郎と兄弟分だった関係で、この栃木にも縄張りがあった。
 そして陣屋とは背続きの満願寺境内に鉄火場があったから、忠治は自分も姿をよく
見せていた。
 だから栃木の町の総代共は、まんざら知らなくはないが、それぞれ厭な顔をした。
というのは赤城の山へたてこもった忠治が大度の関所を破って木曽へ逃れ、戻ってき
て名主治右衛門の納屋の穴蔵に匿れていたのを召捕られ、磔刑で殺されたのだが、ひ
と頃は何千とまでいわれる程、多くの子分や弟分のいた男である。
 もちろん日光の円蔵とか、下植木の浅次(板割の浅太郎)といった主だった者は次
々と召捕られては獄死したり、首をはねられて始末されているが、ろくすっぽ名前も
戒名も貰えそうもない半可打ちの子分が、土地には居られず江戸へ流れこんだが、そ
こにも住めず、又ぞろ戻ってきて、まだうようよと残っている。
 もちろん忠次の跡目は四天王の一人で、上州新田郡錦打村田中の生まれの沢吉とい
うのが継いで、これが国定一家という名乗りは公儀を憚って出来ないから、「田中一
家」の名で、上州佐波郡豊受、茂呂あたりを縄張りにしていたが、とても、これぐら
いの「しま」では、何千どころか何百もの人間を養ってゆけるものではない。
 この沢吉の伜の、田中の啓次郎でさえ、高(荒)神山の殴り込みに助っ人に加わっ
て、槍疵で大怪我をした関東綱五郎を背負って連れ戻ったのが縁で、清水の次郎長の
盃をもらってそこにいたぐらいの有様だから、まあ、沢吉の許で厄介になれていた国
定の残党は、そういくらもいなかったと想える。
 それに忠次の悪名があまり高いので、前に国定一家にいた事がわかると、他の貸元
の許へ行っても、三文か五文の草鞋銭だけで追い払われ、何処へ行っても良い顔はさ
れず、広い江戸へ流れこんでも、やはりそこでも毛嫌いされる。だからといって無職
の人間が、「仕方がねえから足を洗って百姓の手伝い」にもなれないものだから、二
人ぐらいずつ組んでは、在所へまた舞い戻ってきて、笛や鉦をならしては門づけをし
て廻るのだが、その唸る文句というのが、「くどき節」といって、その土地々々に国
定一家はこうしてやったぞという昔の恩の押し売りから始まって、気にくわない土地
の人間の悪口などを即興的に入れてチャカポコピイピイとやる。
 それに恰好も、陽焼けして飴色になった三度笠を前へたれ下げて冠り、長いやつを
腰へぶちこんだままだから、こうなると、門づけ物乞いどころではなく、強請(ゆす
り)じみてくる。
 三度笠の下から向こう傷をみせられたり、小指のつめたのを突き出されては、まさ
か、びた銭一文ともゆかず、どこでも天保の当百(とうびゃく)一枚ぐらいはさし出
してしまう。
 栃木の上町中町下町の商家も、これにはすっかり手をやいてしまい、国定一家とわ
かると、店の小僧を陣屋へ走らせて次々と召捕らせていたものである。
 だからメリケン船に乗組み、蚕卵紙のお守りをしてゆく役目を、その国定の残党に
させるとなると、そこは陣屋へ突きだし牢へぶちこんでいる覚えがあるだけに、やは
り後めたく想えるものだから、
「あない無頼な者などを、大切な品物につけてやって、なんぞ仇をされましては取り
返しもつきませぬ」
 みな迷惑そうに首をふったのである。
 しかし、そういわれても、まだ国外へ出るのは普通なら御法度(ごはっと)の世の
中である。
 戸田大炊頭(おおいのかみ)一万一千石家中の取締や手代の立場では、他にどうと
も人選のしようもない。
「どうじゃ、この熊倉嘉三に委せてもらえんか。もしもの時は、俺が責任をとって、
腹をかっさばいてもいい」
 表むきは十人扶持しかとっていない軽輩のくせに、麻の上下(かみしも)などつけ
威張りかえっている手代が、出ばった下腹を叩いてりきんでみせた。
 すると困惑しきっていた多十郎も、
「かたぎの者が国禁の法度をおかしてまで、メリケン船へ乗りこめるわけもない。あ
やつらは無宿者で、寺の人別帳にも入って居らぬゆえ、公儀御舟方に見つかったとて、
こちらは知らぬ存ぜぬで通せるというもの、ひとつ、ここは熊倉の云うように任せて
ほしいものだが‥‥」と口を入れた。
 仕方がないから総代どもは互いに顔を見合わせて、やむを得ぬといったように、
「では、ひとつ間違えないように頼みまする」ふだん付け届けをしているだけに、そ
こは大きな顔をして引きあげてていった。


生き延びるため

「御用だッ」
と捕えられて地面に板もはっていない土牢へ放りこまれてから、湿気でぐっしょりし
た古菰(ふるごも)の上で寝たり起きたりだから、身体中に湿疹がふきだし、それが
うんであちらこちらに口があいた侭である。だからそれを庇うように丸くなって寝て
いると、
「こらッ出ませいッ」
 牢番に六尺棒で脅かされた。四つん這いになって外へ出た加助は、もろに当たって
いるわけでもないのに久しぶりの陽ざしに眼くらやみしてしまった。だが、
「てめえら島送りときまったゾ」
 下役に頭ごなしにぴしゃりときめつけられると、佐市の方はまだ若いだけに気丈夫
なところもあって、両手で肩をつっぱりながら、
「島と名がつきゃ、どの島も可愛い。まして年増はまだ可愛いって言いやぁすが、わ
っちらの送りの島は‥‥」と強がりをいった。
 なにしろ島送りといっても、伊豆の八丈島が無宿者の溜め場と定まっているが、何
年に一度かは佐渡の金山の水掘り人足の欠員(あな)うめに持ってゆかれる。伊豆の
方だったら、ご赦免で戻ってこられるという夢もないではないが、佐渡が島へやられ
たら死ぬまでこき使われて、こっちは行きはあっても帰りがない片道の船出。
 だから一口に島送りといわれても、やられる方の立場では、これは雲泥の違い。そ
こで強がりをみせても、佐市としては当りをやわらかにするような云い廻しできいて
みたのだが、
「何をへらず口を叩いていやぁがる。ふざけた野郎だ」
 ゴキンと大きな音をさせて棒が佐市の頭へとんできた。
 仕方がないから加助が変って、
「ご慈悲でごぜぇやす。どっちへ送って頂けるか、ひとつお洩らしなすっちゃ頂けや
せんかねぇ」米つきばったみたいに頭を下げた。すると、
「うん。では教えてやろうかい‥‥はっきり俺も知らねえが、うぬらは大度の関所破
りをした忠治の身内だから、おおかた佐渡だろうよ」
 まるで突き放すようないいかたをした。
「てえッ、あの金山人足で‥‥そいつァ、あんまり阿漕じゃござんせんか」
 頭を殴られた佐市がまた口を尖らせた。
「何をッ。うぬらのような蛆虫みてえな奴らが、何をいやあがる‥‥生意気な」
と又しても棒の雨がふった。
 ふだんなら棍棒で十や二十ぐらい、こづかれたって閉口たれるような「向う牛の佐
市」ではないが、なにしろ土牢へ放りこまれて湿疹だらけ。身体中にてんで抵抗力と
いうものがなくなっている。だから、
「ううん」
 前のめりに倒れてしまうと、そのまま気を失ってしまった。まあ放っておけばこの
侭で、冷たくなってしまいそうな恰好で白眼をむいてしまっていた。
 そこで、
「これ以上は勘弁してやっておくんなせいやし‥‥もう、こいつめ精も根もつきはて
て居りやすんで」見かねて加助が自分の身体で庇うように、倒れた佐市におおいかぶ
さった時である。
「これッ、下に居れえ」
 小肥りの上下姿の男が、そこへでてきた。
 棒をふりあげていた下役は振返ると、
「お情け厚い熊倉さまにお執りなしをして頂くとは‥‥果報なやつめ」と、捨てぜり
ふをはきながら後方へひき下がった。
「ひとまず退がらせ、手当をしてつかわせ」
という声に送られて陰惨な土牢へ帰されてきた。しかし妙なもので、この檻の中へ入
っているぶんには樫の棒も飛んでこないんだと想うと、あべこべに牢へ戻されて、
「ふうっ」加助は吐息をついてほっとした。
 牢番が水を汲んできたのを貰って、それで佐市の頭をひやしてやったり、胸のあた
りを湿してこすっていると、やはり若いだけに暫くするうちに、もぞもぞ手を動かし、
「ゴオゴオ」と鼾のような音をたて、小鼻をもごもごさせると正気づき、
「あ、兄い、す、済まねぇなぁ」
と泣きそうな声を泡ぶくみたいにぼこぼこ吹き出した。加助も涙ぐんできて、
「てやあがんでい‥‥情けねえ声を出しやあがるな」
 鼻つらを握り拳でこすりあげたとき、
「これこれ正気づいたか」さっき親切にしてくれた熊倉嘉三の姿がみえた。
「これは、これは‥‥」加助がびっくりして座り直し頭を下げたところ、
「そっちの若いのをわしの許へつれてこい。いま丁度、外道(外科)の竹庵先生が当
陣屋へ来てござるで」わざわざいいにきてくれた。
「こりゃ、どうも有難いことで」
 思わず加助は手を合せて拝んでしまった。
(こういう所の役人にゃ、その役割が決っていて、敵役になって辛くあたるやつと、
わざと親切ごかしに近づいては、此方の足をすくう奴との二た通りがあるんだ)ぐら
いのことは百も承知していたが、
「‥‥済んません」本当に心から頭を下げた。
 なにしろ意地も張りも用心する心構えさえ、ずうっと牢に放りこまれていると、人
間ばかになってしまって、まるで何も判らなくなる。
 ただ有難がって云われるままについてゆくと、くわい頭の医者が佐市の殴られた頭
に金創膏をはってくれたが、加助の湿疹にも白い油薬をつけてくれた。そして、
「これだけ衰弱していちゃあ、佐渡へ送られて鉄鎖に繋がれたんじゃ、まああんまり
長くは保つめぇな」
 熊倉がいうと医者もうなずいてみせ、
「まあ水も違いますし、三日か十日でお陀仏でござりましょうな」と即座に顔をそむ
け返事をした。
 しかし面と向かって、こんな事を医者にうけあわれては、まるで引導でも渡されて
るみたいで、本人としては堪ったものではない。だから、加助は、すっかり色を失っ
て、
「ひとつ、なんとか御慈悲に‥‥」
 平蜘蛛のように頭をすりつけた。
 すると熊倉はポンと膝を叩いて、思いついたように、
「どうだ‥‥佐渡行きに鎖を曳きずって乗せられるよりは、いっそうメリケン船にま
ぎれこんでみたら」
と、にやっとしてみせ、
「こっちなら命の方だけは受けあえるぞ」といいだした。
「へえ、そんな御便法がございますので」
 これには加助もびっくりしたが、頭を殴られて眼を廻していた佐市も、ひとごとで
はないから、ぴくっと顔をもち上げるなり座り直してからが、
「ひとつ、なんとか、そっちの方へ」
 まるで蝿が足をすり合せるみたいに合掌をした。もちろん佐市だって、
(上下をつけて威張ってはいても、熊倉が高だか手代の身分で足軽に毛のはえた男)
だぐらいは百も承知だったが、人間どうしても牢などへ入れられていると、すこしで
もいたわってくれそうな言葉をかけられたが最後、地獄で仏というか、背中から後光
がさしてくるみたいに拝めてくるから妙なものである。
 この熊倉嘉三というのは、この直後の元治元年[1864]六月五日に、水戸天狗
党の中の時雍館田中源蔵ら書生隊三百が軍資金を集めにくると、これを瞞し討ちにし
て、田中に逃げるところを背中を斬られ軽傷をおったが、その代り陣屋から焼玉や火
矢を放って田中隊を追い払った。しかし、そのため野州一といわれた栃木の町を灰塵
に帰せしめてしまった。
 が、賠償問題が陣屋の責任になっては困るから、元締の根岸多十郎としめし合せ、
「あの放火は田中の仕業である。あれは源蔵火事だ」といいはって五年間も頑張りぬ
き、官軍が入ってくると、陣屋の有り金を残らずかっ払って逃げてしまった。おかげ
で廃藩置県のとき県庁をおきたくても栃木の町はまだ焼野原の侭だったから、やむな
く宇都宮に決められてしまったという曰(いわ)くつきの男。
 しかし加助も佐市もそんな先のことや、この男の正体までわかりはしない。
「御慈悲でござりまする」
 二人で頭をこすりつけた。なにしろ人間の屑の溜り場といわれた江戸へ行っても食
えなく戻ってきた二人ゆえ、他に思案もなかったからである。


カンカン踊り

 佐市はいける口だから、銭勘定を済ませて二つに分けると、貰い物のでっかいパン
を、これまた祝儀に放ってよこされたウイスケという酒で流し込むみたいに囓ってい
たが、
「おりゃ下戸だから」加助は水でも貰うつもりで酒場の戸を推した。
 見廻すと、入口のところに空いている卓があったから二人で、
「よいしょ」とそこに尻を落ちつけた。
「まあ考えてみりゃ、よくも無事にここまで保ったもんだ」
 牢内でうつった湿疹のあとへ、しょっぱい汗が垂れこんでかゆいものだから、ボリ
ボリ腹から背へ手を入れてかきながら、加助は感慨無量にうなった。
 なにしろ栃木陣屋の手代熊倉嘉三に、
「蚕卵紙についてゆく用心棒に振り替えれば、御牢内で病死という扱いにして佐渡送
りは免れるが、それには町内総代衆の推薦というか、内々の願い出がなくてはならぬ」
と教えられたが、さて二人とも、ここの町内の旦那衆に対しては、
(国定一家の俺っちたちの面は、よも見忘れちゃいまい)と、くどき節を我鳴(がな)
りたてながら、銭をいたぶって歩いた覚えがある。だから、
(ひとつよろしく願います)と頼みにいったところで、二つ返事で、おいそれ承知し
てくれそうな家の心当りなど何処もなかった。
 そこで当惑して二人で顔を見合わせていたら、
「よしッ、うまくメリケン船にのりこめれば命拾いもできるが、さもないと取り返し
もつかねえお前ら二人だ‥‥ひと肌ぬいでやる」
と熊倉は小柄を放ってくれて、これで指をつついて血をだし、町内の総代衆へ嘆願書
を書いてみろと智慧をつけてきた。
 しかし場合によっちゃ指の二本や三本はつめねばならぬ無職渡世のことゆえ、血を
出すのはなんともないが、文字には弱った。
 二人とも書くどころか読めもしない。そこで仕方がないから熊倉が、ほれよっと、
「おねがいもうしそうろ」という手本をかいて見せてくれた。
 だから二人は、せっせこ指の頭に孔をあけて、まぁ似たようなものをどうにか書き
上げ、仕上げに親指の先を切って拇印をおした。
 すると血書までするぐらいならと町内の旦那衆も、まじめにやるかも知れんという
ので許しがおりた。

 そして、召捕りのときに押収されていた長脇差や三度笠も返してもらえたから、積
荷人足に化けてメリケン船へのりこみ、そのまま荷物の間に埋くまって、お舟手方の
役人衆の目をごま化し、どうにかサンフランシスコまで来てしまったのである。
 しかし船が港へ入った途端、
「おい、ずらかろうじゃあねえか」
ということになった。なにしろこの侭また帰国したら、もとのもくあみだし、それに
眼色毛色が変っていても、人間がこんなにうようよしている所なら高市(たかまち・
縁日)でもあるだろうから、なんとか食ってゆけそうだ、と二人でしめしあわせ、積
荷をかついで下船するなり、さっさと後は随徳寺をきめこんだ。
 そして、教会堂の建っている所が小高いからと、そこへ登っていって港のみえる丘
で、自分らの乗ってきた船が出帆してしまうまで、二人はそっと身をひそめていた。
 さて、それから半月。なにしろまだ覚えるつもりではいても、ろくずっぽここの言
葉が使えないものだから、せっかくの、
「この大陸を国定一家の縄張にしちまおう」
という最初の意気ごみも今のところは、どこへやら。二人はしがない流しみたいに、
くどき節のピイピイピイヒャララで投げ銭や食物を放ってもらっては、それで飢えを
しのいでいる有様。情けないが、仕方がない。
「おう佐市よ。おめえよく、そんな金魚の麩みてえな物を、鯉みたいにガツガツかじ
れるねえ」と加助が呆れるのに、
「なあに栃木陣屋の土牢であてがわれていた臭い稗飯よりは‥‥まだ匂わないだけ増
しってものでさあ」力まかせに半分にぺし折ると、加助にも押しつけてきた。
「おらあ御牢内で、すっかり歯茎がガタガタだあ‥‥うっかり固い物にくいついたら
歯がとんじゃうぜ」と用心深く尻ごみして、パンを手にしたままキョロキョロしてい
ると、
「タラ・タラララタッタ・タラララタッタ」
 ものすごく威勢のよいお囃子が聞こえだし、正面の幕があくと、背高のっぽの姐ち
ゃんが尻をふりながら六人ずらりと現れた。
「お、女だい、なあ兄い」
 パンをくって腹ができたせいか、佐市が粘っこい声をはりあげた。
「うん、ずっと女っ気なしだったから無理もねえが‥‥やっぱし髪は鴉の濡羽色って
やつでないと、あんな赤熊(しゃぐま)や白熊(はぐま)の女じゃ大名行列の御供先
の馬印みてえで、とんとこっちとらの伜が土下座しちゃうぜ」
 下を指さし加助は首をふったが、佐市の方は、
「おりゃ入るものなら何だっていい」
 かすれたような声で眼玉を光らせたが、
「あッ」と喚くなり立ち上がってしまった。
 加助も、ぎょっとして、
「‥‥お裾をまくって見せるのかい」
 唾をごくっとのんで息をつめた。
 舞台の六人の女が一斉に裾の端をつかみ、「キイ、キイ」黄色い声でパアッと上ま
で景気よく、踊りながらまくったからである。
「見えたか」加助は背の高い佐市にきいた。
「ううん」残念そうに首をふり、
「肝心な舟玉さまのところが白かった」
「そうか、日本の女なら彼処は、マックロケの毛だから、よく見えるが、こっちの女
は灰色や銀色の毛をしてやあがるからな‥‥」
 いまいましそうに唸ったが、
「おれは牢内で眼をいためちまって、霞んでみえるから前へ出らあなぁ」と加助は、
「まっぴら御免なすって」と人ごみをかきわけ舞台の側へよっていった。そこで、
「おう兄い待ってくれ」佐市も後を追った。

 なにしろ二人のいた上州や野州では、お祭りや高市には、女の屋台が出たものであ
る。やはり五、六人ぐらいの器量のよい女が、ずらりと一列に腰かけ三味線の曲びき
をしながら、
「それ突け、やれ突け、十文だぁ」
という呼び込みに銭を払うと、細竹の先に綿の玉をまきつけた「たんぽ槍」というの
を渡される。女たちの腰から下に張りめぐらされている幕の中へ首をつきこむと、左
右の忍び返しの「がん燈」が証明になっていて、六個の舟玉さまの御開帳が手にとる
ように見える。
 それを女を痛がらせないように突いてこすり、うめき声をあげさせてから、また十
文払って、火吹竹の長いのに変えさせ、これで、舟玉さまの林を左右にぷうぷうと吹
きわけ、覗く弁天さまの左右の扉のどっちが出ばっているか、それを探るという見世
物があった。
 もちろん見たから覗いたから、どうというものでもないが、これでも結構、気がま
ぎれるのだから妙なものである。
 だからこのとき二人とも、その見世物のつもりで、青竹をかりて、とっくり奥まで
拝観しようと前へ出ていったのである。しかし、
「いけねえ‥‥無粋な野郎に本当に突かれて怪我でもしちまったらしく、どの女もみ
んな肝心な舟玉さまのところへ晒をまいて、白い繃帯をしてやがんのさ」
 がっかりしたように佐市が唸った。
「それで、突く吹くは休業でございと、ああやって揃えて‥‥何遍も皆で一斉にパッ
パと前をまくるんか」加助も失望の声をだした。
 なにしろ二人の知っている日本の、「娘手踊り」というのは、こんなに足なんかパ
ッパとあげず、肩から指先のしなやかさを見せるものだから、二人とも、これがフレ
ンチカンカンなどとは夢にも知らないから、
「股んとこへ怪我して、あんな脚のつけ根までパッチのように布をまいているのに‥
‥パカパカ脚をあげるのは可哀想だ」
と同情しあっていた時である。
「バカン」と轟く銃声一発。
 乱暴にも馬にのったまま酒場の中へ入りこんできた三人のあらくれどもが、舞台へ
近づきざま、中央で踊っていた金髪の娘を、さあッとかっさらって横抱きに鞍にのせ
てしまった。
 娘の名前は「メリー」というのらしく、酒場にいた男たちも一瞬は呆然としていた
が、
「エスペーレ(待て)」とか、
「メ・アン・ロバート・メリ(メリーを持っていかれた)」
 口々に喚きながら追いすがった。
 しかし、それを馬蹄で蹴散らした三人は、
「アディオス(あばよ)」とばかり酒場の外へでて、そこから一斉に威嚇射撃を、
「バカン」「ビシン」「ボイン」当った戸や卓子から音がはね返ってきた。
 だから逃すなと追いすがってきた連中も射ちまくられて助けようもなく、柱の蔭か
らバリバリ応射して自分を守るのがせい一杯だった。