1045 江戸侠客伝 11

任侠一代

「十両以上の盗みは打首」といわれるが、奉行所の目明しや下っ引が御用の傍に盗み
を働き、人よんで「御用盗」といった時代ゆえ、当時はあまり牢の中に盗人などは入
っていなかった。
 だから青木弥太郎も、すぐ放免される気でいたが、無実なのにそうはゆかなかった。
ますます留吉が意地になって出獄できぬように、外から金をまき、網を張っていたか
らである。
 このため、とうとう慶応四年正月になってしまった。
 鳥羽伏見で勝利をえた薩長軍が東下してくる噂が、牢内へも伝わってきた。そこで、
この時にあたり弥太郎が書いたものが現存する。
「私はご嫌疑の筋にて丑年六月より獄中にあります身ではございますが、さて天下の
動静は幽閉中とはいえ旗本士分の者としては傍観できかねます(中略)恐れながら日
光(家康)さま御大業をたてなされての、三百年来の御武威も一瞬に滅尽仕るは必定
と存じます(中略)ついては、私はこれまで無実の賊罪には伏しがたくあくまでも士
道の名分にかけ頑張って参りましたが、薩長軍がやってきての取調べを受けるのは我
慢できません。ついてはてまえも御当家(徳川)の武士、如何ような重科にされても
差支えありませんから、何卒御家の見事なお仕置きによって、御法を下しおかれます
よう死を決し筆墨のない獄中ゆえ、ここに血書をもって建言を仕る次第であります。
評定所三手掛御中     慶応四年辰三月二十一日 御留守居支配 青木弥太郎

 ----といったもので死罪を自分から、全文血書して願い出ている。
 しかし既に薩長方が、江戸入り寸前の時である。役人としては、これが公金を持っ
て逃げろというのでもあれば別だが、首を斬ってくれと申し出ても、そうかと儲から
ぬ話など聞き入られる訳がない。

 新政府引き継ぎの帳面(ちょうづら)では、伝馬町御牢の収監者は、慶応四年七月
二十日の、大赦令発布で市政判事西尾遠江之助が、一斉にみな解き放ち、つまり釈放
された事になっているが、実際は五月十四日に、
「上野のお山に旧幕臣有志が立てこもっているから、貴方らも加わられたがよい」と
いった石出帯刀の計いで、青木弥太郎らは出されることになった。ところが、その日
は大雨だった。
 そこで先に出獄していた森蔵らは、景気づけに「江戸任侠隊」の旗を、何本も立て
て迎えにゆく筈だったが、
「この降りじゃあ」と一日延ばした。
 作ったのが紙旗だったから、雨に当たっては破れてしまうからである。
 が、翌十五日、雨はまだぐずついていたが、上野の方角から砲声が轟いてきたので、
「こいつは大変だ」とばかり、同じ新徴組崩れの芳蔵、杵五郎、半平、蔵之助らと、
撃剣の竹皮胴をつけた鉢巻姿で森蔵は、周章てて伝馬町御牢へ駆けつけた。
「よし、ではすぐ赴こう」
 青木弥太郎は元気だったが、なにしろ長い牢獄暮しのため、お辰は脚気で足がむく
んで歩けなかった。長次郎や鉄次も、すっかり弱っていて這うような恰好でよろめい
ていた。
「これじゃあ無理だ‥‥上野のお山が三日や四日で落ちるわけでもなかろうから‥‥
今日のところはひとまず骨休みをなすったら如何で」
 見るにみかね芳蔵らが辻駕篭を拾ってきて、お辰や長次郎らをのせ、ひとまず南本
所本瓦町の小倉庵へ担ぎこんだ。
 ところが、そこで粥を作ってもらい、それを食べ終ったころには、急に表通りが騒
々しくなり始め、
「上野のお山が落ちた」という噂が聴こえてきた。
 弥太郎は茶をのんでいたが、
「べら棒め‥‥旗本八万騎がたてこもっているお山が、そう易々と薩摩や長州にやら
れて堪るもんか‥‥誰かみてこい」
 きっとして叫んだ。そこで森蔵が、
「へい合点で‥‥」と、雨で竿にまきついてしまった江戸任侠隊の旗を担ぎ出そうと
したが、それを弥太郎は眼顔で止めた。
 だから森蔵は尻をまくって蓑を頭から冠って出ていったが、すぐ戻ってきて、
「本当だあ‥‥」と情けない顔をして、
「割下水の方へ、山から逃げてきた手負いがどんどん落ちてくる‥‥嘘みたいだが、
あっけねえ勝負だったらしいや」とぼやいた。
「‥‥そうか」
 弥太郎もがっかりしたらしく、運ばれてきた酒をみんなに呑ませてやり、
「今さら、じたばたしたって始まらねえ」
と、大の字になってそのまま引っくり返って寝てしまった。

 しかし、次の朝。
 暗い内に、さあっと飛び起きると、
「足腰の立てるやつは俺について来い。十五代(慶喜)さまは水戸に居られる‥‥彰
義隊は潰えても、二百俵とり青木の率いる任侠隊は、まだ健在だ‥‥これから長州薩
州を叩っ斬って、また江戸を将軍さまのものにするんだ。さあ水戸街道をつっ走るぞ」
と、ようやく雨のあがった朝の町へ飛び出していった。森蔵、芳蔵、杵五郎と、みな
その後を駆けてゆき、相政身内の兄い連中も、
「それッ」とばかり、尻端折りをしてついていった。
 ----その後、この任侠隊は、伝習隊の公儀歩兵隊と共に常州野州と転戦したという
が、戦歴の詳細は伝わっていないから判らない。

 しかし、相政が土佐山内容堂候お抱えだった関係上、仲へ入って巧く纏めたものか。
明治元年の秋には、任侠隊の面々はお咎めなしで、江戸の地へ舞い戻っていた。
 弥太郎へ、相政が王子の滝の前の料理店海老屋を譲って、そこを、「任侠屋」とい
う名に変えさせたという。
 河竹黙阿弥の「島衝月白波(しまちどりつきのしらなみ)」の中に出てくる望月輝
は、弥太郎の晩年がモデルだったらしいと、三田村鳶魚の随筆には、だから出ている。
料理屋の主人になっても、まだ任侠ぶりを、最後の江戸っ子として弥太郎は発揮して
いたようである。


幕末の本当の維新史

 よく江戸ッ子と軽々しくいうが、助六や長兵衛が作りものと判れば、本物はこれし
かいない。しかし薩長の占領下になってから、すでに一世紀余もたつのに、大村益次
郎とか伊藤博文といった、江戸にとっては敵性人間は高く評価されても、江戸人の子
孫の筈の東京人は、
「薩長人は善玉だが、それに刃向かった関東人は悪玉である」と思い込まされている
のか、青木の長篇を書こうとしても何処でもみな首をふって、聞いた事のない人物と
断わる。
 だから九州人や関西人の書く薩長製の明治維新史しか判らぬ編集者が多いらしいゆ
え、「安政の大獄」は単なる疑獄事件だし、「桜田門外騒動」の実際も、本当は牛肉
事件だと、「幕末確定史料集」[日本シェル出版]の桜田騒動記に当時の文書や錦絵
入りで詳しくしておいた。


※八切止夫著「江戸侠客伝」(1976年九9月 日本シェル出版)より

          桑港(サンフランシスコ)国定一家

一天地六(いってんちろく)の賽の目

「ハアアまたも出ました三角野郎が、四角四面の櫓の上で‥‥」
と、加助が始めれば、
「音頭とるとは恐れながら、国のなまりや言葉の違い‥‥許しなされば文句にかかる
が、オオイサネ」
 佐市が鉄のたがのはまった樽を叩けば、ピイピイヒャララと加助が横笛をふいた。
 ことわるまでもなく言葉がてんで違うのは眼玉の色や髪毛をみただけでもわかる。
 が、わかってもわからなくても、これを始めると、みんな面白がって手を叩いてく
れるし、お囃子(はやし)にあわせて口笛をふくのも出てくるから仕方がない。しか
しニ節めの、
「ハハア、頃は弘化の三年九月‥‥」
にかかると、加助も佐市も湿っぽく、どうしてもなってしまう。なにしろ続く文句が、
「勝負勝負でその日を送る人も羨む大貸元、月にむら雲、花には嵐、とかく浮世は変
りがありて、或る日親分国定忠治‥‥」
 年号は次の嘉永だが年は同じ三年十二月、からっ風に音させて茶っぽい枯葉が吹き
あげられて舞う大度(おおど)の関所の入口で、磔刑(はりつけ)にされた親分の国
定忠治の名前が出てくるから二人ともたまらないのである。
 しかし、なにしろ御座興代りにこれをやらないと、目色毛色の変った国では、うろ
ん臭がられて食物にもありつけないのだから仕方もないが、
(こんなくどき節をやって、おまんまにしようなんて、まるっきし死んだてめえっち
の親分を食いものにしてるみたいじゃねえか)
と心咎めで後ろめたくなるときもある。
 しかし強気一点ばりで、「向う牛」などと名を呼ばれていた佐市は、
「てやあんでい‥‥メリケンにまで忠治親分の名をお弘め申しにきたと思やぁ、そん
でいいじゃねえか」と加助に囁く。だが、
「まあ、ものは考えようだ。別に亡くなった親分だって草葉の陰で怒っていなさるめ
えが‥‥このくどき節の文句をこしらえなすった日光の円蔵伯父きや、他の兄いたち
は今頃どうしていなさるんだろうね」すぐ愚痴っぽく郷里の話など持ち出されてしま
うから、佐市だって、つい釣り込まれ、
「みんな苦労してるだろうなあ‥‥」
 しゅんとして鼻つらを拳固でこすってしまうような羽目になる。そこで、
「やい、やい、お神楽の‥‥損な話は止めにしとけ、それッ商売だッ」
と両手に握った撥代りの折れたシャベルの柄をかまえれば、
「うん、すまねえ」と加助も笛をくわえ、
「あまた子分の居る中で、腕に自慢の向う牛の佐市。それに頭のよい事じゃア、国定
一家で評判の、とっぽの加助の二人をつれましてえ、さても忠治の親分は‥‥」
 ピイヒャラ、ピイヒャララと吹きながら、「オオイサネ‥‥」とはやしを入れて、
自分ら二人の名前も持ちだして、親分のお伴に、くっつけてしまう。まあ、こうでも
しなくちゃ淋しくって、やりきれなくて仕様がないせいもあった。
 それに珍しいものだから客受けもしているらしい。酒瓶を祝儀のつもりだろうか、
「マグニーフィカ(いいぞ、いいぞ)」と放ってよこす者もいるし、大きなパンを丸
ごと持ってきて、
「プレスタード(面白い)」と置いてゆくのもいる。
 二人がくどき節をやり終えて、ソンブレロと呼ばれる大きな帽子を逆さにして持っ
て廻ると、銅貨だけでなく銀貨や、時には酔っ払って気前のよいのが、
「エステ(ほれッ)」と小指の頭ぐらいの金塊を放り込んでくれたこともある。
 しかし誰もが帽子へ銭を入れるかわりに、もの珍しげに、ついでに二人の頭へ手を
やる。
 帽子を冠っている間はわからないが、ぬぐとチョンマゲが出てくるからである。
 こっちへきてから月代なんか剃っていないから、二人とも芝居へ出てくる石川五右
衛門か定九郎みたいな恰好だが、それでも頭のてっぺんは二人で互いに結びあげて、
今でも髷はつけている。なかには、
「トウ・ソン・バーハア(あんたらは背が高くない)」
などと背を計るような恰好をして、こっちのチョンマゲをいじる奴もあるが、なにも
毒っ気があって触っているわけでもないから、怒れもしない。そこで此方も、
「なにおッ、このウドの大木め」とか、
「法界坊みてえな頭しやあがって、こっちのハケ先が羨ましいのかよ」
と二人で言い返してやるのだが、せっかくの啖呵が日本語だから通じもしない。
「ムイ・ピエン(そうかい、そうかい)」って、あべこべに嬉しがって銭を追加して
よこすやつらもある。
「ちえッ仕方がねえや」
 佐市が苦笑いして、銭貰いのために此方へきて覚えてしまったスペイン語で、
「ムーチャス・グラシアス」
と舌の先っちょをかんでしまいそうな発音をやってのける。加助も、流して歩く渡世
の仁義だと思えば、これを、「無茶するだらしあねぇッ」とおぼえ込んで、この(お
有難うにござんす)をやるのだが、佐市ほどにクソ度胸がないのか照れてしまうのか、
どうもいつもスラスラと出てこない。
 だから、もっぱら仁義をきるのはそっちにまかせ、加助は頭をペコペコ下げる方に
廻っている。そこで赤城山にこもっていた頃は、加助の方が兄い株だったのだが、江
戸から此方へきては、どうも順序が逆になってしまっていた。
 といって、なんせメリケンくんだりまできてしまって、今さら兄い分とか弟分の区
別(けじめ)もいってはいられぬから、それよりここで、
「一日も早く盆ござ敷いて、二人で力を合せここへ国定一家の縄張を持とう」
というのが加助の念願である。そこで、
「ままよ三度笠、横っちょに冠り、借りのあるとこは、のう千代さん、そっぽむいて
知らぬ顔。したことは内緒ないしょ」
 国を出る頃に流行しだした内証節を鼻唄に二人で貰い集めた銭勘定をしようと、
「どっこか、ちっとは涼しいとこはなかろうか‥‥こう、かんかん照りじゃあ、目く
らやみしちまうぜ」
「まったくだ。こんなに暑くちゃあ、おたまりこぼしもあったもんじゃねえやな」
 二人できょろきょろ見廻したあげく、
「おうッ、彼処しかねえな」貰いものの酒瓶やパンの大きな塊を抱えたまま、ふうふ
ういいながら佐市もついてきた。
 なにしろ流れる汗に砂粒がくっついているから、眼に入ると脳天まで痛さがじんじ
ん響いた。だから雫を手刀できりながら、
「だけど、こんな滅法もねえ暑い国が、この世にあるとは知らなんだなあ」
 寒がりのくせに暑さにも弱い佐市が悲鳴をあげた。すると加助が自分も犬ころみた
いに口をあけながら、それでも唇をへの字に曲げ、
「‥‥修行だぜぇ」
 ここぞとばかりに昔の兄い風を吹かす。だから、
「そりゃ判るけど、こう暑くちゃ堪らねえやなあ。まったくひでえ所だわさ」
 銭やパンの入れ物にしていた帽子を、ちょこんとチョンマゲの上にのっけ、汗っか
きの佐市はげんなりして、眉毛の上の、こびりついた砂ばかりこする。
 しまいには、せっかく頭へのっけた帽子をとって、これを団扇代りにバタバタ煽い
で風を入れる。が、それでも額のはえぎわから、びしょ濡れの手拭をのせてるみたい
に垂れてくる。だから塩をふいた襟首をこすりながらフウフウ乾いた唇をつきだし、
「秋に出てきたんだから、もうかれこれ冬の筈なのに滅法こっちゃあバカ陽気すぎる
ぜ」
鉄のこじりの長脇差をはずし、佐市は胸のところまでさらけ出してむくれてみせた。
「仕様がねえやな‥‥住んでる奴らだって、みんな毛色の違う大入道ばっかしだ。陽
気だって、あてれこで狂いじみていたって文句もいえめぇ」
と加助も、ここを先登と強がりをいってみるのだが、なにしろ陽でり具合が日本とま
るっきり違う。
 お天道さまが四六時中頭の上みたいに、かっかと燃えきっている。
 だから眼を閉じたところで、瞼の裏側まで朱色に透かしてくる。堪ったものではな
い。
「大変なところだよなあ」
加助もつい弱音をはいて、ぺろっと皮をむくみたいに顔の汗を掌でひっぱり拭った。

サンフランシスコ誕生

 佐市と加助の両人は連日の陽照りにあてられて、まるで日射病にやられたみたいに
うだっているが、ここの土地というのはスペイン人の宣教師が、フランシスコ派のカ
トリックの信者たちをひきつれ初めて入植してきた時からして、やはり太陽が燃えき
っていた。そこで伴ってきた信者に労働奉仕をもとめ、屋根のある処をと、
「なにはともあれ、まず教会を」と工事に掛ったところ、まっ先に神の使いである牧
師さんが暑さにのびてしまったから、天にまします神より太陽(サン)の方が、此処
では強いからと、それを頭につけ、「サン・フランシスコ聖堂」と命名したくらいで、
地名もそこから付けられた土地柄である。
 さて、その教会の建てられた1776年というのは、加助や佐市の故国日本では安
永五年にあたり、老中田沼意次が賄賂(まいない)という名の賽銭をどんどん集め、
教会の代りに自分の田沼御殿を作らせたりしていた。それから七十三年たって、日本
の嘉永元年にあたる徳川十二代家慶公の頃。

 サンフランシスコに流れこむサクラメント河の水を利用して、水車小屋をつくって
いたスイス人サッター大尉の下僕マーシャルが、ギッコンバッタン音させて廻る水車
のはね板から、ある日ピカピカする物を見つけた。
「ケ・セ・ソ(はて何であるか?)」
 首をひねって分析所へもちこんでみた。
 すると、そこの所員が怪訝な顔をして、
「ドンデ・エスタ(何処にあったか)」ときいた。マーシャルもその顔色をみて、
(ははあん、こりゃなんだな)と、そこは直感した。
 だから何くわぬ顔で手をふって、
「エスタ・ビエン(いやいいんです)」
とぼけてみせ、そそくさ水車小屋へ戻ると、もう、これまでの仕事は放りっぱなしに
して、サルををもってくると、川の中へ入りこみ、
「あら、えっさっさ」とばかりやりだした。
 さて、ギイギイという大廻しの音も、コトコトコットンの小廻しも聞こえてこない
ものだから、サッター大尉が、はてなと水車小屋へ覗きにゆくと、音が全然きこえて
こないのも道理。ただ一人の従業員であるマーシャルが、仕事を放棄して、てんで水
車番をやっていない。
 なにしろ大の男がズボンをまくりあげて、
「めだかの群れは川の中。そっと覗いてみてごらん。そっと覗いてみてごらん」
といった有様で、腰をまげて水面すれすれに屈みこんでいる。だから、これには面食
らって、
(雨のふる日も風の夜も、森の水車は休みなく粉引きの臼の拍子をとり‥‥と唱歌に
もあるのに、なんで一人で単独ストライキを決行しとるのか‥‥)
 サッター大尉も怪しんで抜き足さし足で近寄った。
 が、マーシャルの横顔を覗き込んでゲゲゲのゲと驚いた。
 なにしろ、春の小川はサラサラ流るなどといった暢(のど)やかなものではない。
 すっかり眼は血走り手もふるえて、それでもセッセと何かをザルであさっている。
 そこでサッター大尉は、まず、
(これはマーシャルがいつも口にくわえている粘土のパイプでも落して、それを探そ
うとして焦っているのか)と、そう考えたから、
「おい、おい、わしのパイプをお前にやってもよい。だからなあ‥‥仕事はまじめに
やっちょくれ。いいかね‥‥」
 背後から働くようにと大声をかけた。
 しかしマーシャルときたら馬耳東風。
 てんで何も耳に入らぬのか、返事どころか振返りもしない。黙々とザルで水をすく
っている。見かねて大尉は、
「水をくむのなら桶を使え。お前のようにザルですくっていては、いくら汲んでも何
ともなるまいが。困ったものだ‥‥」と溜息をついた。
 大尉にしたところで、マーシャルがもし利口ならいくらでも他に使いみちはある。
ところが、てんで彼がボンクラで無能だからして、水車番をさせているにすぎない。
 だから、しまいには腹をたててしまって、
「この馬鹿者めッ、お前のような横着な雇人はいらん。くびにする」
と怒鳴りつけた。
 こういえば、いつものようにマーシャルがびっくりして、あわてふためき、
(そればっかりはお許しなされて下さりませ)と膝まずいて詫びてくると思ったから
である。
 ところが、てんで、その気ぶりさえない。
(今日のお前は変だわね‥‥如何したか?)
 度の強い近眼のサッター大尉は、ポケットから眼鏡をとりだしてかけ直すと、八の
字髭をしごきあげ、さてステッキをふりあげ、
「ここな不届き者めッ、いい加減にせい。もう、いくら謝罪したところで許さんぞ」
 腹を立てて自分も河のせせらぎの中へ入っていった。
するとマーシャルは初めて気づいたのか、斜めにすくうような表情で振返って、
「なんと言われました」と聞き返してきた。
「とぼけるな。わしはお前の解雇を言い渡したんだ」大尉は殴らんばかりに言った。
 ところが仰天すると思ったのにさにあらず。
 海老のように腰を曲げっぱなしで屈んでいたマーシャルは、それをきくと、やらや
れといったように身体を伸ばし、自分で背中をポンポン叩きながら、
「よろしいですとも、大尉どの」
 素直にこっくりうなずいて、起立して挙手の礼をみせた。
 軍隊時代から自分の従卒をしていた頓馬な男から、あっさり返事をされてあまりの
事に、
「なにをッ‥‥」といったが、絶句した。
 まるで肩すかしをくったように大尉は、しばらく呆然とした。だが顔面を震わせ、
「よしッ昨日までの給料をとりにこい」
 もはやこうなっては、ひくにもひけず怒鳴りつけた。するとマーシャルは、
「金ですか」と肩を揺さぶってみせ、
「いいんです、結構です、いりません」
 またくるっと背をむけてしまうと、水面へ顔がつくぐらいに屈みこんだ。
(いつもピイピイして給料の前借りばかりしにきていた男が、こりゃまた如何したん
だろうか)
 大尉は狐につままれたように、
「おう、なんたる言い草だ」
 ステッキをふりまわして喚いた。しかし彼はもう振返るどころか返事もしなかった。
そこで、自分にわざとむけているようなマーシャルの大きな尻を、立腹のあまり思い
切り大尉は、
「この怠け者めッ」と蹴っとばした。
 が、なんといっても足場が悪かった。ぬらぬらした水中の石に滑ってしまった。
ビシャンと大きな飛沫をあげて、つるりと転げた大尉は川の中で尻餅をついた。
 そこで起き上がろうと水中に手をついた大尉が、何気なくザラつく川砂をつかんだ。
「ゲエッ」と叫んだ。黄金だったからである。
 しかし、近眼だから眼鏡を拭いてまた見直した。
「うん間違いない」
 あまりの事に欣喜雀躍(きんきじゃくやく)。いま蹴っとばしたマーシャルの尻に
今度は抱きつき、
「ブラヴ・フォー」と感謝の音を響かせた。
 なにしろ大尉にしてみれば、自分の地所に流れている小川が単なる水だと思えばこ
そ、これまで賃びきの粉ひきを水車小屋でマーシャルにやらせていたのである。
 ところがアイヅバンダイサンではないが、黄金の山ならぬ「黄金の川」とわかって
は、もう放っておくてもない。
 大尉もザルをもってきてマーシャルと競争のように川砂から金をすくいあげた。
 そして二人の男は、
「ササに黄金がエーマタなり下がる、
ハ、スッチョイスッチョイ、スッチョイナ」
と、せっせと砂金ひろいに精を出した。
 もちろん大尉は、この機密を守るため、
「誰にも口外するなよ」とマーシャルに口止めをした。彼もまた、
「‥‥はい大尉どのッ」
 軍隊を除隊したあとも傭ってくれている前上官にして、今も主人であるサッター大
尉に、固く誓約した。大尉もそれに安心した。
 しかし話変って、教会堂の前の分析所の主人や番頭共は、しきりに、
「この前、森の水車番のマーシャルのやつが来たけど‥‥あれっきりである」
「どうしたんだろう」と噂をしあった。
 というのはマーシャルは袋へ入れて持ってきたのを、その侭もち帰ったつもりだっ
たが、番頭たちは分析用に茶碗一杯とって置いた。
 そして後でそれを試験してみたところ、「純度85パーセント」という珍しいくら
いな鉱質と判明したので、びっくりして大騒ぎとなり、
「あれは大尉の従卒として戦争へ行っていたとき、敵のポケットからでもくすねてき
たものなのか、はたまたこのサンフランシスコで採取したものなのか」と問題になっ
たのである。
 なにしろ、まだ人口がいくらもいなかった頃なので、この噂はすぐ広まってしまっ
た。
 そっと森の水車小屋を覗きに行った者の口から、マーシャルと大尉の二人が、川の
中へ入って、アラエッサッサと何か掬っているという情報もひろまった。
 大尉の地所へは、うっかり入りこむとズドンと撃たれる恐れがあるので、その上流
の方へ行って川床の砂を集めてきた者達は、次々と分析所へそれを持ちこんできた。
 どれも純度の高い最優秀の砂金とわかった。そこで、
「サクラメント渓谷には二十億ドルをこす金がある」
という噂はすぐ全米に伝わった。
 かつては丘の上に、牧師さんを日射病で倒して建てられた教会堂と、それを取りま
く一握の小さな村だったサンフランシスコが、この噂でたちまち六千になり、一年後
には一万の人口となった。
 やがて、このサクラメントの「黄金狂時代(ゴールドラッシュ)」のよび声で、一
攫千金を夢みる人々がここへ集まってきて、人口は一万より五万、それから二十万人
の大都会に、サンフランシスコは変ってしまった。
 だが、太陽はやはりサンサンと輝き、ここは相変わらず暑熱のタウンだった。