1043 江戸侠客伝  9

                           だるま吉五郎

相政一家

 力まかせに抱えこんで押し倒してしまわなくちゃア、女って感じのしねえのもいま
す。
 が、お貞さんは違う。肩上げの取れたばっかしの十五、六の時から、側を通り抜け
られただけで、その気にさせられたものです。
 もちろん色白で目許が涼しく器量が良い、といってしまえばそれ迄ですが、顔だけ
じゃなく、どう言い表わしたら良いか判りゃしませんが、離れた処から拝むみたいに
見ているだけで、胸が一杯になり、ああ女だと、そんな想いが疼き、こみあげてくる
お人でした。
 わっちが縁あって盃を頂いていました親方は、日本橋箔屋(はくや)町(今の通り
三丁目丸善の辺り)の相模屋政五郎。人よんで「相政(あいまさ)」でございます。
 相模屋ですから「さが政」と云うべきなんでしょうが、東海道の神奈川宿に政五郎
とよぶ世襲の親分さんが居て、代々そちらが、「さが政」とよばれていなすったから、
それに紛れぬよう区別されていたんでしょう。
 ところが名前というのは難しいもの、佐渡へ流罪で送られてゆく渡世人の面倒を、
よくみると評判の政吉親分のことも、「あい政」とよびますから、そこで今では区別
するため、「江戸の相政」と云われるおひとの、お貞さんは姉娘。だから子分とはい
え三下奴の此方とらにすれば、高嶺の花。とても側へ行って口をきこうの、手を握っ
て心安くといった相手ではござんせん。唯そっと垣間みては、胸を昂ぶらせ、しがな
い想いに身を焦がし、
(せめて一遍こっきりで良いから、口をきいて貰いたい、声を掛けて欲しいもの‥)
と想う位が、せい一杯といったところでした。
 なにしろ身内の数が千人から居て、箔屋町の本宅と、京橋大根河岸(テアトル銀座
近く)の白魚屋敷の別宅に、別れて住み込んで居る子分だけでも、双方では百に近い
頭数ですから、
「なんとか‥‥」と日々焦れたにしろ、顔ぐらいは見知って貰えたかも知れませんが、
とても言葉までは、ない物ねだりというか無理な話でした。ところが、慶応三年[1
867]の十月。
「だんな(大樹公‥‥徳川慶喜)が将軍さまを、近くお止めになるらしい」
 上方から噂が伝わってきますと、江戸市中は、まるで蜂の巣を突いたよいなえらい
騒ぎ。
 公儀歩兵隊を馘首(かくしゅ)された連中が鉄砲をもちだし、肩に担いでおいっち
にと練り歩き、金持ちらしい家を見つけますと、その入口で、
「膝撃ちの構え方、始めッ」号令をかけ狙撃の真似をしてみせます。そこで泡をくっ
たその家の者が、真っ青になって飛び出し、
「どうぞ、これにて御勘弁を‥‥」
 金包みを持ってきて差し出しますと、
「よし撃ち方やめぇ」と引き揚げて行きます。
 が夜になりますと、先に解散させられました浪士組か薩摩屋敷の連中が、黒頭巾で
軒なみ荒す有様ゆえ、こうなっては自身番や番屋も、番人が逃げてしまって空家同然
となりました。そこで、
「何とかして、おくんなさいまし‥‥」
 知合いの町内の旦那衆から頼まれ、
「ようがす」の二つ返事で、政五郎親方は、五人一組の若い者を何組も作り、浅草下
谷方面まで次々と、くり出してきましたので、しまいには肝心要の箔屋町の方が手薄
になってしまいました。
 ところが、かねて土州候山内家お出入りを、相政一家に持ってゆかれ、恨みを含ん
でいた神田の仙台屋与五郎という同業の者が、
「この、どさくさ紛れに政五郎へ仇を討つ。首をとるなり、片腕もぐなりして、これ
までの怨念をはらしてくれよう」と、三十人余りの手下に縄襷をしめさせ、
「よっしゃ、よっしゃ」掛声かけ、一市橋を渡って呉服町から押し掛けて参ったので
す。
 飛鳥山からの空っ風が、旋毛(つむじ)をまくみたいに吹き荒れ、戸板ががたぴし
鳴る晩でした。
「おい、開きゃあがれ」
 どんどん表戸を叩かれましても、まさか殴りこみとは気づきようもありません。
 ましてその晩は、政五郎親方は白魚町別宅の方で、留守居は本妻のお照さんに上の
娘のお貞さん。腕っ節のたつ屈強な若い者は親方の護衛についてゆき、残っているの
は三下ばかりです。
「変だね、誰か表を叩いているみたいだって、阿母(おっか)さんが云っていなさる
よ」
 紅柄の入った八王子絣(がすり)をきりっと着こなしたお貞さんが、土間の方へ顎
をしゃくって、
「誰か、見ておいでな‥‥」
 わっちへ名指しで言った訳じゃござんせんが、眼を向けられたものですから、
「へぇ‥‥」初めて声を掛けて貰えた嬉しさで、もう無我夢中。ぱあっと駆け出し、
土間の冷飯草履をひっかけた迄はいいが、
(はて‥‥)と戸の叩き方が乱暴なのに、
「こいつは変だ」やっと気がつきました。
 そこで二階へ上って連子窓の桟の間から見降ろしたところ、どうも身内の者ではな
いらしい。
「大変で‥‥押し込みらしゅうござんす。お嬢さんは姐(ねえ)さんと裏の生垣の処
から、ひとまず隣の家へ逃げておくんなさいまし」
 ふだんは足を踏み入れた事もない奥の間へ駆け込み、急いで訴えましたところ、
「あたいは大丈夫だが、阿母さんについて行っておくれな」とお貞さんにいわれまし
た。しかし姐さんはそれに手をふって、
「まだ年寄り扱いはしてもらいたくないね。それよか、口ばっかりおませでも、お貞
はまだ十五‥‥腰でも抜かしちゃいけない。吉さん、おまえ大男だから背負っていっ
ておやり」
「へえ‥‥」すぐ屈みこんで背を向けましたが、この時の嬉しさはいいようもなく、
「確り、おつかまりなさいまし」というのも上の空、背中に覆いかぶさるように掛っ
てくる柔かい重味を、まるで壊れ物のように大切に、そっと持ち上げ、
(この背にお貞さんが貼りついていなさる)
 もう目くらみするような心地でした。


仙台屋夜討ち

「お前ッ、吉五郎とかいったな‥‥大男総身に知恵が廻りかね、というが、うぬはよ
く機転をきかせ、おれが女房子を護ってくれた。礼をいうぜ」
と、一分銀をひとつだし、
「吉原へでも行って、これで遊んできな」
 褒美を政五郎親分から翌日貰いました。
 しかし、お貞さんを背中とはいえ抱いた後で、他の女など滅相もない話なので、
「せっかくですが‥‥何も、こういう物を頂こうためにやったんじゃあござんせん」
 叱られるかなとは思いましたが、とても銀粒を受け取る気にはなれず、その侭にし
て頭を下げ、溜りの六畳へ戻ってきますと、前夜の殴り込みで怪我して唸っていた連
中が、
「おう吉、相手が仙台屋と判っちゃあ放っておけねえ‥‥今夜これから仕返しにゆく
ぜ」
 みな殺気だって声をかけてきました。誘われて、わっちも承知をしました。
 というのは、政五郎親方が戻ってきなすった故、てっきり神田へ押しかけるものと
思っていたところ、案に相違して、
「将軍さまが御役をやめなすって、自分から身を退こうとなさるこの大変な御時世に、
てめえどうしの仇討ちなんて、けつの穴の狭い了簡は起さねえこった。何も死人が出
た訳でもねぇし、騒ぎゃあがるな‥‥」
 政五郎親分の鶴の一声で、お仕舞い。
 しかし、押し込まれて散々な目に逢った者達は、手負いだけで死んだ者がいないか
ら、それで済ませられるというものではなく、
「親方にゃ内緒で、これから仕返しに‥‥」
となりましたが、政五郎一家は旅へ出る時は、道中差に長いのを許されても、普段は
厳しく刀など持ってない事になってます。
 そこで座りこみの相談は纏まりましたが、手にしてゆく武器がござんせん。
 そこでわっちは心張棒を持ってゆく事にしましたが、どうもそれだけでは心許ない。
台所へ行って出刃包丁を探し、棒の先に細縄でぐるぐる巻きつけていますと、
「何をしてるの‥‥」とお貞さんに見つかり、
(こいつはとんだどじだ。親方に告げ口でもされたら事だ)と泡をくい、
「なぁにね、また昨夜みたいな押し込めがあったら‥‥と用心しまして」
 頭を下げ愛想笑いでごま化しましたが、
「ちょいとお待ちな‥‥」お貞さんは奥へ、さっさと行ってしまいました。そこで、
(親方には一分銀を突き返し怒らせているのに、又しても、これが露見(ばれ)たら、
只じゃ済むまい)すっかりしゅんとしていますと、
「おう、吉か‥‥」
 珍しく親方が自分で台所口まで来ました。
(しまった、こりゃどういう事になるのか)
 びっくりして床板にぴたりと座りまして、
「へ、へえッ」と頭を下へすりつけますと、
「‥‥お貞にいま聞いたよ。せっかく銭をやろうとしたのに、遊びに行くどころじぇ
ねぇと断り、また俺が女房や娘を守ろうと、おめぇ包丁を槍に仕込んでいたそうだね
‥‥一分銀の変りにゃ勿体ねぇが、その志を賞でて俺が助光をくれてやる。十両はす
る脇差だよ」
と手ずから渡され、これには、
「うへえッ」と又も三拝九拝の有様でした。
 さて、
 親方から頂いた刀をさして、親方に禁じられた仕返しに行けよう筈もありません。
といって、それを口実に引っ込んだのでは男が立たず、付き合いが出来かねます。
 そこで溜りへ取って返すなり、
「みんな怪我したまんまの恰好で、殴りこみを掛けたんじゃあ、相政一家は人手がな
いみたいに向こうに舐められ、かえって薮蛇にもなりかねない。ここは一番、この吉
五郎に委(まか)してくんな」と一同に相談をかけました。
 すると台所口まで親分が出て来た事も、手ずから脇差を貰ったらしいのも、薄々一
同は察していたとみえ、何か特別に云いつかっての話なのかと、一も二もなく承知を
なし、
「よしッ、確り仇をとってきておくんな」
と送り出される事になりました。しかし、竜閑寺を渡って今川橋跡の紺屋町まで来ま
したものの、どういう策のあろう筈もなく、
「御免よッ」その侭、仙台屋と書かれた腰高障子をあけ、中へ、ずうっと入りますと、
向こうも仕返しを覚悟した物々しい喧嘩仕度で、土間には薦冠(こもかぶ)りの四斗
樽の鏡を抜き、竹槍までがずらりと並べ立てかけてありました。
「なんでぇ、おめえさん一人かい‥‥」
 与五郎が出て来て、胡散臭そうに表の様子をすぐ見にやりましたが、もちろん此方
は誰もついて来ておりません。そこで、
「好い度胸だね」などといっていましたが、
「はて‥‥相政一家は御公儀を憚って、ご府内じゃ帯刀はしない掟と聞いているに、
おめえさんは長いのを‥‥変だね。おかしいやね」
 すこし怪訝そうに首を傾げていましたが、
「見せて‥‥おくんなさんすか」
と話をもってきて手を差し出しました。
 此方が殴り込みに来ているのなら、せっかくの武器を向こうへ渡すなんざぁ、とん
でもねえ事ですが、なにしろその気で来た訳ではありません。ですから下げ紐をとい
て、
「へえ、どうぞ」と差し出しましたところ、
「これは‥‥」受け取って眺め渡した与五郎は唸り声をあげ、鞘のこじり上の黒漆を
すこし削った個所を指さしまして、
「‥‥政と一字ここに書き込みがしてあるからにゃ、こりゃ政五郎さんの差料(さし
りょう)‥‥するってぇッと、それを持たせて寄越しなすったは、お前さんが代理っ
て寸法かい」と合点し、
「たった一人で大手を振って乗りこんでくるたぁ、太い野郎だ鱠(なます)に刻んで
魚の餌にしちまえと思ったが‥‥やっぱし、おめえは政五郎さんの意をくんで、昨夜
の事は水に流して仲良くしよう、ってぇ心意気でおいでになったものらしい‥‥この
江戸が大変な騒ぎの時に、古い事を根にもって昨夜のような馬鹿をした‥‥この与五
郎は面目ねぇ」崩れるようにその場に手をついてしまいました。


を組の喧嘩

「大変だ、浅草を組新門辰五郎んとこの纏持ちで清次ってのが、市村座へがえんの慣
わしで法被にものをいわせ、さあっと入ろうとしたところ、木戸番にいた奴が、ここ
らは縄張り違いと手を出し清次の胸倉を突いた。だから断わられた腹いせに、を組の
火消しを集めた清次が、いま市村座を叩っ壊している最中だ‥‥」
と駆けこんで知らせにきた声をきくなり、
「‥‥市村座には、あたいの贔屓の三代目さんが出ていなさるんだよ」
 お貞さんが蒼くなって飛び出てきました。
 しかし誰も立とうとはいたしません。
 というのは訳があります。日本橋は「い組」、神田は「ろ組」と、いろは四十八組
に町火消しの組割りはされていても、いざ火事ともなれば、浅草「を組」の者も市村
座へと駆けつけます。
 まして芝居小屋は、お客の莨(たばこ)の吸殻から火を出す事も多いので、何処の
組の者でも手すきの時には、中へ入って見廻りというのは御定法。それを無料入場
(あおた)なみに扱い木戸をついたのは市村座の誤りで、これでは小屋を鳶口で叩き
壊されても仕方がありません。
 ですから、いくら親方のお嬢さんのいう事でも、おいそれと市村座へ駆けつけ、
「を組」の鳶を止めたり押さえる事は出来かねたのです。するってぇと、
「いいよ、頼まないよ、あたい一人で行く」
 お貞さんは目じりを吊りあげ、新しくおろした黄八丈の裾を帯に挟みこみました。
 「三代目」というのは、五代目宗十郎の次男で幼名を由次郎。安政六年[1859]
正月興行から、「三代目沢村田之助」を襲名し、万延元年[1860]からは守田座
の女立方(おんなたちかた)を勤めていましたが、実の兄の四代目助高屋高助(のち
沢村訥舛(とっしょう))の狐忠信をすけるため、今月は静御前一役だけ市村座へ客演
の形で出ていたのです。
「ま、待っておくんなさい。事の理非判断はどうでも良い事‥わっちはお伴します」
 を組の火消し連中が暴れているという処へ、まさか十八歳の娘ざかりのお貞さんを、
一人でやることはできません。此方も尻端折りをして、すぐその後を追っかけました。
 しかし、市村座へついた時は、もう跡形もないくらいに小屋は叩き壊され、幟旗
(のぼりばた)も竹竿をへし折られ、放り出されている有様でした。
「紀伊国屋の太夫は‥‥」聞いて廻っても、皆目なにも判りません。ところが、殺気
だった火消し共は、お貞さんに眼をつけ集まってきて、
「おめえさんは確か相政さんの娘ご‥‥紀伊国屋を案じて、ここ迄来なすったところ
をみると、さては芝居者に味方して、わっしらに楯をつきに来なすったのか」
 長鳶口や引っ掛け鉤を手にして取り巻き、あわよくば酒手でもせしめるつもりなの
か、
「おう、そのでっかい野郎、てめえも相政さん御身内なら、まさか騒ぎを見物って事
もなかろ」と絡んで、凄みをきかせるのでした。
(この溝さらえめ‥‥)と、むかむかして堪りませんでしたが、お貞さんにとばっち
りでも掛けてはと、そこはぐっと辛抱し、
「なあに、ほんの通り掛りでござんすよ」
 下げたくもない頭をぺこぺこさせました。
 ところがそれだけでは済まず、夕方になって、
「を組新門辰五郎名代として、此方親方さんの御意向を」と革半天をきた世話役が、
箔屋町の相政の許へ強談判にやってきました。
 ごたごた最中に相政の名入りを着た者が、敵方の役者を探しに無断で入りこむとは、
渡世の義理にかけたやり口だというのです。
 云われてみれば尤もな話。そこで親方は、
「これッ、お貞」と娘をその場へ呼びつけ、
「おめえ、誰を連れてった」尋ねましたが、
「あたいは行きました、だが一人ですよ」
 自分ゆえに累を及ぼしたくないと、庇ってくれたのはよろしゅうございますが、そ
れでは、政五郎親分の立つ瀬がござんせん。
「おめえ云わねえんなら、此方で坊主にし、髪毛を新門の父つぁんに届けて貰おう」
という騒ぎになりました。
 相政は土佐山内二十万石のお出入りですが、新門の娘芳さんというのは、十五代慶
喜さまの御側室。てんで格が違いますから仕方もありません。
 が廊下の端で、それを聞かされては堪りません。びっくりして障子をあけ、
「悪いのは、この吉五郎でございます。どなたかにお断りしてから、声をかけ探せば
良かったものを、とんだ『ぐれ蛤(はま)』をやりました。科は、このてまえ‥‥ど
うか馬鹿みてぇな阿呆面した首でござんすが、これで話がつくものなら叩っ斬って、
お持ち帰り願いやす」
 首だけ障子の間から差し出しました。
「ほう、首を切られに出て来なすったか」
 新門の名代も、これには呆れたらしく、
「まあ話が通じ他意ない事さえ判りゃ、それで良いようなものだが‥‥せっかく此処
まできたついでだ‥‥親方さん、その首だけ出している若い衆に黒札(無条件)で話
は預けやしょう。その代り明日一杯で市村座との手打ち(仲直り)にしておくんなさ
いよ」語調を変えてきました。
「そんな慌ただしい、無茶な」愕きましたところ、
「首をさし出した覚悟なら、それぐらいは出来やしょう」
 あっさり云ってのけられ、思わず、桟(さん)に挟まったままで、
「ひでぇ、おっしゃりかただ」唸りました。


沢村田之助(さわむらたのすけ)

 政五郎親分の知合いで、日本橋中橋広小路の骨つぎで柔術もやる名倉の勝助師匠に
歩き廻ってもらい、市村座と「を組」を五分々々に、その夜のうちに亀清で呑み分け
の仲裁をしました。
 この侭でゆけば、まぁ私も、「相政一家の吉五郎」といやぁ、ちったぁ売れた顔に
もなりかけたのでしょうが、世の中はそう巧くはゆきません。
 というのは、お貞さんが、喧嘩の最中に紀伊国屋を探しに行った話が評判になり、
市村座から招待されたのがきっかけで、それ迄は見物客と役者だったに過ぎぬお貞さ
んと沢村田之助との仲が次第にずるずる深間に入り込み、「嫁入り話」が持ち上がる
迄になったのです。
 人気絶頂の三代目沢村田之助でしたが、舞台化粧に使う白粉の鉛毒から、「脱疽」
という悪病にかかり、ヘボンとよぶ紅毛医者の手当を受けても思わしくなく、
「‥‥あたいが、太夫の女房になって面倒みてあげないと、どうにもならないのさ」
 色恋だけではなく、必死の権幕で騒ぎたてるものですから、政五郎親分も、
「可愛そうに、おめえも苦労するぜ」
と娘を不愍がって、食してゆくたしにと、猿若町一丁目の芝居茶屋の権利を買いうけ、
「紀伊国屋」の屋号で嫁入り仕度につけましたが、それだけでは心許ないと思ったか、
日本橋中橋畳町(現在中央公論社辺り)の小さな芝居小屋を求め、これを「沢村屋」
と命名しました。
 さて、その六月から二年余りは田之助も寝たきりでしたが、すこしずつ快方にむか
いましたので、一年おいた次の年の五月、上方へ買われてゆきまして、大阪中(なか)
の芝居で、「明烏」の杉浦花魁。二の替りで「日高川」の清姫を演じて大当たり。そ
の出し物をもって京、名古屋と打って廻り、頗る大評判でした。
 しかし手足を切断した不自由な身に、旅から旅の過労はきつく、倒れてしまいまし
た。
 初めはお貞さんも、田之助の身を案じ、付ききりになって大阪へも行っておりまし
た。
 だが芝居茶屋と小屋を抱えていては、京、名古屋へまで一緒はできかねます。そこ
で一足先に戻っていましたが、再発の知らせに、
「阿父つぁん、どうしよう」と箔屋町へ駆けつけました。政五郎親分も、
「知らねえ土地へ置いてもおけめぇ。すぐ連れ戻るしかなかろうが、迎えに行っても
興行先ゆえ、おいそれとは素直に承知しまい‥‥こりゃ腕ずくで背負ってくるしかな
かろ‥‥」
 娘可愛さに腕組みして考えこみ、
「女のおまえだけが行ってもどうなるものでもねえ。吉五郎を連れて行きな、あれな
ら芝居の男衆と違って、腕も立つし力もある」
とは口にしたものの、
「彼奴も昔のような三下じゃなく、神田松屋町一帯の縄張りを預かり、一から兄貴と
か何とか立てられている男‥‥まさか俺が口から、名古屋の末広座まで田之助を背負
いに行けとは云い難い。おまえが口から話しな」
「そうですね。今じゃ良い顔だそうですから‥‥ちょっと頼みにくいけど」
といった経緯はあったでしょうが、お貞さんの口から切り出されては、此方とらも否
応はありません。すぐさま二つ返事で、
「ようがす。お伴しやしょう」
と引受け、お貞さんの云いつけ通り、嫌がる田之助を確り背負って戻ってきました。
 しかし帰ったから直ぐ病気が良くなるものでもなく、当人は却っていらいらして、
「名古屋だったら調子の良い日には板(舞台)も踏めるが、此処じゃ出してくれる小
屋もない」と泣き喚き転がり廻って暴れる始末でした。
 そこで、
「‥‥吉さん、おまえさん名古屋へ行ってもらったばかりで、またぞろ無理は云い難
いけど‥‥すこし猿若町の家へ来ておくれでないかね」
とお貞さんに話をもって来られました。
「どうなさいやした‥‥」
「好きで一緒になった仲‥‥いくら手足がなくなったって、どうって事はないんだけ
ど、あの身体でに気にいらないことがあって暴れだすと、とても、あたいの女手にゃ
おえやしないんだ‥‥泊っていて、そんな時は、手を貸して欲しいんだ。助けておく
れでないか」
 聞かされてみますと、無理もない話。
 そこで承諾して、その晩から行きますと、
「離れた所で寝ていてもらっては、うちのが暴れだした時、急場の間にゃ合いやしな
い」
というので、お二人の次の間へ寝かされ、
「何かあったら声をあげる。そしたら構わないから飛込んで来ておくれ」
といいつかり、
「へえ承知しやした」うけおった第一夜。
 初めのうちは張り切って眼をぱちくりさせていましたが、うとうとしだした頃。
「しぬ‥‥駄目だよ、おまえさん‥‥」
 首を締めつけられているようなお貞さんの声が聴こえ、はっとして眼がさめ、云わ
れたように唐紙を開けかけましたが、その途端、
「あっ‥‥」そのまま生唾を呑みました。
 曲芸でオットセイの玉乗りというのがありますが、そっくりその侭の恰好で、お貞
さんが手足のない田之助さんを、自分の腹の上へ抱えあげ、揺さぶっていなさるので
す。
「いけねぇ‥‥とんだものを見ちまった」
 おこりにかかったみたいに震え、わっちは急いで床の中へまた潜り直しを致しまし
た。


浅草紀伊国屋

「ねえ、手を貸しておくれな。うちの人に行水させるんだからさ」
「へい」云われて、浴衣の中へくるまった恰好の田之助さんを床の中から抱えあげ、
葉桜も散りはて杜若(かきつばた)の花が垣根の向こうに、もう咲きだしている裏庭
へと運んでゆきますと、
「丁度よい湯加減なんだから、おとなしく入っておくんなさいよ」
 裸にした身体へ手拭いを巻き、かき廻していた盥の中へ漬けるように沈めましてか
ら、シャボンをつけて手拭いでこすりつ、
「ねぇ、良い気持ちだろ」までは、見てもおれましたが、下がっていった手が石鹸の
泡の中で、しごくように揺れ動き、
「‥‥おまえさん、手足のきくうちは、あっちこっちの女衆と此処をよく使っておく
れだったが‥‥もう、こうなっちまっちゃあ、あたい一人きりのもんだろうじゃない
か」
 抓ったのか強く握りしめすぎたのか、そこ迄は判りませんが、
「痛い、止しゃがれ‥‥頼まぁな」
 身悶えする田之助さんには、背を押さえているわっちの方が顔をそむけてしまいま
した。
 なにしろ私はお貞さんという女(ひと)を、飯は喰っても厠へ入ってばばを出すよ
うな、そんなお人じゃねぇ。黙って眺めているだけで、観音さんを拝んでるみたいに
心和むお方‥‥そう思い詰めていましただけに、前々夜に、手足のない田之助さんを
寝床で抱きあげていなすったのを覗いてしまっても、
(ありゃア、子供をあやすのに上へ持ち上げ、高い高いバア‥‥)をやるのと同じこ
とで、
(きっと、むずかる田之助さんを持て余し、そんな具合にお守していなすったんだ)
と、考えていましただけに、四月の青葉越しの陽射しに、頬から顎を蒼く染め、きっ
として田之助さんのそこを引っ張っていなさるのには、まるで、凍りついた水でも、
だし抜けに浴びせかけられた想いでした。
 ですから、その晩から、お羞ずかしい次第でござんすが、どうしても唐紙の向こう
が気になって、いくら寝つこうとしましても、すぐ眼がさめてしまって何ともなりま
せん。
 微かな音でもしようものなら、又こないだみたいにお貞さんが自分の身体の上に、
田之助さんを立たせていなさるのか‥‥と、瞼に残っている有様を蘇らせ、狗ころみ
たいに舌を出し、ぜいぜい喘ぎ通したものです。
 そのうちに、
(なまじ手足が生えているからいけないんだ。俺だって、田之助さんみたいに、あん
な恰好になったら‥お貞さんに抱えてもらえ、可愛がっていただけるかも知れねぇ)
夜毎の想いがつのって、そう思い込むようになりました。
 そこで西南戦争の翌年七月七日。七夕さまの祝いの晩、鉛毒がとうとう頭へまで廻
り、のたうち転げて田之助さんが亡くなったあと。
 わっちは思いきって、左手は自分で叩っ斬り、右手は毒蛇に咬まれたと医者を瞞く
らかして切断いたしました。ついでに脚もと思いましたが、歩いて帰れねぇから止め
ました。
 田之助さんが狂い死にみたいに亡くなって治療代や借財を片づけますと、猿若町の
茶屋も中橋の小屋も人手に渡ってしまいました。
「俺の死金に取ってあったのだが‥‥」
 次男の通之助さんに二代目相政の跡目を譲っていなすった隠居の親方が金を出し、
「これで食ってゆけよ」と、浅草の小料理屋を求めてやって、お貞さんは、「お国」
と名を改め、その紀伊国屋の女将に納まりました。
 ----わっちですか。両手は落しましたが、やっぱしお嬢さんは高嶺の花、とてもじ
ゃねえが可愛がっておくんなせぇなんて、いい出せっこありませんや。口で下駄を揃
える稽古をし、下足番にしてもらっていやすが、
「死んだ紀伊国屋に心中立てをして、両手を自分で斬ったとは見上げたやつだ‥‥」
とか何とかいわれ、浅草(えんこ)じゃ今では売れた良い顔になっています。が、な
んといっても不自由でやりきれません。

 晩年は池のところに立っていたり、十二階下の妓たちの相談役をしていたとかで、
「ひょうたん池の爺さん」とよばれ、十五、六の若い娘が嫁さんになっていたといわ
れる。
 故直木三十五の肩を叩かされていた時、私は、その講談本を初めて見せられて、
「これが牧(林不忘)の丹下左膳の底本だ」と教わったことがある。筆者の最初の師
匠の直木先生も、やはり書きたかったらしかった。が、当時は<日本の戦慄>に打ち
こんでいた。


                任侠一代男

青木の弥太郎

「文久二年[1862]版吉原細見」の角町(すみまち)の部に、喜里(きり)町と
いう中頃の店がのっているが、そこの上から四番目の序列で、賑(にぎわい)という
名の局女郎がでて居る。これが、お辰の二年前の源氏名で、今では新徴組の西森蔵に
落籍(ひか)されて居る。
 さて、この二月から元治元年と名が改まる文久四年[1864]の正月。将軍家茂
公上洛に先立って、昨年京から戻されてきた新徴組の連中は、改めて随行のお沙汰が
出ると思っていたら、それどころか、「身許良ろしからざる者のお咎め」の内意が出
たからして、これはえらい騒ぎとなった。
 西森蔵にしても、吉原の女郎を身請けするぐらいだから、こっそり他の仲間を語ら
って町屋を荒し廻っていた。脛に傷もつ身だから、じっとしては居られず、お辰に、
「なあ、おれと逃げてくれろ」相談した。
「あいな」と、お辰も水商売上りゆえ、そこは聞き分けがよく、すぐ風呂敷包み一つ
で駿河台紅梅町の、大銀杏(おおいちょう)が目印になっている旧士屋敷の屯所をぬ
けでた。
 しかし急場のことゆえ二人揃って転がりこめるあてもない。そこで、
「鍛冶橋の留親分の処へ行こうじゃないか」となった。お辰が吉原にいた頃の馴染で
ある。
 そこで森蔵も、すこし塩っぱい顔はしたが、だからといって他に行先もない。
「うん、そうするか」
 今でこそ眉根が吊るぐらいにぐっと引っ張りあげ、無骨に講武所髷を結っているが、
もともと森蔵は武家ではなかった。甲府柳町三井楼卯吉のところの下っ端上りである。
 祐天仙之助や菱山の佐太郎が石坂周辺に誘われて、新徴組の前身である浪士隊へ加
わった時、ついでに後から尻にくっついて入った程度の男だから、お辰にくっついて
鍛冶橋へ行くと、すっかり侍言葉はやめにして、
「親分ひとつ、よろしゅうに願いやす」
と頭を下げて挨拶した。しかし留吉の方は森蔵の方には眼もくれず、
「おう賑(にぎわい)‥‥」と、お辰の吉原時代の名をよんで、さも懐かしそうに、
にたにたして、
「おめえ、お女郎の時より仇っぽくなりやぁがって、女っ振りが良くなったじゃねぇ
か」
 昔馴染んだ仲だけに熱っぽい声をかけ、
「おれが処は女房もいねぇ野郎暮し‥‥さあ遠慮はいらねえ、気楽にやってくんな」
と口にした。そこで森蔵も、
「へえ、よろしゅうに」と礼をいったが、どうも後がいけなさすぎた。
 女房のお辰を留吉が己れの居間へ引っ張りこんでしまって、朝になっても戻してよ
こさない。それには森蔵もくさりきって、
「これじゃあ、まるっきり気楽すぎて間がもてねえ」憮然としてしまった。
 しかも一日きりの事なら、厄介になる礼の手土産代りという事もあるが、これがぶ
っつけでいわば流連(いつづけ)の恰好。だから昼も夜も膝小僧を抱きっ放しの森蔵
は、むくれてしまい、
「やれ男伊達だの、仁義渡世だの云いやぁがって、人の女房を抱きづめって事はなか
ろう」居たたまれなくなって飛び出した。
 が、さて、かっとなって外へ出たものの行く処とてない。そこで飛鳥おろしの空っ
風に背中をこずかれながら、駿河台紅梅町の古巣へは戻れないから、本所の小笠原加
賀守屋敷跡の屯所本部へ様子を見に行った。
 表門からは入れないので裏手へ廻ったが、うっかり足を踏み込んだら取っ掴まりそ
うで、もたもたしていると、向い側の南割下水の方角から、青木弥太郎が姿をみせ、
「‥‥おめえ、喜里屋の賑を落籍(ひか)せやぁがった色男じゃねえか」と声をかけ
てきた。
 二百俵どりの歴(れっき)としたお旗本だが、「評定所書物(かきもの)役」とい
う今なら裁判所書記官みたいな御役で、百石の扶持役を貰っていたのを、未練気もな
く薩(さ)っ張(ぱ)りすてて、このところ故(もと)の本阿弥の小普請入りで、の
んべんだらりとしている男。
「こりゃ‥‥どうも」
 森蔵は頚筋に手をあてぺこり頭を下げた。
 というのは、お辰がまだ吉原にいた頃。
 この青木弥太郎も通っていた一人で、いわば森蔵は横合いから鳶みたいに、さあっ
と掻っ払ってしまった恰好だったからである。
「どうしたんだえ、とんと浮かねえ顔だが」
と寄ってきて、上から下まで見降ろしてから、
「おぬしも紋付羽織に大小をぶちこんでた時にゃあ、ちいとは見られれたが‥‥頬被
りして尻っ端折りの扮装(いでたち)は様にもならねぇな」
 にんまり笑って、唇をへの字にまげた。そこで、
「いやあ‥‥こりゃ面目ない」
 森蔵は冠っていた手拭いをとって近寄り、
「わっしを御宅へ匿っちゃあ頂けませんか‥‥ただとは申しません。賑をつれてきて
宿代にそちらさまへ進上しますが‥‥」
と打診するみたいな口のきき方をした。