1042 江戸侠客伝  8

吹けよ川風

 さて自分の持物がぴったりだというようなのが現れてきては、政五郎とて男の端く
れ。口で嬉しいとか良いとはいわぬが、箔屋町の店にいるよりは芳野の許ですごすこ
とが多くなった。
 しかし子分が何百とふえた政五郎が、そう気侭な事もできない。時には、
「親分どうぞお戻りなすって」と迎えにこられる事もある。
 もちろん、よくせきの事で呼びに来るのだから、店へ帰ると二日や三日は鼬(いた
ち)の道。
 すると入れ換って頬冠りしたのが、裏口からすいと帳場へやってきてあがりこみ、
「だいぶ熱ツ熱ツだそうだが、まさか本気で惚れちまったんじゃなかろうな」
「まさか親方‥‥いやですよ」
 芳野がすねてぶつ真似をしても、
「てめぇ枕を重ねているうちに本惚れしたんと違うかい‥‥此方は今日か明日かと上
首尾の知らせを待ってるってのに、寝首をかくの絞め殺すのといった初めの広言は何
処へやら‥‥てんでだらしがないじゃねぇか」
「だって、もうすこし安心させてからでなくっちゃ、なんともなりませんのサ」
「聞いたふうな口をききゃあがるな‥‥」
「そうあせらずに待っておくんなさいまし」
 頬冠りはむしりとったが渋い顔をみせる相手に、芳野が口答えしたところ、
「この前の洪水騒ぎのごたごたで十手取縄は返上し、日本橋界隈にも居られん事にな
って、今は他所へ逼塞中だが、これでも俺は、堀留の弥平とよばれた男。あんまり軽
く見ちゃあいけねぇよ」凄い顔をした。そして、
「ここ二、三日は来てねぇようだが、明日の晩あたりは政五郎め来やあがるだろう。
女のおめえの手を借りようとしたのが此方の誤り。こうなったらやっぱり下っ引をく
びになり、彼奴に遺恨を含んでいる奴らをつれてきて、俺が始末はつけてやる。いい
か、泊りにきたら手練手管でたらしこみ、骨抜きにしちまって寝かしとけ」
言い残して、さあっと消えていった。
 さて政五郎は、そんな事とは知らず翌日。
「また、おまえさん泊りにゆくのかえ」
 自分からすすめた事なので文句もいえぬ立場だが、そこは美代とて女の身、やはり
怨めしそうにして見送る眼差しを背に、いそいそと出かけていって、
「あら、よく来ておくれだね。待ち焦がれた、あたしゃ蛍みたいに身を焦がしていた
んですよ」
「ちぇッ嬉しがらせをいやぁがるな」
 さしつさされつ盃をかさね、いよいよ店もしめ、二人きりの床入りとなると、
「三日ぶりだから、その分なんとかしておくれな‥‥」
 はりついた芳野は、これでもかこれでもかと政五郎をせめるから、さすがに疲れは
て、
「もう、おれは駄目だぁ」
 のびてしまって背を丸めての高鼾(たかいびき)。
どさっと蚊帳の釣り手を切られ、投網を掛けられた恰好になっても、まだ白河夜船。
「‥‥ここで殺されちゃ後が困る。何処ぞへ担いでいって重石をつけ沈めちまいな」
と聴こえる芳野の声もうつらうつらの夢心地。
 外へ三人掛りで運び出され、夜風が蚊帳の網目から当ってきて、初めて、
「なんでぇ、何をしやがる」
 寝呆け声で喚いたが、もう後の祭り。
「騒ぎゃあがるな、もう直ぐだ」
 肩を抱え込んでいるのが政五郎の頭を突く。
 だから何が直ぐかと網目から覗くが、俯伏(うつぶ)さったまま担がれているので
地面しかみえぬ。
 が匂ってくる風は塩っぽい感じがする。
 そこで政五郎は鼻をひくひくさせ、
(吹けよ川風っていうが、こりゃあ浜町河岸へ持ってゆき水ん中へ沈めやがる気か)
 はっとして体を動かそうとしたが、
「じたばたしゃあがるな‥‥」ぐるぐる巻きの蚊帳の上から、拳固で殴られるだけの
話。
 いくらもがいても埒があかぬ。政五郎も、これにはすっかり酔いもさめはてて、
「えい、どうしようか」とあせるのだが、なんとしても身体の自由がきかない。
 川風が次第に迫るように吹きつけてくるのに、担がれていてはなんともならぬ。
「もう川の流れが聴こえてきゃあがる」
 さすがに政五郎も男らしく覚悟はつけたが、最後の気力をふりしぼって、
「た、助けてくれ」むだだと思ったが叫んだ。
 すると気のせいか、ぴたぴた叩きつけるような音をさせ草履裏が響いてきた。そこ
で政五郎は、おやっと想った。が次の瞬間。
「あッ」という間もなく政五郎はどしんと、川端の柳の根方へ放り出された。
 だから巻きついた蚊帳を両手でかきむしって引き裂き、やっと立ち上がって、三人
を相手に立ち廻っている侍の背中に、
「こりゃ危うい処をお助け下すって済ンません‥‥手足だえ動かせるようになったら、
この政五郎、二人や三人の相手にゃ、びくともするこっちゃござんせん」
と礼をいいながら声をかけたところ、
「おう相模屋の親分か‥‥」
 はね返ってきた声と振り返った顔は金四。これには、あけた口がふさがらず、
「なんだ。えれぇ処でえれぇお人に逢ったもんだ‥‥あの洪水の前から姿がぷつり消
えてしまわれたので、こりゃ手入れがあると早耳で仕入れ、それで行方知れずかと思
ったらば、お侍姿とはこりゃ又どうして‥‥」
「うん面目ない。世話になりながら無断で退散したような恰好で、合せる顔もない話
だが‥‥異母弟に家督を継がせようと両腕へ痛い思いで刺青までほり、市井無頼の徒
に混じって賭場通いに身をもち崩していたのだが、父の病死のため親類縁者に無理矢
理に家に戻されてしまい、小普請奉行公事方という目付のような御役を拝命。忍びで
見廻りに出ているところで、この寄寓。逢いたかったぞ」
と金四こと遠山金四郎は、懐かしそうに側へ寄ってきたが、にやっとすると、
「親分どうしなすった。下帯もはずしっ放しで前がとがっていなさる」と指さした。
「えッ‥‥」
あわてた政五郎は素っ裸なのに初めて気づき、落ちている蚊帳を腰へまきつけたが、
思い出したように辺りを見廻し、
「喋っているうちに野郎共、早いとこ消えやぁがって、らちもねぇ影もみえねぇ」と
むくれきった。


南町奉行遠山左ヱ門尉

 弘化三年(1846)五月。土佐高知の山内侯は、江戸留守居役の広瀬源之進、吉
川喜四郎の両名の者をよび、さて改まった調子で、
「従来当山内家の鍛冶橋屋敷には、神田白壁町仙台屋与五郎が五十名の人足を入れて、
出火の節は相勤め居るが、町火消の中に浅草を組の新門辰五郎という者がいて、彼ら
勇み肌の者は、山内家の火消し『置き消』、つまり恰好ばかりで役立たずと罵笑し居
るとかきく。まことに残念であり不快である。よって辰五郎に匹敵するような任侠を
見つけて参れ」
 土佐二十四万石の貫禄にかけても、即日出入りの火消しを取り換えろとの厳令がで
た。
 だが、当時江戸八百八町に名を知られたのは、近くでは「鍛冶橋外の栄吉」「鉄砲
洲の伝蔵」「大川端の和吉」「新馬の小安」「品川の阿波安」
 それに日本橋河岸の元締めをしている佃の吉、内藤新宿で貫目所(かんめじょ)仕
切りをしている八幡万吉。数え出せば十指にあまるが、
「土佐山内侯のお達しだから」といって、「へえ」と有難がって入れ替わるのが、は
たして居るかどうか、これは判らない。
 それに、いま売出しの新門辰五郎の「を組」いろは四十八組の町火消の向うをはっ
て、大名火消とて対抗するとなると、それ相当の貫目(かんめ)もいる。いくら殿様
が、「即刻致せ」といっても何ともなるものではない。
 そこで留守居の二人は切羽詰って、
「これは南町奉行遠山左衛門尉さまにお伺いをたてるしかあるまい」
「あの方は小普請奉行公事方から勘定奉行公事方を歴任され、天保十一年より北町奉
行になられたが、桜の刺青があるとかないとか南町奉行の鳥居耀蔵(ようぞう)に告
げ口され、三年で大目付に飛ばされなすったが、又ぞろ昨年より今度は南町奉行に返
り咲かれた御方‥‥市井にはお詳しそうじゃから御教示頂こう」
 すぐさま同道して役宅を訊ね相談をした。すると遠山金四郎は即座に膝を叩き、
「新門辰五郎に匹敵する男伊達は、天保大洪水のとき日本橋河岸を、しかと守り抜い
た相模屋政五郎しかあるまい」と答えた。
 そこで、その当時から、ずっと江戸勤めだった広瀬源之進は思い出したように、
「その節、政五郎に対し小普請奉行より青ざし一貫文の御褒美が出ました由ですが、
あれは遠山さまがそちらに御在職中でありましたゆえの、ご配慮にござりましたか」
と口にしたが遠山金四郎はそれに答えず、
「政五郎というは、お上とか大名などは屁とも思っとらん骨太な男じゃ‥‥一貫文の
ことなど口に滑らしてみい。いくら土佐二十四万石を鼻にかけて使者にたっても、浪
の花をぶっつけられて戻ってくるのが関の山じゃろ」
 呵々大笑してのけた。そこで両名は、
「なんとしてでも政五郎を引っ張り出しませぬと、われらは主命にそむく事とあいな
りまするで、なにとぞ御知恵を拝借したく‥‥」
 青くなって平身低頭した。そこで、
「うむ」と暫く金四郎も考え込んでいたが、
「聞くところによると政五郎は前の妻女に死に別れたあと、京橋白魚屋敷元締幸右ヱ
門の娘のお照に惚れられ、それを後添えにしているが、死んだ新右ヱ門町小間物屋の
娘美代という先妻への愛慕はきつい由。
 だが、今の嫁に気兼ね致し墓もまだじゃときき居る。土佐二十四万石をもってすれ
ば青山の石勝に交渉し、一日で戒名くらいは手分けして彫らせられよう」
と言い放った。両名は喜んで、
「これは良い事をうけたまわりました」
 厚く礼をのべ、すぐ石屋へ駆けつけ、他からの注文で磨きをかけている大きな石塔
を譲りうけ、これに美代の戒名俗名を前後左右から一字ずつ手分けして刻ませ、これ
を芝増上寺にある山内家の菩提所に建ててしまった。
 そして翌日。
 今では箔屋町を引払って広い白魚屋敷に「相政」の高張り提灯を出している政五郎
の許へ、駕を仕立てた山内家の両名の者が迎えに行き、
「増上寺へご参拝を」とつれだした。このとき政五郎は三十六才の男ざかり。
(何故おれが芝へなどお詣りにゆくのか)
 不審には想ったが太っ腹な男のことゆえ、
「そうですかい」と何もいわずに芝へきた。
 しかし増上寺の塔頭の山内家の御墓の横に死んだ美代の墓をみた時には、はあっと
ひざまずいて、「ううん」と両目をとじ、さっと手を合せ、
「俺は初手からお前にいやな想いや、辛い目にばかりあわせ‥‥死んでも卒塔婆だけ
のまんまで今日まできた。許してくれろ」
 しまいには墓石に抱きつかんばかりにして、声は殺していたが眼を真っ赤に腫らし
ていた。
 案内してきた両名の留守居役は、
(この男にも、こうした泣き所があったのか‥さすが遠山金四郎は何でも見通しだ)
 すっかり感心しながら、さておもむろに、
「ひとつ、おてまえに頼まれてほしい事があるのだが」と一部始終を物語った。
 すると政五郎は拳固で頬をこすり、
「わっちはたとえ千両箱をつまれても、金持やお大名に頭を下げるのは大嫌えな男で、
虫けらや雑草なみにしか扱われねぇ町の者(もん)の味方のつもりで居やしたが‥‥
死んだ美代の墓を山内の殿さんの側へ、こんなに立派に建てられちゃあ、土ん中に何
も入ってなくとも、忠義をしなくちゃあいけますまい」
 まるで墓石に話しかけるように、その場で直ちに承諾した。
 しかし鍛冶橋の山内家上屋敷へつれてゆかれ、殿様にお目見得のときは、
「大名火消といっても近間の出火なら町屋も救いにゆきます。ようございますか‥‥
だから弱い町の者(もん)のために、土佐二十四万石の御権勢をお借りしやす」
 はっきりと念を押すような口のききかたをした。
「うん。いいたい事をいいおる。が、まあ、それ位でなくば物の役にはたつまい」
なんとかして、いろはの町火消を打ち負かしたい一心の山内侯は、言葉咎めもせず、
「仕度金じゃ」と千両箱を下げ渡した。
 すると政五郎はその金で百人分の法被と鳶口。竜吐水五台を作らせたはよいが、三
百両近い余りが出ると、それを呑み食いにあてず、洲崎、板橋の安女郎で借金十両以
下の女を、三十人そっくり身受けして田舎へ戻した。

 この噂をきいた遠山金四郎は、
「やつならやりそうなことだ。おおかた死んだ前の嫁の追善供養のつもりだろうが、
古今東西、てめぇが抱いたことも顔をみたこともねぇ女郎の証文をまいて里帰りして
やるような素っ頓狂な奴も他にはあるまい」
 すっかり呆れもし感心もして、忍びの恰好でたずねてゆき、
「昔、帳づけに拾って貰い厄介になった礼もある。いくらでも町奉行を利用してくれ
ろ」
と、ざっくばらんに申しでたが、
「そいつはいけねぇ。昔の金さんだったら、手に余ることはみなおっかぶせられたし
頼みもしたが‥‥南町奉行の遠山さまじゃ駄目だ」
 大きく手をふって政五郎は辞退した。
「気兼ねや遠慮はいるまいが‥‥」
 心外な顔をされると政五郎は舌をだし、
「おれが町方役人を大嫌いなのは、あぁた先刻ご承知でいやしょう。なのに町奉行っ
てのは、それの元締さんじゃござんせんか」と笑いとばした。
 そして遠山金四郎が嘉永五年[1852]三月二十四日に南町奉行をやめるまで、
政五郎は一度たりと頼みごとには行かなかった。
 が、安政二年[1855]十月二日の江戸大地震の際。
 政五郎は子分をつれて倒壊した遠山家へ駆けつけ、圧死した金四郎を掘り起こし、
「ワンワン」屍に取りすがって、辺りかまわず男泣きをしたと伝わっている。


浪人組くずれ

「なに自警団だって?」
 政五郎が妙ちきりんな顔をすると、
「へぇ五人組から二人っつ棒をもって出るんですが、相手がなにしろ気違い同然の輩
で火つけでもしでかしそうな浪人共で放っておけねぇ。ひとつお身内衆をとのお申し
越しで‥‥」取り次いできた若者頭が頭を下げた。
が、「うむ‥‥」と、政五郎は唸ったままだった。
 というのは、市村座木戸番が新門一家と喧嘩し小屋が叩き壊され、新町の弾左ヱ門
と町火消しが血の雨を降らそうとしたとき。
「そんなことをしちゃあ町の者の迷惑だ」
と政五郎が、弾左ヱ門家出入り柔術師で骨つぎの名倉堂勝助と、双方の間に割って入
って穏便に事をすませた事があるので、
(町の者の迷惑だ)と解散浪人のことで、町内から頼みにきたのも、よく判るが、
「なにも町方の手伝いをしに、棒を持ってって自警なんかすることもなかろ。火をつ
けたの悪をしたってのなら、ぶん殴るのも仕方ねぇが、するかも知れねぇ位で他人さ
まを痛めつけたり、町方へ渡すなんざぁ江戸ッ子のするこっちゃねぇ」
と、暫くしてから大声で言い放ち、
「政五郎は吝な野郎だが、弱きを助け強きをくじくてぇ天の邪鬼‥‥せっかくだが若
い者は一人もお貸しできませんと断っちめぇな」
若者頭にぴしっと口上を叩きつけて帰してしまった。

 が、気になるのか皮革羽織をひっかけ、
「馬喰町界隈を見廻ってくる」いいだした。
「お伴を‥‥」と若い者達がついてこようとするのを、政五郎は振返って、
「何様のお出かけだと思ってやぁがる」一人でお福草履をひっかけ外へ出た。
 しかし若者頭の平助だけは、そういわれても政五郎の身を案じ見え隠れについてき
た。
「おいおい、下っ引きみたいな真似はよせ」
 気づいていたらしく政五郎は、一石橋を渡って伝馬町の角までくると立ち止まり、
「早くこい」と手招きしてよびよせた。
 叱られるのかと平助は首を縮めて寄ってきたが、政五郎はそっちの文句はいわず、
「小石川伝通院大信寮に勢揃いした浪士組三百が、公方さま上洛の先乗りとして京へ
向かったは、確か梅の花の頃。その時は、さきの駿河町奉行鵜殿民部さまがおん大将
で意気暢々たるもんだったが、行って一と月でお払いばこ‥‥戻ってくりゃ厄介払い。
哀れなもんだよなぁ」
と眼頭をしばたかせた。
「なんでも京へ、水戸のご浪士や牛込試誠館の近藤勇という人らは残ったそうですが、
御公儀のお指図通りに江戸へ戻ってきた者は、貧乏くじで野良犬扱い。正直者が馬鹿
ぁみる非道い御治世でございますね‥‥」
 いわれて平助も腰を屈めてうなずいてみせ、
「旧士分の浪人衆は本所三笠町のお旗本小笠原加賀守さまお屋敷で、賄もちゃんとつ
いているそうですが‥‥哀れなのは人集めに加えられた博徒や町人連中。先ゆき使い
ものにならないと見くびられたか、馬喰町の大松屋、羽生屋、井筒屋と三軒の旅篭へ
放りこまれ、ろくにおかみから雑用(ぞうよう)の銭のお下げ渡しがないとかで、初
めの三日は飯が出たが後は寝るだけとかいってますぜ」と言葉をつづけた。
「そうかい。町ん中へでて五人組の自警団に棍ん棒で追い駆け廻されるってのは、そ
の手合いなんだね」
「へえ、金魚じゃあるめぇし、水ばかり呑んでも居られませんから、物乞いに歩くら
しいんだが、なんせ身なりが浪士組のまんま、そんで気味悪がられて追われてるんで
しょうね」
 話し合いながら、伝馬町の牢屋横通りから千代田稲荷の前をぬけ、亀井町河岸の竹
森稲荷の鳥居のみえる辺りまでくると、
「助けてくれぇ」と両手をあげてくるのを、
「野郎待ちゃあがれ」と追ってきたのが、
「叩っ殺しちまえ」と竿や棒で叩きのめす。
 見かねた政五郎が、その浪人くずれを、
「まあ待ってやってくれないか」
 中へ入って平助に庇わせたところ、
「そいつらは徒党をくんで、火つけして押借りしようとしたんだ。町の者の味方の相
政の親分さんなら、ぶっ殺しておくんなせぇ」
と棒を持ってきて渡しかける者すら居る。
「いってぇ何処へ付け火しゃあがった?」
「さあ、はっきりは知らねえが、神田の仙台屋与五郎親分の処の若い衆が拍子木叩い
て、新馬(しんば)方面は、火の海だと知らせにまいりやした」
「じょ、冗談も休み休みいえ。俺っちは今そっちからやって来たんだぜ」
 政五郎が呆れた顔でたしなめていると、
「おう皆さん‥‥相政の野郎こそ、浪士組くずれの無法者の黒幕なんだ‥‥枝葉を苅
るより元木を倒せということがある。この与五郎がお助太刀を致しますから町内の皆
さん、そいつから叩きのめしておくんなせぇ」
 山内家出入りを政五郎にとられ、かねて怨みに思っていたらしい仙台屋与五郎が、
三十人あまりの子分を従えて、喚きながら駆けつけてくるなり、
「それッ、やっちまえ」と掛ってくる
 これには平助も面喰って、
「仲裁は時の氏神って譬もあるのに、なんで俺達に向かってきゃあがる」
 自警団の樫棒を力まかせにひったくり、
「来ゃあがるかッ」
と政五郎の子分共が打ちこんでくるのを、左右にばったばったとひっくり返す。
 そして長い刀を引き抜き飛び掛かってくる与五郎に、政五郎も着ている皮革羽織を
ぬぐと、
「さぁ斬ってこい。江戸の仇を長崎でというが、とんでもねぇ逆怨みをしゃあがる」
 革を棒のようにしごいて立ち向かう。すると類は類をもって集まるというが、両国
広小路の方角から、浪人組を追ってきた白髪頭が、
「おう仙台屋‥‥そいつは相政じゃねえか」
と側へよってくるなり、
「やい政五郎。おりゃ昔の堀留の弥平だ。その節の礼をいわしてもらうぜ」
 十手をふりあげて脇から打ちかかってきた。
「遠山さまが町奉行だった頃は、てめえのような悪に十手など持たせなかったが、お
めえ又ぞろ御用ききになりゃあがったか‥‥」
 皮革羽織をびしりと頭に叩きつけると、
「あっ‥‥」弥平はもんどりうって転がった。
 が、その横合いから与五郎が、
「くたばれッ」と烈しく斬りこんでくる。
「何おッ」
 政五郎は、皮革羽織を鞭のようにして、その太刀先を払いのけたが、刀と違って手
先を守る鍔がついていない。
 そこで手の甲をかすられ血を吹かせ、
「うむ」と後退りすると、与五郎はえたりとばかり、大上段に振りかぶって、
「覚悟しゃあがれ」
 どさくさ紛れに政五郎を亡き者にしてしまおうと、踏みこんで斬り掛ってくる。
「‥‥親分」びっくりした平助が、手にした樫棒を力まかせに放ってよこしたのが、
政五郎の手には届かず、与五郎の脚に当った。
 が丁度、踊り掛かろうとしていた時なので、それが与五郎の向う脛にゴキッと音さ
せて当り、前へつんのめって大地に手をついた。
 おまけに転ぶとき自分の刀で傷つけたか、あげた顔は血塗れになっていた。
「やりゃあがったな」
 眼に流れこむ血のしたたりをこすりあげ、
「おう野郎ども、早くやっちまえ」
 子分共を振り返って怒鳴りつけると、腰をしたたかに打った弥平も、やけくそにな
って、
「御用弁に曳き立てゆく事はねぇ。縄を投げ首っ玉に引っかけ絞め殺しちまえ」
 身体を起して、下っ引連中にがなりたてる。
 政五郎の方は平助と二人きりだが、与五郎や弥平の方は子分だけでなく、地廻りの
自警団まで加えると五十人ではきかない。
 だから近よってくるのを殴りとばしながら平助が、いらいらしきっていると、
「ワッショイ」「ワショイ」声がする。振り返って、
「纒が、めの字だァ親分‥‥」
 ほっとしたように平助が大声をあげると、
「め組の辰吉は政五郎の舎弟分‥‥まずい野郎が駆けつけてきゃあがった」
 与五郎が手拭で額の傷口を押さえながら、
「皆な引きゃあがれ」いまいましそうに立ち去ってゆく後から、弥平も下っ引の肩を
かり郡代屋敷の土塀の向こうへ消えていった。


御用地騒動

 文久三年[1863]の浪士組くずれから始まって、翌元治元年の歩兵隊解散くず
れ。ついで又その翌慶応元年の募兵解隊くずれと、公儀の方針が代るたびにお払い箱
になって、止むなくあちらこちらを彷徨する手合いがふえてきた。そこで、
「元公儀歩兵の方にて、府内より旅だたれる衆には、路用の草履銭をさしあげる」
 京橋白魚屋敷の土地建物を売り払って、又もとの箔屋(はこや)町へひき移った相
政は、その六百両を一分金に換えさせ、江戸から出てゆこうとする者に二分ずつ渡し
て落してやった。
 それでも野良犬のように、町の自警団に撲殺されて、柳原土手や吉原田甫に転がっ
ている屍体が、日に二十も三十もあったから、
「町の衆ってのはお上には弱くて云いなり放題だが、弱い者だと酷いことをするもん
だね」
 政五郎は子分たちに大八車を曳いて廻らせ、引取り人のない遺骸を集めてこさせる
と、麻布宮村町の内田主殿頭(とのものかみ)空地前の長玄寺の和尚に頼んで、畳四
畳分もある大穴を掘って、そこへ次々と積み重ねにして葬った。
 さて、慶応四年[1868]七月十七日にこれまでの江戸が、「東京(とうけい)」
と名をかえた九月八日から、「明治元年」となると、従来の町奉行所は五月限りでな
くなっていたし、又それまで、「不浄役人」とよばれていた町方などに、誰もなりて
はなかった。そこで、「常備兵」の名称で解散された歩兵を募り、これを巡羅とした。
しかし殆どが食い詰めた末になった者ばかりだから始末が悪い。
「飯をくわせろ」「酒を呑ませろ」
と無銭飲食から始まって吉原へくりこみ、
「ただで遊ばせろ」刀を抜いて暴れ廻る有様。
 楼主の方も扱いに困りはて、あまり売れないのを見たてて、
「使って減ずる物ではないのだから」と、いい含め枕席に出してやると、
「こんなすべたが抱けるもんか。もっと上玉を出せ」と文句をつける。
 それではと仕方なく、お職をはっているような器量良しを伴ってゆくと、
「うん気に入った。身受けしてやる。金は屯所で払ってやるから取りにこい」
 手をとり足をとって、いやがる者を担いで行ってしまう。それには吉原会所でも困
りはて、寄り集まって知恵を搾ったあげく、
「旦那方は地理不案内で何かとご不便でございましょうから」
と旧幕時代の岡っ引や下っ引を、「案内人」の名目で屯所へ送りこんだ。
 この連中は徳川家が瓦解し町奉行がいなくなっても、給金や手当は吉原会所から貰
っているから効き目はあって、ぷっつり吉原へ迷惑を及ぼす事はなくなった。が、そ
の代り、
「共同便所みたいな女郎あさりなぞすることはありません。何処どこの町内には、ぽ
っちゃりした良い娘がいます」とか、
「旧旗本御大身の奥方ですが、まだ若くて二十才前後の美しいのが居ますぜ」
などと、自分らが目星をつけておいた家へ巡羅達を手引きして連れ込む。そして、
「まずは、案内役が、お毒味を‥‥」
 下っ引や岡っ引はかねての思いざしをまっ先にとげると、一同が順ぐりに済ませた
後は、旧幕時代の馴染の女衒(ぜげん)をよんできて、その場で、
「何処の宿場女郎に叩き売っても構わんで、たんまり値をはずめや」
 死んだようになっている女を、駕に入れさせ売り払ってしまう。もちろん家人が、
「これで如何さまで‥‥」と女衒がつけた値より多くの金子を差し出せば、
「よし、お上のご慈悲で勘弁してやらあ」
と引き上げもするが、もし手向かいしたり邪魔だてしようものなら、後が面倒になる。
 何かと難癖をつけ腰縄をうって屯所へつれこみ、何日も仮牢の中へぶちこんでおき、
すっかり弱りはてた処で引っ張りだし、でっちあげの自供書を勝手に書いて署名や捺
印をさせてしまう。こうなっては蛇に見込まれた蛙も同然。御一新までは武士だ旗本
だと威張っていた者も、からっきし意気地がなくなっているから、町の者と同じこと
で、
「お上の御憐憫を‥‥」と金を作って歎願にゆくしかない。だから巡羅を使っての目
明しや下っ引のやり口は百鬼夜行の有様。
 これには政五郎もげっそりして、
「天朝さまの世の中になったというに、何てこったい」しきりに慨嘆していると、
「ねぇ、おまえさん。四年前の浪士組騒ぎのときに金がいると、京橋白魚屋敷の地所
を伯父に六百両で買ってもらったけど‥‥そこへ今朝巡羅方がきて『御用地』という
立札をたて、伯父が御勘弁を頼みに行ったら、二千両もってこいと脅され、とっても、
そんな大金は工面できないと泣きついてきました」
 二度目の女房お照が訴えにきた。
「そうか。巡羅方は田舎者揃いだが、蔭で糸をひいている奴らが八百八町をよく知り
つくした悪なんだ‥‥諸々方々で取れそうな土地を狙って御用地の札をたて、脅して
地主から金をいたぶっているとは聞いていたが、京橋の土地は手放したとはいえ、俺
と訳ありと知っていて、そうした真似をしくさるとは、こりゃ俺への挑戦だなあ」
と腕組した政五郎は、若者頭から元締代理に昇格させてある平助をよびにやり、
「いくら悪い奴等でも巡羅方となりゃ御上ご威光というものがあらァ。とても素手じ
ゃ掛ってゆけねぇから三枚葉の山内さまの高張り提灯と、白黒二の字の御紋入りの法
被をきた奴を百ほど集めろ」
といいつけ、平助が、
「‥‥火事場へ出るんなら、土佐山内二十四万石の装束や仕度をしても構いますまい
が」
 心配して意見がましいことを口にすると、
「判ってらい。だが山内さまお出入りといっても此方とらは無官の太夫。別にお扶持
をいただいているわけでもねぇんだから、そうでも恰好つけにゃあ、さまんなるめぇ」
 すぐさま手配をつけさせ、百名の元気のよいのを従え、いまの歌舞伎座裏の真福寺
橋を渡って白魚屋敷へ向かってゆくと、
「‥‥来ゃあがったか」
と鉄砲をもって待ち構える巡羅方の後から出てきたのは、弥平と与五郎の二人。
「いくら物騒な世の中でも、二千両届けてくるのに百人からの護衛とは大げさな‥」
 年はとっても慾の皮の突っ張った二人は、憎々しげにいい放つと、
「何処へ積んで持って来ゃあがった。竜吐水の車か」
 互いに顔を見合わせ、巡羅方のスナイドル銃に守られている気安さから、
「二千両の他に政五郎、てめえには土下座でもしてもらおうか」と側へよってきた。
「目明しや下っ引ってのが、だにみてぇに執念深いものとは聞いていたが、てめえら
は遠い昔の見当違いの逆怨みをまだ持って、おれをいたぶって金にする気かい‥‥い
くら死欲をかくとはいえ呆れたもんだ。可笑しくって、びた一文も呉れてやるもんか」
と政五郎が啖呵をきると、
「この前は邪魔者が入ったから助けてやったに、その恩を忘れやぁがって」
 仙台屋与五郎は腰をひねって大刀をぬき、
「野郎ッ‥‥」と頭の上にふりかぶった。
「この処、巡羅方と組みやぁがっての悪業の数々‥‥いつかは懲らしめてやろうと思
ってた処が、天の与え給うた好機到来だ」
 政五郎が下知すると、斬りかかってくる与五郎目がけて竜吐水を受け持った若い衆
が、
「それッ」と掛け声を揃え、五台のポンプから水を一斉に浴びせかける。
 これには与五郎だけでなく、弥平も一緒にひっくり返ってしまい、
「巡羅方の旦那。ぶっ放して撃ち殺しちまっておくんなさい」と悲鳴をあげると、鳶
口を構えた百名の者は異口同音に、
「ふざけるな。一発でも撃ってみろ。頭のてっぺんに穴をあけるぞ」
と前へ進みでる。
 一触即発。今にも巡羅方と相模屋一家が血の雨を降らさんとしたとき。いまの昭和
通り、当時の三十間堀越しに走ってきた馬のりの壮漢が、双方の中間にまっしぐらに
飛び込み、
「おれは土佐の板垣退助だ‥‥山内家の者と巡羅方との喧嘩ときいて止めにきたぞ」
と大声でよばわった。維新戦争の各地の戦いで、板垣退助の名は聴こえていたし、後
年、(板垣死すとも自由は死せず)で有名な演説家である。続けて、
「こらッ巡羅諸公、諸君の中には浪士組くずれや歩兵隊解散で路頭に迷ったとき、二
分ずつ貰った者はいないか。その金はこの男がこの土地を手放し調達したもので、千
二百名の者がそれで犬のように撲殺されず逃げ伸びた筈である‥‥もし受取った者が
此処にいなくても、話ぐらいは耳にしていようが‥‥」
 鞍の上からいい渡すと、巡羅たちはみなはっとして、
「済みません」
しゅんとしてしまって、政五郎に捧げ銃(つつ)の礼をすると隊伍を組んで、こそこ
そ決まり悪げに駆け足で引き揚げていった。

 翌明治二年、水天宮の川向こう箱崎町に、土佐山内家の新邸が普請された際、政五
郎は山内容堂によばれ、お庭拝見を許された。
 そして翌年正月に年賀に伺候すると、
「板垣退助が、おまえに事あるたびに山内家の紋章ものを持ち出されて暴れられては
困るからといいおったゆえ、捨人扶持しかやれんが正式に政五郎、其の方を家来して
とらせる」と沙汰された。
 ついでに、山内姓も許すといわれたが、
「勿体ない」と、こればっかりは固辞して、「山中(やまうち)」の姓にかえて貰っ
た。のち次男道之助に跡目を譲って新富町へ隠居したが、長女貞の婿の沢村田之助が
脱疽で手足を切ると、
「だるまになっても亭主は亭主だ。ちゃんと面倒みるのが女房の勤めってもんだろう
ぜ」
 政五郎は紀の国屋とよぶ芝居茶屋や沢村座まで買い与え、暮しの面倒をみてやり、
「男と女ってものは助けあい庇いあいだぜ」
 口癖のように娘の貞にいいきかせていた。最初の女房の美代と、いつも云いあって
いた言葉である。


相政は二人いた

 今では川はつぶされてしまい、東京シティエアターミナルに代ってしまっている。
 政五郎が実在だし立派な人物だったのに、あまり知られていないのは、当時、横浜
の関門で口入れ屋をしていた同姓同名の相模屋政五郎がいて、その方が知られていた
為もある。
 また元来が、ガエンとか目明しは弾左衛門輩下の特定な業種なのに、政五郎は筋違
いというか、支配下に入っていなかった。それに若気の到りというか弾家六人手代衆
のうちの、「四郎兵衛」とよばれたのが吉原会所を代々にわたって、溜で押さえて仕
切っていたのにタテをつき松屋町囲地から、商売の玉の女たちの足抜きをし営業妨害
したのを憎まれていて、「半可打ち」つまり場違いとして白眼視されていたのも、今
にしてみれば考えられる。