1041 江戸侠客伝  7

身代わり仇討ち

「大丈夫ですかい、金さん。おめぇさん、あんまり危ないこたぁしねぇがいい」
 さすがに政五郎は心配して止めたが、
「まかせておけ」と金四の方は、髷をといた上へ手拭いを冠り、落ちないように鬢止
めにした頭をふってみせ、両手を突っ張り、
「似合うかい」
 美代の普段着をつけた女姿を見せてから、
「今日の捕物が亀島河岸だってのは間違いなかろうな。もし違っていたら事だぞ‥‥」
 夜鷹の茣蓙みたいに長刀を菰にくるくる包んで、小脇に抱え込み、にやっと金四は
歯をみせた。
「そこは金さん抜かりはない。よい上玉が捕えられたら注文先があるゆえ、銭はたん
まりはずもうと巧くもちかけ、まんまと今夜の捕物の話は番頭に聞き出させたんだ」
 にっこり政五郎もうけあうと、
「この恰好じゃ歩いてもゆけまい、紺屋町まで駕を呼んでもらおうか」
「呼んでありやすから、おっつけ迎えには来ましょうが、お一人で大丈夫ですかい」
 しきりに政五郎は気を揉んだが、
「茶番にひと暴れしてくるぞ‥‥」
 駕がくるなり、さっさと乗り込んで、今の神田鍛冶橋にあたる地蔵橋までゆき、そ
こから岡崎町の御組屋敷の並んだ通りを、与作屋敷の坂になっている河岸へでた。
 まさか今夜手入れがあるとは知る由もない女たちが、湊町の御船手奉行のお止め場
からぞろぞろ川口町へわたってくる艀(はしけ)人足共へ、
「ちょッちょッ」
鼠鳴きで客引きしていて、月明りでも三十人の余は立ち姿がみえる。
 そこで金四が、
(こりゃ横になっているのも加えたら、五十の余にもなろうが)
と目算している処へ、
「御用だあッ」という声が響いてきて、
「かりこみだァ」
 橋をふさがれ水谷町の方から、袋の口が締められるように下っ引の群れに追われた
女達が悲鳴をあげて逃げてくる。
 がすぐに六尺棒で背後から足を払われ、情け容赦もなく後手に縛られてしまう。
「まるで獣を追いこんで捕まえるみたいだ」
 初めて眼にする狩り込みに、金四が茫然としていると、下っ引連中が側へ寄ってき
て、
「今晩は俺達が可愛がってやり、明日からは野っ原でなく家根(やね)のついた所で
商売させてやる。さあ、とっとと来やぁがれ」
 夜鷹の一人と思い、つかみ掛ってきた。
 が、金四は肩を沈め、相手をすってんどうと投げ飛ばしてしまうと、六尺棒で足を
払ってくるのには、ひょいと飛び上がり、ついでに爪先で向こうの胸倉を蹴りあげた。
これには、
「手向かいしゃあがるのか?」
 びっくりした下っ引の面々も後へ退り、
「神妙にしゃあがれ」遠巻きにして囲んだ。
 しかし金四は菰包みの侭の刀を降り回し、
「どけ」と下っ引を蹴散らし、縛られた女達の処へ駆けこんでゆくなり、
「さぁ早く逃げろ。ここは食い止めてやる」
 片っ端から縄を切りほどいて助けてやり、抜き放った太刀を振りかぶった。すると、
「てへえッ」驚いた下っ引連中は、どぎもを抜かれてか一人も掛ってはこなかった。
 そこで金四は着ていた女物を丸めて肩に担ぐと、襦袢一枚の恰好で相模屋の裏口か
ら、
「おう、巧くいったぞ」と、ざんばら髪で帰ってきた。そこで政五郎も話をきき、
「ああたってお人は、たいしたお方だ」すっかり舌をまいて感心した。
 処が二月あまりたった頃合い。番頭が、
「お酉さまで吉原(なか)も忙しくなるから人手増やしでしょう、今晩あたり大掛か
りな女狩りをやるって、また、下っ引が言ってました」
 八丁堀へ奉公人の目見得をつれてゆき耳にしてきたのを教えた。だが金四に知らせ、
(また女装して出かけられ怪我でもさせてはいかぬ)と気遣った政五郎は、
「そうかい。じゃあ今夜は騒々しくなるだろうから、早仕舞にしな」
 何食わぬ顔でいってのけ店の大戸も早くおろさせた。しかし、むしゃくしゃしてい
た。
「おまえさん、縁側で一杯おやりなさいな」
 この処また時候の変り目で元気のない美代だったが、気を使って酒の仕度をしてき
た。
「いいって事よ、それよりおめぇは寝てな」
 床をとってやると、政五郎は身を案じて無理矢理に寝かしつけた。
 すると庭から金四が帳面をもって、
「本日の付け合せを‥‥」と姿をみせた。
「こりゃあ」と政五郎は困った顔をしたが、
「まぁ一杯」手にしていた猪口をだした。
「これは恐れ入る」と金四は、酒の相手ほしさなのかと縁側へそのまま腰をおろした。
 が、くみかわしているうち、つい、
「じつは今晩またなんですぜ」洩らすともなく、政五郎はしまったと想ったが口にし
た。
「そうか。やろう。だが助けるなら囲地の中まで入って皆かためて面倒みたいな」
 金四がはりきったので政五郎も引き込まれ、
「金さん。彼処(あそこ)にゃ下っ引が役得代りに、ただで檻の女に悪さが出来るか
ら、夜でも十人近くはとぐろをまいてる。もし檻破りをしなさるんなら、わっちも今
度は行きやす」
 生き残りの薮蚊が飛んでくるのを、ぴしゃりとやりながら政五郎も口にした。
 というのも、美代の仇をとりたい一心もさる事ながら、三年前に自分の眼でみてき
た檻の有様が、あまりにも哀れにすぎたので、
「まるっきりの地獄図絵だ。あんなにむごい事は許しておけるもんじゃねぇ」
 酔いも手伝ったが、しまいには肩を怒らせ政五郎は、自分一人ででも出かけそうに
腰を浮かせかけた。
 そこで金四も、
「うん‥‥」自分で言い出したものの、
「大公儀北町奉行所御用の囲地(かこい)とあっては、まさか女に化けても潜りこめ
まい。なんとか思案や手だてを先に練っていかねば、ひとつ間違うと飛び込むはよい
が袋の鼠だ」
 盃を含みながら首をひねった。
 しかし囲地を襲って仕返しを思い込むと、若いだけに政五郎は矢も楯も堪らない。
「よっしゃ人手がいるなら賭場へでも行き、助っ人を集めてこよう」立ち上がりかけ
た。
 処が美代が唯ならぬ気配に襖をあけ、
「おまえさん私いとしさに仇をとってくれよう志は嬉しいが、あんな所へ入り込もう
とは、飛んで火に入る夏の虫‥‥」
 寝ながら話を洩れ聞いたとみえ、這いだしてきて政五郎の着物の裾をひっぱった。
「うん」困っていると脇から金四も、
「他聞を憚る事に、知らぬ者を集めるのは‥‥」
 これも頭ごなしに反対した。そこで、
「どうすりゃいい」むくれて政五郎が顔を歪めると、金四は事もなげに、
「ここへよく出入りする神田め組の辰吉に、そっとわけを話し、竹梯子を担いで、つ
いてきてもらえばそれで済もうが‥‥」自信があるのか、僅か三人での討入りの手筈
を決めた。が、美代は心配して、
「行かないで」と、あくまでも繰り返してとめた。


め組の辰吉

 秋の月というのは黄色いようでも青く透けている。
 その光を浴びて政五郎は尻っ端折りをした上に、辰吉から借りた刺子半天。
 金四もうすら寒いのに、両腕の桜の刺青をことさらに出した腹掛け一つ。そして器
用に鳶口を大刀の柄口に結びつけ、長鳶の恰好でそれを背にくくりつけている。
 辰吉は本職の鳶だけに、さも火消しの戻りのように、わざと煤けた顔をして竹梯子
を、曳きずる恰好で担ぎ後からついてゆく。
「これなら町方の定廻りに行きあっても、見咎められはすまい」
という心安さから大手をふって、どんどん常盤町から橋を渡った。
 しかし囲地の正面から、まさか運んできた梯子を勝手に掛けられはしない。
 そこで白魚橋に面した川っぷちの白土塀に、長く尾を曳いた影のみえる柳の木をみ
つけ、それに匿れるような恰好で青竹の梯子をたてかけ、塀の上によじ登ると梯子も
引きあげ地面へ逆に降ろした。そして、辰吉に、
「済まねぇ、これで助かった。後は表の木戸口なり裏口なりを叩っ壊して帰るから、
おめぇはもう戻ってくんな」
 礼をいって引き揚げさせようとしたところ、
「ふざけちゃいけねぇ。駕屋じゃあるまいし目的地へ送ってきたからって、はいさよ
うならと戻ってゆけるもんか。友達甲斐のねぇ事をいいやぁがるな」頑として帰ろう
としない。
 そこで前に来たことがある政五郎が先登になり三人揃って建物内に入りこむと、鼻
をつく汚臭のむんむんする檻が並んでいる。
「こうなると女も色気がなくなるもんだ」
 突き当たりに一つだけともっている松仕手たいまつの明りで、辰吉がおっかなびっ
くり覗きこんでいるのに、政五郎は小声だが、
「ぐずついちゃあ居られねぇんだ」
と背中をつついて腰にさしてきた鋸の一つを手渡し、早く丸太格子をとせっついた。
 濡らした方が音がしないというので竹筒をもってきた政五郎は、辰吉がごしごしや
っているのに水をかけ、どうにか一本切り放し、
「下の一本をやれば中から出てこられよう」
 代って政五郎が鋸をひいていると、
「ちょッとってば‥‥」
 向いの檻の女が目ざとく見つけ声をかけてきた。そこで手をあかした辰吉が、
「間ってな、そっちも順にあけて逃がしてやるからな」といってやったのだが、
「きえッ」
 脅えきっている処だから、すぐ辰吉が巻き舌で答えたのに驚いたのか悲鳴をあげた。
すると誘われたように他の檻からも、
「ひえッ」笛を吹くような叫び。そのうち、
「た、助けてぇ」と泣き喚く騒ぎとなってきた。だから辰吉が舌打ちして、
「女ってのは悋気の深いもの‥‥此方の檻から手掛けたので、てっきり情婦(まぶ)
か何かが助けにきたもんと勘ぐりゃあがって‥‥」
 いまいましがっていると、丸太の切れ目から這い出してくる女達へ金四が手を貸し
て引っ張ってやりながら、
「早くこれだけでも囲外へ逃がしてやれ」
 一喝するように背後から浴びせかけた。
 というのは、騒ぎをかけつけた下っ引き連中が、手に手に樫の棒をふり廻し、
「檻破りとはふてぇ事をしゃあがる」
「叩っ殺しちまえ」駆けてきたからである。
 政五郎はかねて覚悟はしていたから、
「よっしゃ」と鋸でひき切りにした皮丸太を抜き出し、これを構えて一足進みでて、
「来やぁがるか」とばかり怒鳴り返した。
 しかし金四は、その前へ出て己れの体で遮り、
「俺は宿なしで貴公の厄介者だが‥‥おぬしにゃ店もあるし女房どのもいる。ここは
勇み足をせんと、辰吉を助け女達を逃がしてやったがよい」身代わりをかって出よう
といいだした。しかし、
「そう云われたって‥‥」
 政五郎は力味かえって拒もうとしたが、
「駄目だ」頭ごなしに一喝された。
 相模屋の店にいる時は主人と帳づけの間柄のうえに、金四は転がり込んできた居候
だが、やはり武家出というのは違うもので、こういう時ぴしゃりとやられると、
「うん」政五郎は丸太を放り出し裏へ抜け、まごまごしている女達を上の辰吉の処ま
で、押し上げるように登らせてから、又これを一人ずつ地面へ逃がしてやった。そし
て、
「みんな思い思いに散らばれ。いいか、いくら食う為とはいえ、金輪際もう夜の商売
なんかするこっちゃねぇ。ひとつ捕えられたら骨(こつ)になるまで舐(しゃ)ぶら
れるんだ」
 いって聞かせて、また塀の上へ駆け戻り、
「組の竹梯子だから放ってもおけまい。済まねぇが持ち戻ってくれろ」
と辰吉の方へ梯子を押そうとしていると、
「そっちじゃねぇ」と下からの声。
 振返ると、巧く逃げ出してこられた金四が土塀内から手を出して呼ばわっている。
そこで梯子を引っぱりあげて旧(もと)へ戻し、追われてきた金四を塀の上にあげ、
「いいですかい」と、また竹梯子を一回転させて地面へおろすと、
「それっ」とばかりに滑り降り、辰吉ひとりに担がせていては足が遅くなるから、政
五郎や金四も梯子の後先に首をつきこんで、
「わっしょい、わっしょ」お祭りみこしのように逃げ出した。


江戸の洪水

 しかし一度なんなくやってのけ、たとえ何人でも女を救い出し、岡っ引の鼻をあかし
たとなると、やめられる事ではない。
  天保五年の春は、二月七日から月半(つきなか)まで三回も続けて大火があったか
ら、その火事騒ぎにまぎれて、め組の辰吉の手引きで囲地を二度も襲って捕えられて
いる女達を助けた。
  が、こうなると町方でも、
(相模屋の政五郎がくさい)目星をつけてきたらしい。うろん臭い奴らが様子を探り
に、
「ひとつ働き口をお願いしやす」
 殊勝ったらしい口調で入れ替り家の中を覗きにくる。
 しかし相模屋は店の者の食事も弁当屋の仕出しをとっているから、女っ気は蒼い顔
をした美代一人しかいない。いくら嗅ぎ廻っても、囲地にいたような白粉臭い女なん
か影も形もないから、すごすごと戻ってゆく。そこで政五郎が、(ざまぁみろ)内心
ほくそえんでいると、
「おう政五郎ってのはお前さんかい」
 十手の先で暖簾の端をもちあげ、ぬうっと入ってきたのがいる。誰かとみると、町
木戸の番太郎上りだが今では、「堀留の弥平」とよばれるところの岡っ引。
「こりゃ親方、滅法このところ陽気もよくなっていいお日よりで‥‥」
 当らずさわらず愛想よく出迎えると、
「そんなことを聞きに来たんじゃねぇ」
 仏頂面で十手の先で己れの顎を持ち上げ、
「おめぇ親代々の結構な稼業をしていながら、夜遊びがすぎるんじゃねぇかい」
 三白眼でぐっと睨みすえてきた。
「へえ、このことで‥‥」
 政五郎が壷をふる手真似をしてみせると、
「そんな手慰みじゃねぇや、とぼけるな」
 噛みつきそうな顔をしてみせたが、相模屋は箔屋町で代々の家作持ち。町内の顔と
いうものがあるから、流れ者が根をはやした岡っ引風勢(ふぜい)では、おいそれと
手が出せぬのか、
「おう邪魔したな」
 いやみたっぷりに唇をまげて出ていった。
 話はそれだけだったが、
(岡っ引の弥平と相模屋が張り合っている)
と噂が弘まったらしく、岡っ引に咎められたり狙われたりしている連中が、それを伝
えきき、
「ひとつ、お盃をやっておくんなせぇ」
 陸続きという程でもないが日に二人三人とやってきた。丁度、春さきの参勤交代の
時節。お供揃えの人手が不足して猫の手を借りたい程ゆえ、政五郎は片っ端から、
「働いてくれるなら良かろう」
と子分にした。そこで、翌天保六年には、その頭数が三百にもなる大世帯となった。
 もちろん遊ばせておくわけではなく、仕事には出しているが、これだけの数になる
と一割位はいつも残ることになる。
「美代を貰って頂く時に何かしようと思ったが、それではおまけを付けるようで本人
も辛かろうと見送ったが‥‥ああごろごろされていちゃあ、塩梅の悪い日でも美代は
横になれなかろ」と新右ヱ門町の小間物屋が大工をよこして、若者部屋の増築を二棟
もしてくれた。
 そこで去る者は追わず来る者は拒まずをしているうち、夏には五百からに頭数が増
えた。
 さて六月に入ると、一日から休みなしに雨が降り続き、とうとう二十七日には、
「溢れてくるぞ」という騒ぎになった。
 そこで江戸橋から一石橋までの、日本橋の高札場を挟んで並ぶ蔵屋敷から、
「河岸縁りに土嚢を積んでくれ」
という注文がきて、蓑笠つけた政五郎が、
「日本橋の此方岸には得意先の青物市場もある。それに御高札の立て棒に水などかぶ
られたら、日本橋っ子の名折れになるぞ」
 居合わせた七、八十人の若者をひきつれ、蔵屋敷から出してもらった古俵や叺に泥
をつめ、
「いいかい。隙間なく積み上げるんだぜ」
 自分も縄を引っ張って結びつけていると、
「やい相模屋、ここにいやぁがったか。天網恢恢祖(てんもうかいかいそ)にして漏
らさずというが、おめぇが囲地破りして逃がした女の中で、恐れながらと訴人してき
たのが居るんだ」
 現れた堀留の弥平が背後から怒鳴りつけ、
「それッ召捕ってしまえ」
 伴ってきた捕方にいいつけた。
 これには政五郎も呆れ、土嚢の上から、
「何をいってやぁがる。この連日の雨で小石川新堀が溢れ、こっちへも水が及んでこ
ようと大騒ぎしているってのに、馬鹿も休み休みいやぁがれ」
怒鳴り返した。しかし、
「ちゃんとして証人が出た以上、いくら土地者のおめえでも、お上御威光にかけて見
逃しなんぞ出来るもんか。神妙にしゃあがれ」
 弥平は十手を振って土嚢に登ってきた。
「よしゃあがれ。仕事の邪魔だ。どかねぇと泥俵の中へ突こんで、川ん中へ放りこむ
ぞ」
 政五郎も樫棒をかまえ仁王立ちになった。
 すると、ふりしきる豪雨の中から、
「わあッ」雨をはね返すような喚声が近寄ってくる。そこで何だろうと耳を澄せば、
「親方‥‥捕的(とりてき)の加勢だぁ」
 脇で身構えていた棒頭が大声で怒鳴った。
 ここ二年ごし、しばしば松屋町宗印屋敷の囲地を荒され、せっかく銭にしようと集
めてきた女達を逃がされ、面白く思っていない下っ引連中が、相模屋召捕りときいて
駆けつけ、
「堀留の‥‥合力にきやした」
 翁稲荷や通一丁目の聖天橋稲荷の方角から、それぞれ五人十人、雨の中を鉄砲玉の
ように飛び込んできたのである。
 驚いたのは蔵屋敷の役人達で、吹きぶりの中へ飛び出してきて、てんでに声を嗄
(か)らし、
「まあ待て、待て」
「ここに並ぶ四十棟の御蔵には、ご府内旗本八万騎の御扶持米が入っていて、これを
流されては吾らは詰腹ものじゃ。頼む、鎮まれ」
 両手をひろげて捕方を抑えようとしたが、
「人数を揃えなくちゃあ捕えられない相手。ここで見逃すってことぁねぇ」
 頑として聞き入れようとはしない。
 青物町、呉服町、平松町の町内年寄家主もそれぞれ集まってきて、
「ここで溢水されたら、御蔵米だけでなく吾ら町内も流され、女子供の溺れ死にもで
よう」
「土嚢積みに手を貸しなさるのならまだしものこと‥‥邪魔しようとは何たる了簡」
 よってたかって捕方に文句をつけたが、
「何をいってやぁがる、お上の御用すじに文句をつけるんか」
 普段はぺこぺこして銭貰いに歩く奴が、いたけ高になって十手を振り廻しては脅す。
 ところが、そこへ政五郎召捕りの噂をききつけ子分共も、これまた篠つく雨をつき、
「親分の大事」とばかり、次々に駆けつけてくる。
 こうなると政五郎のいいつけで懸命に、泥俵を黙々と作っていた連中も、
「棒頭、もう我慢がならねぇ許してくんな」
 堪りかね畚(もっこ)担ぎの天びん棒を握って、次々と集まってくる。そこで兄い
株の棒頭も、
(もし弥平が側へよってきたら叩きのめす)気でいたところゆえ、大きく合点して、
「よっしゃ」と一同の指揮をとろうと、土嚢の山から駆け降りようとすると、
「てめぇら喧嘩しに‥‥此処へ来たんじゃあるめえ」割れ鐘のような政五郎の声。
 その一喝に子分共が縮まっていると、政五郎は自分が代って弥平の立っているとこ
ろまで、ひとりでとっとと進んでゆき、
「どうでぇ親分、ものは相談だが、この俺一人さえ縛られたら、この侭で土嚢積みは
させてくれるのかい」と声をかけた。
「あた棒だ。てめぇさえ神妙にしゃあがるなら、他の半端人足なんかにゃ用はねぇ」
「そうかい。なら縛れ」
 政五郎は両手を前へぐっと突きだし、
「おいみんな、仕事の邪魔にならねぇよう、俺はこの姿で引き立てられて行くんだ。
てめえらは日本橋一帯を守るために築く土堤だ、息ひとつ抜くこともならねぇぞ」
 駆け集まってきた後の連中にも、きっとして云い渡した。


調度よい話

 この天保六年六月二十七日の江戸大洪水の被害はひどく、本郷、飯田橋から本所深
川まで、すっかり水に浸って、流された人家二千、溺死者千六百、馬匹二百という惨
状だった。
 が日本橋界隈だけは相模屋一家の死者狂いの土堤づくりで、殆ど被害を受けずに済
んだから、町会所へあつまった各町の肝煎や家主が連名で、月番南町奉行筒井和泉守
へあて、「相模屋政五郎放免方」を願い出た。
 日本橋の高札場を冠水から救った上に、公儀蔵米を浸水から救った手柄もある事ゆ
え、奉行じきじきに調べてみると、政五郎が両三度松屋町囲地へ忍びこんだのも、も
とはといえば、物盗りに入ったわけではない。
 吉原会所から云いつけられて、岡っ引が、只働きさせよう為に集めてあった女達を
逃したのは、いわば彼ら目明しのアルバイトの邪魔をしただけで、公儀には係り合い
のない話。
 そこで即日放免のうえ、
「洪水の節の相模屋の働き神妙と、小普請奉行どのよりも、御褒めの言葉があった」
 青ざし一貫文の下され物まで出た。
 奉行所の門まで送られて出てくると、日本橋三十二町の名代がずらりと出迎え、町
内の鳶の頭が木やりをうなって箔屋町まで行列をたて、鞘町と塗師町の角までくると、
「相政」の白文字を浮かした揃いのはっぴ姿の子分一同が、ずらりと町の両側に並び、
「お帰りなさいやし」挨拶する声が打ちあげ花火のように響く。

 これを人垣の後から覗き見したのが、いまの人形町の先の源氏店、芝居では、「玄
次店」の名になっている傾斜の巷で、小料理屋をやっている芳野という器量の良い女。
これが政五郎の牢やつれした青い顔を、じっと穴のあく程見詰めていたが、人ごみに
揉まれ当人は気づく筈もなかった。
 さて芳野は、かねて話のつけてある修験者正一法印という者の、拝み堂へすぐその
足でおもむき、加護の護摩をたいている最中だったが、
「政五郎が出てきましたよ。早くなんしておくんなさいまし」とせかした。
「そうか、今日が出所であったか」
 法印も周章てたが、すぐ御弊を担いで相模屋へと出かけた。
「せっかくですが法印さん、いま親分は町内の年寄連中の祝宴につかまっていなさる
が、おっつけ此方へ戻ってこられる取りこみのところ、ひとつ御用は明日にして頂け
ませんか」
と子分が出てきて迷惑がるのに、
「何をいう、ここの内儀さんの加持祈祷にいつもくる正一じゃが、今日はすぐにもお
祓いせんと命にかかる事柄が起きたゆえ、それで取る物もとりあえず、かくは急いで
参上したのじゃ。すぐ取次がっしゃい」と怒鳴った。
 こと人命に関するというのでは放っておけない。そこで法印を奥の間に通したとこ
ろ、
「これは御内儀様、てまえ拝み堂で護摩をたいていたところ、御顕示があり案じて駆
けつけて参ったが、やはり兇相がでている。こりゃ今夜のうちにも御寿命がつきてし
まおう‥‥」じっと美代の顔を見据えたまま、白紙をつり下げた榊でお祓いしつつ口
をつぐんだ。
 これには美代も、びっくり仰天。
「え、今夜にも死んでしまいまするのか‥‥せっかく夫が戻ってくるというに」と泣
きくずれた。法印は鹿爪らしい顔をして、
「戻ってこられるゆえ、それで、お命が危ないのじゃ」
と、はっきりいってのけ不審がる美代に、
「夫どのが戻ってござらっしゃったら、何をされまするぞ」大数珠をまさぐりつきい
た。
「はい、いま町内のおよばれで寄り道してますけど、戻れば私のつけておいた漬物で、
お茶づけなど食べまするが」
「その後は‥‥」
「はい、寝ます」
「横になられてからは?‥‥」畳こまれ、
「そりゃ御牢にずっと入ってました事ゆえ‥‥久しぶりに」と顔を赤らめた。
「そうじゃ。それが命とりになるのじゃ」
 法印はきめつけるようにずばり一言。
 そして、おろおろする美代に優しく、
「幸い、わしの加持している女ごに、困った人をお助けしたいと申す奇特な女ごが居
る。如何であろう身代わりをさせなすったら‥‥」
 やんわりした口調で有難そうに話した。
「ほんとうでございますか」ほっとしたように美代も愁眉をひらいた。そこで、
「まこと有難いことで‥‥」
と礼金を包んで法印を帰すと、戻ってきた政五郎が、何も知らずに寝間へ入ろうとす
るのを、周章てて押し止め、
「わたしは半病人みたいな具合で嫁にきて、おまえさんには行き届かぬことばかりで
済まなく思ってますが、ものはついで、これからなさろうことも、なんとか他所で間
に合わせておくんなさいまし」両手を合さんばかりにして頼んだ。
 これには政五郎も呆気にとられ、
「馬鹿も休み休みいえ、おまえという女房がありながら、別に隠し女なんか作れるか
よ」
 むきになっていいはったが、
「初め悪ければ後悪しで、私のあすこが今も病むのは、おまえとてよく知ってもいよ
う‥‥助けると思っていうことをきいておくれ」
 法印にいわれたお告げまで荒いざらい口にした。しかし政五郎にすれば、逢った事
も見た事もない女の話ゆえ渋い顔をして、
「今から行けったって、おらぁいやだ」
と断った。そこで困った美代は、
「向こうは待っていなさるんですよ。せめて行くだけでも顔をみせに行っておくれな」
 拝まんばかりにかきくどいた。だが、
「浮気は男の甲斐性というが、なにも女房にすすめられてまで‥‥」政五郎はごねて
首をふった。
 そこで美代は色白な蒼い顔をくもらせ、
「これからはおまえも何か付き合いが多くなろうが、わたしがこの有様では客人の持
てなしどころか‥‥着替えて挨拶に出るのもおっくうな話。ところが小料理屋をもっ
ている人がそうなったら、何かにつけて利便ではないのかえ」といいだした。
「うん」そこまでいわれては仕方もなく、
「では、どんな女か逢うだけでも逢ってみよう。もし反吐の出そうな女なら、いくら
おめぇにいわれても願い下げだ」
 ふくれっつらで駕にのせられ、仕方なく芳野のやっている小料理屋まで行ってみる
と、
「‥‥まぁ来て下さいましたか」
 涙ぐんで迎えられる有様。それに客商売とはいいながら、これまで男苦労を重ねて
きた女らしく、扱いのこつを知っているから、「煙草」といえば「煙草盆」、よく気
がつく。
 政五郎が酔ったふりをして絡んだり、文句をつけて厭味をずけずけ口にしても、
「すみません」と詫びっぷりもそつがなく、すこしも逆らおうとはしない風情。
 今も昔も、男はえてしてこういう女に弱い。
 すっかり情が移ってしまって、その晩泊めることになったが、美代と違って自分か
らは注文もつけない。されるが侭になってはいるが、それで締めるところは固くしめ
てくる。
 そして頃合を見計らったように、堪らなさそうな声をはりあげ、やがて恥しそうに
床から出て両手をつき、かしこまって、「申しわけありません」と神妙に詫びをいう。
「なにも謝ることはあるめぇ」
と政五郎はいぶかしがると、芳野は長襦袢の袖口をくわえたまま、消え入りそうな声
で、
「お道具がぴったり調度に合いましたのか、こんな天にも昇るような心地になりまし
たのは‥‥恥しながら生まれて初めてのこと。とんだ取り乱した処をお目にかけ堪忍
しておくんなさいまし」と涙声を出す有様。
「道具とか調度とか建具のような話をされても判らないが、丁度良いのは俺にも判る。
そうかい俺の持物がお前にはぴったりか」
「はい、世の中には浜の真砂のように男も女も多うございますのに、まるで貝合せの
ようにぴったりした御方に逢えるなんて女冥利」
 両手を前についたまま泣き崩れるのに、
「そうかい、合縁奇縁ってのはこの事か‥‥なにも大きな声を発したから聞き苦しい
と、それで随徳寺をきめこむような俺は野暮天でもねぇ」と政五郎も唸りながら慰め
た。