1035 江戸侠客伝  1

                        1996年4月8日登録
                       影丸(PQA43495)

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「江戸侠客伝」(1976年 日本シェル出版刊)


         幡随院長兵衛(ばんずいんちょうべい)

落花狼藉

「た、助けてぇ‥‥」
はてと長兵衛が足をとめ見渡すと、
「だ、誰か‥‥」と商家の小僧が泣きじゃくりながら駆けおりてくる。
 今でこそ道潅山は名ばかりだが、その頃は昼なお暗い程に大木が茂った山。野狐が
でると、山犬が住みついているのといわれた物騒な所。処が王子権現へお詣りするの
には、この山を抜けて参ると御霊験あらたかといわれ、近道にもなるから結構日中は
通る者もいる。
 長兵衛も滝野川端正念院へ行っての帰り途だが、
「どうした、悪い四つ足でも出たか」
 小僧の側へ行って尋ねてやると、
「嬢(とう)はんが‥‥」と上を指さし、泣き叫ぶ。
言われて薮畳とよばれる竹林の方を見上げると、かさかさ揺れて人間の集まっている
気配がする。そこで、
「よっしゃ」とばかり長兵衛が裾を大きくたくしあげ、坂になっているのを駆け上っ
てゆくと、ひいひい聞こえてくる女の忍び泣き。近寄って覗きこむと、むごい話だが
若い娘を寄ってたかって丸裸にむき、着ていたものを褥代りに敷き、その上に仰向け
に寝かせての念仏講のまっさい中。
「この野郎ッ」とびこんでゆきざま、
「昼日中(ひるひなか)になんて真似をしてやあがる」
と、丁度いまその最中の男の髷先を力まかせにつかみあげ、これを引っ張ってひっく
り返すと、順番を待って娘の手足を前後から引っ張っていた連中が、
「邪魔しゃあがるなッ」
「いらざる節介すると叩っ殺すぞ」
 その場においてあった草かり鎌や鋤をふりかぶって、長兵衛めがけて掛かってくる。
しかし山者の四人や五人に囲まれても、それで尻込みするような男ではなく、
「盗人たけだけしいというが、向かってきやぁがるとは天をも恐れぬ輩である」
 腰にさしていた長脇差を鞘ごと抜くと、これで向かってくる鎌や鋤を叩き落し頭や
肩を次々と滅多打ちにしてから、
「おれは幡随院に厄介になっている寺男の元締めで、長兵衛というものだ‥‥今日の
ところは仏さまの慈悲で命だけは助けてやる。が、この次また馬鹿しやぁがったら、
てめぇらの下の鎌首をもぎ取り牝犬にでもくわせてやるぞ」
と、山裾めがけ投げ落したり蹴転がしてしまい、長兵衛は手についた泥を払って戻り
かけたが、振り返ると娘は、初体験だったらしくまだ丸裸のまま放心状態で伸びてい
る有様。
 それをその侭見棄てて立ち去りもできず、熊笹の茂みをかき分け近寄ってゆくと、
哀れや拡げられた個所に豆汁のような白いものをつけたまま、歯をくいしばり眼を閉
じて転がっている。
 仕方がないから腰の下になっている着物を引っ張って、柏餅の葉っぱのように覆っ
てやりながら、
「確りなさいまし、悪い奴らは逃げました」
と耳許へ口をつけ、吹き込むように喋舌って居ると、脇から、
「もう大丈夫でございます」
 泣きべそに砂塵がついて黄粉餅のような顔になった小僧も、叢の中から飛び出して
娘にかじりついた。
 梅の蕾みたいな桃色のぽっちが、胸のところでぴくっと動いたかと思うと、娘はや
っと気づいた。
 が、のぞきこむ長兵衛と顔の合いざま、周章ててくるっと背をむけるよう俯伏(う
つぶ)せになり、わぁわぁ泣きだしてしまった。
 おろおろした小僧は着物を娘の肩にかけ、縄でくくるように帯をまきつけ、
「麓までおりたら駕が拾えます。どうかこの勘助につかまって歩いて下さいまし」
というのだが、まだ前髪だちの十一、ニの小僧に背負ってゆけるわけがない。
 見かねた長兵衛がその場へつくなって背をむけ、
「この侭で放って行っては、仏を作って魂入れずという事になる」
恥かしがる娘に肩をかして山をおり、
「神田須田町の万屋嘉右衛門の娘」
というので駕にのせてからも、上野広小路まで送っていった。
 さて、この侭ですめば天下も泰平だったが、長兵衛に散々に痛めつけられた道潅
山の山者たちは、
「人の縄張りを荒しやがるとは、ふてぇ野郎だ」寄り集まってからが憤慨し、
「道潅山はおらたちの権益だ」
「同感だ、同感だ」
と、王子の長吏頭で十手持ちの権平の許へ、
「なんとか仇をとっておくんなせぇ」
一同が揃って頼み込みにいった。


寺院ガードマン

「親方、表に、どうも目明かしの下っ引きみたいな、うろんくさい奴が‥‥」
と、小仏小兵衛が知らせにくると、
「そういやぁこの処、この幡随院の山門の花屋へ、やはり下っ引きがきて張っている
そうな。親方、なんぞ奴らに狙われるような事をしなすったのか」
 念仏佐平も気にして横合いから、心配そうに口を入れた。しかし長兵衛は、
「弱きを助け強きをくじく男伊達。まさか曲がった事を、この俺がするわけはなかろ
う」と笑い飛ばしてしまった。
「だが用心が肝要だ‥‥なんせ奴らとこちとらとは宗旨違い、いたぶる気になったら
何をしでかすか判りゃしねぇ」
放駒の四郎兵衛は年かさだけに、気難しい表情でそれをたしなめた。
 というのも、元禄年間の神仏混合政策からは、お寺と神社が一緒くたにされ、
「この世の中に神も仏もないものか」
心中天の網島にでてくる台辞(せりふ)のように、神仏が同じに扱われているが、ま
だこの時代は昔からの伝統で、
「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」
と河原者や山者や十手捕縄を預る町方の目明かし共は、寺を目の仇にしていた。
 そこで寺側を守る為寛永十二年からは寺社奉行というのが置かれたが、それでも仏
嫌いの者が集団でおしかけ乱暴を働いた。だから田舎では、どこの寺でも山門近くへ
鐘楼をもうけ、襲われるとガンガン乱打して、その非常警報をききつけ駆け集まる寺
百姓によって防いだり、大きな寺では僧兵や寺侍を置いた。
 しかし江戸ではそうもゆかないので、幡随院の住職良磧(りょうせき)が腕っ節の
強そうなのを選んで、境内に長屋を建て住まわせていたのが、長兵衛らの一統である。
 というのは幡随院は初め神田駿河台、それが元和三年から下谷池の端に移ったが、
上野寛永寺から屏風板を下った坂本二丁目迄は、寺町といわれる位に寺院の多い処。
そしてそれらの外廓に当る山崎一丁目に、十米四方の本堂を建立している良磧上人と
しては、
「山崎町は川向う浅草新地弾左衛門の飛地。いつ何時やつらに押込まれるやも知れぬ」
と自衛上、今でいえばジムのようなものをこしらえていたのである。
 しかし、あえて事を起こしたくないから、常日頃、長兵衛初め子分達へ、
「振りかかる火の粉は払わねばならぬが、こちらから手出しはいかぬ。われらが尊き
法衣墨染めの衣をさして黒と呼び、彼らは事さらに反対色の白衣を纏うなどしている
が、なにしろ目明かし獄吏の面々は弾左衛門配下の者らゆえ、決して言いがかりを付
けられるような事はするでない。」
と、上人は口癖のように、あけくれ一同をいましめていた。
 だからして放駒の四郎兵衛や、念仏佐平達も心配したのだが、
「いくら無法な奴らにしろ、罪科もない者を捕え、黒を白だと自侭にゃできまい」
大胆な男だけに気にもとめず、集めた若者に相撲や柔術をしこみ、いっぱし役立つよ
うになった者から順ぐりに、これを依頼されている寺へ廻していた。
 さて、元禄以降になって寺が襲われなくなってからは、寺男というのは墓場掃除ぐ
らいが仕事だから、よぼよぼの老爺でもよくなったが、まだその頃はガードマンみた
いなお役だから頗る威勢がよい。
 下谷広小路本正寺へ廻されていた「湯かん場五郎」というのが、
「どうもお寺勤めというのは抹香臭くていけねぇ。たまにゃ精進落しに」
と三橋を渡った仁王門前町、坊さん相手のかげま茶屋の並んでいる裏通りの、煮しめ
屋へ入って、銭をあるだけはたいて呑んだが、そうもまだ物足らない。
「誰ぞ、お布施を恵んでくれる奴は居なかろうか」
外へ出てから、きょろきょろして居ると、
「おい、おめぇ」
横暴な声が掛ってきた。普段なら、へぇと振返りもしたろうが、なにしろ呑みたりな
くていらすかしている。だから五郎は、つっけんどんに、
「なんでぇ、うるせぇやあ」
振返りざまに肘で、寄ってきた相手の脇腹を突き上げた。
 すると、はずみをくって尻餅をついたものの、すぐ立ち上り、
「てめぇ、おかみの十手持ちに何て真似をしやぁがる。さぁ来い伝馬町の御牢に放り
こんでやる」
 背後からねじ伏せるように踊り掛ってきた。五郎は周章ててそれをふりほどき、
「とんでもねぇ野郎と関り合いになった」
すっかり酒の酔いもさめはて、青々とした不忍池の廻りをとっとと駆けだした。
 が、十手持ちは逃すものかと、
「十手を見て怖がるのは、おおかた悪いことをしやぁがっているせいだろう」
と、息せき切って追いかけ、
「ピイピイ」呼子笛を吹いて、下っ引き仲間を呼び集めつつ走ってくる。
 だから黒門町から須田町まで駆け込んだが、追い詰められた五郎は逃げ場を失って
しまい、何処かの大店の裏口らしい所へ飛び込んでしまった。


目明かし下っ引き。

「てまえが寺男の口入れの元締めをして居ります幡随院の長兵衛‥‥このたびは身内
の一人が飛んだ危ないところを、お匿い下さいまして有難うさんにござんす」
礼をのべに出かけたところ、
「あの若い衆が幡随院の親方のお身内衆とは、これはまた奇しき御縁‥‥ここは端ぢ
か、まぁひとつ奥へお通り下さいまし」と座敷へ案内され、
「‥‥その節は娘のお清を道潅山で救って頂き、本来なら此方からすぐ御挨拶に伺う
べきところを、どうも外聞をはばかってつい遅れ、申しわけとてありませぬ」
 主人夫婦から深々と頭を下げられ、
「ああ、さいでござんすか‥‥ここは万屋さんの御店でござりましたのか」
長兵衛は思い出したようにうなずき、
「あれは通りかかったゆえ、山下までおぶって差しあげたきりのこと‥‥改まって御
礼などといわれては、いたみ入ります」
席を立とうとしたところ、
「実は娘があれから親方さまの事を忘れかね、寝ては夢、起きてはうつつ幻の‥‥と
いった有様でございます」
 言いにくそうに嘉右衛門がうちあけ、
「跡とりには下に伜が居りますゆえ、どうせ他へ嫁に出さねばならぬ娘‥‥もし親方
に貰って頂けるものなら、こんな有難い話はありませぬ」
娘可愛さに拝まんばかりに手を合せてきた。
「さぁ、そうおっしゃられても、わっちの稼業は荒っぽい人入れ稼業。こちらさまの
ような御大家の、おんば日傘でお育ちになったお嬢さまでは、そりゃお気の毒でお迎
えはできませぬ」
長兵衛は面喰って辞退したが、
「手鍋さげてもいとやせぬと、そないいじらしい事も言って居ります。ひとつその心
根をくんでやって下さいまし」
嘉右衛門も内儀も涙声で脇から、かきくどく有様。
 そこで長兵衛も腰をあげかね、もじもじして居ると、店の方から番頭が青ざめ顔で
駆けこんできて、
「大変でござります。神田お玉ヶ池の番太郎、仁平の案内で、田端の目明かし衆が御
用のむきだと店先へこられ、大声で怒鳴って居られます」と訴えた。
「おおかた五郎が此処に逃げ込み、匿うて頂いたのに因縁をつけ、銭にしようとやっ
て来たんでござんしょ」
 長兵衛が長脇差をつかんで立ち上がり、番頭に案内されて店先へ姿を現すと、目明
かし達はびっくりしたが、
「てめえは‥‥幡随院の長兵衛。寺の口入れ屋が、いつから商家の用心棒になりやあ
がった」
まず番太郎が毒づくのに、
「ここに居合わせるとは‥‥さては池之端でお上御用にたてをつき、暴れやがった狼
藉者は、おめえんとこの寺男だったのか」
田端の目明しも十手を突きつけ、
「そこの番所まで一緒に来やがれ」顎をしゃくって凄味をきかせた。
 長兵衛は番屋の店先で騒ぎを起こしてはまずかろうと承知して、そのまま一緒に外
へは出たが、曲り角まで来ると
「京知恩院幡随院和尚が、わざわざ東下りして開山した関東十八壇林の一つ、幡随院
御抱えと知って、それでおめえっちら、この俺をしょっぴこうってぇのかい。ふざけ
るねぇ不浄役人めが‥‥」
いきなり拳固をかためて、まず番太郎をはりたおした。そこで目明かしが、
「やる気かっ」
と十手で肩先をついてきたが、長兵衛は目にも止まらぬ早業で、
「舐めやあがるな」その手首をねじ上げ、眼よりも高く差し上げると、ずってんどう
と岩石落しに放り出した。
 しかし、目と鼻の先の旅篭町の自身番に詰めていた下っ引き連中がそれを見つけ、
「ふてぇ野郎だ‥‥田端の親方に狼藉してやがる」てんでに雨戸をはずして、
「神妙にしやあがれ」
楯のように桟をつかんで寄ってきて、これの水平打ちで長兵衛にかかってくる。
 するとお玉ヶ池の番太郎の仲間も、刺股やからみ棒を持ってきて駆けつけ、
「おかみへ楯突くと、どんな目に逢うか教えてやろうかい」と向かってくる。
 戸板の楯に四方から囲まれ身動きできぬ処へ、その隙間から鉄の尖った棒やフォー
クを大きくした様なもので、めちゃめちゃに突かれては堪らない。
 ざんばら髪になって応戦したが、さすがの長兵衛も危なくなってきた。
 するとこの時、万屋の小僧か手代が急を知らせたとみえ、同朋町の方角から、
「わぁっ」
と、ときの声を上げ、放駒の四郎兵衛、唐犬権兵衛、念仏佐平、小仏小兵衛、読経の
吾平といった幡随院ジムよりぬきの、腕っこきが手に丸太や大太刀の類を振り回し、
「それっ」とばかりに飛び込んできた。
 こうなると長兵衛一人でさえもてあましていたのが、とても適いっこはない。
「いまいましいがしようがない」
「後でおぼえとれ」
それぞれ捨てぜりふを残し、番太郎や下ッ引きは逃げ去った。


平井権八鈴ヶ森

 さて、長兵衛が後世有名になったのは芝居からで、まず1744年正月の中村座に、
浄土宗から金主が出て興行された時、
「法難に殉じだ信者中の信者」
といった扱いで、「さざれ石末広の源氏」の芸題で上演されたのが皮きりだが、
「長兵衛ものを演ずると、お寺さんや檀家の総見があって、興行上間違いない」
というので、次々と芝居にされ、40年後の天明四年七月に大阪角座で、並木五瓶が
脚本をこしらえるにあたって、
「大阪は町人の都だから、抹香臭い寺奴の扱いよりも、町の者の味方、町奴にした方
がよくはないか」
と考え、「思花街容性(おもわくくるわかたぎ)」として今日の原型を作り、その1
9年後の享和三年には江戸の中村座で桜田治助が、
「幡随院長兵衛精進俎板」
を書き、大きな俎板の上へ長兵衛が寝て、切るなと突くなと勝手にしなせえと大見得
をきるものに変えた。
 しかし、「湯殿の長兵衛」というのは、明治以降の芝居である。何故かといえば、
一人用五衛門風呂の釜はできたが、今のような浴槽の釜は江戸時代の鍛工技術では無
理で、慶応三年までは蒸風呂しかなく、ざくろ口から潜って入る型のだった。だから
槍を持ち込んでの立ち廻りなど、とてもできるはずがなかったからである。
 また芝居に曳きずられた形で、幕末に刊行されたものが大正二年博文館から「文藝
叢書」の中の一冊として入っているが、それは塚原渋柿校訂で、
「肥前島原城主寺沢兵庫頭(かみ)広高の家臣、塚本伊織の一子伊太郎が後の長兵衛
で、塚本伊織は島原の乱で主家が断絶し、やむなく伊太郎を伴い関東へ移った。」
となっているが、これとても間違いである。
 というのは、島原城主は松倉勝家で、寺沢は唐津十二万石、しかも島原の乱当時は
広高はとうに死んでいて、伜堅高の代だし、断絶などしていない。なのに誤られたま
まで、「男の中の男一匹」と大いにうたわれ、
「弱きを挫き、強きにへこたれる」のがこの世の習いなのに、彼だけは反対に、「弱
い相手なら下から出るが、強い奴なら向う面を張りとばして」といった台辞をはき、
大向こうの喝采を博しているのは何でだろうかといえば、それは
「白対黒」、つまり原住系と、仏教を持ち込んだ渡来系との相克の日本歴史が秘密に
され、ずっと隠された侭になっている所為によるものであるらしい。
 さて話変って、
因州島取藩主池田光仲の小姓で、平井権八というのがいたが、これが生まれついての
麗質、玉をあざむくばかりの若衆ぶり。そこでその美しさに家中の者が騒ぎ、中でも
執拗だったのが本庄助太夫。
 拒まれたところ、かえって助太夫は、せかるればなお募る恋心と、
「かくなる上は実力行使あるのみ」
 月の出ない晩を選んで、権八の寝ているところへ押し込みに入った。
 ぐっすり熟睡していたが、普段は出すだけに使っている一方通行の口から、いきな
り押しこまれたのに権八は仰天。
「あれッ何をなされます」
と跳ね起き、男の貞操を守ろうともみ合う内、誤って助太夫の差してきた脇差で相手
を突き殺してしまった。
 権八も青ざめ狼狽して、「しまった」と思ったが、人を一人害してしまっては唯で
は済まぬと、暗夜に紛れて逐電。ひとまず京へと志したが路用の銀もない。そこで仕
方がないから、「切り取り強盗も武士の慣い」と通り掛りの金を持っていそうなのに
目を付け、
「あいや暫く‥‥」と手を上げて招く。
 すると、何しろ鳥取一といわれた程の美しさだから、疑う者もなく呼ばれた者は側
へ寄ってくる。
 それをいきなり抜きうちに、ばっさりやって胴巻の金を頂いてしまう。
当今の言葉でいうとヒッチハイクの類だろうが、こういう物騒なアルバイトをしてい
ては、せっかく京へ辿り着いたが長居もできない。どこで権八は、
「かくなる上は、諸国の人が集っている江戸へ行ってみよう」
と東海道五十三次は、又しても金がなくなると辻斬りをしてまかない、神奈川まで来
たところ、
「うろん臭い奴」と睨まれてしまったのだろう。
 この当時、廻国者という名で呼ばれていた街道目付の者が、権八の後になり先にな
りずっとつけてきたが、ご府内へ入る一歩手前で、
「てっきり、こいつに間違いない」
と目串を立てたのだろう。ひと足先に鈴ガ森の刑場へゆき、そこに小屋掛けしている
弾左衛門配下の非人達を集め、
「御用弁にする奴が来るから手を貸せ」
いいつけて手ぐすねひいて待ち構えて居た。
 するとそこへ何も知らぬ平井権八がすたすたと通り掛ったので、左右から、
「おのれ、神妙にいたせ」
待ち伏せしていたのが杖や竹竿を振りかぶってきた。
「何を致す」権八も刀を抜いたが、
「手向かいするか」「お上に刃向かうか」
 非人共は廻国目付と共に勢い込んで掛ってくるから、見る間に手負い死人の山。
これまで道中で散々に辻斬りをしてきた権八だけに、これを片っ端から斬りたおし、
刀の血糊を拭い悠々と立ち去りかけた時、
「お若ぇの‥‥」と、いきなり声がした。
 はっと権八が立ち止まり、
「お呼びなされしは、てまえがことか」
振り返ったところ、提灯(ちょうちん)を前へつき出し、
「あたりに人が居なけりゃ、お若いの、おおかた貴方が事でございやしょう」
にゅうっとばかり、そこへ姿を現したのが相州鎌倉長谷寺へ用達しに行って、帰り途
の幡随院長兵衛ということになる。


三浦屋小紫

 さて、目明かしや下っ引きの非人を、眼にも止まらぬ早業で斬り伏せた腕前に舌を
まき、幡随院へ連れ戻ったが、その美少年ぶりに長兵衛も感嘆し
「うむ‥‥」はたと唸ってしまった。
 さて権八も、江戸へ入る処でお上御用の者を手掛けてしまった後めたさに、寄らば
大樹の蔭、何とかして長兵衛に守ってもらおうと思う下心があるからして、しきりと、
「ねぇ親方‥‥」魚心あれば水心といった具合に甘える。
 こうなると長兵衛も、その美しさに圧倒されているから、
「お寺の釣り鐘じゃねぇが、それじゃ一と突きさせてもらうとしようかい」
という事になって、つい深間になってしまった。
 こうなると困ったのが神田須田町の万屋嘉右衛門。娘お清に泣きつかれ、
「持参金はいくらでも出しますから」
 湯かん場の五郎や、唐犬権兵衛を仲へ入れて、しきりに長兵衛へ掛け合うのだが、
なにしろ権八と出来てしまってホモの熱い仲だから、いくら周囲がやいのやいのと騒
いでも、あっけらかんとして話をきこうともしない。
 しかし、当人のお清の耳へは、
「実はかくかくしかじか」と本当の事を教える者もなかったから、世間知らずの十八
娘は、てっきり自分が嫌われているものと思い込み、世をはかなんで、
「さだめし道潅山で悪者にいたずらされたのを見ておられるゆえ、それで厭うていな
されるのでしょうが‥‥女ごの身体というは、二度や三度なんしたところで、どう変
っているものではなし」
と、盥に水をくんで、じかには覗きこめぬ処ゆえ、水鏡に映して観察した事まで、書
き添えた遺書を残し首を括って死んでしまった。
 そこで、これには長兵衛も眼がさめ、
「可哀そうなことをしてしまった」
 すっかり前非を悔い、権八に向かい、
「俺とお前が今の侭では、お清さんがあの世で、とても成仏できまい」
と二人の仲を清算するように言い渡した。
 さて権八にしてみると、こうなっては何処へ尻をもっていく処もない。
くさくさして閉じこもっていると、
「今宵は十三日の月見の道中。憂さ晴らしに吉原へ案内しましょう」
五郎や小平が権八を連れ出した。
 明暦の大火の後は今の浅草新吉原へ移転したが、この当時は葺屋町から後に堺町と
なった弥宜(ねぎ)町、現在の蠣殻町から明治座までの葭草(よしくさ)が生い茂っ
た一廓。
 それでも女は、京町一丁目は京六条。二丁目は大和の木辻からと、諸国の美女が集
められていた。だから、花魁道中をする女達も粒よりの美女揃い。
 中でも、ひときわ目立つのは、三浦屋四郎左衛門抱えの小紫太夫。絵に描いたよう
な絶世の美しさに、思わず知らず見とれていると、向こうも男とは思えぬ権八の美貌
にはっとし、互いに見交わす眼と眼の結びつき。暫くすると、
「もうし旦那、失礼でございますが、三浦屋の小紫太夫がお招きにございます」
と、若い衆が権八を迎えに来た。
「太夫の方から口を掛けられるとは、こりゃ前代未聞の話」あてられた五郎や小平は
戻って、この旨を長兵衛に話した。
「そうかい。そいつは良かった」
 権八を放りっぱなしにしていたのを気にしていた長兵衛は、この小紫がもとで水野
十郎左衛門に自分が殺されようなどとは、神ならぬ身の仏派ゆえ知る由もなく、にこ
にこしてそれにうなずいた。


旗本白柄組(はたもとしらつかぐみ)

 さて、長兵衛に可愛がられていた習慣で、つい平井権八はいつものように腰を向け
てしまった。
 すると、小紫は襟筋に熱い息を吐きかけ、しなだれ掛るようにして、
「まぁ、うぶな、ぬし耻しいのかえ」
ねっとりした声をかけてきた。そこで権八は周章てて御意の侭にと俯伏せに拡げたと
ころ、
「わちきが嫌いでありんすのか」
怨ずるように肩を抱えられ、そのままくるりと上向きにされた。
 しかし権八にしてみれば、そうされたとてどうしようもない。唯はげしく息づかい
だけはずませた。なのに小紫ときたら、
「亀の子が仰向けに引っくり返されたみたいに、何していなさんす。早うに床をつけ
てくんなまし」
ぴったり寄り添いかぶさってきたが、権八はとまどった。なにしろ、いつも攻められ
る側で、これまで己れからどうした事もない。そこで、
「‥‥如何になすやら判りませぬ」
小紫の頬を顔にすりつけたまま、権八は当惑しきって訴えた。
「まぁ、ほんとに今宵が初おろし‥‥まんだ何んした事はなかったの‥‥」
 小紫はますます上気してしまい、
「すこし陽やけはして居やしんすが、まだ前髪の角額‥‥経験なしと言わしゃるも本
当の事でありんしょう」
 身につけていた緋色の長襦袢を肩からずらし、雪のように白い肌をさらけ出すなり、
ぐっと権八を抱きしめ、
「すべてわちきに、まかしゃんせ」
 惚れ惚れと行燈の灯で権八を見直し見据え見詰め上げ、夢みるように、
「主さんのような良き殿御の筆おろしが出来るとは、三千世界のこの世の中でわちき
程、果報者は居りませぬ」
口にしながら涙ぐみ、まだ始めもせぬ先から涙声をしくしくたてた。
 さて、この時。
同じ揚屋梅鉢の二階座敷の大広間で呑めや唄えと、だだら遊びをしていたのが旗本神
祇組の一統。
「近頃は黒の坊主共が、民百姓の供養など放りっぱなしに致し、大奥の女共をたらし
込み寄進の金をまきあげ、上野池の端から浅草にかけては、京も同然の寺町と化し居
るではないか」
「如何にも怪しからぬ仕儀。われら神を信ずる徒は、黒衣坊主共の跳梁を看過しでき
ぬ。断固今にして征伐せねば御府内も京と同じ仏徒になってしまうは、こりゃ火をみ
るよりも明らかなこと、寺など片っ端から叩っこわすしか道はあるまい」
 肩いからせて唾をとばすは、遠州白須賀別所まむし塚出身の、久世三四郎に加賀爪
甚十郎の両名。
「黒に対する白、よって吾らは揃いで白衣などひっかけるのか」
「いかにも左様、刀の柄に白革でも巻くか」
 悲憤慷慨するは、同じく遠州の横須賀出の、坂部三十郎に渥美源五郎。
彼らは家康在世中の天正二年五月、武田勝頼が大軍を率いて遠州へ攻め込み、高天神
城を落してしまった時、そこから浜松城へ向かってこられたら、ひとたまりもないと
馬伏塚に砦を築き、決死隊として白須賀横須賀より募った者たちが防いだが、彼らは
その二世で、今では旗本御番組に入っていた。
 そして、天ツ神、国ツ神を総称する「神祇」を組の名にしていたのは、彼らのよう
な別所出身は昔から寺とはまるで無縁で、白山神や土俗八幡信仰だったから、仏に対
抗する為のものだった。
 また元禄の神仏混合同祀の時から、朝には神主として白衣で祝詞をあげ、夕には墨
染の衣を上へまとって、ナンマイダをやった関係上、今では僧侶も白衣を着て上に墨
衣といった白黒重ね着をするが、旗本神祇組の頃はまだ画然と仏派は黒、神派は白と
いう区別があった。さて、
「‥‥処で」
大久保彦六が唇をへの字に曲げ、
「三浦屋の小紫は如何したるぞ」
いきなり堪りかねたように喚いた。
「向こうを出て此方へきたというに、まんだ座敷へ姿を見せぬのは、おおかた何処ぞ
に入りこんで居るに相違あるまい」
大刀片手にすっくと立ち上がった。
「まあ、お待ちなされてくださいませ」
周章てた揚屋(あげや)の若衆が引き止めようとしたが、彦六はそれをはねのけ、
「ええ何処じゃ‥‥」と二階を一部屋ずつ見て歩き、けやきの段梯子を降り、
「小紫はいずこ、小紫はいずこ」
階下の小部屋を次々と調べていったが、とっつきの奥の間の唐紙をあけるなり、思わ
ず眼を見張り鎌髭をふるわせ、
「おのれっ」
とばかり怒声をあげた。
 しかし平井権八は丁度その真最中。
「馬上に乗りうちの侭にて御免」
仕方なく首をまげ、挨拶をした。


水野の家系

 坂部三十郎達の白装束の提案に一同が賛成したのか、「我衣」というその頃の随筆
には、
「夏は純白な湯かたびら、冬は紺の綿入れを着るが裏は純白。袖口も白で大巾にくけ
裾には重しに鉛を三匁入れ、歩くたびにはね上がって白裏地が見えるのを伊達とし、
馬に乗る時は白馬を選び白革の馬のり袴をつけ、馬具も白一色。もちろん手で掴める
巾ぎりぎりにした元取に巻くのも白元結。刀は大小共に白柄、よって諸人この神祇組
の事を白柄組ともいう。」と出ているし、
「春の日の弦(いと)遊び、柳腰のたをやめを折るは誰ぞや、そは白き馬めす殿御ば
ら」という当時の流行歌「今様(いまよう)」が残っているところをみると、相当彼
らは当時の女にもてたものらしい。
 しかしである。
なのに、もてるはずのがふられてしまい、小紫太夫が平井権八を優先扱いしたという
事は、大久保彦六をして、
「おのれ武士の面目まるつぶれだ」
切歯扼腕(せっしやくわん)させる結果となった。
 もちろん小紫も浮川竹の流れの身。本人は好き好んでではないが、そこは苦界の勤
め。その時も権八と別れ難いのを堪えて起きだし、すぐ髪を撫であげ大久保を迎えた。
しかし彦六にしてみれば、厠で用をたすのではあるまいし、
「おまっとうさん、あきましたぇ」
と云われても、まさか
「左様か、待ちかねたぞ」と、戸を開けられても入り込めるものではない。
「なぁ、もうし、ぬしさんえ‥‥」
いくら開帳したのを小紫から見せつけられても、彦六の瞼には前髪だちの権八の顔が、
提灯みたいにぶら下がっていて、とてもその気にはなれない。
「青臭さ‥‥」ぶうすかいったが、要は気分の問題である。そこで、その日はその侭
引き上げた。
 しかし、月見道中の紋日だというので、通しで玉代をつけてやり、そのくせ何もし
てこなかったのは損したようなもので、帰ってからも、
「阿呆くさ」いまいましかった。立腹をした。
 そこで、かの前髪だちの若者は何者なるかと、前の南町奉行が加賀爪甚十郎の伯父
加賀爪民部少輔なので、その手蔓で調べさせてみると、その素性がわかってきた。
「年端もゆかぬ小童(こわっぱ)ふぜいに、眼前で己れの買った女を先に馭(ぎょ)
され、黙って引っこんで居られるものか」
 怒髪天をつく勢で彦六は、左右になまずのごとく髭を震わせ、神田駿河台水野十郎
左衛門邸へと押しかけた。、
 さて、この十郎左衛門というのは、備後福山十万石水野勝成(かつしげ)の五男成
貞の子だが、その勝成は家康の生母於大の方の弟忠重の伜である。
 その忠重は関ヶ原合戦が始まる前に、三河刈谷城主だったが、美濃加賀井城主重望
のために不意に酒宴で斬り殺されてしまい、その父と仲違いしていた浪人中だった藤
十郎勝成が、家康に呼び出され明智光秀遺愛の槍を手ずから渡されて、
「汝、よく光秀にあやかれよ」
と訓されたのは有名な話。もし当今のように光秀が信長殺しとされていたものなら、
(あやかれ)と云われたのだから、その場で家康をぶすっとやってもよいのだが、勝
成はその槍を担いで美濃大垣城の一番槍。次いで大坂合戦では、家康の命令で二万五
先石の身分なのに、大和方面の総司令官となって三万の兵を率いて奮戦。
 そして、後藤又兵衛、薄田隼人ら大阪方の重鎮を討ちとるという抜群の働きを示し
た。
 この功で福知山十万石の大名になると、家康の意を汲んで三河の八と呼ばれる原住
系の者を三八として率いて乗り込み、彼等に司法断罪の一切を委ねた。これらの者達
が権力を揮いすぎ、あまりにデッチあげばかりしたので、
「嘘の三八」とか「嘘っ八」
といった彼ら役人への蔭口が、幕末の詩人菅茶山の「福山志科」の著に出ているが、
これは今でも用いられている。