1034 元治元年の全学連 19(最終)

「----源蔵さま。今日みたいに、あんな大声で御調べの時に怒鳴らんがええ」
 牢番人の半兵衛が首をふりつつ、いつもの温顔で牢格子の枠から声をかけてきた。
「なにしろ、源蔵さまの声はでっかいで、代官所の外濠の水取りしとった直吉と次四
郎が、魂消て落っこちかけたそうな‥‥」
 と藁の円座でも持ってきたのか、格子の前に、ちょこなんと座った。俺一人の見張
りのために、眼の前へ来て不審番である。
 今日の取調の時には、機嫌とりか、俺の莨(たばこ)入れを出されたから、そこで
久しぶりに一服つけ、二服目の時に眼下に落ちてる前の残火を、莨につけようと附向
いたところ、傍らの同心が吃驚して、俺の髻(もとどり)を力まかせにぐいっと引っ
ぱった。そこで思わず俺が、
「何をするか」と怒鳴りつけてしまった声が、とても凄まじくて、戸外にいた者まで
が肝を潰したと言うのである。そういえば、そのとき、同心も震えていた。
 すっかり蒼ざめ、吃りながら、
「自害なさるんかと思いまして‥‥」と平あやまりに謝っていた。
 なにしろ、俺は、ここの代官所では、こわもてしている。
 というのは、俺が何度も頼んでいるのに、東牢へ入れてしまった西山や高橋を釈放
しないから、それで、俺が肚をたて代官や下役共に当り散らしているからである。
「ところで源蔵さま‥‥」と言いにくそうに半兵衛は、また何かいいかけ口ごもった。
「なんだ。もうこうなったら何も愕かない。さあ教えてくれ」と牢格子の中からせっ
つくと、
「‥‥山から降りてきた子供らのことです」
 と、老人は眼に泪をためてみせた。
「えッ」これには、俺も愕いてしまい、
「どうしました」と息はずませて尋ねた。
「へとへとになって降りてきた子供が、小判を出し『食物を分けてほしい』と人家を
みつけて入っていったそうです。だが南鐐銀の一朱の粒さえ、滅多に見られぬ山ん中
の百姓だ。その小判に目がくらんで奪ってしまえとよってたかって鋤や鍬で叩っ殺し
たという噂です。そんで愕いた事にゃ、小さな子供までみんな一両ずつ持っていると、
この評判が伝わると、なにしろ強慾な百姓共のことですから、生涯にねえ金儲けだと
ばかり、てんでに村方の者が竹槍や鋤をもって『天狗狩り』だと、一昨日あたりから、
まるでこの近辺は大騒動です」
 と、ぐっと息をのんで牢番の老人は口をつぐんだ。聞かされた俺も、これには断腸
の想いがした。
(金さえ持たせてやればと考えて、小判を一枚ずつ持たせてやったのが、反って仇と
なった)
 うつむいて俺は哭いてしまった。すると牢番の半兵衛は、また言いにくそうに、
「なにも慾の深いのは百姓だけでねえ。棚倉の戸中番所の田儀、名古屋、岡田ってお
侍までが、一人捕らえたら一両になると、百姓にまけず組子をだして子供を捕らえさ
せ『座らせては身体が小さいゆえ、首へ刀が当てにくい」と、みんな桜の木にぶら下
げてしまい、蓑蟲が樹からぶら下がったように吊るしておいて、そして片っ端叩っ切
って、死骸は久慈川へ放りこんでいるとか‥‥むごいことをするものです」
 といってから、「大河内仙太郎ちゅう子供衆を知っとりなさるかのう」と聞いてき
た。
 知るも知らぬも、水戸上市にお屋敷を賜っている大河内重兵衛の伜で百石取りの跡
目の子で東方館の学生だが、十三才ゆえ小姓組にしていたものである。
 顔は丸顔で味噌っ歯で、饅頭の好きな子だったが論語だけは丸暗記していた。
「‥‥その子は」と、俺がせきこんで尋ねると、
「野州伊王野(いおの)藩番所で、樹に吊るされたところ『腹を切らせろ』と怒鳴っ
て、斬りにきた役人の頭に小便ひっかけたとか評判で、殺すにゃ惜しい子だったと、
こっちへも話が伝わってきてます」
 と、そんなみじめな最期を俺に知らせ、
「この塙の在でも、代官所へはあまり連れてこんと、一両を横どりするために、小鯨
から平塩へんの部落では随分とも密殺し、屍骸は穴を掘って埋めたり、そのまま山犬
の餌にしとります」
「‥‥止めろ。酷すぎる。みんな十三、四のまだ頑是ない子供じゃないか」と、俺は
怒鳴った。
 しかし半兵衛は、俺を睨みつけ、何を云うかと、目くじらをたて、
「あんたが悪い‥‥みんな頭をざんぎりにさせなさったから‥‥顔はむくみきって判
らないし、まあ殺して、着てる物をとっちまって裸にするまで、てんで、子供だって
ことは判らなんだ‥‥と、どの百姓もいっとりますがね」
 と、そんな具合にいった。だからして、この俺は哭くにも泣けなくなった。

 ----最後のときの、八溝山から降りてきた総員三百五十余名というのに、いかに密殺
が多かったかということは、今日、記録として残されている者が、
 塙代官所  三十三人
 棚倉藩   四十二人
 那須郡小沢 十八人
 芦野藩   十五人
 伊王野藩  二十七人
 黒羽藩   三十人

 奥州道中日沢(ひざわ)、那須郡東泉、白河下羽原各一名ずつ、久慈番所四人の合
計百七十二人しかいない。つまり、半数までが密かに吊るし斬りにされて、死体を川
へ放り込まれたり、山犬の餌にされていることでも判る。
 野州伊王野藩元治元年十月十五日届け出での「捕殺名簿」で氏名の判っている者も、
 常州那珂郡上国井村  伊兵衛  二十九才
 常州行方郡長岡村   常吉   三十才
 仙台亘理郡五ヶ村   吉五郎  二十六才
 越後蒲原長岡町    作十   二十二才
 常州久慈郡栗山    弥三郎  二十二才
 常州久慈郡太田    藤助   二十一才

 以上だけが二十才以上であって、あとは、水戸上市、東方館学生大河内仙太郎十三
才。を初め、吉太郎、菊次郎、福太郎、久助、健助、幸八、兼吉、吉太郎、惣十郎、
源助、倉十、竹松みな十代の少年である。棚倉藩の「捕殺名簿」になると、
越惣太郎、荒井一司、掘城宗介ら四十代の教授方の年令は明記されているが、蔀幼君
や竹松の各十二才の他は、殆ど年令不祥にしてしまっている。という事は、あらかた
が十代の少年なので、藩として、公表を憚ったもののようで、これは芦野藩や黒羽藩
においても同じようである。
 今日、この地方へゆくと「天狗の松」とか「天狗の桜」という古木が多い。土地の
者は、「天狗がとんできて腰かけた樹だ」と言い伝えで説明するが、これは十二、三
才の少年を密殺するに当って、座らせても立たせても柄が小さくて殺しにくいので、
荒縄で首や肩を吊るして樹にかけ竹槍で突いたり、鋤や鍬で次々と撲殺したときの名
残りである。
 物価の烈しい値上がりで、人間が凶暴になて、やけに殺人をしたがるようになるの
は、一世紀前も当今も同じことらしい。虐殺の時代というのであろう。

 牢番半兵衛の計らいで西山常蔵も処刑される前には、縄尻をとられたまま、俺の牢
格子の前へそっと連れてこられて別れをつげていった。この十月一日に八溝山上でち
りぢりに分かれたっきりで、久しぶりにまたの逢う瀬の、互いに変りはてた対面だっ
た。十月九日のことである。
 高橋の方が顔の顎の下に刀痕があって、面がまえが凄かったせいか、俺が捕らえた
四日の日に、ここへくるなり東牢へ入れられたが、間もなく打ち首になったと牢番か
ら聞いていたが、西山常蔵の話では、一日早く十月三日に、ここへくるとすぐ取りま
かれて叩き殺されたという事である。
 高橋幸之介は俺と同年で水府上町出身の江戸本郷の功名館長尾左太夫の門下生だっ
たが、十八才の時に学校を中退し、諸国を遍歴して歩いてきた豪傑だったのに、いた
ましい事をしたものである。
「‥‥殺されたって死にそうもない高橋も、山頂で四日も呑まず食せずでは、なんと
もならなかったのだ」と、俺が暗然として呟くと、
「‥‥若君もやられました」と西山は告げた。
 若君というのは、公儀の陣所へ二十名たらずで押しかけてゆき、談判をしにいった
宍戸一万石の松平大炊頭頼徳の甥の若君のことである。
 十月五日に「自裁」の命令をうけ伯父の宍戸侯は割腹してはてたそうであるが、そ
の甥御にあたる若君は、しとみ村に御生母がいたので野口時雍館の少年部に入学し、
寺門民兵隊のやくざ共に焼き討ちされた後は、高橋幸之介に守られ助川城に入り八溝
山へも一緒にきていたのである。
 伯父松平大炊頭の養嗣子になるような話が前からあったので「ご幼君」とよばれ、
自分でも「幼君」と自称をしていられた。しかし、その若君までとは意外だった。
「‥‥ばかな、一万石の若殿ではないか」
 と、俺も疑いっぽく聞き返したところ、西山も、眼をうるませて、
「棚倉六万石松平周防守が棚倉の西端れに番所を設け、片っ端から捕らえて桜の木に
ぶら下げて斬り殺した中に『世の中に手拭尺となりにけり、五尺(一米六十五センチ)
なき身も包みかねけり』と辞世を高らかに念仏代りにあげて、殺された十二才の子供
が、白絹の褌をしめていたそうです。名前は、母方をとって『蔀(しとみ)幼君』と
いっておられたそうですが、絹の褌ならば、あの若殿に相違ありません」
 といいきった。俺はぐっと唾をのんだ。
(あんな甘えん坊の十二ぐらいの若殿を、木に吊るして嬲殺しにするとは鬼みたいな
奴らだ)と口惜しさに泪がふいてきた。もう、言葉もつまってでなかった。
「‥‥では」
 と西山常蔵は名残り深そうに頭をたれた。
「ゆくか‥‥」
 俺も感慨無量だった。半兵衛が時刻を気にして、縄尻をひっぱった。西山は眉のう
すい顔を、もう一度牢格子にくっつけそうにもってきて、そして曳かれていった。
(あいつめ、てめえの眼ん玉の中へ、この俺を、そっと、ぐっと蔵いこんで行きおっ
た)
 と、俺は後姿を見送りながら沱々と泪を溢れさせた。

<水戸藩史料>の六三頁と百四頁に、
「長岡屯集の徒」並びに「品川東禅寺来襲の余類」として、西山常蔵の名はあるが、
出身校名は不明である。処刑した塙代官所の記録では、「肩書・百姓」となっている
が、これは故意に歪めて記載したものらしい。というのは、塙町安楽寺の明治時代の
住持の、
「和田秀道日誌」の明治二十九年十月七日の条項に、
「本日晴天。茨城県東茨城郡西郷村大字上古の内藤木初太郎入来し、故西山常蔵の三
十三回忌の回向に布施若干納入相成り候こと」とあり、「西郷村役場戸籍壬申台帳」
によれば、「士族内藤木初太郎」と明治三十二年書き入れの古記録があるからである。
 なお田中源蔵の、
<塙代官所公事方記録綴り>には、

十月四日、元水戸殿家来 田中源蔵子年(ねどし)
右のもの風俗が怪しく候につき、真名畑村において差押さえ差出し候間、ひと通り相
尋ねの上にて入牢を申しつけおき候こと。
十月五日、御代官多田銃三郎さま御じきじきおただしの処、江戸表は差廻しの儀を願
いたき旨を申たて、並びに、追々と召捕られてきたり入牢に罷在(まかりあり)候も
の共は、まったくの人足等にて、ただ単に当座の召し使いに過ぎざるゆえ、なにとぞ
助命下さるように願いたしと、この段をしきりに申立て候こと。とある。
<台宿村番人。半兵衛日誌>(在塙町役場)
によると、十月十六日。田沼意尊さまの命令により、塙の下河原の刑場へ送られたり
田中源蔵の行列は、先頭に棒つき二名、お三つ道具(斬首用の水手桶、ござ、二尺五
寸晒木綿)目隠し布の三人。次に囚人田中源蔵。その縄とりは自分。
護送の大役は、同心川原田友吉どの。
跡番のご処刑は同心赤羽皆治どの初め一同。
右のお仕置き手当は金壱両弐朱(銭にて十貫九百八十四文)但し、囚人へのかね縄は、
なみより太くして藁にてよりあげ、両手をひろげし巾の六倍にて自分が編む。とあり、
なお、ここの<半兵衛日誌>の後尾には、
「右の趣きの請取書にて差しあげ申し候より、承知心得て扱う右三名の者(田中、西
山、高橋〔又は小姓の富吉の方か〕に関しては十七日まで、惣組合衆中は差行居(さ
きゆきとどまり)にて(全部他行(たぎょう)止め)にて、牢番を昼夜とも休まずに出
勤罷在候也」
とも附記されている。

 江戸表に送ってくれと言いはったが、それも聞き入れられず、とうとう十六日には、
塙の北の端にある牢屋から南端の河原まで、俺は曳きたてられてゆくことになった。
 死に際を飾るために「全館連」の旗でも立てて行きたかったが、その旗もなかった。
侘しかった
 それに隊をひきいて必死猛死になって戦っていた頃は、とんと気にならなかった自
分の面相が(これから打ち首になる)と想うと、やけに気になってきた。(見栄にす
ぎないんだ)とは自分でも思うが、それが無性に堪らなく神経質になった。
 だから縄尻をとっている半兵衛に、歩きながら、
「どうせ、俺が首は、さらしっ首にされるだろうが、済まねえが、よう陽のあたる方
を向けて、かんかん陽ぼしにしちゃあ呉れまいか。それに、血泥は拭かねで貰いたい」
と頼んだ。

(その方が生臭く匂うから、きっと蝿がたんと集る。そうすりゃ卵もいっぱいつくか
ら、陽さえかんかん照りつければ、すぐ育って蛆虫が湧く)と、俺はお花畑で見せつ
けられた伯父横山文蔵の繭玉みたいだった首に憧れた。
 なにしろ、あの伯父の顔は、びっしり蛆がついて、まるで純白な八重菊の鉢もりだ
った。だから、この俺の首も、是非ああなって欲しかった。しみじみそれしか考えな
かった。
 あれは九月二十四日のことだが、少年達が残してきた手槍の奪回に、下孫村の二本
松藩の本営を襲ったことがある。そのとき高橋が向こうの隊長を仕とめて、槍先に首
を冠せて持ち帰ってきた。しかし俺は、その丹羽十郎兵衛の生首を見ると首実験も早
々に打ち切り、すぐ助川城の本丸に埋めさせた。せっかくの手柄だからと、
「腐るまで梟首して置きたい」
と高橋幸之介は不平だった。しかし俺は、それどころではなかった。
 というのは、その丹羽十郎兵衛の顔というのが、俺とそっくりで、べた痘(いも)
だったからである。まるで手鏡にでも向き合ってる恰好だったせいなのだ。
 俺は、それまで(死んでしまえば、何も彼もお仕舞いだ)と、そんなつもりでいた。
 ところが顔の痕たるや、死んでも執拗に皮にくっついた侭なのである。痘相という
のは、首だけになっても、すこしも変わらないことが、眼にしみて判りすぎてしまっ
た。そりゃ、(死んだ後で見栄も外聞もあるまい)といってしまえばそれ迄だが、当
人としては、まずい面をさらしものにするなんて、我慢にならぬくらい厭なことであ
る。
 母は、実父源之介の死顔が「実にやすらかで立派だった」とおっしゃるが、俺が視
てきた今までの遺体で、そんな勇ましい死顔なんかに、とんとお目にかかった事はな
い。どれも、きょとんと愕いていたり、恨めしそうに未練たっぷりだった。つまり間
が抜けて、憐れで、気味悪さのない屍骸の顔なんて見た事もない。
 しかしである。まあ見る立場はよいとしても、さて自分が視られる側になると、こ
れはとんでもない事である。
 いくら心掛けても、他所(よそ)行きの顔で、うまく発止と息が止るとは限ったも
のではない。たとえにこにこと顔の造作を、うまく取りつくろったとしても「さあっ」
と言う一瞬に、びくっとでもしたら、もう、それでお仕舞いである。
 出っ歯、反っ歯というのは、死んでからは得な顔で、一見さも、まるで微笑んで絶
命したようにも見られるが、これも横から覗かれたら、すぐばれてしまうだろう。
 なにしろ人間の顔なんてのは、女が見ているから良い恰好をしようと思っても、手
足や胴がついている生きている時でさえ、まあ見てくれ良くとあせったところで、良
い男ぶりには、侭ならぬものである。
 まして、それが首だけとなったら、よほどの色男でも台無しだろう。てんで俺は自
信がない。
 かつて、俺は長柄で両脚を払われ、ずん胴の敵の遺棄死体を見た事がある。
「‥‥達磨だ」と、けたけた笑った覚えがある。脚がないだけでも、あんなに可笑し
いのが、手も胴もなくなったら、どうしたって、まあ南瓜か東瓜だ。顔だけで、良い
恰好になる筈がない。
 もともと首だけで曝すというのは、なにも善行の表彰じゃない。見っともないのを
承知の上でやるのだから、侮辱して耻しめるために見世物にするのだ。その悪条件の
もとにおいて、この俺の醜男ぶりを出したら、こりゃ耻しいきわみである。母上はよ
く、
「男は顔や姿ではない。心である。性根である」と俺には教えられた。しかし首だけ
になったら、どうしたって、やはり残るのは顔だけでしかない。
(天狗面を冠せて、梟首してくれたら有難いんだが‥‥)と、二十才の俺は照れなが
ら前に半兵衛にいったが、そりゃ無理ですと言われている。
 もはやこうなっては、俺の自信のない羞しい顔を、なんとか胡魔かしてしまうには、
ぶんぶん蝿にたからせて卵をうみつけてもらい、それが白い虫に変わってくれて、
「白菊のごとき君なりき」となるしか、これといって方法はない。

「水戸殿の元家来にて田中源蔵こと、子(ね)の二十歳
右之者は吟味詰め候ところ多人数を引連れて、太平山其外所々へ集屯致して居り、そ
のうえ軍用金などと唱え証文を差出し金子を借受け、栃木町など放火致し立廻り候段
は不届につき、かねて仰せ渡される趣きによって、手限り死罪に御仕置きを申し付候。
 元治元年十月十六日 塙御役所 代官」
 すらすらっと棒読みといいたいところだが、三とこも四とこもつかえて同心は読み
あげた。が、栃木へ放火というのは、これはまったく慮外である。
 火矢を放ったのが栃木陣屋ゆえ住民たちに責められて、陣屋は一人一升の詫び米を
出す外に、
「普請する者は五十両。この際に栃木より転出する者には二十五両の見舞金」と、今
だに揉めている筈である。しかし今になって抗弁するのも男らしくない。だから、俺
は黙っていた。

 この栃木陣屋と住民との係争は明治維新になっても解決せず、新政府になると、旧
陣屋の役人がみな逃げてしまった。だから栃木市があるのに栃木県の県庁は、さびれ
た栃木におけず宇都宮市に置かれてある。

「いいよ、そんなものはせんでもいい」
 といったのに、むりやり晒木綿で眼隠しを二重にされてしまった。おかげで眼の前
が真っ暗である。何も視えはしない。なのに、
「丁度、顎の下あたりに、わしが料紙を引っぱって拡げとります。さあ、この筆を口
に咥えて、なんでもええ、お書きなされ」
 と半兵衛がいう。だから此方もびっくりして、
「そんな‥‥目隠しをされ、手は背中へくくられ、筆を口にくわえて何が書けるもん
か」
 と口をとじて、筆の軸をくわえまいとすると、
「‥‥恰好だけでござりますが、これが打ち首のときの作法になっとります。まあ筆
さえ咥えていて下されば、わしが下の紙を動かして、なんぞなぞるように致します」
 困ったように半兵衛が耳許へ囁く。
「では、へのへのもへじでも書いてくれ」
 と仕方なく、俺も承知してしまった。
 が、これが辞世の句とか、絶命の詩というやつかと、さすがに吃驚してしまった。
しかし何処でも、役所というのは形式主義でみんな同じことだろう。すると今まで、
吉田松蔭先生とか梅田雲浜先生なんて有名なお人は、みんな目隠しの咥え筆で、器用
にも七語絶句をすらすらと書いたことになる。
(これはまあ一年ぐらい練習をすれば、やって出来んこともなかろうが、しかしであ
る)それを音声朗々と最期に高吟したとなると、口は一つしかないから、筆を噛んだ
ままでは、鼻の孔からでも(お声を出されたのか)と、俺は疑った。が、すぐに筆の
軸は口からはずされた。
(そうか‥‥今から高吟するのか)と思ったら、間一髪を入れず、待ちかねていたよ
うに、半兵衛が耳許へ、すぐ怒鳴るように、
「源蔵さまァ、お覚悟ッ」と言った。
 俺は周章ててしまって、「頼んだことはいいな。俺の首を陽の目に向けるのだぞ」
と早口に念を押した。そして、
(‥‥筆を口から取られて、すぐ発止と打首では、ろくにものを言い残す隙もない。
こうなると、辞世の句なんてものは、前もって暇な時に拵えておいて、引き廻しの時
にでも矢立と料紙をもった者に口授筆記させるしかないわけだ。きっと有名な先生は
そうされたのであろう‥‥でないと辞世の句なんてものは、後になって他人が代作し
てくれるしか、できないではないか)と、きわめて懐疑的になってしまった。
 が、すぐ自分でも(これではいけない)と狼狽した。
 それでなくても最前から、いや打首になると判ったときから、まだ二十才の羞恥心
で(俺のような器量の良くない顔が、人前にさらされるのは堪らぬ)と自己嫌悪でこ
りかたまって、
(なんとか打首の瞬間は、せめてすこしでも見てくれのよいように、にっこりと愛嬌
のある顔に造作を変えておこう)
 と、かねて決心していたのに、こんな懐疑的な表情をして死んでしまってはなんと
もならない。
 そこで、俺は急いで、にこっとしようとした。
 が、間に合わなかった。俺が唇をあけかけようとしたとき、もう首はころりと前の
穴へ、どしんと落っこちていた。

 ----ナチスに追われ南米で自殺したツヴァイクも「生きた人間の処刑というものは、
けっして‥‥あらゆる書物や報告はここで嘘をつくが、決してロマンティックであっ
たり純粋に感動的であるようなものではありえない。それは俗悪で、こっけいな屠殺
以外のなにものでもない。なんと嘘の多い事よ」とその作品に書いている。

 せっかく南向きに高札を立てさせ、そこへ梟首するつもりだった半兵衛は、川原田
友吉の指図で、「代官所へ持戻り」と指示されると、当てがはずれてしまった。
 胴体の方は、安楽寺の察道和尚が、寺男に運ばせて持ち帰ったが、首は早速にも粗
塩二升にて広口の梅干瓶へ漬けこまれ、上から桐油紙三枚に麻紐八十八匁をもって縛
りつけられた。
 水戸藩出張の屋代増之助に指図されて、代官手付の朱房目明かし藤助が、下引に瓶
を背負わせ太田経由で、水戸城の三の丸へと届けた。
 十月十八日に田沼玄蕃頭意尊は、待ちかねていて首実験を終ると、異数の事ではあ
るが、見せしめのため水戸城大手門外へと梟首(さらし)に立てさせた。そして奪還
される心配もあったので、江戸表から随伴して来てる御徒士(おかち)の者共に、そ
の首を見張らせた。
「まんだ二十才だそうだが、この男のために、喜んで死んだ者が‥‥延べでは千名も
いたそうな、よほど‥‥この男は書生たちや、みんなに好かれたもんだのう」
 と一人が、しみじみ感服しながら呟くと、噂だけは誰も知らぬ者もないから、みな、
それに頷いて、俺の首を眺め直した。
 すると、そのうちの年少な、まだ何処かで勉学中らしい書生っぽくさい若侍が、
「こりゃ、いかん。可哀想じゃ」
 と小走りに濠端へとんでいった。
 そこには柳の老木が下へ枝をたらしていた。書生っぽの若侍は、とび上がって七、
八本ばかり、その小枝をひっぱって剪り取ってきた。
 そして、もち帰ってくると、それを一と枝ずつ手渡された他の徒士衆も、
「たとえ塩漬になっていても、何処からか匂いを嗅ぎつけて寄ってくる。追わん事に
は、すぐ卵をうみつけて、蛆虫だらけにされる」と顔をしかめ、
「それでは可哀想じゃ。これ程の者をそのような不憫な目には逢されはせぬ。吾らの
御役目中は、誓ってたとえ一匹たりともたからせまい」と頷きあった。
「‥‥これぞ武士の情け。相身互いでござろうのう」
 と、せっせと手分けして見張り番の徒士の侍たちは、親切に柳の小枝で群がる蝿を
追い払った。
 だからして、(それでは予定と違う。困るではないか)
 俺のざんぎり頭は、面白くない顔で怨めしそうにふくれ、むくれきっていた。

[了]