1033 元治元年の全学連 18

悲運八溝山(はっこうざん)

 せっかく道具を揃えて勉学に励みだしたが、すぐに邪魔が入った。というのは、
<元治元年九月二十七日、助川城はまた敵の機動隊に四方から包囲されてしまった>
からである。
「敵襲です」と起こされて、俺は城の屋根へよじ登ってみた。すると、助川城表口、
つまり東は外祭(そとまつり)勢。海岸よりは大谷鳴海勢。
 北は、卍の旗をひるがえした寺門百姓隊千五百に内藤勢の三千。
 西は、弘道館書生の残党と民兵隊を率いた相馬九十郎勢の四千。
 南は、馴染の×印と三つ梅鉢の奥州二本松丹羽家十万石の藩兵隊。
「‥‥こりゃ、ものものしい。蟻の這い出る隙もない」と、俺はびっくりさせられた。
なにしろ味方は五百なのに、合計敵は二万で、四十倍なのである。
「これだけ囲まれては戦えない。逃げのびよう。だが、一ヶ所に落ち合うのは無理だ
ろう。別途に分かれる」と、紙燭の光りの中で、俺は言った。
「次の落ち合う先は」と岩谷敬一郎がきくから、
「----甲府ですよ。万一、うまく行かねば富士川を下って、駿府で待ち合わせるよう」
と返事をした。
「よろしい。あんたは、湊合戦で敵中に一人突き込んでも殺されず、逆に敵将淵本半
蔵を討取り、この間の森山合戦でも、子供や動けぬ連中を率いて敵中突破。かすり傷
一つ負わなんだ不死身の人だ。では再開をたのしみに‥‥天下をとって、住みよい国
にしましょう」と別れを告げていった。
「うん」と、俺はうなずきながら、この助川へ入ってすぐ、もしもの事を用心し、湊
に残した晴江を水戸下市の母の許へ落としてやっていたので、それを、まず吻っと
(良かった)と考えたりした。
 見下ろすと岩谷達は田宇沼(たうぬま)の雑木林へ潜って行くところだった。
「さて早く逃げねば‥‥」と、俺もその気で降りてみると、少年隊の袴をとらせ、土
田衡平は片口を固く結わえさせ、それに米を五升ずつぐらい入れて肩に背負わせてい
た。そして、俺を見るなり、
「山へ登りましょう。彼処の頂上へあがって、其処から退け口を見つけましょう。他
には逃げようにも出口がありません」
 と、ゆっくりいって微笑んだ。
 西山も気がきいていた。馬の口をみな結わえて来たと報告した。
「いいか。絶対に大声を出すな。米と武器の外は持つなよ。もし敵に囲まれたら、大
人が残って戦ってやる。決して君らは手出しするなよ」と、俺はまず少年隊から外へ
出した。
 土田のいう山。つまり高鈴山の頂上目がけて、金山の峰ごしに這い上った。

 ようやく沢谷まで登ったところで、北沢の崖ごしに白茶けた煙が、まだ柚木の薄切
りみたいな月の残っている明け空を薄黒く染めだした。
「頼んだ通りに早く出た岩谷が、反対の方角へ火をつけてくれた。敵は向こうへ殺到
してゆくだろう」
 頂上まで出た俺は、里川へ下って瑞竜へ出るか、大室山を、もう一つ越して棚倉街
道へ入るか迷った。すると、
「登りは良いが、ここからの下りは無理です。御岩神社へ出ましょう。彼処へ出れば、
大雄院本山の参拝路ですから、ずうっと道がついています」
 土田の言う事なので、俺は一も二もなく、それに頷いた。まさか、これが土田との
永遠の別れになるなどとは、その時、夢にも想わなかった。
 やがて樹間に御岩神社の鳥居がみえだしてきた。
 杉木立の間から社の屋根がみえると、神前の御手洗(みたらし)を想いついて、誰
かが、
「水がある」と低い声だが叫んだ。
 すると咽喉をからからに乾かしていた少年達は、
「わあっ」と歓声をあげて、重たい米袋を背負ったまま、われ先に駈け降りていった。
もうここまでくれば敵の心配はないと、俺たちも考えていたから、別に、それを咎め
だてたり制止もしなかった。自分らも足を急がせて後を追った。
「----神社で一服して、飯でも炊かせて子供らに喰わせてやらにゃ‥‥」と、俺も土
田に話しかけながら、楢林をくぐり抜け参拝路へ下りた。
 するとである。その途端、いきなり竹槍が左右から、ぐうっと俺を縫ってきた。
 殆ど無意識だったが、俺は背後へはねのき、刀を抜き打ちざま、からんころんと竹
槍を斬り払って転がしていた。しかし、
「----俺は合羽屋の九六って、ちょっとは知られた岡町の渡世人だ。民兵団の助っ人
を頼まれて、近在の百姓を集めて、今から繰り込むところだった。おかげで、ここで
逢うとは百年目、とんだ初手柄だ。さあ降参しろ」と、やくざが前へ出てきた。そし
て、俺に向かって、
「やい、若造ッ、貴さまから、お縄を頂戴しろ」
 俺の身なりを、じろじろ眺め廻しながら絡んできた。
(高が無頼のくせに横柄な)と、次第に明るくなる朝日で見渡すと、居るわ、居るわ。
十重、二十重どころの騒ぎではない。
 入四間(いりしけん)の左右の山肌まで、まるで、びっしり竹槍の薮だった。いく
らすくなく見積もっても、千五百はおる大部隊。これが民兵団なのかと、流石に俺も
度肝を抜かれた。すると、その時、
「やいやい、てめえら。男同志で、かたをつけるんなら、子供は落としてやれ。神さ
んの前で、お稚児をいたぶると、天罰てき面だぞ」
 割れ鐘みたいな、凄まじい銅羅声がした。
 俺が面喰って振返ると、いつの間にか、両手に短かい懐ろ鉄砲を握って、田村賢孝
が、前へのり出してきた。
「わしは東山修験者で中郷村竜宝院の阿闍梨の官位をもっとるが、常州の御牢屋にゃ、
これで十一回も叩きこまれとる。てめえらも渡世人の端くれなら、何処かの牢格子の
隅からでも、俺が面は見知った奴もいるだろう」と、まくしたてた。
 どうも賢孝の喋舌ってる事は本当らしく、やくざ共は、かねて彼を見知っているよ
うだった。
 道をふさいでいた長脇差共は、左右に押しのけられるように、少しずつ後退りをし
ていった。
 その隙を縫って、脅えきった少年達を、西谷と高橋がまず先に誘導した。
 俺も、ういて抜けようとした。が、
「----待ちやあがれ」
 と、先刻の合羽屋と名乗るやくざが、いきなり抜刀して、前へ立ちはだかって俺に
は掛って来た。
 すると、もはやこれ迄と見てとったか、
「‥‥軍将、お先に行って下さい。こいつらは吾々で‥‥」と叫びをあげ、
「小父さん達が‥‥代りに死んでやる。君ら少年は、もっと生きるんだぞ」
 口々に喚きながら、槍を振って踊り出してきたのは、金子弥助。大津彦之介、吉田
芳之介、大砂源蔵。あと二十名余りいたが、顔を見ている暇もなかった。馬の口をひ
っぱってきた西山が、俺をすばやく鞍にのせた。そして、途中で敵に追いつかれると、
俺を庇ってくれて二十代の者が何人か次々と残っては喰い止めた。

 持宝院まで下って、落ち延びて来る者を収容したが、土田は、いくら待っても来な
かった。
「博奕打と百姓でも、二千に近い人数です。あとは諦めて、一刻も早く此処を出て下
さい」
「博徒は二、三百人で、あとは百姓ですが、なにしろ、あれだけの人数です。追いつ
かれぬうちに急いで下さい」
 と西山と高橋に交互に泣きつかんばかりにせかされて、砂山越えに水戸街道の西金
の宿場へ出た。
 呑まず喰わずの強行軍で、もう生きのびてきた少年隊も道端にうずくまってしまっ
ていた。
「‥‥可哀想に」と、土地の者が総出で粥をたいて世話してくれた。俺が泊った神永
の家は、飼っている鶏までつぶして馳走を振舞ってくれた。夢中で食べさせてもらっ
たはよいが、
「‥‥さて此処から何処へ」ということになった。

 八溝連山の寄神山の頂上に、田村賢孝が、十二年前の嘉永五年に、伊勢大廟遥拝所
を建立していた。
 そして、その頃から八溝嶺神社の神主高梨別当とは、懇意だというから、米味噌塩
魚など当座の食料を買い付けてもらう金を、すぐさま七十両届けさせた。
 だから西山を出発する時、残りの米を袴に入れて、また括りつけて背負い出す少年
隊に、
「八溝山の頂上に食料は揃えてもらってあるから、心配することはない」と年上の者
がやめさせ、泊めてもらった家へ、残米は礼代りに置いて、みんな袴をふつうにつけ
て出発した。山登りだからである。
 だが、太子(だいご)の宿場には「弘道館の官学党が来て、新しく民兵の募集をし
ている」
 と聞いたから、西金の神永通之介の世話で、山案内に鈴木民部を頼み、依上村から
佐原村の槙野地へ、間道伝いに山林の中をくぐって上野宮へ登った。
 砲車は、入四間で博徒隊に包囲された時に、置いてきてしまったし、馬も二十頭ぐ
らいに減っていたから、少年達は、背に荷物をつけたり、負傷者を肩に抱えて登攀し
た。
「ここから頂上までは、あと二里ですけ」
 と道案内が指さしてる最中だった。
 近津神社の境内から、手甲脚絆に鉢巻姿で尻端折り。目印に白晒木綿の襷掛けをし
た百姓兵が、無頼らしい長脇差に励まされて、鳶口、竹槍、鍬、鋤を振り上げて、一
斉にまたも、
「わあっ」と取り巻いてきた。これは思いもかけぬ襲撃であった。
「‥‥又きたかッ」と、俺もうんざりさせられた。
 なにしろ場所が、八溝川の流域にそった門ノ井と宮本の中間で、現在でも一米もな
い狭い道巾の所なのである。囲まれては逃げ場もなかった。
「天狗を一人たたっ殺したら、日当の他に、天保五枚つの御褒美じゃぞえ」
 頬に刀傷のある渡世人が、豆絞りの鉢巻の下から、大声で喚きまわった。
 どれくらいの人数かと見廻すと、右手の権現堂、背後の風木草あたりからも、
「おお」「おお」武者押しするような掛け声が、木魂[こだま]してくる有様だった。
しかし、稲村よりの方角は勾配がついているから、葉っぱの茂みから透かせば見降ろ
せる。
 そこで、俺がよく覗きこんでみると、声をかけているのは鉢巻ではなくて頬冠りの
連中だった。ねんねこ絆天で子を背負った奴もいる。竹槍は担いでいるが、どうやら
嬶や婆さま達の女連中のようにも見受けられた。
「なあんだ日当稼ぎに押し寄せているのか」
 あまりの執拗さに参ってしまった俺も、向こうが女まで頬かむりさせて数に加えて、
出面稼ぎの日傭とりと判ると、ほっとした。
(これなら背後の女共を脅かせば、向こうの足は浮く)と判断もついた。しかし癪に
さわるのはやくざである。多分、人集めして、それに払う賃銭の上前はねさして手配
師の商売をしているのだろうが、ひどい奴らだと、
「百姓より博徒をたたっ切れ」と命令した。
 そこで隊員たちが、白だすきの博徒を狙って斬りつけまわるのを見定めてから、俺
は銃隊の者をよんで、
「土地者を殺傷しては後で恨まれるぞ」
 と言いきかせてから、木陰にかくれて声援している頬冠りの連中に向け、当らぬよ
うに空鉄砲をうたせた。
 すると、覿面(てきめん)に効き目があった。
「きえーっ」と女の声に戻って、悲鳴をあげて逃げだした。だから日当稼ぎに少年兵
を追い廻していた百姓の男共も周章てて、その後を追って叢へ駈けこんだ。
 しかし追い払って吻っとしたのは良いが、百姓共の中には手の早いのがいて、どさ
くさ紛れに残りの馬が一頭もいなくなった。みな引っぱって持って行かれてしまった
のである。
「----取り返しに行きましょう」と高橋は言った。だが俺は首をふった。どうせ山ご
もりするのだから、当分は無用と思ったからだ。
 六七町進んで花草の峠へ出ると、吉目の方角と、背後の桜井から、また百人余りの
白襷隊が顔を出した。又である。
 もう、うんざりしきっていたから、俺は自分から、つかつかと進んで行った。そし
て裸のままの一両小判を五枚ばかり見せ、
「ご苦労。これで一杯呑んでください」と声をかけてやった。もう解決策は金しかな
いと思ったからである。
 だが向こうは、薄気味悪そうに、なかなか側へ寄って来なかった。俺は仕方がない
から、さっきの宮本で、敵から奪って杖がわりについてきた竹槍の尻の方を小柄で割
って、そこへ小判を差込んで、突き出した。
 すると眼の窪んだ男が、野良猫が餌を貰った時みたいに、おっかなびっくり手を出
して、掴むと素早くうしろへ飛びはねた。
「----お互いに、此処じゃ、逢わなかった事にしようや」と、談合をしかけてみると、
「へえ、ごもっともさんで‥‥」
 小判を固く握りしめた男は、鉢巻をとって、急いで、ぺこりと頭を下げた。そこで、
俺は、
「なにしろ道案内にはぐれてしまったが、何処から登ったら良かろうか」と、ついで
に尋ねた。
「蛇穴から廻っていきゃあ、道は楽だが、あっちにも、黒羽からの衆が何百も蓆旗
(むしろ)をたて待ちかまえてるけ、うっかり逢ったら、また首代に小判なんか出し
て散財だ。こう、まっすぐに登りなせえやし。ちょっと険しいが、みんな若いで大丈
夫だけ」
 と親切そうな百姓の民兵の一人が指さして、こんもりした山肌を教えてくれた。
「では、これで別れる」と隊列を、言われた方に向けて進めだすと、なんの事はない、
みんなで、
「‥‥お気をつけて、行ってけ」と口々に、白襷した連中が見送ってくれた。
「----教わった道なんか進んで行って、大丈夫でしょうか」
 西山常蔵が心細そうに、薄い眉毛をねじって聞いてきた。さっきの小ぜり合いで怪
我をしたのか、鬢のところに線をひいて、赤黒く血こごりができていた。
「なあに、他所の村の者が、また自分ら同様に酒代を貰うのは、いまいましいと、百
姓根性で教えてくれた道だ。まあ間違いはなかろう」
 といいながら、俺は苦笑して「地獄の沙汰も金次第とはこの事か」と考えた。
 やがて樵道(きこりみち)というのか、ただ草が踏まれて、それが目印のような険
阻な山道を登っていった。
 だが白菊のような竜野菊の花畠が、ずっと両側に何町も続いて、これが少年隊を喜
ばせた。中には竜胆の花を見つけて手折ってきたのを、さかんに奪い合って騒いでい
る元気なのもいた。
「民兵隊との最後の出逢いが、すらすら円満に済んでしまったから、みんな吻っとし
て、元気づいてますなあ」
 少年達が騒ぐのを、助川の城では、あんなに、うるさがっていた高橋だが、今の場
合は自分も吻っとしたように、さも満足そうに眼尻に皺をよせていた。しかし、
「高木さんが可哀想ですな‥‥すっかり気落ちしている」と、そんな事も言った。
 振返って西山が指さしたのは、尾張藩の家老の跡目なのに、二千石の屋敷を抜けだ
して、ずっと奇兵隊の大砲長をしていた高木武平である。彼の話では、代々、その武
平を襲名するが、名古屋の城下では有名な格式もので彼の屋敷前一帯を武平町と言う
のだそうだが、まだとって十九才。色白の、ぽっちゃりした青年である。
「仕様がない。また宇都宮藩の陣所へでも忍びこんで、大砲を、うまく曳っぱり出し
てくるか」と、俺が笑うと、
「今度は馴れてますから、五、六門、あるだけみな貰ってきますか」と西山常蔵も元
気がよい。まあ俺を元気づけているのかもしれない。
「----田中さん」と、また声をかけてきた者がある。
 背後から追いかけるように寄ってきたのは、二本松脱藩の藤田芳之助だった。江戸
神田お玉ヶ池千葉道場で、長年師範代を勤めた剣士で、各藩に同門の知己が多い。こ
の五月に猿田の忠夫の護衛に同行してもらった時、高崎藩に捕らえられたが、藤田だ
けは昔の後輩が奉行所にいたから、即日帰されて奇兵隊へ戻って来ている。なにしろ
隊の中では、一番の使い手だろう。入四間の戦いでも、十何人倒したといって、一番
後から引揚げてきたほどの剛の者である。
「山向こうは棚倉藩ですが、彼処の師範役山田直之丞とは、僕は千葉周作先生の所で
五年も冷や飯を一緒に喰ってきた仲です。落着いたら‥‥一度僕に暇を下さい。彼に
逢ってみて、何か吾々に益になる策を彼にたててもらいましょう」と告げにきた。
「そりゃ助かる‥‥まあ頼む」と俺はいった。
 なにしろ土田衡平に別れてしまった後の俺たるや、まるで羽根をもがれた鳥みたい
なもので、相談役たるや、航空雲車(うんしゃ)を考案中の田村賢孝あたりに頼って
いる。藤田は三十七才で大人で、この俺には願ってもない介添役である。
 西山常蔵や高橋幸之介は人は良いのだが、あまり難しい話にはむかない。まあ従士
のように、俺にくっついて忠実にやってくれるだけである。それに高鈴山ごえの御岩
神社の激戦で、十八、九から上の者は、後輩の少年兵を庇って、みな身を挺して合羽
屋の集団に突入してしまったから、隊としては三百五十人余りの生存者をもっている
が、そのうちの三百は十六から下の子供ばかりといった有様に今となっては、なって
しまっている。
「岩谷敬一郎とも離れてしまって、まったく大人がいなくなってしまったね‥‥」
とこぼす俺に、藤田芳之助は豪放に、
「なぁに山登りして鍛練すれば少年兵も見違えるような精鋭になります。八溝山とは
好い所へ目をつけられました」と、俺の肩を叩いて賞めそやした。

「ばんざあい」「ばんざあい」
 小姓組までが、少年隊と一緒になって、わあ、わあ嬉しがって騒いでいる。
 なにしろ高さ三千四百尺。山頂から見渡せば、奥州から常州そして野州までの三ヶ
国が一望に眺められるのである。
 だから、まるで野駈けの遠足にでも来たように、すっかり見晴らしを喜んで少年隊
は、追い掛けごっこまでしてはしゃいでいる。
 だが、その歓呼の声を聴きながら、
「ううん‥‥」俺は、すっかり蒼ざめていた。社務所に誰もいないからである。
 田村賢孝もすっかり蒼ざめて右往左往していた。子供たちは別にして大人はみな周
章てふためいていた。なにしろ隊の残金の七十両をすっかり預けて、山篭りの食料の
買こみを頼んでおいたのに、何処にも食物の叺や俵もなければ、人っ子ひとり山頂に
は見当たらないのである。だから、神社の拝殿から、別当宿坊のがらんとした所まで
探し廻り、みな血眼になっては、
「どこを探し廻ってもいません」と騒ぎだした。
 日光権現をまつり「八溝嶺宮」とも崇められるこの神社は、別当の高梨坊の他に、
修験の供奉人が、いつも十数人は神殿に奉仕してると聞いていた。それなのに、
(神宮の姿も見当たらねば、行者さえ一人もいない)との報告だった。俺は唇を震わ
せた。
「‥‥これは、きっと、吾々が以来した食料が、三百何十人分で多いから、なかなか
集められず、高梨別当が、山の行者まで一人残らず狩り出して、麓へ出向いているの
ではなかろうか」
 田村賢孝が言えば時習館の尾形友一郎先生も、「そうじゃろ」と教育者らしくうな
ずき、
「まあこの山麓一帯は、なにしろ村中の者が、やくざに追い立てられて襷がけで民兵
に出されとるから、ここの別当も、なかなか物集めが出来んのじゃろ」と、そんな具
合に相槌をうった。
「すこしずつでも運べばええのに、なにしろ前金で七十両も預かっとるから、余程の
物を、いっ時に揃えな恰好がつかんと、苦労しとるのじゃよ」
 と太子館の教授方佐藤寛斉先生も同情する口調だった。先生は教え子を庇って入四
間で戦い、左手を肩から失っていられる。
 直接に逢って、金を渡してる賢孝や、その時の随伴の者共が「間違いない」という
し、それに俺も、相手が神仏にお仕えする身で、高梨別当といえば野口あたりにも聞
こえたお人だから、それ程までには気にしなかった。もちろん食物がなく饑じさにい
らいら落着きはしなかったが、それかといって別に疑ったりはしてなかった。
「その裡に、気をきかせて‥‥結飯(むすび)にでもこさえて、今日あたりは麓から
持って来るんでしょう」
 などと藤田芳之助も構えていたが、昼すぎになっても、下から誰も登って来なかっ
た。
 やがて薄暗くなってきた。心細くなって、
「別当を探しに山を降りてみましょうか」
 と西山が言いにきたが、また百姓兵に取り囲まれては事だから、俺は首をふって、
「よせ」と止めさせてしまった。しかし夜になると山頂は吹きっさらしで寒くなった。
 飢えと寒さで、俺ばかりでなく、みなろくに寝られぬ夜をすごしてしまった。
 年寄りの先生方は、ぜいぜい一晩中咳ばかりしておられた。

「‥‥解散しよう」
 せっぱ詰って俺は言った。手をついて、みんなに詫びた。本当にこうなっては、
「許してくれ」としかいいようもなかった。
 なのに、
「別れとうない」「離れるのはいやです」
 と、大人までが少年兵と共にいってくれる。
 白髯の尾形先生や、手ん棒になられた佐藤先生までが、孫のような俺に、
「学生闘争委員長(しょせいかたもとどり)よ、弱気を出しちゃいかん」
 と励まして下さる。しかしお志は有難いが、二十才の俺には、もう限度がきてしま
っている。
 なんと誰にいわれたって、もう自分自身がばてきってしまっている。なんともなる
ものではない。そりゃ初めのうちこそ少年兵を使って、山肌を駈け廻らせ、野葡萄、
こけ桃、あけび、野茨の実、薮柑子の実と、口に入れられるものはみな食いつぶして
凌がせてもきた。
 しかし三百余の人数である。今では取りつくして、栃の木の実。どん栗の木の実。
終りには椎の実や櫟の実まで囓ってきた。
 それに山の上なので、ずっと凍りつくような氷雨が降り通しだった。
 だから樹から滑って、骨を折った者も出た。そして二日目の夜あたりからは、一人
残らず下腹を病んで烈しい下痢に苦しんでいる。
 それでも必死になって歯がみをし、誰もが辛抱した。いたいけない児供まで頑張っ
ていた。
(なにしろ七十両の金を持ち逃げされた)とようやく気がついた時には、もう八溝山
の別当に対して腹を立てる気力も、みな失ってしまっていた。
 病人は誘い合せたように、山へきて三日目の明け方に塊りあったまま、まだ暗いう
ちに誰にも知らせず、黙って八人も揃って死んでいってしまった。野口の幼い在校生
たちだった。仲良く手をとりあって十三と十四の子供達は絶息していた。
 あまりにもいじらしいというか、憐れにすぎた。俺は顔を覆ってしまい正視できか
ねた。
「‥‥許してくれ」
 骸に対して俺は耻も外聞もなく哭いた。一人ずつに頭を下げた。
 もうこれまでに怪我人は次々と死んでいったから、既に山頂へきてから三十人は死
んでいた。
 昨日も百姓に鍬で頭を割られていた山田二郎たちの少年兵が、続けて三人も、
「おっ母あ」「おっ母さん」と泣きじゃくりながら事きれてゆくのを、俺は見とって
やったばかりである。おれは無力に何にもしてやれなかった。
 塗る薬、呑ませる薬もなく、俺は怪我人たちまでも餓死させてしまったのだ。辛か
った。
 しかし飢えは違った死も招いた。四日ぶりに晴れた朝を迎えた換り、越前藩士と少
年隊が三人、泥だらけの草を唇からたらした侭、青ぶくれして死んでしまった。他に
毒茸を喰って死んだ者も二人。
 もはや他の者たちも埋める力もなく屍を、やっと神橋まで運んだきりだった。
 だから俺としては、もう万策つきはてて、なんともならず解散を決意したのだ。
「いくら別れたくない離れたくないと言われても、この侭では皆を餓死させてしまう
だけである。ここで解散してばらばらに山麓へおりて、時期を待って再挙しよう」と、
俺は説得した。
 泣きはらして真っ赤な顔をしてる西山と高橋に、金箱を持って来させると、誰彼の
区別なく、小判を一枚ずつ配らせた。
 少年隊などは、生まれて初めて見る黄金だと思うが、口に入る物ではないから、喜
びの声も洩れなかった。しゅんとしきっていた。
「‥‥みんなの体力が此処まで尽きてしまう前に、たとえ四里の山道でも、麓まで徴
発に行けば良かったのを、民兵隊に囲まれる煩わしさに懲りて、その命令出さなかっ
た点。俺は本当に、みんなに済まんと思っとる」と頭を下げた。俺は垂れっぱなしで、
頭が上げられなかった。
 そして、すすりなく少年兵や隊員に、
「‥‥地獄の沙汰も金というから、其処へ、最期の隊金を分配した。それだけあれば、
落ち延びて、当座は何とか過ごせるだろう。もし何処かで『全館連』と『奇兵隊』の
旗が上がったと耳にしたら、たとえ一人でも同志を誘ってくれて集ってきてくれ‥‥
新しい皆の為の国作りには、どうしたって僕たちの浄かな血がいるんだ。なら判った
ら、降りていってくれ‥‥もし途中で百姓兵に捕ったら、その一両首代にやって、な
んとしてでも助かってくれ」
 と、かんで含めるように言ってやった。
 なのに誰も立とうとしない。そこで、
「何をぐずついている‥‥せっかく雨があがって道が滑らぬようになっているんだぞ。
ぐずついていては、又、雨になるかもしれないぞ‥‥暗くならないうちに、さあ、み
んな降りてゆくんだ」
 俺は喚き散らして叱りとばした。
 だが、誰も動こうとしない。そして、
「‥‥別れるの、さみしい。つまらん」
 などと少年たちは言うのである。しかし、
(この少年兵を、こんな山へ連れてきてしまっただけでも責任があるのに‥‥これ以
上、餓死させてしまうことが出来るもんか)
 と、俺は心を鬼にして睨みつけると、
「‥‥命令だ。降りてゆけ。塊っていっては人目につくから、三々伍々で麓へ忍び出
ろと、俺はいってるだけだ。後から、この俺も行く‥‥またすぐ逢えるんではないか」
 と怒鳴りつけた。さも憤っているように、ぐうっと見渡した。が身を切られるよう
に、俺はとても悲しかった。泪をみせまいと、咽喉のところでぜいぜい泣いていた。

白菊のごとき君なりき

塙代官所というのは、東西の白河の他に石川、田村、双葉、石城の六郡の他に、常陸
多賀の飛び地まで入れると九万石の大公儀直領。俗に「天領」とよばれる御支配所で
ある。
 ここの代官所へ俺が来たのは昨日の朝である。

 十月二日に八溝を解散して、一人残らず落としてやってから、久慈川を渡って湯岐
の塩湯へ行こうと思ったが、真名畑(まなばたけ)まで降りてきたら、もう動けなく
なって、牛方の家へ転がりこみ、そこで、二た晩、稗粥を喰って寝込んでいたところ、
そこで夜明け方に、とんとん戸を叩かれ、
「代官安井忠平の手付の者でござる。お迎えに参った」と声をかけられた。
 忠平とは、俺が江都お茶の水聖学堂で学んだ恩師の安井息軒先生のことである。元
治元年五月二十八日付で、当地のお代官の御役目についた事は、噂にもきいていた。
 だから、俺は先生に再会できる喜ばしさで、つい自分からすすんで、その手代に案
内させ、此処へ来てしまったのである。
 というのは、なにしろ、たとえば、
(藤田芳之助が高崎で捕らえられても、役人に顔がきけば、即日丁重に送り出されて
道中切手まで持たせてくれる程)の当節は役人万能の世の中である。
 だから九万石の土地のお代官が昔の先生ならば、如何ようにも扱ってくれるだろう
と、勇躍して訪れたのである。
 もちろん、そうした計算の他に、俺としては、人恋しいというか。昔の恩師にお逢
いしたいという、そんな気持ちも溢れきっていた。いろいろ先生に話もしたかったし、
叱られもしたかった。甘えといってしまえば、それまでのことだが、お目にかかりた
くて胸が一杯だった。だからして、
「わざわざと迎えにきてくれんでも、俺は自分からお尋ねしてきたいと思っていたの
である」
 と、奉行所の門をくぐる時には、その手代の役人には云ったぐらいである。なにし
ろ、これから安井息軒先生に久しぶりにお逢いできるかと思えば、ひとりでに頬もほ
ころびた。
 すると、手代の役人が、気の毒そうに、
「これは‥‥しきたりでござるによって」と細縄をもった小者を連れて来た。そこで
俺は代官所は学校ではないのだから、机を置いてという訳にもゆくまいと、素直に自
分から腕を背後へ廻した。すると、恰好だけにしては、ちょっと痛いくらい強く縛り
あげられてしまった。そして、
「どうぞ」と案内されて行ったら、牢格子の中だった。まあ仕様があるまいと待って
いると、やがて、
「お呼出し‥‥」と翌朝になって牢番が迎えに来た。
 久しぶりに、俺より凄い痘相の先生のお顔が拝めるのかと、喜んで曳かれて行った
ら、面喰ったことには一面識もなく見た事もない四十がらみの狐面が、そこにはいた。
「こちらはお代官さまの多田銃三郎さまなるぞ」と下役が言うから、俺は周章ててし
まって、
「安井忠平息軒先生は‥‥」と絶叫すると、昨日の朝、俺を迎えに来た下役が、側へ
よってきて、
「‥‥安井さまはなにしろお齢が六十六才で、御発令はあったが、なかなか御赴任頂
けず、よってこの十月一日より、此方さまがお代官さまとして、お出向になられたの
じゃ。まだ正式のお布令が遅れているから、代官名義は安井さまじゃが、実際は御後
任のこなたの多田さまである」と脇から説明をしたのである。唖然として、俺は返す
言葉もなかった。
 しかし、困ったことがあった。それは今朝がたここの牢番の者に聞いた話だが、
(この俺が、にこにこと塙代官へ曳かれていった)というのを耳にし粗忽にも西山常
蔵と高橋幸之介の二人が、小姓をさせていた十三の富吉と一緒に、のこのこ自分らか
ら、俺を慕って此処へ出向いてきてしまい、すぐさま役人に東の牢へ入れられてしま
っているというのである。
 聞いてびっくりしたが手遅れである。まさか(代官が違っていた。逃げろ)とも既
に牢へ入れられてしまった三人に伝えようもない。
 そこで俺は、その新しい代官に向かって、まず、
「僕を慕ってこの代官所へきた者があるそうですが、彼らは荷物担ぎに傭った人足に
すぎません、ひとつ放免してやって下さい」と交渉した。これが今となって先決問題
だった。