1029 元治元年の全学連 14

青春祝町遊郭(いわいちょうゆうかく)

 那珂川の渡しを越えると、平磯明神の丘が左になだらかな起伏をみせている。
 右は、まるで石畳を敷きつめたような、青黒い波も静かな磯の浜である。
 ぷうんと鼻につく汐の匂いをかいでいると、まるで、うっとりさせられそうな快よ
さを感じてしまう。漁家の女どもが、てん草やわかめを竹篭に入れて抱えて通る陽焼
けした脚にも、なにかしら海の香りがつきまとって、俺は久方ぶりに、のんびりして
しまった。
 水戸城に俄か作りの錦旗や菊旗が掲げられてしまい、せっかく三千の兵力で包囲し
ながら、総引揚げと決まったのを、岩谷の注進で早や耳で知ったとき、土田衡平は、
「次の陣所は‥‥磯です」といいだした。
 彼にいわせると、戦国時代の大名は、銃器は国内で模造品の生産ができても、それ
を飛ばす弾薬の煙硝は国内では産出せず、みなマカオあたりからの舶来なので、諸大
名は海べりに城を構えた。しかし徳川家が天下を掌握すると、前の豊臣秀吉にならっ
て「諸大名が直接に硝石を外国人から変えぬよう」にと、まず火薬商人をかねていた
宣教師の渡航を禁じ、ついで長崎の出島だけを唯一の門戸にし、徳川家だけが火薬を
独占輸入し他の大名には「銃はあっても火薬がない」という限定状態に釘づけさせる
ため、いわゆる「鎖国」をしいてきた。だから海ぞいの城は、密貿易の惧れがあると、
これは殆ど取りこわしを命じた。だからこそ徳川三百年の泰平が保ちえたのだが、今
は違う。これからは、国外と連絡できる海、つまり湊をもつことだ。きっと本部も目
をつけるだろう。と主張した。
 しかし水戸領で港というと、ここの那珂湊と、平磯しかない。
「先んずれば人を制し、遅るれば、人に制せられるのが世のたとえです」
 と土田衡平は、(どうせ今の兵力の侭では甲府進撃は及びもつかぬから、ひとまず
先に平磯へ行き、本隊に先立って恰好の所を確保しておき、そこで他隊から引き抜き
をしたり、又は新募をしよう)と提案をしたのである。
 もちろん土田は参謀だから、他から反対のでるわけもない。
 そこで吾々だけが、もたつく本隊を後にして、先に直行してきたのだが、なにも全
員に馬があるわけではない。それに進軍というか、突撃といった場合でもない。だか
らどうしても、落伍者を出さぬように馬の歩速を、隊列の徒歩に合せて行進しなけれ
ばならぬ。
 しかし磯の香がぷうんとしてくると、俺は子供のように我慢がならなくて、
「‥‥ひと足さきに駆けさせてくれ。平磯明神の所で待ってるぞ」
 と言いざま鞭をくれて、単騎でとばしてきてしまったのである。
 だから、のんびりとして磯の松の樹蔭に入って大の字になって、鼻をひくひくさせ
ながら、
「あ、あ」と、それを欠伸にかえ、つい良い心地になって、うとうと居眠りをしてし
まったらしい。
「だあッ」
 と、諸手突きで剛刀の切っ先が咽喉仏へ、まるで打ちおろされるように降ってきた
時、
「きゃあッ」と、さすがに俺も悲鳴をあげた。なにしろ、びっくりした。
 寝返りをうって跳ね起きはしたが、やはり寝呆けていたのだろう。腰の物をはずし
て抱えていた筈なのに、みると俺は素手だった。仕方がないから、頭突きを喰らわせ
るような恰好で、相手の内懐ろへ飛びこむなり、
「うわっ」と、向こうの刀の柄をつかむと、その脾腹へ、こちらの肘をぐわんとくわ
せ、
「こらッ」と、刀をもぎとるなり、
「‥‥二つになれ」と、真っ向こう唐竹割りと心得、素早く相手の肩と首の間を狙っ
て斬り下げた。
 よく切れる刀だった。まさか、真っ二つにはならなかったが、真っ赤な肉が、ぱっ
くり分れて、白い肩の骨まで斬り裂かれて覗けた。
「おのれッ」と二人目のやつが斬り掛った。
 俺は咄嗟に、自分の刀に取り換えようとした、だが、その隙がない。そこで、
「こっちの方が、よお斬れるぞ」と叫ぶなり飛びはねた。そして向かって来る相手の
刃先をかわすと、叩き伏せるよう、
「やあッ」と、またけさ掛けに切っ先をおろした。
「バサッ」と音をたて血がふいてきた。
 それを避けて後戻りしかけたところ、
「やるかッ」
 と、自分の方から掛ってきた癖して、第三の男が、喚きながら拝み討ちに斬ってき
た。
「何奴っ」と、よけようとした。が、俺は転がっている松笠を踏んづけた。滑ったか。
よろけたのか。
 身体の重心がひん曲がった。危うく踏みこられたものの、向こうの太刀が、つい鼻
の先を直角に切っていた。
(もし躓いていなかったら、まともに顔を斬られていた)と想うと肚がたった。
 だから斬りおろしてきた刀身を、
「しまった」と向こうが持ち上げ直す間際に、「それッ」とばかり右手首を叩きのめ
した。
 だから向こうの刀にくっついたまま、赤かぶみたいな握り拳固(こぶし)が、一緒
に地面を転げていった。
 次は四人目。
 俺も息があらくなった。向こうも掛ってこない。こっちも星眼に構えたが、もう疲
れて動けない。
 槍の穂先で突くのでは離れているから、殺人の愉しみみたいな感じもしないでもな
いが、刀だと双方の距離が同じ歩巾に限定される。うっかりすると、斬ったつもりで
切られてしまう場合もありうる。だからして好い気になってやたらに切って出られな
い。なにしろ好きな女とだって滅多には相対死(しんじゅう)なんかできはしないと
いうのに、見ず知らずの、しかも髯むじゃな野郎と、相討ちになて死ぬなんてのは、
どう考えても厭なことである。だからこそ、
「‥‥ばかめッ。俺一人と思って掛ってきたのか‥‥もうすぐ全館連の奇兵隊員がく
るんだぞ‥‥聴越えぬか蹄の音が‥‥」
 と、刀でうちこむのは危ないから、口先で怒鳴りつけた。すると向こうも半信半疑
で、
「‥‥まことか」と、こうきいた。
「何を、たわごとを申しおる。俺を誰だとおもう。田中源蔵と知ってか‥‥まさか隊
長の俺が一人で居るわけはなかろうが‥‥うぬは、もうすぐ、うちの隊員共に、なま
すに刻まれて魚の餌になるんじゃ」といってやると、これには仰天したのが、急にし
おらしくなって、
「済みません」と相手はいった。そして、
「許して下さい」と刀をなげて憐れみを乞うた。肩が波うって動悸をみせていた。
(恐怖の表情)というのか、離れているのに向こうの歯の根がカタコト鳴るのが聴え
た。
 歪んだというか、ひき吊ったような顔を、くしゃくしゃにさせ逃げだした。海の方
角へ一目散に逃げて行ってしまった。
 その第四の男が乗って漕いでゆく小舟が、見えなくてしまった頃になって、
「ああ疲れた」「疲れた」「隊長は先に来られて、ゆっくり一服されて好かったです
ねえ」
 と土田衡平や高橋がやっと隊伍を揃えてどかどか到着した。
 しかし、血塗れな屍体が三つも転がっているのを見つけると、あっけにとられて、
「こりゃあ何ですか」と西山がいった。高橋も変な顔をした。
 しかし岩谷敬一郎だけは、
「いずれも一刀両断‥‥田中さん、あなたは使えますね」と賞めてくれた。
 そこで土田や高橋も、改めて、
「さすがに、お見事」とか「うん、目録以上の手練だ」と周章てて感心してみせた。
 隊員も、がやがやいって見物に集ってきた。
 だから二番目の男など、まだ初めのうちは息をしていたが、あまり多数に取巻かれ、
それで気落ちして絶望したのか、眼だけはかあっと見ひらいていたが、息の方は次第
にとめていってしまった。
「‥‥こりゃあ浜番所の者ではない。祝町にかわれている用心棒の浪人だ」
 と屍体をひねくり廻して西山が、やっと実地検証をおえた。しかし、
「祝町」と聞いた途端に、若い連中は、
「たあッ」「おうッ」と喚きだした。
 といって、何も、そこに敵がいるからと、雄叫びの声をあげたのではない。
「祝町の遊郭」というのは、水戸では有名だったからである。
「‥‥この近くなのか」と、俺も口にした。
 血の香をかいだ後というのは、いつも妙にそうした神経が昂ぶってくるものなので
ある。
「はい、この平磯明神からは十丁位です」
 と西山が指さした。すると土田が、土田が、俺の馬をひいてこさせて、
「では、祝町へ進軍‥‥」と号令した。
「おうッ」とばかり、先刻は疲れた疲れたといっていた西山はじめ一同の者は、
「それ行けッ、つわもの水戸男児」と、まるで駆けるように行ってしまった。もちろ
ん、俺も先頭になって一緒だった。

 が、このおかげで、とんだ不首尾となった。
祝町の遊郭を一日ぐらいで切り上げてしまえばよかったが、そこは、なんといっても
若い連中のことなので流連(いつづけ)してしまった。
 四日目の八月十二日のこと。
「ダダアン」「ダンダン」と銃声がした。
「しまった‥‥」
 と押っとり刀で駆けつけた時は、もう、すべてが手遅れだった。そこで、
 備前堀から転進してきた神勢館の福地政治郎校長以下の二百と、地元の平磯館の西
野長次郎先生の率いる百五十の協同隊が、
「後の烏が先になる」のたとえ通りに、市川派の磯番所の陣屋を襲撃し、陣代佐藤次
郎と副陣代蔭山千太郎の首を曝し、格館旗が翻って、もう占領していた。
 そして、駆けつけた吾々に対して、
「早く来ていながら君らはなんですか‥‥それ青年は女色に身を誤り、事に臨んで逸
する有り。という孔孟の教えは、これを説いていられるのでありますぞ」
 と白髪の菊池先生は改めて訓戒し、自校の学生には、「諸君は、こういう人たちを
見習ってはいけません。書生(がくせい)は撃剣に読書に、その身神(しんしん)を
うちこむべきです。いいですか。少年老い易く学またなり難しですぞ」
 と、まるで吾々は、悪い見本のように扱われてしまった。だから岩谷敬一郎までが、
「‥‥面白くない」とむくれてしまった。
 そこで、どうせなら構ったことはないと、祝町へ戻ると、遊郭の入口に堂々と、
「全館連」と「奇兵隊」の旗を左右に立て、「二つ巴」の俺の幔幕まではりめぐらし
て吊らせた。
「遊郭を‥‥本陣とは如何であろうか」
 と、さすがに、俺は照れてしまったが、
「やはり土田さんは参謀だけの事はある‥‥この遊郭を占領できたのも、真っ先に来
たおかげである」
 と西山は、すっかり歓んでいたし、
「‥‥ここさえ本陣にしておけば、遊びにくる他隊の書生に対して『占領軍専用』つ
まり吾隊に入らなくては登楼できぬ‥‥と勧誘して人員を増加させることも不可能で
はない」
 と高橋幸之介が顎の傷痕をぽりぽりかきながら力説した。
 だから土田衡平も、それにうなずいてみせ、
「若い男共を、女に飢えさせるという法はない‥‥可哀想である。よって遊郭ごと隊
で借り切ってしまい、各自の銭など使わさずに‥‥自由に遊ばせて青春を愉しませて
やりたい」などといいだした。
 驚いて、俺が、「その費用は」ときくと、土田は、
「‥‥陣屋は、神勢館と平磯館の連中が占領しましたが、舟つき場の見張り番所の方
は、まだ放ってあったので、こちらで押さえてあります。入り船と出船から運上(入
港出港税)を取れば、船荷にもよりますが、日に百両にはなります。まあ、お委せ下
さい」と答えた。

 しかし、こんなに暢(のんび)りかまえていたのは、吾が奇兵隊だけだったようで
ある。
 偵察に出した者たちの次々の報告によると、備前堀から転進後、各隊とも、あちら
こちらで必至猛死(ひっしもっし)になって力戦奮闘をしていた。

 藤田小四郎の隊は、岩船の願入寺を襲撃した。
 水戸八景にも算えられる風光明媚の良い所だが、浄土真宗の常州本山になっていて、
小城ぐらいもある大巨刹で、そこは昔から弘道館の官学書生の溜り場になっていた。
だから新福寺で撃破された残党が三百の余ぐらいも巣食って、陣張りをしていたので
ある。
 そこで藤田隊が、三方から攻め込むと、守将の川上捨次郎というのが、市川の引立
で「御先手組頭」の約向きについたばかりゆえ、果敢に応戦し、おおいに藤田隊はこ
れに悩まされた。しかし逃げ腰になった連中が願入寺に放火したから、その煙にまか
れてしまって、川上は討死。首を藤田隊にとられた。
 竹内隊は、海岸砲隊の襲撃を命ぜられ、
「斬り込み隊」を組織して、撃たれぬよう背後から廻って突入。市川派の守備兵と激
戦して、これを占領し、各砲台ごとに玉造隊の校旗をうちたてたそうである。
 華蔵院、反射炉作事所、湊御殿と三ヶ所に分れて、なおも市川勢は抵抗したが、兵
力が十倍も違うから、終にはどこも放火して遁走。戦果としては遺棄死体は十一だっ
たが、先代斉昭公が国中の吊鐘や仏像を鋳つぶして作った大砲を、反射炉だけでも十
二門も押収した。
 湊御殿の焼け残った所を修理して、ここへ大炊頭を招き入れた武田伊賀守は、浜の
漁師に言いつけ鮮魚をことごとく集めさせ、それを煮焼きして、一同に戦勝祝いの酒
盛りをさせた。
 俺のところへも、およばれの通知はきた。
 しかし、こちらは、あまり大きな顔もしていけないから、岩谷敬一郎ひとりを代人
にたてた。
 ところが、それから二日たって、勝戦に酔っている湊の武田勢へ、意外な情報が入
ってきた。
 それは、
「常陸笠間八万石牧野越中守の城門に、萌黄羅紗赤縁取り山型馬印が立った‥‥」
 という話なのである。つまり、その馬印たるや将軍家のもので、これは田沼玄蕃頭
が、
「将軍家御名代の征定総督」として、昨日この常州(茨城)へ入ってきた。という知
らせであった。
 流石に誰も彼もが、この知らせには唖然とした。なにしろ市川勢に初めは大公儀が
味方をしていた。幕府歩兵隊が応援していた。それが水戸城を攻めかけると、今度は、
天朝さまが味方だと、菊の旗を一杯だした。面食らって、湊へ転進して来ると、今度
は、また大公儀からの征定総督なのである。
「こりゃ、どういう事になっとるんかね」と眼を白黒させて岩谷が、
「将軍家御指図の松平大炊頭を奉じている吾々は、言い換えれば、つまりは江戸の将
軍家代理役の守備護衛部隊だ。それを、又、新規の将軍さま名代の田沼が来て、此方
を征伐するとは、いったい何事だね」と呆れて息まいた。
「俺に憤ったって始まらんよ。市川派の連中は、今のところ水戸の本城を押さえてる。
だから御本丸の藩の御用金を持ち出して、ご老中へ賄賂(まいない)を派手に送り届
けているんだろう。幕閣(おかみ)の老中職も御役人なんだから、袖の下を沢山貰え
ば、それなりに、どうでも協力もするのだろう」
 と仕方がないから、俺が苦笑いをすると、
「つまり、先に出された松平大炊への御沙汰は御取りやめになって、改めて田沼が、
台命を受けて出てきたって訳ですね」と岩谷が、それに頷いた。
「そうなんだ。いま流行の諸生(しょせい)論だと、勤皇と佐幕は水と油みたいに相
反するものだが、敵は賄賂の力で、江戸と京都を味方に抱き込んでしまった。降魔大
王じゃないが、両手に諸刃の剣をもってるのさ」と、俺もくさった。
「錦の旗や菊紋の旗を出している水戸城へ、今度は江戸からの応援ですか。呆れます
ねえ」
 諦めきれぬように岩谷は大杯で酒を呷った。
 そして、暫く黙ってしまったと思ったら急に、低い声で、あたりを憚るように、
「‥‥いつかの話、まだ覚えてますか」
 と、こちらの顔を窺うようにきり出してきた。
「なんのこと‥‥だっけ」
 だし抜けなので、俺も咄嗟には憶い出せず、とんできた青い蛾を、手刀で発止と叩
き落し、それを懐紙に包んでぽんと隅の屑篭へ放った。
 なにしろ先刻までは女達もいたが、話が難しくなってきたので遠慮させ、今は、俺
と岩谷の二人きりだが、相変わらず若い連中は元気よく、隣家も階下も絃歌さんざめ
く有様である。相当にうるさい。だから改めて、
「もう一度‥‥いってくれ」と、俺はいった。
 すると岩谷は頭をかいて、言い出し憎そうに、照れてみせながら、
「ほら、石橋の宿場でいわれた甲府城攻め。あの城とりの話ですよ‥‥こんなに世の
中がおかしくって、政治献金といいますか。袖の下の賄賂で、台閣の役人やえらい人
(じん)が、みんな自分の儲けばかりにあくせくして、人民を無視しだしたら、もう
世の中はおしまいでしょう‥‥亡国ですよ」
 と、まずいった。
 そして四角く座り直すと、口から泡をとばして、
「人間いつかは生まれてきたからには、死んでしまうものなんです。僕は石橋では生
意気に反対したり、話をも断りました。しかし田沼玄蕃が総督になって、吾々を攻め
てくる理由が『賄賂だ、献金の為だ』と、はっきり判ったからには‥‥もっと常識と
いいますか、良識で通る世の中を、吾人は、命をすてても作るべきでしょう。そして、
それが、生きてきたという一つの具象(ありかた)の現れでもあるし、また後世の人
間への勤めともいえましょう‥‥易世革命。そうです。僕は、革命のためにこの一身
を献じます」と熱をいれすぎ、どさっと卓子を叩いた。
 俺は、こぼれた酒を布帛で拭いつ、
「じゃあ、一緒にやるかね」というと、
「死生命にあり、あに天を恐れんやです。僕は、献金や賄賂で政治が左右されない‥
‥若い人たちの純粋さを大人になっても持ち続けているような、そんな人たいの作る
新政府を望みます‥‥もちろん。新しい時代を迎えるには、犠牲になる棄て石がいり
ます。僕は、それになります。明日から極力奔走して人集めをします。ですから甲府
の城とりの先鋒隊長に僕をして下さい。そして、僕の屍をふみこえて、どうか、物価
の安定した住みよい世の中をこしらえて下さい」
 泣き上戸でもないのに、岩谷敬一郎は、おいおい哭きだしてしまった。
 俺は手を叩いて、土田たちを呼ばせた。
 そして、かいつまんで、岩谷が改めて同心したい旨をいいだしたと話した。すると、
「‥‥石橋の時に、その気になってくれていたら、あの時なら双方を合せると千も越
していたから、あの侭でも、すぐ甲州入りできましたがねえ」と、土田衡平は残念そ
うにいった。
 高橋や西山も、いまの岩谷敬一郎には十名たらずの塾生しかいないので、
「‥‥大丈夫ですか」と念を押したりした。
「僕も男です。きっと、次の出動までには昔の同窓生や教え子を勧誘して、すくなく
とも百や二百の精鋭は揃えてみせます」
 と頬っぺたの泪を手の甲でこすって力説した。本当に岩谷はやる気らしかった。
 しかしである。
 運が悪いというのか。次の出動命令が下ったのは、あまりにも早すぎた。
 弘治元年八月二十日。つまり、その翌日だったのである。これでは岩谷敬一郎も、
なんともならなかった。一人の募集もできなかった。
「すみません」と岩谷は両手をついて詫びた。
 俺たち奇兵隊は祝町の女郎たちに見送られながら、松平大炊頭さま指揮のもと他の
諸隊と共に進撃した。七軒町広小路の木戸まで菊の旗や錦布が出ているから、それを
避けるために水戸城下の裏側へ廻り、そこから渡船で那珂川を越え、枝川村の桑畑へ
と出た。


学生闘争委員長(しょせいかたもとどり)

 なにしろ目と鼻の笠間城へ「自分の代りに田沼玄蕃頭が着到した」のを知らされた
松平大炊頭は、
「儂は水戸の支藩と申せ、田沼と同額の一万石だ。禄高に多少はない。儂が、この騒
動を鎮圧できぬとみられて、後任が来たのでは誠に残念である。大公儀から罷免の沙
汰が届く前に、解決してしまおうぞ」と言い出したから、
「御尤もな仰せ」と武田伊賀守が早速、夜明けに出陣を命じたのである。
 武田伊賀守にしてみれば、松平大炊頭に権限のあるうちに「水戸城を押さえる事」
が何よりの急務だった。早く此方の手で解決さえつけてしまえば、これは水戸領内の
事ゆえ、田沼が将軍家御名代でも、早々立ち戻らざるをえない。これがもし、一手で
も遅れると、前に市川、後に田沼と、腹背に敵を受けねばならぬ。そうなってしまっ
ては大変だから、昨夜遅くまで軍議をこらして、この八月二十日の暁の出動命令とな
ったのである。
 さて砲銃演習所の神勢館に陣取った大炊頭は、河べりの米蔵に伴ってきた兵を匿し
ておいて、そこから水戸城へ迎えの使者を出した。
 藤田東湖と縁の深かった執政の渡辺半介と、戸田銀次郎を呼んで、武田方に有利な
ように談合しようとした。これは伊賀守の智慧である。
 しかし市川方は、名指しの二人は既に幽閉していた。
 だから、さきに吉田山で奇兵隊に襲われて逃げのびた目付の大井幹三郎と、市川三
左の腹心である萩庄右衛門の二人を代りに差立てて来た。
「‥‥大炊頭さまは、水戸支藩の宍戸の殿様ゆえ、喜んで、城内へ吾ら両名がご案内
しますが、他の者共はお断わり申します」という口上だった。
 そこで大炊頭は単身でも乗込んで、市川三左を説得しようと考えた。そうしてでも
解決させねば、自分の立場がないからである。
 だが武田伊賀守は反対だった。大炊が手中から抜けるのは、掌中の珠を失うことで
あり、御守札をなくすようなものだからである。
 そこで、「殿のみを案内すると申すのは、お命をば害し奉つる魂胆である」と諌言
した。
 一万石でも宍戸侯は、お殿さまである。言われると、「そのようか」と取りやめて
しまった。
 翌二十一日。弘道館の書生連中は、岩舟の願入寺を襲われた時に、まったく四散し
てしまい、手持ちの兵のいない市川方は、新編成の農民兵の銃隊二百をもって、河岸
の米倉通りを襲わせてきた。
 まさか、和平交渉の最中に、向こうから攻撃されるとは思ってもいなかった武田勢
は、農民兵に狙撃さればたばたと倒れた。被害はきわめて甚大だった。

「他の隊と切り離して、こんな所へ別に放り込むとは、ひがみたくなるね」
 と、俺は初め川下の人足小屋へ入れられて、ぶつぶつ文句を言っていたが、離れて
いたおかげで兵隊は無傷だった。だから、これは助かったと話合っているところへ、
珍しく藤田小四郎が、ひょっこり姿を見せた。俺は人見知りするというのか、案外出
不精で、此方から他所へは行きたがらない。呼ばれたら、仕様ことなしに、のこのこ
出かける位で、自分からは進んで本隊へも、出向いていない。だから、彼に逢うのも、
野州太平山以来で、まったく久しぶりだった。
「随分‥‥手荒くやられた、そうだね」
 と声をかけると、黄素(きそ)掛け鎧の所々に反り血の痕か黒いしみを付けたまま
の小四郎はうんと頷き、
「向こうの使者が帰ったあと、米倉じゃ狭くるしくて、息抜き窓もないから、みんな
河岸へでて、樹蔭で寝ころがっていたんです。そこを不意に対岸から、三段構えで撃
ちこまれたから、素早く倉の中へ転がり込んだ奴は助かったが、間誤(まご)ついた
奴は殆ど、といってもよいくらい、弾丸を喰っちまったんです。まったく情けないで
すよ」
 と、どかりと座りこんでしまった。太平山で別れる前に、八重のいた離屋へ同行し
た事があった。その時の小四郎は、茶店のみよが岡惚れして、きゃあきゃあ騒ぐだけ
の事はあった。
 きかぬ気の坊っちゃんみたいに、色白な顔に眼鼻がくりくりしていた。まるで御所
人形みたいだといった者もいたくらいである。
 しかし、それから五ヶ月。いま眼前に胡座をかいてる藤田小四郎は、すっかり別人
の感がある。
 ふくよかだった頬も、すっかりこけ落ちてとげとげしくなっていた。眼のまわりに
は隈ができていたし、槍傷らしい引きつれが右の耳の上から頬へ、みみず腫れになっ
ていた。
「‥‥無傷なのは奇兵隊だけだから、先刻の『魁隊』とかいう農民兵への追撃命令が
くるかも知れませんが‥‥あの連中は、農兵といっても、御花畑で薬草栽培に従事し
ている小者たちです。ですから本拠は御薬草園にあります。そして、その横通りの立
並通りにあるのが市川方の大砲陣地です。ですから、追っかけてゆけば、そこの射程
目標につれこまれてしまって、一遍にドカバンでしょう‥‥まあ僕の口からいうのは
おかしいが、いくら追撃したって、向こうは銃隊。そして背後に大砲隊では、こりゃ
あ正面衝突は愚の骨頂でしょう。もし武田耕雲斉先生から命令がきても、そこは要領
よく、恰好だけですませ‥‥実戦はまあ見合わせるべきですよ」と、そんな言い方を
寂しくしてみせ、
「僕たちは私学二十三校をつなぎ結びあう全館連の運動をもって、筑波山に旗上げし、
太平山にもよりました。しかし僕たちは若いので何事にも経験がありません。そこで
大人に頼りました。しかし大人は初めはうまい事をいって近づいてきた癖に、終には
自分らの政争の具に、僕らを使いだしました‥‥今となっては腐れ縁になってしまい
ました。しかし吾々若人の血は、新しい明日の為にこそ流されるべきであって‥‥老
人共の権力の座の争いになど利用されては堪りませんよ」と結んだ。
「同感です」と、俺もいった。「書生共が安心して勉強できる世の中にしようと、蹶
起した筈の全館連が、いつの間にか執行部を権勢欲にもえた連中や、重臣という名の
政治屋に押さえられてしまい、誰もが書籍の代りに銃や槍をもたされて、こうして殺
しあうのは、こりゃ間違っています‥‥もう、こうなったら、僕ら若い者の力で、こ
の全館連の運動を、易世革命にまで、もってゆくしかないでしょう。そうでもなかっ
たら、この足かけ四月に散華した連中が浮かばれやしません」
 とつけたしてみた。藤田小四郎も、それにうなずいてみせたが、
「‥‥まあ田中君は紐つきでないから自由でいいですね。学生闘争委員長(しょせい
かたもとどり)は、もう貴君がやって下さい。僕は辞任です。なにしろ僕ときたら、
藤田東湖の伜というので、武田先生、田丸先生、山田先生といった亡父の友人だった
という老人連中に振り舞され通しです。なにしろ亡父の試作の中に『正気の詩』とい
うのがあって、いま上方で流行しているから、いっそ隊名を勤皇隊にしようかという
ぐらい、大人たちは便乗主義でご都合主義なんです」
 と困惑の表情さえみせだした。そこで、俺が彼を元気づける為に、
(われわれは、もうまだるっこい事はやめにして、革命意識を強調する為に、○の中
へ革の字を入れた『○革』の旗をつくり、これに修験者仲間の宗教連中の拝みやの
『釈会(しゃっか)同盟』や、野州博徒の『無産仲間』の三派合同をもってする協力
中核隊の甲府の城とりの話)をしてやろうかとしたら、土田が、それを察してか、側
へよってきて袂をひき、
「しいっ」と、俺に注意をした。振返ると西山や高橋も、みな心配しているらしかっ
た。だから俺も、(まるかくや三派合同)の話はよしにした。

水戸慶篤の代になると、弘道館という官学を水戸城三の丸に設け、私学二十三校への
補助がうち切られてしまい、その教授方へ廻されていた旧編纂所の連中は、もはや<
大日本史>の編輯も終っていたので、戻る職場もなく困窮した。このため、かつては
入学金や月謝は名ばかりゆえ栄えていた水戸私学も、やむなく一斉に大幅に値上げを
した。このため、まず「月謝値上げ反対」にたった学生たちの尖鋭分子が、○に革命
の「革」の字を入れた当時の「マルカク」になった。
彼ら野州太平山に頑張っていた頃、当時上州野州では、生糸種紙の輸出によって商業
ブルジョワジーは隆昌の一途を辿ったが、一般階級の生活難は悪性インフレによって
惨鼻をきわめ、中山道の新町と倉賀野の中間にあった岩鼻郡代所の記録にもあるよう
に、逃散人口つまり蒸発人間は夥しい数になった。これら浮浪の無産大衆が、博徒と
いう形体をとり血気盛んな連中が、「世直し」を叫んで田中のもとに集団入隊をして
いたのである。
修験というのは天正十年六月までの織田信長在世中は、各社祠堂を管理していたが、
その死後になると、反信長勢力の仏徒に追放され、これは<天正十一年裁可状>とい
う「これまでの修験や山伏は追い払い、京に本山をもつ何宗の僧が住持となりました
から、その存続を許可して頂きたい」という全国各社寺の古証文でも判る。修験、験
者(げんざ)、行者(ぎょしゃ)、野伏(のふせり)、山武士といった名称のもとに、
その後の彼らは国家権力から圧迫され、慶長十八年には聖護院派は天台宗、三宝院派
は真言宗の下におかれ、仏僧の命令下にされたので、大山派の者が「釈会(しゃっか)
」の名のもとに団結し、やはり「世直し」を叫んで入隊し、ここに三派聯合の強力戦
闘部隊が結成されたのである。