1028 元治元年の全学連 13

吉田山の血戦

「ほら見てみろ。昨日のうちに戻ると知らせておいたから、竜勇隊が、隊旗を並べて、
出迎えに出てくれてる」
 指さして、俺は手放しに喜んだ。なにしろ自分らの方で見限ってしまって、筑波山
へなど戻る気もなかったのを、やむなく戻ってきたのに、歓迎され出迎えられたのだ
から、俺は若いだけに、すっかり感激してしまった。
「‥‥あの竜勇隊は、あれでなかなかやるそうですよ」と、だから西山も機嫌のよい
顔で、俺に話の受け売りを始めた。
「‥‥草加にいた市川隊が、大公儀御目付永見貞之丞を奉じて下妻へついた翌日。大
公儀使者小出順之介が歩兵隊を伴って、高道祖に陣ばりしました。なにしろ市川三左
にしてみれば、この幕府の兵力を以ってして、一挙にわが奇兵隊不在の筑波軍を撃滅
しようと計ったのです」
 と、ここで一と汗ふいて、
「市川方は、加農砲八門をずらりと並べて、朝から晩まで、なにしろ大公儀の砲弾で、
無代ですから遠慮会釈もなく、どが、どがんと、やったそうです。するとその晩のこ
と、盲ら滅法射ちまくられて肚を立てたあの竜勇隊は、真夜中に下妻へ夜討ちをかけ
たそうです。陣容は、竹内百太郎先生が五十人連れて正面。藤田小四郎先生が飯田軍
蔵や小林孝八ら五十人をやはり伴われて背後から、といった挟み討ちの戦法です‥‥
相手も用心して、一晩中、あちこちに哨兵を出して、見張りを厳重にしていましたが、
夜が明けてきましたから、まあこれで安心と、ひと眠りしかけたのでしょう。すると、
それまで、薮蚊に喰われながら、待ち構えていた連中が、わーっと押し包んで突撃。
本陣の多宝院へ一番乗りをした飯田軍蔵が、永見の寝所へ飛込むと、幕軍の隊長は驚
いて寝間着一枚で逃げ出したそうです。だから軍蔵は、公儀お目付の旗を奪い、つい
でに永見の馬まで頂戴してきたといいます。しかし歩兵隊二千と共に合宿していた小
出順之助は、自分から鉄砲をもって、防戦しだしたから、筑波勢は、新福寺の市川軍
を強襲。斉田金三郎、安藤鎌吉、庄司善之介といった弘道館お目録の連中をはじめ、
二十人あまりが、敢えなく突き殺されたそうです。なにしろ三千に近い敵を、たった
百名で、ぶち破ってきたんだから、田丸の爺さんが、歯のない口で、もごもご喜んで、
勝利の報告を、例の神像に報告申上げ、飯田軍蔵が一番乗り、一番槍として感状を貰
ったそうです」
「ほう飯田軍蔵も、それじゃ忙しくて、こっちの病人の面倒なんか見ていられなかっ
た筈だ‥‥が百人で三千をやっつけるとは豪いね」
 と話し合っているところへ、竜勇隊の隊長尾藤敬之進が、馬を駆らせてきた。年は
まだ二十三だが、片眼がなく、一文銭を糸で引っ張って眼帯してるから独竜眼と渾名
されている。鼻の高い男。学校は太田益習館。日下部訥斉の愛弟子である。
「‥‥盛大なお出迎えを頂き、光栄です」
 三つ齢上の彼に、俺が慇懃に挨拶すると、尾藤は周章てて手をふって、
「田中君、違いますよ」と、早口に叫んだ。
「違うって‥‥」と鸚鵡返しに聞き返すと、
「山へ入れちゃあ、いけないって、言われてね。僕はあんたらを追い払いに出張って
いるだけなんです。田丸総帥も憤っておられるが、どうして栃木の町で、あんな乱暴
をして火つけをして焼き払ったのです。君らは学生のくせに無茶をしすぎましたね」
 言われて此方が面喰ってしまう。夕方の七つ迄と待たされて、まんまと奉行所前へ
誘き出され、左右の町木戸を閉鎖されて、二、三百挺の鉄砲で、乱暴されて死人を出
したのは此方である。奇兵隊が栃木の町へ入って、それで火災が起きたからといって、
田中源蔵の火事とは、これはこじつけである。火矢を放って火災にしたのは、なんと
いっても奉行所の方である。
「なにしろ正式に宇都宮藩から本水戸藩へ厳重な公儀が来てます。あんまり奇兵隊の
やる事は野放図にすぎませんか。これでは筑波軍の対外信用に関ると、諸先生がみな
頭を悩ましておられまするぞ‥‥昨日の夕方に貴方が戻って来られると、使者をよこ
されたから、そこで田丸総帥と竹内軍正は御相談の上で、田中君に対して死罪を決め
られたんです」
「えっ‥‥」愕かされて此方はあいた口もふさがらない。なのに向こうは、まず脅し
ておいてから、
「飯田軍蔵君がねえ、あのひと奇兵隊副軍将の肩書もあるもんだから、君らの初めか
らの功績を算えだして、しきりに助命になるように骨を折られました。藤田小四郎さ
んを初め天地竜虎、われわれ隊長も同調したから、まあ多数決で、どうにか死罪は撤
回されました‥‥だがですね。‥‥山へは登らず、諸君は当分は謹慎って事になって
しまったんです。だから、此処から薬王院の屯所へ上らずに、昔、君らが使った事の
ある普門院の方でも、隊を迂回させて下さい。そして当分あっちに居てはくれません
か‥‥いやな役目でひや汗を、まったくかきましたよ」
 しゃ熊みたいに赤味がかかった、大たぶさの髪をゆすぶって、汗をふきふき喋舌っ
た。
 盛大な歓迎だと喜んだら、これが通せん坊の番兵。
 しかも此方は、まるっきり知らない事だが、栃木放火の責任で俺の死罪まで決めら
れていたという。だから、それを脇で聞いて腹をたて、
「ここで木戸をつかれて、登るのを禁止されちゃ、日光なみですね」と傍から西山が
いまいましがる。
 しかし日光といわれても、それが女郎部屋とは気がつかぬ土田は、なんの事かと妙
な顔をしたから、これには高橋達は笑った。
 しかし、俺はそれどころではなかった。
 せっかく戻ってきたものの、こういう扱いをされては、唖然たらざるをえない。
「では仕方がないから‥‥ひとまず普門院へ、ここから隊を率いて曲りましょう。だ
が彼処は、百人入るのさえ難儀なことだ」と尾藤に、俺は不平を言った。
「だったら、近くの民家でも入用だけ徴発して下さい。そりゃ田中さん、あなたの軍
将としての権限だ」
 と、もて余し気味に彼はいった。
「そうかね。何かする度に、お咎めをくいそうで、此方はまったく肝が小さいから冷
や冷やだよ。向こうの機動隊のやった事まで学生のせいにされちゃかないませんよ。
ところで岩谷君に逢いたいんだ。お山へ戻ったら、そう言って呉れませんか」と俺は
頼んだ。すると、
「‥‥役儀さえ済めば、あなたは何といっても軍将。此方はその格下になる隊長です。
はいっと、すぐ承知したいんですが、そいつは駄目ですよ。なにしろ宍戸の殿様が、
(水戸)中納言さま御名代ということで、大公儀の命令で江戸を立たれたのを、武田
耕雲斉伊賀守さまが、小川館の残余をかき集めて、片倉まで、これをお出迎えという
事になり、それに召集され、岩谷先生も今朝お出かけです----居ない人に言付けは出
来ません」と、尾藤はへらず口を叩いた。
 宍戸の殿さまとは水戸家の分家で江都定府の一万石の殿様で、その幼い若殿は、御
生母が野口生れの関係で、時雍館へ入門され、俺は素読と撃剣をお教えしたこともあ
る。
 だから若殿は多分、今は数えで十三ぐらいになられる筈である。
「済まん、済まん」と捨て台辞を残し、野蕗が茂った道を普門院へ廻った。しかし先
に戻ってる連中だけでも、百名はいる。もし彼らが山腹から先に降ろされていたら、
もうそれだけで寺の本堂は一杯だろうと、心配しながら着到してみると、五人しかい
なかった。中に、書生でない日光権十郎までが混じっていた。
「どうしたんだい‥‥他の連中は」と訊くと、
「今朝、非常の召集が掛りましてね。皆、連れていかれましたよ。わたしらは先月末
の七軒町広小路合戦で、ドカアンと鉄砲にうたれ、それで動けないから、まあ置去り
でさあ」
 と四つ這いになって寄ってくると、大の男が髯つらで嬉し泪をこぼさんばかりに、
全館連と奇兵隊の二つの旗を、文字も読めもしないのに、恰好だけを、眩しそうに見
上げていた。
 明るい所でみると、誰れも彼れも、有り合わせの布で縛った傷口から、まだ黒く血
を塊りにして滲ませていた。相当に手痛い合戦に差し向けられたようである。そこで、
「七軒町合戦たぁ、一体いつの事だったんだね」と髯ぼうぼうの権十郎に、俺は改ま
って尋ねた。すると権十郎は鉄砲創を繃帯の上から、そっと撫ぜまわし、
「へえ、こちらから、あの連絡を二人を出した次の日です‥‥藤田や岩谷のおん大が、
神衛帯三百に本部付百名。それに薬王院にいた俺達百も加えて、騎馬四十、徒歩五百
で出陣したんでさ。陣太鼓を叩き、鉦をうって、奥の谷で陣揃えし、それから市川の
残党を追い払いに勇ましく出掛けましたんで‥‥ところが敵は、水戸の広小路の入口
備前堀に、土俵を積み重ねて頑張っていたから、藤柄町から藤田隊と岩谷隊が二手に
別れて突入しました。なにしろ敵は二、三百きりなのに、此方はその倍もの人数で陣
容も整ってる。まぁ誰が考えたって、こりゃあ絶対に勝つ筈なんだっでさ。が、舐め
て掛ってしまったんですなぁ‥‥太鼓叩いて悠々と押し込んだら、どえらい鉄砲打ち
の名人が向こうには居ましてね。まず此方の岩谷さんがドカンと一発。肩を撃たれて
ズッテンどうと落馬。副将の木村又蔵さんも、これは百匁玉を胸にうけて直撃弾で即
死。先頭の十二、三人がたちどころに、みな撃ち殺されてしまい、続く私らも、みん
な鉄砲創を蒙りました。そして鉄砲打ち一人の為に、先に岩谷隊が総崩れになったか
ら、別動隊の藤田隊も釣られてしまい、つい、わーっと逃げてしまい総崩れとなって、
それで命からがら、やっと筑波まで戻ってこられたって訳なんでさぁねぇ」
 きまり悪げに話す傍から、やはり脚に創をうけた眉の太い三十男が、のっそりと肘
を前にはって、
「信州牢人の山出信一郎です」と名乗りながら這い出してきて、
「油断大敵で、大負けした為に‥‥また政変が、この二十七日に起きたのをば、軍将
は御存じですか」と、俺に向かって話をしかけてきた。
「知らないね。一月ほど前に、武田さまが藩政を握られた時に、奇兵隊は出たっきり
で、他国を廻っていたんだ。とんと聞いてねぇ‥‥また江戸上屋敷へ出かけた誰かが、
中納言の殿様をまるめこんだとでもお言いなのかね」と、俺は近頃になって馴染んで
しまった伝法ぶった口のききかたを、いきがってしてみせた。
「いいえ今度は‥‥水戸の御城内でやったんです。二の丸に、先代斉昭公の御後室登
美宮貞芳院がいらっしゃる。この方は、もと京都の有栖川宮の姫君です。そこをつけ
こんで、この前の政変で江戸から追われて水戸城内で謹慎していた市川三左衛門が、
登美宮の命令。つまり、有栖川宮を通して、天朝さまの御指図だと偽って、まさか自
分を表面にも出せないから、先の城代家老で閉門中だった鈴木石見守を赦免させてし
まい、その鈴木の手で、今まで処罰されていた結城党の市川の官学派を、みんな無罪
放免の御構いなしにし‥‥今度は反対に水戸城内の武田や藤田の私学派に同心の者共
を、一人残らず投獄や閉門に致しました」と告げた。だから、俺も愕いてしまい、
「へぇ、水戸の御本城だけで市川が、いくら勝手な真似をしたからといって、肝腎か
なめの殿様は江戸の上屋敷だ。そして、そっちは私学派の連中や中堅派が固めている
筈だが‥‥」と不審がると、
「えー勿論、江戸の武田派は黙っていられませんから、中納言さまを頂いて水戸へ帰
国。不埒な市川派を成敗したくて騒ぎましたが、なにしろ今のお殿様は、ご自分が渦
中に巻き込まれるのを嫌われ、支藩の宍戸一万石の殿さまの松平大炊頭(おおすみか
み)頼徳(よりとく)さまを、代理に帰国させるようにと大公儀から、沙汰を出して
もらったそうです」と、それには説明された。
「成程‥‥その帰国なさる御名代の宍戸の殿さまの後に、くっついて水戸城内へ入り
込み、市川派を追い払ってしまい、先の水戸七軒町広小路合戦の失敗を、なんとか取
り返して水戸城を掌握する肚で、それで動ける者は一人残らず集めて、みんなで片倉
まで、宍戸の殿さまを迎えに行ったというわけなのか‥‥」
 と、俺もやっと納得できた。
 しかし土田に掛ると、
「‥‥筑波山が空っぽだから、そこへ吾々が戻ってきて、執行部に取って換ってしま
う心配があるから、それで尾藤たちの手で、われわれを山内に入れないように、手を
うったのだろう」という解釈だった。そして、
「これはつけたしだが‥‥名主の娘が栃木陣屋へ連れてゆかれて返してくれないから
と、田中さんが泣きつかれたのも、あれも臭い。金に不自由していない栃木陣屋や奉
行所の者が、何も泥くさい田舎女なんかを手活けの花にすることはない‥‥もっと垢
ぬけした女を手許においていた筈だ‥‥ありゃあ、栃木陣屋から名主夫婦がいいつか
って、ひと芝居うったんじゃありませんか」とも言った。
 言われてみると、あの時、妻女が殆ど顔をあげなかったのも訝しいし、俺が馬にの
って出かけたら、その途端に追跡され、しかも先廻りされて、薮のところに塊ってい
たのも変てこである。だから、俺もうなずき、
「今まで俺は、あの名主の屋敷の近くで、栃木陣屋の見張りがいて、そいつらが吹っ
飛んで行ったり、後を追いかけてきたものとばかり思い込んでいたが‥‥そう言われ
ると、張込みを何人もがしていたり、馬まで何頭も支度していたというのは、やはり
話が引っ掛かる‥‥まんまと名主夫婦に一杯くわされ、俺は柄にもなく、居もしない、
つまり架空の娘を救出すべく、あの時、のこのこ栃木まででかけてゆき‥‥すんでの
ところで彼らの罠に落ちるところだった‥‥まったく大人ってのは、何を考え、何を
企てるか判ったもんじゃない」
 と、すっかり人間不信になった。だから部隊を筑波山へ、この侭残留させて、どん
な目に又あうかと心配し、それよりは、野口の田舎へ移した方が、安全とさえ考える
ようになった。
 そこで傷をした者や休ませた方がよいものは野口の時雍館へやり、俺は残った百五
十名の元気者を率いて、岩谷の後を追って水戸へ向かった。

 作谷(つくりだに)から小見川を渉って酒門(さかど)へ出た。
 木戸口を入れば、お城下の下市。俺が母が居る所である。水戸のお城は、千波沼に
面した上市の境にある。
「吉田山へ登りましょう。彼処へ上れば、下市も上市も、お城下全体がひと眼で見降
ろせる。岩谷さん達の筑波軍が、何処にいるかも、すぐ見当がつきます」
「そりゃ好い。名案だ」
 と、土田のすすめに従って、山へ登ってゆくと、
「大変です。敵軍が、われわれを要撃してきます」
 斥候隊長の高木晴雄が、馬を馳らせてきた。
「俺達が此処へ来たのは、さっき決めたばかりだ。待ち伏せをされる筈はないなぁ。
間違いなく此方へ向けて攻め登って来るのかね。どんな風で、人数は‥‥」と、俺も
驚かされた。
「さあ、そこ迄は判りません。だが、鎧冑をつけ具足姿で、陣羽織を先頭の五人まで
着てました」
 と高木の口のきき方は、沢庵をばりばり噛むように、まことに歯切れが好い。しか
し聞く方は、あまりの事に呆然としきって、首を傾げつつ土田の方に声をかけた。
 だが、この吉田山へと誘導した手前もあるが、土田は土田なりに往生しきっていた
矢先である。
 というのは、砲車が二輛とも、坂の赤土にめりこんで木輪の片側を埋めていたから
なのである。引揚げようと縄をつけて、いくら曳いても、てこでも動かず難渋しきっ
ている最中だった。大砲を遺棄して引返すなら構わぬが、まさか、そこまでは出来か
ねた。困っている処だった。
「‥‥どうします」
 思案にくれて土田は、逆に此方へ決断を求めに来た。砲車が動かねば、なんとも進
退もきまらぬ。それに近寄ってくる相手が、これが敵か味方かも、まだ判然とはしな
い。
「うむ」と俺も唸ったきりだった。なにしろ高木の報告では、五人までが、兜をかむ
って陣羽織というが、筑波でそんな身なりをしてるのは、田丸総帥を始め大人の幹部
位のものである。後は、士あがりの書生っぽだから、物具さえもろくに揃っていない。
兜なんてたいそれた物を持ってる奴は、学生に居ない筈だ。みな鉢巻である。われわ
れ奇兵隊にしてからが、俺をはじめ兜の代りに天狗面をのっけてるぐらいのものだ。
(だからそんな整った武者ぶりならば祖先伝来、高禄を頂いている官学党の市川だろ
う)と、およその見当はついた。
「よし、やろう‥‥奇兵隊の手なみを見せようじゃねえか。奴らは間違いなく敵だぞ」
と、俺は叫んだ。迷っている味方にいって聞かせた。
「そうですか‥‥先に大砲をぶっ放して、機先を制し、騎馬隊でもって先制攻撃をか
けましょう」と、土田が、また上唇をまくりあげて、にやっとほくそ笑んだ。天誅組
生き残りらしく、こうなると生々としてくる。
 坂に引っ掛かって勾配した侭の砲車から、傾斜した砲口を上へ向けて、どがあん、
どぎゃんと、ぶつ放した。山のまん中なので、こだまして凄い音が轟いた。
「それっ」と、天狗面を顔に下げた俺は、槍をかまえて、馬に鞭くれた。
 つき従うは土田をはじめ、馬のり三十騎。
 その後から、「わあー」と声をあげて、奇兵隊の一斉突撃。ただ一文字みに山道を
かけ登った。

「待て。我こそは、水戸中納言さま若年寄天野伊内なるぞ」
 金色の前立てつけた大兜の男が、のぞけるように、柊林へ横とびに跳ね、まず名乗
りをあげた。案の定、市川派の敵勢だった。
「御使番の渡辺伊右衛門なり」
 この男は神妙に槍を構えたが、馬に蹴飛ばされそうになると、やはり木立の中へ駆
けこんだ。しかし勇敢なのも中にはいた。
「天狗党とは、その方たちの事か。われこそ目付役の大井幹三郎。さあ‥‥その首を
取ろう」と向かってきたのもいる。
 南蛮兜というのか、お寺の梵鐘みたいなのを冠った男で、土田衡平に、変色した朱
房のついた菅槍を、えいとばかり突きだしてきた。
 それに励まされて、俺にかかってきた奴は、
「お小人(こびと)十人目付の鈴木八右衛門」
「組子の相原十兵衛」「同じく内藤辰五郎」
 三人組で、ぐるりと周りを取り囲んできた。
 馬上で戦った事はないから、俺は見当がつきかねて槍を振りまわして、ただ近づけ
ないようにしていると、土田衡平が、自分の相手を、すばやく後ろの徒歩の味方に廻
してしまい、俺が側へ駆けよりざま、内藤と名乗った黒鎧の背柱へ、馬を乗入れざま
に、ものを言わずに、ぐさっと刺し通した。
「はっ」と、それに愕いて振向く十人目付の男の頚筋に、俺も身体を跳躍させて鞍か
ら飛び上がるなり、えいっと、槍先を力まかせに突き通した。
 ぐうっと柄が、はね返りそうに手ごたえした。
 そして握りしめた指の股に、じんと痺れが伝わって来た。
 しゃきしゃきした柿の実でも囓るような、あの歯ごたえにも似た感触きち掌にきた。
大谷川で、ずぶずぶと片っ端から突き刺して、酩酊したような殺人の昂奮を味わった
時の事を、久しぶりに俺は憶い出した。
 引き抜いた穂先で、次は、相原と名乗っていた渋色桶革胴の、股ぐらを思いきり突
き落しに狙って、素早く鞍から俺は跳ね降りた。突き立てる時の官能的な感触を、ゆ
っくり堪能する為だった。
「名乗れ」相手は苦痛に歪んで喚いた。
「黙れ」俺は叫んだ。斜めに奥深く、ぐいぐい穂先を挿入してゆく手応えに、此方は
堪らなく、もう無念無想の境地である。陶酔しきっていた。殺人の美学とでもいうも
のであろうか。

「‥‥あらかた、かたづきました」
 まだ槍を突きこんだ侭の俺に、馬上から土田が報告しにきた。
「そうか‥‥」と、まるで飼主に咎められた猟犬みたいに、惜しそうに獲物から俺は
離れた。なにしろ殺人の面白さというか、醍醐味といったものがあるのを、俺は自分
で意識しきっていただけなのに、まるで夢からさまされたような感じだった。罪悪感
もしないでもなかった。
 俺が相手の脾腹に深く刺しこんだ槍は、隊員が二人がかりで、ようやく屍体から抜
き取ってくれた。鞍上へ戻っていた俺は、その二人分の血をべっとりとつけた槍先を、
倒れている鈴木の陣羽織で拭わせた。幸い刃こぼれもしていなかった。
「兜首は‥‥あれだけか」と、俺はものたらぬような感じで、その鈴木の屍を指さす
と、
「あとの勇ましい武者どもは、木の茂みをかきわけ、みな素早く逃走しました。すぐ
さま、こちらも徒歩の隊員が追いかけさせましたが、なにしろ逃げ足が早く取り遁し
ました」
 雑木林を顎でしゃくって、土田は苦笑いをした。
「あの天野伊内とかいう男の‥‥黄金の前立つけた兜が欲しかったなぁ‥‥甲府へ行
く時に冠りたかった」
 俺は思わず、愚痴を洩らしてしまった。というのは、俺が討取った鈴木の首は「篠
鉢」とよぶ、まるで鍋にいぼいぼ付けたような変哲もない物で、とても冠ってみる気
にもなれなかったからだった。
「‥‥七、八十名は向こうもついて来たようですが、なにしろ天野を始め頭株がみな
逃走しましたから、そこで後の連中も雲を霞と遁走してしまいました。しかし此方も
追撃していますから、そのうちの二十人ぐらいには、それでも手傷をおわせている模
様です」と高橋が報告にとんできた。
「此方の損害は」
 と、すぐさま調べさせると、肩先に浅手を受けたのが一名。指を一本落とされたの
が一名。それだけの被害だった。
 砲車を、また引っ張りあげに掛った。今度は、みんな気がたっていて、馬鹿力が出
るのか、あっと言う間に二台とも持ち上げられた。もちろん馬にも引っ張らせたから
でもある。
「それでは、前進しよう」と、隊伍をたて直してるところへ、また、
「わあーっ」と喊声が聞こえてきた。吉田山北口の方角からである。
「‥‥逆襲だ」と西山が泡をくって駆けてきた。
「よしッ」とばかり土田が、早速、傾斜の直った加農砲を並べさせると、距離を計っ
てから、
「いいか、十発ずつ、引き続いて撃ちこめ。それまでには此方が向こうへ突きこむか
ら‥‥」
 大砲掛りの隊員に打ち合わせをすませ、
「さあ、突撃に移りましょう」
 と、俺に合図した。勝ち戦だから、みな元気がよい。
「よっしゃ」と、今度は百五十人が一団になって押しかけた。だが山茶花の咲いてい
る辺りで止ってしまった。
 なにしろ、あまり早く突きこむと、此方の砲丸の下へ吾々自身が入ってしまうから、
それを用心したのである。
 どがーん、どがーんと、四囲を震動させる砲声を指おり算え、(十発だから合計二
十発だ)最後の一発を合図に、此方も一斉に、
「うおーっ」と鯨波(とき)をあげ、前の欅林をかき分け、敵前へ踊り出ると、もう
一足先に筑波の「虎」の旗が向こうへ突入していた。三橋半六の隊である。
「‥‥大子館の虎隊の書生に負けるな」
 と此方も、盲目滅法突きこんでゆくと、
「わあっ天狗武者だ」
 と、脅えたように、敵の集団は浮足だった。そして、此方をさけ虎の旗の方へだけ、
逃げるように殺到していった。まるで風に薙がれる葦の穂波みたいな具合である。そ
れなのに、
「くそッ‥‥覚悟しろ」
 御室勘太郎の三番隊がひとかたまりになって、そちらへ飛込んでいった。博徒上り
ばかりで組ませてる隊だから、こういう殴りこみには向いているらしい。さながら火
の玉みたいな勢いなのである。
 すっかり気を呑まれた相手は、道をあけるみたいに左右に分かれた。だから好い気
になって三番隊は、手に手に大刀を振り廻し、まるで無人の野を行くようにつっ走っ
ていった。好い心持で俺も見送っていた。しかし、それを望見すると、
「危ない‥‥あの侭では三番隊は、左右から包みこまれて袋の鼠にされる」
 と土田は急いで、牢人部隊の四番隊と五番隊に、その助勢を命令していた。
 混戦である。とても天狗面つけた侭では、見通しがきかぬかれ、これでは俺は突き
こめぬ。
 なにしろ天狗面の眼孔は、実際の瞼より離れてついているから、顔を一々その方向
に振り向けなくては正面しか視えない。といって、天狗面をはずして敵中へ乗込む程
の事もなさそうである。
 なにしろ時益館の高畑孝蔵の天隊と鹿島館の根本新平の地隊の書生っぽが合力して
戦っている。拳固大の石を擲げ丸たん棒で突入しているが、遥かに味方のほうが優勢
なのである。
 だから、俺と土田は、一番、二番隊の者を旗本にして、後方で指揮だけとっていた。
 すると、左手を肩から吊るし右手だけで馬の手綱を操った男が、まっしぐら此方へ
駈ってきた。
「誰か」と思っていると近づいてきて、やっと顔が見えだした。岩谷敬一郎だった。
「あとで、お呼び出しがあるぞ。あんたの掛け引き用兵ぶり。実にまことに見事であ
ると、山国兵部さまが感心されて、武田伊賀さまに言上しておられたぞ」と鞍の上か
ら、しゃくれた顎をつきだした。
「本当ですか。うすっ気味悪いですねぇ。なんしろ、ここんところ、いつも一杯はめ
られ通しの僕ですからねぇ」
 と、俺は天狗面の下から、そんな返事を大声でした。

 しかし話は本当だった。俺は呼ばれ、
「なんなりと望め」といわれた。が、こういう具合にもってこられて、子供みたいに、
(あれが欲しい)(これが良い)などと言えるものではない。
 もじもじしていると土田が背後から低い声で、
「岩谷さんを貰いなさい‥‥あの人は先日の敗軍の責をとって隊を解散し、今は一人
きりでいるが、此方へ来てくれたら、前の部下が三百か四百はついてきましょう‥‥
甲府城を乗っ取るには、どうしても兵力がいります」
 と早口でせっついてきた。同行した高橋も、
「‥‥石橋の宿場で断られたことは、もう水に流して、改めて岩谷敬一郎を此方へ配
属するよう、好い機会だから申し出て下さい」
 と袖をひかんばかりに、俺を促した。だから、
「では、お言葉に甘えて、岩谷君をわが隊へ廻して頂けませんか」と、俺は山国兵部
さまに申出た。すると兵部さまも、
「それは好い事を言って呉れる。勇みすぎて、真っ先かけて突進したばかりに、弾丸
にやられて気を失い、とんだ縮尻をやらかした男だ。汚名挽回のために、ひとつ頼む」
と、片手を吊して戦いに使えぬ岩谷を、早速派属させてくれたのである。
 しかし、他の隊へ廻されていた岩谷の旧教え子たちは、思ったよりも集ってこなか
った。僅かに旧塾生が十名位きたっきりだった。これには土田や高橋も、当てがはず
れたようだった。

 さて、である。吉田山合戦は、明神境内を占領し敵を城下の木戸口へ追いこんだ味
方の大勝利だったが、水戸城へ進撃せず、翌十一日になっても備前堀を挟んだまま彼
我退陣の侭だった。
「どうしたんだね」と、俺は執行部に顔のきく岩谷を、本陣へ様子を見にやってみた。
 本陣は台町の寺におかれていた。
 そこには、水戸中納言名代として公儀から向けられてきた宍戸の殿の松平大炊頭さ
まについて、水戸小石川屋敷から、榊原新左とか、谷銑蔵といった中堅派。つまり、
かつて土浦経由で出府していた百名が供をしてきていた。それに、さきに上洛中に京
で病死した殿さまの弟の左衛門さまの遺骨を奉じてきた従臣五十二名。
 これに宍戸の家来を入れると二百十一名。
 この一行を片倉まで出迎えて合流した武田耕雲斉の一族郎党が六十三名。筑波から
加わった小川館や大宮館の書生派が約八百名。
 一刻ほど遅れて参加した潮来館と鹿島館の七百名の書生を加えると千七百の余にも
なる。
 一万石で城もなく江戸定府の宍戸侯松平大炊頭は、こんな多人数に迎えられた事は、
これまでなかったから勇みたって陣頭に馬を進めた。
 筑波山から遅れて加わっていた諸館の残り六百名と共に、海岸沿いに那珂湊の文武
館や平磯館の在校生五百も馳せ参じたから、ここに三千をこす大軍となった。
「水戸城へ」と松平大炊頭は指揮をとった。
 だから、この知らせをきいて驚いたのは、水戸城を掌握していた市川派の面々であ
る。
(殿様御名代の松平大炊頭を、城へ入れぬわけにはゆかない。といって城門を開けた
ら、武田伊賀守耕雲斉の息のかかった三千が、城内へ雪崩れこんで来る。そうなった
ら折角、水戸城内の実権を握ったばかりなのに、また形成逆転して。市川三左の一党
は追払われるか。悪くすると、みな殺しにされかねない)という事態になった。
 さきに援軍に来ていた大公儀歩兵隊は、下妻多宝院で暁の奇襲をうけ。僅か百名に、
散々打ち破られ面目失墜。寝間着の侭逃亡した目付永見貞之丞が、江戸へ呼び戻され
「永謹慎」を命じられているから、すでに全軍総引揚げの侭である。
 単独では、いくら市川が官学派の弘道館の書生を、みな集めても、これはとても六
百名とはいない。四五倍も彼我の兵力が違っては、どうしても敗北は必至である。そ
こで、
「これは大変だ」というので、二の丸に居られる御後室さまの許へ伺候した市川三左
達は、
「大夫人さま。あなたさまの御命を狙って、彼らは押寄せて参るのでござります」と
申し上げた。
 先代斉昭公の未亡人で、斉昭公と馬くらべをして負けたとき、口惜しがられて、
「鞍に榛なりいぼをたてねば女ごは腰が落着かぬものぞ」と言い放って、夫の斉昭公
を仰天させたという逸話のある程、権威のあった方だが、鈴木石身守をはじめ重臣一
同が、顔色蒼然として罷り越したから、
「どうしようぞ」と、そこは女人のことゆえ心配された。そこで市川三左が、
「有栖川宮家からお輿入れされた時に、儀式に着用あそばされた綾錦の打掛けと、や
はり御降嫁の時に長持や道具に掛けて来られましたる紋章入りの覆い布をば、恐れな
がら一枚残らず出して頂きたい」と恐る恐る願い出た。
「たやすい事ではある」と登美宮さまは、すぐさま侍女を指図し次々と出された。
 有栖川家も宮家だから、十六弁ではないが、やはり同じ菊のご紋章なのである。

「大公儀の御沙汰によって、罷越す御名代の大炊頭様ご一行を止めるとは‥‥其方ら
は江戸表に弓ひく所存か。徳川の宗家に謀反を企てんと致すのか」
 と呼びかける武田方の全館連に対して、城方の市川は、
「われらは畏れ多くも天朝さまの思し召しによるものだ」と言い張って開門を拒絶し
た。
 そして、錦の打掛けを解いて布切れにしたのを、これを高々と竹棹にくっつけ、
「錦旗に手向かうか」と威嚇した。そして箪笥や長持に掛けてあった大風呂敷も、菊
紋を見せびらかして竹棹に結びつけられ、もって旌旗(せいき)にと変えた。
「これは困った」と、まさか登美宮の嫁入り道具の布とは知らぬ武田耕雲斉や大場一
心斉と山国兵部は、すっかり額をよせ集めて鳩首。会議をひらいた。松平大炊頭も狼
狽しきった。
 上洛した事のある者ならば、(御所の御紋章と有栖川家のものとでは、同じ菊の御
紋でも弁の数が違う)のを知っているが、老人達はやはり十六弁の御紋かと周章てて
間違えてしまった。だから十日に大勝を得て、三千の兵を率いながら、十一日になっ
ても、菊の旗の出ている水戸城へは進撃できずに当惑しきった。そして、ついに夜に
なると、
「いくら全館連の者が主力とは申せ、二十三校の私学をたてた先代斉昭公は、さきに
征夷の勅を賜っておられる。その遺臣であるわれらが菊花の御紋に対して発砲などで
きぬ」
 と、総引揚げを執行部の首脳部で決めてしまった。

「水戸城のすぐ近くまできて何故、総引揚げをするのですか」と学生たちは騒いだ。
しかし山国兵部は、
「諸君見給え‥‥敵は、僅か七軒町の広小路木戸にしか篝火をたいておらん。あとは
真っ暗だあれは、われわれを城下へ引き込んで、お城へつくまでに闇討ちにする罠で
ある。敵の謀計に、おめおめ陥ることはあるまい」
 と尤もらしく説明した。なにしろ、うかつな事をいっては士気に関るからであった。