1026 元治元年の全学連 11

 まったく変てこな話である。何故、われわれを土浦攻撃に出しておいて、今になっ
て、それを批難するのか判らない。が、小川館の竹内百太郎先生が水戸の中堅派百名
を誘いに行ったことが判ってからは、
「なあんだ、そんな手妻だったのか」と、われわれは呆れ返った。
 土浦の通行を喰い止め彼ら百名を立ち往生させ筑波へ引っ張りこむために、奇兵隊
を出動させ理由なき攻撃を土浦城へ加え、それで交通遮断を狙ったのだが、竹内や岩
谷ら小川館首脳部の思惑がはずれ、中堅派百名は相当の詫び金を包んで許され、江戸
小石川後楽園の上屋敷へゆき、官学派の政権を転覆させてしまったから、今となって
は竹内らとしては立場がない。
 そこで土浦攻撃を奇兵隊の行きすぎとして、責任転嫁を計ったのが真相のようであ
る。
 しかし、人の噂も七十五日というが、それっきり執行部から、土浦の件に関しては
何もいってこなくなった。だから土田衡平も、
「‥‥あの時は、あんな破廉恥な態度をとったが、やはり内心は忸怩(じくじ)たる
ものがあったのでしょう」
 などといった。
 俺も(そうだろう)と想った。そして、そちらが沙汰やみになると、人間やはり浅
間しいもので慾というか、新知お取立てのことが気になってならなかった。なにしろ
文武館や小川館の執行部の連中は、先生が三百石、学生も百石から百五十石の「扶持
切手」が、みな貰えるというし、潮来館や大宮館、南石川館、大久保館の方も、先生
方は新知二百石、学生は百石均一の沙汰が発令されるという噂だったからである。
「‥‥なにしろ今度のお取立ては全館連の方が主だから、吾々は後廻しだろうが、あ
なたは三百石‥‥いや、これまでの抜群の功績を加味すれば、五百石は固いでしょう」
 と西山や高橋はいっていた。俺も、
(五百石は無理でも、三百石は固い)と想っていた。そして(死んだ父の源之介が八
十石だったから、まあ三百石でも、大出世だ)と、そんな具合にも考えもした。そん
な矢先、
「‥‥執行部からです」と、また山頂から伝令が、書状箱をもってきた。土田が、
「とうとうきましたね‥‥」と、やはり羨ましそうにいった。彼も江戸神田昌平校の
出身だが、水戸の全館連とは無縁なので今度は初めから諦めてはいたらしいが、やは
りいざ状箱が届けられると、そこは、すこし寂しそうな表情をみせ、そして、
「ひとつ、拝ませて下さい」と、そんな口のききかたをした。俺も、
「いいよ」といってやった。が開けた途端、
「‥‥ええッ」と愕いた。覗いた土田も、
「こりゃとんでもない‥‥奇兵隊は上州野州を、元治元年七月十五日より向こう一ヶ
月間巡邏致すべきこと。と田丸さまの花押まで押してある。まあ、追払われるってわ
けなんですね」と、あまりの意外さにびっくりしていた。
 周りの者たちも、しゅんとしきった。
「‥‥竹内先生、竹内先生といわれて良い気になっているが、あの人は本名竹中万次
郎。たかが常州安食村の郷士じゃありませんか」
 と西山常蔵なんか、まっさきにふくれた。
「まあ、そういうな」と、本当は一番あてが外れてくさっている俺が皆を慰撫した。
「きっと竹内先生は今の侭では、土浦へ足止めされた事を怒っていなさる水戸中堅派
の百名の人たちの機嫌を損じないため、ほとぼりの冷めるまで、長い草鞋をはけと、
そういって下さるおつもりなんだろうよ」といってやった。
「‥‥そうか、ものは考えようだ。こんな筑波の山でくすぶっているより、一ヶ月も
ぶらぶら歩いて廻っている方がおもしろいかもしれん」
 と取りなし顔で、困ったように土田も口ぞえした。
 なにしろ、うかうかすると頂上の本部さえ襲いかねない。みな血の気の多い連中だ
ったからである。


公儀の機動隊出動

(吾々は、追い出されるのではなく、こちらから出て行くのだ)という事を見せつけ
てやる為にも、土田の考案で美々しい行列が出来上がった。
 金地の扇に、日の丸を描いた馬印。
 それに紅白の縮緬の吹流しが、左右に一本ずつ。これには「全館連」の刺繍文字。
 続く白旗は「仁」が五本「義」が五本。
 そして本隊の前駆は、土田が左右に六名。前後に四名を従え、あとに騎馬五騎徒歩
二十の学生兵を引率。次には征韓の役の時の分捕品だという唐国の大陣太鼓。そして、
その後に、半弓を持った少年学生兵の小姓が八名。
「二つ巴」を染め抜いた、わが田中家の紋章が、俺の大将旗。そして背後から、己れ
に差掛ける日除けは、黄金薄板ばかりの大唐傘。
 しかも、緋威しの鎧に錦の陣羽織のいでたちである。
 西山と高橋は同じ緋威しに身をかため、長柄を右手にしっかり立てていた。そして、
この二人に派属された使番の六騎は白革鎧である。
 ついで後ろに従う鉄砲組は白縮緬。長い槍組は赤縮緬と、紅白に分けてやった。も
ちろんこれは太平山の社務所で本部の連中のやっていた赤白の旗への皮肉である。そ
して照れ臭いぐらい耻しいのを堪えて威風堂々と出陣した。しかも全員四百、ざんぎ
り頭なのである。
 ----が、これには、これで訳があった。
 五月の末に、本隊が筑波へ引揚げたあと、組し易しとみられたか、
「結城藩水野の手勢が、太平山の吾々を襲撃する」と伝わってきた。そこで、
「たかが、相手は一万八千石の小大名ではないか‥‥。待ち受けるより、いっそ此方
から出向こう」
 ということになった。みな血気ざかりのせいである。
 それに田丸とか竹内というような、うるさいのが筑波へ引きあげていないから、面
倒くさく一々許可をとる世話もない。
 何事も、すべてが俺の胸三寸にきまるのだから、全員ことごとく引率し、結城をめ
がけて、小山をこえて太平山から攻め込んだのである。
 土田衡平は藤本鉄石に軍学を学んだといっているが、彼ひとりでは心許ない気がし
た。そこで天誅組残党の連中の他に、千葉小太郎、服部彦太、西善造らの腕自慢を、
先手にして、これを最前線に向けた。
 その時である。これまでは幹部だけだった天狗面を全員につけさせる事にした。敵
を威嚇する為と、戦争したことのない隊員を、勇気づけるためだった。
 ところが、髷をつけて面を冠ったのでは、はみ出して、てんで似合わない。なにし
ろ凄味がでるよりも、まるっきしお神楽のもどきみたいになってしまうのである。そ
こで、
「----こりゃ、やはり山伏や修験者みたいに、総髪でないと恰好がつかんのう。面う
つりが悪い」ということになって、俺達がまっ先に、小山の宿で断髪した。すると、
それを見習って、隊員達も一人残らず小刀で髷を斬り毛髪を揃えてしまった。そして
万一戦死した時には、それを遺髪として故里へ送る手筈もした。
 なのに、せっかく其処まで決意して、結城の城を包囲したのに、いざ決戦という段
取りになって、城内から使者が来た。隊の越壮太郎が結城の旧藩士なので、前もって
向こうとの仲立ちをしていたらしい。結局のところ軍資金として千両をもってきたか
ら、俺は、それを貰って戦は止めにした。無駄な殺生はしたくなかったからである。
 さて勇ましく決死の覚悟をして遺髪をこさえたのに、これでは結果的になんにもな
らなくなってしまった。といって切ってしまった毛がおいそれとすぐ伸びるわけもな
い。だから、これで一月余り、われわれ奇兵隊は一人残らず、このざんぎり髪で通し
ている。
 だからその後は、これが隊規となって、新入りは即日、髪を馬挟で刈られる掟にな
ってしまった。しかし時まさに七月。なにしろ汗くさい日々なので、こうして短くし
ていれば髪結いの世話はないし、また頭を洗うのも手軽。そこで、みんな結構なれる
と、ざんぎりを喜んでいる。世間でも「奇兵隊刈り」などといいだした。
 だから筑波へ戻ってからも、こうした頭の恰好に惹かれてか、わが隊には、修験者
の入隊が多くなった。髪がその侭で通用するから、きわめて都合よく重宝らしい。
 中には竜宝院の田村賢孝と呼ぶようなのもいた。先君斉昭公に「海防策」という建
白書を執事献上し、斉昭公が大砲をひそかに多量に製造しだすと、これが水戸以外に
知れぬようにと「防諜百首」というのまで作って配ったという変り者である。
 入隊してからは「異国には空をとぶ車」があるといって、筑波では日夜その試作ば
かりしていた。
 竹とんぼのように縦軸の廻転で上昇して、風流速によって空中を浮遊する飛行車で、
田村賢孝は、これを自分では「雲車」と名づけていた。
 その「雲車」が完成したら、まっ先に、俺を乗せてくれる約束なのに、惜しいこと
に製作の中途で出発することになったのである。
 まさか大きな竹とんぼは担いでこられないから筑波へ置いてきたが、道中では田村
賢孝は、
「‥‥伝令を飛ばして隊の連絡をとる面倒」をさける為に「螺線通信器」を考案した。
針金のぐるぐる巻いたのを前後にもたせ、その引っ張り方の間隔のとり方によって、
暗号通信をするのである。
「トン・ツウ・ツウ」とはゆかないが、「ビュウン」「ブルブル」「ダンダン」ぐら
いに音の響きをきめておくと、「来い」「急げ」「止れ」といった簡単な命令伝達に
は使えた。
「通信器としては日本では比をみない発明である」と、俺は黄金一枚を賞として渡し
た。

 しかし日中の行進は眩しいくらい暑い。
 そこで頭に冠っていた天狗面を頬までずり下げると、皆も、それに見習った。だか
ら路傍の者が、「ほう、天狗武者」「天狗党」
 見惚れたような声をあげ、そうした賛辞があちらこちらで掛ってきた。先頭の旗の
「全館連」などという難しい漢字は、学のない者には読めないせいであろう。

 雨に降り込められて三日。八月一日になった。
 上州沼田の城下に分宿した侭、いらいらしていた。俺ばかりでなく皆もそうらしい。
 なにしろ掛合いにやってあるのに、御領主三万五千石の土岐美濃守からは、いくら
待っても別に改まって何の挨拶とてない。そのくせ旅篭の主人が朝夕二度ずつ番所へ
呼出しをうけていた。だからその所為なのか下婢たちも、俺たちへ露骨に迷惑そうな
顔をしてみせる。
 しかしである。いくら一刻も早く出てけよがしに扱われたにしても、この雨ではと
ても草鞋など穿くけるものではない。
「‥‥もうあと半月たらずの辛抱だな」
 と、くさくさしながら、俺が細目に雨戸をあけて、表を覗いていると、すぐ背中の
ところまできて低く、
「軍将‥‥」と聞咎めるような声を出して、「一月で本当に、やはり筑波へ戻られる
気なのですが」
 と妙なことを、高橋が口走った。だから、びっくりして、
「----えっ」と不審に思って振返ると、西山までが、膝を四角に座り直して、すぐ後
ろに座っている。そして、(とんでもない)といった顔で、俺を、きめつけるように
見上げていた。
「想い出しても‥‥みて下さいませんか‥‥今までの旅の苦労を‥‥もう忘れられた
訳でもござりますまい」
 と高橋に言われてみると、たった半月のことだが、まるで一年のようにも想えた。
 なにしろ威風堂々と筑波を出てきたものの、まず毎日のように困ったのは、なんと
いっても泊る所だった。
 四百人からの者を泊める旅篭の数などは、そうそう何処にも揃っているものではな
かった。だから寺を借りたり、時には、女郎屋まで借り切って皆をねかしてやった。
 鍋釜を持ち歩いていなかったから、やむなく行く先々で飯を買って四百人に喰わせ
た。足許を見られた。いつでもべら棒に法外な値を吹っ掛けられた。だから初め以っ
て出た結城城からの千両の残りの路用が渇水のごとく日ごとに減って十日も続かなか
った。
 しかしである。何処へ何をしに行くのでもなく、ただ巡視というだけの指示だった
から、途中で、「旅費を」と本部へ急使をたてたが、てんで一文も持たせてくれなか
った。そこで高橋と西山が、
「弱った、弱った」と口癖に呟きつつ、それでも牒(しめ)し合せて、何処かで金策
してきては、それでなんとか今日まで隊を維持してきたのは、俺にもよく判ってはい
たが、黙って済ませていた。が、それを改めて二人が顔色を変えて、詰めよってきた
のには些か面喰らわされた。
「なんだい、改まって----」と、俺も、むうっとして言い返した。怒るほどのことで
もないが、雨に降り込められた焦燥が、やり場もなく、それでむかっておして睨みつ
けたのだろう。
「まあ憤らないで下さい‥‥それより吾々と行動を共にして下さい」とおかしな口ぶ
りを高橋はするのである。
「じゃあ、何処へ行こうというんだね」
 俺も妙な顔をしてしまって聞き返した。すると、
「はい、甲府です‥‥この侭押し寄せましょう」といった。
「なんだって‥‥」と思わず、俺も呆気にとられた。

 甲府の城というのは、武田勢に散々苛められた神君家康の頃は、占領後も枢要の地
として大切に扱われたという。
 だが当今では、お旗本の棄て場になっている。お役向きを縮尻った者や不行跡な者
が、御府内から甲府勤番に廻される。そして一度甲府へ左遷されたらば、もはや生涯、
江戸の地は踏めぬからと、まるで佐渡の島送りみたいに、水盃して赴任するとまでい
われている。つまり今はあまりぱっとしないお城なのである。そこで、
(‥‥好んで人が行く所でもない城へ、なんで、吾々が押寄せるのか)と茫然として
いる俺に、
「よろしいか軍将。あの甲府城の今の親玉というのは、六千石の大久保紀伊守と四千
五百石の菅谷山城守の共番。そして、これに左遷された御旗本が二百人たらず、あと
は、与力と同心五十人ずつで、しめて三百といないのです。それに比べ吾々はここに、
それより百も多い手勢をもっているんです」
 と例のごとく高橋は、ぎろりと眼玉をひからせ、顎の下の傷痕をつるりと撫ぜた。
「相手が三百たらずのお城です。だから吾々が入城するのですよ」と薄い眉毛を西山
も曲げた。
「‥‥ほう、では寝泊まりの旅篭探しが大変だからいっそ、ひと思いにお城を拝借す
るという寸法かね」
 と、俺は訳が判ったようなわからない顔をした。
 なのに、それに大きく頷いてみせてから、
「甲府の城を押さえたら次は駿府の城へ掛りましょう。なにしろこの駿府の府中城と
きたら、三千石の御旗本の松平筑前守が城代として、入っているきりですから人数も
知れてます。もちろん駿府町奉行や久能山御番所はありますが、どちらも与力八名に
同心が二十人です。てんで問題はありません」と高橋はいった。
 続けて西山も、「むかし武田信玄や勝頼が失敗したのは、陸路をとって遠州二股城
や長篠城に、引っ掛かったからです。吾々は甲府城を占領したら、富士川の激流に筏
隊を浮かべて、水路駿北へ出ます。新町か岩淵で上陸。由比ヶ浜から田子ノ浦、袖志
ノ浦と浜伝いに、下横田町から駿府の府中城を、正味一日半で落して、おみせします」
と肩を怒らせながら口から唾をとばした。
 すると、いつの間にか部屋へ入ってきたのか、土田衡平までが押し潰した声で、
「長篠設樂原の戦で敗れたのがもとで、滅亡したのは‥‥なにも武田一族だけではあ
りません。甲府や信州の人間は、それから後はみんな負け国の民として、ずっと酷く
何百年も扱われてきているのです。だから江戸の御旗本が甲府勤番を嫌がっているの
も住民たちが徳川の人間を蛇蝎のように嫌い馴染まないからなのです。‥‥もちろん、
これは彼らとしては無理もありません。なにしろ甲州、信州の住民は、そりゃ追い詰
められた非道い暮らしぶりです。なにしろ自分の親でも、年をとると養えぬから、生
きた侭でうばすてと山へ棄てに行くんです。神隠しといって喰わせられないから子供
も扼殺してしまうのです。それでも彼らは、山の頂上までずっと登って耕さんことに
は、とても年貢が納められません。それを江戸人は『田毎の月』などと茶化している
のです。その口惜しさと報復に、彼らは凄まじい根性をもってますよ。甲府城と駿府
城をわれわれが押さえてご覧なさい。信濃の人間は一文の銭を施さなくても、手弁当
で、われらの旗の下へ集ってきます。そうしたら今まで圧迫されていた彼らに、仕返
しに駿河遠江三河の三国を、押さえさせるのです」と、滔々とのべた。
「それから‥‥どうなるんだ‥‥」
 俺も面喰いながらも、つい話にひきこまれていた。
「‥‥甲信駿遠三の五ヶ国を握ったら、もう天下に恐ろしいものはありません。そこ
で恐れ多いが天朝さまに奏聞して、われわれが御勅書をいただくのです。北条が源家
に替ったように、吾々が徳川(とくせん)に取って換わり、なんとか物価の値上がり
をくいとめ、みんなが楽に暮してゆけるような、そんな世の中にしたいのです」
 ぼりっと顎の下の古傷をかいて高橋由之介は、目玉をぎょろりとさせた。俺は、
「‥‥われわれ全館連が、つまり私学の若い俺たちがみんなで世直しをしようとした
のも、その為なんだ。俺たちは生きてきたからには、自分らが住んでる世の中を良く
したいと思うのは人情だし、またそうすることが、俺たちみたいな若者の勤めなのだ。
藤田小四郎は小川館の学生だから、竹内先生に頭があがらない。竹内さんは自分が出
世したいから、田丸さんや山国さんに、へいこらする。また、その連中は武田耕雲斉
に一目おいている‥‥しかし、俺たちは大人なんか信用しない。俺たちの若さと純粋
さだけでも、きっと回天の大業はなしとげられると想う。その為には、君らのとく甲
府城と駿府の府中城の占領が、もっとも上策というのなら、隊長としてこれに賛成を
拒むものではない‥‥しかし、まぁ確答はすこし待ってくれ。君たちによってたかっ
て、わいわい言われては頭がぼおっとなった‥‥俺は、頭を少し冷やしてくる」
 と言いのこすと、家の番傘をかりて、俺は表へ出た。
 しのつく雨とはゆかないまでも、銀色の線が、まるで布をおる糸目のようにつなが
っている。柳の若芽が、その雨に洗われて、すがすがしい緑色を見せている。だから、
つい立ち止まって、蛙ではないが見上げていた。
「‥‥たあっ」
 と、凄い気迫だった。いつ背後へ忍びよっていたか。上州の真庭念流らしい凄まじ
いけさがけだった。
「あッ」と後ろへ、俺はとびのこうとしたが、なにぶんにも宿の借物が下駄である。
 足の指に鼻緒が馴染んでいないから、ぽんと跳ねとんだつもりが、足駄の方が嫌が
って前へとんだ。雨で滑ったのかも知れない。
「‥‥しまった」と、おれは型ちんばの恰好になって狼狽した。が、
「たへえッ」と向こうの狼狽した声がした。
 こちらは自分の足駄が片一方なくなって、身体の中心がとれなくなっていたのに周
章てていたが、先方は、とんでいった足駄がもろに顔に当りでもしたのか、左手で鼻
つらをこすりあげていた。そこをすばやく、
「‥‥おのれッ」
 と、俺は残った片方の足駄から、さっと飛びおりるように、いきなり踏みこみざま、
「くらえッ」と抜き打ちに横なぐりに切り払った。胴っ腹のまん中の骨までひと息に
斬り込んだのか、ずきんと手ごたえがした。槍で突くのとは違った感触だった。
 屈みこんで倒れた相手の周囲は、みる間に赤く、雨で血が薄められ鮮紅色になった。
「‥‥やったな」
 と次の男が、もろ手突きにかかってきた。
「えいっ」と裂帛の気合である。それを、
「ほれ」と跣足になっていて身軽な俺は、
「斬るぞ」とことわってから、左の肩から脇乳まで、薪でも叩き割るよう切り下げた。
 まだ後二人ほどいたが、まさか続けて二人も斬り殺されては予定が違ったらしい。
雨の中を濡れ鼠になって逃げていった。
 俺は沼田藩士に襲撃されたことなど、おくびにも出さず、手足を拭いて戻ってくる
と、まだ土田ら三人は車座になって、額をあつめて相談しあっていた。そして挨拶が
わりに、
「まぁ念のための用心ですが、どうも甲府城内の鉄砲の数だけが、やはり気にかかり
ますな」
 と三白眼を真剣に輝かせつつ、薄い眉にしわよせ西山常蔵が、地図から顔をはなし
て、俺に話しかけた。熱心そのものである。
「‥‥甲府勤番は、五百石以下と定まっているから、鉄砲の私物はなかろう。すると
勤番組頭は調べたところで植村金五郎と佐々木八十吉、それに団権十郎や三宅牛五郎
の四人で、これらは御役料二百俵もらって、御預り鉄砲各十挺と表向きはなっている。
だが、相当の年代物らしいから、まぁ使える鉄砲は、そのうちの三十挺ぐらいとみれ
ばよい‥‥」と高橋が言うのに、土田がおおいかぶせるように、
「それは、見方が甘い。‥‥かつて、わしの耳にしたところでは、使える物が御支配
詰所にも、ずらりと並んでいるそうだから、すくなくも五、六十挺は、愚図ついてい
たら、ドカンドカンとぶっ放されまするぞ」と、いましめた。実に真剣である。
(これはゆける。慎重な土田が、これ程までに練りに練っているものなら、全館連の
俺たちでうまく天下がとれ、きっと良い世の中になるかもしれん)と、俺も座り込ん
だ。


甲府城占領計画

「虻蜂とらずとは、この事だね‥‥」
 笹原の宿場まで、引き揚げてくると、柊林の中へ、みんなを入れて休ませつつ、俺
はげんなりした声を出した。
「ひでえ奴らですね‥‥まったく」
 高橋が、ぶすぶすしながら、襟の肌をもろ肌ぬぎになって拭った。
「‥‥三橋半六って、まだ二十二、三の赫ら顔の若者の仕業なんですよ」と、いまい
ましげに西山が舌うちした。
「その若者が、岩谷さんの隊から、のこのこ出てきて、にこにこしながら近づいてき
ました。黒眼がでっかく、きょとんとした顔つき。まあ男にしちゃあ、やけに愛嬌の
ある顔の造作でした。だから、此方の隊へ近づいてきて、うちの連中に何か囁いても、
吾々も、てんで気にしなかったのです。なにしろ、てんで警戒心を起こさせるような、
そんな面じゃないんですからね」
 と、これもくさりきった顔で土田も洩らした。そして、
「隊員共が次第に隊列を離れて、向側の本陣の裏手へ入って行くもんですから、妙だ
と気がつきませんでした。が、まさか、此方は何も疑ってませんでした‥‥」と続け
た。
「その時、よせば好かったのに、『ありゃあ冷えた白玉でも振舞って貰ってるんだろ
う』って、当て推量を言っちまったんです。だから高橋君が、せっかく腰を上げかけ
て、『変だ』と調べに行きかけたのを、その言葉で、『そうなのか』とやめてしまっ
たのです」と西山が口を入れた。
「それで結局、三橋半六に、百名近くの者も、引き抜かれてしまったって寸法なのか
い」
 と、俺が苦笑してみせると、
「面目ない」ぺこりと土田が、汗だらけの顔を歪めてうつ向け、
「筑波へ吾々は今から帰るから、一緒について来たいものは、向こうの井戸端へ並べ。
先に筑波へ戻った者は、奇兵隊の宿舎でも、よく掃除しておけ。放りっぱなしになっ
とるから汚れとるぞ‥‥と、こんな調子で呼びかけたそうです。なにしろみな二十日
余りも、朝から晩まで炎天下を歩きづめです。だから足裏にまめの出来た連中は、一
足さきに筑波へ帰れば、みんなが帰営するまで手肢をのばして骨休みが出来ると、そ
んな考えで、ぞろぞろついて行っちまったんです」と、すまなさそうに報告した。
「なにしろ軍将自身が、向こうの岩谷隊長の居る本陣へ、ずかずか入って行かれるの
を、隊員共は、目の前で見ています。だから『軍将が岩谷さんと話し合いなすって、
希望者だけを早く帰してやるよう、筑波へ引揚げ中の先方へ依頼された』と各隊長も、
そんな判断をしたようです。だから、暑気病みの者、脚気の出かかった者、すこしで
も具合の悪そうな者は、ばかくさい話ですが、『お願い申す』と各隊長が自分で、本
陣裏へ連れて行ったものもある始末なんです」と高橋も眉をへの字に曲げた。
「では、君たちの方へは、全然連絡はなかったのかね」と、おれは念のために訊くだ
けは聞いた。
「え、なにしろ集合場所が、此方からも覗ける井戸端ですから、冷えた白玉を喰って
るか、冷たい水で身体でも拭ってるくらいに、別に気にもしてませんでした‥‥」
 と西山が、しょげきって説明した。どうも話の様子では、俺が岩谷の許へ顔を出し
て戻ってきたので、さあ出発と、幹部の者が集合の命令をだしたところ、思いの外に
人数がたらない。はて不思議なこともあるものと探し廻ったら、もう岩谷隊に入れら
れて先に出掛けたものと判ったのらしい。
 まったく、うかつ千万な話であいた口もふさがらないが、どうしてこんな事になっ
たのかというと、陸羽街道で、俺の奇兵隊と、今から筑波へ戻ってゆく岩谷敬一郎の
部隊がゆきあたってしまったからである。

 甲府城を乗っ取り、甲府の府中城まで奪取して、革命政権を樹立しようとしていた
西山や高橋は、
「‥‥この連中を筑波へ戻してしまうのは、勿体ない」と思ったのだろう。そこで、
「‥‥岩谷さんを説得して下さい」とつついた。そこで、俺が岩谷が休んでいる本陣
へ顔を出したところ、岩谷だけでなく結城城主の舎弟の水野主馬に、その名代の高木
甚作が、手勢を率いて加わっているからと、一緒に同席していた。
 まさか、そんなに初めて逢う人間が大勢いるところで、いろいろの話もできかねた。
 だから岩谷だけを別室に招いて、二人で話しあっていたから、つい手間どって時間
が掛った。
 それで、その間に、まんまと向こうの兵力をかりようとして出かけて行ったのに、
結果は、あべこべに此方の兵士を百も失敬されてしまったのである。まったく、これ
では話にもならない。
 ----この時のことを詳しく書いてある、<下野史談>というのによると、それは、
まるで講談そのもののような調子であるが、原文のままだと、
「元治元年六月三日。結城郊外にて、田中源蔵の一行は岩谷の部隊に逢うや、好機逸
すべからずとなし、岩谷の隊を筑波党より分離せしめ、二隊相合しもって大事を決行
せんと計る。両名の対談の模様を仄聞(そくぶん)するに、岩谷は猩々緋(しょうじ
ょうひ)の真紅の陣羽織に、白綸子の胴服。熊皮の尻鞘をかけた太刀をおび、采配を
もって床机により、田中は、赤地錦の陣羽織に、萌金襴の大口(二股になる袴。太口
のズボン)をはき、鷹羽の征矢(そや)をさしたる箙(えびら)を背におう」
と、まるで源平時代のような有様に描写され、そして二人の会談の模様も、明治四十
四年刊の<史籍雑纂>から、多少は読みにくいが、原文の侭にて、これを引用すると、

田中即ち岩谷にいつて曰く、それ英雄の事をあぐるやあらかじめ一定の策を建て順序
を追ふて進退すべし。いたずらに尋常の見をとり、漫然と時と共に動くが如き、何を
以て非常の功を成すをえんや。僕に一計あり、君と心をあわせ、相い共に軍を率ゐて、
直ちに道を甲州に取り、不意に府城を襲はば、贏弱(えいじゃく)の幕臣等は身を免
るるを幸とし、防禦に遑(いとま)あらず、唯一放銃以て甲府を取るべし。甲府已
(すで)に我手に入り府庫を発(あば)き、恩を布(し)き、威を輝かし、以て国民
を綏慰(いぶ)せば、遠近饗応せん。其時に兵を率ゐて富士川を下り駿北に出で、直
ちに府城を襲はば、疾雷耳を掩ふに遑あらず、刃に血ぬらずして駿府我手に入るべし。
已に甲駿両府を得て之を根拠とし信濃を略し、然る後に、天朝に奏聞し、勅書を以て
罪を幕府に問ひ君側の姦人を誅し、号令を四方に施さば、数旬ならずして大事成り、
功業立つべし。何ぞ区々の名義に拘し築山に栖遅(すいえん)するをすべからくや。
余、此策を総帥に説かんと思へども、人衆(おお)ければ随て異論多く、事の決し難
きを恐る、故に未だ敢て之を発せず。誠に天幸なり、因(よっ)て来て相謀る、機会
再び来らず。請ふ遅疑する勿れと、意気甚だ鋭なり。

岩谷答へて曰く、君の策甚だ奇なり。然れども我同盟の事をあぐるは大義に従つて、
水戸幕府を輔(たす)け勅旨を奉じて攘夷たらんとするのみ。今君の論ずる処は、乱
じ乗じて国を奪ふの策にも似て、名義に於て甚だ非なり。尚一個の見を以て、速に従
ひ難し君よく熟慮せよと。

田中怫然(ふつぜん)として公等(きみら)は碌々良図を繞(めぐ)らさず、後必ず
悔ゆる事あらん。余は之より自姿(じまま)に進退を為すべし、爾後筑波の節度を受
けず、請ふ其旨を総帥に告げよ。

 というような状態である。しかし、岩谷敬一郎は明治になって生き残って、水戸天
狗党の一隊長だった来歴を、男の勲章として生涯、誇張して吹聴して廻っていた男で
あるし、また水戸市五軒町原市之進忠寧の菁莪塾で、田中より三才年上の同門だった
という綿引東海が、明治初期の著述業者になったので、その著<甲子日札(こうねひ
ちさつ)>になると、
「元治元年三月二十七日、綿引東海は、田中、島根らと雁鍋の店にて酒をくみかわし
ているから、同日水戸筑波山で小川武勇(のち藤田小四郎)らの挙兵には、田中は間
に合うわけはなく、のち太平山へ赴き参加した」
 というような記述は信頼できるが、田中源蔵の数え年十四才の時の作詞というのが、
<東海遺稿>に五連も集録されているが、これは明治に入ってからの後人の偽作らし
い。なにしろ当時やはり数えなら十六才の小川武勇が、堂々と後年の名である藤田小
四郎名で、これには書きこまれているから、いかんとしても信頼しかねる。
 この他にも<波山始末>とか<波山記事>といった水戸人の書いたものにかかると、
明治時代の流行思想である「尊王精神」に、これは結びつけられデフォルメされてし
まうから、<水戸史談>においても、原文を引用してみれば、

真卿云う。筑波の徒は大義名分を口にすれども、その為す所は国憲を無視して政府に
反抗せしものなり。すでに兵をあげて常州野州の間を横行し金穀を募りながら、なお
名分を唱ふるは何等の愚ぞや。かかる場合に迄たちいたりし上は、到底幕府の為には
国賊視される事勿論なり。寧ろ進んで幕府を倒し、尊王の実功を奏するには如かず。
土田衡平が、田中をすすめて甲府を奪はんとするは、これが為なるべし。もし田中と
岩谷が間道より会に入らば、甲府の勤番士もとより惰弱の幕臣にて、其の数も二百人
にたりねば、防ぐ事能(あたわ)ずして城を渡す事必然なり。甲府を奪ひし上、岩谷
の一手を以て甲府を守り、田中の一手は鰍(かじか)沢より富士川を下り、直に久能
山を奪ひ、駿府城を抜かば、東海道の道路塞がり、幕府いよいよ周章狼狽して、内部
に一変動を起すならん。この七日は、長州の三家老数千人を率ゐて、京都に迫りし時
なり。(蛤御門の変)と、これはいわれる。よって一は筑波、一は甲駿、一は京都、
三方四方呼応して幕府を攻撃せば、男らしき仕事とも云ふべし。

 というようになっていて、明治にはいってからは、田中源蔵に岩谷敬一郎が協力し
て、甲府から駿府を攻めとっていたら、
(水戸人も、薩長政府に一枚くわわって、薩長水の三巨頭政権を樹立できていたであ
ろう‥‥かえすがえすも残念なことをした)といった意味あいで、この時の両者の話
の物分れは、さかんに水戸人に「損をした」ように惜しまれている。
 また、この「甲府から駿府を占領」というアイデアは、相当に明治期に入ってから
は、「本州中断説」として、重要評価されたらしく、<殉難録稿>などという書には、
「清川八郎ひそかに兵をもって甲州より、水路を下って駿府まで奪取せんと計る。し
かしこれ天下の大事なり。その素志を洩らせしは同志中二、三を出でず、依って他は
知らず」
 と、応用されてしまったり、また、
<維新回天史>などになると、
「西郷隆盛は、中村半次郎(桐野利秋)を密使とし、武田耕雲斉の陣営に赴かしめ、
岐阜に入り大垣城を奪取し、もって本州を中断し、その素志を貫徹せよと進言す。さ
れど武田らこれをきかずに加賀へ赴くの愚挙をなす」
 というようにも変化してくる。もちろん真偽は不明である。しかし、この翌年の慶
応元年に、長州の高杉普作が、田中源蔵の「奇兵隊」の名を、当時は特許局がなくて、
名前が登録申請されていないのをよいことにして、無断借用して、この隊旗を掲げて、
征長の幕府軍に向かうと、
「‥‥田中源蔵らは昨年十月にみな捕殺したと思ったら、残党が長州へきていたのか」
 と公儀の歩兵隊もびっくりして退却したというくらいだから、相当に、この田中源
蔵の甲府から駿府への本州中断説は、翌年の慶応時代においても喧伝されていたもの
らしい。
 しかし、そんな死んでからの事を、まだ生きていた元治元年(この四年後が明治元
年)六月三日の時点において、当人の、この俺が知っているわけはないのである。

 その時の俺は、岩谷敬一郎と話があわずに物分れになったので、甲州占領の計劃に
齟齬をきたしたということをも面白くなかったが、それより何といっても岩谷との面
談中に、こっちの連中を百名も引き抜きされた事の方が、すっかり頭にきていた。
「‥‥戻ろう」
 と、隊をまとめさせると引揚げにかかった。
「‥‥どちらへ」と土田衡平がきいた。
「今朝でてきた所へ、また戻ろうではないか‥‥あすこなら寺が三ツかたまっていて
分宿できたし、われわれの泊まった名主の家も、そう感じが悪くはなかった」と、俺
は言った。
 本当のところは、くさくさして、前へ進む気もしなくなって、昨夜泊って知ったと
ころへ戻り、そこで仰向けになって、ひっくり返って寝てしまっていたいのが心底だ
った。
「‥‥一応、また振り出しへ戻りますか」
 土田も、すぐうなずいたし、高橋や西山も、
「それが、よろしいでしょう」といった。
 やはり誰も彼も気持ちは同じらしい。これから知らぬ土地へ進んで行って、泊る所
を探したり宿割りするのは億劫になっていたのであろう。すぐ意見が纏まった。
「出発」
 と大きな声で号令をかけたが、隊員たちもみな、やはり気落ちしたようにみえる。
振返ると、隊列の歩調がてんで揃ってもいない。