1025 元治元年の全学連 10

土浦城を砲撃す

 この前、お城本丸より、お呼び出しあり、何事かと伺ったところ、大目付山国さま
より、私と横山文蔵に、御褒美として、一両ずつ賜りました。御下賜金としては、沙
汰やぶりの高値ゆえ、山国さま御自身の金だろうと、文蔵も申していました。勿体な
くて、その小判を紙にくるんだ侭、御仏壇に供えて居りましたのに、また莫大な小判
を直接に送り下され、肝がつぶれる思いです。母はまだ目もよく視え、縫物の仕事も
近頃は、そなたの母ゆえ、頼みたしとの仰せも多く、何も不自由なき日々ですから、
今後は心配せず、ご奉公を専一にして、田中の食禄を返していただけるよう、励んで
ください。尚横山の伜が、そちらへ仕官したいと、二男三男共に頼みに来ております
から、お考えください----
 と、母からの手紙を、俺が繰り返しよんでいるのに、
「どうします。江戸藩邸でご当代さまは、市川三左に説き伏せられて、竹田耕雲斉や
大場一真斉先生ら私学党の方々に閉門を仰出され‥‥あとの藩政は官学の朝比奈や佐
藤に移りました。政変後直ちに市川は、弘道館の学生五百余名を率いて、六月十七日
に御府内から千住へ出て、草加で陣をはっています。大公儀歩兵隊と待ち合わせて、
日光街道を攻め登って来るのです」と、さも、今にも来そうに、せきこんだ口のきき
かたで報告した。
 この前、母へ金子[きんす]をとどけさせた若侍である。
 水戸の母の手紙を持って来ての情報であるから、まあ間違いあるまいと、俺は判断
した。
 この若侍は、確か先日訪れた時、市川勢来襲の節は合力しようと申出ていた筈であ
る。そのつもりで来たのだと思っていたら、急いで話し終えるやいなや早々に引揚げ
てしまった。
 皓っぽい乾いた街道筋を、つむじを巻いた砂埃が、若侍のあとをくるくる追って行
った。
(こりゃ相当の敵数らしい。だから若侍は逃げるようにかえって行くのだ)と後姿を
見送りながら、俺は考えた。弱気になった。妙に里心がついてきた。

「どうしたものだろう‥‥」と急いで皆に相談すると、
「勝てない戦はしないが好い。なにしろ、こっちは三百。それに、防禦物もなくて地
の利も悪い」と俺の言いたい事を土田が言った。
 みな同意見で、引揚げに賛成した。余った米塩は、また栃木の近江屋を呼んで売る
わけにもゆくまいと、土田に頼んで、名主の邸の離れにいる八重の許へ届けさせた。
「‥‥藤田さんが、不意の出立だったから、声もかけずに行きなすったそうで、あの
娘さん、自暴(やけ)みたいになって、棄てられたと泣き喚いていなさったが、米俵
や何かを山のように届けてあげたら、すっかり喜んでました」と帰ってきていた。
「そいつは、好かった」と暗くなるのを待って、俺は大砲を先登に陣立てをした。
 奇兵隊の殿軍(しんがり)は、浪人者だけ五十名を選んで、飯田軍蔵がひきうけた。
 陸羽街道へ出ては、敵と遭遇する気遣いがあるから、松沼を通って小山へ出ること
にした。だから宿場へ掛ると、この前、太平山へきてくれた馴染の女たちが、夜中だ
というのに懐かしそうに、ぞろぞろ出迎えてくれた。
「筑波へ戻れば、そうそう遊ばせてもやれまい。一と刻[とき?]ぐらい休ませて、
名残りを惜しませてやらにゃ‥‥」
 と、また女たちを買切りにして、銭は隊で支払ってやった。しかし落着くとほんの
一と休みのつもりが、とうとう朝を迎えてしまった。これは、まずかった。
 なにしろ筑波へついた時は、急いだつもりだが、もう夜になってしまっていた。
「殿軍の飯田隊が昼に到着してるのに、奇兵隊の本隊が、今頃になってつくとは何事
です」
(御苦労だった)と迎えられる代りに、しょっぱなから、本隊幹部の岩谷敬一郎に叱
言をいわれた。
「冗談じゃねえ。あんたらが引揚げたあと、藤田君に、できるだけ引き伸ばして、敵
の目をあざむくよう、ゆっくりしてくれと頼まれたからこそ、二十日も、たった三百
で頑張り通したんだ。昨夜からだって、飯田君は、まっすぐに来たんだろうが、俺た
ちは日光街道の敵の目をあざむくために、野州太平山から小山廻りをして、上州路を
歩いて来たんだ。なにしろ、俺たちゃあ、これでも勢一杯に歩いたんだ」と伝法な口
のききかたを故意にしてみせると、
「ぷーんと、みんな白粉くせえ臭いがするな。奇兵隊は羨ましいよ、僕も入れてもら
おうか‥‥」
 わざと鼻をひくひくさせて、輔翼職の権式を、そり返って岩谷はみせた。畜生と思
ったから、俺は睨みつけて戻ってきた。相手は憤ったらしい。
 本隊の幹部をやりこめたしっぺい返しが、早速、あらわれてきた。何時まで待って
も、こちらの宿舎割りが出なかった。
 三百名の隊員は、虻にさされたり、薮っ蚊に囲まれながら、櫟林の中でうずくまっ
ていた。
 土田が弱って何度も交渉したあげく、普門院とよぶ寺を借り入れたが、どう詰めこ
んでも、そこには百人位しか入らなかった。忌々しいから、
「ふざけやあがって‥‥」
 と俺は草っ原で野宿するより、他に寝るとこもないはみ出した隊員の中へ入って行
った。そして野宿しかけている連中に、
「おう辛抱しな。寺内へ入り切れねえおめえらは、此処でまるまって寝てくれろ。俺
も一緒だ」
 と割り込んで眠ってしまった。近頃は隊に博徒も加わったから言葉つきも染まった
らしい。

「‥‥探しました。ここでしたか。起きてください」と、丁度ぐっすり瞑りかかった
ところを、土田衡平に起されてしまった。
「‥‥なんだ」と、眼をあけず口だけあくと、
「出動です」と土田はいった。
 聞き違えかと思って知らんふりをしていると、
「本隊から、出動の布令が出てます」と耳許でやられた。
「何時だ」と訊くと、
「即刻です」と脇から高橋が言った。
「まさか」と呆れて、ものも言えない。
 昨夜の続きで、こっちにやりこめられた岩谷の執拗な嫌がらせかと、向っ腹を立て
ながら、詳しく命令をきくと、
「水戸街道の真鍋の宿を、やって来い‥‥それだけですが」と不審そうに土田も言っ
た。
「あすこは、この辺では大きい九万五千石の土浦藩の土屋さま御城下だ。大砲をひい
て、用心して出掛けるか」
 と急いで支度はさせたが、草っ原の連中は、夜が白んできて、ようやく、うとうと
と仮眠をしはじめた様子。これを揺り起こしては、連れてゆけない。
「えいっ、ままよ」とばかりで、寺内で、多少は寝られたらしい百名だけを、引率し
て北条から田土部へ出た。
「十万石近いお大名へ、たった百で斬りこむたぁ、豪儀だねえ」
 口では勇ましく言ったものの、こりゃ、事によったら討死だと、妙にねばっこい唾
が口に溜まってきた。そこで、
「今日は何日になる」と、てめえが死ぬ日だろうと、そんな気にもなって聞いてみる
と、
「元治元年六月二十一日です」と早口に西山が、はれぼったい瞼を向けて、教えてく
れた。
 なにしろ相手の備えも構えも、からっきし何も判ってはいないのである。てんで見
当がつかない。
「物見を出しましょう」と高橋が馬首を脇へ近づけてきた。
「そりゃ、そうだが」と、俺は考えた。なんといっても、一握りの兵である。物見を
出せば、その報告は、筒抜けに、みんなの耳に入ってしまう。もし敵が優勢と判れば、
味方の連中は足がすくんでうごけなくなるだろう。
 もう空が白みかかっているから、そうなったら、手の施しようもない。俺や高橋が、
死に者狂いで飛込んでも、怯気づけば兵はついて来るまい。まあ、こりゃ盲目滅法、
一団となって、転がりこむより他には手段もあるまい。どうで死ぬ気だ。構わない。
と、俺は物見を出すのはやめさせた。
(並木から、木田余あたりでは、土浦藩の哨兵に、さえぎられるだろう。きっと一戦
始まるもの)
 と鉄砲の切縄は、もとより、大砲の太引にも点火させておいた。それなのに、土浦
が見えてきても、なんの事も起こらないのである。
「おかしいね」
 俺は言った。なにしろ土浦の藩兵の屯所の前を通っても、てんで咎めだてもされな
い。雁首ならべて番兵が、奇兵隊の一行を見送っているだけである。薄気味悪くて冷
汗が出た。
「ここが真鍋の宿場です」と、賑やかな駅路に入ると高橋が、俺に耳打ちした。
土浦城の下市。つまり民家の集った城下町である。
「愕いたねえ。敵がいない。土田さん、寝呆けて、あんた聞き違えたんじゃないんで
すかね」
 俺も、あんまり話が面妖すぎるので、命令を受け取った当人に尋ねた。
「真鍋っていえば、霞ケ浦の魚の売り買いで賑やかな町。戦をするような土地柄じゃ
ないから、念を押して、そりゃ訊いてはみましたよ」
「そしたら‥‥」
「ただ、真鍋をやってこい‥‥という、きりなんです。どうも、最初から、妙なとは
思ってましたがねえ」と、いまいましがった。
「たった百しか連れてないから、此処に、ごまんと敵がいて、激戦するよりは大助か
りだが‥‥」
 と、俺は首を傾げた。
 しかし土田は暫くして「‥‥やってこいと命令されているからには、やらなくては
いけないでしょう」といいだした。
「だが、むこの町の者や、手を出さない兵隊をやっつけるわけにはゆくまい」
 と、「全館連」の白旗と「奇兵隊」の白旗を仰ぎながら、俺も唸ってしまった。
「‥‥悪いやつは権力を振り廻すやつです。その象徴が、あれです」
 と土田衡平は、聳えたつ土浦城を指さした。
「そうだ。一般民衆(みんな)を搾取して、のうのうと暮らし、やれ年貢だ。割りつ
けだと重税をとる役人共が、彼処には巣喰っている」と、俺はそれに同意した。そこ
で高橋が、
「撃ちかた、用意‥‥よし」と号令した。
 二門の大砲は轟然と、土浦城の天守閣へ弾丸をとばせた。
「革命ばんざい」と土田は大声で叫んで、「全館連」の旗竿を両手で握って振り廻し
た。



執行部の命令

「----これは、大変な事ではある」
 水戸藩の中堅の侍共は、寄り集まって、色を失ってしまった。
「先代烈公。つまり斉昭さまの御神像を奉じて、水戸の国威を中外に宣揚してる者共
へ、他国ならいざ知らぬが、自国の水戸人の家来どもが、神像へ攻めかけるとは、ま
ったく恐れ多いこと‥‥」
「いや、自藩の兵だけなら、これは内輪の事ゆえ、吾々も従来通り派閥に組せず、中
立を守って置ればよろしいが、大公儀に頼り出てその助力を仰いで攻めに行くとは‥
‥まったく言語道断」
「聞けば、田丸氏も顔色を失って、太平山より、五月の末に、もとの筑波へ引揚げら
れた由だが、如何に善後策を講じたとて、彼らだけでは、なんとも打開の途はあるま
いと存ずる」と榊原新左や三木左太夫らが騒ぎだした。
「吾らは、もともと私学の武田派でもなく、また官学市川派でもない。局外中立の者
共であるが、かかる事態に相成っては、もはや腕をこまねて、傍観はでき申さん」と
口々にいいだした。
 六月十七日の政変で、官学党の市川三左達が、政権を奪ってしまってから、すべて
が一変してしまった。その結果、この動揺になった。
 というのは市川派と目される者が、次々と新しく御役に任命され、これまで役向き
についていた者は、武田派であれ、中立派であれ、ことごとく罷免されて登城停止に
なったからである。
 なにか失態でもあっての役儀取上げなら、納得もゆくが、唯、これまで市川方に対
して協力しなかった。という理由だけで役向きを馘首される方は堪ったものではない。
 なにしろ千波原に集合して弘道館の官学書生と共に出府した者の家族に限っては、
市川派から留守宅見舞として、過分の下され物が行きわたり、その親類縁者は、望む
侭に役職を与えられている有様なのである。
 新しく役向きに任ぜられた者は、肩をはって大手門から登城。役を追われた者は、
まるで悪事でも犯したように、自宅へ引篭って謹慎状態。もちろん御役料がつかなく
なるから減収である。
 御当代の殿様の慶篤公は、江戸小石川の上屋敷にお住いで、そちらで起きた政変だ
から、詳細は、お国表では皆目不明である。水戸の家臣共には何が何やら薩張り判ら
ない事が多かった。
 ただ「江戸表よりのお達し」の一言で、次々と役向きの取換えが、連日行われてい
るにすぎない。話によると、さきに千波原で勢揃いして出立した市川派は、
「筑波と太平山を攻める」と称しながら、その実は江戸へ向かってしまった。そして
出府すると、殿様の居られる上屋敷へは赴かず、自侭に、本郷駒込追分町の、水戸中
屋敷へ入りこんだ。
 そして、其処から殿様の慶篤公を差し置き、直接にご老中へ訴え出て、
「野州太平山、三光神社及びその別当の蓮祥院般若寺の別院多聞院に立て篭り、そこ
に、『水戸幕府』の看板を掲げ居りまする者どもは、瞭かに大公儀への謀反にござり
ます」と私学党の全学連討伐を願いでた。
 台閣でも放っておけぬから、その願い出を許可し、歩兵隊を助勢に出動させる事に
した。
 市川三左は、大公儀を抱き込んでから、上屋敷へ赴き、殿様に対しても台命と詐っ
て、政権一切を委せて頂いた。だから指図をだして、自分の与党をもって、水戸の役
向きも、これをことごとく変えてしまったのである。そこで、
「‥‥吾が藩内だけで政権が入れ換る分には、水戸三十五万石は安泰であるが、大公
儀へ訴え出て兵力まで借りるとあっては、御三家の一つと雖も、お取潰しにあう惧れ
がある」と中立派も心配しだし、
「かくなる上は、吾々も出府して、君側の奸を除こう」ということになった。
「鎮派」と当時、呼ばれていた中堅派百余名が、即日出発をとりきめた。藩庫はすで
に市川派に押さえられていたから、路用は各自が苦面[工面]して集めたのである。
 江戸へと向かった一行は、奥の谷から堅倉を越え、竹原まで出たけれど、まだ陽は
照っていたが其処に宿をとった。
 なにしろ、そこは国境で、先は土浦藩土屋様御領分だからである。
 しかも一行は市川派を押さえる為に、百余の武者が、鎧具足をつけ、長柄、鉄砲ま
で所持しているから、この侭では他領へ入りこめない。
 それで、許可を貰って、通行させていただこうと、一行の者は領境の旅舎で、その
沙汰を待っていたのである。
 すると、筑波山から、小川館の本取教授方の竹内百太郎が駆けつけてきて、
「江戸表へ行かれるより、何卒、われらと一緒に筑波へ来て、此方で、市川党と戦っ
て頂きたい」と申込んできた。
「吾々は、小石川の上屋敷へ赴いて、君側の奸党を除きに行く者で、途中で、戦争な
どはしておれない」
 と一行の頭分の榊原が、いくら断っても、竹内は、両手をついて、
「是非、お願いします。合力して下され」と頑張った。

 官学の書生は、藩の子弟だから生まれつきの侍。刀法、槍法の心得は充分ある。そ
れに比べて、古着屋の丁稚与助改め藤田幽谷先生を開祖とする私学派の全学連の者は、
殆どが百姓町人出身の学生だから、
「市川派の官学書生に公儀の歩兵隊が合同して押寄せてきたら、はたして勝目があろ
うか」
 と気にしていた矢先に、水戸の中堅百名が武装して眼前を通り抜けようとするのだ
から、
「‥‥なんとか合流して頂けまいか」
 と筑波山から学連首脳部の竹内が、交渉にきたのである。
 しかし榊原一行は、あくまでも、それを拒んで翌朝。
(いくら待っても通知がこないが、前もって通行許可の願書は出してあるのだから)
と、三村、下原を通って、真鍋の宿場まで進んでゆくと、そこで、やにわに土浦兵に
包囲された。
 そして、一行は水戸領まで追い帰されてしまった。
 皆目なにやら事情が判らぬので、土地の者を探索にやって調べさせたところ、
「二十一日の朝、つまり旦那さま方が通られる前に、真鍋に大砲をひいた軍勢が入っ
てきました。なにしろ、こちらの旦那さま達より、通行の届けが、前もって藩庁に出
されていましたから、別に怪しみもせず見送っていますと、いきなり大砲を土浦城へ
ドカンドカンと撃ちこみました」という、思いもかけぬ話だった。
「‥‥それでは土浦が怒って吾々を通さぬのも無理はない」と初めてのみこめはした
が、
「して何者が、さも吾々の一行のごとくみせかけて土浦へ悠々と入り込み、土浦城を
砲撃したのか」
 と榊原も首をひねった。事の意外さに驚いた。
「‥‥天狗の面をかぶっていた」と、知らしてきた者がいた。そこで榊原らは、
「さては吾らを江戸へやるまい。釘づけして筑波山へ合流させようとの陰謀であった
のか」
 と初めて納得して、自分らには無関係な旨を急いで土浦藩に陳情をした。
 ようやく通行を許された武装した一行は、二十八日に江戸へ辿りつき、七月五日。
ご当主を直諌して、武力で市川三左を家老職から追い、官学派の佐藤、朝比奈の閣僚
に謹慎隠居の発令をしてもらった。
 十七日ぶりに政権が戻った武田党は、早速、市川党の役人共をやめさせ、筑波山へ
も、軍資金や武器弾薬を届けてきた。蘇ったように、山の全軍は愁眉をひらいた。
 ----なにしろ知らぬが仏で、われわれも、その時はほっと安堵しあっていたもので
ある。

「こんなに年々物価が上昇していっては、とてもじゃないが暮してゆけるものではな
い。お上御政道に携っている者は表向きのお高や御役扶持の加算の他に、横浜開港で
儲けている政商共から『御用金』とよばれる政治献金がしこたま入ってくるから、そ
れで物価高も苦にならないらしいが‥‥一般の庶民の生活は、もはや塗炭の苦しみだ。
もはや、まともに家業に精を出し働いても、いくら稼いだところで、物の値上がりに
はおっつかない。そこで自暴自棄みたいになって家を放り出し『抜け詣り』『お蔭ま
いり』といっては、どしどし東海道を下っては集団で押し出してゆくそうだ」と大宮
館の菊池先生がいいだすと、他の教授方の先生も、それにうなずき、
「‥‥沿道の者たちは、なにも、お伊勢詣りに協力するというのではなく‥‥日に何
百と塊って、ぞろぞろ通る、この連中が、集団暴徒化して、襲撃を企てるのを恐れる
のあまり、厄よけとして沿道に炊きだしの釜をおいて粥を振舞ったり、一人何文かの
路用のたしを草鞋銭として包んで災難除けをしてるのが実状らしい。つまり名目では
『お伊勢詣り』といった神信心みたいに聞こえるが、実質は、いくら稼いでも物価高
についてゆけない連中が、働くのをやめて放浪徒食の生活を、集団の力をかりて、や
り始めたのである」
 と潮来館で算数でならしている林五郎三郎教授が力説した。
「結局、物価高で勤労意欲を喪失してしまった連中が、ばからしくなって働かなくな
ったのが真相なんだから、かつては五人の稼動ですむような仕事も、今は倍の十人は
いるそうだ。そこで人手不足だ。青田刈りだと前髪の者まで人集めして狩り出してゆ
く。吾人は、野州の栃木あたりで、集団就職の名目で、まるで縄につながれてゆくよ
うな子供らも見た筈である。で、土地の大人はどうかというと‥‥まじめに働いても、
入る手間代は同じだ。それより何とかして、あぶく銭をつかみたいと、男はちょぼ一
(賭け事)に目の色を変え、女は当りもしない富くじにうつつを抜かしている。役人
共は事の理非も弁ぜず、賄賂をよこすを正。出さざるを非とし、片っ端から権力を笠
にきて牢へぶちこむ。そして庶民が怒って暴動を起こすのを恐れ、表むきは『やくざ
無頼の徒に流れこみ、たみ百姓が迷惑する』という体裁のよいことをいって、一般に
武具の所持に目を光らせ、もし所蔵しているのを見つければ、それだけで『不法所持』
と称し施手錠をかけ名主預けに処分をしてしまう」
 と、すでに革命前夜にある事を、平磯館の教頭西野長次郎もいった。
「‥‥しかし、いくら役人が恐れて弾圧していても、止むにやまれぬ大和魂で吾々は、
もう立ち上がったのである。かくなる上は水府だけでも諸民安心して働き家業に精を
だし、学生も食や衣に追われることなく、勉学に励むようにしてやらねばならぬ‥‥
これまで吾々は、自分たちが習得してきた学芸や知識というものを、若者たちに授け
てきた‥‥しかし、これからは、前途のある若者たちの為に、われら老骨が槍をふる
って彼らを庇い、そして陣頭に倒れることによって、己れらの晩年をまっとうし、そ
して、それらの行動をもって『値打ちある死』というものを掴むことこそ、人から
『師』として仰がれた者の、たて前ではあるまいか。『学なりがたく少年また老いや
すく』というが、吾々は老いているのだ‥‥できることは、前途有為の学生(しょせ
い)の為に、老骨を投げ出してやることだ」
 と南石川館の教授方の高橋友恭が白くなった顎髯の先をつまんだ。槍をとっては名
高く、先代斉昭公の頃には、朱塗の大槍を下賜されたこともある老人なのである。
 鹿島神宮の神官で、鹿島宮中館という学校で、やはり槍刀を教えている大宮司の松
岡彦市も白扇を開いたり、ぱちりと閉じながら、
「同感である」とまずいった。そして「官学派の弘道館のように、学生共をまるで弾
よけみたいに前へ進める戦法は、われらのとらぬところである。吾人は、若者を庇っ
て、われらこそ、まっ先に突き込み、学生どもを庇ってやらねばなるまい。それが
『師』として仰がれてきた者がとるべき途ではなかろうか‥‥この集まりに不参して
いるが、小川館の竹内百太郎先生は、あまりに政治的に動きすぎる傾きがありすぎる
と儂は思う。ああいう小利口に立廻るような生き方というものを‥‥師と名のつく者
が学生に見せるべきではない。吾人は、そんな小才子的人材を養成すべき眼目で講座
をもち、また演武してきたものではない。もっと純粋な生き方を、若い者には教えた
いのだ‥‥なあ田中君」
 と、とうとう、俺にまでお鉢が廻ってきた。
 竹内先生は行方郡の小川館である。そこの学生だった小川武男が、水戸の私学では
人望のあった藤田東湖先生の忘れ形見というので「藤田小四郎」を名のり、今や
全館連執行部委員長の恰好なので、小川館の者は岩谷敬一郎も宮本主馬之介も、まる
で自分らが首脳部のような態度をとって「本部命令」なるものを、竹内先生と共に頻
繁に乱発する。太平山の時には、各私学が連携して、
「どの私学の学生も、みな同じように勉学一心にうちこめ、先代斉昭公の時代のよう
に官学私学同一に、人材を養成して、水戸三十五万石の将来の礎石を確保したい」と
いうのが眼目で、諸先生も、その教え子と共に来り投じたのである。なのに筑波山へ
また戻ってきてからというものは、小川館と那珂湊の文武館だけは「人員募集」の名
のもとに、全館連として集めた御用金を流用しているらしく、噂では束修(月謝)な
しに子弟を集めて在校生となし、それらの青年をこちらへ呼んで頭数を増やしている。
だから筑波の人員の半分は、今や小川館と文武館の学生になっているだろう。だから
他校の先生たちは不満をいっているのである」
 ----が、俺はどうだというのだろう。と話をききながら考え込んでしまった。
 諸先生とは父子程にも齢が違う。たしか野口の時雍(じよう)館を預り百ほどの子
弟の教育に当たったこともある。しかし本質的には、俺は、まだ「師」とよばれる程
の者ではなく、また学生なのである。たまたま入隊する時に一人で入って紅白の旗を
つけ、棒をもって見廻りに出されるのは、ばかばかしいから、たとえ何人でも仲間が
ほしかった唯それだけだ。
 もちろん野口へ一度戻って要れば、昔の教え子の三十人や五十人は連れてこれらた
ろうが、江戸から京師へ原先生の門弟として随行して、二年も野口は放りっぱなしに
していたし、また何十人もの子弟を伴ってくる雑用など、当時の俺にはなかった。な
にしろ、あの加入の時は、蕎麦代の三十文にさえ気をつかっていた位なのだ。
 しかし江戸や京師で「集団の威力」というか、そうした圧力のあり方を見聞してき
ているだけに、俺は単身より仲間を求めた。だから奇兵隊の軍将に甘んじているのだ。
 もちろん、俺が小川館の学生なら、単身でも藤田小四郎の許へ身を投じていたであ
ろう。
 しかし同じ学生とはいえ他校の者は、やはり敬遠する気持ちがあったのだろう。そ
の為に、中腹で受付所を作ったり、山麓で入隊者を集めたから、百名あまりの者を率
いて入隊してしまった。しかし諸先生の引率していられるのは、その門下生であるの
に反し、俺が配下というのは学生は一握りで、殆ど浮浪の士であったり、国定忠治の
流れをくむ赤城山の博徒たちにすぎない。
 執行部では、青白い若い学生よりは、そうした実力部隊の方が、対戦成績はよろし
かろうと、いつも事あるごとには矢面に受けられ「前衛隊」として扱われ、そして、
「とても若冠二十才の青二才の俺には統率力はない」と訴えていても、「水戸人の君
をおいては、あの混成の『奇兵隊』を委せられる人材はない」と、俺をおだてあげ、
総帥の田丸稲之右衛門といったお人や山国さまは、
「‥‥まあ出精して奉公せい。きっと田中の家名はたてさせて、出頭人(出世して役
向きにつけられること)に取立てよう」とこれもいう。
 俺だって、人の子である。「若き血に燃ゆる学生」とし全館連の実行支部委員長の
ような「奇兵隊の隊長」という役割に血の道をあげ「明日のよき世作り」のためには、
身命も賭して猛進しているし、部下たちとも兄弟のように肩を並べて事には当ってい
る。
 しかし一人でぽつんとしているときは、やはり思うは古市の小さな借家で、賃仕事
の縫物をしながら、俺のことを案じてくれる母のことである。どうしても想起してし
まう。
 貸本屋からかりだしては読んでいた「絵本太閤記」の中の、藤吉郎が墨俣の砦の大
将になり、母を尾張の中村から迎える場面が、かつて、俺の一つの理想像だったよう
に、今でも、立身出世して門構えのある邸へでも、母を駕にのせて迎えることができ
たら、どんなに歓んでもらえるかと、そんなことを、どうしても妄想してしまう。
「革命と親孝行は両立しない」というが、俺はなんとかして二つをやってのけたいと
想う。無理だろうか。

「‥‥なに、本部の田丸総帥から、この俺へ急な呼び出しがきたのか」
 俺は思わず、にこっとした。水戸中堅派が出府して殿を説得してから逆転し、今は
また武田耕雲斉さまや山国さまの世の中である。このたびの政変以来、俺は、(新規
お取立ては如何ほどであろうか)と、土田たちには洩らしていないが、いつも内心で
は考えていた。別に矛盾ではない。全館連として働いているのは、俺としては水戸二
十三校の学生の為だが、お取立ての方は、亡父源之介の供養であり、母への孝養の為
である。だから、俺が忙しく身仕度して出かけようとすると、土田衡平がその後から
「一緒にゆきましょう」とついてきた。
 なんだか照れ臭かった。しかし土田も、江戸で勉強してきた書生上りである。俺が
何百石とりのお目録を頂いたところで、妬んだりとやかくいうような知性のない男で
はない。だから、
「うん」とうなずいて塩釜菊の桃色の花房を、まるで蒔き散らしたみたいな山ぞいの
道をまっすぐに登っていった。すると山腹の町へでた。この山頂に急に何千という若
者がふえたから、俄か作りの喰べ物屋が目白押しに並んでいる。だが、芸のない話で、
みんな焼き餅屋か、蕎麦屋の類である。
 やっと本陣をおいてある本殿筑波神社社務所口の方へ廻ってゆくと、番兵に、
「どうぞ、こちらへ」と案内をされた。
<総帥>といういかめしい白紙のはられた部屋へ、俺たちは連れてゆかれた。
 杉の板戸をあけて、中へ入ると、眉も眼も下り気味の黒い顔が、此方を向いて、
「待ちかねていたぞ」といった。が、なにしろ田丸さまは、上下ともに歯が抜け落ち
て、歯ぐきの土手だけだから、実に言葉が聞きとりにくい。
 五才上でも、兄の山国兵部さまは、牛の肉を薬喰いなさるから、歯も揃っているし、
顔色も、てかてか脂ぎってる。これでは、田丸さまの方が、弟のくせにずっと老けこ
んで視える。
 両手を前に揃えながら、そんな事を考えこんでいると、軍正の小川館の竹内百太郎
が、
「奇兵隊軍将田中源蔵どの。取調べたい事があるから、役儀によって、言葉使いを改
める。左様、心得て下さい」
 太い眉をぐっと釣り上げて、田丸さまの脇から、前へでてきた。
 見廻したところ、藤田の姿はなかった。
 とうに御沙汰を頂いて、もう取巻き連中を従えて、何処かで祝杯をあげてるのだろ
うと、羨ましくなった。(藤田小四郎は何百石もらえたのか)と、そんなことを考え
ていると、
「田中君、ぼくの質問に、素直に答えてもらいたいのです」
 竹内は、鉄扇を斜めに突き立てて喚いている。どら声だった。こりゃ試験かと考え
た。
 道場で、目録や、印可を、弟子に渡すのじゃあるまいし、と想った。そう勿体ぶっ
て、なにかと恰好つけず、早くさっさと、扶持米切手を出して呉れたら良いと、俺は
怨しそうに相手を見返した。こちらとしてはなにしろ、(はたして何百石にして頂け
るものか)と唯そればかり胸を弾ませて坂道を登ってきたのである。
 なのに竹内は、新規お取立ての沙汰をしてくれるどころかいきなり、
「‥‥田中君、あんたは怪しからんです」と噛みつくようなことを開口一番いった。
「えッ」俺は、びっくりしてしまった。
「‥‥何がですか」と竹内先生に聞き返した。
 すると、田丸さまと顔を見合わせてから、
「自分の胸に問いたまえ。慮外千万である」
 と言い放った。そこで俺は、さては、これは大久保館や潮来館の諸先生に招かれ懇
談会に相席したとき、この竹内先生の悪口が出たのを、誰かが告げ口して、それを立
腹しているのだなと想った。
 しかし男として、
(あれは諸先生が口にされたことで、年少の自分は、単なる聞き役にすぎなかった)
といいかねた。もし、そんなことを口外しようものなら、せっかくの全館連が、ここ
で小川館と文武館の二校と、あとの二十一校が対立してしまい、せっかくの私学連合
の提携がくずれてしまい、それでなくてさえ今や全館連の内部が主流、反主流と分れ
ているのが、ここにまったく崩壊しさるような危機さえ感じられたからである。だか
ら、俺として、
「‥‥私が責任をとらせて頂きます」
 と、そんな言い方で頭を下げた。すると竹内百太郎は、ひと膝のり出して、
「では六月二十一日の件に関しては、あなたに責任をとって頂きましょう」といった。
「えッ」と、俺は愕いた。各校の諸先生との会合は、僅か三日前のことである。そこ
で面喰って、
「その日は吾々は真鍋へ行ってましたが‥‥」といった。
 するとである。「その真鍋の件です。いやしくも他家の御城下へ何故あって押しか
けました。奇兵隊が乱妨狼藉に及んだ為に、領境竹原まで到着されていた、三木、榊
原の御一行百余名は、土浦藩の激怒を買い、六日間も足止めをくったのです。その為、
江戸上屋敷へ赴くのが、それだけ遅延。市川党を六月中に始末できるのが七月までか
かり、わが筑波山の全館連及び武田耕雲斉の蒙った被害は測り知れませんぞ」
 と竹内は叱った。俺は呆気にとられて、
「奇兵隊が土屋さまの土浦城を砲撃したのは、本隊からの命令を、忠実にやっただけ
です。お叱言は、その命令を出した者に言って下さい。そんなことなら責めはとれま
せん」
 昂然と、俺は言い返した。背後から、土田も、前に、にじり出た。
「本隊の命令を受領したのは、このわしです。鎧ではなく、道場用の竹胴をつけてま
したが、伝令の印の白旗を背につけてました。年齢は二十二三、陽やけして赭い顔の
小川館の学生です」と説明しだすと、竹内は色白な顔を蒼くして、
「失敬な言いかがりを小川館につけるな‥‥錯覚したと違うか。二十一日の夜明けに、
(他領を襲って、向こうの城へ大砲を射ち込め)などと下知した者は本隊には居らん
ぞ。第一、そんな大事を、こちらの田丸総帥のご許可なくして、なんで発令できるも
のか」と振返れば、
「‥‥わしも知らん。そんな命令なぞ出す筈はない‥‥隣国の土浦城の天守閣を大砲
でふっとばせなんて下知を、わしが出すわけはない」と田丸稲之右衛門も左右に烈し
く首をふった。
「‥‥土浦城を砲撃してこいとは命令されていません。しかし、『やってこい』とい
うのは確かに受領してます。小川館の岩谷先生をよんで下さい」
 行き掛かり上、みつ口をつきだして土田衡平も抗弁した。
「冗談をいうな‥‥岩谷君は僕と同室だ。彼がそんな命令を下す筈はない」
 と竹内はむきになって喰い下がってきた。
 田丸総帥は、どっちつかずというより、人数の多い小川館の方に肩をもつように竹
内にうなずいてみせていた。まるっきり、とりつくしまもなかった。
 てんで、これでは水かけ論でしかない。
「‥‥あくまでも、そちらでそうだとおっしゃるなら、執行部のいう通りに吾々はし
ます」
 癪だがそういって俺は土田と引きあげてきた。