1024 元治元年の全学連  9

「ひひーん」と馬は、いなないた。
 天狗面をつけた四人は、持槍の他に、鉄砲も一挺ずつ肩に斜めに背負っていた。
 鞍につければ身軽だが、馬を揃えるだけがやっとで、鞍まで手が廻らなかった。
 だから蓆を一枚かけた切りの裸か馬である。
「なかなか立派だ」と、それでも、そっと、見送りに来てくれた土田は言った。
 隊の前からでは、人目につくので、柊林(ひいらぎ)に馬をつないでおいて、其処
から出発したのである。満月を選んだから提灯も不用だった。
 また留守番をさせるのは、土田にはすまないと思ったが、誰かは残らねばならない。
 飯田軍蔵の仇討に行くのだが、西山や高橋にも日光には恨みがある。それに五人で
出掛けるには、肝腎な天狗の木面が四個しかなかった。だから、また残されることに
なった土田は豪放に、
「今度は、わしも仲間はずれにせんよう、お面のでっかいのを買って来いよ」と高橋
に言いつけていた。そして手をあげていつまでも見送っていた。
「好いお人ですな」と振返りながら、飯田軍蔵は、さかんに土田を誉めた。
 なにしろ段取りの一切をつけたのも彼なら、どうにか裸馬にのれるよう馬術の稽古
をつけてくれたのも土田だったからである。

 日光在の沼内の若者で、太郎次という書生っぽが侍になりたくて、奇兵隊へ志願し
ていた。
 土地者で怪しまれないから、これを諜者に使った。なにしろ、二本差したいばっか
りに入隊してきた男なので、百姓姿で、生れ在所へ潜入するのは嫌がって、土田も相
当、それには随分手古ずったらしい。
 だが送りこんでからは、三日に一度ずつ戻って来て、適確に報告はした。
 諸藩のうちで、最初に引揚げたのは、やはり壬生藩だった。死人に口なしで事情は
呑みこめぬが、鉄砲兵が八人殺されて赤裸にひんむかれたのが面目を失ったらしい。
それは、江戸ご府内で弘まり出した噂というのが、
「壬生藩士百名が、たった三名の水戸の学生(しょせい)に散々に打ちまかされ、大
将分の八名までが首をあげられた」という、まことに不名誉なもので、鳥居の殿様が、
「当藩の出兵は全部で八十余名でござる」と顔を真っ赤にして弁明しても、帝鑑間詰
の他の諸侯は、みな気の毒そうな顔をするだけで本気にはしない。それで、千代田城
から退出した殿さまが、西の御丸下の藩邸へ戻られると、じかに急使を日光へ差立て、
他藩へはろくに挨拶もせずに陣払いをさせてしまったのだそうだ。
 下野の壬生藩が引揚げると、お付合いみたいに、他の諸藩も次々と陣屋をたたんだ。
五月二十五日になると、もはや大谷川に残っているのは、日光山警備役の宇都宮藩だ
けになった。そして諸藩がいなくなったから、もはや四半刻ごとに廻っていた巡視も
なくなり、越後屋裏手の諸藩連合詰所も閉鎖。
 立て場は、昔ながらの、参拝者だけの休憩所に戻って、よく言えば落着きを取り戻
して、すっかり不景気になって淋れてしまったという情報だった。
 それで時こそ来たれりと、どうにか馬の手綱さばきに馴れたから、遠乗り気分で出
動して来たのである。勿論、まだ早駆けなどはさせられない。どうにか、馬の機嫌を
とって進む程度だが、それでも徒歩よりは、足幅が違うから遥かに早い。宇都宮藩の
陣所をよけて、平崎から鳴虫の裾へ廻って、神橋へ出ても、中天の月は、くちなしの
実で染め上げたばかりのように、まだ明るく真っ黄色だった。
「‥‥しーんとしてるな。人っ子一人、通っていない」
 五郎次の報告通り、立て場は、殆ど灯影もなかった。
 かっ、かっと、馬の蹄が、藁沓を通して、大地を叩く響きだけだった。
 三町と続いていない立て場である。赤提灯の蝋燭は消されていたが、越後屋の構え
は、すぐ見つかった。なにしろ未練たっぷりに、あの時は何度も振返った店先である。
「よっしゃ」と携えてきた松仕手に、火を移した。松脂が塊った松の根株のの裂いた
のだから、くさい臭いだが、焔はぼおっと燃え上がった。
 軍蔵は店の構えを、じっと睨みつけた侭で万感胸に迫ったような表情で、吾々の方
を振り向こうともしない。
 仕様がないから三人で、投げ松明を二つずつ持って、越後屋を囲んだ。裏口だけを、
中の人間が逃げられるように、開けておいて三方から火の塊を投げつけ放りこんだ。
 杉皮葺の屋根は、待ってたとばかり、すぐ焔を移して、真っ赤な幕をはった。ぱち
ぱちと、栗の実でも焙ってるような音がした。
 家の中の人間より、こっちの馬の方が先に愕いて、棒立ちになりかけた。愕いて、
鎮めにかかっていると、べらばらした紅木綿の襦袢姿の女が、外へどやどやと飛び出
してきた。
「あいつだ」と高橋は指さすと、自分の手槍を、俺の方へ投げてよこした。
 そして手をすかした高橋は、水色の絆天をきた女を、横抱きにひっさらうと、馬の
腹を蹴ってまっしぐらに駆け出した。俺達もあとを続いた。
 山道へ入った。椎の木立がこんもりした林を抜けると、南天みたいに紅い実をつけ
た薮こうじの叢があった。高橋は、そこへ、どさりと女の躰を落とすように放りだし
た。
 細い眼をした、いつかの意地悪女に間違いなかった。気を失ってるように、黄色い
月光に照らし出された侭、じっと芋虫みたいに転がった侭だった。それを西山が指さ
して、
「こいつだろう、三十文とって、あんたを非道い目に逢せたのは‥‥」と突きながら
訊いたが、
「店は、確かにあれだったが、女はねえ‥‥」と軍蔵は口ごもった。
「違うのかい」と俺が言っても、
「なにしろ初めて登楼したもんだから、あがっちゃって、なんにも覚えてないんだ‥
‥」
 と決まりわるそうに低い声で呟くだけだった。
「だったら、此奴に間違いない。あすこで、年増の女は、こいつだけだ」と教えると、
「そう言われると、そんな気もする」
 顔を覗きこんで、小さな声で飯田軍蔵は頷いた。
 するとそのとき、狐みたいな女は腰を曲げたのをぴょこんと立てるように身体を起
し、
「‥‥鞍馬や羽黒山じゃあるまいし、日光にお天狗さんが出るとは、とんだ初見世だ。
とんと掘出しもんの玉じゃないかと、寝ころがってよく眺めてりゃ、てめえらはお神
楽の面をかむった痩せ浪人。声で察っすりゃ、まだ嘴の黄色いひよっ子じゃねえか。
この餓鬼め‥‥うぬら、家で、てめえの阿母を抱いた事あるのかよ。なぁ妾ゃ四十五。
おめえらの阿母よりは、一つ二つは上だろう。さあ、てめえのお袋のつもりで掛かっ
て来な。ちゃんと可愛がってやろうじゃねえか。なんなら、おっぱいだって、吸わし
てやらあな」と、まずしなびた胸をひろげにかかった。
「この悪態をつく声に覚えがある。やっと思い出した‥‥」
 あがってしまったように軍蔵は、俺に耳うちした。
「うるせえ女だ。もう声を出さないようにさせろ。そいつの御託は聞きたくもねえ」
 俺の命令で、西山が草をひきぬくと、泥のついた根っこのまま、女の口へねじこん
だ。
 狐女は暴れて仰向にひっくり返った。頭の上で西山が、爪をたてる両手をひっぱる
と、蹴り上げる脚を下の方で高橋が押さえつけ動かないようにしてしまうと、
「‥‥ほら、あんたの仇敵だ。前をまくって移された病気をまた戻してやるなり、小
柄でこの女の鼻をそぎ取ってしまうなり、思い通りにしたらいい」と、俺はいってや
った。
 なのに飯田軍蔵は、どちらもしようとしない。だから手と足を別個に押さえている
西山と高橋が疲れてしまって、
「どうしたんです」と催促をした。すると、
「‥‥娼家で娘が身体を売ったり、こうした女が、その仲介に入って悪いことをする
のも‥‥これは、お上のご政道が、役人の利得ばかりを考え、一般の人民を虫けらの
ごとく扱っているからでしょう‥‥僕は鼻もげになった仕返しをするのなら、この女
ひとりより、お上の御政道に刃を向けたい」
と軍蔵はいった。
 西山も高橋もうなずいて手を放した。女はその際にぱあっと蝗(いなご)みたいに
草の間をとび、
「‥‥だらしがねえ小僧っ子め。学生(しょせい)らしいが、てめえらに出来るのは
‥‥まあ角材をふりまわすか石を投げるくらいだろ」と毒づいてきた。


大砲を掻払(かっぱら)おう

「こりゃ好い。新式の加農砲だ」と、俺が眼を輝かせると、
飯田軍蔵も、砲身を撫ぜまわして「うむ」と唸った。すると、
「じゃ頂いてゆきましょう」
 あっさり小声で西山が言った。まさかと思ったが、どうやら本気らしい。
 幸い、あたりに人影もなく、巧い具合に砲架には曳網がまるめて積んであった。
「よいしょ」と口の中で気合を掛けて、二人が引いて、二人が後押しをした。木輪は
軋(きし)みながら、すこしは動いたが、とても馬の繋いである所までは無理だった。
 なにしろ、よく「ひーひん」と嘶くお喋舌り馬が、一頭まじっているものだから、
のってきた四頭は用心してずっと先へ置いてきたままである。
「仕様がない、馬を此方へ連れてこよう」
 と戻って来たものの、まいを咬ませたいにも、馬の鼻つらを縛る布がない。
「蓆をむしって、結いつけも出来まい」と軍蔵が、臍のところへ手をいれて、下帯を
引っぱり出した。だが破くのは惜しい。そこで、「こんな事なら洗っときゃ好かった」
と、ぶつくさ言いながらも、西山たちも、てんでに下から引っこぬき馬に声を出させ
ぬよう口を結いつけた。
 だが馬二頭で砲車一台を曳かせるのが、やっとの事であった。
 この侭、今市へ出て、日光街道を南下し、宇都宮から陸羽街道へ入れば、道も良い
し早く戻れるが、まさか、そんな真似はできない。
 なにしろ今市には宇都宮藩の日光警衛屯所があるから、自藩の大砲を引っ張って行
く者を、まさか隠す筈はない。と考えられた。
 だから用心してまた厄介だが、大谷川から渡良瀬川の沿岸を通って、足尾の山越え
をしに、桐生から両毛街道へ出ることになった。
 徒歩で通るのも難儀な山越えに、砲車を二台も曳いて行くのだから、前途は思いや
られる。
 だがそんな先の事よりも、皆は川岸を抜けてしまうと、やれやれと、ほっとして思
いも掛けぬ獲物にすっかり酔っていた。軽い気持で持ってきたものの、大変なもので
ある。
「まったく豪勢だ」と軍蔵が、自分もやってる癖に、まるでひと事みたいに感心して
みせた。
「土田さんに頼まれた天狗面も買って来なかったし、てんで手ぶらじゃ戻れない。そ
れで、えーっと度胸をきめ、宇都宮藩の屯所へ忍びこんだら、とんと御誂え向きに大
砲が据えっ放しだった。それで貰っちまえと曳いてはきたが、こりゃ儲けものだった
‥‥」
 己れの発案で、思いもかけぬ獲物にありついた高橋は、ほくほくして傷痕を撫ぜて
いた。

 なにしろ狐女を見遁してやった事はよいが、さて引揚げにかかると、何となく、も
のたらぬ。
(せっかく出動してきて、なんにも仕出かさずに、おめおめ帰っては沽拳にかかわる)
と誰の気持も、みな同じだったから、高橋が馬首を細尾へ向けても黙々とわれわれも
同行をした。
 来る時には、わざわざ避けて、迂回してきた宇都宮藩の陣場の方向なのである。
 なにしろ、せんだってまで堂々と山頂の本陣に掲げられていた(水戸幕府)の看板
が、山国兵部さまの言いつけで撤去されてしまったのも、もとはといえば、宇都宮藩
のせいなのである。
 というのは、「君らが頭初の予定どおりに、日光山を占拠して、東照宮の御霊屋を
もって本陣に充てているものなら、『東照権現さまの昔に戻し、神君の御遺訓による、
幕政復古』と立派に名跡がつげて、新しい徳川の世を三河に換って常陸から打ち出せ
た。つまり改新の大業を『水戸幕府』として中外にも布告できた‥‥しかし、聞けば
宇都宮藩の県勇記に謀られて、君たちは東照宮占領に失敗。この太平山に陣取ってい
る。いくら先君が征夷の大勅を天朝さまより賜り、事実上の『征夷大将軍』の資格が
あったとしても、この地に幕府を名乗るは僭越である。看板は一時おろして、東照宮
か千代田城または久能山の三個所のうち、いずれかを奪って掛けられるが至当だろう」
と隊の幹部は面詰された。俺だけでなく西山や高橋も、山国兵部さまに叱られてしま
った。
 だいたい県勇記というのは宇都宮藩の家老のくせして、日光奉行役宅へ入り込んで、
全山の指揮をとった挙句に近隣諸藩まで出兵させて、水戸者を太平山へ押しこんでし
まった元兇なのである。
「宇都宮の奴らに、一と泡、ふかせてやらにゃ」とは四人ともかねて腹の中では思っ
ていた。
 だからして帰りがけの駄賃に、何か仕返してやる気で近寄った。
 だが鉄砲の切火縄には点火したが、馬からは降りた。
(いざという時には一と鞭あてて颯爽と)という馬どもではなかったからである。
「相手の本陣へ鉄砲を何発か射ち込んで混乱させ、出て来た奴を突きまくりつつ、馬
のところまで退避して、便りない馬だが、なんとか尻をひっぱ叩いて引揚げよう」と
言う相談だった。
 だが月明りを頼りに、陣場に近づこうと、河原の礫を音させないように忍んで行く
鼻先に、でんと加農砲が並んでいたのである。するとあたりに人影もないのに飯田軍
蔵が難しい顔をして、
「人助けをしよう」などと言いだした。
 つまり、鉄砲をぶっ放したり、槍で突きまくって、相手を無駄に殺生する代りに人
命を尊重して、大砲で勘弁してやろうと提案したのである。というと人道的な話だが、
なにしろ飯田軍蔵が、すっかり大砲に惚れこんでしまって、早いとこ、すぐさま西山
と二人で、曳綱をかけだしたから、ひと暴れしたかった俺も諦めざるをえなかった。
 騒ぎ起したのでは、大砲を分捕って帰れるわけもなかったからである。
 もちろんこの大砲が、後になって土浦城攻撃に役立つ、なんて事は、そのとき誰も
思いもよらなかった。
 地蔵岳がのぞめる平石まで出ると、馬もへたばったが、人間も疲れきった。
「ひと休みしよう」
 見かねて、俺が、砲車を曳いてきた馬の手綱をとめた。
 もそもそと、馬は鼻つらで雑草の茂みから、喰える草っ歯を探していたが、人間の
方は、みんなひっくり返って、ものも言わなかった。
 まるで、蚕みたいに、葉っぱの上にまるまっていた。
 俺も、手足を伸ばして、大の字になりたかったが、腰と背が痛くてとても伸びなか
った。
 その癖、眼が冴えていて、ひと眠りしたいのに、なかなか睡つかれなかった。

 この大砲持出しは、厄介すぎて話にもならないが、しかし連祥寺本院の六角堂を奇
兵隊の詰所にしてからは、考えてみれば、すべてが巧くいっていた。なにしろ新募の
隊員もどんどん増えていたし、すべてが順調だった。水戸からの書生連中も次々と馳
せ参じてきて、
 太平山の中腹にある大中寺などからは、毎月一の日には「仏前のお下り」と称して
役僧が、御菓子などを大盤に入れて若い書生連中へ届けに来ていた。
 その寺は慈覚大師創建の古刹で、兵火が及ぶのを、とても恐れていたようである。
 いつも菓子を貰う礼に、俺が参拝に行ったところ、何を勘違いしたのか、お上人さ
まが、黄金十両を包んで差出された。余程、その侭で俺は突き返そうと思ったが、そ
れも角が立ちそうだから、亡父源之介の回向を頼んで、永代供養料に改めて、その十
両を奉納してきた。
 すると、この話が寺僧どもの口から、山内にひろまったのか、奇兵隊の人気は頗る
よろしいようである。学僧が、こちらの教授方と懇意になって、ゆききなどもしだし
た。
 太平山中腹の御神橋の右の方に岩窟があって、そこには地下水が池のように噴出し
てる。山では弁財天を祭って神域にしてるのに、書生っぽの隊員が頓着をせず入浴に
入るのである。
 初めは随分この叱言が寺からやかましくきたが、この十両奉納以来はそれも言われ
なくなった。
 言われないといえば、俺の痘相を、とかく陰口をきく者もまるでいない。子供の頃
は、殿の種痘の下知にそむいた「不忠者の烙印だ」などと罵られ耻しめられたが、そ
れが今は、水戸の学生には珍しい痘相ゆえに、他国者にも慕われ、凄まじい形相だか
らと睨みもきいた。だからして鉄砲を八挺分捕ってきた時、あれを置き土産にして山
頂へ加わる気だった俺も、今では落着いてしまって、奇兵隊軍将。すでに部下の数も
三百を越している。世の中とは奇妙なものである。

「ぼつぼつ、出立します。軍将」
 眼を瞑っている俺を、寝てるのかと、西山がそっと起こしに来た。そして、そこか
ら夜通し歩いた。
 二門の大砲をひいて、太平山麓へ帰ったのは、元治二年五月二十七日の午まえだっ
た。山道や険しい処は、砲車を引っ張って通れぬから、川岸にのぞんだ平地を、迂回
して廻ってきたから手間どったのである。それなのに、期待した程に出迎えはいなか
った。
 鉄砲八挺の分捕でさえ、眼を円くして、各隊の幹部が集って来たことだから、今度
は、もっと大掛りに迎えられるだろう。そんなつもりで、意気揚々と立ち戻って来た
のに期待に反した。それどころではないと言わんばかりに、藤田小四郎さえ、山頂か
ら降りて来なかった。
「こりゃ‥‥一体どうしたんだ。留守中に、何かあったのか」
 と訝(おか)しく思って、土田を掴まえて訊(き)くと、
「弘道館の官学学生達が‥‥とうとう動き出したのです」と、まず報告した。
 私学派の全学連が蹶起して、官学と同一待遇を要求しだしたのに、腹を立てた主流
派が、水戸城内三の丸の弘道館を本部にしては、殿さまへ恐れ多いと、岩舟の願入寺
本堂を組織本部にして、反主流派の私学二十三館の全学連を叩こうと進発してきたと
いうのである。
「昨二十六日夜明けに、弘道館学生五百名が、水戸御城下の千波原に勢揃いして、白
地に学生の『生』の一字を書いて肩印につけ、藩武器庫から、鉄砲弾薬も持出したそ
うです」とつけ加えた。
「藩庫から、鉄砲などを持出せるのは、城代家老さまの権限だが‥‥」と首を傾げた。
いくら官学学生と威張っている弘道館の連中でも、みな藩士の二男三男の部屋住みも
ので、そんな実権は握っていない筈なのである。
「はい、それが、御城代の市川三左衛門。御用人朝比奈弥太郎、弘道館学取(がくち
ょう)佐藤図書らが、先手物取役富田理介、使番渡辺伊右衛門を初め役人共数十名を
従えて、学生連と同行。昨朝水戸城を出発。府中の城に昨夜は泊まり、松平播磨さま
二万石の御家中より、やはり学生数百を募って軍勢に加えて、石岡より出撃と、知ら
せが入ったから‥‥今や此方は上を下への大騒動なんですよ」
 と神田昌平校出身の土田は眉をしかめた。
「そうか。そりゃあ、ことだね」
 唖然として、俺は二の句も出なかった。今迄は弘道館の官学学生の主流派と、私学
二十三館の全学連反主流派の対立だった。ところが今度は公然と向こうは黒幕の大人
達が、諸役人を率いて堂々と乗出してきたという。
 これでは主流派が、機動隊と合流して押しかけてきたようなものである。
「成程。この騒動じゃ、吾々の迎えどころでもあるまい」
 と苦笑しながら、ひいてきた砲二門を、六角堂前に備えつけさせていると、
「軍議に至急、お出で下さい」と呼びにこられた。
 山頂の三光神社の本営へ俺が行くと、
「常陸国内の筑波山なら篭城もできるが、他国の此の地ではどうも防戦に心許ない。
本隊は夜半に総引揚げする」
 と田丸総帥の布告があり、わが奇兵隊は、「殿軍(しんがり)として最後尾の出発」
が言い渡された。

「なあ田中君‥‥筑波へ帰っても、敵襲に備えて支度するのには最低二日は掛かるん
だ。その間、君の豪勇をもって、此処を守ってお呉れでないか。そうすりゃ敵は、吾
々が引揚げた事に気づかず、この太平山へ釘づけできる‥‥その間に僕たちは手分け
して各館に在学中の学生に呼びかけ、強力な中核自衛隊(まもりぐみ)を組織し直し
て戦力をつくりあげる‥‥全私学連の為に頑張ってくれ」
 と藤田小四郎は両方の掌で俺の手を握って頼んだ。こちらも最後尾ながら一緒に引
揚げるつもりで支度していたが、これでは予定が狂った。
「那珂湊文武館」「行方(なめかた)小川館」「南石川館」「大宮館」「大久保館」
「平磯館」「潮来館」
 と各校旗をたてた学生連の藤田の隊を先頭に、田丸稲之右衛門の天、地、竜、虎の
四隊がその後をついて出発していった。
 最後の四隊は全学連と違って、この近在の若者の応募者が多いので、見送りにやっ
てきた近在の者で騒々しかった。しかし隊列が見えなくなって静かになってから、俺
はハッとした。藤田小四郎に突然な頼み方をされ、うっかり引受けたはよいが、とん
でもない事を忘れていた。
 わが奇兵隊は、これまで隊員に対して勘定を、喰わせて月一朱やっている。それだ
から明日の勘定日には二十五両から三十両はいる。
 それなのに、先刻は唐突な話で、俺は周章て者だから、つい貰いそこねてしまった
のである。
「‥‥今まで馬鹿正直に、集ってきた金を、どんどん田丸さまにお届けして莫迦みま
したねえ。すこし渡し忘れをしておけば良かったですな」
 土田が恨めしげに言うのは、募金の事である。

 山麓一帯の警戒が仕事だと思っていたら、
「‥‥隊費が嵩(かさ)んで維持できぬから、金策するよう」と田丸総帥から命令が
出た。
 丁度、猿田の姉の子で幼児から俺と遊び仲間だった忠夫が、
「‥‥何か自分にも手伝わせてくれ」と隊へ来ていた。俺は猿田の人間も同然なので、
その割りからゆくと、一つ違いでも、俺が伯父で忠夫は甥になる。
 だから彼に(怪我させたりなんかさせては、養家の猿田の家に申しわけない)と考
え、俺は募金係を言いつけた。安全な任務と思ったからである。
「‥‥こと金のことなので、信用できる僕を使うのでしょう」
 と、もっと勇壮な働きがしたくて、太平山へ来た十九才の青年は、すこぶる迷惑な
顔をしたが、それでもしぶしぶ引受けた。
 介添えに、老練で弁口も立つ千葉周作お玉ヶ池道場の師範代の藤田芳之助や、その
他にも忠夫の身の廻りの護衛には、上野群馬介。群司兵右、川崎重次の剣客を選抜し
て、家来をつけてやった。
 そのうえ土田の智慧で、相手の方を威圧できるよう、
(汝の祖を忘る勿れ)(皇恩を忘る勿れ)
 尤もらしい文句を書いた二流の旗を携行させた。この効き目があったのか、桐生の
新田村の橋本弥右から、七百五十両借り出せたのを皮切りに、五月一杯に次々と送っ
てきただけでも多額に昇った。それを右から左へ、山頂の本部へ石段を昇って預け、
此方へは一文も残さなかった事を、今になって土田は後悔しているのである。

 だから次の日になって栃木から近江屋とよぶ大商人を呼んで来て、山頂に置きっ放
しの品物をみせ金策をつけようとした。しかし、此方の目算では百両はあろうと思っ
た晒木綿や油桐紙の品物を、たったの五両に値踏みされた。足許を見込んで叩かれる
のだから、てんで話のしようもなかった。
「今日は隊員の勘定日なのに、これぽっちじゃ、おたまりこぼしもないですね」
 と勘定方の土田が弱りきっていると、西山と高橋がいなくなった。もしやと思って
戸棚をみると、大きな天狗面が二個だけ消えてなくなっていた。
 そして、夜ふけに二人は戻ってくると、俺に二十五両の切餅を二個だして、
「やはり、五両というのは計算違いだったが、まあひとつ‥‥これぐらいにまけてく
れと、栃木の近江屋は言ってました」と報告した。
「そうかい」と、俺も目をつむって、二人にそんな口のきき方しかできなかった。
 どうにか、それでその日の一朱ずつの手当は滞りなく払えたが、呆れた事に、翌六
月一日の朝になると、うちの隊から、脱走が三十名近く出た。
 金を払わなくては、逃亡されると思ったので、無理な算段をしてやったところ、貰
うものさえ貰えたらと、行き掛けの駄賃に、隊から貸していた大小まで持って逃げ出
した。みんな近在の農家の者だった。さすがに書生どもではないから、俺は、ほっと
したが、
「軍将さま。太い百姓どもです。あんな奴らと、昨日まで同じ釜の飯を喰ってたかと
思うと、へどが出やすぜ。幸い、みんな家は判ってやすから、隊の刀だけでも、取り
戻して来やしょう。仁義も知らねえ畜生どもだ」
 隊員の中から憤慨したのが、十人程飛び出してきて、俺に訴えてきた。
 日光の円蔵とかいう博徒の子分とか、弟分と称する権十とよぶ男で、その仲間の連
中は、この野州赤城山に立て篭った国定村の忠次郎の輩下だった連中である。
 中では一番年の若い勘太郎というのを、俺は選んで、
「おまえたちは喋舌ると地金が出るから、あんまり口はきくなよ。黙って刀だけ取り
上げてこい。まあ顔も見せねえ方が無難だろうから、暗くなって出かけるよう」彼ら
の口調で言い聞かせ命じた。
 この男は御室(みむろ)村の出身で、やはり博徒であるが、私塾へ通っていて多少
の読み書きもできる男なので、俺は信用して紙貼りの天狗面を用心にもたせてやった。
 連中を出してやった後、水戸城の三木左太夫という人から、此方の田丸総帥へ手紙
を届けに、背の高い若侍が提灯をふりながらやって来た。
 その者の話によると、二十七日に府中城を出発した敵軍は、野州へ向かわずに、二
十八日は松戸泊りをして、晦日には、反対の江戸へ出府した。駒込追分町の藩の中屋
敷へ入ると、大公儀へ、偽幕府追討の御免状を願い、「竜」と白抜きした肩印の藍布
二千組を拝領した。そして(六月二日をもって野州太平山の激徒を追討せよ。と評定
所から、改めて沙汰書も出たらしい)とつけ加えた。
 その手紙を預かって、駄賃に一朱だしたが、その若侍は受取らず、自分も学生であ
るといって、
「‥‥水戸御領内の事を、自分の方から、大公儀へ願い出るなど、もっての外です」
と城代家老市川を罵り「彼らが、大公儀の歩兵隊と併合して押寄せてくるとは、なん
たる事でしょう。学連の争いを利用して官憲(こうぎ)の介入を許すというのは、学
生への侮辱でしかありません‥‥もはや私学も官学もありません。大人の政争にまき
こまれ利用されるのは、まっぴらです。私学連の人たちも弘道館の連中と談合して、
学生は学生‥‥政権争いのみにくい大人どもの手先にならぬよう、吾々の初期の目的
である『値上げ退治』と『安心して勉強できる学校』の二つだけに眼目をしぼるべき
ではありませんか」
 と、こちらをあべこべに激励した。
 だから、俺は彼なら信用できると思ったから、つい、うっかりして、高橋や西山が
苦面[工面?]してきた残りの小判を、そっくり財布ごと、
「‥‥これを、ぼくの母へ渡してくれないか」
 と、ことづけてしまった。すると相手は、
「承知しました」と快諾して帰っていった。
 その後ろ姿を見送りながら、(今から三月前までは、母の賃縫の仕立賃の中から気
兼ねして小遣いを貰っていた俺が、小判を送り届けるとは‥‥世の中なんてまったく
判らないものだ)
 と考えた。だから誰に対しても気兼ねして、卑屈に生きてた俺が、近頃は、まった
く、
(あべこべになってしまって、反(かえ)って他人が愚鈍にみえて仕様がない)と昂
ぶった気にもなった。

 なにしろ本隊が引っ越してからは、頭を押さえる者もいない。俺はまったく一人天
下だった。
 兵力も脱走した数を上廻る位の新入りが、大間々(おおまま)や赤堀、つまり赤城
山の一帯から加わってきていた。西山が募集に行ったせいである。しかし、この地方
は水戸のように学校というものがないせいもあって、書生は殆どといってもよいぐら
い、その中には加わっていなかった。
 だから学校で教授方をしていた飯田軍蔵は、博徒くずれを、
「光棍無頼の徒」と蔑んで嫌っていたが、百姓上りに比べれば、刀の目釘ぐらいは、
柄を抜いて自分でも直せるし、銭を貰って逐電するような莫迦もいなくて、安心でき
た。そのうち、連中が、耳よりな話をもってきた。小山在の宿場女郎が、一人一朱で、
ここまで出て来て、客は何人でもとるという、買い切りの話だった。八里の往還を歩
かせるのに、一日こっきりは酷だろうと、三日で二朱と二百と決めて、五十人頼んだ
ら、三十五人ぐらいの女が、尻を端折って団体でやって来た。
 三味線を担いで来た妓は、内芸者で倍の値だと言った。俺は気前よく金を払ってや
った。
 呑めや唄えの乱痴気騒ぎを、おおっぴらで始めだすと、飯田軍蔵は不快な顔をして、
参籠すると、山頂の三光神社へ登って行ってしまった。
 だが土田は「気にしないことです」と言って、「飯田さんみたいに、本当の合戦し
た事のない御仁にゃ判らないが、戦の前ってのはこうでもしていなくちゃ、気分が落
着かないものです」と、俺のやり口を賞めてくれた。
 そして、「まず、お手本とゆきましょう」と豪放に笑ってのけ、眼をつけた女を、
二人こみで自室へ連れ込んでしまった。西山と高橋は他愛なく酔い、隊員におだてら
れて、裸踊りまで披露していた。
「いまの内に、軍将のお相手を、さきに一人きめられたら、どうです」
 勘太郎の方にばかり、俺が目をかけているとひがんでいたらしい日光権十郎が、こ
の時とばかり、年配者の肝入れを見せにきた。
 だが三百人の男に、女は三十五人。とても、その中から一人だけ専用も抜きかねて、
俺が苦笑をみせて首を振ると、権十郎は、ぽんと膝を叩いて、
「では‥‥いいのをご紹介しましょう」
 と袖をひいた。そして「素人女です。しかも美人です。だが値が高くて、金一分も
とります。いま来ている女たちの四倍ですから、ちょっと散財ですが‥‥」とことわ
りを言った。
 俺も若いから(どんな女なのか)と誘われるままに、権十郎につれてゆかれた。
 しかし、
「‥‥ここです。名主さまの邸内ですから裏口から忍びこんで下さい。女は、銀杏の
樹の下の離れに一人きりでいます」と教わると、
(さては藤田小四郎が突然引き上げてしまったので、あの女は困って体を売っている
のか)と、俺もはっとした。一分という値も侘しかった。俺はそのまま帰ってきた。