1022 元治元年の全学連  7

「しーっ、来たぞ」
 先廻りをして山から降りて見張っていると、火縄が爪の先ぐらいに視えてきた。闇
の中を透かしていた三人は、思わずごくんと息をのんだ。槍の柄を握り直した。
「先頭が通り過ぎてから、無言で飛込む」
 場馴れしてる高橋が低い声で注意した。仰ぐと顎を片手で撫ぜている。いつもの癖
が直ぐ出るところをみると、落ち着き払っているようだ。釣られて、俺も臍のあたり
に力を入れた。なにしろ立廻りは何度もした事はあるが、人殺しはまだしてない。胴
震えがする。
 西山は、いつでも抜き出せるように、槍の柄を、中腰のまましごいていた。
 細かい打ち合わせをしてる隙もないが、二、三番目の火縄の明りに、西山が槍をく
り出す。
 次を素早く、すかさず高橋が突き。その後の奴を、俺が仕止める。無言のまま、声
をたてずに突きこむのは、相手に筒口を向けられぬ用心の為である。
「近づいた」かすれた声になった。
 火の輪がゆるやかに廻って来る。
 紅い細い環が眼鏡みたいに、ぐるぐる弧を描いて、二つ並んで視えた。
 なんだろうと眼を凝らした。明るさが段々迫ってくると、ようやく判った。
 足許を照らすために点火した火縄の端を持って、先頭の二人が提灯の代りに、緩慢
に振り廻しているのだった。
 米粒のような縄先の火でも、栃の木立に挟まれた夜道を一間幅、くっきりと浮き上
がらせていた。
 見つけられまいと、急いで樹蔭に引き込んで、俺達はそこで息をととのえた。西山
でさえ喘ぐように口をあけっ放しだったからである。なにしろ近くまで、もう相手は
きていた。
 先頭が眼の前をガサガサ横切った。廻る火縄の端が胸のあたりに昇った時、その男
とすぐ後ろからくる髯男の顔が、淡い黄茶色の光彩の中に、ぼんやり無表情に浮かび
上がって漂った。と見た瞬間。
「げえーっ」と、その髯は、もみくちゃになって、顔が歪んだ。斜めに苦悶が刺し貫
かれ、そのまま横倒しに転げた。
 別れ際に捨て台辞を吐いていったのは、あの男のようだ。と想い出してる隙に、次
の男が、
「うーむ」と唸って、泳ぐように片手を前につきだし、その侭のけぞった。
 三人目は、俺の番だと、樫柄の槍首を飛び出しざま身体ごと突き出した時、
「どかーん」「どばぁん」と耳を横殴りするように、突如耳をつんざく銃声がした。
 煙硝のくさい臭いが、あたり一面たち罩めた。息詰りそうだった。俺は噎(む)せ
た。それにこだわって気臆れしたのか、ためらった瞬間。眼の前の列が崩れていて、
(さて、突き倒す相手が誰なのか)判らなくなってしまった。混乱していた。
「不覚」と思わず口の中で叫んで、槍を突き出した侭、俺が、そのまま道へ飛び出そ
うとしたら、
「どがーん」「どだーん」
 続けざまに、火蓋がまた切られた。そして銃声が鋭くびゅーんと凄い音をさせて、
栃の木の樹肌にはねた。、ばらばらと、木の葉が雨にたいに降りそそいできた。
(枝にあたって、葉を散らばすようでは、こりゃ盲撃ちだ)とは思ったが、また、
「どぎゃーん」と弾ける玉音が耳を聾にすると、足先がすくんでしまった。なのに、
「六発撃ったな。生きてる奴の鉄砲玉は、それで、もう終いだ」と、もの馴れている
高橋は、励ますように算えていた銃声を勘定し、
「うおーっ」と怒鳴ると、きな臭い道の真ん中へ踊り出た。そして、「やあッ」と突
きまくっていた。
 いつの間に飛び出して廻っていたのか。背後の方でも、
「うおッ」と槍を突く掛け声と共に、「こらあっ」と西山の怒号が聴える。
 振返ってみると、先頭の火の輪は、もう廻っていない。叢に投げ棄てられた火縄の
端が、まるで蛍火のように草の蔭から透けるだけだった。
「くそっ」と、俺も木立を縫って走った。そして見当をつけて、脱走兵の後方へ「わ
あーっ」と叫びざま、「おのれ死ねッ」と槍を突き立てた・
 栃林の先は背の高い杉木立らしい。
 淡い月翳は、そこで遮られていたが、道の真ん中まで出ると、片側が薄っ原で低い
から明るさがいくらか増してくる。朧げながら顔もみえる。
 前後を挟まれた脱走のごろつきの生き残り共は、俺たちを見て怯えきったように後
退りしつつ、
「きえーっ」と笛みたいな悲鳴をあげた。
「‥‥お化けだ」
と、片手をあげて拝む奴を、俺は思い切り突きこんでみた。物具にあたったか、骨に
遮られたか、一度は滑ったが次は槍のけら首が、ぐさぁりと相手の体内に突入した。
 新しい足袋を初めて履く時みたいな、そんな感触が、柄を握ってる手首から伝わっ
てきた。どしりとした重たい反応を感じさせられる。
 入るべきでない所へ闖入してきた異物への、人間の肉の抵抗が、弾力をもって跳ね
返ってくる。これが手ごたえ、というやつなのかと思うと、樫の木の柄を伝って向こ
うの鼓動までが、ドクドク波うって掌へ伝わってくる。
 ものの味を噛みしめるように、突きこんだ槍先をひねくって、その反応を試してか
ら、足をかけて一息に引抜くと、俺は次の奴の脇を狙って、ぐっとまた力まかせに突
き立てた。
 やはり、拒もうとする肉の圧力が、瞬間、ぐいっと掌に戻ってきた。痺れるような
手応えが、疼くように快い戦慄を伴って背筋を走った。なんとも名状しがたい感じで
ある。
 なのに相手は、それを拒もうというのか。
「‥‥まあ、お許しくだされ。わたしゃこれでも秋葉講の信者です」と、そんな口の
ききようをして鉄砲を投げ出した三人めの男は、両手で合掌していた。しかも泪まで
夜露みたいに浮かべている。
「殺すのは不憫」そんな気もした。だが手先へじーんと伝わってくる筋肉を刺し貫く
弾力の跳ね返りの感覚の誘惑には、とても勝てるものではない。一個の人間が一人の
相手を(殺す)という完全制圧の形において味わう勝利感も、これも棄てたものでは
ない。やめられない。
 だから有無をいわさず槍先で突きあげる。ぐっと痺れるように感ずる。
 すると四人目の男は、もう破れかぶれになって、
「おのれ、妖怪変化め」と、腰の打太刀を抜いて、横殴りに襲ってきた。
「俺の面の痘の痕が、そんなお化けみてぇか」
と仰向けに刀の切先をさけ、後退りして身構えると、粘っこく、ぬるぬると、二の腕
まで血が流れ垂れているのに気づいた。
「ちえッ先刻の返り血が槍の柄を伝って流れこんだのか」と、俺は狼狽して、滑る槍
を持て余しながら、それでも思い切り向こうの刀を撥ねた。
 そして指の股に力をこめて突きこんでいった。
 がりっと、硬い反撥を感じた。掌の中で一廻転べたついた樫の槍の柄がよじれて廻
った。いやな感じがした。手が滑って突き損じたと思った。
「しまった」と、たたらを踏んだが「えいッ」と、また身体ごとぶっつかっていった。
すると、
「ふえー」と声にもならぬ異様なうめきが洩れた。俺の顔を「お化け」と罵った相手
は、顎の下の咽喉仏を狙ったつもりが外れて、下唇から鼻の方へ穂先をめりこませて
いた。力まかせに肩に足をかけて引き抜くと、白い小石みたいな物が、がりがりと弾
け飛んだ。上顎の歯らしかった。
「えいっ構ったことはない」
 魚を銛で突くように両手で槍柄を抱え、倒れた敵の馬乗りになって、飛び出した咽
喉骨を突いた。だが、
「てえーっ」と、俺は槍を放って飛んで逃げた。噴水みたいに、斜めに刺した首筋か
ら血が迸り出て、滝壷へ潜ったような羽目になったからである。
「大将、なかなかやるねぇ」
 返り血をもろに浴びてしまって、俺が面をはずして眼をこすっていると、高橋が脇
から声をかけてきて、
「こいつが、おまえさまの事を妖怪と言ったのは、その天狗面のことだよ」と言いな
がら、まだ喘いでいる男の心の臓あたりを脇からずぶりと止めをさしてやった。
 西山も、蘇芳をかぶったような真っ赤な天狗面をはずして近寄ってきた。しかし面
をとったあとは、はみ出ていた額の生え際や顎には、血がべっとりかかって残ってい
るから、顔の輪郭が小さくなって、まるで少年のように視えた。
「そそっかしい奴らだ。天狗面をみたら、腰を抜かしゃあがった。本物の鞍馬天狗と
でも思ったのだろう」と、俺も照れ隠しに、そんな雑な口のききかたをした。
「土田さんの言ったとおりだ‥‥たいしたご利益だ。俺が当った後口の奴ときたら、
(天狗さまお許しを)と財布まで出して命乞いしやぁがった。殺すも大人げないと迷
ったが、うしろで大将が、ずぶずぶ刺し殺してる。こりゃ、一人でも生かしておいて
は、後難があるんだろうと、片をつけてしまったが」と言いながら、渋塗りの紙巾着
をふってみせた。
「そうだ。さっきの隊金だ」
 思い出したように、西山が周章てた。
 三人は手分けして、まだ硬(しこ)りがこない、ぐったりした屍体の懐ろを、片っ
端から改めて廻った。
 やはり、最初に突き殺した髯男の腹巻に、例の九両は入っていた。
「この野郎、太い奴だ。別にてめぇの金を三両も紙に包んで温めている」と西山が見
つけて、小判をかちかち叩いて鳴らした。
「手当を貰ってないと言いながら、こんな大金を臍くっているとこをみると、このご
ろつき共は、鉄砲に火縄をつけて、近在を押し借りゆすって、貯めこんでいたんだな。
他の奴の懐も、ついでに取り上げてしまえ」
 どうせ盗んできた金だから構うまいと、俺は言いはしたものの、自分では屍は気味
悪くて眼をそむけていた。
 つまり懐中改めを二人にやらせ、遊んでもおられぬ俺は、鉄砲や玉薬の袋を一つ所
に集めなどした。
「ある、ある」
 二人は、紙巾着や布財布を集めてきては、中身を取りだして、月明りで地面に並べ
ていた。
「隊金九両二分が、そっくり戻った他に、なんと、しめて他に六両一分三朱ある。こ
いつは豪儀だ。大将、この余録を持って、久しぶりに白粉の匂いでも嗅ぎに行きませ
んか」
 血なまぐさい臭みを、身体の随までしみこませてしまった後は、無性に女の匂いが
欲しくなるものらしい。二人とも唾をのんでいた。
「まさか‥‥三人で八挺の鉄砲を担いでも、女買いに行けまい」
という事になって、熊笹の茂みに穴を掘って、そこへひとまず埋めて行くことになっ
た。
「たとえ何刻でも、土の湿りをくうと、見当が曲がってしまう」と西山が、脱走たち
の衣服を剥いで、それで一挺ずつ包んだ。剥がした腹巻や具足も、湿気除けに、掘っ
た穴の下敷きにした。
 覚えに、土をかぶせた上に、石ころを並べておいた。
「早く行こう」
 うずうずしているように、高橋がしきりに顎の傷痕を撫ぜ上げ催促をした。
「槍を担いで行っちゃあ、まずくないか」
と、俺が言うと、手頃な真竹を探してきて、筋を突き通し、西山はくりぬくと、その
中へ槍を一本ずつ通した。そして又土に立たせた。まったく器用なものである。
 西山のあとで高橋が、目印にその竹の小枝を折り曲げたりした。
「さあ、行こう。途中で川へ入って着物を丸洗いしよう。なんしろ、ぷうーんと、ま
だ生臭い。こう匂ったんじゃ堪らない」
と俺が言うと、襟首の乾いた返り血を、二人とも爪でぼろぼろ剥がしながら、うなず
いた。
 桐生の宿場まで出るのには、どうしても山道で十里。
 そこで、構った事はなかろうと、逆に引き返して日光街道へと出ることにした。
 今市の宿場まで行かなくとも、日光の山麓に、各藩出兵の陣場を目当てに女たちが
屯している。そこで遊ぼうというのである。
「おりゃ、肥って肉付きのよい女が趣味でしてねぇ」
 舌なめずりをしながら、高橋が、まるで重大な事のように、そっと俺に打ち明けた
りした。
 すこしずつ夜が遠ざかって行くように、銀いぶしの空が、淡くあく抜けだした。
 脱走兵から取り上げた火縄を、同じ様に、くるくる廻して進んだが、もう足許を照
らす必要もないほど、あたりは白っぽくなってきた。
「女が済んだら、うまい物も喰いたい。生の肴。そうだ、刺身で、濁酒(どぶ)でな
い透ける酒を呑もう」
 俺が言うと、二人は、
「うおーっ」と獣のように吼えて、肩をがしがし揺すって、歩きながら武者ぶるいを
した。
 そして、三人は声を揃えて屈託もなく、
「わっは、は」と高笑いをした。


女は気絶の真似をする

「首すじや襟は、こう腑伏して、水に浸けて下さい」と西山が、また調子にのって、
べったり腕をついて川の中で手本をみせたが掌が滑ったのか、ぶくっと顔を沈めて、
周章てて、ぶるっと跳ね起きた。
 有難い事にかえり血は着物の前見頃だけなので、水につけて揉み洗いをすると、さ
っぱりした。
 ついでのように身体も、ふやかして洗った。川の流れが茶から朱になった。
「火をたいて、乾かそう」と、俺は言ったが、
「なぁに、歩いてる裡には乾きますよ」
 肩幅を物干竿のかわりにして、両手を延ばして高橋が、どんどん歩いて行った。
「おいおい、耳の裏に、まだ血の飛沫(はね)がついてるぜ」と西山が後を追いかけ
て教えてやっても、睡液を指につけて、こすっただけで、大股にとっとこ先を急いで
立ち止まりもしない。
 俺も突きまくって汗を出したのが良かったのか、悪寒がひいて身体中が爽快になっ
ていた。ひんやり肌に貼りつく衣服も気にならなかった。
 気持ちが悪いのは、ただ濡れた褌だけだった。
 着てる物は、袂や裾でしぼったが、下はその侭なので、まるで垂れ流しをしたよう
に、歩くたびにすれて股倉も痛かったが下に雫が伝った。
 しかし、どうにか着てる物が体温と向い風で乾きあがった頃には、やっと道も日光
の立て場へ出たらしい。
 茶店の裂けた赤旗が、竹竿に翻って覗けていた。なにしろ明るくなると、五月の空
は底なしのように蒼い。
「‥‥飯を喰おう。熱い白湯がのみたい」
 女欲しさに歩いて来たのだが、人通りのある賑やかな所へ出てくると、眩しいよう
な顔をして西山がまず言った」
 何処かの講中が白い上掛を羽織って、参詣道へ長い列をつくって登って行った。
「戦騒ぎの最中でも、信心って奴はすたらねぇもんだなぁ」
と、俺が感心して、ひとり言を洩らすと、
「こういう御時勢だけに、信心が増えるんですよ」と、西山が、珍しくまともな事を
言った。
 酒、めし。と看板提灯のでた煮しめ屋があったが、まずい事に隣りに赤提灯が出て
いた。
 一目で、女を置いている所と判る。
 飯をくおうとか、湯が呑みたいといっていた筈の西山が、とっとこ煮しめ屋の前を
素通りして、その赤提灯の店へ入ってしまった。
「ちぇッ腹ごしらえが先なのに‥‥」
と高橋がぶつくさいっていたが、
「おう、上がるぞ」と威勢よく戸口を跨いだ。
 仕方なく、俺も後からついてゆくと、
「ご浪さん、まだ時刻じゃござんせんよ‥‥」
と眼の吊り上がった四十女がとび出してきた。
 そして、三人の身なりを、無遠慮にじろじろみて、裾がめくれてるのを、わざと見
据え、
「こほーん」といやな咳払いをひとつした。
 洗濯が悪かったのか、三人とも着物の表地が縮んで、裏地が外へ捲れあがっている。
とりわけ高橋の黒木綿の紋付などは、一寸近くも裏の晒が顔を出して、まるで裾に帯
でも巻いたようだった。
 見据えられるまで、気がつかなかった個所なので、照れ隠しに、くるっと三人とも
裾をまくって尻端折りをした。
「凄むのかえ」と、女は勘違いして、立て膝をして構えた。
 一斉に此方が尻をまくったから、それで喧嘩でも吹っかけると思ったらしい。
(裾がはみ出してるのを、じろじろ見るから、それで、おっ耻かしいから、めくたの
よ)
とも言い訳もできず、気まずい睨み合いになってしまった。女は、居丈高になって、
「ご浪さんが怕(こわ)くって、こんな商売が出来ますかってんだい。わたしゃ江戸
の吉原で散々に勤め奉公もしてきたが‥‥午[ひる]遊びってのは聞いた事もあるけ
れど、朝っぱらからのお女郎買いなんて、天地開闢以来だね。懼[おそ]らく何処か
へ押しこみにでも入って、泡く銭をかすめてきやぁがったんだろね。さぁ、そこから
一歩でも近寄ってみな、鳴子をひっぱって、すぐ裏の御番所を呼ばぁねぇ」
と、馬鹿みたいな啖呵をきりだした。
「まぁ待ってくれ、姐さん。おいらは、怪しいもんじゃねぇ。耻しいが、女が抱きた
いばかりに、大谷川を渡って、ずぶ鼠になって、やって来たんだ。何も押しがり、ゆ
すりに来たんじゃねぇ。銭は持ってる。一刻が無理なら、小半刻ずつでも好い。注文
はつけねえから、敵娼(あいかた)を三人あてがってくんな」
 西山がそんな口調を五分に使って、頭を下げて頼んだが、初手(はな)に断ろうと
決めて掛った店番の女は、どう言われようが、それを聞いて考え直す気もないらしく、
つんと横を向いて、浅黄色の腰巻を覗かせたまま、神社の狛犬みたいに、そっぽを構
えた。だから見かねたのか、自分も往生して、
「なぁ、頼むよ」
と高橋も女に声をかけ、
「いくらか包んでやって下さい」と、早口で俺に言った。
 包めと言われたって紙なんかないから、一朱の銀粒をつまみ出すと、裸のままで、
「済まないけれど、髪結賃にでも取ってくれたまえ‥‥」と、縁台の上にのせた。
 すると女は機嫌を直すと思ったところ、逆にぺっと唾を吐きかける真似をして、
「おふざけじゃないよ。妾ゃね、奉公人のやり手婆じゃないんだよ。この越後屋を預
かってる、ここの大将さ。祝儀(ぼち)を貰ったら、愛想笑いでもして、登楼させる
と思ったのかい。見損なわないでもらいたいね‥‥妾が出て、一旦こうと断っておき
ながら、また気が変わって上げたんじゃ、他の者の見せしめにもなりゃしない。さぁ、
とっとと帰っておくれな、こっちゃ忙しいんだ」
 取りつくしまもない剣幕である。
「おい女、たいがいにしろ。悪口雑言を吐きすぎるぞ。いやしくも、それが客に向か
って言う言葉か」と、俺が戒めてやったところ、
「へえ。ほら、お出でなすった。地金を出したねぇ。顔の傷痕が売物なら、八百屋の
前へは行かねえこった。あぁいう青物屋じゃ、傷物はすぐ塵箱へ放りこむよ‥‥お客、
お客って、大層もねぇ御託を並べるが、そもそも、客ってのは、お宝をたんまり出し
て、儲けさして頂くお人のこった。軒先くぐって入ってくるのが、お客だったら、迷
いこんで来る野良犬も、門付けにくる鉢叩きや巡礼だって、みんなそうだろうじゃな
いか」
 吉原の廓で散茶女郎でもしていたのか、口先のよく廻ること。西山でさえ飽気(あ
っけ)にとられて、黄八丈まがいの手織絹の着物だけを、ぼんやり眺めている始末。
 とても言い争って敵う相手ではない。
「おのれ、男の面を、大根や瓜に例えやぁがって」と拳固をかためて憤慨する高橋を、
まぁまぁと慰めて、西山が大声を出して、
「おめぇんち一軒が女郎屋でもあるまい」
と捨て台辞を残して外へ出たが、先刻の一朱が気になって、俺が振り向くと、拾いあ
げて帯の間にしまいかけていた女も、むっとしたように、ぽーんと投げてよこした。
 それを摘まみあげた西山は、いまいましそうに、ぷーっと息を吐きかけ泥を落して
俺の袂へ入れてよこした。

 歩いて愕いた事には、日光の立て場の娼家は、越後屋一軒きりだった。他になかっ
た。別にも店があるつもりで、啖呵を切って出て来たのが、当てはずれになってしま
った。
 あの一朱をその侭にしておいて、午下りにでも出掛けて行けば、案外、眼をつむっ
て、登楼させてくれたかも知れぬと思うと、縮尻ったと、振返った事を俺は後悔した。
だが、二人にそれは言わなかった。なにしろ、
「‥‥てめぇの店しかないもんだから、それで好い気になりゃあがって、ぼろくそに、
よくも吐(ほざ)きやぁがった。言ってる方は、さぞ気持も好いだろうが、やられた
方は、まったく男を下げましたね」
と西山は、まだこぼしていたし、
「なにしろ、各藩の御出兵が何千と集っているのに、女は彼処だけとなりゃ、もてて
もてての大繁昌。あのくらい強気になるのも、当り前か‥‥だが、男で、あれくれぇ
弁口が立ったら、流行にのって尊王論でも喋舌って廻ったら、結構いい稼ぎになりま
すぜぇ」
と高橋も言っていたからだった。
「同感だ」
と、煮しめ屋へ入って三人で飯を喰ったが、これまた冷飯でうまくもなんともない。
 互いに顔を見合わせ、これじゃあ、何の為に出て来たか判りゃあしない事になった。
「おや、お面を売ってますぜ」
と外へ出て登山口へかかったところで、指さされてみると、神前に捧げる榊や樒を店
先に並べ、護摩札を扱ってる店の棚の上に、御神楽用か、木彫に椎朱を施した、いか
めしい天狗の面と、般若の牙をむいたのが掛けてあった。
 三つで一朱というのを、四つにまけさせて、袂の銀粒で支払った。さっきの一朱で
ある。俺は厄払いしたみたいにせいせいした。
 藁包みにつめてくれたのを背にかついで、
「これで土田さんの手土産ができた」と高橋は、すこし機嫌を直したが、西山は、ま
だ、ぶすっとして薄い眉をつり上げていた。
 行く所もないから、先刻の煮しめ屋へまた戻った。今度は地酒をとって、焼魚でち
びちび飲んだ。そして、そこの親爺にあたってみると、夜になると近在の百姓娘や嬶
が、藩兵たちの袖をひきに集るというが、話では、これは相当暗くなってからである。
 それまで、此処で飲んでおれば、飲み料がかさんで、この店の売上は増そうが、払
う方は堪ったものではない。それに一刻に四回ぐらいの割りで、宇都宮藩の見廻組が
覗きに来る。
 一組五人は恐ろしくないが、肩に鉄砲を担いでいるのが、気にくわん。
 耳もとで、どかーん、ばかんと暴発されたばっかりの音が、まだ耳の鼓膜に残って
いるものだから、呑んでる酒も、つい思い出してまずくなる。そして話も、
「いま気がついたのだが、あの脱走兵は、初手から此方の金を只取りする気で、わざ
と逃してくれと、川を渡って来たんだ。点火したのは焚き火だが、鉄砲は前もって玉
ごめして持出してきたものな」
というようになった。
「そう言やぁ確かにそうだ。川から這いあがったら、いきなり、火縄に点火させよう
と、焚き火をおこしたり、まるで手順がうますぎた‥‥あの場では、てめぇらの陣所
に近いから、ぶっ放さなかったが、こちらが瞞されて、じゃ匿ってやろうと、太平山
の方へ案内してみな。頃合の場所まで来たら、構うことはねぇと、ぶっ放されて、こ
の三人は今頃、赤っ裸にひんむかれて、烏の餌食さ」
と高橋も頷いた。
「この布子じゃ、ぼろだから剥いで行かずかも知れねぇが‥‥殺されていた事は確か
だな。いくら槍を振り廻したって、一斉射撃でどかーんと喰わされたら、まぁいちこ
ろだ。うん、命拾いしたと思えば、女の方は諦めるか‥‥」
と今市まで足を延ばして、別の娼家へ行くかと話も出たが、宇都宮藩の見廻りが厳し
いので、もし怪しまれてはと、断念することになった。
 というのは、先刻の越後屋で、あっさり剣つく喰ったのも、事によったら、
「この三人の面構えが、おっかなかったんじゃあるまいか‥‥だとすりゃ、今市へ行
ったって、また同じ事の繰り返しかも知れん」
と、俺がつい口を滑らせ、本当のことを言ってしまったからである。そこで皆げっそ
りして、
「帰ると決まったら、ぼつぼつ、おみこしを上げよう。薮へ行って槍を取ったり、埋
めて来た土産物がある。廻り道をするから、さぁ、行きましょう」
 徳利を振って、最後の一と雫を、掌でべろりと舐めて、高橋が立ち上がった。
 俺は、岩魚の焼いたのを、縄でぶら提げた侭で買った。五匹で六十文。土田への土
産のつもりである。此処の酒を一升ぐらい提げて戻りたかったが、八挺からの鉄砲を
三人で担がねばならぬ。そこで重たい物は敬遠した。だが外へ出ると、
「手拭いでも買って、頬かむりして出直そうか」
 西山は諦め切れぬように、越後屋の方を伸び上がって、まだ恨めしそうに覗き見し
ていた。未練たっぷりである。
 幸い、立場の通りの中では、下野や下総の藩兵には、ぞろぞろ出逢ったが、見廻隊
にはうまい具合に、抜け通るまで遭遇しなかった。
「胡乱くさい浪人者」と引立てられて、太平山に所属してることでもばれた事である、
とひやひやしていたが、まだ心残りらしく振返っては、
「‥‥なにしに往復こうして歩くのか、判らない」などと、まだ不足をいっていた。
 高橋も、そういえば慾求不満というところであろう、やはり眼をぎらぎらさせて、
ぶすっと怒ったような顔をしていた。そんな矢先である。生い茂った野草の向こうの
小道に人影が視えた。ちょうど細尾ヶ原の入口であった。
「‥‥女らしい」
と、まず西山が指さして立ち止まった。
「こんな辺鄙な所を一人歩きとは図々しい女だ。構ったことはない。脅かしてくれよ
う」
と高橋が肩にかけてきた包みをあけ、木彫の赤い天狗面を出すと、自分だけでなく西
山にも冠らせた。そして薄の穂並が風にしごかれて揺らぐ中を、かいくぐるようにし
て、その女の側まで背をまるめたまま近よると、
「わあッ」と左右から赤い鼻をつきだした。
 だから、「ヒェーッ」とばかり、鋭く尖った草笛のような悲鳴が、風に吹きつけら
れて俺の方へも流れて来た。
「天狗だ」「お化けだ」
 気丈な女らしく大声で異様な叫びを続けて投げつけ、それが草の葉ずえごしに聴こ
えてきた。
 しかし昨日から水に浸かって下り腹の俺は、この間に、これまでこらえていた用を
たそうと、あたりを探した。
 柔らかい雪の下の葉が、地面に這ってるところを見つけた。葉を五、六枚むしって
握ってから、そこへ、しゃがみこんだ。
 やっと用をすませて、藁包の置いてあった山道へ戻ってくると、
「大将」と呼ばわる声がした。
 どうしたのかと、薄の茂みを掻きわけて行くと、天狗の面をつけたまま、二人の男
は、満足そうに寝転がっていた。そして、
「お先に‥‥」と高橋が、面の下から言った。
 中腰になった西山は、腹ばったまま薄の根元をぐっと掴んで、薙ぎ倒すように左右
に押しひろげた。
 すると、そこには女が押し潰されたように転がっていた。
 まだ顔には稚ない所も残っていたが、身体はむっちりとしていた。目をつむってい
た。
「どうした。殺しちゃったのか」
 びっくりして、俺が及び腰になって聞くと、高橋が、薄の穂を折って耳の孔をかき
ながら、
「われらを天狗を間違えおって、二た声、三声、喚いてから、ぶっ倒れたのです。気
絶というやつです」と、そんな具合に説明した。
「悪戯がすぎたと思って介抱して、帯といてやったところ、あんまり見事な躰なもん
で、へっへ‥‥」
と、そこで言葉を濁してしまった。
「仕様がない」と、俺は言った。
「まだ、なら止めも出来るが、もう終ってから呼ばれたんじゃ、今さら何をか言わん
やだな。どうするんだ」と、困ったように左右へいった。
「この侭で放っておいて、山狗にでも咬まれては可哀想です。気がつくまで、また繰
り返すより、他にはないでしょう。大将も、ひとつ協力して蘇生するよう手伝って下
さい」
と言われて、俺は気絶した女の、まくられた個所に向き合わされた。すると草いきれ
とはまた違う、青くさい匂いが女体から洩れにじんで、むうっと鼻へついてきた。

 気のせいなのか。女の首がことりと動いたような感じがした。だから、
「正気づいたのか」と、俺は周章てて躰をはなしかけ、
「‥‥大丈夫か」と低い声で、その耳朶へ囁いた。すると、ただ一言だけ、
「うん」と女は返事した。そして暫くしてから
「なにも気なんか喪うてはいなんだ」
と、びっくりするようなことを、小さな唇をもごもごさせて、俺の耳の中にふきこん
できた。つまり、(手向かって殺されてはと、わざと気絶した振りをしていた)とい
うのであろう。
「‥‥やっと、正気づいたらしいぞ」
と、俺は言いわけみたいに口にして立ち上がると、一分金をひとつ出して二人の者に
もみせながら、泥まみれの女の掌にそっとのせた。
 気絶させるような真似を正気な女にさせていたことへの、せめてもの償いであった。