1020 元治元年の全学連  5

 俺が長袖と呼ばれる医師になるのを、極端に厭がっていたから、なんとかして士籍
をと、養父の猿田先生には内緒で母も心配してくれた。亡父源之介の食禄八十万石の
四半分。つまり二十石取りでもよいから、頂いた百疋の供養料も、そっくりそのまま
組頭宅へおとりなし預りたいと、まいないに持って行ったこともある。
 だから「十人扶持の足軽衆の家だが、養子縁組する気があるなら、周旋(とりもち)
しよう」と、その後、組頭から話があったようである。
(他家へ行ったのでは、田中の家の名跡が立たぬ)と母は拒んだが、(たとえ十人扶
持にせよ、若い者ゆえ、将来がある。いつかは当人の器量で出世をして、石取りにな
る望みもあろう。そうしたら生まれた子を分家させて、田中の家を継がせよう途もあ
る)
と伯父に口説かれた。それで、母もようやく納得して、本人の俺に話そうとされた時、
思いもかけずに先方から断りを言ってきた、というのである。なんでも、
「なんせ近頃の娘は親の家計を手伝って家の中で内職仕事などやりますから生意気に
なって、まったく勝手気侭で」と組頭が、その足軽衆の悪口を言っているのを、たま
たま道場帰りに寄り道して、俺は裏で薪を割りながら聞いてしまって、はっとした。
 というのは、薄々その話を知っていたから、「どんな娘か見てやろう」と、道場の
仲間を誘って、実は、前に足軽衆のお長屋へ行ったことがある。
 薄暗い明取りの長屋窓から、一軒ずつ覗いてゆくと、下ぶくれのした浅黒い娘が、
せっせと小箱を山につんで、糊づけしていた。
「あれだ」と仲間がつついた。
「向こうは気づいていない。側まで眼をもって行って、よく視るが好い」
 俺は肩をつつかれて、立桟(たちざん)の間から、顔をつき込むようにして覗きこ
んだ。
 淡い陽ざしが翳になったので愕いたのか、娘は顔をあげた。険しい眼をした。俺は
周章てて、
「田中源蔵です」と、よせばよかったが、名乗りをあげてしまった。
 すると娘は、手内職をやめて、じっと顔を見返した。俺も睨みっこみたいに見詰め
た。
 なにしろ連立ってきた道場仲間への見栄がある。
(白湯でもくみますから、どうぞ中へ)と声をかけてもらいたいから、俺は、桟木に
顔を押しつけたまま、じっとしていた。なのに何時[いつ]までたっても、相手の娘
はなんとも言いもしないのである。
(睨み合い)をしに来たのではない。と諦めて、俺は仲間のところへ戻ってくると、
「よう精出して働く女じゃ。声をかけてやろうと思ったが、仕事の邪魔になるから、
やめにした」と照れ隠しを言ったものである。
 そして、それから十日たって、断わりが来たのである。
 母も伯父も(足軽から断れられた)というので、初めから何事もなかったように、
この話にふれたがらなかった。俺も、覗きに行った事は言わなかった。
 初めは(無遠慮すぎて、それで女を憤らせてしまったのか)と考えていた。しかし、
どうも話はそうでもないらしい。俺が藤田小四郎ほどの男ぶりなら、あの時だって女
は(ようこそ)と感激して、外へ走り出て迎えてくれたであろう。つまりは、この痘
づらをむさいと思って、駄々をこねて破談にしたのだろう。
 なにしろ養子に行かねば、身の立たぬ二男三男や、俺のような扶持離れの若者が、
ごろごろしているのに、見てくれの悪い俺を若い娘が嫌うのも、無理からぬと諦める
事にした。
 なにしろ江戸へ行った時でも京師でも、俺のひどい痘相は女には好かれなかったも
のだ。
 母は(男は姿や形ではありませぬ)と、あけくれいうが、あれは責任回避のいいご
とである。男どうしで顔のことをいう奴はあまりいないが、女ときたら、まるっきり
中身より、外見だけで男を区別したがる。だから堪ったものではない。
 しかし縁談がその後ないでもなかった。
 養家先の猿田の姉や池永の兄が気を配り、田中とよぶ典医の養子の口をすすめてく
れた。
 先方の娘は、まだ十二歳ゆえ、見合いや入籍や挙式は四、五年先でも良いという話
だった。
 同姓なので、母と伯父は、すっかり乗気になって大喜びした。願っても得られぬ好
縁と礼を述べに行った。だが、養子先から、また養子で、しかも医者なので俺は良い
顔をしなかった。すると母はいましめて言った。
「せっかく猿田さまが、吾が家と同苗の所を、わざわざ探して下さった恩が判りませ
ぬか。同じ田中の家名で御扶持がいただければ、ご典医にしろ亡父源之介さまも、さ
ぞ泉下で、どれだけ喜ばれるか判りませぬ。もう我侭は言わぬ事です」
 それでも承知をせず、嫌がるものだから、終いに匙をなげたかたちで、伯父と二人
で母は、
「‥‥田中の町奉行さまは、大目付山国様の弟で、書院御番の重臣武田伊賀殿の御親
類。そこへ一味させれば、医師のところへ養子に行くより、立身するかも知れぬ」と、
言うことになって、出されてきたのである。
 それなのに、これまで女から、ろくな顔もされた覚えのない俺が、いくら山だし同
然の赫顔の小娘とはいえ、こんなに優しくされて、実(じつ)をつくすというか、厭
やな顔もせんと三十何人前の飯ごしらえまでしてくれる気持は、なんといって良いか
判らぬものを感じてしまう。よく母は口癖のように、
「男は姿や形ではない」と、いつもいっていたが、あれはどうもあべこべである。
「女こそ、姿や形ではなく、心の美しいのが何よりなんだ」と、俺は初めて女性とい
うものに開眼させられような気になった。
 だから、夜明け方の風邪のひきかけが治まり、もう嚔(くしゃみ)も出なかったし、
なにも発汗作用をすることはないとは思ったが、
(この小娘が、あないに好物なら、振舞うてやらねばなるまい)と考え、
「‥‥おい、もういい加減に後かたづけは止めにして、休まぬか」と奉仕する精神で
慎しやかに声をかけてみた。


「全館連」の旗はゆく

「‥‥俺を、大将にする」
 とんでもないと、手をふって断った。
 始めた当初は、十名も集まってから加入すればぐらいに想っていた。
 それが最初の一日だけで三十名を越した。
 俺は、それで打ち切る気でいたのに、翌日、西山や高橋の姿がみえない。まさかと
思ったが、念のために、昨日の受付所の、もちの木あたりを探しに行った。誰も人影
はなかった。安心してると、午頃になって、どやどや十四、五人新しい応募を連れて
きた。
「見廻りの巡邏を警戒して、麓へ下りて受付しましたら、お山へ登るか、登るまいか
と思案していた連中も、心易く申し込みに来ました」
「こうなったら、頭数は一人でも多いがよろしかろ」
 勝手な熱をあげて、気侭にやって居る。それで、この俺を大将にとは、以ての外だ
と思った。
 なにしろ三日目には、ざっと算えて百名を越す有様である。
 小娘のみよさえ泣きべそをかいて、
「もう泊める所もないし、蕎麦粉もなくなった」と悲鳴をあげたから、土田衡平が、
「では、これで締切りにして、山頂の本部へ合併しよう」といいだしたが、
「それには田中君、あんたが党首になって、吾々を引率して行って頂きたい」
というので、俺としては断ったのである。
 この連中には話していないが、俺は十九の時に、野口の田舎道場をひとつ先生にも
たされて手をやき、そこから逃げ出す為に原先生にくっついて京師へ一年も行ってい
た位である。有象無象をひっぱってゆけるような、そんな面倒見のよい男ではないの
だ。
「‥‥担がれて大将になってゆくの、よす方がよいけ‥‥まんだ、おまえは若いけ。
利用されとるかも知れんけ」とみよも心配したが、まったく同感である。
 土田衡平の肚は、百名かためて連れていって、いくらかの金をとる気である。だか
ら、
「不逞な輩として、大将分の一人だけを成敗して、残りの者は分散して各隊へ入れる」
という事にもなりかねない。そうなったとき、その大将が俺だとすると、こりゃ弾丸
よけの竹束楯みたいな物になってしまう。
(いやぁな事だ)と俺は、肚の中で呟いた。
 もし成敗されなかったにしろ、交渉が巧くゆかなかったら、これまた、男を下げて
笑い者になるだけのことである。だから渋った。それなのに、
「しかしですな。百名からの人数では、隊員名簿を拵えてもってゆく以上、やはり大
将はいりますな」と西山までがいう始末である。
 そりゃ俺だって、愚図ついておれば、この連中に食させる物の心配を、もう小娘の
みよにばかりは掛けられない。何とか方法も考えねばならぬ。といって懐中は天保銭
一枚きりで、これでは話にもならない。思案に詰まってしまって、
「ああ、金がほしいのう」と、つい口から愚痴を洩らしてしまった。そうしたら、す
ぐ脇から、
「もしなんなら、この百名で山頂の義軍をぶっ潰し、百両ぐらいで勝ちを売りましょ
うか」
と西山が、そんな提案をしてみせた。
「百両で、勝利を売るか‥‥」
 高橋が怪訝な顔をすると、
「いや買うまい」と即座に土田が、首を振ってみせた。あまり話が飛躍して、俺は呆
気にとられて聴いていた。なのに土田は、
「そうだろう。まだ義軍の連中が日光山の東照宮にいた頃なら、彼処の警備御番は宇
都宮藩だ。だから百両で解決がつけば安いものだ‥‥そこで吾々が水戸幕府を包囲し
て、勝利の手柄を差上げたら、まぁ御褒美として、それ位は宇都宮の家老は気前よく
出したろうが、今となってはねぇ」と、みつ口を歪めてみせた。
 だが西山は反対して、顔を真っ赤にしてりきみながら、
「冗談じゃない。大谷川の川岸に、今でも、ちゃんと宇都宮藩は、各藩と共に御番所
を構えています。吾々は、まだ水戸幕府軍には加盟していない清浄無垢な身体だ。宇
都宮義軍という看板にして、戸田さま御手先という事にしてもらったら大義名分もつ
く。その侭、幹部の吾々は、新規御取立に預かるかも知れん」と言い出した。
「そりゃ無理だろう。場所が此処まで離れていては、そこ迄は乗ってくるまい。なに
しろ、宇都宮藩は、日光を守るために、大谷川へ布陣してるのであって、何も水戸幕
府軍を攻めに来てるのではない」と高橋は反対した。
「では勝利を得たら何処へ持って行って売りなさる。たとえ何人かは血を流す命がけ
の仕事です。子供の悪さではあるまいし、ちゃんと当てがなくてはやれるものではな
い。いくらかの金にならんと、無駄骨になってしまうではありませんか」と西山も引
き退がらない。
「そりゃそうだろうが、各藩とも水戸幕府から直接に迷惑を蒙ってる訳でもない。ど
う別に恨みはない。何も銭を出してまで、その勝利を欲しがる所は、まぁあるまい。
それに野州で、銭に余裕のある藩なんか、ありゃしないだろ」と、高橋も、それに対
して抗弁した。
「だったら、どうします。何処へ持ち込みます」と不貞くさったように西山が言うと、
「水戸城だよ」
 ずばりと土田は言ってのけた。
「まさか‥‥水戸幕府軍の首名(おとな)を討ちましたと、水戸城へ駆けつけるので
すか。そんな莫迦な、命知らずな話です。おのれ謀反人めと串刺しでしょう」と浮か
ぬ顔の西山に、
「それが、そうじゃない。昔から(親しき者こそ、もっとも敵なり)と言うが、水戸
人の最大の仇は、やはり水戸人さ。いまお山へ篭ってる連中を蔭で糸をひいて居なさ
るのは、先代斉昭さまの時の側近連中だ。数年前までは、飛ぶ鳥を落とす勢いだった
が、先君が歿って、御当代さまになると、今の殿さまの廻りの連中が勢力を得て、彼
らは権力から追われて落目なのだ。だからこそ、何とかして昔日に取戻そうというの
で、私学書生を動員して、この挙兵とはなったんだ」と土田は説明をした。
(呆れたものだ)と、俺は面喰ったまま口がふさがらなかった。
(水戸義軍へ加入にきたものと思っていたら、金にさえなれば逆に攻めこんで他所へ
売ろう)という始末では、とても、俺のような水戸人には口を挟む余地もない。
(とんでもねぇ浪士どもだ)と、まったく呆気にとられるばかりである。
 それに、俺は今ここで藤田小四郎と名乗っている小川武男と、菁莪塾で幼い時に机
を並べた事もある。だから(さすが東湖の伜だ)と感心もしていたが蔭に黒幕がいて、
(斉昭公の頃に溜めこんでいた金銀を、軍資金に出しているのだ)と耳にしてはいう
べき言葉もない。
 なにしろ小四郎を豪(えら)ものだと思っていたが、操っている連中にすれば、看
板にしやすい血脈だから立てたにすぎないらしい。もし俺の父の源之介が種痘なんか
の事でなくて、他の事件で割腹だったらば、自分が担ぎ出されていたかもしれん。と
考えると、莫迦らしくもなった。そしてそう想うと、大将にと推されて、柄にもない
と逡縦されて、せめて四五百の大将にはなろう。そんな風に考え方が変わってきた。
水戸を守ろうという用心もあった。

「結局のところ、もし攻めこんで勝ったとしたら、水戸の誰のところへ持ちこむつも
りなのかね」
 西山たちの口争いは、なかなか尽きそうもないから、業を煮やして、俺の方から決
断するように訊いてみた。
「そりゃ、本丸に居なさる御家老市川三左さまでしょうな」
と高橋が、ずばり、そのものに答える脇から、また反対がでて、
「三の丸、弘道館道場の佐藤図書どのだ。この人が官学生六百を握っている。まぁ城
内の実力者だろう」と土田が首をふった。
「いや、市川の方が格式も上だし、裕福だと聞いている。この仁は、田丸町奉行や、
その兄の山国軍さ奉行とも不仲。はっきりとした敵党の首領だ。太平山の一味を倒し
たときけば、喜んで二百金は下し置かれる。今後の忠誠さえ誓えば、水戸浪士隊とし
て、吾々の新規御取立ても、吟味して下さるとは、思うが‥‥」
と高橋はいいはった。
「冗談じゃない。唸る程に藩庫の金を貰ってるのは弘道館だ。水戸家中の有能な子弟
を教練し水府非常の際に備えるため、御城の中の三の丸に建てられたのだ。それに対
抗している行方郡の小川館を初め、潮来館、鹿島の宮中館、小沢の大久保館。那珂湊
の文武館。まだ、南石川や磯にもある私学は、先代斉昭さまが死んだあとは、お目を
かけられていた者が都落ちをして、各在郷の道場で一朝有事を期待して若者を育成し
とるにすぎんのではないか」と土田もいいはった。
「ちょっと待て‥‥」俺が話の腰を折った。
「野口の田舎道場を、俺も暫くは預かっていたが、京師へ行っていて弘道館対在郷諸
館のあつれきは余り知らん。判るように教えてくれ」
 水戸人の俺が他国者の浮浪に聞くのは妙な話だが、えてしてこういう話は、国外の
者の方が、よく知っているらしい。土田や高橋達にしても、慢然と野州まで来たので
はない。彼らなりに研究して、加盟したら立身すると、見通しが立たねば、ここへは
来ていない筈である。
「では、かい摘まんで申し上げます」と、西山が割りこんできた。なにしろすぐ出し
ゃ張って、よく喋舌りたがる男である。
「官学といわれる水戸三の丸の弘道館は藩庫の莫大な補助をうけてますから、費用は
ほんの名目で、一切合財が水戸家の負担です。だが入館基規定が難しく、当代さまの
御世になってからは、城内本丸で睨みを利かしている市川三左の率いる結城党の子弟
しかここへは入れないのです。まぁ、御高も二百石上取りの、藩では上層の身分の者
ばかりです‥‥それより身分の低い者や、先代さまに贔屓されてた衆の子弟は、止む
なく城下の町道場や在郷の諸館へ留学するしか途がありません。それらは、先代さま
の死後は、藩庁の助成金のない私学になっていいますから、束修つまり月謝で賄れま
す。官学の教授方は、お扶持として月給を殿より頂いているが、私学の先生は、生徒
の月謝で、その月々の物を受けねばなりません。かつて先代さまの頃は弘道館で教鞭
をとり、今は在郷へ行ってる先生など、五分の一
 にも収入が減っているそうです。まぁ先生の待遇も雲泥の差のところへもってきて、
館生の扱われ方も、これ又まるきり違うんです。名目だけの月謝しか納入しなくとも、
弘道館の方は試験日には、選抜された者が出府して、小石川藩邸の殿さま御上覧で技
を競います。一等になった者は勿論ですが、二等、三等でもお目見えを賜るのですか
ら、無禄の者は新規五十俵から百俵まで取立てられ、馬廻り組身分として御番へ出ま
す。なにも一位にならなくても、選抜されただけで新規御取立の栄が頂けるのです。
つまり将来が保証されるのです」
「そうか‥‥」
 俺は思わず溜息をついた。弘道館の話を今まで耳にしないではなかったが、彼処に
さえ入学していたら、心正館で目録を受けたくらいの俺だから、尠くとも二位や三位
には入賞したであろう。そうすれば、なにも十人扶持の足軽の娘に、穴のあいてる顔
を、余計にまた孔があく程じっと視られんでも好かったのである。
(いやぁな感じ)といったものを、俺はひしひしと身にしみさせ、不快なおくびをも
らした。なのに西山という男は生まれつき多弁なのか、人の気も知らずに、
「‥‥ところが私学の方は、在郷諸館にしろ御城下の町道場にしろ、選抜で一位にな
った者に、御目録。つまり紙一枚の褒美です。この正月、武田伊賀守耕雲斉が(先代
様の思召により)と仰せあって、斉昭さま御手許金の残りを、文武、潮来、小川、各
千名以上在学の諸館に限って巡視され、二百両ずつ下されました。それからは、各館
ともに、一等賞には、副賞として金一分の酒料を賜るようになりましたが、弘道館の
方の新規御取立扶持百俵と金一分では、それでは差がありすぎます。ですから小川館
から旗上げした藤田小四郎の、挙兵趣意書にも、『官学、私学ともに、選抜は合同に
てなされたく。一位の者は微禄にてもよろしく、新規御取立願いたく候』と、はっき
り申述べています」
と聞きたくもない事を、滔々と喋舌った。
「ほう、すると前の御重役衆である首名(おとな)衆の武田さまなどは、不平分子の
私学党を煽動して、蹶起させたつもりだろうが、藤田君たちにしてみると、武田派が、
現在藩政を押さえている市川派を追ったら、官学、私学の差別待遇をはずさせ、試験
は同一にやらせて、成績の好い者は、私学出身でも登用の途をひらくようにと、これ
は、私学派の全学連の蹶起ということになるのか」
「そうなんです。ですから、この野州太平山へ立てこもった連中に対して、いま一番
の反感を抱いているのは弘道館の官学書生です。選抜といったってこれまで殆ど情実
で実力のない者も選ばれ順ぐりに小石川へ伺い、そこで次々と新規の御扶持を受けた
のですよ。それが官学私学合同で、まともに試合などしてみなさい。田舎で明け暮れ
竹刀を振廻していたのや、野原で、生きた兎を撃ちまくってた連中に、とても弘道館
の者は勝てっこありません。ですから、不逞な輩を叩きつぶして、官学の誇りを守ろ
うと、みんな切歯扼腕、眼をいからせているんです。つまり水戸の全学連の主流派と
反主流派の争いが、この蹶起なのです」
「なにも、君が弘道館の書生でもなかろう。そう、むきになりなさんな。唾が飛んで
仕様がない‥‥なにも吾々は水戸の全学連ではない」
 土田が苦笑して、手をふるくらい西山は熱っぽく喋舌った。
「判ったよ」俺も頷いた。
「土田君が弘道館へ売込めと言うもんだから、最初は呑みこめずに、意味が判らなか
ったが、そう聞けば、反主流派の藤田君らの首が一番ほしいのは、水戸城三の丸の全
学連主流派の連中だね‥‥弘道館の書生共は、自分らの出世の妨げになるもんだから、
目の敵にしてるんだね。だったら、俺も私学派の心正館の出身だ。紙きれ一枚の目録
しか頂いていない立場だ。とても、そこまで詳しく判っては反主流派の山頂の連中は
殺せねえ」といきまいた。すると、
「無益に殺生はしないが好い」ふいに、高橋が顎の傷をつきだした。
「俺の此処をやった奴、相討ちみたいな恰好で、ぐさりと往生させてしまったが、こ
の傷痕を撫ぜるたびに、時々ふっと目頭に浮かぶ。あんまり人殺しってのは好い気が
するもんじゃないですよ」
と、そんな打ち明け話をしだした。
 すると西山が、負けずに薄い眉をつき出して、
「僕だって、夜ねる時なんか、今まで手掛けてしまった奴らの顔を、時々憶い出し、
夢にまで見ます。戦もいかん。人殺しもいやなもんです」と殊勝らしく話を合わせた
が、それでも後は、
「だが、とれるもんなら百金ぐらいは頂きたいですな。なにしろ僕は一文なしだ」
と、まだ未練たっぷりにいっていた。
 しかし、いつ迄そんな話をしていても、きりがない。といって、表参道をだらだら
昇っていって、百名をひきつれて、俺は藤田小四郎に頭を下げて加入させて欲しいと
いいに行くのもいやだった。
「‥‥革命の予行演習だ。明日の夜明けにワアッと本陣へおしかけ、そして強談して、
いくらかでも入隊費をせしめようじゃありませんか」と、俺の顔を見ながら土田が結
論をだしてくれた。
「うん」俺も、すぐ承知をしてみた。

「よかろう、鬨の声をあげ申そう」
 土田が、呼子笛を、ぴーっと鳴らした。
 裏山に分散していた西山の隊が、
「うおーっ」と、手順のように鯨波(げいは)の第一声をあげた。朝霧をついてよく
聴こえた。
 三回くり返して、一と休みすると、暗い裡に、三光神社の周囲に這わせておいた高
橋の隊が、舞蔓(まいづる)草の叢から、これも肝高く、
「だあーっ」と、声音を変えた鯨波を、つづけて叫んだ。
 朝の静寂は破られた。山頂から麓めがけて、逆に鯨波をあげているから、これが跳
ね返って木魂になる。つまり倍余に響く訳だ。
 つまり二種類の声に、いりまじって、異様な音響までが境内の杉木立に跳ね返って
冠さってきた。
「さあ」と土田は促した。俺は頷いた。
「早朝ながら、頼もう」
 俺が率いる三十人が、これまた異口同音に揃えて大声をはりあげ怒号した。
 社務所の本営から二、三人顔を出したが、すぐ引っ込んでしまった。石段下の宿舎
になっている旅篭の小松屋と亀屋から押取り刀で三十人ほど、わーっと駆け出しては
来た。しかしである。
 掛って来るかと身構えたら、此方が槍先を揃えたのに気を呑まれたのか、まるで野
次馬のように、石段の中途で立ち止まってしまって佇んだ侭である。
 鍋山から皆川連峰に金色の雲が漂っているのに、まだ本営は、ひっそり閑としてい
た。「やりましょう。踏みこめば此方のものだ」
 昨夜の打ち合わせで、一切は臨機応変。出たとこ勝負で片をつける規約になってい
た。だから、この手薄な防備をみて、土田は功名に焦ったらしい。派手にやりたくて、
うずうずしている。
 初めの裡は、もし取り巻かれたあら、掛って来られたらと、びくびくしていた隊員
も、そっと石段を這って覗きに来る向こうの有様に、すっかり自信をつけ昂然として
いた。だから土田は、
「じゃ、押しこみましょう」と笛を咥えた。しかし、
「やめろ‥‥」
 俺はとめた。昨夜いろんな話は出たが、本当に討ち込んでしまう決意までは、同じ
反主流派の私学出身として、俺にはついて居なかった。
 それに私学派の全学連となれば、野口の時の教え子もいるかも知れない。同じ書生
っぽで同志討ちなどやれる筈はない。浮浪の連中は、金になったり立身できれば、そ
れで好いだろうが、俺は、そう身軽ではない。ちゃんと母の眼が水戸から光っている。
 なにしろ亡夫の食禄をまた返して頂くために応募させた伜が(あべこべに攻めこん
だ)などと聞いたら(あの母のことだから、縄をもってきて、俺の首を引っぱりに来
るかも知れん)此処は攻め込むより、母に言われたように、まず無難に入隊するのが、
道だと俺は慰撫した。
 すこし渋い顔をして、みつ口に呼子笛を当てていた土田も、そう聞かされると、
「いいでしょう」と納得した。そこでまた、
「頼もう」を声を揃えて繰返していると、
「おぬしら、なんだ」
 どやどやと白面の若者を先頭に現れてきた。
「入隊希望の者ですが、折入って話があります」俺は成人した藤田小四郎を正面から
初めて眺めた。鼻の型が、置物のように整っていた。
「ふん」じろりと見下してから、
「あんたら悪い人たちだ。人の寝込みを襲って試験しましたね」そこで皓い顔をみせ
て、屈託なさそうに、小四郎は続けて、
「見事、落第というところですかね」と自分から笑顔になった。
 釣られて、俺も、騒々しい真似をしすぎたのが、照れくさくなって、頭を掻きなが
ら、
「‥‥昔、菁莪塾で同門だった者です。今は水府下市に仮寓する故田中源之介の忘れ
形見。同苗源蔵です」と此方から名乗った。
「おう。こりゃ奇遇。久しぶりでしたな。覚えています。それにしても、有名な立て
腹切りの伜どのか。僕も父(てて)なし子の小四郎です」
 作り笑いから一変して、面でも脱したように気易く答えた。やはり踏み込みを掛け
なくて良かったような気が俺にはした。
「まあ、みんなは無理だが、せめてあんたら二人だけでもあがってくれ」
と小四郎は、俺と土田を案内した。そして、
「三段構えですな‥‥あんたらの中には、大和五条か生野銀山の生き残りが混じって
いますね」と、この全学連の委員長のような青年は勘のするどいところをみせた。
(この土田衡平がそうだ)と紹介しようとしたが、本人が袖をひくから止めにした。
「‥‥ここに居る田中隊長は、やはり水戸人ゆえ、手弁当でも好いから、此方へ参加
して、やはり私立の心正館出身として、官学の弘道館の諸[書?]生共と一戦を交え
たい気組みらしいが、なんせ従う吾らはみな他所者でござる。元結一本、剃刀一挺も、
銭を出さねばならぬ連中でござる。一人ずつに分けて下すっても結構。隊として、ま
とめて下すってもよろしい。何卒、吾らには別に手当を頂かして欲しいのでござるが
‥‥」
と、いきなり土田衡平が要旨を先にいいだした。
「へえ。銭をとろうと朝っぱらから叩き起したのかい」
 小四郎は、早速いやな顔をした。
(この男も俺と同様に、感情を直ぐ出して仕舞う。やはり若いな)と親近感を抱いた。
噂では、一と癖も二た癖もある、すれっからしと聞き及んでいたが、逢ってみると直
情そのものである。
「一文にもならぬ事を、誰がする‥‥とも言います。まぁ出してやって下さい」と、
土田は言葉づきを変え、掌までつきだした。
「あんたらのように葵の紋章つけた幕をはれば、これに手向かう奴はなかろうと、見
張りの警戒兵も立てずに、ぐうぐう高鼾をかいて寝てる衆には、二百や三百の端た銭
で、光棍無頼(こうこんぶらい)、つまり博奕打ちや目明かしの手先になって、命を
はって喰いつなぐ浪士の懐ろなどは判らないでしょうが‥‥なにしろ、みんな空っけ
つなんです」とつけ加えた。
「ふん」小四郎は、鼻先であしらった。
 が、落ち着きを見せてるつもりでも、頬が紅潮していた。気の毒になって、俺は眼
をそらせた。
「鯨波の声はやめさせたが、囲みはといていない。話がつかなけりゃあ、ここへ押し
こむ段取りなのかい。居直りだね」
と小四郎が腕をくむと、土田は、
「‥‥町奉行やお城から長持で、もち出してきなすった葵のご紋章入りの提灯やら皿
小鉢まで、相当の高値で町人や百姓に宝物として渡し冥加金をとっていなさる軍資金
の中から、ほんのすこしだけ、頂かせてやって下さい」
と、そんな口のきき方をした。
(よくもまあ近在の村方を、そこまで調べてきたものである)と、俺も土田には呆れ
たが、
「‥‥いや、あんたは、豪い軍師を連れてきましたねぇ」と藤田小四郎も目をむいて
しまい、
「そう内兜を見透かされてしまっていては、こりゃあ、なんともなりませんな。もち
ろん出しますよ」
 照れた小四郎は、うつむいて具足の青い革紐を弄んでいたが、立ち上がると次の間
へ消えた。そして蒔絵の手文庫を持って出て来ると、切餅とよばれてる二十五両包み
を一つ、取出して前へ置いた。
「もっと出してあげたいが、なにしろ人数が多いので、雑用に追われているんです。
これは僕の納戸金。機密費の有りったけです。金の為に、君らと一と戦したくもない
し、また僕らは、有能の士を迎えるために、銭を惜しむ者ではない。ただ断っておく
が、この金も、次に渡す分も何も脅かされたから出すのではない。同じ私学出身で水
戸学派の反主流派の吾々が同志に送るものとして受取って頂きたい」
 藤田小四郎は。そんないい方をつけ加えた。
(それでは困る)と受取らないかな。と俺は土田の方を横目でみた。だが、
「忝けない」とばかり、さっきまで派手にやりあった土田は、けろりとして押し頂い
ていた。眼の前に現金を見せられると、まことに他愛ないものである。何喰わぬ顔を
していた。
 俺も、土田が受取っているのを見ると、吻っとして、これで肩の荷をおろしたと、
「済まん、ことでした」と、この青年に、ぺこりとお辞儀をしてしまった。