1019 元治元年の全学連  4

 麓から頂上へ登ってくる参拝道は、裏坂は曲がりくねってはいるが、表は一本道だ
った。
 もちの樹が向き合ったように二本並んでる根かたが、見晴らしもきいて恰好だった。
 茶店から借りてきた蕎麦卓と空樽を、そこへ並べた。書いてきた「受付所」の札を、
よく視えるように下枝にぶらさげた。
「遠慮せんでもええに」と朝飯をくわずに出てきた俺に、娘が土瓶と竹皮包みを持っ
てきた。
 向こうも気まずそうに顔が合うとぺこりと頭を下げた。そして、何か言いたげだっ
たが戻っていった。俺は、うつむいたきりだった。
 後姿が視えなくなってから、俺は包みを開いた。そして、まだ温かい握飯を頬張っ
た。すると、そのうちに空が白っぽくなって、あたりは、すっかり明るくなった。
徴募らしい若者が、槍を杖に登ってきた。
 周章てて土瓶の口から渋茶をのみほしていると、二十五、六の飛白(かすり)の男
が、管槍を担いで近づいてきた。
「‥‥入隊のお申込みかね」と声をかけてやると、
「はい、西山常蔵です。青勝流の槍術を得意とします」
 威儀を正して、俺に叮重な敬礼をした。
 まさか藤田小四郎には見間違えられはしまいが、隊の幹部とは思いこんでいるよう
だった。
「貴公、朝飯は」と残りの握飯をひとつ与えて、渋茶を、口から飲めと手真似してみ
せた。
「これは、これは‥‥」と、その男は頭を下げ、本当に嬉しそうに押し頂いた。どう
も男は誰でも、喰物には弱いようである。まるで昨日から喰っておらぬようなむさぼ
り具合で常蔵はたいらげた。
 指についた米粒も、きれいに唇でとってから、ぬるい茶をゆっくり口呑みに呷った。
「さすがは義軍‥‥こんなにまで吾ら浪々の士を大切に受付けて下さるとは、思いも
よらん事でした。来て、身を投じて好かったと思います。感慨無量です。常蔵は、隊
規を守って奉公します」
 能弁な青年は、あるかないかの薄い眉をはって、一息にまくしたてた。
「待ってくれ」俺は堪りかねて、途中で彼の口を封じた。此方の話もしたかったから
である。なのに次々と、
「お願い申す」と続けて二人。顔を揃えて会釈しながら、近寄ってきた。
「矢島藩浪人、土田衡平、二十九才」
「苅屋藩浪人、高橋幸之介、二十七才」
 土田は、みつ口で眼がけわしく、高橋は顎の上にえぐれた刀痕があった。それをみ
て、
(俺の事を、あの蕎麦屋の小娘は悪党づらと決めつけたが、こいつらの方が面だまし
いは凄まじい)と見かけだけで気に入った。
 今まで、べらべら弁口をまくしていた西岡常蔵にしても、見比べて顔をよく覗きこ
むと、眉毛がうすいので、なりん坊づらである。
(こりゃ似合いの顔ぶれだ。好かろう)と思わず、にやにやして満足したから、
「俺は田中源蔵。水戸で名高い立て腹切りの田中源之介の忘れ形身だ」と名乗りを、
まずあげておいてから、三人をゆっくり改めて見廻して、
「俺も実は、昨日、徴募に来た身だ」と、そこで打ち明けた。
「えっ」と西山がまず面食らったように、
「では、隊の豪い人ではなかったのですか」と、まだ手にしていた空の土瓶を戻しな
がら言った。
「あた棒さ。えらいも、えらくないも、昨日一日、山の上で陣屋を見てまわったが、
入隊するかどうか迷ってしまって、まだ、その侭さ」と、俺は町道場だから、口も悪
ければ柄も悪い。ざっくばらんい凄味をきかせて教えてやった。
「山頂の士気はどうでござった」
 高橋が、空樽に勝手に腰かけて尋ねてきた。うっすらと月代に刀痕があったが毛で
隠れていた。
「紅白の小旗をさして、お祭り気分だわ。あれじゃあ、どかーん一発、大砲でも射ち
こまれたら、蜘蛛の子を散らすみたいにふっ飛んで逃げるだろ‥‥まあ、それも好い
としても、一人ずつで、てんでに入隊したら、百姓上りの若者と一緒くたにされて、
藩の者に尻をどやされ走り使いか、番兵だ。手柄でも立てりゃあ、お取りなしで出世
でもしようが、そんなのは、まだろっこくて、ずっと、もっと先の話だろう。‥‥な
にしろ、事は最初が肝要じゃないかね」
と、俺は三人に言ってやった。そして、
「なにしろ思ったより人数が集まらなかったからと、藤田四郎の名を小四郎とするく
らいに、向こうでは頭を悩ましているんだ‥‥単身で加盟して、向こうに牛耳られる
手はない。こりゃあ、五人でも十人でも仲間を伴って集団入隊するに限ると、俺は思
う。その中で一人でも腕の立つのがいたら、それが他の者も庇うし、他の者も、それ
を軸に団結できるというもんだ」と、また続けてみた。
「気に入った」
 みつ口の土田衡平が、やっとものを言った。
すると、顎の傷痕を無意識に隠すように撫ぜまわしていた高橋が、顔をあげて、
「俺も賛成」と相槌をうち、
「旅は道づれ、世は情けというが、人間一人では、なかなか世渡りはむつかしい。魚
でも拙者らのような雑魚は群れをなして泳いでいるほうが良かろうというもの。是非
とも加えて頂きたい。まぁ何かにつけて心強いし、利便もある。同志‥‥ということ
になるのかな」と、照れながら笑いかけた。
「よかろう」
 土田は直ぐ重ねて同意した。すると、声を落して、高橋がもそもそと長話をはじめ
た。
「拙者が聞いたところでは、行方郡小川館道場にいた藤田小四郎が、書生連千名を率
いて、旗上げしようとしたところ、道場師範代の太宰清右(せいえ)に反対され、幹
部の宮本主馬も、いざとなると後難を惧れて取りあわず。‥‥こりゃ自分が年若で人
望がないからだろうと、小四郎は、藩内でも人望のある町奉行の田丸を説得した。田
丸のほうも『小川館と潮来館の両道場から、二千も集まっている』と聞かされて、そ
の気になって、腰巾着斎藤佐治右を伴って、さて田丸が府中へ行ったところ、話と違
って集まったのは六十三人きり。(これでは仕方がないから、解散しよう)とも意見
が出たそうである。だが小四郎が強気で、(在郷の道場に集まっている郷士や百姓の
書生共が、そんなに腰が重いのなら、御城下の若者を糾合しよう)と、四年前に歿っ
た先君の木像をこしらえ、これを神輿にのせて、祭壇にまつったところ、先君斉昭公
の遺徳を慕う藩の若者が筑波山へ集まりだした」
という話だと、なかなか詳しいことを知っていた。だから、つられて、
「‥‥その像が」と、俺も口を挟んだ。
「いま山頂の三光神社の拝殿に置いてあるが、まぁ木彫りの雪達磨といったちゃちな
ものだ。大急ぎで俄か作りに素人が手斧を使ってやったのだから、致し方もあるまい
が、とんだものだ」
と、俺は蔑すむような口ぶりをしめしたが、それに合点をしてみせたのは、握飯を一
つ食させてやった西山常蔵きりで、土田の方も義理みたいな顔をして、ただ聞いてい
たにすぎない。
 だが、高橋の方は、木像の出来がどうであろうと、そんな事は係りがないと言うよ
うに、俺が口をつぐむと、続きをすぐ喋舌りだした。
「‥‥なにしろ頭数が、二三百人も集まったから、藤田小四郎は気が大きくなった。
(筑波山より、どうせ、立てこもるなら、日光が好い)と言い出した。‥‥なにしろ、
東照宮のまつってある関東の要害。ここなら、まさか追討の軍勢も来ないだろう。つ
まり、(神君家康公の廟に向かって、発砲したり、刃をかざすような不所存者はおら
ぬだろう)というのが作戦なのだ。考えたものだ」
と唸った。
 すると、
「その先は、俺が詳しい」と西山が換った。そしてあるかないか薄毛の眉をつりあげ
て、
「なにしろ、入隊しようと思って、今市まで行ったが、大谷川の渡場で、大砲をひい
てきた藩兵にさえぎられて、とうとう加担できずに戻され、改めて今日また出直して
来たくらいなんだ」と説明した。
「そりゃ随分と骨折りをしたものだ」
 途中で話を折られたから、高橋がむっと横から口ばしを入れてきた。だが西山は、
てんで耳へ入らないのか、知らぬ振りをしたままで、得意そうに自分の見聞談をまく
し立てた。
「‥‥山田一郎というのを留守隊長にして、これに後を委せ、自分は二百人にふくれ
上がった連中を引っぱって藤田小四郎は出発したが、宇都宮の城下へ出ると、七万七
千八百石の戸田因幡守さまのお城へ『お味方して頂きたい』と田丸に行ってもらう事
にした。だが事大主義の田丸は、自分が出て行っては軽く見られると、渡辺佐治を代
理に向けたいと、まぁ言い出した。すると渡辺一人では心許ないと思ったのか、小四
郎が同行した。そしてふるなの弁で捲し立てたが、応対に出た家老の県(あがた)勇
記、戸田小膳は、てんではっきり返答をしない。そこで、すっかり業を煮やして今市
の宿場へ入ると、小四郎は日光御奉行の役宅へ行った。
 この奉行役というのは、神田小川町のお旗本で五千石どりの太田隠岐守という人が、
ずうっと勤めていたが、先年、御役替りをして、まだ若手の小倉但馬守さまが、御役
料五百俵の、ここの奉行になられたばかり。それなのに、天から降ったか、地から湧
いたか。ご門前に書生が詰めかけたから、これには愕いたらしい。それっというので
支配組所の中沢又次郎も狼狽して、お山の手代、同志を呼び集めた。なにしろ組頭の
宮村勇蔵というお旗本が、病気か何かで永田町の自宅へ戻って、こちらに不在だった
から、とんだ大変な騒ぎになった。山には日光火消の御番頭という御役があって、組
頭五人に同心四十五人を従えるわけだが、三月、九月の半年交替になっていて、丁度
運悪く、御番交替の最中で責任者がいない時にあたっていた。だから肝煎の四百石取
り窪田助の丞が人数を掻き集めたが、これは山内の防火の御用だから、奉行の役宅へ
合力に廻せない。そこで断わられた小倉但馬守は、三十人といない山役人では、とて
も奉行の威光も示せないから、途方にくれていると、そのとき、裏口から宇都宮藩の
家老が訪れたと知らされた。逢ってみると県勇記だった。『お山が気になるから、水
戸の連中の後を、旅の者のように、見え隠れついてきた』とのこと、『ならば、すぐ
人数を合力して助成して欲しい』と奉行は言ったが、『お山へ人数を繰りこませるに
は、大公儀の沙汰を頂かねばならぬ』と県勇記は渋り、そこで額を集めて、みんな
で相談した結果、麓には戸田の兵を出して県がこれを包囲する。日光奉行の方は、組
下の警固役人が二十八名だから、水戸人を十八名ずつに区切って、山門の中へ入れる。
‥‥なにしろ参拝したいという向こうの申し出だから断わることは出来ないが、一度
に入り込まれて御廟を占領されでもしたら大事だから、十人だけ入れて、それを出し
てから、また十名を区切って入れる。まぁ二十八名が御廟の中で頑張っているのだか
ら、十名単位なら、よも占領されまいと、勘考したらしい」
と、ようやく口をつぐんだ。
「‥‥そうか。それで時を稼がしておいて、太田原の太田原飛騨守とか黒羽の大関伊
予守や、喜連川の佐兵衛督(すけ)をすぐさま動員させ、翌日は、野州だけでなく上
州の沼田、高崎、本庄の兵まで防禦に集めたのか‥‥まぁ旗本の奉行の仕事ではなく、
宇都宮の家老の県勇記の采配であろう」と土田衡平も頷いた。
 西山常蔵は、それに、さも同感だといわんばかりに、こっくり合点をしてみせてか
ら、また、
「‥‥滝河原峠から、ずっと鴨虫山の麓まで、ずらりと各藩兵で充満して、大砲まで
玉ごめして何門も並んでおった。それで、俺らのように集まってくる浪士は、みな追
い払われてしまった。なにしろ集合しているのは二百人と聞いているのに、囲んでい
る人数は一万も越えとる。これでは、てっきり早晩全滅だと見通しをつけて、帰って
しまったのよ」
 さも無念そうにつけたした。西山にしてみれば、その時入隊しておけば、人数も僅
かな時なので、とうに頭角を現して、もう一方の隊長ぐらいには昇進しておったろう
と、それが口惜しそうだった。
「ふん。大谷川の線で、各藩兵が構えているから、日光を引揚げて、東照宮の末寺の
此所の大平山へ引越したのか。さすが藤田東湖先生の血をひくだけあって、若干二十
三才にしては、藤田小四郎は、ようやるのう」
 高橋幸之介は、すっかり感心をしていた。
 しかし土田の方は意外そうな顔だった。
「戦わずに背後へ逆戻して重囲を脱したわけか。道中で耳にしてきた話では‥‥水戸
義軍は、諸藩連合二万の大軍を打ち破り、常州から野州まで、ことごとく占領と聞い
ていたが、有りの侭は、そんな所か。まぁ、いろいろ教えてもらって、思案もできる
と言うものだ。だが、ついでに教えて貰いたいが、ここの水戸義軍ってのは、一体な
んの軍だね」
 土田に改まってそんな具合に尋ねられると、俺も当惑した。
(此所へ入隊すれば、水戸の殿さまから、行末は、亡父のお禄が戻して頂けると言う
のだから、やはり水戸さまの軍だろう)と、俺は想う。つまりは先代さまんP御遺志
を崇び(常陸三十五万石を守る護国隊だろうではないか)としか考えられぬ。それな
のに西山は、
「こりゃ大公儀へ、じかに取立てて貰おうとする挙兵らしい。だから東照宮さまの在
る所だけに固まって、先代さまと御神君を守護してる‥‥」
と言った。すると高橋は大きな声をはりあげ、
「それなら良い。上方みたいに『天朝さまの為の旗あげ』なんてのはてんで駄目だね。
目先は変っていて珍しいが、とんと人が集まらねえ」といった。
「そりゃ、そうだろ。昔から四国の奴らは、時々、天朝さまを担いで旗上げするが、
とんと勝ったためしはねぇ。ましてや此方は東国だよ。場違いだ」と西山も同意した。
「其処なんだよ。儂が耳にしたところでは、井伊大老を討ち、また坂下門で御老中安
藤対馬を襲った水戸人が『反徳川(とくせん)の旗をあげての挙兵』と話が伝わって
いるから、参加するかどうか、そこを危ぶんで、まぁ瀬ぶみに来たのさ」と土田衡平
が、用心深くうちあけ話をした。
 せっかく水戸さまの為に集まったこの太平山の部隊が、由比正雪みたいな謀反人扱
いでは、これは困った事だと、俺は眉をしかめた。すると西山が、
「俺も浪々中の身ゆえ判るが‥‥」と照れながら、
「みんな事あれかしを望んでいるから、まるでこの義軍が、天朝さまの為に討幕を志
すように、取り沙汰してる輩も、外部にはいるにはいるんだろ。まぁ、そういう手合
いは、それで人心を脅して飯の種にしてるんだろうがね」と言った。
「それで安心したが‥‥先代斉昭さまの御遺志ってのは、養子に出された因幡、岡山、
一橋の三家を糾合して、それで天下を乗っ取る事なんだろ」と、土田が、俺には考え
も及ばぬ事を、しゃあしゃあと付け加えた。

 話しこんでいるうちに、高木晴雄という郷士あがりとはいうが、肥(こえ)臭い若
者を頭に五人も、また増えてしまった。
「諸君。腹がへったろう。太平名物の、ここの芋そばを馳走しよう。すこし、えごい
が、そこが風味だ。」
 腰かける空樽も不足して、どかどかと叢にしゃがみこんでる連中に、俺は声をかけ
た。
「行ってらっしゃい」と、ぺこりと西山が頭を下げ、「わたしは皆と違って、握飯を
たらふく、もういただいている。あとで結構です」
 この中では先輩だと、留守番役をひきうけた。一個の握飯をたらふくとは、大げさ
なと苦が笑いをしたが、よく弁口のたつ男である。
「では西山君、あとを頼む」
 俺も大きな顔をして「受付所」と紙を貼りつけたもちの木蔭の席を彼に譲った。
「心得ました」
 今度は叮寧に、お辞儀をした。成程、要領がよく如才のない男である。あれなら平
隊士で入っても、すぐ目をつけられて役付にはなれようと、俺も感心した。
「‥‥ついでに本陣をみてゆこう」
と土田衡平が先頭になった。俺は昨日あんな些細なことで見廻組の連中と渡り合って
いるので、どうかとも思ったが、刀を抜いているわけではない。たかが棒でぶん殴っ
てやっただけである。構ったことはあるまいと、
「案内して見せてやろう」と、俺のほうが先に歩きだした。
 参道をまっすぐに登ってゆくと鳥居がみえ、昨日と同じように紅白の旗がひらめい
ていた。
「ほう、あちらもこちらも旗が多いが、それより葵の御紋だらけだ」と土田も眼をみ
はり、
「こりゃ天下を取る話より、差詰[さしず]め、まぁ水戸の御家騒動棚‥‥先代さま
に寵愛されて、もはやご当主の殿には遠ざけられた連中が、昔を今になす由もがなと
いう一揆じゃろが」と忍び笑いを、みつ口から洩らした。
 なにしろ社務所の本営から、宿舎に当てられた宿坊まで、紫や水色の葵御紋の幔幕
がひきめぐらしてあるのに、いささか面喰ったらしい。
「錦の御旗でも、ひるがっていると思ったのかね」
 俺はその口のきき方で、みつ口の三十男をからかってやった。しかし当人は、
「やはり土地柄だのう。大和五条の出兵の時は、錦旗の他に、菊水の旗が、人間より
も沢山、立っとったそうだ」
 感慨深そうに唸って、あたりを伸び上がるようにして見廻した。だから、俺は、
「関東と関西では人が違うんじゃ‥‥西では錦旗や菊水の旗にご利益があっても、東
国ではいかん。そんな旗を揚げたら、集まった者がみな退散してしまうわい。‥‥な
んで、此所はご府内から三十里。葵の御紋は、ご威光ものよ。これに向かっては、鉄
砲も射ちこめねぇのが、ご定法。おかみ御威光というものだから、罰あたりはしない
ものさ」と教えてやった。
「そうか‥‥山役人も、葵紋を張りめぐらされては、天下ご威光に叩頭して、恐る恐
る幕の中へ入らねばならぬと言う仕組みに、こりゃなってるんだな‥‥」
 愉快そうに土田がくすくす笑った。そして、
「日光の東照宮から追われたというのに、二百の人数が、今は五倍にも増加したとい
うのも、これ一重に、この葵のご紋章のおかげだね」と頷いた。
 なにしろ水戸は御三家の一つだから、将軍家同様に、三つ葉葵ではないが、葵が御
定紋。俺なんかは水戸の者だから、子供の時より、散々見なれていてなんとも思わな
いが、他領のこの辺りでは、葵紋は畏れ多くて、
(直接(じか)に拝むと、眼がつぶれる)
とまで勿体ながれているようである。
 町奉行の田丸が、役宅にある催事の時の幔幕をもち出してきて、これをずらりと張
りめぐらした才党。ご威光を、まんまと巧く使っているやり口には、言われてみれば、
成程と俺も感心させられるものがある。そこで、
「田丸さんにしろ、若い藤田小四郎にしろ、こういう方策を考えついて、臆面もなく
やってのける心臓ってのは‥‥やっぱり豪いというんだろうな」と、つい口にしてし
まった。
(此方へ移ってから、増加したという八百の隊員は、浮浪の者も混じっていようが、
あらかたは近在の郷士や農家の次男、三男の書生っぽだろう)
と思いつくと、葵の御紋に錯覚を起して、忠実に奉公すれば水戸家ではなく、江戸の
公儀直参にでも取立てられると、彼らは真剣に思っているらしいと、俺にも思いあた
るところがあった。
「‥‥でなかったら昨日でも、あれだけ力量の差があるのに、俺に手向かってくるこ
とはあるまい」
と思い出して俺は苦笑した。

 蕎麦屋の店へ三人をつれこむと、
「おう、一杯ずつ出してくれ」と、俺は、なけなしの天保の当百を卓子の上へおいた。
 今朝は、まめまめしく空樽を腰かけに貸してくれたり、結飯や渋茶を出してくれた
小娘だが、その後になって、またどう心変わりしていないでもないからと用心したの
である。
 しかし小娘は側へよってくるなり、
「水臭いこと、せんどき」と、その天保銭をぽいと此方の袂へ戻してよこすと、いそ
いそと蕎麦を四つもってきた。どうも昨日より分量も多かった。
 しかし三人の者は蕎麦どころではなかった。それより外部を気にしていた。
「成程、槍は揃えてるが、鉄砲はすくないね。殆ど持っていない‥‥これじゃ戦はで
きまい」
 油障子の間から、鳥居を透かし視て、巡邏の隊員を、そっと高橋が顎でしゃくった。
言うとおり、五人一組に一挺あるかなしかの有様だった。
「これでは、わぁーっと、夜討ちでも掛けられて、包囲されたら、ひとたまりもある
まいに‥‥」
と、高橋は首を傾げていたが、紅白の旗を視ると、やはり馬鹿にしたように、鼻先で
せせら嗤った。
 誰の想いも同じとみえ、土田も、それに合せて、
「へっへ」と声をそろえて失笑した。だから、
「一人ずつで入隊してみな、ああやって旗をつけて歩かされるのが‥‥落ちである」
と、俺が指さしていると、
「ちょっと‥‥」小娘が囁いた。吃驚して、
「なぁんだ」と振返ったところ、まだ箸のつけない目の前の蕎麦を指さし、
「この青い丼だけは、底に生卵を落したるで」と知らせた。やめてくれと言いかけた
が、うっかり口答えして怒らせてはいけないと、またこの小娘と言い争いの愚をさけ
るため、俺は、
「済まんのう」と箸でかきまわした。卵の黄身が、まるで浮き上がるように、黒っぽ
い蕎麦の上へのし上がってきた。
 高橋や土田も真似をしてかきまわしたが、これは入っていないから出てくる筈もな
い。
 詰まらんことだが、こんな差がついたのが反ってよかったのかも知れぬ。二人とも、
「頂き申す」と、俺に会釈して蕎麦を啜った。しかし、丼を空にした頃に、
「‥‥受付所へ参った応募の者です」
と、留守居をさせていた西山常蔵が十一人ばかりの者をつれてきた。
 蕎麦屋の店内では、まさか食させないというわけにはゆかない。俺は小娘に、
「みんなにも振舞うてやれ」といった。しかし心配して、
(何かいうかな)と気にしていたが、格別、口ごたえもせず、
「はい、はい」と小娘は他(よそ)行きの言葉をだした。そして一人でふうふういい
ながらも、次々と丼を運んできた。
 しかし、留守居を交替して降りていった高橋が十三人また連れてきた。土田が換っ
て受付所へゆくと、これも日没までには、その位の人数をつれてきた。別にかり出し
たわけではないが、応募にこの太平山にきた連中が、山頂の本陣より、中腹の受付所
へ集まってしまったのである。が合計三十七名とふくれあがると、なにしろ天保銭一
枚きりの俺には荷物になった。
(どうしたらいいものか)と思案していると、小娘が、それと察したのか、
「米の二俵や三俵は近在から借りられるし、この騒ぎで客がなかったから、蕎麦粉が
五俵もある、心配せんと委しとけ」といいにきた。
「うん」としか、俺はいいようもなく、
「頼む」といってしまった。
(昨日の敵も今日の友)というが、明け方に汗をかいて努力をしたのが、風邪ぴきを
直したばかりでなく、とんだ功徳をもたらしたものである。


薩州幕府と長州幕府

 納屋の中へおしこんだ三十余名の若者に、土田衛平が熱弁をふるっていた。
「足利幕府は、事実上は十三代義輝の代で終わり、その弟義昭が十五代になったが、
これは途中で削減した、江府の幕府も、事実上は十三代の家定公で終った。今の十四
代様は、彦根の井伊が、勝手に紀州から連れ出した木偶(でく)である。これが最後
か。もう一代、名だけの十五代将軍家が立つか、そりゃ判らんが、前例からみても、
将軍家の天命は、まさに尽きんとして居る。‥‥今や、新しい将軍家が誕生する革新
の時だ。明朝、起きたら、三光神社へ参って見給え。社務所の義軍本営には(水戸幕
府)と大きな木札が掲げてある。‥‥九州へ行けば『次は薩州幕府だ。将軍家は島津
姓になる』と言うし、西国では『長州幕府が次々に樹立されて、毛利大膳太夫が征夷
大将軍になると、もう英国と戦を始めて居る』国内の雄藩が、天朝さまから攘夷、つ
まり征夷の勅を頂こうをしたり、また頂いて居るのは、次の征夷大将軍になろうとす
る競争なのだ。ところが、その中では、当水戸家がぬきんでて居る。安政五年八月十
六日に、既に征夷の勅を賜って居るのだ。先代さまは事実上の征夷将軍になって居ら
れたと言う訳だ。だから、水戸義軍は仮の名で、まことは、水戸幕府軍なのだ。それ
に参列する諸君は、将来の御直参(じき)になるのだ‥‥」
 と、あまり口をきかぬ男にしては珍しく、訥々とよく喋舌っている。が、いつ土田
は山頂へ登って社務所の本営の中入口までを覗いてきたのであろう。彼のいう通り、
そこの正面右に、
「水戸幕府」と、道場の看板の倍もあるのが墨跡雄渾な大文字でかき出されている。
 これまで「鎌倉幕府」という言葉はあるが、「江戸幕府」とか「徳川幕府」という
呼称はなかった。儒学者以外は、一般には、「大公儀」とか「ご公儀」としかいわな
い。
 それを水戸義軍の連中が、これまで用いられていない「幕府」という称号を堂々と
使って、自分らをもって、これを、「水戸幕府」と名のり出ることは、先代斉昭公に
賜った征夷の勅をもって、もはや江戸の徳川家を無視しきったものであろう。
 俺は江戸留学後は、原先生のお伴をして京師へずうっと行っていたから、土田のい
うところも、よく納得できる。
 ここは東国だから「水戸幕府」をもって旗あげしているが、京師では又違うのだ。
 まだ、長州屋敷に「毛利幕府」の看板は掲げていないが、長州は、当主毛利公をも
って「征夷大将軍」の宣下をうけるため、その実績づくりに、馬関で異国船を砲撃し
ているし、薩摩も、同じく当主島津公に「征夷大将軍」の沙汰をうけるため、まけず
おとらず「征夷の実行」を敢えてするため、鹿児島でエゲレス船を撃ち払っているの
だ。
 これに対し、長州でも薩州でもない連中。
 つまい自分らの殿さまが「征夷大将軍」になって、己れらが「ご直参」の身分にな
れそうもない小藩のうだつの上がりそうもない輩。そうでなければ浮浪の徒が、
「新しい征夷大将軍が誕生しても、自分らには利得がない。だからしてこんなのは儲
からん」と、別個の動きをしている。
 それをまた、岩倉知具視といった連中が、うまく煽動して、
「‥‥徳川の征夷大将軍職を大名へ移したところで、吾々公卿の生活が向上する訳で
もない。これはやはり建武の中興の世か、もっと以前に戻すべきだろう」
というので、征夷大将軍の官職を、延暦の頃に「紀(きい)の古佐美(こさみ)」に
授けたように、宮中の延臣の一人に、それを補してゆきたいと企てているらしい。
 つまり公卿政治の世にして、己れらの生活を豊かにするために「王政復古」のかけ
声をもって、「長州幕府」「薩州幕府」「水戸幕府」といった誕生をつぶしにかかっ
ている。
 しかし徳川家に於ては、どれも目障りな不逞な動きだから、これを片っ端から弾圧
しているだけのことだろう。
 水戸の者は単純に、「井伊大老を桜田門に襲った」のは、斉昭公が牛肉食いを井伊
が拒んだから、
「主耻しめらるれば、臣これに死す」といった報復と考えているが、やはり根本問題
は、
「現職の征夷大将軍が江戸にいるのに‥‥水戸斉昭公が、征夷の勅命を下賜され、ま
るで征夷大将軍が天下に二人並立した恰好になった」のを、井伊大老が憤って、その
勅命を取り上げようと、牛肉を輸出禁止にして搦手から、これへ意地悪したのだろう
し、薩摩の有村村次郎左衛門が、一味して大老の首級をとったのも、「彼を倒すこと
が、薩摩政府の樹立に緊急なこと」と判断して同意したのだろう。
 だから、その二年後の文久二年四月の寺田屋騒動だって、薩摩の殿様は、「薩摩幕
府樹立のために画策するのはよいが、公卿の尻馬にのって、策謀するの徒は、島津家
の家来として許しがたい」と上意討ちで皆殺しにしているのだ。と、俺には判ってい
る。
 だから去年の八月に、いま喋舌っている土田衡平の加わった大和五条の挙兵。続い
て十月十一日の生野銀山を奪取しようとした平野国臣らの挙兵は、いずれも「長州幕
府」をたてる為でもなく「薩州幕府」を作る眼目でもなかったから、何処からも応援
されず、あわれ半日ぐらいで敗退してしまったのである。
「‥‥しかし、この水戸義軍は違う。これは江府の徳川家に換わって、水戸三十五万
石が新しく『水戸幕府』を作るための挙兵だ‥‥恐らく将来は、『薩摩幕府』や『長
州幕府』を目ろんでいる西国軍と、また関ヶ原で天下分け目の合戦になるかも知れん
が‥‥これには関東という地盤があってやることなので、浮浪の徒が、公家から若干
の貰い扶持で旗上げするのとは、てんで規模が違うのだ。この易世革命に乗りおくれ
てはいけないのだ」
 俺は、そんなことばかり考えていたから、みんなを収容してやった納屋から蕎麦屋
の店へ戻ってきても、ぼんやりしていた。

「‥‥水戸さまが、将軍家になられると、お前も、お旗本になるのけ」
 納屋のところへ行って、話をすっかり聞いていたとみえて、小娘は嬉しそうに、俺
が戻ってくるなり声をはずませた。
「うん」と軽く頷くと、側へより添って来て、
「俺みたいな女でも、お旗本の奥方になれるだろうけ。まぁ、やる気になりゃ、やれ
るわなぁ」
 やや思案顔で相談するみたいにいった。どうとも答えようがないから、俺は弱った
ものの、なにしろ明朝もこの小娘に、みんなが食事の厄介をかけねばならぬ。それを
想うと、これは仕方もない事だと、まじめくさって、
「‥‥大丈夫だ。立派になれる」と太鼓判を押すしかなかった。
 なにしろ皆と一緒に俺も納屋の方で、乾草の中へ埋まって寝るつもりだったが、こ
の小娘と訳けありと見てとっていた土田が、にやにやしながら、
「明日の飯ごしらえの相談を願い申す」と、俺を離さない西山と高橋を、粋をきかす
ように切り離して、ここへ戻してよこした所為である。まこと有難迷惑な扱いだった。
 それなのに、二人きりになると、小娘は嬉しそうに、
「さめちゃったけど、美味しいんだよ」
と、大きな煮魚に徳利も一本つけてくれた。雷魚とよぶ山でしか獲れない、珍しい魚
だそうだ。こういう扱いをされると、俺は相手が小娘でも、つい阿袋さまの事をすぐ
想いだしてしまう。