1018 元治元年の全学連  3

 二才の幼児だった俺は、自分のために苦労して死のうとする父の邪魔をして、ひい
ひい油紙が燃え上がるよう、哭き散らしたそうである。きっと脅え切って居たのだろ
う。
 だからして母の背中から、よく視ていた筈だが、今となっては、もはや当時の母の
思い出話で、あれこれと情景を偲ぶしか、憶えてはいない。
「そなたは、ぎゃあ、ぎゃあ泣き通しだし、父上は顎に一本、咽喉に一本、下腹に一
本。家中にある刀を、残らず突き刺してしまわれ、はり鼠みたいな恰好で、縫ってし
まった舌から、ううと血をこぼしながら、わたしに何とかしておくりょと、せかされ
る。どうしようもないから天井の梁柱に縄をかけ、その端で父上の首を縛ってあげて
はみた。だが、いくら力を入れて引っ張っても、よろよろと、まあ立って頂けるだけ
で、とても足までは浮き上がって下さらぬ。なんとか宙釣りにして、首吊して頂こう
と、懸命にやったが駄目だった」
 父お身体が、今の俺並みとして十六貫(六十キロ)。
 それに大小二た振りと脇差一本を刺し貫いていては二十貫に近い。それを十貫ぐら
いの小柄な母が引っ張っても、滑車でも使わぬ限りは無理な話である。父は、釣られ
て身体が立つたびに、泳ぐように両手を振って嫌がって、まるで亀の子のようだった
と、母は言っている。
 なんでもよいから、早く息の根を止めて、楽にして差し上げようと、母が尽してく
れる気持ちは嬉しかったろうが、といって首吊りに縊られるのは困ったろう。いやし
くも武士たる者が、腹を斬り損じて、首を吊ったような例は古来からない。
 だから拒むつもりで、脚までばたばた振ったが、母にしてみれば、顎を締めて絶息
して頂いたら、縄をといて、台所の包丁で首を落す気だったそうである。なにしろ介
錯してくれと、いくら手真似でせかされても、家中の刃物はみんな父が刺していて、
もう台所の包丁しか残っていなかったし、それでは生身の顎は落しようもなかった。
と母はいっている。
 つまり、「まあ、お待ち下さい。ちゃんと後の始末で介錯したような恰好に致しま
すから」と言いながら因果をふくめて、満身の力をこめて、縄の端を母は、エンヤコ
ラと何度も曳いたようである。
 父が、ぐったり息絶えて、俎板の上に、ちゃんと頚すじを載せてくれないことには、
いくらなんでも生身の活け作りでは母としては包丁は、とても使いきれなかったから
だそうだ。
 しかし、困った事に、その裡に縄が重味に耐えかねて、ぷつんと切れてしまった。
もう母も精根つきはたして、縄を結びつなぐ気力もなくしていた。
 父も死ぬのに疲れてしまったらしく、きけぬ口に換えて、唇の血を指でこすって、
「だ、れ、か、よ、べ」と仮名で壁に書いたそうである。
 母は、肩で荒い息使いをしながら、誰を頼もうかと考えた。なにしろ子供を、ずっ
と前から泣かしずめにしたから、その言い訳が厄介で、今さら隣り近所へは頼みにも
行けなかった。
「た、の、む、は、や、く」
 壁に凭れて立った侭の父が、また口から噴き出す血で、文字をかいたから、母は急
いで、散らかした家の中をひとわたり片づけ、
「では行って参じます」と四角く坐って挨拶してから、花畑町に居る兄の横山文蔵を
子供を背負って、迎えに行った。
 気丈夫な女だが、やはり動転していたのだろう。ようやく花畑の町筋に入ると、間
違えて、向側の楠七平の門を叩いたそうである。
 お長屋のように、同じ恰好の家並が揃っていて、あいにく三日月よりも細い糸みた
いな新月だし、急いで提灯も持って出なかったから、間違えたのも無理はない。別に
慌てたからではなかったと、母は言っている。
 湊川で討死した楠正成の後裔だということで水戸家に抱えられている楠七平も、真
夜中に女に飛び込まれ、しかも、その女が返り血を浴びて、顔半分が真っ赤だったか
ら、手にしていた紙燭を取り落とさんばかりに仰天して、真っ蒼になってしまった。
「横山の家と間違えまして」と、母も気づいて、詫びて外へ出ると、七平は怖いもの
みたさに、そっと後をつけてきて、母が、真向かえの横山の家へ入るのを、そっと覗
き見していたそうである。
 さて知らせをきいて、吃驚した横山文蔵が、組長屋から仕度もそこそこに駆けつけ
ると、どしん、どしんと家鳴り震動が外まで聴こえていた。
「また、何か起きたのか」
と母と一緒に部屋の中へ飛込むと、刀を三本ぶら提げた血塗れな侭で、なんとか死の
うと、父は必死になって床柱に頭をがんがん、さかんにぶつけていたそうだ。
 そして父は入ってきた伯父を見ると、手刀で首を落す仕草をみせ、早く此処を斬っ
てくれと、あいてる左手で拝む真似をしたそうである。
「よし、よし」と文蔵もそれに頷いて、早く楽にしてやろうと、母に手伝わせて父を
坐らせた。
 だが時がたって、体力が消耗したのか、母が尻を押さえて持っていても、頭が肩に
めりこんで、伯父としては刀を振りかぶったが、斬りおろす見当がつけられない。
 そこで見かねた母は、俺を背にくくりつけた侭、父の前へ踏台を抱えて持ち出した。
そして、
「恐れ入りますが、引っぱりますから、御免なされませ」
とことわって、台にのった母が、腕を伸ばして力まかせに父の髷を上へと掴みあげた。
 どうにか頚筋の皮が伸びたから、そこへ見当をつけ伯父は、二、三度刀を振りかぶ
ったものの、
「駄目だ」と言った。
 母は、すごすご踏台をかたづけ、今度は仰向けに父を大の字に寝かした。
 うつ伏せにしたかったが、突き刺さった刀が邪魔で上へしか向かせられなかったそ
うだ。そして、
「さあ‥‥これならば、如何でござりましょう」
と顎を斬り落しやすいように、そこで顎のところを持ち上げようと、肩の上へ木枕を
あてがってみた。
 しかし伯父は、また見当をつけ、足場を選んで刀を振りかぶったが、父の顔と向き
あっていてはやりにくいらしく、
「これは、据物斬りの心得がなくては、所詮無理だろう」と、父を見下ろしたまま首
を振った。
(介錯は、手練のいる業ゆえ、仕損じては余計に苦しがっている父を痛がらせると、
それで躊躇をなされた)
と母は後になって解釈しているが、本当のところは伯父が武道不鍛練で、生首一つ斬
り落すだけの自信がなかったようだ。だからして、そのとき、
「三ヵ所の傷は、せっかくだが、みな急所を悉く外しておる」と仔細にみてから、
「残手ゆえ十日も静養すれば、まあ動けるであろう。そしてまた、どうしても割腹す
るというならば、今度はこのように途中からでなく、最初からわしを呼びに来い。わ
しとて前もって判って俺ば、一度でも生身を試されたお人を介添役に願って、同道し
てもらおう」
と、また傷口を調べてみてから伯父の文蔵は母に言った。そして、
「‥‥返り血が飛ぶと汚れる」と着てる物を脱いで褌一つになって、父の躰から次々
と三本の刀を力まかせに引抜いた。母も手伝ったが、まさか腰巻姿には、ならなかっ
たそうである。
 そして、あんぐり口をあけた傷口に焼酎をかけて消毒し、晒木綿や母の綿衣を次々
と裂いて縛りあげた。
 顎は口から血が迸り出てるから、鼻の孔だけを出して、顔の下半分をぐるぐる巻き
にした。
「‥‥すこし寝かしなさい。念のために夜があけたら、わしが猿田先生でもお願いし
て、見舞いに来ていただこう。それまで、そなたも休むがよい」
 文蔵は井戸端で身体を拭って、引揚げて行った。
 蓑虫みたいに布で巻き上げた父の側へ、背の子をおろすと、もう母も疲れきってい
て、ぐったり身体をめりこませるように崩したそうだ。

 朝になって、子供の哭き声で母が眼をさました時、父は目をあけてはいたが、もう
冷えきっていた。
 掻巻をはねのけて、揺さぶったが動かなかった。もう硬ばっていた。
 死ぬのにてこずって、困憊しきった後だから、吻っとしたように、父は息を引取っ
ていたそうである。伯父の文蔵は、みな急所をはずれていると言ったが、
「こりゃ血を出しすぎて、精をなくしたんじゃ」
と診にきてくれた上市上金町の猿田藩医は言ったそうである。

 食禄お召し上げの上、お長屋から出されはしたが、
(お申訳に自裁して、それに嘆願書も出てる事ゆえ、その裡には何かきっと御沙汰も
ある筈)
と組頭も役儀を離れて、劬(いた)わってくれたから、下市へ小さな家を借りて母子
は移りすんだ。父の最後に立会われた猿田元碩も、不憫に想われたのか、
「手許に引取って、面倒をみて進ぜよう」と、大病したあとで脾弱な子供を、下市紺
反町にある先生の別第(べってい)の方へ引取ってくれた。先生の長女の子供が忠夫
といって、一つ年下だから、よい遊び相手だった。六才の時、俺は体が丈夫になった
のであろう。水戸五軒町の原忠寧先生の菁莪塾へと預けられた。いやしくも藩医の家
に、痘相の児がいては、何かと差支えがあった事と思われる。
 つまり俺の産まれるもう何年も前から種痘は始められていたから、お城下の子供で
俺のような菊面(いも)は珍しく、すぐ人目についたから、住込みで宿替えさせられ
たらしい。
 それを好い事にして、俺は秘かに生母の家へ休みの時は遊びに行っていた。
「焼野の雉子、夜半の鶴とは古来より申すが、そなたに家督を譲りたさに、父上は天
晴なる最期をなされた」
と顔を見るたびに、母は小さな仏壇を拝ませた。
 だが、塾でも、俺の痘相は、みんなの笑いものになっていた。二才上で、のちに桜
田門外で斬り込みをかけた広岡なんかは、「蓮の実」とか、「蓮根」とからかって、
俺を泣かしたものである。
 だからである。俺としては、
(他家の赤児にだけ種痘して、微禄ゆえ吾が児だけはのけ者にされた。それでは将来、
この児が菊面になっては可哀想である)
と抗議のために父が自決してくれたものならば、そりゃ感謝して、仏壇へちゃんと有
難いと思って手を合せられもする。ところが、あべこべなのである。拝んでやる筋合
いなどは、てんでないのである。だからして、いつも手を合せても、口の中では、
(どうしてくれる。俺の顔に鉋(かんな)でもかけてくれ)
と罵ったり、怨み言を子供の頃はぶつぶついっていたものだ。
 母も、口では、俺に、「勇壮なお振舞」と、自栽した父の事を賞めているが、内心
では(その時余程、死にぞこないの父を、もて余して困ったのだろう)だからこそ、
「武道の鍛練こそ、肝腎です」と、医者の養子にいっている俺を、十四才の時から浅
田富之介先生の許へ通わせた。
 十七才の時に、俺は立浪の心正館道場で、お目録をいただいた。それを持って母に
みせに行くと、
「人を斬る稽古が、それ程うまくなったら、己れの腹ぐらい自分で斬れよう。母も昔
と違って、もう四十。とても御切腹の手伝いは出来ませんよ」と、はじめは本音をは
いた。
 父の最期は、お世辞抜きでは醜態だったとしか思えない。だから俺も図に乗って、
「ご心配いりませぬ。この源蔵は腹を割る時には、手本になるよう見事にやってのけ
まする」
と手真似で、つい恰好までしてみせた。すると、
「莫迦が」
と珍しく母は叱った。
「死ぬということは、病気になるか、相手に殺されるなら、まあ、楽に冥土へも行け
ようが、己れ一人の才覚で息の根を絶つは、よくせき至難の事‥‥だからして誰でも
人は死ぬ事が難しいゆえ、苦労しても我慢して、そんで耐えて過ごして生きているの
です」
 父の死後、いくら苦しくても泪など見せたことのなかった母が、初めてオイオイ哭
いてみせた。泪がほとばしって落ちていた。俺は母の横顔に、やつれの翳をこくみた。
「‥‥そう言えば、自殺できるのは人間だけじゃ。牛や犬が自分で死んだという例は、
まぁ聞かぬ。すると、俺が父上はあまり頭の好い人とは思えんが、介錯人なしでどう
にか絶命したのだから、こりゃ豪い男じゃ。並みの者には、ようやれん事を、どうに
か完遂しただけでも値打ちがあるな」と、俺も肝に銘じた。もちろん、
(俺に種痘を受けさせず、こんな情けない男前にしてくれた恨み)は、そんな事ぐら
いでは胸から晴れはしかなったが、それでも自栽した事に対しては、父を誇りに思う
ようになった。
 人間は生まれてきたからには死なねばならぬが、たいていの者は、便々として、他
力本願みたいに向こうから来る死を惧れながら、びくびくして待っている。俺の父の
ように、自分の考えで覚悟を決めて死を掴む度胸のある者は、万人に一人もいない、
と父を偲べるようになった。
 そこで念のために、彰考館へ通っている時に、先輩の者に水戸藩始まって以来自決
した者が何人ぐらい在るのか、藩史を調べてもらったところ、三百年間に、たった三
十八名だった。
 俺は気をよくして、すっかり得意になれた。
「小心者と罵られても勇気のあった田中源之介の伜である」と心強かった。己れの体
内にも父に似た雄々しさがあるとさえ想い始めるようになった。

 下市七間町の広小路の河岸に、辻講釈が出ている。江戸から来た軍記読みである。
 上杉謙信と武田信玄の川中島合戦。真柄十郎左衛門が、巾広い大刀で、お味方徳川
勢の陣中へ斬り込んでくる姉川合戦。と色々やっている。
 耳学問には何よりなので、竹刀を担いだまま、立ちよっては聞いてくるが、自分で
も。おかしな変化が起きたのに、俺は次第に気づくようになった。
「‥‥三河譜代の荒武者、本多平八郎忠勝。これに在りとばかり、三間柄のお道具を
つかんで、まっしぐら。あたるを幸い、突いては倒し、払っては倒し、ばった、ばっ
たと死びとの山」
と張り扇で卓を叩いて、修羅場を読みだすと、以前なら、その、ばったばったと突き
殺される方に、俺は自分をあてはめていて、もし、急所をえぐられて即死ならよいが
‥‥父の最期のように半分死で苦しがっているのは、さぞ堪らんだろうと胸を傷めた。
 くさくさしている日は、ばさりと、ひとおもいに突き殺されたら、さぞ、せいせい
するだろうと、心太(ところてん)でも啜ったような気になった。
 それが心正館道場のお目録をいただいて、猿田先生や母からも一人前の扱いを受け
るようになってから、今度は自分をいつとはなしに、殺される側から突き殺す平八郎
や十郎左衛門に置き換えて、講釈をきいてるようになった。おかしなものである。
 自信がついてきたのかも知れぬ。だから銭のある日は、たとえ、鐚銭の二、三枚で
も、辻講釈に、只聴きではなく銭を払うように変った。つまり一人前に成人してきた
証拠かも知れない。

 すると三月三日。原先生同門の百石取りの小普請組の広岡子之次郎らが、雪中、井
伊大老の行列に斬り込んだと伝わってきた。
 薩藩の有村治左衛門が大老の首を提げて、遠藤但馬守の辻番所まで辿りつき、そこ
で手傷がひどくて動けず立腹を切った。示現流には、立った侭で腹を切る作法がある
が、東国では坐り腹しか切りようが伝わっていない。と、これがまた大評判になった。
「この際、吾々も立った侭でも腹を割れる習練をすべきである」
 心正館道場でも、全員に達しが出た。あとで母に言うと、
「田中源蔵君、きみの御尊父田中源之介殿は、水戸で唯一人の立ち腹を切られた仁じ
ゃ。幼少の頃といえど、多少は覚えておられよう」
と師範代が俺を正面に立たせて、みんなの手本にと型を示させた。これは名誉なこと
だった。
「‥‥お腹に刀をさした侭の父上を、首吊りさせようと、縄で上に引っぱりあげてい
たのを、誰かが覗き見して、立ち腹を割ったと伝えているらしい」と、母はそんな言
い方をして、
「だが、これは内緒にしとけや」と言い添えた。
 他の道場からも、田中源之介の伜として、
「立ち腹作法を教えてほしい」と迎えがよくきた。
 俺は盥に水をはって鏡にして、それで色々と研究した結果、腹でなく胸から臍に斬
り下げる、縦割りを考えて、それを誇示したら、みな感心してくれた。
 だが、お城の三の丸にある弘道館の広縁で、その切り方の真似をみせていたら、
「柴田修理亮勝家が、北の庄の天守閣で最期を飾った、あの縦割りであるのう」
と、ご老臣らしいのが嗄れ声をかけてきたのには、がっかりした。
 だがそのかわり、俺の死んだ実父は、いつの間にか、有村治左衛門や柴田勝家と同
列に扱われるようになって、お城からも二十年ぶりに銭百疋が供養料にとお下げ渡し
があった。
 丁度その頃、彦根藩では、井伊大老を病死の扱いにして家督相続を願い出て、水戸
へも、よろしくと牛二十頭を送ってきていたが、その彦根藩の老臣木股清左衛門から
「御公儀へ、別に訴状が出された」とも水戸へは伝わってきた。
(天下の公道で首を取られた主君の死を、病気で糊塗するのは以っての外だから、家
中一同すでに覚悟もしている事ゆえ、彦根藩を是非ともお取潰し願いたい)という文
面だという。
 つまり、相手が御三家の水戸中納言でも、主君の仇敵は報いねばならぬ。だから、
大義名分をはっきりさせる為、井伊家の家名断絶を自発的に申し出て来たのだという
話であった。つまり、
「赤穂浪士を手本にして、彦根も浪士になって討入りするよう」という騒ぎなのであ
る。
「斉昭さまを、吉良上野介の二の舞にさせるものか」と、水戸の若侍は押っ取り刀で、
江戸へ、江戸へと駆けつけた。
 あまり大騒動になったから、三月の末に、水戸中納言の登城を差止め、四月七日に、
故大老の喪を大公儀が布令した。
 事の起りは牛肉だというので、当日付けをもって、ご府内の獣肉売買の停止(ちょ
うじ)が言いわたされたりした。

 が、八月十五日に、その斉昭公は歿った。六十一だった。母と伯父は悲歎にくれた。
「今度こそは、半知の四十石でも、お取立てが叶うだろう」と、伯父の横山文蔵は母
を励ましていたのだが、肝腎な殿様がお代替りになると、もう話は沙汰やみになって
しまった。
「‥‥あの斉昭公さえ牛肉を好まず、千波原へ牛などを集めて持て余し、種痘など始
めずば、俺の父は死なずにすんだし、水戸の人間もみな俺と同じ菊面(いも)だった
ものを‥‥」
と、俺はぶりぶりしきっていた。それを母は立身の望みを失って悲観しているのかと、
「‥‥そなたの父源之介も、死後十六年目に。たとえ若干にしろ御芳志を賜った。
まだ先の事になるらしいが、辛抱して時節を待つがよい」
 母は慰めてくれたが、十七の俺は、じりじりした。今の侭では猿田先生に面倒をみ
てもらっているから、養子分として、人にも猿田源蔵と呼ばれているのが、この分だ
と自分も医師にされる。長袖者にされては、士籍へはもう戻れない。と痘相を呪い、
先君斉昭様を怨み続けた。
 あまり焦燥してるのを見かねたのか、池永家を継いでいる猿田先生の息子唯一郎が、
俺を出府させて、お茶の水の聖堂へ通わせてくれた。俺は自分より痕(いも)のひど
い安井息軒先生の顔にひかれて勉学した。同病相哀れむというが、痘面の先生は、と
ても俺を可愛がって呉れた。
 そして勉学して水戸へ戻ってくると、「江戸留学生」というので、ぐっと格が上が
り、野口の時雍館という田舎道場だが、それでもそこの四代目館長に、まだ十九才の
俺が、原先生に推される結果になった。
 だが、なんぼなんでも柄でもないから放ったらかしの侭だった。去年の正月八日も、
殿さまの伴をして京師へ上る原先生の後について、のこのこ出かけてしまった。戻っ
てきたのは年の暮れの十二月十一日である。
 まる一年も放りっぱなしで、帰ってきたから、すべてが一変していた。
 留守中の八月二十九日に、俺の養父の猿田玄碩先生が歿なり、十月二十八日には、
先生の室以久子さま。つまり、俺の養母にあたる方も死んでいた。
 猿田の両親が相ついで不帰の客になっていたから、俺は水戸へ戻るなり、おおっぴ
らで実母の許に草鞋を脱いだ。野口の道場の方もあまり無沙汰しているものだから、
つい足が遠のいていたからだ。
 ところが久しく江戸へ行ったり京へ行っていて、顔を知られていないせいか、若い
見廻り組に乱暴され、やむなくとんだ立ち廻りを演じてしまって、俺としたことが、
とんと身のおき所に窮してしまったのである。


東国は葵の紋章

 今日は曇天なのか。待っていても、なかなか陽は昇ってこない。だから空を仰ぎな
がら、「くしゅん」と、俺はくしゃみをした。
 早く陽が出て乾かしてくれないと、羽織の上から腰までが、ぐっしょり夜露で冷汗
かいたみたにしみこんでいる。
 野宿した夜明けの躰に、なにしろ暁の山の上の風は冷たい。湿ってがさがさする手
織木綿の布地に風が吹きこむと、かちかちに凍りつきそうに身震いがでる。
「もう桜も早咲きはみえるのに、やはり山は寒いなぁ」と、握り拳に息をはきかける
と、それが白い靄みたいになってしまう。まだ仄暗いものだから、思いきりぐいっと
手を前方に伸ばすと、指先が、ぼーっと霞んでしまうような視界である。
 鉛色を納戸色に塗り直した空も、それっきり澱んだように、てんで変りばえも見せ
ず動きもみせない。いくら見詰めても変らない。
 乾いた枯枝でも拾い集めて、たき火をしようと思ったが、肝腎な火打石がない。昨
日の立廻りの際に落したものらしい。
 じっとしていては肌寒いから、歩き廻ると、余計にこれは風がしみこむ。咳さえ出
る。
「こりゃ、いかん。風邪をひくぞ」
 たれてきた洟水を啜りあげて、俺は狼狽した。こんな所で熱でも出したら寝るとこ
ろもない。それに懐中に残っているのは、あと百文に欠けるから、二日と喰い延ばし
もできぬ勘定である。
(どうもいかん)と呟きながら、参道を降りてくると、昨日の蕎麦屋の小屋に近づい
ていた。火の気が恋しくて、無意識に足が吸い寄せられてしまったらしい。
「小屋の中には、乾いた小枝もあるし、火つけもある」と、その気になった。が、油
障子の戸口まで寄って行ったものの、昨日の、あの小娘の剣幕を憶い出すと、声をか
けるどころか、戸を叩く気も出なかった。
 といって、立っていると背筋までが冷えこんできて悪寒がする。
「こりゃ背に腹は替えられんぞ」
と、建物の裏手へ廻ると、外側へ用たしに出た時、錠をかけ忘れたのか、裏の潜り戸
が推してみるとギイッとあいた。なにしろ手狭な蕎麦屋の店内である。暗くてもおよ
その見当はついた。俺は火打石を借りるつもりで手さぐりで内部へ入っていった。
しかし、火打石は小さいので手には触らなかったが、生温かい女体の息吹きの方は向
こうから、まるで南風(はえ)みたいにすうすうと漂ってきた。側へよってゆくと、
まるで火桶のように、若い娘の体は熱っぽかった。
 がたがた悪寒のする風邪をひきかけた体は、採暖に心を奪われてしまったのだろう。
俺は考えこむ暇もなく、その寝床へ入りこんでしまった。そして行火(あんか)にで
も噛りつくように、小娘のまるまっちい胴体に身体をすりつけた。すると人肌とはい
え、えらいもので、夜露ですっかり凍りついたような袴も温まったし、着ているもの
も柔らかく感ずるようになった。
 が、そのあとがいけなかった。小娘は誰かと間違えたらしく向きをかえ、俺に抱き
つき脚を絡ませてきた。こうなると男は脆い。
 俺は別段そんな気はなかった筈なのに、小娘の上へ何度も繰返しては、降りては又
這い登っていた。
(好きでもない、いやな女)と思いながら、なすが侭の向こうの躰へ、まるで発汗さ
せる為のように何度も続けて、俺は同じような事をしていた。
 京から戻ってからは久しく禁断していたせいもあるだろう。それに一回いくらと銭
をとられる訳ではない。そんな気易さもあったろうが、後には心正館の道場へ通って
いる気持ちだった。彼処では、素突き百回と称して、息が切れるまで何十遍でも、お
突きだけを繰りかえさせる。その癖をだしてしまって、風邪のひきかけを、汗を出し
てなんとか早く食い止めて直そうとしたものらしい。
 しかし、やはり途中で、さすがに相手も(人違い)とは気づいたものらしい。だが
今さら仕様がないと思ったのか、その侭で身体を投げだしていた。
 だが汗ばんだ身体を拭おうと起きだした此方の顔を明り障子からの陽で、初めて小
娘は横目に視ると、ぎくっとしたように顔をそむけた。怒鳴るかと思ったが、暫くし
て、自分ものろのろと小娘は起きだしてしまった。
 そして、俺が、ぐっしょり濡れた身体をこすろうとすると、顔を合せないよう横向
きで手拭をよこした。
 着物の裾を肩から通していると、小娘はまるまっちい躰を、どしんと、ぶっつけて
きて、背中から肩越しに、
「腹へったろ」と押しつぶしたように言った。
 俺が、ものも言えないから、黙ってうなずくと、釜をのせたくどの下へ屈みこんだ。
 火をつけたらしく、枯松葉が燻った。柏もちになってる蒲団をまるめてかたづける
と、煙出しに表の油障子をすこし開けた。
 戻ってくると、娘は、薪を片手に握っていた。まともに顔を合せてしまった俺は周
章てた。
(また叩き出されるのか)と、俺が横飛びに、障子の方へ避けようとすると、娘は、
その薪をくどの下へ押しこみながら、俯向いたままで、
「昨日は、蕎麦だけしか喰うとらんじゃろ。いま飯をたいとる」と呟くように声をか
けた。
 まるで人が変ったみたいである。薄気味悪くなって、俺がもぞもぞしていると、
「あんなにたんと繰返されたのは‥‥初めてじゃね。そないに惚れて呉れたんかね」
と、口の臭いを嗅せながら貼りつくように側へよってきた。