1017 元治元年の全学連  2

 昨日せっかく入隊をしに山を登って来たのだが、俺が嫌気をさしたのは、山頂の三
光神社の拝殿である。
 連祥院別当の御殿の横で、俺は見てしまった。それはまだ荒皮のついた丸太ん棒が
二本、梯子みたいに並べてあって、それに函が縛りつけてあったのだ。輿である。手
斧(ちょうな)で樹皮を荒削りした丸太が載せてあった。そして、その丸太ん棒には
紅白の旗が立ててあった。
(なんだろう)と俺は近よってみた。すると、ずらりと整列して居た隊士が、遮るよ
うに手槍を横に此方へ向きをかえた。吃驚して後退りしながら覗きこむと、函に、た
れ流しの白布がついて居た。
(贈、従二位大納言、源烈公)墨痕いかめしい筆蹟だが、「烈公」とは、先年歿られ
た水戸斉昭さまの事である。「ははん」と俺も頷いた。
 なにしろ厳かな顔つきで身動きもせず、ずらりと整列してる若者たちは、丸太を入
れた輿の衛兵なのだが、数えると三十人。みな真面目くさって、眼ばたきもせず直立
不動だから、まったくのところ近よりがたい。
 俺でさえ、遠くからだが一、二度ぐらいは見た事もある老公だから、ご家中の者で、
組織されてる隊士なら、もっと近くで拝謁した事もある筈だ。それなのに、よく見知
り申上げて居る先君を、唯の丸太ん棒に見立てて像となし、神妙な顔で供奉してる無
神経さが、とても、俺には我慢ならなかった。真似しろといわれても、とても出来は
しない。
(こんな連中と一緒にされて、でくの棒みたいに、槍を持って立たされるのは、まっ
ぴら御免だ)と放放のていで、俺は退散してしまった。三光神社の石段を急いで駆け
降りた。すると両脇の参詣人用の宿坊や神官の住家、二、三十棟の家が、これことご
とく白と赤の小旗を、庇に出して居るのには驚いた。眼をみはらされた。
(これで社前に、露店でも並んだら、さしづめお祭りだ)と俺は呆れた。まったく茫
然として四辺を見渡した。
 巡邏隊が五人一組でぐるぐる山を廻っているが一人ずつ、これもまた紅白の紙旗を
つけている。よく視ると、赤旗に「尽忠」白旗には「水戸」と、文字が入っては居る
が、小さいから、ちょっと見ただけでは判らない。まるで家も人も、みな紅白に飾ら
れて、お花見気分なのである。
 だから、つい見廻りの巡邏隊をみて、俺は失笑してしまったらしい。すると、
「‥‥不審なやつ」
と言いざま、一人が棒で殴ってきた。
 その手許をこっちで抱えて、浮いた脚をすくうと、大外刈りに向こうは、ずでんと
仰向けにひっくり返った。こうなると他の四人が黙っていない。紅白の旗を風になび
かせ、
「うろん臭いやつ。神妙にせい」
とばかり四方から掛ってきた。しかし、ひどいものである。こちらが落ちている棒を
拾って、中腰のまま薙いでしまうと、その内の二人までが、もろに引っかかって、
「うぬッ」と、ずってんどうと転んだ。
 そのくせ、
「不届き至極ッ」と刀を抜いてきた。
「‥‥待て」俺はいった。「何も騒ぎを起しに来たんじゃない」と手をふった。
 しかし向うは、あくまでも、
「問答無用ぞ」と血相かえて切りかかってきた。
 だから、つい此方も釣られてしまい、
「そないへらへら刀で斬れるものなら切ってみい」と、棒を斜めに構えてしまった。
「ヤアッ」と気合もろとも振りおろしてくる太刀先をものともせず、その右手腕を、
「たあ」と突きのめし、相手の刀を、
「ガダン」と音させて落っことさせてしまい、
「こっちもか」
と横から星眼にかまえてきた刀身も、相手の脇に棒をつきこみ捩りあげて手の甲から、
「ほらよッ」とばかり、これも刀を落させた。
「うぬッ」
と二人が挟み打ちで斬り掛ってくるのは、
「そうはゆかぬ」と背後へのびのきざま、
「合討ちするなよ、怪我をする」
と、刀を二本とも、肘と手首を叩きのめして地面に転がしてしまった。
 だから五人とも、あっけにとられたが、
「よし非常呼集して、ひっ捕えてくれる」
と言い残して逃げて行った。俺も手にしていた棒を放り出して、苦笑いしながら、
「ばかばかしい」とはいった。が、しまったとも思った。どうも児戯に類する事をし
たとてれた。
 なにも腕だめしに、この太平山や登ってきたのではない。旗上げした義軍に、加盟
する為に登山してきたのである。
(軽率だった)と自分で後悔した。(おそらく、この分では、逃げた連中が報告して、
きっと押っとり刀で他の者も大挙して寄せてくるだろうな)と考えた。
(これ以上の繁雑は避けねばなるまい)とも心した。
 しかし、こんな小競合いで、せっかく此処までやってきたのに、すごすごと戻って
ゆける筈もない。俺は途方にくれた。
(どうも世の中というのは、えてして思うようにはならないものである)と、しみじ
み悔いてみたが、始まらない。
 さっさと逃げてしまうものなら、追手に帆かけてという方法もあるが、そうではな
いだけに躊躇がでてしまう。といって、ここに愚図ついて居ては、さっきの連中が又
とって返してきたら、まずいとは判っていた。だから、
「何処ぞへ一応は身を匿すべきであろう」
とは勘考した。が、さて、まさか狐みたいに木の間茂れの中へ身を秘めるわけにもゆ
かない。そこで赤銅の大鳥居を下った中腹の、茶店のかたまった場所まで降りてみた。
「へえ、よってらっしゃい」
「お休みなんせ」
と、どの茶店からも声をかけられた。といって、これがもてるというわけでもない。
この義軍騒ぎで殺風景になった山へ、参詣者の足がとだえ、てんで客がいないからら
しい。
 俺が選んだのは「名物・芋そば」の店である。腹も減っていたが、表に油障子が入
れてあって外から覗けないのが気に入った。
 が、えがらっぽい蕎麦で山芋の匂いもしないのに、二十文は、(こりゃ高い)とび
っくりした。しかし外へ出てからも、山頂から降りて見廻りの巡邏隊を見かけると、
又急いで中へかけこんだ。つまり日没近くまで三度も、俺は蕎麦をくいに入ってしま
ったことになる。
 十六、七の赤ら顔の、まんまるい娘が居た。
 顔馴染になってしまって、「そばが、えごいぞ」と言うと、生卵をわって掛けてく
れた。
 親切にしてくれると喜んだら、あとで十文も余計にとられた。そこで、俺が肚を立
てて、ぶりぶりしてると、
「ほら、見なされ。あれが隊長の藤田小四郎さま。ええ男前じゃけ」
 まるで、自分の情夫(いろ)か何かのように、油障子の間から眼を細くした小娘は、
憤っている俺に指さして教えたものだ。
 まだ二十二、三。色がぬけるように白い。だから、大たぶさに結いあげた講武所ま
げが、くっきり浮きあがって、成程見てくれは好い。
「‥‥あのお方のお父(とつ)さまは、藤田東湖たら言う、えらい学者さまだそうな」
と、そばやの娘はもの知り顔で、うっとりと眼頭をにじませて首をつき出し、小四郎
の後ろ姿を見送って居る。
(岡っ惚れと言うやつだろう)と、俺は振返った娘の顔を覗きこんでやると、平べっ
たい小鼻を、くんくん、犬みたいに鳴らして居る。どうも感じが良ろしくない。
「この店へも、ちょくちょく来るのか」
 むっちりした尻を。後から突いて聞いてみると、頬の赤い小娘は憤ったように、
「とんでもない。お行儀のよい若さまじゃけ。樽に腰かけで、そばを召上がるような、
はしたない真似はなされんですと。ご注文は出前で届けて居ますけ」と憤ったように
背を向けたままでいう。
「そうか。腰掛けて三度も俺は喰うたで済まん喃」と、俺はいってみたが、てんでこ
っちの皮肉が通じない。そこで、
「‥‥もしもだなぁ、石段を登って行くあの男が一人で、ここへ入って、そなたに、
芋そばをたのんだら、どないする」と、からかってみた。
(床机の上に、特別に円茣蓙でも持ってきて、坐らせて喰わせるのか)と、いやみを
いったのだ。しかし小娘は、さも嬉しそうに、俺に向かって、
「入って来て食べて下さるのなら、何杯召上がられてもお銭(あし)などは、一文も
いただきません」
と言いおった。同じ年頃の男で、俺からは十文も余分にとり、向うには、無代でも好
いとは、あんまりだと肚がたってきた。
(相手が、美しい娘なら、まあ、向うの方が、俺より似合いだから、そんな差をつけ
るのか)と納得もできたが、茶店の小娘は、柿しぶ染の前かけぐらいの色の黒い赫顔
の山出しの百姓娘である。それが臆面もなく、はっきりと(藤田小四郎に比べると、
田中源蔵なんてのは屑だ)と面と向かって値ぶみをするのである。これでは、俺だっ
て肚が立つから、つい喋舌る気ではなかったが、
「藤田小四郎などと、尤もらしい名乗りをあげとるが、東湖先生の籍には入っとらん
から、今までは、母方の姓を名のって、小野武勇というのが実名よ。行方(なめかた)
郡の小川館から、今度、出兵するに先立って、元取の竹内百太郎先生が、天草四郎の
故事を思いつかれて『藤田四郎』と初めは命名されたが、思いの外に頭数が余り集ま
らんので、島原の乱の、天草四郎時貞には、とても遠く及ばんと、小四郎にしたとい
う噂だぞ」
 俺が、せっかく話してやってるのに、小娘は、聞いているのか、聞いて居無いのか、
ずん胴の尻を向けたまま、奥へ引きこんで、そば粉をこねて、のし棒でひろげて居る。
ろくに返事もしない。
「藤田東湖だって、この辺では大先生で通って居るが、そのおやじの幽谷は、水戸の
下市七軒町の古着屋に、丁稚奉公してた。その頃は、与助どんと呼ばれて、ぼろ布子
を買い集め、それを水洗いしては、男のくせに糸と針をもって繕っていたものよ。十
三の時に、立原翠軒先生の許へ、下男奉公に換わったのが、運の始まりで、二百石取
りの進物番にまでなり、彰考館の頭分から、側用人まで出世されたのよ。‥‥あの小
四郎が、東湖の種だったにしても、元はといえば、古着屋の小僧の孫ではないか。な
に様の血すじでもないわ。若さまが、聞いてあきれるわい」
と、俺は床机にひっくり返って威張った。
 そして今から山を下ったとしても夜になる。暗くなってから、羊歯や潅木の多い坂
道をおりるのは厄介だから、もし引揚げるにしても、今晩は此処で夜を明かそうと想
った。

 ところがである。暫くすると小娘は、
「もう店をしめますけ、帰りんさい」
 素気ない声を浴びせてきた。知らんふりをして、床机の上で、すこし、うとうとし
て居ると、側へよってきて、いきなり、
「此処は寝る所じゃねえけ。早よう起きて帰れ、帰れ」と、面棒で床机をとんとん叩
き、
「此方が何も知らんと思ってけ。藤田小四郎さまの蔭口も、程々にしなされや。ふん
とに男前がええのを、そねんで、やっかものも大概にしたらええ。いやらしいったら、
有りゃしないけ。まったく‥‥」と、がなりだした。
 凄い剣幕である。俺も面喰って、床机から、弾かれたように、身体を起し、手をふ
りながら、
「まあ、まあ」と宥めにかかったけれど、小娘は白眼をすえてしまって、
「小四郎さまが、あの男振りで、惚れ惚れすると夢中になっとるは自分だけじゃねぇ
‥‥なんせ、この山に居る娘っ子は、みんな、あの方に岡惚れだわね。それを、焼も
ちやいて、有ること無いこと、べらべらと、男のくせに、お喋舌りするのは、いやら
しさ」
 俺を見上げるようにして、ひと息に、続けて、まくし立てた。恨みがこもった、凄
まじい顔つきである。あまり目立たなかった雀斑(そばかす)が、上気した額に浮か
びだして、胡麻塩をふった握飯みたいに視えた。俺は狼狽しきって、
「今から山を降りるにしては提灯もない。もうすぐ真っ暗になって坂道は、熊笹も多
くて難渋する。この床机の上でも好い。夜明けまで休ませてくれ」と、やさしくいっ
てみたつもりだった。
 なにしろ、ここを閉め出されては、まったく行く当もないからである。俺は話せば
判ろうと娘に、事情を訴え頼み込んだのである。
 それに、うかつだったが山へ登って入隊すれば、顎もち。つまり、飯は、隊で喰わ
せてくれると思ったから、二百文かっきりしか持って来なかった。なのに既にその中
から、この茶店に、そば代として都合三回、七十文というものを払って居る。
(だから、それくらいの世話になっても、差し支えない筈だ)と、俺は肚の中で勘定
したのだが、小娘は承知するどころのさわぎではない。
「五十文出しなされ。提灯に、蝋燭つけて、分けてあげますけ」
 壁土の泥桶から抜いたような、そば粉だらけの片手をつきだして、小娘は、まだ、
ぷんぷん息使いをあらくしていた。
「提灯なんか買ったって、山さえ下りたら、あとは不用ではないか」と、俺は言って
みたのだが、
「だったら月明かりを頼りに、手さぐりで、降りて行きなされ。道さえ伝ってゆけば、
麓には出られますけ」
 当たり前の話である。どうしても、下山しなければならないのなら、竹でも切って、
それを杖にしてでも降りてゆくが、せっかく入隊する気で、やって来たのだから、ま
だ、どうしようかと、俺は迷っている最中である。
(今夜、この茶店へ泊めて貰って、それで、ひと晩ゆっくり考えよう。それから身の
処置を、決めればよかろう)と思っているところなのだ。
 なにしろ、この小娘と馴染になって、うちとけていたから、まさか怒らせて閉め出
されるとは、夢にも考えてはいなかった。すっかり弱らせられた。
 といって、これだけ話がこじれてしまってから、今さら、藤田小四郎を賞めそやし
て、小娘の機嫌を、とり結ぶ訳にもゆかなかった。
 俺は途方にくれて、詰らんことを喋舌ってしまった。と後悔した。
「さあ、早う立って下され」と小娘は邪慳に、あたりの床机を、ばたばたと卓の上に、
抱え上げて片づけだした。
 そば粉を練りかけて居る途中だから、何も、それをやめにして、店仕舞にかかる事
はないのだが、これが、女の意地悪というものだろう。仕方がないと、
「どうだ‥‥俺を泊めてくれたら、釜に燃す薪を割ってやろう」
 小娘の顔色を覗きながら、俺は親切そうに言ってみた。なんとか機嫌をとりたかっ
たからだ。
「薪は使わねえ。お山の枯枝を拾ってきて、釜には、くべとるけ」
 素気なく答えてから「おまえさん、お侍のくせして夜道が怖いのけ」と、こうであ
る。
「ばかなッ」といいかけたが、よしにした。
 なまじ、この娘に、見廻りの巡邏隊と衝突した話でもしたら、藤田小四郎に憧れて
いる女のことゆえ、裏口からでも飛び出していって、忠義顔をして訴人されるかも知
れぬと気づかったのである。ばかばかしくなって、
「どうだ。泊り賃を払おう」
と、俺は掛け合ってみた。それしか、この小娘を説得する方法は、他には考えられも
しなかったからである。すると案の定、
「‥‥いくら出すのけ」ときた。
 そこで、俺は、懐中の算用をして、
「二十文がとこ、はずもう」と口にしてみた。せい一杯のところである。
 すると、たかが空いている店の床机の上に、横にならせる場所代だけの事なのに、
「ふうん」と小娘は、まず鼻さきで冷笑し、
「たった、そんだけかね」とこうきた。そして、顔を斜めにしてもう一度鼻を鳴らし、
「ふん。蕎麦の一杯分だね。だったら、そっちで銭をとる方が、ずっと安気だけ」
 指先で顔の面皰(にきび)を、ぴしっと一つひねった。
「じゃ、頼まん」
 つい答えてしまって失敗したと思った。
 この茶店へ泊れずに下山したら、もう二度と入隊に来る気はしまい。それでは困る。
だからして、迷って居ればこそ、今夜ゆっくり勘考したさに今迄、頭を下げて頼んで
居たのである。
「あ、早く出て行ってお呉れ」と小娘は後退りをしながら、
「今夜うまく此処へ泊まり込んで、わたしを手ごめにしたり、売上げの銭でも掻払う
気だったんじゃろな」と吼えた。
「なにっ」と思わず刀の柄に手をかけると、
「お山で抜刀したら、石子詰めにされるけ。此処は勿体なくも、日光東照宮さまの、
ご別院だけ。悪党づらした奴は、とっとと帰りな」と、また唾をとばした。
「なに、悪党づらの顔だと‥‥」さすがに俺も面と向かって言われては、かっかと頭
へ血が上ってしまった。
「あーそうさ。外に天水桶があるけ。蓋とって水鏡で、ようく‥‥自分の顔をみたら
ええがね」
 面棒を逆に握り直して、来るなら来いと身構えられると、俺は相手が小娘なのにし
ゅんとしてしまう。なにしろ昔から、顔の事を言われると、いくら肚を立てて居ても、
水を掛けられたように、冷やっと、俺は胸が詰ってしまう癖がある。

 二才の時に疱瘡にひどく罹った。(助かれねば良かった)と今でも思うが、そのと
き運悪く命をとりとめた。
 おかげで、あとは難儀のし通しである。
(お城の石垣)だとか(蓮根)などと、他人は勝手に面白がって蔭口をきいた。ただ
子供の頃は、
(大人になって顔が広がると疱瘡も延びて判らなくなる)と教わったから、早く大き
くなって、面の皮を伸ばそうと、毎夜睡る時には、頬っぺたを自分で抓って引っ張っ
て寝たものだ。
 だが成人すると、あべこべで、顔が拡がるにつれて痕も伸びて、かえって目立つよ
うにみられた。俺は狗や猫みたいに、顔中に、びっしり毛が密生したら好いと、そん
な顔の自分を、いちも想像しては気を紛らわせて居た。
 なにしろ、(蚊隠れ)とまで、面と向かって呼ばれ出した。
 顔に止って血を吸っている蚊を、掌で、発止と叩いても、窪みが深いから、蚊が、
そこに匿れて助かるだろうと、まるで眼のあたり、見たように、言いふらされた。
 俺が三光神社の拝殿で、先君斉昭公の木像をみて、虫酸をはしらせたのも、荒削り
の木偶だったり、隊士が、鹿爪らしく、それを守護していたばかりではない。もとは
と言えば、この痘痕に先君が関りあいがあるからだ。
 それに、その為に、俺の生家は食祿を没収され、実父は、思い出しても、身の毛も
よだつような死に方をしているのである。
 水戸の者は、先君を、仰め奉って居る。まるで(水戸黄門さまの名前で、世間に知
れわたって居る西山の源義公の生れ換りのように)取り沙汰して、有難がって居る。
が、俺の身になってみれば、まことに途方もない、不倶戴天の殿様であった。
 俺は、先君の斉昭公は、大の嫌いである。


田中源之介割腹

 何処の大名も、そうかも知れないが、特に、水戸の殿様は代々、お薬が好きである。
 ご城下のお花畑だって、実は名前だけで、栽培して居られるのは、これみな、お薬
草である。
 ご公儀の御府内小石川薬草園より、ずっと品種も揃っていて、高麗人蔘などは、朝
鮮人がびっくりする程、良質の物がとれている。
 なのに水戸斉昭公は胸の病をやられた後、「ソップ」とか称する肉汁を啜られるよ
うになった。四つ足の肉を煮つめた汁である。
 それに胸の病をやると、誰もそうなるとはいうが、公はとみに女色を好まれるよう
になった。その精分をつける為に、もちろんお花畑の高麗人蔘を日に一根も煎じて、
茶の代りに呑まれたが、それでも足らず、ついに肉汁だけでなしに、肉そのものまで
食されるようになったそうである。
 領内の和尚どもが「畜生を食されるは汚れ」と献言しても、跡目相続してから水戸
の寺だけでも二千と七十六も取りつぶして、その梵鐘や銅仏を那珂湊の反射炉へ運ば
せ、大砲に鋳直すような殿様である。坊主が伺うと、その斎(とき)の膳部の汁椀に、
牛肉のすまし汁を盛りつけさせておき、
----恐れ多くも、江戸城より賜った、鶴の吸物である。と有難がって喰わせて置いて、
----結構なものを賞味させて頂きました。
と坊主が退散しかけると、さも困ったように、
----最前の汁椀は、供物方の者が間違えた。余に食させる肉の肉汁だったそうな。如
何しようぞ‥‥と、からかったと言う話まである位である。
 岩舟の願入寺の和尚だけは落ち着き払って、
「---御免なされ候」と断わってから、咽喉に指を入れて、みな吐き出したそうだが、
他の和尚は、みな、そこまでの度胸はないから、殿様の悪戯に、眼をしばたいて、退
城したという。家臣も、側近く奉公している者は、殆ど、牛肉を喰わされていたそう
である。
 老公が「お元気にわたらせられる秘密は、あの四つ足の肉である」と評判がたつと、
まるで「不老長寿」の薬のようにもてはやされ、女色を好む者は回春剤に用いだした。
 さて皆が見習って食べだすと、従来は汁椀に入れていた牛肉を、野菜と共に鍋で煮
込み、箸を入れて食べあうようにもなった。
 女好きの連中を、略して、「すき者」と言うが、その輩が、煮たり焼いたりして喰
うところから、水戸の城下では「すき煮」とか「すき焼き」と呼ぶようになった。一
説では鋤の鉄板で焙肉したせいともいう。
 だから、俺の子供の頃は、たとえ兄妹でも、女の子が側に居ると、手を叩いて囃し
たて、
「‥‥すきもの、すきやき、くさい、くさい」
と、からかって、女の子を哭かせて遊んだものである。

 天保十一年[1840]には従来は国禁だった三本柱以上の大船を、気侭に建造し
かけたくらいの斉昭公だから、諸国の牛肉を集めさせて、これを片っ端から試食して
みたらしい。そして、その挙句、近江の江州牛が、もっとも美味だと、折紙をつけら
れたのだそうである。
 それで毎年、寒中になると、江州彦根家から、当座用に生肉十貫匁。貯蔵用に味噌
漬した肉を二十貫。那珂湊か平磯の浜へ廻漕してきて、その返礼には、水戸の梅干を
百樽つませるのが、御慣例になっていた。(「那珂番所船積台帳」に記録が現存する)
 ところが彦根の藩主に井伊直弼が分家から入って相続すると、
(掃部頭という代々の呼称は、その昔、宮中の清掃に当っていた餌取りの者の統領の
官名の由だが、今さら四つ足の皮はぎしたり、肉をとるような真似を、水戸の為にす
るにも及ぶまい)と領内に布令を出して、牛馬の屠殺を一切制禁してしまった。
 だから寒の入りになって、水戸斉昭さまが、舌なめずりして待って居られるのに、
さっ張りその冬は、牛肉が入荷しない。やがて大寒の入りになったが音沙汰もない。
江戸藩邸から、井伊家へ催促させたところ、
----今年よりは彦根藩は、殺生禁断となりましたゆえ、何卒、東国の牛にて、お薬食
いをなされて頂きたい。と返答してきた。
 仕方がないから、水戸の牛を屠殺して、これを食べたが、肉は硬いし、味も、ぼさ
ぼさして居る。斉昭公はそこで耐りかねて、井伊直弼あて直接に、
----国中の牛を殺さざるよう、制令によって禁止された趣きは承ったが、これは是非
ない事ではあるが、従来、江州の牛肉を、たしなんで、己れの薬料にしてきた斉昭に
とって、今すぐ、これを他国の牛に替えては咽喉を通らぬ。誠に卒爾ではあるが、な
んとか別段の誼みをもって、送って貰えぬものであろうか。よろしく頼み入る。と懇
切丁寧な願い状を差し出した。余程食したかったに違いない。(この原文は「水戸藩
党始末記」上巻に収録されている)ところが、
----せっかくでは御座るが、何分にも禁じたばかりゆえ、相成り申さず。お言葉なれ
ど、たって御断り申上るの他はない。
と言いにくそうに彦根の江戸家老が、直弼の口上を小石川上屋敷へもって来た。
----屠殺が制禁なら、生きた侭の牛を、譲って頂きたい。と申込めば、
----水戸領内で殺され、煮焼きされるのが判っていては、お譲り致しかね申す。
 この牛肉のやり取りが、将軍家の継嗣問題に絡んできた。
(食い物の怨みは恐ろしい)と古来から言うが、斉昭公は、近江牛を喰えぬ肚いせで
井伊大老の推挙する紀州の家茂に真っ向から大反対した。
「女道楽の腎の補薬に、四つ足を喰いたがる、水戸の老公は極道者である‥‥」
と、徳川十四代に家茂が納まると、反対にその翌日、斉昭公を初め反対派は隠居させ、
水戸藩を初め各地の浪士を一斉に捉えた。だからその井伊大老を、水戸人が放って置
く訳はない。かえすがえすも殿の怨みである。
 万延元年[1860]三月三日。登城の行列を襲って、井伊直弼を殺害してしまっ
た。
 これを「桜田門外の変」とも呼ぶが、水戸では、両家不仲の原因が牛肉だから、
「御牛(もう)騒動」とか「すきやき討入り」と呼んで居る。俺が十七才の時である。
(明治七年薩摩の川路が警視庁をひらくや、縁辺の有村治左衛門の遺家族に、扶助料
を出すため、桜田門事件を牛肉騒動では具合が悪いから「勤王の壮挙」にかえ、水戸
人も喜んで、これに変えたのは「水戸秘録」や「桜田門の真相」にも明記されている。
このため、当時の肉とり皮はぎの弾左衛門家の小塚っ原刑場の千住の回向院‥‥現在
は地下鉄南千住駅前の同寺境内に、彼らの墓は一列に並んでいる)
 なにしろ、大老の首がとぶ程、うまい喰物だと噂されて、江州の近江牛は、それか
ら有名になり、この当時から一般にも秘かに薬喰いが広まったそうである。
 彦根藩は井伊大老が殺害されると、その報復を企てるどころか、その事件の真因で
ある江州牛の逸物を雌雄二十頭、すぐさま水戸へ献上。
「跡目相続の儀よしなに」と願い出てきた。
 斉昭公も牛肉をまるごと貰えば文句はないから、彦根藩の跡つぎ問題に協力をした。
 が贈られてきた江州牛を千波原に放牧する段になってきて斉昭公は当惑した。とい
うのは、かねて、ここへ集めていた和牛の群れは食っても美味ではないので持て余し
ていたところ、
----かの牛共を利用して洋痘の種つけ致したく。と長崎伝習の蘭法医から願い出があ
って、それらの牛は、種痘用にされていたからである。そこで斉昭公は、
----江州牛に前のが混じってはならぬ。よって柵を三重にせい。と厳命を下したもの
である。

 この牛に種つけして痘菌を作ったのは、水戸が、まずい牛肉に手をやいて廃物利用
にしたからで、国内では一番早く最初の種痘が藩令として行われたのが、ちょうど俺
の産まれた翌年だったのである。
 赤ん坊だった俺の知った事ではないが、当時は大変な騒ぎだったということである。
 だから家中でも、お下(しも)あたりの連中には、いろいろと妙な噂がたてられて
いた。流言と言うやつである。みな実検台にされるのを恐れたからである。
「やわらかい牛の肉が、お好みの殿さまは、赤児に牛の精を植えつけ、仔牛に変えて
しまって、すきやきになされるのだ」
という極端な取り沙汰から、さては、
「十人に一人ぐらいは、やり損ないが出て、牛頭明神みたいに、頭に角が出てくるそ
うな。長崎では、そういう牛頭の子供を集めて、地獄の番卒みたいに、虎皮の褌をは
かせ、清国へ見世物に送り出して銭儲けしとる‥‥」
 まるで見聞してきたように、言いふらす物も居った程なにしろ大騒動だったらしい。
(初めて産れた俺に、そんなに恐ろしい種痘を受けさせて、万が一にも、畜生に化身
してしまったら、どうしよう)と、小心者の父は迷ってしまったのだろう。つまり吾
が子可愛さに、父は御下命にそむいて、うまく、痘の種つけを子に受けさせずにごま
化してしまった。
 もちろん、その時は、それで済んでしまったらしい。
 なにしろ施術する藩医にしても、それ程までに自信もなかったから、積極的に、一
人ずつを厳しく調べて徹底的に、行った訳でもなかったからである。
 が翌年、風邪がもとで、俺は熱を出した。
 すると顔一面に、赤い粒が、ぐみの実のように噴きだしてきたそうである。
「これは、疱瘡だ」と騒ぎになった。
 種痘させた筈の子供が発病したとあっては責任上、これは大変である。掛りの藩医
が、わざわざ診察に来た。のちの俺を養子にされた猿田元磧先生である。
「お殿さまの言いつけ通りにするが忠。それを守らぬ者は、これ不忠の逆臣である」
ということになってしまった。
 つまり「種痘もれ」と判明したから、組頭は、己れの立場を守るためにも、可哀想
な父田中源之介を、目付に訴えでてしまった。その結果。
 俺が大病に罹ったばかりに、一切が露見して、父は、食禄八十石を召上げられ、お
長屋からも出される羽目になった。追放である。

「----私の代になりまして不忠のお咎めにて、お召放ちは、まことに先祖に顔向けな
り難く、何卒、一子田中源蔵をもって名跡許し賜りたく‥‥」
と御上申書を残して、すっかり周章狼狽した父は、あたふたと解決策に死を急いだ。
 見苦しくないように真新しい晒木綿の襦袢をきて、畳を一枚裏返し、そこに正座し
て、腹の小刀を突きこんだ。二寸位は切先が入ったそうだが、恰好をつけて、部屋の
真ん中を選んだものだから、背を凭せるよりどころがない。
 介錯人を前もって頼んでおいたら、ここで素早く、丁と首を斬り払ってくれるわけ
だが、家の中に居るのは、二才の源蔵、つまり、この俺と当時は二十一の母だけであ
る。
 腹へ刀を刺したら、すぐ死ねるかと思っていたらしい父は、眼を白黒させて、
(こんな筈ではなかった)と狼狽した。背後から母に抱えさせて、腹の刃を横へ引い
たが、てんで動かない。もどかしそうに焦るから、見兼ねた母が、それで手を差し添
え力まかせに引っ張ってみたが、深すぎたのか駄目なのである。
「大刀を‥‥」と喚き散らすから、母は背から離れて、刀架からそれを持って来たと
ころ、
「‥‥首を」と父は、せがんだが、女の細腕では、抜いたけれど、とても振りおろせ
ない。
 切先を父の咽喉に当て、ひと思いに突き立てよう。と思案してやってみたら、刀身
が長すぎて、斜めに支え棒した恰好になって、力の入れようもなかった。という。
 小刀の方なら手頃だが、これは腹にもう差込んであるので、それを、ではと引抜こ
うとしたけれど、もう肉がしまって喰いこんでいて出てこなかったそうである。
 ずうっと砥ぎに出してないから錆がきて居るが、脇差が一本。戸袋の中に蔵ってあ
ったのを、母は憶い出した。そこで持ってくると、危なくないように父は刀身に布を
まかせ、畳の上に垂直に母に持たせた。中腰になった父は、息を整えて己れの顎を、
その上に、木槌のように振りおろした。
 突き刺さりはしたが咽喉でなく顎の下だから、鋒先が舌を突き抜けて出た。そして、
歯の間から、赤錆まじりの黒い血が迸り出ただけだった。という。