1014 サンカ生活体験記 13

国分けは川筋

 海魚の馳走で満腹してセブリへ戻る道すがら、ヨシの姉娘夫婦の長い営みを素知ら
ぬ顔で平気で見ていた娘だが、やはり内心相当に刺戟されていたのか、まだ興味がお
さまらぬのか、
「カゲヒネリウタちゅう婚儀(よつぎ)の法(のり)歌を知っとるん‥‥」
と言ってきた。
 前に聞いた事があるとうなずいてみせると、娘はつまらなそうに、セブリでのしき
たりというのを教えてくれた。
 いかし(十四歳から二十歳)週三回   はや(二十一歳から三十歳)週四回
 ますら(三十一歳から五十歳)週五回  すけ(五十一歳から七十歳)週六回
 ますけ(七十一歳から九十歳)週七回  ちぬ(九十一歳から百十歳)週十回
といった夫婦生活の回数の話だが、七十一歳から九十一歳までは毎日、九十一歳から
は一日に一回半というのはオーバー過ぎではないかと、からかわれていると思って、
まさかと首を大きく振れば、
「爺さまや婆さまになると身体の芯が冷やこくなって、二人で抱き合って温め合わな
いかんじゃろ。だから、べったりくっつき合って芯から温め合うには、ずっと互いに
入れ合うんだがね」さも、穿ったような事を言った。
 その伝からゆけば、九十歳を越えれば、日中でも横たわっている事が多い。夫婦が
まる一日中くっつき合っているゆえ、つい結び合うのが多くなるわけだ。
「うん、そう言やぁ、そうかも知れへんなも」
と、案内してきてくれた娘に礼代わりにいえば、
「アヤタチ‥‥ミスカシ‥‥クズシリ‥‥クズコ‥‥ムレコ‥‥セブリと、この法は
昔から定まっていて、昔からアヤタチ丹波御先祖さまのお取り決めなされた事だぞや
ぁ」
キッとしてやり返され、全国に箕作り組合がオカミによって作られた時の各地の理事
長(おびと)にしても、丹波アヤタチさまは四百七十八代目だから、神様も同じだと
言いきかせてくれた。
「ハタムラはヤヘガキというて、アヤタチさまの定められた尊いもんで、守らにゃい
かんのじゃから、内面集族(はたむら)も、秘密集族(しのがら)とて、みんな丹波
のお指図によって一つにかたまって生きとるん」
 まるで女神が宣言するみたいな言い方で、私の肩をこずくみたいにして手厳しく言
った。
 かつて下腹部にうっすら金色みたいに光る産毛の濃いのを見せ、胸元もせいぜい皿
ぐらいだったヨシの姉娘が、汁椀みたいな乳袋を烈しく揺さぶって、黒々と生えたも
ので夫のものを食らい込むようにして、のしかかって行く凄まじかった有様を思い出
して、ただもう私は怖ろしかった。
 ヒューッヒューッと、野分けの風が川原の葦を叩きつけるように聞こえる黄昏の道
を、「うん」「うん」と、あまり呑み込めもしないのに、逆らったら娘にねじ伏せら
れてしまうのではないかと、娘に初潮がもうあったかまだなのか判らなかったが、た
だ脅えきって答えた。
 なにしろ初潮があってから契りを結んだ男は、どんな事があっても生涯の伴侶と定
められてしまい、拒んだ時は浮気が発覚した時と同様に、人知れず始末してよい掟を
聞き知っていたから、せっかく愛知一中へ入れたばかりなのにと、ただオロオロして
うなだれ、ついていった。
 「一夫一婦制(つれみ)」はサンカ人の純ヤマト人種の純血を守ってゆく為とはい
え厳しいもので、占領軍が各地にいた時代には、暴行された妻や娘は直ちに夫や親が
抹消。相手も捕らえて行方不明。
 そうした話はブルニエで四世の男にも聞かされた。アメリカでトケコミしている連
中も、ロスのリトル東京のシノガラの指示で、同じ部族の娘をツナガリが見つけてき
ての結婚だそうだ。
「‥‥アメリカでは見合い結婚どころか、逢った事もない娘と?」
と、その時、まさかと本気にしないでいると、四世の男は首を振ってみせ、純血を守
ってゆくのが生きとし生ける使命だと、
「昔の普通移民なんかは、写真だけで縁組みしたぐらいじゃもん」
と、苦笑いしていたのを思い出した。そこで、てっきり彼の嫁さんがしつこいので、
日本へ来ているのかと同情したものである。
 さて、「サンカの社会」では、東海道(うみのみち)の長(おびと)である武蔵津
分の一つまりムレコをば、はっきりと、
下谷に 下田田地火
目黒に、目黒田地火
巣鴨に、池上田地火
大森に 大森田地火
三河島に 山谷田地火
田無に石神井田地火
巣鴨に、巣鴨印火(インベ)
の他に17ヶ所が出ている。今の東京や周辺のシノガラの数たるや、トケコミしてい
るのが全国一だったらしい。彼らの故郷であるセブリ群のユサバリが、千葉、埼玉、
神奈川には数多かった事にもなる。
 普通の国別では今の埼玉県が「武蔵」で、氷川神社や高麗神社が祖神。東京都は
「胸刺」で、新羅系の小石川の白山さまや隅田川べりの白髪[髭?]さまが祖神。神
奈川県の川崎、横浜、橘郡、久良岐郡、都筑は百済系の「実城(さねさし)」だが、
サンカ社会では三韓時代からの国名など問題にせず、ムネサシもサネサシもひとっく
たにして武蔵にしてしまい、江戸時代に白衣の大山詣りで賑わった事で有名だった石
尊のある奏野からを相模となし、自分らで国分けしているのである。
 つまり彼らは川にそってセブリを張るからして、川筋をもって地域別とするのであ
る。判りやすく説明するために「セブリの社会」から援用してみると、東京での例で
あるけれども、

多摩川族(タマガラ)
 多摩上(たまがみ)‥‥多摩川上流 多摩上一。
 多摩下(たますゑ)‥‥多摩川 下流 多摩下一。
江戸川族(エドガラ)
 江戸上(えどかみ)‥‥江戸川上流 江戸上一。
 江戸下(えどすゑ)‥‥江戸川下流 江戸下一。
荒川族(アラカガラ)
 荒上(あらかみ)‥‥荒川上流 荒上(あらかみ) 一(はじめ)。
 荒中(あらなか)‥‥荒川中流 荒中 一(はじめ)。
 荒下(あらすゑ)‥‥荒川下流 荒下 一(はじめ)。

 「はじめ」というのはムレコの事だから、この三本の流れにはセブリを取り締まる
のが七人いた事になる。が、荒川の三河島に巣食っていた戦国時代の武蔵七党の残党
がかたまって川州にいた。
 小田原征伐後に関東に国替えになった家康は、領土が広くなって人手不足だったし、
彼らがシノガラと判っていても、旗本や御家人にみな召し抱えて江戸の治安をまかせ
るようにした。
 彼らは、やがて三河譜代と称して、関東に神君が入部以来の譜代の臣だと豪語しだ
した。<野史辞典>に、一向宗の仏教地の三河より旗本に取り立てられたのは、中島
太郎左一名のみと明らかにしたのはこれ故であるし[『野史辞典』では、『四百四十
ニ石の松平太郎左衛門と六百七石の中島与五郎の柳間詰めの旗本二名だけ』とある]、
贋系図作りの沢田源内に「三河風土記」や「後三河風土記」を刊行させたのを流布さ
せたのも、三河島旗本御家人が圧倒的に数を増してきたので、彼らの恰好をつけさせ
るのがオカミ御政道の都合から、町奉行所で偽作を大目にみたのである。
 このため荒川族は、旗本どもからの合力が多く、ムレコがそれを皆に配ったので、
金で町人別や寺人別を購めて次々と公然のトケコミをして、裕福な商家の町人になっ
たと伝わっている。
 つまり江戸時代には、大名領、天領といったような公儀の国別とは別個に、彼らは
川筋ごとにムレコを配し、クズシリに命令し、各国のツキサキが統一。丹波のアヤタ
チを補佐するミスカシのハエガキ(ハタムラ)を全国統一に下して、サンカ日本人を
一つにしていたのである。
 私のサンカ生活体験は今度は二月だった。三月からは一年生になるため本を揃えね
ばならなかったわけもあるが、どうも、あの晩から娘が来て襲われそうなので、それ
が不安だったからである。「好色」などという言葉はまだ知らなかったが、インドの
シャクテイ信仰の洗礼を受け、己が身体の中で燃え、何歳になっても男を求め総てを
支配し、古代の日本女性は太陽だったなどというのも、女ならでは夜の明けぬ国とさ
れたのも、純日本女性のあくない強い欲望よりらしい。
 私が女性への畏怖感をいまだに拭いきれず単身ぐらしなのも[厳密には離婚されて
いただけのようです]、この少年時代の二回にわたるセブリ暮らしで身にしみてとい
うより、脳髄から釘でも打ち込まれてしまった記憶かららしい。
 東京にかたまっているシノガラは互いには素知らぬ顔で、全く相互の行き来はせず、
ツナガリとよばれるムレコ直属の者が別個に訪れるだけだから、妙な話だが都会にト
ケコミしている連中は純日本人の混じり気のない血統を守るために、絶対に口外もし
ないし素振りも全く見せない。それゆえ、隣り合って住まっていても判らぬ事が当然
みたいになっている。
 越中富山の国ハジメ弥四郎が各国別のハジメに連絡をとるため、各地へ売薬を持っ
て行かせておいて、置かせては年々廻らせていたのは香具師(野師)であって、シガ
ラミとは無関係であると、昭和二十五年に作られた官製みたいな関東箕作り制作組合
では言明している。
 なにしろ、内務省警保局の下部組織の民族事業融和会よりの莫大な機密費が出され
ているので、表面は従順に協力したように装ってはいるが、絶対に口外はしない秘密
の伝統を、西暦663年から厳守している。だから、それがまさか置薬を配って歩く
他にと、真実など口が裂けても言う筈はない。
 それに警保局が惜し気もなく機密費をバラまき、三角あたりが一人百円という、今
でいう十万円ぐらい配布したところで、彼らは終戦後でも、農協や信用金庫を二億八
千万で何ヶ所も作っていると公表しているくらいの実力ゆえ、実際は、その百倍は共
有資金を持っている。貧乏人扱いして肉や酒を馬車で運んで行って甘心をかおうとし
ても、表面ではハイハイ言っても、そこは適当。
 それを真に受けて、サンカ人間の生活は苦しいものと決めてかかり、国別のトケコ
ミ就職状況などを、さももっともらしくつけた一覧表のごときは、何も知らぬ人は、
よく調べたものだと感心するかもしれぬが、絶対秘密主義の彼らにしてみれば、やむ
なく千分の一どころか、万分の一にも及ばぬ絵空事で、オカミへ届け出たという地方
別のセブリ数にしたところが、
 1 関東(東海)箕製作者組合 411張
 2 北陸道箕製作者組合     31張
 3 東山道箕製作者組合    209張
 4 畿内箕製作者組合     293張
 5 山陽道箕製作者組合    311張
 6 山陰道箕製作者組合    204張
 7 南海道箕製作者組合    233張
 8 西海道箕製作者組合    299張
といったのは、余りにも数が合わなさすぎる。
 日光川や筏川の周辺だけでも百二十余のセブリがあったのに、名古屋西部だけでな
く東海道全部が四百とは、私の覚えでも本当にはできはしない。
 恐らくは報告された数字は僅かである方が喜ばれるから、ぐっと0をとって押さえ
たのだろう。
 「進駐軍の命令によって調査したものゆえ、合計千九百九十一の数は絶対に誤りは
ない」とし、明治43年2月1日には二万三千三百八十三のセブリ数の記録だったか
ら、半世紀で一割どころか、8パーセント強に激減。進駐軍のジープによって協力を
得た実数だと発表している。
 しかし調査に協力したのは、進駐軍でもシノガラのアメリカ兵である。吉田内閣に
協力するより多治あゆたちの指示によってジープを走らせているのだから、数をまと
もに報告するよりは、僅少の方が弾圧されず安心するだろうと、星条旗の威力をもっ
て一割以下にもしたのだろう。
 本当にセブリが減少してトケコミがどんどん増え出したのは、吉田茂の愛弟子の池
田隼人が、海流学の知識がなくミシシッピー川で公害され沿岸の青少年がおかしくな
り、ヒッピー化してアメリカが困惑している時に、暖流と寒流の吹き溜りの日本列島
であるのも知らず、
「日本は島国ですから海へ放棄すれば、絶対に安全です」
と、公害産業の下請けを引き受けた頃、各工場は川へたれ流し、海の出口でもヘドロ
となって溜まってしまい、もはやセブリは張れなくなって、セブリが山にも入れなく
なり、やむなく都会へとけこんできたのである。
 しかし、トケコミをしてもツナガリで同じサンカ人どうしの縁組みをし、純ヤマト
血統は守った。昔は向こう三軒両隣と近所づきあいが盛んだったのが、今のマンショ
ンなどでは全く双方とも没交渉で、口もきかぬというのは、いかにシノガラが都会に
多くとけこんでいるかの例証で、転場者とよばれて次々とセブリを移動させていた人
達が、みな居附になったのである。
 なにしろツナガリしか連絡をとらないのだから、変な話だが隣どうしがそうであっ
ても、双方とも判らないのである。徹底的に他へは秘密主義というのは伝統的ゆえ、
これはやむを得ぬ事。
 つまり昭和二十四年九月の男子6750人、女子6949人といったサンカ人口は
全く信頼できぬもので、私はトケコミを入れて三百倍以上が実数とみる。そうでなく
ては辻つまが合わぬ。
 「サンカ社会」の本に、各国別として列記されている表にしても、尾張43張、志
摩0、伊勢19張となっているが、私の記憶では前述したように日光川・筏川の尾張
西部の一部分でさえ倍はあり、志摩半島には20余あったし、伊勢は三重の矢田河原
だけで50か53あった。てんで違う。
 また、東北の奥州の青森、秋田、山形、宮城、福島、岩手の六県にはサンカはいな
いと明示されているが、「しょうもん[将門]部落」探索に二年ほどかけて廻った時
に、本物のセブリがないというのは厳冬地帯で、どうも深い雪に埋もれてしまうから
という概念からの決めつけであるらしい。
 終戦後はトケコミが各県に居附になったというが、南部藩のごときは昔から焼石料
理で温石を用いていたゆえ間違いなく、岩手の郷土史料参考館の出品物の中にも、シ
ノガラの貝刃のウメガイが陳列されていて、セブリは張らずとも戦国時代以前よりマ
タギや侍としてトケコミした人達は相当に多かったらしい。
 なにしろ郭将軍の人間狩りも東北の隅々までは行っていないので、純日本人種の女
夫が、雪に埋もれつつ、まぐわって多くの純血の種を残している。
 まぁ、オカミとしては弱小民族とみなし、その人口を僅かなものとみたいので、た
だそれに合わせて、非サンカ人地帯などと東北を報告させれば都合がよいから、一覧
表にしたのであろう。

 まだ春といっても、川原の葦は根元は青くても上の方はみな黄ばんだままで風にそ
よぎ、セブリの布地もヒタヒタと揺れ、近くのユサバリはハタムラ通りに五張のセブ
リだったが、小高い丘に登れば、日光川の先には小さな三角形がいくつもかたまって
群れをなしていた。
「‥‥学校さ行くんなら仕方があらすか」
と、ずっと暮らして馴れ親しんだ娘や、その弟が引き止めたがるのを母親はたしなめ
て、別れの朝食を、海で獲ってきた鰯の乾したのと野草を入れた汁で、皆でフウフウ
いって食した。ずっとセブリにいたい心地も、私としてはしたものである。
「送ったるぎゃあ」
と娘は言ってくれたが、先日の事を思い出し、もし途中でなんされて、またオシッコ
をかけてはと用心して、母親に手をついて礼を述べ、一人でセブリを出て歩いた。
 関西本線の弥富の駅まで中山へ出て田圃道を歩いて行くと、セブリの娘か村娘か、
中腰で野良で尻を突き出し、立ち小便しているのが何人も見えた。まだ寒いから冷え
込むらしくのぞめた。
 時刻表も調べずに駅まで来たので、一時間以上も待たされた。が、もうじき自分も
ニキビが出るかもしれんと思うと、もうセブリには来られんと、うっかり初潮(さそ
い)の始まった娘にいどまれたら、九十歳や九十五歳になっても週に十度や十五度も
上にかぶさってこられる夫婦になって、ずっと下敷きにされてしまうのかと思うと、
ぶるぶる身震いしてきて、何度ももよおし駅の便所へ通ったものだ。
 そのくせ、二度にわたって過ごしたセブリ暮らしも、これでもう来てはいけないの
かと思うと悲しかった。いっそ愛知一中へ行くのなんかやめにして、セブリで一生を
過ごしてしまおうかと、一時間の余も間があったので迷ってしまいもしたが、切符は
もう名古屋まで購った後。
 だから、正直言って未練たらたらで、改札が始まると、情けない顔をして二番線の
ホームへ出たが、それでも筏川の方をじっと睨みつけるみたいに見つめていた。涙が
出ていた気がする。


サンカ人が日本防衛

 終戦後、それも河川や湖沼が公害で川べりにセブリが張れなくなってから、今では
長野、山梨と九州に僅かに残っているきりだから、それで、もはやサンカ人は絶滅し
た事にされている。
 だから、珍しがられるように、サンカの本は千二百円の定価のものが古本屋で三万
円から五万円もするが、みなトケコミでシノガラとなって散在して、数多く都市居住
しているのは、あまり一般には知られていない。
 というのは、大正時代でさえ名古屋の、今は中区の東本重町にあった祖母の許へ、
暮れにはツナガリとよぶ尾張ハジメよりの連絡があり、同じ町内にも六軒か七軒は、
やはりそうらしいのが、別にどういう付き合いもせず、ツナガリも来たついでだから
一緒に廻って歩くといったような横着な事はせずに、別個に月を変え日を違えたりし
て、全く別人のツナガリが来ていたようである。
 だからして、子供の私なんかも、ははんと思っても、そこは絶対に気づかぬように
せなあかんと言われていたからして、見て見ぬふりをしていたものである。
 なにしろ祖母の口から、八代将軍吉宗の亨保年間から七間町の大牢の近くのここに
住みついていると聞き、教科書の歴史年表を引いてみると、村垣左太夫とよぶ御庭番
を名古屋城へ忍びこませ尾張継友を毒害し、吉宗が将軍になったのは西暦1716年。
その子に田安、一橋、清水の三家を作らせ、尾張継友の弟の宗春をでっちあげて閉門
にさせ、初めは支藩高須家より継がせたが、やがて田安、一橋といった吉宗の子種が
尾張藩主。用心のために村垣の弟の伜を「土居下衆」として送り込み、尾張者が反乱
した時には、死を以って救出せよと送り込んだのが二十六年後の寛保二年のこと。つ
まり、このどさくさに紛れ、私の御先祖様はトケコミしたらしい。
 それから二百年たっても、ツナガリが来ていたというのは大変な事である。もちろ
ん、
「トケコミ三代ちゅうから、それでムレコと縁切りする事も、孫の代を過ぎるとでき
る。でもよ、そうなったら誰に頼ったり助けてもらえる。嫁とりや婿とりだって、何
処の馬の骨か判らんもんはとれん。ツナガリさんに来てもろうて頼み、年に一度だけ
分相応に出せるだけのものを国ハジメさんに納めりゃ困っとりゃあす人も助かるもん
な。丹波アユタチ様は天孫降臨とは違う」
 中学三年になったばかりゆえ、祖母が亡くなる二ヶ月ぐらい前に初めて教えてくれ
た。つまり、セブリから出てしまえば、孫の代までは、なにかと世話もしてくれるが、
曾孫の代になってしまえば、縁が一応は切れる。勝手に振る舞ってもよいし、引き続
き厄介を受けても可である。
 若い頃には絶対に何も言ってくれなかったのに、己れの死期を知ってか、一廻り身
体が小さくなっていた祖母は、何度もセブリへやっていた私だけに話しやすいのか、
私が脊を揉んでやると、
「昔は三の区別(ケチ)というてな、明治までは、まず一は門づけや出雲の御国のよ
うな女役者で、屋根のある所でやるのをトエラ。露天でやる梅坊主のカッポレなんか
は一段下のヤシナ。が、それだけで食えんのは「スルド」の「剃刀包丁とぎ」とか
「スイタケ」といって、煙管の羅宇屋。「メアケ」と呼ぶ鋸の目立てや、挟の大きな
のを腰にさして庭師をしたが、四つ(源氏の白系)には、「坪立」という本職がいる
ので、出張った枝や葉を剪るだけで、新しく木をもってきて植えたり、移しかえるの
は明治まで絶対に御法度だったんだぎゃあ‥‥」
などと話してくれた。
「トッタベとは一般の生業。蓑を作ったり、下駄や足駄の歯入れじゃ、新しい木で台
に作り鼻緒をすげたり、草履作りは八つ(平氏の赤系)の仕事ゆえ、すりへったり折
れた歯入れだけするんじゃ。ヤシナの中でもフイゴは火を使うから吹子屋(鋳掛屋)
は八の血を引く衆だけの仕事。イツモリは石工とか土工といった力仕事をやる衆で、
これが暮らしの三つの区分けだったが、日露戦争の頃から、国旗売りや、物干し竿や、
スス払いの笹竹売りもやるし、コウモリ傘直し[これは影丸も尾張の郷里で昔よく耳
にしました。『こうもりがさなおし〜』と、よく透る声をあげながら流して歩くので
ある]や取柄の換え売りもする。マムシ獲りして薬種作りもやっちょるんよ」
とは教えたが、
「絶対に他人に言うたらいかすか[駄目だよ]‥‥わしらは昔からここの国もんだが、
他所者が多いで、内緒にしとかんと仇されるちゅうて、クズシリさまからも、きつい
お達しじゃ」
と戒めたものだ。
 しかし祖母が亡くなって、弁護士をしている父の許へ書生代わりに引き取られた後、
一年ほどして[東本重町へ]行ってみると、紺屋と鍼治療の家はそのままだったが、
鋳掛屋は印刷屋、庭師のところは花屋に変わっていた。職業の自由というか、紺屋の
娘が朱色の袴をはき、栄町[さかえまち‥‥中区]の電話局勤めだった。
 死んだ祖母の話では、セブリから抜けても、三代の間はいつでも戻れて、ウメガイ
を返してもらえ、又セブリが張れるので親類扱いで、「ウガラ」といい、これは生族
と当字をし腹族(はらから)。
 その後も「カラ」と扱われて年に一回「本家(ホンゲ)」とよぶ分相応なものを各
自が納めさせてもらう。
 婚礼したり葬儀の時だけでなく、働き手を失って困っている母子家庭には生活補助
法もなかった昭和初期でも、ツナガリが男一人分の賃金に価するだけの額を、ホンゲ
として集まっている金のうちより国ハジメさんから配られてきて、絶対に困らぬから
と保健でもかけるみたいに、私の祖母みたいに代々二世紀にわたってホンゲを納めて
いたのかもしれないと考えたりした。
 なにしろ、久しぶりに東本町へ行った時、花屋の裏口から出てきたのが、先方は育
ちざかりの私ゆえ気づかなかったらしいが、ツナガリだったのを私はまだよく覚えて
いるからである。
 祖母は上(サキ)の親。ササキチはその又サキの父母で、曾祖母にあたる。チカラ
というのは主税と書いて今では主税局みたいだが、多弁になった死ぬ前の祖母は、
「大石内蔵介の伜が主税という名だったというのはハラカラの意味ゆえ、シノガラに
違いない。それが何より証拠には、京のクズシリ様のいる山科にひっこんでいるので
も判るがね」
 本気か冗談か、祖母は若宮さん[名古屋市中区の若宮八幡宮]の末広座へ歌舞伎を
見に連れていってくれた時、桝席の中で口の中で呟くみたいな独り言を言っていたの
を、何かの拍子に思い出した事がある。
 江戸は京の真似をして町木戸を作り、番人を置き、日没から夜明けまでは鼠しか通
れぬようなっていた。本所の紀文材木小屋に勢揃いした赤穂浪士たちだが、二ツ目の
吉良邸までの間は町木戸は二つゆえ、あるいは筏に乗っていったかも知れぬが、引き
上げの芝高輪泉岳寺までは元禄版江戸切絵図では四十三個所もある。それが、総評の
番太郎ストもなかった筈なのに、皆開いていたのである。
 同じ時代ゆえ安藤広重は、あり得ない事なのでと、討ち入り続き絵には往復ともに
小舟に分乗して行く浪士たちを描いている。番太郎は大番屋所属で、丁つまり十二月
は前京奉行から栄転の南町奉行松前伊豆守。
 十二月十四日には、米沢へ行く吉良がそれまで匿われていた麻布狸穴の上杉中屋敷
から、旧近藤登之助の古い本所屋敷へ別れの茶席へ赴くのを大高源吾に教えた四方庵
山田宗偏は、前の京所司代から一万石加増されて老中となった小笠原備後守の親代々
の家来。
 討入りの晩にわざわざ生卵の箱を恭しく持って行き、皆に配ってから、励ますよう
に、
「ご助力申そうか」
と、紀文長屋へ駆けつけた堀内源太左衛門は、松前伊豆守召し抱えの捕方どもへの棒
術指南として扶持を受けていた人物。みな柳沢の一味徒党である。マフィアなみの組
織。
 そして、吉良の首をとってしまうと態度一変し、全員みな賜死あってしかるべしと
進言したといわれるのも柳沢吉保の五百石の臣の荻生徂来。この時代は侍に意見はな
く、みな殿の言いなり。
 柳沢のマフィアが寄ってたかって吉良を生きたまま米沢へやりたくなかった理由と
いえば、箱根以西は銀何匁の貨幣制度で、金はカネではないのを良いことに、古金の
大判小判の流通を禁止して京へ送り込み、吉良上野介を宰領に堺の中村内蔵介に命じ
て銅を半分以上混ぜた元禄小判を鋳造し、当時の警察庁長官にあたる仙石伯耆ら幕閣
みなに大盤振る舞いをしてのけた。
 柳沢吉保は収賄などせずに逆に金をばらまいたから、明治になって清潔な施政家と
して追贈正三位。勘定吟味方にすぎなかった荻原が勘定奉行と、それぞれ金の他に出
世させてもらえたのに、吉良だけは高家という立場ゆえ金は貰えたが、望んだ大目付
は断られ、「辞める、隠居する」と口外した。
 生かしておいて贋金作りを暴露されてはと、勅使が帰る日になって田舎大名の浅野
を呼び、
「いかようにしても抜刀させい。そちには何の咎めもない。加増してとらせるぞ」
と、理由も告げずに命令するなり、小笠原らを伴って能の席へ行ってしまった。
 こと大老柳沢吉保自らの命令である。小藩の浅野は忠犬の如く吉良を探して廻り、
見つけると何とか抜刀させようと、額を突き肩を突きながら、
「抜けッ」「武士の情けじゃ、抜いて下され」とまで叫んだ。
 さては柳沢が殿中で抜刀させ仕置きする肚とみてとった吉良は、相手にならず不成
功に終る。よって、すぐ坊主部屋に入れられ、唐丸篭に入れて運び出された浅野は、
口をきかれては困ると、田村邸に入り[篭の]扉を開け首を出したところを、バッサ
リ背後から打ち首。
 吉良の跡始末は甘言をもって浅野浪人にやらすべしと、せっかく上杉家より一万両
出して作らせていた頑丈な呉服橋の吉良邸は、私邸なのに没収。代わりに辺鄙な本所
のボロ屋敷が柳沢吉保より与えられた。そして、首尾よく殺せば再仕官させるとの好
餌で討入りの便宜も計ったのである。
 ゆえに、吉田忠左衛門らが泉岳寺へ行く途中で、大目付仙石の役宅にわざわざ経過
報告に行ったのである。
 「主君の浅野も使い棄て、浪士も使い棄て」で、かわいそうすぎると芝居では塩谷
判官だから、「判官びいき」の言葉も生まれてくるのである。
 「春本壇の浦合戦」の主人公にされた九郎判官義経の事ではない。上杉家もシノガ
ラのトケコミだし大石も同じだとなると、米沢の国ハジメも幡州の国ハジメも困って
しまい、丹波のアユタチの御裁可を仰いだが、時は元禄時代。
 上方歌舞伎や浄瑠璃では、銅をどんどん混ぜて作っていた中村内蔵助が、祇園の一
力を連夜借り切ってのダダラ遊びだし、女房も負けじと嵐山で衣装くらべも日本にお
けるファッションショーの元祖。
 そこで当時、西では有名な内蔵助を一力の場に出し、芝居は大当たりをとった。
丹波アユタチも、まさか柳沢吉保がそこまで巧妙に筋書きをたてて、吉良邸内には兵
隊並みの三名一組ずつが斬り込み、上野介を見つけると邸外へ曳きずり出してきて処
分。
 それまでは大身の者や老人は外部にいて、近所の旗本屋敷で手焙りを借りたり、白
湯を貰っていたにすぎないのでも一緒くたに死罪にしてしまうとまでは思っていなか
ったので呆気にとられてしまった。
 が、憐れ踊らされ再就職の罠にかかった大石よりも、乞われて上杉家より行き、同
夜いきなり不意に入り口で突き殺された家老の小林平八郎がクズコとして同行してい
たので、せめて彼の名誉だけでも回復せねばならぬとのクズシリさまの言い伝えで、
幕末になって貸本のベストセラーになった式亭三馬の「女忠臣蔵」の中では、若くて
良い男にさせた上で、華やかな女衣装で泉水の石橋のところで浪士の一人を凍る水中
へ蹴落とすような武勇伝に仕立てあげさせたのである。
 どうも、当時のアユタチは大石よりも大野九郎兵衛のほうに自らの悪役をかってで
ただけに、同情して、庭子峠にたてこもっていた一党十七名の食糧をも密かに運ばせ
てていた模様である。「オの字忠臣蔵」[日本シェル出版]に、この間の真相は詳し
く述べてあるから、ぜひ一読してほしいものだ。