1013 サンカ生活体験記 12

 私が再婚の邪魔になるというので、歯入れ屋のヨッさんのセブリへ預けられていた
のが、スペイン風邪の大流行で生母が幸か不幸か亡くなって覚王山へ埋められてしま
った後で、祖母は、
「生まれた時からでないと途中の戻りは苦労じゃろ」
と、そのまま遅れて八重小学校に通わしてくれ、東本重町にそのままおいてくれたが、
鶴重町角の共同便所はタイルなどは張っていないコンクリートのたたきだったが、笊
を町へ売りにくる娘達の待ち合わせ場所だったのは変わりなかった。
 祖母からは厳しく、もう口もきいてはならぬと戒められていたが、婚礼や葬儀の時
に顔見知りになっていた娘達もその中には混じっていた。だから、つい寄って行って
自分から、
「やっとかめだなも‥‥[ひさしぶりですね]」
と声をかけたりした。
 すると、娘達が口さみしさを紛らわすために持ってきた、山芋を焼石でとかし煮詰
めて固めた芋飴を口の中へ入れてくれた。駄菓子屋での、一銭で三個の黒砂糖の飴の
方が甘かったが、芋飴にはとても懐かしさがあった。
 祖母には内緒で、共同便所の陰で、待ち合わせに遅れて来る娘へ、生きた伝言板み
たいなツナギの役も、頼まれればしていた。買い物も言われれば、ちょこまか言われ
た通りに使いした。
 なにしろ私は<野史辞典>の「戸籍」の項にも書いてあるように、祖母の反対で、
母が私の兄が生まれていたのに結婚させられず、[兄が]夭折後にその名と戸籍とを
当人が赤ん坊なのに押しつけられて育った。時代が悪かった。今だったら妊娠中絶し
てもらえて生まれてこずに済んだものを、堕胎は当時刑事犯だったから母も迷惑だっ
たろうが、できたものは仕方がないと産み、そのくせ少し大きくなると邪魔がった。
 しかし、母は二十八歳で早く死んだからよかったろうが、産まれた方はたまったも
んではない。まだ生きていて、元旦なのに徹夜でこれを書きつつ独りで、
(今年の末には事故死してしまいたいが、冬は寒くて、まぁ辛いから、夏にしたいが、
それまで在庫の自分の本も片付くだろうか。ことによったら春まで待って、せめて死
ぬ時ぐらいは気候の良い季節を‥‥)
などと勝手な事を考えている。
 といって別に、てんで悲愴感などはない。もって産まれた血の流れか、セブリから
セブリへと渡り歩いていた子供の頃に、見送りと呼ぶ葬列にも何度もくっついていっ
て、そこで大人たちが誰もお悔やみや悲しみなどはせず、
(生まれてきたからには死ぬのは当たり前である)
と、きわめて自然に死を受け止めるのを見てきている名残りであろうか、負け惜しみ
ではなく、死を別に何とも思っていない。
 ただ、うまく仕事の切れ目というか、書いて残さねばならぬ事柄だけを本にしてし
まえば、それで私の「御用納め」なのである。「吾が事これにて終れり」で、葬いも
不用だし、何もいらない。
 それで考える事は、少しは変だが、よく日本精神として古来から、
「死すること、帰するが如し」
と言われるが、これは西暦773年以前のシノガラ精神。強制的に仏教で洗脳され、
死を歎き悲しむのとは違う。つまり、セブリの働き手を亡くした今後の生活苦の心配
か、それとも、死後の後始末に物入りする事への気遣いで、それで遺族は沈みがちに
なるだけの話。
「武士道とは死ぬこととみつけたり」
というのは、佐賀鍋島の始祖が、主君竜造寺隆信が有馬勢に真っ先かけて突入し討死
してしてまったが、葉隠れして一命を全うした鍋島直茂は生還。未亡人となった寧子
の方をものにして、やがて十七代続いた竜造家の跡釜となってしまった。
 つまり樹木の茂みの葉隠れや、ものの端隠して猪突せぬのが、殿様御開運の基とな
ったとして、佐賀の侍どもは、それからは始祖直茂を見習うようになったから、そこ
で山本常朝の、「葉隠れに与える書」が、軍部によって逆に利用されてきたが、それ
ゆえ肥前一国三十五万七千三十石の大国なのに、山本常朝のごとく退職した者でさえ
国外へは出さず、後の在郷軍人の如く国内に留めおいた。
 幕末になっても、輸入武器が一番揃っていたのも佐賀の鍋島で、日本でただ一門の
アームストロング砲を持っていたのも、武士道とは葉隠れする事なりと、平和好きの
家臣団のため、遠くからでも葉隠れしていても用いられる舶来兵器をと完備したので
ある。
 上野の彰義隊が頑強に抗戦したので、江戸城内で総指揮をとっていた大村益次郎よ
り、
「アームストロング砲を」
と指図されはしたが、西郷隆盛は佐賀兵では心許ないと大砲だけを運ばせて、上野へ
は薩摩兵に撃ちこませ焼野原にしてのけた。
 という事は、佐賀藩だけは、「シノガラのトケコミがあまりいなかった地域」とい
う事になるのではあるまいか。つまり、「命惜しまぬ予科練の‥‥」といったような
「死生、天にあり」という思考は、純血日本民族独特なものである。つまりは「サン
カ精神」である。そういって差し支えがあるなら、西暦663年の白村江で敗戦し、
郭将軍ら二千、後続部隊二千が進駐してきて、山へ女づれで逃げそこねた者らが捕虜
とされ、女達がみな混血児を産まされだした積み重ねの時代以前の精神というべきか
‥‥
 賢い野坂昭如あたりでさえ竹村健一に、「元寇以外には外敵を受けた事はない」と
話をし、「単一民族である」と、大まじめに信じこんで話しているのも、三つ子の魂
は百までの、学校歴史の御都合教育のせいであろうか。
 そして、日本の文化が外国には全く理解をされていぬと、「1982年、日本は孤
立するか」と、1981年の大晦日の晩テレビでは、「何故に判ってもらえず、世界
から冷たい目でみられるか」との、二時間に及ぶ討論会があったから、視られた方も
多かろう。が、どうして外国で日本の文化が理解されぬかというのには誰も答えられ
なかった。
 日本の文化とか民族性といったものを、生け花や茶の湯で解らせようとしたり、神
輿をかついだり太鼓を叩いてみせ巡演させても、それでとても理解され判ろうなどあ
りよう筈はない。
 島国というのは、英国にしてもイングランドとスコットランドは民族は違い、アイ
ルランドは今でも独立運動をしている。日本列島は、裏からはベーリング親潮寒流が
ぶつかってくるし、表日本には黒潮暖流が西南から流れてきて阿波の鳴門から太平洋
へ行ってしまう国土である。つまり日本を起点にして何処へも流れてはゆかず、海中
へ放棄したものはヘドロになって溜まって戻ってくるだけの吹き溜りゆえ、常識では
誰が考えても雑多な民族である筈なのに、「単一民族である」と自称してはばからな
い。
 せめて「単一肌色民族」とでも言うなら判ってもらえても、堂々と自分らの事を
「島国根性」などと弁護するからますます理解困難。
 それに、何処の国でも色んな民族によって構成されていて、ソビエト連邦とかアメ
リカ合衆国と、国名につけないまでも複雑な民族が共存しているのが外国では常識な
のに、日本だけは「天孫民族」と神がかり、本気に思っているみたいに堂々と主張す
るからして薄気味悪がられる。
 たしかにシノガラみたいな純粋大和民族が二十世紀の現代でもツナガリで縁結びを
して、正真正銘単一民族もいるにはいるのだが、日本人全体からみれば、一般にはト
ケコミして判らないが、想像では15パーセントぐらいのところであろう。つまり、
日本の文化や民族性が判らぬというのは、「日本歴史」が、てんで外国人の常識を超
越しているからである。
 ギリシャ神話は有名だが、ギリシャでは国史に結び付けなどはしない。なのに、日
本だけは、天孫降臨といって、日本人の先祖は天から下った神々の子孫だというので
は外国の教科書でも手がつけられず、今でもゲイシャ、フジヤマの画を出され、魔可
不思議な国で、有色人種ゆえと開発途上国なみの判断。
 西暦663年に当時の唐に占領され、マッカーサーにあたる郭ムソウ将軍が、藤原
鎌足の名前で紙幣の肖像画にもなっているし、前半神話で後半史書という妙な日本書
紀は、桓武帝が従来の国史を焚書されてからの百済史であると、せっかく南北朝時代
の北畠親房が、その著の「神皇正統記」に明白に書き残されているのさえ、南朝方の
筆になるものとし認めていない。
 というのは、今の同和地区というのは、足利時代の東西の散所奉行によって足利家
創業の時に邪魔だてをした新田・楠・湯浅・脇屋の残党の子孫の住む土地を散所、つ
まりゲットーにした事実を、無智かそれとも知っていながら歴史屋どもが頬かむりし
ているせいらしい。そうでなければ、故喜田貞吉のごとく、社会の落伍者とか馬韓か
ら来た筈の神功皇后様や豊太閤の捕虜にはしない。
 どうも本当は、日本書紀を金科玉条として、それに合わせて何も知らぬのが本当の
ところらしい。
 真実なら外国人にも理解ができるが、ここまで荒唐無稽では、幼児から義務教育で
教えこまれている日本人はそれなりに考えていても、異国人には納得できる筈とてな
いわけである。
 かつて八切裏がえ史シリーズでは、進駐軍を「黒」とし、被占領民を「白」として、
「黒白の争いこそ日本歴史である」と判りやすくした。そして、大河ドラマで北条政
子が放映されてから、古平氏新平氏の赤塗りの宮を明白に庶民をエ[の民?]、白、
紅と三種類に分類した。
 そして書き渋ったが、純粋な日本人として、このサンカを書き加えて、これで日本
の複合民族をみな一通り、真実の日本史を初めて解明し得て、後学のために書き残し
ておくのである。
 なにしろ、かつて故和歌森太郎と梅原猛と私との座談会を「週間読売」でやった時
に、
「‥‥妙なことばかり書くから、日本人ではないのか」
と梅原に失敬な事を言われた覚えがある。
 彼は和歌森太郎に同調して、聖徳太子に話題をもってゆくためか、しきりと、
「昔は名僧知識が多く、仏教が興隆だったんですね」
と力説し、和歌森もしきりに合点した。
 前述の如く、明治の末から大正にかけて、東本願寺より東宮妃殿下が御降下された
ので、官憲が一斉に反仏派に強制的に墓地や石塔をたてさせ、お寺さんが儲かってし
かたがなく、それを狙って各出版社がそれぞれ名僧高僧物語を出版。それを梅原や和
歌森は本当と思い込んでいる有様。
 私は、海音寺潮五郎が「文学建設」を、吉川英治を蹴落とすために出していた時、
資金用にと「日本名刀伝」なる本を代作させられた。美術刀剣商が殆どみな買い上げ
てくれるとかで、「正広」とか「正介」「一定」「一山」といった、聞いた事もない
名刀の逸話として、真田幸村の佩刀だとか、後藤又兵衛の愛刀だといった変てこなも
のを、私は一冊書かされた記憶がある。
 自分の名で書けば、一枚稿料50銭、書き下ろしでは一冊で50円の相場なのに、
百円くれたから言いなりに書いたが、後で聞くと無印の古刀に銘をきるには都合のよ
い名だから銘刀として書かされたのが真相で、デパートの売場で私の書いた代作本の
頁が開げられていて、堂々とそれに「相州物、備前正介」などと高価な値がついてい
たのには、穴があったら入りたい気持ちだったが、ヴァイオリンの鑑定書どころか、
新国劇では国定忠治がありもしない小松五郎の刀を寒水でふって評判になると、すぐ
さま「義兼」の銘がタガネで彫り刻まれたのが、まさか「国定忠治ご愛用の名刀」と
は表示してなかったが、堂々と「小松五郎義兼」と大きな表示板が勿体ぶって飾られ
ているのを、デパートでケース越しに見た事もある。
 一休さんだって、名僧というより子供の昔話の頓智話の主役ぐらいのところで、空
海みたいに唐へ年一回の季節風で行って二年で戻ってきて、梵字や漢文をマスターし
てきたというのは、往復だけで二年かかるのだから、向こうの人間としか常識では思
えないがいかがだろう。
 権藤成卿が東本願寺へ行き、顕如上人以前のものは、当時の墨としては混ぜ物が違
うから、後世の作だろうと言ったところ、煙草が七銭で買えた時代なのに、「寸志」
と書いた袋に、手の切れるような札で五百円入れてあるのを袂に入れられ、「寺へ喜
捨する者はいても、寺から貰ったのはわしぐらい」といった話すら伝わっているのは、
愛弟子の松沢保和先生の直話である。
 サンカ社会の話が純粋血脈を守っていくために外部の人間には絶対口外したがらぬ
厳重な秘密主義なのはまやかしでなく、真実であればこそ千三百余年にわたり秘密結
社の如く組織化されて、さも絶滅しかけているように見せかけているののだが、三角
寛の著などに出ている表も、「民族融和事業会」なる警保局特高傘下の調査ゆえ、ま
ったく申告しないわけにもゆかず、実数の十分の一どころか三十分の一ぐらいにして
提出。それを正確な情報として提出しているにすぎないのである。
 「マガクモ」という、サンカでもないのに官憲の手を逃れて逃げ込んできてセブリ
を張る連中には、「明治大正犯罪実話」や「オール読物」の三角の連載小説で迷惑を
被りだしてから、「ムレコ」とよぶサンカの見張りが絶えず見張っていて、また外で
悪事を働くと「アダモドリ」(仇戻り)」と称し、自分らの潔白を証明するために谷
底か深山に、酔わせてから生き埋めにした。
 明らかに敵性人間とみられる人種以外は、サンカは親切にしてくれ純朴なのにつけ
こんで、「明治大正犯罪実話」の本などで刺戟されて、
(彼らはみな悪者だから、逃げ込めば庇ってくれるだろうし、集団で悪事をうまくや
れるよう)
とマガクモは企んで入ってくるのである。
 サンカ人間も社会へトケコミしているゆえ、その反対も拒めはしないが、彼らの厭
いな仏教者だからみな用心して、墨染の衣の黒住者ゆえ「彼奴はクロだ」と呼んでナ
デツケをする。
 ナデツケとは、髪を撫でつけるようにあたりを柔らかに招いて、コンブを敷いた岩
穴に水を入れ魚や野菜を入れ、焼石を放り込んで煮詰めるのだが、これはテレビのC
Mで郷土料理として放映もされる。
 ドブロクをすすめ酔わせて、自慢話をさせて、人殺しを二人以上してきた凶悪犯と
判ると、
(こういうのがサンカものと名乗って、また悪事をしては皆の迷惑になるから始末を
‥‥)
と、ムレコの指図を仰ぎ、サンカものでないのに、さもそのように詐称して廻って歩
くのは放っておけぬからと、民族の誇りを守るためマガイモノの贋者を「マガクモ」
として処分する。
 というのは、一度でもセブリに暮らした体験のあるのは、警察に挙げられると、も
っともらしく、
「自分はサンカものだ」
と主張し、警察の方にも知識が足りないから、そう決め込んでしまい発表するから、
贋者が改心しないと見極めがつくと、他には知られぬよう消えてもらうしかない。


サンカは山海者

 針屋町の新愛知新聞は、その頃の事ゆえ鉛版は流さず、組んだままで刷るのだから
戦場みたいな慌ただしさで、それに、昔は総ルビゆえ、植字工のおっさんは喚くだけ
では声が届かぬからか、不足の活字をザラ紙に書いてよこした。小さな私は狭い工場
の中を縫うように動き廻った。
 当時は小学校の五年からも中学の受験ができた。
「チビ、チビ」と苛められるのが厭で、愛知一中[現在の愛知県立旭ヶ丘高校]へ入
ろうとしたが、担任の早瀬先生は一笑に伏して相手にしてくれなかったので、母の弟
の後藤茂男が強引に五年の終了証や成績証明書をとって入学試験が受けられるように
してくれた。
 まさかと思っていたが、伯父が発表を見に行き、新愛知の植字工のおっさんのおか
げで国語は百点満点とかで合格を知らされた。
 尋常五年から熱田の五中へ入った例はあるが、愛知一中へは私が初めてというので、
祝ってやると呼びにこられたが反対だった。早瀬先生が怖く、その後は八重[小学校
の]の同窓会にも顔を出していない。八重からは私の後輩に杉浦こと城山三郎が出て
いる。
 私が恐ろしかったのは、八重の連中に見つかると、生意気だと袋叩きにされる事だ
った。合格して入学金や月謝も新出来町の愛知一中へ納入したが、新学期は四月一日
からとの事で、まだ八重小学校の同級は冬休み明けで第三学期に入ったところで、殴
られるのが恐ろしくて外へも出られぬ。
「一中に行くまで、何処かに隠れていたい」
と、祖母に泣きじゃくって何遍もくり返し頼んだ。
 表へ出て筋向かいの同級生に見つかってはと、土蔵の中に隠れてメソメソして怯え
きっている私に、さすがに祖母も哀れを催したのか、縁は切ってあったのにツナガリ
に頼んだのか、
「今度、津島からいりゃあす[名古屋弁で『来る』の丁寧語]のに付いてってえぇ」
と言ってくれた。
 そこで、あの姉娘に見せたくて、新調して貰った愛知一中の制服を来て行こうとし
たら、
「だっちゃかん[だめ]」と叱られた。
 今では名古屋市営下切団地と宇治団地に挟まれ、対岸には諸桑団地の高層がそびえ
ている津島の日光川。この少し上流に、かつて織田信長の父で、まだ八田姓を名乗っ
ていた頃の信秀が城番をさせられていた勝幡城があった川べりである。
 着いたのが正月の六日だったから、サチトリの群れが河原から野っ原に散らばって
いた。セブリでは子供が三歳になると、まず焼石を作るために折木や端柴を拾い集め
させるのを「ホギトリ」というが、五歳になると、食せる野草を母親が教えて摘ませ
る「葉サチ」の行事にぶつかった。
 俗に言う春の七草になるが、サンカでは嫁菜とカワラケは摘まず、仏の座と呼ばれ
るのと大根葉を摘むのは、焼石を放りこむと嫁菜やカワラケ草は絡みついて料理しに
くいからだと、娘達は判りやすく教えてくれた。
 ちょうどその年に、五歳になる子のいない家では、母親が他の子達を伴って食せる
七草を摘んできて、流れの水に漬けて泥を落してきれいにして、一種類ずつかためて
並べて日没(イリ)を待つ。
 そして暗くなると、自在鉤の下で燃やしだす火勢を強くして、「幸ノリ」を始める
のが慣わし。
 スガケとよぶ水桶と、まな板にあたる切り板の新しいのを揃え、炎挟みと呼ばれる
火箸や、ツブシ木とよぶスリコギに飯ヘラのシャモジと押刃、つまり包丁を炎木とよ
ぶ薪の前に揃える。
 「セブリカド」と呼ばれる父親が立ち上がって、炎に拝礼してから、新年の食物に
対してウメガイで邪気を払って、幸せあれと祈りをする。それがすむとミソカミ打ち
といって、家族が並べてあった包丁やスリコギをてんでに持って、やはり去年までの
邪気を切るように、
「ナナクサを」と五文字を区切って叫ぶ父親に続いて、家族もそれに同音に叫んで叩
く。
「ムクライコハデ」では、七回にわたって打ち払うようにして清めをなしてから、
「サチニセブラム」と、またセブリに残っている邪気を払い、炎に揃って最敬礼して
儀式(カタトリ)は終る。
 そこで、母親が熱灰の中に埋めて柔らかくしていた餅を、クラヒラカとよぶ竹筒の
輪切りにした竹茶筒に火箸で灰をきれいにして入れ、七草に魚で味をつけた汁をかけ
たサンカの雑煮を家族中で祝い、新年を迎えるのである。餅を焼いてから用いる関東
風の雑煮はこれかららしい[ちなみに尾張では雑煮の餅は焼かずに煮る事が多いよう
です]。
 儀式が終ると、母親は早々と火仕舞いにする。そして、五歳の子がおれば、その子
にやらせるのだが、七つの男の子しか私の連れてゆかれたユサブリのセブリにはいな
かったので、母親に、
「さぁ、せんかい」
とせかされ、手伝ってもらって焼石に水をかけて厚手の包にくるませた。
「普段は子供には抱かせんが、この焼石包(ホブセ)は、儀式(カタトリ)の晩だけ
で別じゃ。覚えさせるんじゃね」
と、眼をぱちくりしている私に、伴ってきたツルとよぶ娘はそっと耳打ちしてくれ、
教えこんだ。
 後の赤穂事件が江戸時代そのままで誰も怪しみもしないのが気になって、十年ほど
かけて調べているうちに、吉良上野介の一歳年上の嫁である上杉家の三姫が、この焼
石を用いていて、「温石(おんじゃく)」とよんで、本所松坂町へ別れの茶会に狸穴
の上杉家中屋敷から出かけた元禄十四年の十二月にも、三姫が厚手の布地袋に入れて
寒気よけに下腹に温石を夫の吉良へあてさせて出している。
 ということは、前は長尾と呼ばれていた上杉家も、越後シノガラのトケコミだった
事になる。
 加賀の前田家や雲州松江家でも重臣まで温石を用いていて、幕末に水戸斉昭が貰っ
たという記録が残っているから、間違いなく両家ともそうであろう。トケコミは江戸
亨保時代から天保にかけてとなっているが、戦国時代にも多く、やがて明治になると
華族さまになっている。

 さて、翌朝、一月七日になるが、カミナキと呼ばれる一番鶏が鳴きだすと、母親は
五歳の子がいないので、四歳の娘を揺さぶって起こした。カムクラ吊りの為である。
 まず床払いをしてから頭座(カマクラ)と呼ばれる両親のマクラを、セブリの棟木
に藤蔓で吊り下げねばならぬ仕事なのである。
 四歳の童女が、まだ寝ている父親に向かって、「カンクラア」と叫んで起した迄は
よいが、
「見ちゃおれん」
と、私は手の届かぬ幼児を助けようとすると、ここへ伴ってきた娘が、
「ハタムラじゃ。誰も手を貸してはいけん。そんな事すると朝飯を皆が抜き、ヲシノ
ベだぞ」
と怖い顔をした。
 他の兄や姉もただじっと見ているだけで、手出ししないから仕方なく見守った。
 藤蔓を棟木に投げかけるのを二十回ぐらいやって一時間半もかかって、どうにか通
すと、ぎこちない小さな手で枕に結びつけたから、みな食止めにはならず朝飯にやっ
とありつけた。
 本来は、五歳まで産んで育ててもらった事への最初の恩返しだが、男児は顔にニキ
ビが出て、娘は初潮があるとセブリを出て行く迄の短い親子関係なので、幼い時から
やらねば間に合わぬのである。俗に言うみたいに、「孝行をしたい時に親はなし」と
いった事はないのだ。

 イタリアの北部やフランスのマルセイユにも、これによく似た風習があり、ジプシ
ーやバスク人も五歳になると掃除はしなければならぬし、七歳になると働いて食費を
家に入れている。
 別にサンカのシノガラだけの独特の風習ではなく、子供は幼児には尽くせるだけ親
はやるから、結婚後はまったく独立。アメリカでも良家の子でも新聞配達をして食費
を家に入れているから、成人すると親は親、子は子と別居してしまう。互いの甘えを
厳しく戒めるものであるらしい。
 朝食が終ると、カツギと呼んでいる正装に変え、マナイタ、打木、火箸、しゃもじ、
筒竹、竹笛をもってセブリも担ぎ、チンドン屋みたいに音をさせて、次々と五セブリ
を廻って歩いて互いに年賀の挨拶をしに行く。私は自分に持つ物がセブリになかった
ので、口笛を吹いて同行した。
 そして、戻って来ると、ついでに近在の農家から貰ってきた餅を焼石で食べられる
ようにして、
「カマドの神様、炎を焼きたまう火の神様。昨年までのお祓いをし、今日のこの七草
の日より後は幸をホトトギさせ給え」
と、父親以下家族の者に言ってから、まず熱い白湯を呑む。
 次いで、焼餅をおし拝んで食べて終ると、貰ってきた餅の中で型の良い奇麗なのは
新しい箕に入れて、クズシリへ一個、クズコへ一個、ムレコにと届けに持って行き、
年賀の挨拶をする。
 餅は非常食なので、受け取った方は預かっておき、働き手が病人になったセブリに
配ったり、「ツキマド」とよぶ正月十五日の新年宴会に差し出されるのだそうである。
そして、十六日からは、また箕作りや下駄の歯入れやフイゴ屋の出稼ぎに父親は働き
に出て行き、妻子は食事仕度。

 「フランスは恋の都」などというのは、小森のおばさまのCMで、フランス人がパ
リにはいなくなった夏だけ若いアベックを多く見かけるが、あれはみなフランス人で
はない他国者どうしで、互いの淋しさから鬼のいぬ間の洗濯じゃぶじゃぶみたいなデ
イトである。
 そのフランスだって、パリから10キロも離れると、日曜のミサの後、家族揃って
食事に行くのでも父、母、長男長女以下と、秩序整然としたもので、店のテーブルに
つくのも順序通りである。
 セブリ社会でも全くこれと同じで、夫唱婦随はトケコミの家庭でも同じ事である。
(もし、妻が口答えをしたり夫に逆らう時には、まる二日だけは孔を掘って頭だけ出
し、生き埋めにして反省を促す事は当然で、子供に対してもニキビや初潮があってセ
ブリから巣立って行けば他人同様になるが、それまでは親に絶対服従。もし折檻して
死なせるような事があっても、これは不問に伏せられるのが慣わしだ)
と聞かされて、私は前にセブリに来た時に、上から押しかぶさってこられ、オシッコ
を出したヨシのところの姉娘が気になってならなかった。
「あん人は、もうとうに片付いとる」
と、そこの娘は言ったが、たとえ黄色いオシッコしか出なくても、最初に身体を絡ま
せた相手ゆえ、どうしても逢いたく、私には我慢ができなかった。
「うんだば、箕を頼まれて弥富[愛知県海部郡、長島の近く]の方へ行くついである
で、あっちでセブリ張っとるとこまで、連れてこまいか」
と言われた時は、すっかり有頂天になってしまった。
 日光川の先に笹川がある。木曽川からの支流で、松名の春日神社の近くだと聞くと、
矢も楯も堪らなくついていった。
 あれから七年はたっているが、私としては、恥ずかしい話だが、彼女の下腹部が金
色に輝いていたのが一中への受験勉強を特訓されていた時でさえ、いつも思い出して
ばかりいたので、こんな事ならそっと入学できた一中の制服制帽を匿してでも持って
くるべきだったと悔いた。
 行ってみると、この辺りは金魚の飼育が流行しだしたので、村人がうるさくて、海
に近い飛島[とびしま]村の方へセブリは移動してしまったというのである。

 今でこそ、政成新田とか木場といって埋め立てられてしまっているが、その当時の
飛島村は筏川の出口で、名古屋湾だったのである
 「山窩」と山の字を宛てるから、まるで山稼ぎの山者のように誤られるが、行くと
セブリが八つばかりかたまっていて、女達は海中に入って大きなコンブを岩風呂用に
集めて砂浜に干したり、夕食の肴にするのか箕だてをして、古箕で魚を追いかけまわ
し、漁をしているところだった。
「大きゅう、ならしたがね[大きくなりなすったね]」
と、かつての小娘も一丁前の嫁さんになっていて、まだ二十になったくらいなのに、
白くこんもりした大きな乳房を揺さぶって懐かしそうに迎えてくれた。
 まだピチピチしている鮒の腹へ指を入れ、臍とよぶ心臓を二つずつ抜いて竹串に立
て、火を燃やして、焼けてくるとイチジクの葉の上に盛ってくれて、まるで実の弟み
たいに優しく、
「しこしこして、一番うまいでいかすか[一番旨くてたまらない]」
と、私の口の中へつまんで入れてくれて微笑した。
 なんだか涙が出てきて嬉しさに、食べるよりも抱きつきたいような気持ちで、早口
であれからの話をした。
 が、その最中に、修理する箕を背負った夫が戻ってきた。
やはり同年ぐらいだった。すると私を放り出して夫を迎えに行くと、こっちを向いて
からが、にこにこしながら、
「わしら、どんな仲がええか、カサゲ見せたろまいか[見せてあげましょうか]」
と、ためらう夫の腰紐を引き抜いた。
 「カサゲ」とは何をすることかと呆然としていると、夫は立っている腰巻だけの嫁
の腰を抱き上げてくっつけ、やがて気をはずまして下にぐったり大の字になる。する
と、嫁が今度は上に跨って、夫のものを口に咥えてしごき大きくしてから、己れの股
間へ入れて揺さぶるのであった。
 十五分か二十分か、私は自分の下半身が硬直するのに狼狽して、それを股倉に挟み
こむのに慌てて精一杯だった。それなのにカサゲが終っても、そのまま身体を結び合
っていた二人は、
「もっと見とらないかんわな[もっと見てないとだめじゃない]」
と声をかけてきて、今度は夫の肩へ片足をかけ、肩の担がれるような恰好となって、
夫は尻餅をつくみたいにへたりこんでいるのに、嫁は抱きついたままで、右側へ寝か
しつけた。
 自分は反対の左側になって、ずっと夫婦はあれから張り付いた侭である結合状態を、
三位一体というか、私によく見させるような体位をとって、三十分は二人で変な声を
あげあって続けていた。思わず私は失禁し、洩らしてしまった。
 後になって考えると、わざわざ訪れてきた私がその昔、五銭玉を贈って致したよう
な事をしたくて来たらしいから、それを諦めさせようと、陽が明るいのに、のべ一時
間も入れっぱなしを見せたのらしい。
 しかし、真っ赤になって、もじもじしていたのは私だけで、一緒に魚獲りやコンブ
やワカメをとっていた女達も、連れてきた娘も、まるで夫婦が差し向かいで飯でも喰
っているみたいに無関心でいて、覗きこむ者もなく、みんな知らんぷりで、夕食の魚
とりに追われていた。
 せめてもの救いは、ヨシの姉娘が五銭玉をわたした頃とはすっかり見違えるくらい
大人の女になって見えた事と、距離というか間隔があって、妬くような心地にはなれ
ない事だった。
「夫婦になったら、誰でも決まってやる事だから、決して別に恥ずかしい事でも、変
でもあらすか」
と、伴ってきてくれた娘は、まるで子供でもあやすような言い方をしてから、
「おっかぁに聞いたが、タチ、クラ、ネぐらい、もうじきニキビが出て嫁とりするん
なら、ちゃんと覚えとき」
 こっちは中学生になったばかりなのに、同じ年齢ぐらいの娘から手厳しい事を言わ
れた。
「マグヒノリ」と呼ぶ、後の謝国権の「LOVE」を海の香りのしみついた砂浜に貝
殻で描いてみせ、
「マスラというは、嫁さんが仰向けになるのだが、セブリではあんまりせんのだぎゃ
あ‥‥」
と、まず教えてくれた。
 どうも、タチとは「立ち」で、夫婦が立ったままで嫁の片脚を持ち上げて何処でも
できる方法。クラは座り込んで、互いに向き合ったり背を抱えて、あぐらをかきつつ、
嫁を抱え込むような恰好だと砂絵で判った。ネは「寝」で、脚と脚を絡ませて、松葉
が交じるような具合。
 まるで性教育されるために連れてこられたみたいだが、女達は思ったより豊漁だっ
たらしく、海から上がってくると火を起して、重石みたいなのを集めてきて燃やしな
がら、砂地より岩肌のみえる窪みに、まだ濡れている昆布を何枚も重ねて洩れぬよう
敷きつめて、海水を汲み込み、
「えぇきゃあ‥‥」
と、持ち戻ってもあまる分の魚を、焼石で昆布湯が熱くなるのを待って入れた。
 小魚が多かったが、天然の塩味に昆布のダシがきき、竹串で刺してくれるのを食べ
ると、
「‥‥うまい」
と、世辞ではなしに唸った。
 すると、女達は互いに顔を見合わせて笑いだし、
「うちらは『アーもん』だもの。しょっちゅう海さ入って魚やワカメとっとるんだぎ
ゃあ、なぁ」
と、素づかみで捕まえた魚の大きさを互いに手をひろげてしめしあっていた。
 男は竹串を咥えて、魚はもちろんだが、海へまで来て獲物のない時には、食えるも
のなら貝でも何でも刺しとってゆく。
 そう聞くと、「山窩」などと三角が当字するので山者みたいだが、「アー」つまり
古代海洋族ゆえ、やむなく山に追われ隠れ暮らしていても、セブリを川の近くに張っ
ているし、川は海へ流れこむから、漁師の邪魔にならぬように海へ泳いで行き、竹筒
に海水を汲んできて塩を作り、魚も獲ってきて、開きにして天火で乾かしたり、荒い
目の海苔なども、てんでに作る「山海族」なのである。