1012 サンカ生活体験記 11

 行き帰りに色んな事を聞いてしまったので、姉娘に上にかぶさってこられ、自分の
ラッキョウを入れられてオシッコをジャッとやってしまった私は、もうすっかりおど
おそしきっていた。
 すると、五銭玉を一つとっている手前か、年下の私が脅えたみたいにすくんでいる
のに、
「女ごはな、初潮(サソヒ)があるまでは、まんだ子供で、女ではないから、兄妹で
もママゴトにはする」
 娘は慰めるつもりか、父親が名古屋へ下駄の歯入れ屋をしに行き、母は津島へ注文
の箕を届けに小さな子を二人連れていって、誰もいなくなった日。私を山陰へ連れて
ゆくと、そこで、「マグモノリ」とよぶ、謝国権の「LOVE」みたいな事を、人形
の画でなく実地に教えた。
「タチ・クラ・ネ」という言葉は今でも、はっきり覚えている。
「オタチ」というのは、今はレズビアン用語だが、その時は娘が下になって片脚を私
の左右の肩に担がせるみたいに置き、そして抱えて持ち上げるみたいなやり方。とて
もラッキョではそれでは挿入できず、あてがえるぐらいだったので、次はクラだった。
これは私が下になって、娘が上からおおいかぶさる前と同じ型で、またオシッコをか
けられてはと、娘はこれは恰好だけで次は「ネ」だった。私は左を下に叢に寝かしつ
けられ、娘は右を下にして、今言う横行位で、これはそのままで一回転して背向位と
変わるのだが、これを繰り返して十回ぐらいは、ずっと続けねばゆかぬというのであ
る。
 「マスラ」と呼ぶのが正常位だが、これは男が疲れるから仕事に差し支えるゆえ、
女からは求めてはならぬし、三十から五十歳までといった掟まであって、殆ど女上位
体勢が一般的だったらしい。
 向こうはオシッコの洗礼で懲りていたろうし、私は、もし見つかったらという心配
から、その時もあてがうきりで挿入まではしてなかった。というのは、その前日の事
だった。娘のすぐ下の弟と、その下の妹が、玩具もなく遊ぶ事もなくなったせいでの
真似だった。
「天道(アノ)さんは、天(アマ)から見てるぞ。両親(カドイロ)の真似をしたら、
生命がないぞ!」
母親のガナリ声がした。
 運悪く現場を見つかってしまって、二人は厭という程まで叱られ、木太刀で打たれ
ていた。
 したがって、子供は絶対に両親の真似などしない事になっている。また、それは一
人立ちして暮らしている親の特権であって、セブリを持たない者は決して誰も真似な
どしてはならない事として、厳しく教えこまれているのである。だから、私はとても
恐ろしかったのである。
 ゆえに、いつ母親が戻って来て見つかって、自分も箕作りの木太刀で叩かれるかと
気が気でなかった。まだ五銭玉を私が持っているのを知っている娘は、あわよくばも
う一枚せしめるつもりか、すっかり恐怖からその気を喪失して縮こまっているものを
手に持ちそえて挿入しようとするのだが、私としては、その時はとてもそれどころで
はなかった。
 娘の話では、初潮がある以前なら差し支えないから、父親が実地に性教育するセブ
リもあるそうである。今、ヨーロッパで父娘相姦が流行しているそうだが、その点は
こちらが先進国である。他人と違って、父なら無理のないように優しく性教育もでき
るというものである。
 なにしろ、週に一度は娘も伜も親達から徹底的に奥の奥まで調べられる。もし、発
育不全で婚礼が駄目になってはクズシリ様にも申し訳がないし、核家族の先鞭をつけ、
セブリは夫婦だけという暮らしでは、もしも「行かず後家」となってしまった娘を背
負い込んではどうにもならない。
 だから、一度縁づけたら万事そつなくやってゆけるように、差し障りのない初潮前
に、タチ、ニ、ネから始まって四十八手をみな教えこんでおくのが親の責任でもある。
だが、子供どうしでは遊びで終わってしまって学習にはならぬから固く厳禁されてい
るのであるらしい。
 他に娯楽はないから雨天や仕事のない日は、日に十回も繰り返す夫婦も多いが、別
に恥ずかしい事ではないので、客が来ても子供に見られても、途中で止めるという事
は、まぁ絶対にない。
 私も姉娘も並んで、ヨシ夫婦の実演を何十回も、組んでほぐれるところを見てしま
ったか判らないほどである。テレビもない時代だし、夫婦は他にする事が別になかっ
たせいだろう。
 それに、なにしろ産婆もいないセブリゆえ、臍の緒の切り方まで、もはや初潮の近
い姉娘は削いた青竹を持たされ教えられていた。妹娘は覗き込むように、いつも側に
いて見ていた。
 薪拾いと、食べられる野草採り。それから杉の葉を集めて来て二センチぐらいに切
る仕事。これはセブリの母親がまた身重になってから、腰湯と下半身だけ温めるのに
使うためである。
 ユサバリと呼ばれる天幕から津島まで、丸淵にかけて、母親は箕直しの仕事をとっ
てきて、修理しては又それを届けに行くのが、身重になってからも変わらぬ日課だっ
た。母が戻ってくるまで、大穴の開いている岩の窪みに海岸から持ってきて乾してあ
る大きな昆布みたいなのを敷き詰めひろげ、それに刻んだ杉葉をまず入れ、河原ヨモ
ギの日干しにしたのを刻んで一握り。ヨモギ、ヨメナ、マタタビはバケツに入れて水
を八分目まで入れて半分まで煮詰め、その間にちょうど岩の窪みの上の方で火を起し、
焼石を赤くしていた姉娘が下へ転げ落して杉の葉湯を温めておき、母親の顔をみると
バケツの薬草の煮詰まったのを入れて丹念に掻きまわす。
 真冬でも素足に草履履きで出かけて行き戻ってくる母親は、ついでに求めてくるウ
ドンの束を姉娘にわたし、腰巻をとって杉湯に足を入れ、ぬるければ焼けた石を増や
させて下半身を温める。
 何かのおまじないかと思ったら、杉の葉のテレピンの抽出で、十五分ぐらい両脚を
入れていると疲れや脚の腱の吊ったのもとれるし、体温が一度から二度は上昇して汗
をかきだすそうだ。
 夕飯はウドンで、ダシはもう作ってあるから、湯から上がって身体を拭う頃には父
親も戻ってきて、すぐに残り湯で脚を洗い、汗を出して身体を拭き夕食となる。
 両方ともさっぱりしたせいか、又しても母親は身重なのに父親にかぶさっていく。
さぞ重いだろうと横になって覗き見するが、夫は拒む事を得ずだから、また汗をかい
てヨガリ声を出す母親を満足させている。
 なにしろ、サンカ社会は、子供は小さく産んで大きく育てる方が楽だからと、岩田
帯とは違う、膨らまない締めつけの「オクニさま帯」を締めつける。その昔、出雲の
阿国の考案という物である。
 興奮してくると、母親は邪魔っけだとオクニさまもむしりとってしまう。背後から
前通りに巻きつけるのは姉娘の仕事ゆえ、終わるまでオクニさまを握って待っている
のは変なものだった。
 「ノグソたれるのと同じ」というくらい、産婆もいないセブリのお産は楽で、移動
中なら天幕の折り畳んだ上で気張って、のち産で汚すと洗うのが厄介ゆえ、いざひね
り出す時は草の方へ移る。
「オギャアッ」と生命誕生で、私はたまげたが、叢を真っ赤にして母親は既に、繋が
っている緒を、頭にさした竹のコウガイの鋭くした方できれいに二つに切り、側に子
供を寝かしていた。
 しかし、そのままで歩くのは無理ゆえ、天幕が汚れぬよう、フキの葉やイモの葉を
姉や妹が集めて敷き、二人を寝かせて担架みたいに皆で持ち上げて運んでいったもの
である。
 当時も、出産は産婦人科のベットでとか無痛分娩のレコードさえも出ていたが、サ
ンカ社会では母親はしょっちゅうひろげてかぶさっていて、産道をよく伸ばし太くし
ているせいか、本当に野糞でもひねり出すみたいに、ちょっときばって、それで産ん
でしまうから実に早い。
 昔は「緒切り」とよぶ、竹に鋭い刃の如く削ったのに油を塗って、火で焙って固め
たものを、生母から嫁に作って渡したそうだが、母親みたいに何度もして慣れてくる
と、竹カンザシの二又のうちの一本を、よく切れるようにして髪に挿していて、それ
で切ってしまうのである。
 「モエミゾ」とよぶ血まみれな赤ん坊を、川を見つけ次第、真冬でも漬けて洗うが、
産布(うぶゆ)とよぶフランネルの布地で、血行をよくするみたいなやり方でゴシゴ
シこすって、風邪をひかせぬように上から下へと丹念に拭いてゆくのは、母親は顎を
しゃくって娘達にやらせる。実地教育である。
そして、さっぱりした赤ん坊には、コモリケシの乳首を含ませるのである。
 「山吹のネを細かくして水洗いして乾かし、漆の葉を小さく刻んで二枚分ぐらいを
混ぜて、竹筒の中で突いて粉にしてから、薄絹に包んで乳首みたいに作って持ち歩く
のが、女が身ごもった時からの欠かせぬ心得じゃがね」
と、不審がって覗きこむ私に、母親が襟から縫い込んであったのを摘まみ出したのを、
姉娘は横目で見ながら説明。
 だが、後で聞くと、セブリの者は山の中を歩き廻っても漆かぶれをしないのは、産
まれてすぐ授乳の前に漆の粉を混ぜた山吹の乳を吸わされるから、それで免疫性がで
きるのだという話である。ものは最初が肝心で、生まれてすぐ苦いのを舐めさせられ
たのでは効くかもしれぬ。
 私は赤ん坊の吸った後のベタついたのを姉娘から口の中へ放りこまれてしまい、
「今からじゃ遅いかも知れえへんが、しゃぶっときゃ漆かぶれにはならんぞなも」
と言われた。
 まだ授乳前の赤ん坊の口中に入っていたものゆえ、乳臭くはなく、まるで生臭くで
血の味がして気味悪いみたいに咽喉がひろがってしまい、あわてて口の中から吐き出
してしまった。


核家族の起こり‥‥

 名古屋の広小路裏の東本重町と縦の蒲焼町が交差している角の共同便所の横にムシ
ロを敷き、下駄の歯入れ屋をしに通っていたセブリの父親は、時々新聞紙の袋に入っ
た砂糖をまぶした飴玉を、私の祖母からのことづかりものだといっては土産に持ち帰
ってきた。
「みんなで、もうやい[名古屋弁で『共同』といった意味]だぎゃあ」
と、母親は私にはわたしてくれず、自分で預かって子供らに一つずつ配ってくれた。
セブリは何でも独り占めは駄目で、皆で分け合う掟である。だから、一つの飴玉を大
切に、まず廻りについている砂糖をこぼさぬように舐めておき、
「誰が一番よく永保ちさせやぁすか、まぁ比べっこしよまいか[しようか]」
と姉が言い出した。
 もうじき初潮(さそい)さえあれば、すぐこのセブリから出て行って別れ別れにな
ってしまう姉娘とはみな判っていたから、その言う事なので、私だけでなく他の弟妹
も素直にうなずいて、口の中の飴をへらぬように、柔らかい木っ葉にくるんで懐へし
まいこんだ。
 さてである。
当時の新聞は総ルビで、しかも東本重町二丁目の角を曲がった針屋町には、今は合併
して中部日本新聞になる前の新愛知新聞があった。二階が編集部で、一階の前が発送
部で、裏が組版をする印刷部だった。今では考えられもせぬ事だが、近所の顔見知り
の子供だからして追い払わず、
「ぼう、ちょっと手伝うてちょうせんか[くれないか?]」
と、年輩の老眼鏡の植字工は便利がって、手招きしては私に小さなルビ活字を拾わせ
手伝わせた。別に厭でもなく、下駄の歯入れの木っ端遊びより知的な感じさえして、
チョコマカ裏から入って行っては、進んで無料奉仕をしたものである。
 小さいので台の下をもぐって動くのも邪魔にならず、けっこう重宝がられたもので、
そのオッチャンが、時には赤や緑で白線入りのこうした飴玉を駄賃にとインキ臭い手
でくれたものだ。
 だから、セブリの幼い弟妹は貴重品扱いで大切にしていたが、私はザラメ砂糖だけ
舐め、オシッコをひっかけた時の埋め合わせに、姉娘にそっと手渡し舐めさせた。
 だから、そのせいか、「シナドオクリ」とよばれる葬式には、子供は連れてゆかれ
ず、みな留守番の慣わしなのに、「特別(ベツタラ)に連れていく」と、姉娘は私を
母親と伴に、今は弥富の駅の先にあたる河原のセブリへ連れて行ってくれた。
 愛知県は小さな川が何処にも流れていて、百姓が自分の田や畑へ行くのにも底の浅
いタンボ舟にスキやクワをのせて漕いでいくぐらいゆえ、川に副って設けられるセブ
リも、前に掲載された表より十倍も多いというのは、この目で私が見ているからであ
る。
 鼠算というのがあるが、一つのセブリで子供が十人できれば、順に別個のセブリを
張って独立してゆくから、十一セブリになり、十年か二十年たてば、その十一セブリ
が百から三百セブリになってゆく勘定ゆえ、関西本線の蟹江と弥富の間だけでも目に
ついたのが43ヶ所のセブリがあった。
 今になってよく判った事だが、初めは古代海人族つまり「天[アマ]」のつく者ら
が捕虜となって奴隷になるのを拒み、部族の女を進駐軍の慰安婦にされるのを忌んで
連れ出し別天地を作りだしたのだから、民族カラーの赤が女達の下着ではないスカー
ト並みの赤ネルの腰巻。
 後には源氏に追われた平氏も、やはり天御一門と同じ西南系ゆえ、民族色は赤色で
あり、「平家部落」など秘境視されている土地は、川筋があまりない地区などでは移
動できずゆえ「居附」、今では五木とよばれる特殊地域になっただけの事らしい。
 サンカ言葉には、「八母音」が多いのもそのせいだろう。つまり「八つ」だけでは
なく、騎馬民族系の「四つ」も追われてサンカ社会へ逃げ込んだのは多いらしいが、
サンカは皮革業は絶対にしないものである。
 という事は、飼戸の民の末孫はサンカのセブリに逃げ込んでも、八だけの純日本系
の血を重んずるハタムラから嫁とりができず、ザボと呼ばれる客分扱いか、すぐ出て
行ったものらしい。
 しかし、契丹系が十一世紀に、本国では滅ぼした唐勢に追われてサンカ社会へ入っ
た時、その最新近代性というか頭の良さで勢力を拡げサンカ社会を変えたらしいが、
混血はせず、契丹系も伴ってきた女に子を生ませ、決して離婚はしなかったから巧く
協調できたらしい。
 それゆえ、菅原道真が天界から落雷させると、天満宮に封じ込められたとの知らせ
からして、「トドロキ」と神のことをサンカ言葉で言い出したのは、この時からであ
るらしい。つまり、仏教みたいに死ぬと悲しむとか、回向料を払うといったのはサン
カ社会にはあり得ない。
「生あるものは、いつかは天へ昇ってトドロキ様の許へ行く」
といった考えで、ムレコの許へ死人が出ると通報。クズコ、そしてクズシリに知らせ
が入ると、蓄えの金で酒を購って送られる。皆で集まって呑んで、新しい箕を二枚合
わせた中へ死人(トドキ)を入れて、それで別れを告げる。
 だから集まるのは男の大人だけだが、ヨシの仕事場は名古屋の広小路で、便利のよ
い所だから、ツナガリがすぐ知らせに来たのである。
 だが、サンカ社会では葬式は仏教みたいに重要視しないから、仕事が忙しければ、
代わりに女房(きゃはん)を代理にとのクズコの言づけがあったのである。
 そこで、花柳界の藝者衆の歯入れが立て込んでいたので、代わりに母親が姉娘を連
れていく事になり、私はおまけみたいに伴してついてきたのである。
 初めは男ばかりなので母娘には面食らい、
「どうしやぁたの?」
と言っていたが、酒盛りには女手があると大助かりだと歓迎された。
 「遺体(とどき)」は、もうヒトギとよばれる箕の枢に入れられ、榊と水が供えら
ていた。それを、「お見(身)送り」といって囲んで、焼石で燗をした青竹の酒に、
みな咽喉を鳴らし、
「天(とどろき)へ戻ってゆかっしゃるは、めでたいこっちゃ」
と、死を讃えるような歌をうたっていた。
 地上より少しでも天界に近い方がと、明治七年まではシナドオクリとよぶ風葬が多
く、「アノ(マ)モドリ」といって一般的だったが、高い山の上の杉の梢に吊るした
のを里人に見つかると警察へ通報されて刈り込みされるのが続いたので、ムレコ、ク
ズコ、クズシリから、その上のアヤタチ、ミスカシ、ツキサキの豪い人だけが四枚の
箕で作った柩(ひどき)に納められ、人間のあまり入らぬ深山の、天に近い高い所へ
風葬で身送りし、一般のセブリの衆は土葬と変わったのだと、相変わらず知ったかぶ
りをして、姉さんみたいに振る舞う娘がそっと教えてくれた。
 仏式のように湯灌をしたり、数珠を持たせたりはしない。皆が交互にウメガイで十
字(たてよこ)に邪気を払うだけで、青竹の酒が呑み尽くされると、そっと担ぎだし
て、掘っておいた穴へいれる。
 死ぬ事は天界の菅原天神様の許へ行く事だから、栄光であっても悲しむべきではな
い。つまり日本式にいうところの、「死をみること生に帰するが如し」というのは天
神信仰である。
 サンカ社会からトケコミや白バケで都会生活を続け、三代たてば無縁になるという
が、全人口の一割五分という算定は、セブリにまだいる連中からまだ三代たたずトケ
コミしていない連中の勘定だろう。
 三代すぎても、うちの祖母の如く江戸時代の亨保二十年代からのトケコミゆえ、二
百年たち十代過ぎてもツナガリが集金に来ていた程である。
 これは、古代海人族の庶民、つまり奴隷とされた進駐軍の混血児を、同じ黄色人種
で区別しにくいが、生まされてきた庶民達を私は85パーセントと推定している。
 が、その中に純粋に、「妻や夫は同じ部族から」と隠密族(しのがら)を仲人に立
て、間違いなく血統調べをしたのが最低でも全体で20パーセント近くはいる事にな
る。
 85パーセントに対する20パーセントは17パーセントゆえ、サンカ社会の純粋
日本人の血は、表面化している15パーセントに潜在人口の17パーセントを足せば
32パーセントにはなる勘定である。私みたいに自殺願望で何回もしているのも、こ
の血の流れだろう。
 河原敷にセブリを張れる自然環境がなくなってトケコミ化している連中が、現代で
はきわめて多いが、厳密に隠しているので一般には全く知られていないが、唯一つと
いってもよい有名な例がある。
 江戸が東京となった時、関西の銀を京の蜷川一族が足利時代から押さえていた如く、
箱根の山から東の金は弾左衛門が掌握。札差、両替もみな浅草新地の弾家の金を資金
に仰ぎ、現代の大蔵省とか日本銀行の役割をしていたので、新しい東京府は弾家(当
時は矢野内記)の協力なしには運営できぬからして、第一助役第二助役として弾家の
手代を頼んでいた。
 その時、前名隅田川一郎を、隅田一夫と変えた弾家の土木支配をしていた番頭が、
手代と東京府土木局長と部長になった。彼は弾家に籍をおいても白バケの子孫である。
彼はサンカ社会では「府内族(ふなから)」と呼ばれているが、東京府の指定建築業
者だけでなく、全国の土木関係者を「隠密族(しのがら)」という日本の秘密結社の
ようなグループによって各府県の指定建築業者にしてしまった。
 K建設の副社長と某大手建設業者達の入札談合が新聞で大きくとりあげられたが、
一部二部上場の大手はみな、この時の隅田一夫によって呼びかけられ、各国別の国一
(はじめ)の諒承を得て拵えられた同業組合みたいなもので、同じ仲間ゆえ入札談合
は当然な話で、今始まった事ではなく、明治七年から全国的な組織で成り立っていて、
そうでないのは下請けしか許されぬ。
 あえて土建業だけではなく、殆ど各種のギルド業者がトケコミ団結なのが日本産業
界である。
 牛肉がオーストラリアやアメリカの三倍から四倍で日本では売られる仕組みも、畜
産事業団の仕組みが、理事長には天下りの役人を戴き高級を払っているが、旧源氏系
の白の同族でがっちり内部構造を押さえているからして、大森実が衛星中継でテレビ
東京で訴えてきても駄目である。
 なにしろ、大正年間に東宮妃御降嫁が東本願寺からというので、官憲がこぞって反
仏派の退治をやったが、セブリの連中は土葬だけ変えても、葬式は祝宴であって、戒
名も墓もいらない。だから彼らに対してはどうしようもなかったのである。
 ただ、この時代には各寺がオカミのおかげで儲かったので、大いに名僧有識伝の作
り話を出版すればみな高価本がよくさばけた。それを間違えて、昔は名僧高知識の偉
い坊さんが多かったなどと作家などはだまされている。
 もちろん何百年、何十年も前からトケコミしている連中は、サンカの秘密性で、警
察の言いなりに寺の墓地を購入し、何々家先祖代々之墓とか、何々家墓といったのを
表面上は建立した。
 しかしオカミのお達しで自分らの素性を隠す為だから、墓を作った時には怪しまれ
ぬように、「ニクが厚い」と寺側からよばれるように、多額の供養料を納めて寺を喜
ばせはしたが、なにしろ恰好づけゆえ長続きしない。二代目や三代目になると、血の
流れで絶対に詣りにも来ない。
 そこで寺では墓地を取り払い、石塔は石屋に表面を削らせて新品にして、次の注文
を待つか、それとも墓地を縮小し、儲かる駐車場や幼稚園経営を始める現世利益なと
ころが、そのために多い。
 昔は国ごとに国分寺を作って仏教で一般を洗脳しようとしたが、輸入仏教には原住
民どもは寄りつこうとはせぬ。無理矢理に曳きたててこようとすれば、山へ逃げ込ん
で隠忍(おに)となる。
 冬になって山の木の実も囓れる野草もなくなって飢えた隠忍どもが、ひょろひょろ
と下山してくるのへ、コウリャン粥を恵んでやって、「施餓鬼」と呼んで義理かけし
転向させもした。
 が、振舞だけよばれておきながら、春になって雪が溶けてくると、また山へ逃げて
しまう食い逃げもいる。いくら捕らえても駄目な連中にてこずって、初めは竹内宿弥
と日本名で呼ばれる者が、ヤマトタケルを息吹山中にて死なせてから、実力つまり大
陸の鉄製武器をもって石斧や貝刀の縄文原住民の反仏教徒を討伐。否応なしに捕虜に
し寺へ寄進し、寺奴隷百姓にした。
 それでも、まだ日本原住民は多く、「生まれてきたからには早かれ遅かれ死ぬのは
当たり前の事で、死は栄光である」といった思想に皆が固まっているので、西暦66
3年の世変わりの時、郭ムソウ将軍の日本名であるらしい藤原鎌足によって漢字(則
天唐字)使用令が全国に発布された時の事。福沢諭吉とは反対に、人の下に人を作っ
て先住民を賎とし仏教[への転宗]も命令した。
 唐令そのままの大宝律令によって、はっきりした身分制を定め、武力によって討伐
をくり返し、縄文時代の日本列島を弥生時代に変化させてしまった強引すぎる進駐軍
のやり方[?]に反撥し、西暦780年には寒冷な東北に追い詰められていた古代海
人族や、日本海より入って来た騎馬民族、それに彼らよりも古くから漂着して住み着
いていた「エ」の民[苗字の発音がエ行横列といった意味らしい]らが、富士王朝復
活のためにと、彼らはイ、アル、サン、スウの十進法の算数ではなく、アイウエオの
五進法で侵攻。
 御所は山背の天険の長岡へ待避。だがその間に岡山へ集団疎開した弁髪軍が、大陸
からどんどん鉄製武器を輸入してきて富士川を渡りかけの原住民の大部分を撃退し、
岩手あたりでは一の戸、ニの戸と次々とバリケードを作って九の戸まで押し込んで行
き、海中へ投身するか、投降して奴隷になるかまで徹底的に復讐した。
 この際、脚で歩ける捕虜が何よりの戦利品。どんどん新しく造営された平安京つま
り今の京都に近い大阪の住吉や兵庫へと運ばれた。
 が、連れて戻ってもしようもないのは喰わせて歩くだけ無駄だと、街道の分かれ道
へくると、そこで追い払った。だから、<野史辞典>の「追分」の項にあるように悲
しい悲募曲が今も伝わっているが、女かカイトと呼ばれる進駐軍の慰安所、男は奴隷
漁奴塩奴とされた時、
「また男と女を別々にされ、女はやつらの慰みものにされて、弁髪人のアイノコを生
まされてはたまらん」
と、夜陰に乗じて次から次へと逃げ込んだのが、サンカ社会の発生歴史である。
 もちろん、竹内宿弥に討伐された際に、既に山へ逃げ込んでセブリを作っていた日
本版ジプシーがいたから、そこへ加わって反体制、反権力で、三角寛が大和民族とは
別個の人種なりと誤ったのも無理はない。
 つまり、彼の考えている大和民族、きわめて従順で親方日の丸で、マッカーサー進
駐時代にも一人のレジスタンスを出さぬ万国無比の奴隷国民というのは、原住民の女
が否応なく慰安用にされ混血児を産み、その混血児の男は、<野史辞典>の「庭子」
の項目にあるように生涯センズリで次々と種族が絶えていき、女の産んだ混血児の娘
だけが、また混血児を産んで殖えていった奴隷民族が大半を占めていたのだが、桂女
みたいに御所専用の例すらもある。
 それに比して、サンカは原住民どうしの男女が、あけくれマグワイをして子を作り、
女は初潮さえあれば嫁にやってセブリ分けのユサブリとして人口を殖やしていった純
血日本人。
 日本人といっても、まったく別個の二種類がはっきりとでき、片や平民で満足して
しまい、「オカミ」には絶対従順で戦後はアメリカさまさま。 が、[一方は]明治
初年までは山から山へとセブリを川べりに張っていたのが、四民平等を表向きの看板
にする世になると、原始共産制で搾取しない彼らは、かつては自由にセブリの張れた
荒野が次々と新興都市となるにつれ、育英資金となって子弟の学資に注ぎ込まれた。
 私の父は東大法科の大正二年卒だが、「クラスの三分の一の優秀なのはツナガリか
ら学資を、局留めの書留便で受けていた」と話していたのを聞いた覚えがある。
 医師会のケンカ一郎という傑物も、幕末まで医師は賎業だったせいか、どうもその
学資で卒業したのではないかとの風評も一部にはあるくらいで、隠密族(シノガラ)
のツナガリ(ツナギ役)は絶対に何事も口外せぬ掟が昔からの掟ゆえ、すべて表向き
にはされぬが学識有権者には多いようだ。
 かつて帝国ホテルを常宿にしていた時、アメリカ籍の日系四世に声をかけられ、二
階のフランス料理で食事を共にした時に、アメリカのフーズユウに私と並んでいるソ
ニーからとびだした某氏もそうだと話していた。
 彼ら三世四世は棄民として渡米させられた人々とは違い、ツナガリの金で渡米し、
同族の女と一緒になっているので、国籍はアメリカでも純粋日本の血である。
 サンカの研究は日本警保よりもアメリカのほうが進んでいたのか、その四世もCI
Aからパールハーバー前に潜水艦で渥美半島へ三十人ぐらいの仲間で上陸し、来日し
ていたと言っていた。
 今は伊良湖畔の灯台で観光地として知られている半島だが、[半島]全体に七福神
の旗がひらめき同一信仰でかたまった土地ゆえ、領主は幕末まで一度もお国替えはさ
れていない。渡辺華山が国禁にふれる海外書を書き自決したのも、ここは鎖国時代で
も幕末にはアメリカの捕鯨船に薪水や野菜を求められれば、田原藩は黙認の形で船積
を許していた土地柄。
 が、礼にはウイスキーやビール瓶をギャマンとして貰っていたのが、ひそかに名古
屋へ運ばれて各地のシノガラ族に連絡。
 彼の言葉を借りると、
「フジワラ打倒のため、今こそ決起の時である」
と、CIAのお墨つきを日本語訳したのを各国一には手渡したという。
 アメリカでは開戦前に日本の二分を企てた。
「純粋な日本人の血をもつ民族によって日本を建て直す」
というCIAの話に、国一も乗った。
 つまりアメリカの日本人でも、棄民として送り込まれた連中はハワイでも第442
部隊を編成してヨーロッパへ行き、半分以上も戦死して大いに奴隷国民らしい活躍を
してみせたが、シノガラのアメリカ本部の金で一流大学を出て日本語もよくマスター
したサンカ日本人は全く違う目的で、CIA利用か自発的にか日本へ潜入したのが相
当に働いたようである。
 彼はアメリカ国籍の四世なので、酒が入ると遠慮なく、彼もトケコミ、あれもトケ
コミと、日本では有名人として通っている人々の名をあげて教えてくれたが、ここで
の発表は差し控える。
 ただ、何故に私に声をかけたかというと、三つ子の魂百までというが、セブリ生活
をしていた頃の歩き方がまだ残っていて、彼はそれを一目で見抜いてしまい、声をか
けてきたと言っていた。


死をみること帰するがごとし

 津島から三重にかけ、私のセブリ生活は続き、どうにか一人前となってきたので、
もう少し大きくなったら、娘を探して別のユサブリを持たせるようになっていた矢先
の事である。
 私の生母が針屋町の天野病院へ入院し、危篤だとヨシが言ってきて、すぐ仕度をさ
せると、祖母の許へ、仕事に出かける際に連れて行った。
 母のふさは流行性感冒から肺を冒されて、昔とはまるで別人みたいな青黒い小さな
顔になっていて、私を見ても瞬きするきりだった。
「死に目に会えてよかったぎゃあ」
と祖母は言ったが、それから一週間だけで息を引きとった。
 当時、覚王山で分譲していた土地を求め、祖母は強引に母の屍骸を土葬にし埋めて
しまった。
 母が再婚するのにコブ付きでは何かと持参金その他も入用だし、厄介なのでヨシに
貰われていったのか、それとも養子にやられたのか不明だが、セブリへやられていた
のだが、当人の母が亡くなってしまうと、内孫は私きりなので、祖母は手許におきた
かったらしい。どうも応分の金がツナガリに渡され話がついたらしく、祖母から、
「もうヨシとは口をきくな」
と言われてしまった。
 クズコの達しか、長年の仕事場の共同便所から下駄の歯入れ屋の席はなくなって消
えた。
 私はまた新愛知新聞の植字工のオッサンの許へ遊びにいき手伝っていたが、義務教
育就学規則の法律で、否応なしに、朝日町を越した今は廃校の八重小学校へ行かねば
ならぬ事になった。
 文字だけはスラスラどうにか読めたが、途中から編入みたいな恰好なので、東西南
北のところは習っていない。だから未だに判らない。取り柄はマラソンといって、二
千メートルぐらい走らされるのだけには、セブリじこみでいつも一着で褒められたが、
野草ばかり食わされていたので、今でも自然食を見ると怖じ気をふるってしまうし、
祖母の口から亨保年間と聞いているので二世紀半たつから、トケコミ三代はとっくに
時効であるらしいが、それでもツナガリはあった。
 その後アメリカの大空襲で旧名古屋市内は焼野原になってしまった。そのせいか名
古屋を離れた私の許へは、各地にいる筈のシノガラのツナガリもないのである。だか
ら、私は従順な型か、または反体制か、そこのところが自分でも正直いって判らぬ。
京都府‥‥近畿族(キナガラ) 福岡県‥‥筑前族(ハカタガラ)
神奈川県‥‥相模族(サガラ) 大阪府‥‥摂津族(セツガラ)
広島県‥‥安芸族(アキガラ)
ぐらいの事は、うろ覚えに記憶しているが、ツナガリが来てくれないので現況は今は
判らない。
 ただ、セブリは昔に比べれば都市開発のために河原を失って激減。今では東京はじ
め各大都市にトケコミになってしまっているが、工事入札の談合金にしても、育英資
金や相互扶助金に廻って皆が裕福になっているのが、中産階級を自称していた一般が
零落れつつあるのに比べると、みなオオモトがしっかりし、多額の入金があるので変
わっていないくらいは想像がつく。
 未だに行方不明の某大助教授や迷宮事件の指名手配の連中も隠れているのだろう。
かつての弾左衛門家が関東の金を一手に押さえて、牢獄奉行の石出帯刀の伝馬町大牢
へ手代山田浅右エ門の組下を首斬りに出向させていたように、金座へも手代柳橋助六
の組下が目付に行っていたが、三田村鳶魚の江戸随筆考証では、蔵前の札差も、みな
弾家へ揃って金を借りに行っていたという。
 が、昭和初期までは東京中の質屋は、質親とよぶ、花川戸にあった柳橋助六の子孫
の許に纏まった金は借りに行ったものだと、質屋組合の理事長から聞いた事がある。
しかし、弾家の金を手代が子々孫々にわたって巧く運用できるわけはなく、おそらく
オオモトがツナガリの集めてきている全国のトケコミの金を、運用の一つとして質屋
の資金に廻していたのが本当のところかもしれぬ。
 本名かどうか判らぬが、トーマス・カダと名乗っていたアメリカ国籍の四世の話で
は、
「アメリカがなりふり構わずサウジや中東の石油を買い占め、ドルがどんどん下落し
た際、ジャポネは石油を買うどころか命令されて何千億円もの赤字国債を発行。ドル
を買いささえた‥‥その時スイスで逆に売り叩き、シノガラはスイスの銀行に前K総
理よりも莫大な預金がある‥‥」
と話していた事も思い出される。幕末まで箱根で分けて、東の通過は金本位で弾家、
西は九州まで銀で京の蜷川が室町時代から押さえていた過去を考えると、大蔵省は日
本銀行印刷局で紙幣を作ってはいるが、現実の金は誰が持っているかとなる。証券会
社や銀行ではないらしい。
 「末は博士か大臣か」といわれた明治初年からのシノガラの無政府主義的な全面的
育英資金は、資本主義的人材に向かっているのではなかろうか。となると、実質的な
日本の金は、既にセブリは都市開発によって河川は公害で消滅しているが、トケコミ
の中に匿しこまれているような気がしてならない。
 となると、彼らは20世紀の終わりになっても、まだ打倒藤原政権といった伝統的
なものをもつだけに、いったいどういう事になるか、何か大変な事になりそうな気も
する。