1011 サンカ生活体験記 10

トケコミで都市生活

[本文の前に、参考までに八切氏のサンカ生活体験地付近の略図を作成しました]

『尾張国海部(あま)郡 略図』

   | |       ||稲沢市
   | |       ||
   | |       ||
   | |       ||       清洲町
   | |       ||
   | |       ||     甚目寺町
   | |       ||
   | |       ||勝幡 蜂須賀     |
   | |       ||           | 中村
  木・ ・ 津島市 諸桑||佐織町        |     名 古 屋
  曽・ ・       ||           |
  川・ ・       ||日          |        市
   ・ ・              ||光         蟹江町  |
長島 ・ ・ 弥富町   ||川          |
   ・ ・       ||           |
 木曽・ ・       ||           |
 岬村                飛島村    ----------------------


             伊 勢 湾


 <天の古代史研究>にも書いておいたが、私の祖母後藤さだは居附の生まれらしく、
サンカのツナガリはあったようである。祖父の不動貯蓄銀行からの金を、月末になる
と封筒に入れて匿しておき、裏口から決まった男が来ると、その封筒の他に五銭玉を
一つ駄賃にわたしていた。
 今は名古屋の広小路裏でキャバレーやパチンコ屋が並んでいる賑やかな通りだが、
米軍のジュウタン爆撃で焼野原になるまでは、三メートル巾ぐらいの碁盤割りの桝目
のような路地があった一画で、鶴重町に曲がる角に共同便所があって、薬師寺とよぶ
紺屋の横に輪にした竹束をおき、ムシロを敷いて下駄の歯入れ屋のヨツさんが来てい
た。
 今みたいに玩具のない時代なので、奇麗に削られた切れっ端しを貰って、家を組み
立てたりして一日中よく遊んでいたものである。
 さて、私の生母「ふさ」は、前に産んだ節夫が亡くなった後、私を身ごもった。現
代ならば水子にするというか手術できたであろうに、当時は有名な女優の志賀暁子で
さえ堕胎罪で実刑三年で懲役刑の時代だった。だから産まれてこなくてもよい私が産
み落とされ、父は満州のハルピンへ行っていたので、亡兄の名を戸籍もろとも引き継
がされて、全く無用な存在として育っていた。
 母の兄の吉之助が東京へ行き四谷で菓子店を開いたが巧くゆかず、祖母は祖父より
金を出させて東京へ行き、母と二人きりの生活が始まった。
 さて、この母が当時まだ二十六歳ぐらいなので、歯医者へ行けばそこの助手を引っ
張って来て、私はその間は表で見張り番役だった。
 牛乳屋のおっさんの時には何時間も起きて帰らないので、木っ端を家の前まで持っ
て来て、時間潰しをしていたものである。今思えば四、五人ぐらいの男が次々と来て
いたようだ。
 町内では美人だと言われて、金もとらないらしいのに、どれもなぜ長続きしなかっ
たかといえば、顔馴染になってしまった牛乳屋のおっさんが、したり顔で、
「あんな好い顔しているくせに何時間も上に乗りっぱなしでは、わしなんかはヘトヘ
トだもん、いかすか‥‥」
と言っていたのが思い出される。
 どうも母は、どの男にも馬乗りになって自分が何度でも酷使するので、男の方は二
回か三回で逃げてしまうらしかった。そのくせ母は私に向かって、
「お前さえいなければ、おかあさんの処へは色んな縁談が来ているけれど、コブつき
だから駄目になる」
と、男に逃げられると、その腹いせか鯨尺の物差でピシャリピシャリと殴りつけた。
 というのは、やはり母の重みに堪えかね、父は別の母を連れて満州へ行っていたせ
いもある。だから幼かった私としては、どう自分を処置してよいか判らぬままに、
「そんなものを口に入れたら死んでしまうぎゃあ」
と、よく祖母に言われていた箪笥の中のナフタリンを、死ねるものと思い込んでいた
から、持ち出してきて十四個まで囓った覚えがある。
 祖母がびっくりして東京から戻って来て、四谷へ連れていかれた時には、飛び込め
ば死ねると、今はコンクリート蓋のした暗梁の狭い川を大河のつもりでとびこみ、悪
戯をして落ちたと思った通りがかりの人に襟首を掴み出されて戻されて来て、祖母を
泣かした覚えがある。
 汽車にひかれて死のうと考えついたのはよいが、じっと線路に寝ていればよいのに、
誰も教えてくれないから、闘牛みたいに、進行して来る当時のデゴイチにぶつかって
いって、風圧でふっとばされ、絵本で得た知識で、とびつく蛙とばかり四回も体当た
りしたが側までゆけず、土手下に落ちて気を喪って失敗してしまった。
 この汽車以外の失敗談は「英雄誕生」の中で、信長の幼児の事としてナフタリンと
は書けぬから青梅にした。続けて七回はトライして失敗した。
 祖母もそのうちに川へ飛び込んだ私を先に帰してから戻ってきて、留守中に烈しく
なった母の男漁りに困惑して再婚させる肚になったらしい。
 祖父は、待合をやらせているオクニさんの許へ私を養子に出し身軽にして、母を嫁
に出す算段をしたが、祖母としてはそれではおもしろくない。そこで私を下駄の歯入
れ屋をしているヨッさんに頼んだのである。
 ザボといって三代[の間]は直系のハラコの下[の位置付け]に養子はなるのだが、
なにしろ毎月の奉納金も多かったし、小さな子なのでハラコの一人にしてくれるとの
尾張一(はじめ)の許しが出たので決まったのである。
 まだサンカのサンカたる事など知らないが、生母から、よくしなう鯨の三尺指でピ
シピシ殴られるのは痛いから、祖母の言いなりに水筒と乾パン四袋と金包らしい封筒
を渡されて、ヨッさんについていったが、竹輪を首に担がされた。
 カマドの煙突がススでつまった時につつく具なので、首筋に黒いススの塊りが入っ
てきて変な厭な思いだったが、川のある処まで行くと、ヨッさんが裸になって浸かれ
というので、そうするとさっぱりして気持ちがよくなった。
 これからが、私の山窩生活体験記である。参謀本部の五万分の一の地図を今みても
どうしても見当がつかないが、初めて行ったセブリには小さな沼があった。
 [ヨッさんには]私より年上の十二、三の娘を上に子供が四人いた。夜はどうして
寝たか覚えていないが、朝になると野ぜり草摘みが子供の仕事なので私もついて行っ
た。
 持ち帰って鍋に入れて汁にして朝飯がすむと、ヨッさんは道具を担いで仕事に出か
けた。子供らは沼みたいな池の周りに輪になった。
 年上の娘が、着ているものを脱いで素っ裸になると、下の三角形のところに、薄い
が陽に光る産毛が生えだしていたのが今でも私の脳裏に焼き付いている。なんだか薄
かったが金色の針みたいに視えた記憶がある。
 他の子達も素っ裸になって沼へとびこんだので、私だけがパンツをはいた侭とはゆ
かず脱いだところ、あまり少女の産毛ばかり見つめていたせいか、まだ子供なのに、
おしっこを堪えていた時みたいに直立し勃起しているのが恥かしく、背を向けて冷た
い水にとびこんだものだ。
 まだ戦前で減反政策などなかった頃で、米のモミを汲いあげて選別する箕は大事な
農家の調度だった頃である。
 温めたまま火灰に埋めてあった焼石の火力を強めて大鍋を乗せ、朝の残りものと前
夜の魚を一緒にした薄いオジヤが、沼から上がってきた子供らの食う昼飯であった。
 「ミカラワケ」と、箕の事を呼んでいたが、これの材料の青竹を細く裂き曲げやす
いように焼石で熱くなった地面に差し込んで、母親に編みやすくさせるのが子供らの
午後の仕事だった。
 「アー」とお日さまに叫んで、歳順に沼の上から次々と飛び込んで、顔を洗ったり
頭の毛を棘草のタワシで互いにこすり合っていた順番が青竹割りの際も同様で、青竹
を四つ割りにするのは桃色の割れ目を視せていた姉娘で、それを分け与えられて編め
るようにするのは歳の順でやり、私は焼け土の中へ差し込めるように棒で突いて地面
に孔を掘るような仕事だった。
 なにしろ父親(カド)が戻ってくるまでには一つは作っておかねばならぬと、母親
(メメ)は枠になる外側をこしらえつつ子供らを監督していた。が、無言で睨みつけ
ているのではなく面白そうに、
「上(サキ)の父母(オヤ)の爺っちゃまや婆さまの、そのまたサキチチも、てんで
に別にセブリはっとる‥‥お前らも父母(チチ)の兄弟(ハラカラ)で今だけは一緒
にこうして働いてチカラだが、大きうなりゃ別々じゃ‥‥そうそう、大石主税って知
っとるんか‥‥そうか知らんか。忠臣蔵の芝居で内蔵介の伜の名だ」
「ふむ、そうすると大石の父子もセブリもんか。わしらと同じで昔はスダチして行っ
たんか?」
「さあ、赤穂城の家老だったと聞いた事があるで、三代前から居附になって侍になっ
とんや」
 まさか大石内蔵介や主税がサンカのイツキの出とは、当時の新聞は総ルビで子供に
も読めたから討ち入りの話は知っていた。が、塩作りの土地の家老ゆえ、そうかもし
れぬと思った。
 思ったよりはかがいって、後は母親一人で出来上がるとみてとったか、キダチをふ
りあげ、
「もうええ。遊んでこ」
と、箕作りから開放され、てんでに又、丘の陰の沼の方へ行った。
 どうあっても、もう一度金色に輝いていた産毛が見たくてしょうがなく、思い切っ
て、
「これ、やる。見せんか」
と着物の帯のところに、タクシあげといって背丈が伸びた時に糸を抜いて下へ降ろせ
ば長くなるよう、ぐるっと溝みたいな袋になっているところから五銭玉を一つ摘まみ
出して、おずおずと、だいぶためらってから、甘えるみたいに姉娘に頼んでみたので
ある。
 といって私が母の血を引き早熟だったからでもない。
名古屋の東本重町の隣家が松乃湯とよぶ銭湯だった。なにしろ広小路[名古屋市中区]
から入ってくる角に浪越連の検番があったから、町内にも芸妓置屋が六軒あったが、
蒲焼町へかけては十軒もあり、昼下がりにはゾロゾロと姐さんたちが入浴にくる。
まず掛湯を浴びて湯槽に入って身体を温めて出てくると、持ってきたガーゼを一番長
い中指に巻きつけ、屈みこんで体の奥の方を丹念に何度もすすぎ、しごくみたいにし
て洗う。
 番台のおばちゃんに、初めはわけが判らないので、
「何で、あんなとこ、よぉ洗うの?」ときくと、
「今日のお客さんが拡げてみやあた時、前の日のお客さんのが中に入って残っていて、
白いのが滲み出てきたら具合が悪いぎゃあ‥‥そんだで、商売道具をみんなが大切に
しやぁすのやろ」
と笑いながら教わった事があるので、姐さん達が中に入り込んだのを出すために腰を
振り、
「拡げてみせるのは、主さんばかり、チントンシャン」
と鼻唄をうたいながら、下っ腹を左右から押して、奥深くにくっついている白い痰み
たいな塊りを下へ落とす姐さん達も見た。
 当時、「毛切り石」というのが上り湯の欄干の並ぶ台の上に乗せてあった。今のフ
ァッションモデルやビニ本のモデルさんは安全剃刀でジャリジャリ剃ってしまうそう
だが、昔は違っていた。
「剃ったり鋏で剪ると後から硬い毛がはえてきて、お客に毛切れさせては商売上申し
訳ない」
といったプロ意識が、火打ち石みたいな二つの石で、伸びた毛を叩き切って短くする
ので、これが跨倉なので自分では巧くやれぬからと、向き合って湯桶に腰掛けて互い
にやるのだが、照れ臭がって双方で笑ってしまいはかがゆかないけれど、私のような
子供だときわめて便利である。
 カチカチ山みたいな姐さんたちの繁茂した森みたいな小山の不揃いなところを、毛
切り石で丹念に叩き切ると、湯上がりの時にお駄賃に一銭玉が貰えた。屈みこんで仰
いで無気味な物を石で叩いたとて、栗のイガと違って食べられる実が口に入るわけで
はない。だから、一日に五人だけにして紐の通る穴あきの五銭玉に番台で換えてもら
うと、それで止めにしていたものである。
 その時に差し出した五銭玉も、いわば稼いだ自分の金である。なにしろ松乃湯で覗
いてきたのは、紫色に変わって小陰唇がはみだしたのもいて、まだ、五厘玉で飴が買
えた当時の一銭の仕事。だから子供心にも醜悪に思えたが、銭になるのでやっていた
だけの話。
 それが、金色に輝く薄い産毛の、それは今まで見た事もないものなので、何として
でも、改めてよく見たかった。
 当時の五銭玉は娘にも初めて見る大金だったらしく、裏返したり透かしてして眺め
てから、
「玩具じゃのうて、本物の銭じゃね」
と溜め息をついた。
 これまで松乃湯でキンツバを二つに割って、アンがはみ出したようなのばかり見馴
れているゆえと、よく説明をすればよかった。
 姉娘は弟や妹達に野ぜり摘みを言いつけておいて、私を窪地へ連れて行くと寝かし
つけ、
「初潮(さそい)がまだないでハタムラには背かんじゃろが、カドやメメのやってる
事を子供がすると、皮の肉が裂けるまでキダチで殴られ、お仕置きされるで‥‥だで、
ちょっとだけだぞ‥‥」
ことわりながら前をまくって、上へかぶさってくると、花ラッキョウのような私の突
起物を、ぬるぬるしたところへ上からはめ込んだ。私は慌てて、見たいだけだったと
泣きべそをかいた。
 しかし、そのうちに妙な心地になってしまい、思わずオシッコを洩らしてしまった
らしい。
「ししかけたらいかんぎゃあ‥‥」
と、自分の体内に迸った黄色い液体を、私の臍の下のところになすりつけ、
「臭うと叩かれるぎゃあ」
と、短い着物の裾をまくったまま沼の方へ行った。
 だから私は、祖母から預けられたとはいえ、ここのセブリの父親のヨシが下駄の歯
入れ道具と竹樋を肩に戻って来ると狼狽した。しかし、娘は五銭玉の手前から別に何
も言わずだった。
(「ハライ」とよばれる仕置きは、草を口へねじこんで声を立てられぬようにして、
後手にして天幕に縛りつけて、箕作りのキダチで散々に尻を打ちすえるから、思わず
天幕を払うようにひっくり返してしまうので又も余計に折檻される。これで子供を殺
してもセブリの掟では許される)
とは前に聞いていたので、祖母が預けたのは何も下駄の歯入れ屋の修行のために小僧
奉公に出したのではなく、男っ気がなくては最早どうともならなくなった女盛りの母
の再婚のためだぐらいは子供心でも判っていたから、きっとキダチで殴り殺されるだ
ろうと、それまで散々自殺を企てていたくせに、他人に殺されるとなると覚悟がつか
ず、おどおどしきっていた。
 しかし、沼で獲れた魚を竹に刺したのを肴にしてドブロクを呑み、子供達にも飯を
喰わせていたヨシは、まだ何も気づいていないのか、機嫌のよい顔で芹(ゼンコ)の
煮つけをつまみつ、
「今夜はここでハラウ」
と言い出した。さては、勘で判ったのかと私はドキっとした。
「なんぞあったのかのう」と母親がきくと、それにニタっとして父親は娘の方へ顔を
向け、
「シシとこの娘にサソイ(初潮)があって祝ったで、国カズさまのお指図で明後日に
矢田で祝言じゃ‥‥同じテンジン仲間じゃ。一日早う行ってやって、サチノリしたり
祝言の手伝いじゃ」
「そうか。あすこのカミコが女になったのかや。国カズさまのツナギが名古屋のあん
たの仕事場へ告げにきたのは同じ五ハリのテンジン仲間だから、仕事を休んで手伝う
てやるじゃろか」
「うん、相手は三重カズんとこのセアナだとよぉ‥‥他国との縁組みで作法に欠けち
ゃぁ尾張カズ様の面目にかかわる。そんだで、うちだけじゃのうて、同じテンジンの
他の三つのセブリも今晩から明朝にかけて集まって、みんなで粗略のないようにやれ
との事だがね」
と言った。
「そうか。だったら飯すんだら早う寝て、明日は夜明けに払って行かすか。矢田まで
なら昼には着こうが‥‥」
と、ゆっくり呑んでいる父親を急かすようにドブロクの瓶を取り上げた。
「‥‥矢田って何処?」
ときくと、姉娘が箸を休めて、
「三重じゃが、遠くねえ。近いがねぇ」
と、先刻の事などもう忘れたように、したり顔で答え、弟や妹に、
「早う済まさんか」
と急かした。
 セブリの子は三歳になると薪拾い、五歳になると食せるものを見つけて歩くから、
男は十六ぐらいでも、初潮のあった娘と女夫(マグヒ)となって独立したセブリを持
つ。なにしろ二人きりの家族(うかり)ゆえ、生計には困らない。年老いて両親(セ
ブチ)が生計に窮するような事があっても、国一が皆から集めて蓄えた金の中から面
倒をみるから、子供には負担が一切かからぬような仕組みがサンカ社会なのである。
 なにしろ、暗くなると他にする事はないし、先に産まれた子は早く女夫となって独
立してゆくから、気兼ねなく母親が父親に迫るというより、進んで上に乗っかってゆ
くものだから、
「第一子はカミコ」「第二子はツギコ」「第三子はミツメ」「第四はヨツメ」「五番
目はイツメ」次いで、六目、七目、八目、そして九番目(トマエ)、十番目(トウ)、
十一番(トイ)、十二番(トニ)、十三番(トサ)、十四番目(タシ)、十五番目
(トイツ)、十六番目(トム)、十七番目からの子は、ノグソと男の子でも女の子で
もよぶ。
 が、セブリの中では兄はロセ、弟はロト、姉はネ、妹はロモというが、地方によっ
て中に「ン」を入れたり、近畿や中国地方ではロセとは言わずにロエで、こうなると
セブリ独特な言葉ではなく、古代の大和言葉になってしまう。
 女の子の初潮をみると、小豆粥で「サキハエ」というのも、祝うのではなく一人前
の女として生きてゆかねばならぬから、行き先に栄えあれかしとの祈り。
 そんな話を聞かされながら、いくらちょこまか駆け足をしても、一番小さな子供に
も遅れる自分に、今で言えば自己嫌悪に陥っていた。矢田河原に着いた時には、他の
子と違ってズックを履いていたのに、孔がいくつもあいて足にマメができ、それが潰
れて血が黒くなっていた。


世界一の純血民族

「婚礼はヨツギ結ビだが、式はウキアブラと言うんよ。みんなで酒盛りするこったが
ね」
 自分も初潮さえ過ぎたら式を挙げて父や母のセブリから出て一人前になるんだとば
かり、己の実の妹や弟よりも、私に娘は話しかけてきた。だから他のセブリの婚礼の
手伝いに来ているとは承知しながら、まるで自分が娘の婿にされ、また馬乗りにされ
てチビる恐怖を感じた。ただオロオロして言われる侭に地ならしを私はしていた。
 三重の津からのクズシリがここへ婿を連れて、独立の宣言をしに来たのは次の日の
朝だった。新しいセブリの布を張ると厳かに、
「身負布(ミオヒヌナ)、揺張(ユサバリ)、移リ居(コモ)り為セ」
と唱える。
 唱えながら四方を斬って邪気を払い、そして新しいウメガイ一本を押し戴いて、伴
ってきた新郎の頭の上に高く捧げ、さて、おもむろに四方拝をして、
「このウメガイ持て、隅肩(スミカタ)盛る穀物寿(タナツモノイノチナガク)、身
殻別(ミカラワケ)の一族(ヤカラ)となれ」
と厳かに宣告(のりつげ)して、ウメガイを授ける。
 この宣告は神代の昔、穴から地上に出て、布張(ヌナバ)りになった時の勅命の
「史言(フミゴト)」として、セブリに伝承されている「宣告(ノリツゲ)」である。
かしこまって、この席には、それぞれクズコ、ムレコと、それにエラギ(カミ)の一
(フキタカ)が竹笛を持って列席する。C
 私や他の子供はもちろん、ヨシやその女房や他の天神[テンジン?]から手伝いに
泊りがけで来た連中も、式が終わるまでは遠巻きにして、酒盛りになると、ムレコが
手招きするので、それを待っていた。
 この矢田河原は、最近桑名へ行ったついでに昔懐かしさに寄ってみたら、「矢田磧
町」と名も変わり、県営住宅や市営住宅のマンションがずらりと並んでいて、もはや、
すっかり昔の河原の面影はどこにもなかった。
 戦前、この辺りは同和部落が移ってきて住み着いたが、四日市よりの公害の丁度風
下になっていたので、悪臭がひどく咳き込まぬ者はいなかった。が、昭和四十年過ぎ
から公害防止の県条例で防止法ができたと思ったら、県有地と河川線流域の国有地な
ので、それまで住んでいた者らは追い払われてしまい、後になって県営住宅が次々と
建ち並んだのだと教わった覚えがある。
 しかし、新郎が新しく切り出した青竹に白い酒をついでクズシリに捧げているユサ
バリは、はたはたと川風に音させて河原のススキが薙ぐみたいに左右に烈しく動いて
いた。やがて、幕のたれをめくってムレコが出てきた。何か捧げるみたいな格好で物
を持っていた。
「花嫁(メツレ)迎えじゃ」と娘は囁いて教えてくれた。
 そして捧げ持ってゆくのが引出物(ハニモノ)と話して、「塩魚(シオウナ)、蓮
根(アナネ)、米酒(マサカ)、箕(ミカラワケ)」
と菰にくるんで、向こうの林の中で待っている花嫁や、その親のところへ持ってゆく
のだと説明したが、また同じ様な菰包みをムレコが持ち戻ってくるので、
「ワヤになったんか?」つまり、縁談が不調に終わってしまったのかと、せっかく足
をマメだらけにしてついてきたのが無駄になったのかと、子供心にも気になって低い
声できいてみた。
「ううん。あれは花嫁さん側で用意して持ってきた花嫁手製の箕、花嫁が米を噛んで
コウジにした酒。男のものの格好をしとるゴンボかニンジン。それにやっぱし塩漬け
の鯖か鮭で同じ」
 それを聞いて、では蓮根が女のあそこのシンボルだと判ったので、穴があんなにい
くつもあいていたかと、ろくによく覗きこまなかったのを悔やむように娘の下腹部へ
眼をやった。
 やがて、セブリの中では、クズシリとクズコの豪いさまが立会いで花嫁側からの引
出物を受け取ると幕の外へきて、立っている花嫁を中へ招き入れて新郎の両親に挨拶
の目見えをさせると、
「アマツリのサヅケ‥‥を今、これからやっとるんだぎゃあ」
と、娘は知ったかぶりをして、ここからでは、てんで見えぬ幕の中の有様を、興味深
げな私に低い声で続けて教えてくれた。
「アマツリって、上から吊るす自在鉤(テンジン)だろ。それの新しいのを豪い様か
ら貰うんかねぇ」
 そういえば、昨日ここへ着いた時、新郎の父親が、グミか山シュユのまっすぐな木
を伐りだしたのを持ってきて、立弓にするため焼石で何度も熱くしては曲げているの
をみかけてはいた。

 2メートル30センチぐらいだが、上から25センチぐらいの個所を焼いて湾曲が
できていて、そこから藤で編んだ吊縄がまきつけられ、吊鉤をひっかけまわして使う
のだが、
(すべての食物は天からの授かりもの)
といった神業(カンワザ)の言い伝えからアマツリと称するのだが、実際に使用する
時には天幕に吊るすわけにはゆかぬから、下の方を50センチぐらい土中へさしこん
で固定させ、45度の角度に斜めにし、鉤の藤蔓に薬かん・鍋などをつるし、沸かし
たり煮る。
「新生(あらある)、揺張(ゆさばり)の夫婦(めおと)に、天津吊鉤(あまつつり
かぎ)下がる、心結いて、受け召せ」とか、
「慈(めぐみ)、畏(かしこ)み、平穏(たいらか)に、堅固(かたらか)に、寿命
(いのち)を持続(く)します」
といった、厳かというか、まるで神主様の祝詞みたいな一本調子だが、そのくせよく
透る太い声が風に吹かれて、こちらまで幕布を通してはっきり聞こえてきた。
「三重のクズシリ様のお声じゃ‥‥あれがすむと、アワズフタノを嫁さんが貰うんじ
ゃ」娘はまた教えてくれた。
 昔は藤蔓やコウゾの樹皮を石で叩いて柔らかくしたもので手編みにしたが、今では
木綿を二巾に合せ縫いして、それを赤田の泥で染めて茜色にしたのを腰巻にしている
が、嫁女となると夏でも赤のネンネルのに変わるから、新郎の母が「嫁として認知し
た」という証拠に、その腰巻をわたすところだというのである。
 貰った花嫁はそれまでのをはずして新しいのに変え、これまで腰に巻いていたのは
畳んでムレコが川へ流しに行くのを「処女(ウブメ)流し」というのだそうだが、腰
巻の取り換えの時に、下半身をむき出しにして、ぐるりと一廻りして見せねばならぬ
のだが、毛の多いのは「むさい」と言われるから、まだ陰毛の少ない、初潮があった
らすぐというのが多いと、恥ずかしそうに娘は言い、声を低くして、
「わしのは、まんだたんと生えとらんから、サソヒの月のものがあったら、早いとこ
嫁入りじゃ」
と、二十歳を越し陰毛が森みたいになると、爺さまの許へしか行けなくなるとも言っ
た。
 やがて、天幕の中から、花嫁は上衣(アワギ)は茜木綿の裏をつけた絣の袖なし。
帯は手ぱシゴキと呼ぶ、手の掌をひろげた巾の藤織りの紺色のを締め、髪は銀杏の葉
型の青竹の櫛でひっつめ髪をとめ、左右に竹で割った二股かんざしをさした侭の花嫁
衣装で、幕の外のこちらへ深々と頭を下げた。
 新郎の花婿衣装は、紺の股引きに盲目縞のタクリとよぶ筒袖はんてんで、腰には白
さらしの帯をきりっと締めて、頭は七三に分けていたが、鉢巻きなどはしていなかっ
た。
 クズシリ、クズコ、ムレコの豪い様は、長帯を左横でノコシ結びに上へはね、その
右脇に祝いのしるしに新しい縄っこをぶらさげ、左腰にはウメガイを吊るして後から
出てきた。
 何を言っているのか意味は判らなかったが、多分、これで二人の婚礼は無事に済ん
だ。みんな御苦労だったというようなことを言ったらしい。
 そこで地べたへ座って、みんなでお祝いと、豪い様へ両手をついて礼を言った。私
もわけが判らぬまま土下座してお辞儀の真似をした。
 また幕の中へ戻って行った。竹笛が聞こえてきた。サンカの婚礼には、花嫁側の両
親や兄弟は縁切りだといって一人も出席してはならぬ事になっているので、一人きり
で連れてこられた花嫁の後見役みたいに、一つのテンジンの他の四つのセブリが代わ
りに来ているのだが、幕の内へは入れてもらえず、挨拶を受けるだけである。
 竹筒で三三九度みたいな事をするのだが、これが終わってクズシリ様が納めに、
「イヅモウ」と号令、みんなもそれに合唱する。
 すると在郷の床入りというのか、新郎は毛布かコモの巻いたのを花嫁に持たせ、自
分はウメガイの柄をしっかりと握って、二人で山の方へ「去づもう」と消えて行って
しまうのである。
 これからがウキアブラの宴会で、双方で交換した引出物の他に、余分に塩鯖や鮭や
目刺しもあるし、大根、人参、ごぼうの野菜類も山ほどあって、酒や芋アメもあるか
らセブリに分配される。
 火をおこして待っていた母親達は子供等に手伝わせて、男共の集まりへは酒と肴。
子供等にも馳走を食わせるので、私はそちらの食う方にだけ気をとられてガツガツし
ていた。
 しかし、天幕の中のクズシリや新郎の親達は、山入りした婿が、蕗の葉か、柏の葉
にくるんだ物を持って来てムレコにわたすまで待っているのである。ティッシュペー
パーなどなかった大正時代ゆえ、キヌタで叩いた藁の柔らかなものか、奢って白木綿
を使って包んでくる事もあるが、
「寿(イノチナガシ)‥‥」とムレコが開けてみせて処女膜出血が付着していると、
「イザナミ」だと言って皆が喜び、ムレコはそれを花嫁の両親のセブリまで見せに出
かけていくが、ほっとしたように、クズシリ様や新郎の父も集まったセブリの男ども
のウキアブラの酒盛りに加わってきて、一緒に呑めや唄えをやって日没まで続け、や
がてそれぞれにテンジンを畳んで散ってゆく。
 これは後で聞いた話だが、どんな酒でも伐りだしたばかりの青竹の一節に入れて、
焼石で燗をすると、アクが青竹の内側の甘皮に吸い取られて芳醇な美酒になって申し
分ないとのこと。
 現代では、「過去の事にはこだわらぬ」と、がっついて遂行だけを願望とする男は
いる。女も二十歳過ぎてまだ処女というのはドブスしかなく、古臭いみたいだが、戦
前の一般家庭は、嫁は家に貰うものだから、その家の跡継ぎを残すためには、前の男
のザーメンが体内に少しでも残っている女は拒んだ。
 いくら血統書つきの名犬や名馬でも、さかりがきた際に、他の相手と一度でも交合
したのは、もはや純血種はとれぬと毒殺してしまうゆえ、今ではザーメンをとって人
工受胎という利益本位の事が現実に行われている。特にサンカ社会は、「純血主義」
という誇りが千三百年も続いている。車が中古より新車がよいといった趣向と違って、
混血児を産まされる事なく、純日本人として、居附になってもツナギの手によって同
じ純血人種としか結婚せぬ彼らにとっては、初潮以降つまり子宮が発達してからの非
処女だった娘は、婚礼の時にもし花婿によって露見すれば殺されても[可という]ク
ズシリの許可があったという。
 「戯れに恋はすまじ」というが、世界的にだらしがないと定評のある日本女性にも、
一割何分かはこうした純血型がいるし、花嫁の親兄弟を絶対に見送らせぬのは、もし
非処女の時は殺して埋めてしまわねば部族のハタムラが守れぬゆえ、肉親の情で邪魔
されてはと、絶対に参列禁止と掟にしたのであるらしい。
 当節は若い人の心中沙汰は滅多になく、七十代や八十代の老夫婦の心中記事がよく
新聞に出るが、あれはみな居附サンカの人達であるらしい。
 郭ムソウ(藤原鎌足)が進駐してきて占領下となり、「桃源=藤原」のあて字で彼
らが公家となり、原住民は地家とか「賎」として、女は絶対に要求を拒めぬと、選ぶ
権利がないまま何世紀かたった。
 が、マッカーサー進駐時代から、女は細いのより太いのが好いとなって変わり、
「隣の車や男は大きく見えます」とかいって妻も蒸発してしまい、亭主がテレビの画
面で、「戻ってこいよ」と頭を下げるのは、サンカ系の純血民族でない、混血させら
れて生まれた娘がまた混血児を生んだ奴隷血脈の方の末孫であろう。
 何しろ、サンカ社会は一度婚礼を挙げれば、重婚どころか、他の男女と一度でも過
ちを犯せば、どちらの側でも殺されてもやむを得ぬハタムラがある。だからサンカが
尼寺へ次々と押し込んで処女の尼僧を犯すようなのは、為にするための作り話でしか
あり得ない。