1010 サンカ生活体験記  9

セブリは減っても

 サンカが世間から誤解を受けるようになったのには、それにはそれなりのわけがある。
 上場会社の顧問弁護士は検察OBが多く、テレビの時代劇みたいに今でも昔のお代
官様みたいな検察幹部に渡りをつけ、会社側に不利な事が起きると、「検察一体」と
称して、オカミの名で別件逮捕でも何でもしてのけ、権力でかたづける。
  家の立ち退きなどの裁判では移住権で十年余も係争にかかるから、酒場の女との情
事などを種に相手の弱みをつかんで、申告罪で告訴させ、破廉恥罪容疑で脅かし、家
屋の明け渡しをさせる例などは「頼まれ事件」の別名で実に多い。
  なにしろ殺人犯とされ処刑されたり、辛うじて生きて出てきた人間も、従来は名前
だけだった再審の扉がゆるむと、みな事実誤認で無実になるくらいゆえ、それ以下の
犯罪となるとデッチあげばかりなのは<天の古代史研究>の中にあるとおり、、岩倉
訪欧使節団によって新設されたものの、検挙率が三億円事件みたいに迷宮入りばかり
だと警視庁廃止案が議会に上程されてから、なんでも検挙すべしとなって、疑わしき
は罰せずではなく、疑わしくなくても起訴にもちこみ、有罪にしてしまうようになっ
た。
  ノルマ制にして二年間に何百件もの起訴が成立しないと、巡査部長になる試験資格
がとれぬようにまでした。万引きしたり暴力団から金を貰う刑事などは、罪が軽い方
で、大手企業よりの献金や接待などで、上司として所轄の警察署に命令しているよう
なおえら方の犯罪製造業者が陰にかくれて判らぬことが多い。サンカも戸籍のある者
は犠牲にされた。
  どうして事実無根の者を、かつては菊の御紋章の威力、今では唯の裁判法だけで勝
手に有罪にしてしまえるかといえば、民主主義とかなんとかいうが、アメリカのよう
に陪審制度を導入しかけたがやめてしまい、外国では一般の公平な判決によって裁判
長がそれに従うのが裁判ゆえ弁護士も陪審員として選ばれた人々に向かって堂々たる
熱弁をふるうのだが、日本では「準備書面」という書類提出だけで、あとは事務官や
正副の裁判長個人の人間性の判断だけで判決される。
  不祥事と騒がれた被疑者の女性(三十代)にホテルで五万円も支払った方や、ゴル
フ道具を貰ってゴルフ場管財人に便宜をはかった方などは、政治的な陰の権力で動い
たり、ヤメ検と呼ばれる検察OB弁護士によって躍らされ、無茶している者らよりも
遥かに人間性があって責められぬ。
 そもそも現代でさえこうなってしまっているのは、事の起りはどうもサンカにある
ようである。明治五年の壬申戸籍で、無届けの者が頗る多かったが、農耕奴隷漁業奴
隷製塩奴隷は旧幕時代からがっちり押さえられていたので、寺人別帳から各町村役場
へそのまま地名を姓にして書き込まれた。そのため圧倒的に頭数が多いのは平氏の流
れというので「平民」と総称。しかし、飼戸(しこ)の民は、馬方をしている者らは
問屋場人別帳によって捕捉されたが、他は無告のままだった。
 ところがサンカだけは、それぞれ各国一だけは己が国内テンジン数や各セブリを知
ってはいたが、古代からのハタムラで、絶対に他には、どんな事があれ何も口外はし
ない。
 セブリも絶対に完黙で、他人には無言のままで押し通し話したがらぬ。だから国民
皆兵・国民皆税の明治政府の方針には、元帳となる戸口簿に国籍も作らせないでは始
末に困るのであった。
 そこでスペイン人がゲルニカのバスク人を狩りこみしたみたいに、オカミではサン
カ退治にかかった。しかし藤原時代みたいに、山へ逃げ込んだからといって、火をか
けて燃やしてしまう事はできない。そこで幕末までの木彫りのバレン刷りでなく、西
洋印刷機が輸入され、日本字の字母ができ出版が盛んになったので、小学校の教員か
ら斯界へ進出する目的で雄弁会とよぶのを作った者に、当時は出版は許可制でオカミ
に指導権があったからして、材料を渡して、「明治大正犯罪実話」なる題名で上下二
巻本となして刊行させた。
 風俗壊乱罪というのがあって、本のポルノは発禁でやかましかった時代だったのに、
この上下二巻は特別に、サンカ者大道寺凌雲が各地の尼寺を襲って未通女の若い尼僧
の前をまくるようなきわどい場面が次々と出ていたり、やはりサンカ者の寅吉が五寸
釘で足の裏を刺したものの、そこは山者のこと、足の皮が丈夫なのか忍び込んだ家の
妻女を逆さ吊りにして犯すといった絵入りの公認明治ポルノ本ゆえ、この本は飛ぶが
如くに売れに売れ、当時としては大ベストセラーとなったのである。
 おかげでサンカとは常人とは違う変態的な獣姦的な恐ろしい事をやってのける、一
般人と違い、全く別人種の如くに思い込むようになったのは、企画した側は大成功で
あった。
 このおかげで、まるっきりの素人の小学校の先生が創立した出版社が今では日本で
は有数な大出版社にもなれたのだから、融着した双方共にこれで大いにめでたし、め
でたしである。
 が、被害甚大なのはサンカ社会であった。いくら反体制で反権力で、オカミの言い
なりにならぬ自分らだと言い張っても、「実話」と銘をうたれて、まるで獣欲の権化
みたいにされてしまい、凶悪犯人はみなサンカであるとデッチあげの本を出されたの
では堪ったものではない。
 なにしろ実際のサンカたるや、絶対に一夫一婦制である。重婚はおろか他の女とは
生涯触れる事も決して許さぬ厳重な掟が昔からある事など一般には知られていないか
ら、犯罪者つまり兇悪犯はみなサンカとするPRが一般大衆には好色的な見方をされ、
自分らとは違う異民族の羨ましいような精力絶倫さに好奇心を抱かせるだけの結果と
なった。三角寛に「オール讀物」に山窩ものを連載させて、ますますオカミは反体制
の彼らの退治に、しばしば狩りこみもした。
 なにしろ、天慶の乱から頭のよい文化人がザボとして加わったのが、三代たてばハ
ラコといって同種となって、巧妙に頭の良さを発揮し、各地の国一によって全国的な
組織をもっている。
 ゆえに、もし一致団結して暴動でも起こされたら、全国組織の連中ゆえ、明治六年
の佐賀の乱から西南の役までみたいに、各個撃破では掃討できぬ危惧がオカミをたえ
ず悩まし続けていた。
 それに東宮殿下の御妃として東本願寺より御入内となったので、これまで仏教徒で
なかった者へは所轄警察署より、寺の境内は狭いから火葬にして、みな墓地を求め石
塔をたてるよう命令。これは<野史辞典>に[じつは『庶民日本史辞典』]「衛生ご
っこ」の項目で出ているが、「何々家先祖代々之墓」といったのが何処でも見受けら
れるのは、なにもそれまで貧乏で墓がもてなかったのではなく、オカミの命令でそれ
まで仏教に無関係だった者が、サーベルに脅かされて俄か造りで建立。寺の方でも、
どうせ長続きはしないだろうと「永代供養料」と前金でごっそりと先にとっていた。
[『庶民日本史辞典』より『衛生ごっこ』を転載しておきます。
 生まれる前は水天宮、七五三には氏神、交通安全には成田山、結婚式は教会、死ん
でからは葬儀社の連れてくる坊さんで仏教、と日本人は極めて信心に変化をつける。
『天正十一年裁可状』なるものがあったのは、活字本になっている『掛川史稿』や
『大三島神誌』にも出ています。これは徹底反仏教の信長が、坊主皆殺し主義だった
のに対し、今でいう政治献金をかき集める為に豊臣秀吉が銀を多く納入した寺社にだ
け、信長殺しの翌年に発行したお墨つき。
 と申しますのは、信長の頃は何処方面を攻略せいと縄張り拡張を命じ進発させて、
上納金を集めさせ、元手は与えてやらぬ略奪戦法でしたが、秀吉が天下とりする頃に
は、武器や食糧は敵から奪え式では最早実行不可能でした。よって、軍資金を出して
やるため献銀が必要だったのでしょう。
 ですからせっかく反仏派だった信長がこれまでの仕返しにと、圧迫階級の先手だっ
た仏教を押さえにかかったのが本能寺で謀殺されてからは事態は一変。皮肉な事に安
土の總見寺をはじめ、京花園の妙心寺とか各地の寺に長子信忠の墓があります。もち
ろん客寄せに今言う目玉商品みたいに勝手に古びた境内の五輪塔を目立つ場所へおき、
そこへ標識の本柱を立てたものですが、元禄以降となりますと、神仏混合令の法律の
許に、まるで信長までが仏教徒みたいな扱いを受けています。
 信長の時代が終わり秀吉の代になると、献銀させた各宗派の申し出によって供養を
仏式でやらせたからでもあるらしい。が、そのくせ秀吉が亡くなると、今度は逆に家
康のために護国神社とされてしまうのである。せっかく献銀したのが無駄になった仏
教各派で、客寄せにしろ秀吉の墓を設けないのはこのためなのであるといえます。家
康の仏教弾圧は、紫衣事件で沢庵和尚まで放逐追放しました。
 京の蜷川の血を引く斎藤内蔵介の娘於福の子や孫によって、徳川体制も家光の頃よ
り仏教化して、やがてその子の家綱の弟綱吉の代になって、神は仏に組み入れんとす
る法制化がなされるのだが、それでも全国的に学校教育の施行は明治以降。よってそ
れまでは大陸勢力の仏教に対して、庶民は『宗旨違い』といった言葉をもって対抗し
てきたのが実情。そして、幕末までは、罪なくして殺されたのが迷って出てきて祟り
をせぬようにと封じ込め扱いされてきた神社が、明治から一変して厚待遇。
 それまでの日本の最高権威だった徳川家を倒してのけた新政府は、現人神におわす
と皇国史観のはしりをもって象徴化し、改めて日本全国のこれまでの神社に位階をつ
け、維新の功労者を神に祀るように施政方針を変えた。つまり、祟り除けに避けるも
のではなく、拝むものとなったのです。
 そして、この新政を義務教育によって普及させたので、幕末までの『宗旨違い』の
総人口の半分も一見同じみたいにされてしまったのは、足利時代に転向者に阿弥を名
乗らせ、僧体にしてから『彼らもまた同朋のうちに入る』と『同朋衆』と称したのと
同じような政策とは言えないでしょうか。
 しかし、白人がキリスト教の宣教師を先乗にして植民地開拓を計ったように、仏教
の布教僧を送り込んで来た大陸勢力が、王朝時代には原住民にも親しまれるようにと、
西方極楽浄土ならぬ東方瑠璃光如来の薬師仏を、各国分寺の御本尊にして教化に努力
したが、点と線どころか、点しか確保できません。
 徳川綱吉が法律化して寺百姓つまり寺の奴隷百姓を人別帳に記入させ、宗門改めと
称して、政治発表では見つかりもしない切支丹狩りの名目で反仏派の弾圧や転向を計
ったのが、明治五年の壬申戸籍では、三割の成功に過ぎなかったのが、ほぼ九割まで
になったのは、新政府が皇太子妃を東本願寺よりお迎えしたからでしょう。
 大正期には、『衛生ごっこ」という遊びがありました。『死んだ者を土葬しては衛
生上に害がある』と、ヒゲをひねる真似をしてサーベルを抜く真似をし、『そうか。
燃やしてコツにしたか。‥‥が、何ッ神棚に置いてある?いかん、衛生上害があるか
ら、すぐお寺さんへ持って行って埋葬せんか。逮捕するぞ』と、弱い者苛められっ子
が頭を下げ、脅かされました』以上]

 ところが、サンカだけは、いくら官憲が探し廻って寺に石塔を立てさせようとして
も、風葬のなのだし住所がつかめぬから、いくら全国へ手配をしてもオカミの権力で
はどうしようもなかった。
 かつてのフランコ将軍はバスク人全滅を狙って皆殺しをはかり、戦後はナチスの仕
業であると発表したのが、ピカソはその実態を描いた。有名なゲルニカの絵であるが、
日本でもサンカ全滅は民族融和事業会の手ですすめられ、三角寛先生が今の十万円に
あたる一日百円の日当で彼らを集め、酒や肉を運んでいったのも、莫大な費用を自腹
でできるわけはなく、オカミというか事業会よりの国民の税金で賄われたものであろ
う。できれば彼らを手なづけて皇化させ、最悪な場合は一斉処分をも考えての企画だ
ったろう。
 しかし、サンカの方も察知していて、
「絶対に誰の写真も撮影せぬこと。個人と話をしないこと」
といった厳しい条件をだしてきて、馬車の酒や肉は腐るから手土産として受け取った
が、直ちに金は返し解散してしまったという。
 天幕のことをユサバリと彼らはいうが、さっさと自在鈎をはずしてテンジンを真ん
中に鍋釜をユサバリに包んでしまうと、それで終わりで、何百というセブリが三十分
ぐらいで全く跡形もなく消え去ってしまうのである。
 それゆえ、「ミツクリニン」とか「ミツクリビト」と呼ばれ居付き定住者(村役場
では捕らえてきた者には五木とも苗字をつけていた)。
 これに警察は目をつけ、戦前にもあった浮浪罪容疑で代用監獄の留置場へ二十日ぐ
らい放りこんでおき、仲間の事を探って報告するよう密偵者に仕立てた。もちろんブ
タ箱でモツソウ飯や食パンを喰わせてもらったからといって義理はないのだから、頭
の良いのは警察内部の事情や、民族融和事業会の動静を逆に探って、クズシリ一(カ
ミ)にすぐ知らせ、ムレコと呼ばれるセブリ者を、統率しているクズコ一に対して報
告をする。そして警察の方へは同じセブリの者ではなく、「マガクモ」と呼ばれるモ
グリで山へ入ってきている毒蜘蛛。つまり肌に刺青など刺して殺傷沙汰などで警察に
追われている「札持ち」とよばれる兇状もちをば密告してすぐ捕らえさせる。
 が、もぐりで山へ入ってきた兇状持ちがセブリの娘に悪戯などすると、クズシリの
命令で先にウメガイでムレコに襟をえぐられて、屍骸は全く見つからぬ渓谷へ埋めら
れてしまう。
 こうした人目につかぬような殺しをやるのは、サンカでは「隠密族(シノガラ)」
と呼ばれる忍びで、甲賀や伊賀とは違いサンカの者らを守るための戦闘的な自衛組織
であって、三角寛先生の説明では、
「クズシリ輩下のユサバリの他に、武蔵の地域には、ユサバリとトケコミとの中間に
位置する絶対秘密の集団がある。これを隠密族(シノガラ)という」
といったように、簡単な説明をなしている。
 これは、昭和三年に東京のクズシリ隅田川一を「族長(ガヲサ)」として結成され
たもので、「府内族(フナガラ)」一族を中心としたところの、潜伏居附の結社であ
る。相当に身軽で、柔術もやっていたという。
 昭和二十四年度を時点としるセブリから一般社会へトケコミした武蔵国の数は59
13戸とするが、この隠密族(シノガラ)は、昭和三十六年三月十六日を時点として
18630戸、家族総数は83880人。この性別内分は、男子41841人、女子
42039人であるということになっているが、戦後の発表でも、彼らは用心して百
分の一以下にしている模様らしい。
 この秘密結社は、明治維新によって社会が開化に向かった時から自然に芽生えたも
のである。士農工商の差別がなくなった事から、今まで自分達も見下られげ、一般社
会から賎民として扱われてきた新平民と混同されてはならないという意識から発芽し
て発生したものである。つまり一般人として、セブリからのトケコミしている者らを
守る為の中間秘密結社である。
 そもそも箕作は、神代から隷属させた民である百姓の奉仕者として、神事の奏器や
祭具作りには奉仕してきたので、屠殺、屍獣処理、履物、帚作りなどには従事しない
部族である。しかるに、そうした歴史や伝承に生きている事を知らない一般社会から
は、それらと混同されがちである。この事を忍び得ない心情から、この中間結社を作
って、デマをとばす輩はこらしめ、蓄えた財力をもって子女教育に重点をおいて、優
秀人材を一般社会に送り出している。
「一、 カミハミタカラ 二、ツギミカラワケ 三、ガツクラズ 四、ガラシト」
と、今もセブリで唄われているように、これは人民の最上位社会は、
一(かみ)が穀物現(タナツモノ)作る農人(みたから)、それに奉仕する実設別八
万物運作人(ミカラワケヤヨロゾモノハコビノナストがこの次に位し、三番は不耕者
(つくらず)の非民(士工商のこと)、四番目が大祓詞にある白人胡久美(しろひと
こくみ)(皮膚に白なまずあり、つまり白色人種で剰肉(アマシシ)ある不浄の人間)
の者達である、という伝承の童唄なのである。(オオミタカラとは大御宝つまり私有
民の遺産)
 我々庶民は散所へ入れられ奴隷として酷使され、女は藤原時代から足利期まではカ
イトとよばれる慰安所へ収容。「野史辞典」の「庭子」の項目にあるように、男は先
住民族ゆえ「賎」とされて生涯単身。よってセンズリとの名称を今に残す。今いう処
のオナニーの事である。
 が、自分らの女を進駐軍の慰みものにせず、あくまで純日本人の子宝をセブリで作
って、平均十人は産んで増えに増えてきたサンカの者らは、明治の世となって四民平
等とされるのは、自分らが純血だけに混同されるのを拒んだのである。つまり捕虜と
され、おめおめ生き残った者の子孫と自分らは違うのだと、政府に対して又しても反
体制となり、改めて、反権威のためには「虎穴に入らずんば虎児を得ず」と、これま
での蓄財を育英資金にして、東大の前身の開明学校へも第一回入学生に四名を入れ、
東大になってもからも次々と入学され、名前を列記すれば誰でも知っている明治の英
傑や才物は、学資を昔からのサンカ資金によった彼らの人材である。
 「隠密」のシノガラは、在学中の秀才へは学資を届け続け、既に立身して官途につ
いた者らからは、政府の政治方針を探り出させて、それぞれ国一に報告、それによっ
て対策を立てた。
 が、日清、日露から満州事変を経て、やがて皇国史観が黒板勝美らによって徹底的
に普及されるようになると、サンカにも皇国史観的歴史が押しつけられるようなこと
になってきた。
 「サンカの社会」の262頁から264頁にかけ、三角寛先生も下の如く紹介して
いる。もちろんこうした事実はありよう筈はなく、火明命の末裔なら古代海人族でな
くてはならぬし、仁徳帝となると、これは百済系の方であって、サンカが敵対してい
たお方なのである。

 火明命の裔孫と伝承されている田地火(タヂベ)の一族は、「赤土刺(ツチカミ)
の断ち薦(ゴモ)」として、第十六代仁徳天皇の御世に、マムシ捕りの勅命を受けた。
続いて第十七代履中天皇の御治世を経て、十八代反正(はむぜい‥‥百済語)天皇の
御代には、蝮部(タヂヒベ)として一部族に認められ、姓(みやうじ)を勅許されて
いる。
 また、これより前、十六代仁徳天皇の四年三月二十一日、天下不作に際し百姓(オ
オミタカラ)の課役勅免があった時、摂津、大和の箕作が山幸の葛の粉と、葛の糸
(かたびらを織る)を箕(ミカラワケ)に八百盛(やほもり)にして、大臣竹内宿弥
を通じて献上した。その時の難波の高津宮は、鉋(かんな)もかけない原木の掘立小
屋で、屋根の葺茅は茅尻も切り揃えない窮(せま)り乏(とも)しい皇居であったが、
天皇(すめらみこと)には、いたく御嘉納あって、大臣を通じて、「八百盛の山幸か
も」とお言葉を賜わった。それがもとで、摂津、山城、河内、大和の箕作の事を「八
百盛」と呼ぶようになり、「箕作人(みからわけのなすと)の中でも、所謂名門とな
り、ヤホモリの姓(ヤカラ)となった。(作り話としか考えられぬ‥‥)
 また、その時「山幸の國栖(クズ)かも」と勅語されたので、それを献じた摂津、
河内、大和の箕作人を、「大和の國栖」と名乗るようになった。そしてオガラそのも
のまで、クズと呼ぶようになった。またカヅラから葛の粉を採ることを知ったのは箕
作人の先祖であるから、その末孫が國栖姓と、ずっと名乗っている‥‥と「屑」と呼
ばれたのをコヂつけた通りを紹介している。
 さらに、同天皇の御仁政によって、民草の「ナリハ(ワ)イ」(農業の事)が芽吹
いて、飯炊(イヒカシ)の煙が高くなってきた。(苛税をとりすぎて暴動を怖れ淡路
島へ逃げていたのが本当の話)
 ここで仁徳十一年十月に、難波の堀江をお穿ちになられた時の工事用の箕と笊を、
「國栖の者」に御下命があり、「國栖部(クズベ)」をお立てになった。この堀江の
堀穿工事は大がかりで、その土砂運搬用具の箕と笊の消費は、一日に箕千枚、笊五千
枚であった。その作業人夫は、「エタチヒト」といって、新羅の貢人三千人と、天下
の課役人二千人がこれに奉仕した。そして國栖部の者が、新羅人の「課役労務者(ミ
ツギエタチ)の見張りを命じられた。これがエタチモリすなわち、仁徳朝の労務者監
督である。ミツギ・エタチを略して「エタ」と呼び、後年賎民の代名詞となった。
(あの金大中の百済系帝ゆえ、反抗派の全羅南道の新羅や高麗(こま)人を奴隷にし
ただけの話)
 このエタチモリは足利時代にはすっかり形が変わって、一般賎民をエタと呼ぶよう
になり、その監督者を國左衛門と呼び、國栖の末流がこれにあたった。(弾左衛門の
間違いである)

 サンカの最高の地位にあって、日本全国のサンカの象徴的存在である乱裁道宗(ア
ヤタチみちむね)(明治六年生まれ)の伝承によると、仁徳天皇には異母兄の皇子、
大山守皇子があらせられた。この皇子は、応神天皇の妃(め)、高城入姫のお産みに
なった皇子で、順序としては天位を継ぐべきであったが、その後に、この高城入姫の
御妹の仲姫が皇后となられて大鷦鷯天皇(おほささぎのみかど)をお産みになられた。
大山守皇子は皇兄におわして、天下の山林を「山守部」を率いて御治世となされてい
たが、倭の屯田も御支配なさろうとして、その野望のために仁徳天皇に莵道川(うじ
がわ)で殺されてしまった。
 この山守部は、今でいえば営林署で、その見張り監督に従事したのが今もサンカの
末孫に残っている「山守(ヤモリ)」である。(これも誤りで四ツ系騎馬系の子孫で
あるのが正しい)
 さらに、現存のサンカの中に、アム(ン)ダ衆という血統者がいる。この一族は現
在のセブリ2011の中に、五家族であるが、トケコミ戸数48,319戸の中には
38戸もいる。
 この一族は姓が全部「月目(ツキメ)」である。この一族が仁徳天皇十三年九月に、
初めて河内国の茨田(まむた)に屯倉(みやけ)(天皇米の収納庫)をご創設になっ
たとき、そこに奉仕した春米部(つきめべ)の末流である。実殻別(みからわけ)
(箕)の製作者が、主としてその子女を奉仕させ、自らが献納した箕で、米別けして、
実と殻を分けて、穀倉すなわち屯倉に収納したのである。(「八つ」の海人族奴隷課
役が正しい)

 こんなに百済系に接近して、蕃族となした新羅系の監督などしていたのなら、サン
カが反体制になる事もなく、反権威の伝統も辻つまが合わない。ましてサンカが米作
りなどしたなどとは、誰かが勿体をつけるため老人の昔噺にこしらえたか不明だが、
戦前のオカミはこれを以って「お前らは庶民とは違うのだ」といった意識の高揚を、
各国一(はじめ)を集めて一席ぶっていたものらしい。
 なにしろ「一億一心火の玉だ」とか「鬼畜米英を神風が叩き潰す」と、国中がシャ
ーマニズムにとり憑かれていた時代ゆえ、こういう皇国伝承が入ったとしても責めら
れはしないだろう。
 しかし、やがては、当然の事だが、こうしたデタラメ妄説は消え去ってしまうだろ
う。でなければ、サンカの存在そのものが歴史的にも消滅してしまう事になってしま
うからである。
 契丹系の天神信仰を自在鉤の名称のテンジンとしたり、梅の種の核をテンジンと呼
んでいるのも一種のカムフラージュであるなら、皇国史観的な伝承が突如としてセブ
リからセブリへと伝わり、サンカの中からも進んで戸籍を作って応召されていって玉
砕した者さえも出ている。
 が、サンカは進駐されてもあくまで藤原体制の支配下に入るのを拒み、女を奪われ
る前に伴って脱走し、人頭税も課役もなく生き通してきた無政府主義自由人である。
しかもトケコミといって、表面では普通人と同じ様に暮らしている人々の方が、現代
ではセブリを張っている者らより多く、少なくとも全人口の一割五分くらいは彼らで
ある。しかも、明治になってから溜めこんであったのを、新時代に合わせてゆくため、
ツナガリで優秀な子弟の育英資金に注ぎ込んできたから、有知識階級と称する人々の
大半とまでゆかなくても、三分の一以上の文化人や高級官僚、科学者はサンカの血を
引く者とみても過言ではなく、決して誤りはないようである。