1004 サンカ生活体験記 3
 大山見という姓は、戸籍に上がっている譯ではなく、ただ、傳承相續されているも
のであるが、昭和五年の國勢調査のとき、公文書に正式に「大山見」の姓を漢字で申
告したのであった。大正九年の第一回の国勢調査の時には無申告。山を歩いていたの
で、わざと申告洩れになったが、第三回目の昭和五年には、東京の石神井にいたので、
訪ねてきた調査員にはじめて正式に申告したのだという事である。
 大山見の、コトツについての説明によると、セブリがこの天の下に出現したのは、
既に天照皇大神の御治世のとき、大山見命(おおやまみのみこと)が、穴居拂(あな
ゐばら)いの神になって、國民(くにたみ)を地上に引き出して、セブリ・タツキの
ムナハリにさせられたのがその始まりで、現今(いま)のセブリもその時のままであ
るとの事である。
 ムナハリ(棟張り)のセブリというのは、前に二本の柱を合掌に組んで地に刺し、
一本の棟木を上にのせ、その後方は岩土に刺して、その一本棟木に幕をかぶせて三角
形のニ方に張る、きわめて簡単なもので、キャンプの天幕張りなどよりも素朴である。
これを「穴居(あなゐ)脱(ぬ)けの瀬降(せぶり)」という。出雲の建築に似てい
るのは故伊藤平左衛門氏も説く。
 さて「このセブリとは、どういう意味であろうか?」となると、
初めて聞いたところでは、「眠るところ」「寝るところ」「憩うところ」「休むとこ
ろ」として、世に発表してきたのであるが、大山見の解説によって、セはセイ(勢)
いっぱいの心で、ブリは、まっすぐな状態(ありさま)で、ただただ、命を欲しがる
意味で、タツキ(生活)するところの表意であると知った。要するに、やわらぎをお
さめる所ということになり、漢字で表現すると、修理固成をする所という事になるそ
うである。
 さらに、大山見は言葉を次いで、大正三年十一月十九、二十日の両日にわたって、
日本全国のセブリの國一(クズカミ)が、相州のあるところ(厳秘というが大山石尊
のある場所)に集まったとき、セブリはヨサグリ(世探り)の事で、瀬踏みの意味も
あるということを決定したという。
 瀬踏みとは、川の瀬が浅いか深いかを足で踏み探ることであるが、世探りというこ
とになると、
(こんな土地にセブリを張っても、はたして仕事があるだろうか?)
と首をひねる事になる。そいういう意味か?と訊ねると、そこまで突き詰めた意味で
はなくて、「こうして生きているだけでも、世探りじゃないか」と言った。
 私[三角寛]は、過去三百篇の著作に、セブリに「瀬降」という漢字をあてはめて
きたが、右の説を聞いてから「降」の字は無理で、強いてあてはめるなら「瀬踏り」
かな?と考えたのもその時からであったと三角寛先生は説く。
 セブリは定居ではない。
カケ(駆け)リマス(坐す)セブリで、カケ(駆け)マ(間)で、スグイ(巣喰い)
などと彼らは言っているが、移動中に暫時住むだけのものが天幕である。
 「武蔵野にありといふなり逃水の逃げかくれても世をわたるかな」
これはサンカを詠んだものだという説に、しばらく耳を傾けた時もあったが、別に彼
らが逃げ隠ればかりしていたとは思えぬので、虹の事を逃水と言ったというけれど、
どうもそうではなく、蜃気楼みたいな意味だろう。
 また、イツキ・サンカに関しては五木寛之あたりの御先祖様にあたるのだろうが、
カケ(駆け)モリテ(漏りて)イツキのセブリにセブリて、ミアミテ(箕編みて)イ
ノチキス(生活する)
といった暮しぶりで、この中のミアミテの言葉は、海の魚を捕る者は、「ウナトリシ
テ」、川魚を捕る者は「カナトリシテ」というし、刃物研ぎする者は「ハモノスルド
ニシテ」などとうたうのである。
 これは、これからその場所に居附く事を天地に祈念するタマゴト(魂の言葉)なの
であると言っていた。
 「駆け漏りて」というのは、一種の脱落とか落伍を意味している。元来ならば風の
まにまに飄々として駆け動くセブリモノが、この駆け歩きから落伍して定住する事を
表現していいるところが面白いと三角寛先生はいう。
 彼らは、ここに居附くと心に決めると、双刃(もろば)のウメガイを抜いて、飛ぶ
虫、這う虫、物の怪(け)の禍を断つために、空を斬り払って、右の魂言を唱える。
まぁ彼らがおまじないとしているのだろうと思える。
 西暦11世紀の初めに、九州の太宰府まで青い目をした南蛮賊が来攻した。藤原道
長が剃髪した翌年の事である。すぐさま原住民の飼戸の民が集められて防人として急
遽九州へ送られた。
 当時は軍需工場がまだなく、各部落の鍛冶が総動員されて、持たさねばならぬ刀を
作らせたが、忙しくて剣のように両刃をつけていては間に合わぬせいか。また、そう
した武器を持たせて、逆に藤原氏を攻めてきては治安上から大変と用心したので、切
先三寸だけに刃をつけさせた。
 これが日本刀の始まりで、片刃で先端だけにしか刃がなく、並べて素足で踏んで歩
いても怪我をせず真剣白刃渡りもできた。恰好がつかぬから後には昇り竜や下り竜の
彫刻をつけた。
 外国で日本刀を珍しがるのは、双刃でなくて左右にも上下にも使えず剣にならず、
武器としては全然半端なので常識的には納得できず、その彫刻から美術品として扱っ
ているのである。
 唐語で片刃つまり「一」は「イ」とよぶから、我々は日本刀と呼ぶが、藤原氏は
「刀イ」と名づけ、「刀伊の乱」と日本歴史には、この際の外敵侵攻の事を、それゆ
え名づけているのである。
 ところが、サンカの持つウメガイとよぶものは、日本刀とは全く違い、双刃の鋭利
な刃物である。という事は、サンカは日本刀が生産されだした西暦1019年以前、
つまりウメガイは唐や百済の双刃の剣次時代からのものである。となると、サンカの
発生たるや、彼らの討伐時代以前からの事の裏付けとなる。
 つまり、日本刀と違い全体がハガネゆえ、これを三等分四等分して短刀にして分け
て、それぞれが携帯したものとみねば、ウメガイが鋭く両刃であった謎は解けはしな
いのである。
 三角寛先生説では前著のP38において、そうした解明はせず、短刀で一刀両断は
おかしいが、
「このウメガイは鋭利な双刃の短刀で、初めのうちはウモレ(埋もれ)ガヒ(貝)の、
原始刃物から出た名称と思っていたが、昭和十四年九月十七日、島根県神門川水源の
赤名のセブリや、昭和十七年三月十四日、島根県日野川水源の船通山のセブリで探採
したものや、その他三ヵ所から探採した資料によって、神代以前はともかく、神代以
後においては、ウメは、ミゴト(絶妙)のウマシ(美事)で、すばらしい事の表意で
あり、ガイは、カヒ(峡)で、断ち割りで、山をも断ち割るの意だという。すなわち
一刀両断の断ち斬りを表意した刃物である。つまり、これを持っているかいないかで、
それがサンカであるかないかが判別されるのであって、このウメガイは彼らサンカの
象徴である」
といったような説明を、先生はなしている。
 しかし日本全体へ鋼鉄の剣が大量に入ってきたのは、唐が滅ぼされ契丹に代わった
時である。祖国ともいうべき大唐国が天祐哀帝の代で滅んだのであるから、藤原時平
が死んでも跡目を継ぐ者がなく、今の首相にあたる「内覧」の後の関白職はずっと空
位の侭で二十年経過し、朱雀帝の代になって「後唐」と呼ばれる同光荘宗帝がまた位
についたと聞き、愁眉を開き藤原忠平が位についたものの、藤原氏を蔑み京は騒然た
る有様で、群盗が都大路を横行した。
 都では壱岐対馬から契丹軍がいつ攻め込んでくるかと、生きた心地もなかったが、
後唐ができ、よってトウで固まった御所でほっとしたのも束の間、十三年にして高祖
天福によって又も滅亡。
 日本歴史では唐を滅ぼした契丹の国名を忌み、「後晋」とよぶが、彼らは中国東北
部より日本海を渡って能島来島の水軍衆に鉄剣や食糧をわたし、坂東八ヶ国へ追われ
た原住民達が荒地を耕し、どうにか収穫できる土地になったのに眼をつけ、藤原氏が
取り上げ荘園にし、住民を追い払って土地を売って儲けようとしていたので、それへ
も契丹の武具類を運ばせた。
 いつの時代でも武器と食糧なしでは武装革命はできない。しかし出雲方面から補給
が受けられた純友は、従五位の官位を与えると都で甘言に誘われても、二度にまで及
んで京を焼き討ちにしてのけた。
 が、坂東八ヶ国の方では楯を失ってしまうと中華城の鉄楯を奪って廻ったが、それ
でも数が足りず契丹からの補給がきかず、最後は負けて東北の奥地に追われて収容。
これを俗に天刑とか天慶の乱とか、架空の存在にすぎない平将門の乱などと称してい
る。
 多武峯に蔵されていた鉄楯や鉄剣鉄矛が、郭ムソウが進駐した時に夥しく取り寄せ
てあったので、契丹から直接に援助武器の輸送が来なくなった坂東の者らは、それに
追われて逃げた。
 が、その時に、彼らは契丹から最初に渡されたハガネの剣は持って逃げた。そして、
失ってきた仲間に分けるため三等分や四等分として互いに身を守る武器とした。が、
切断して分けただけでは剣といっても鉄棒である。そこで突端を尖らせ、鋭利に双方
を磨く仕事が急務となった。
「スルド」とよぶサンカ用語でいう任務は、スルドく磨きをする彼らの業務で、大正
から昭和初期までは、ラオヤ[羅宇屋?]とよぶ煙管直しとともに、各家庭を廻って
歩き、勝手口から顔を出して、
「包丁の切れ味の落ちたのを、すぐ切れるようにします」といって廻っていた研ぎ屋
がこれで、江戸時代には「白化け」といってトケコミ、騎馬民族系の町屋の中に店を
設けて堂々と「御刀剣砥ぎ師」の看板を出していた。
 というのは、日本刀の切先三寸の付け焼刃は、すぐ欠けるから普段はそっとしてお
き、抜刀して使う段になって初めて砥ぎ師の許へ持参して、
「寝た刃を起こしてくれ」
と、砥ぎ師に切れるように磨かせたものだから相当に繁昌したのが、明治五年の抜刀
禁止令から刀砥ぎ[の需要]がなくなって、台所口から鋳かけ屋と一緒に顔を出すよ
うになったのである。
 が、問題はウメガイの呼称である。別に絶妙とか美事といった意味ではない。
彼らにとっては残された唯一の武器なのであるから、人目につかぬよう一セブリごと
に糖油で刀身をまぶして錆させぬように匿し持っていたもので、振りまわしたり切れ
味を見せはしていないから、ぜんぜん三角先生説は違うようである。
 刀の柄にはめた木の部分に焼き火箸で五ツの紋をつけていた。日本では梅鉢という
が、契丹の国章の略印なのである事を改めて判ってほしい。
 契丹から渡来してきて、唐は既に亡国ゆえと遣唐船をやめさせ、初めは蔵人頭だっ
たのが、宮中がトウ勢力一辺倒なのを行政改革しようと、左大将の藤原時平の対抗馬
に右大将にされた菅原道真だが、やはり日本の中央権力を占めている宮中のトウ勢力
によって、僅か二年で九州太宰権師として左遷されて暗殺。後に罪なくして殺された
怨霊が天界より落雷させて祟りをなすと、封じ込めの為に「天満宮」を官製でもって
北野に建立して災い除けにされた。
 新羅や高麗系ではないから神とか神社とかせず「宮」としたが、ここに掲げられた
紋が梅鉢である。つまりウメガイが大量に日本列島へ渡ってきたものの、母国唐を滅
ぼした不倶戴天の仇敵と公家はみて、同じ大陸人なのに「賎」に落とし、でっちあげ
の天刑(慶)の乱を口実にして東北へ追い、瀬戸内海の純友の一族は紀ノ川の流域の
川州へ押しこんだ。
 つまりウメガイを、その民族のトーテムとしてもち、平氏系や源氏系の先祖となる
ハタムラの中へ逃げ込んだのが、現代のサンカの起りとみられる。後から追われて加
わった契丹系が、大陸からの最新入国人で、知能程度が高く、いつの間にか反体制集
団の頭になっていった。
 しかし、民族別には紀元前からの[姓の最初発音が]エ系列[の人々の祖先]、そ
れに「源・平]と後にはなる[民族カラーが]白赤系と雑多なので、「一セブリ」と
して一家族単位に分かれて自由に行動させ、五つを一単位として天神と称した。


ハタムラとよぶ掟

 ヰツキは、きわめて善良民である。決して一般社会と相反する行為をしない事をヤ
ヘガキ(八重書)としている。ヤヘガキとは、彼らの憲法のことである。つまり身分
素性を隠して庶民の間へとけこむためのやむを得ぬ掟であろう。
 ヤヘガキは陰陽のサンカに共通の憲法であって、彼らは、これをイヅモヤヘガキと
も云っている。つまり出雲神話を後からくっつけたものらしい。出雲憲法のことであ
る。
 これはサンカには伝承では最も重要な事柄であると三角寛先生は説明する。
この憲法に基づく秩序維持のための、乱行規正の規律のことを、また、ハタムラとも
いうのである。ハタは、「端々迄(はしばしまで)も」であり、とはいうが、ハタは
八幡であり初めは平氏。古代新羅語では後の源氏の俗称となる。ムラは「牟禮(むれ)
」つまり「群れ」即ち村である。端々の村まで一人のこらず守ることを、ハタムラと
いうのである。
 陰陽ニ態のサンカは、いずれも全く天下の自由人であるが、それがまた厳しいイズ
モヤヘガキによるハタムラを規則としているところが、無政府主義でありながら、サ
ンカ社会の特異なところである。
 このヤヘガキは、八重書とはいっても、六法全書のように箇条書きにはされていな
い。毎年一回全国の国知(クズシリ)(旧国郡制による国のセブリの長)の一が集ま
って、ハタムラの「サラタメ」という大切な行事を開くのである。
 これを一集(かみつど)い、と呼ぶが、これを「カンド」ともいう。ツドヒのツと
ヒを省いて、集まることを「ド」という。このドリ(集まり)とか、このドリカタ
(集まりの様)は、などというのは「賎」の日本原住民は奴隷のドと差別されていた
せいであったからである。
 サラタメという言葉は、「更に改める」という意味であるが、新しい法律を新しく
制定し、旧法を改廃するという意味ではない。昔から伝承されたサンカ社会の憲法で
あり、法律(ハタムラ)である約束(きめごと)を、時流に合わせて、どういう風に
運用するかを相談し合うことがサラタメで、これはサラヒなのであり、サラヒ(把‥
‥さらひ)、したがって、その意味を的確に言うならば、「ハタムラのおクシスキ」
である。クシは櫛であり、スキは透(すき)である。クシは鶴岡八幡宮に今も現存の
マンコぐし北条政子のものが日本では最初のものという。物事の筋目を正しくするこ
とが透成(すきなし)であり、クシスキらしい。
 ハタムラのクシスキがすむと、国一(クズカミ)の下の親分にあたる、郡とか郷と
かの親分、すなわちクズコの一(かみ)が集まる。
 そうすると、新聞や官報も見ていない一同に世の移り変わりを教えてから、決まっ
てサンカ社会では、前述のように毎年一回、改めて一般に周知させられるように説明、
一の親方は戻ってまた部下によく言ってきかせるから違法者は出ないのである。
 一般社会とは違って、法三章主義で、毎年毎年法律を作るわけでなく、日常の起居
そのものが慣習で、その慣習法がヤヘガキである。それだけにあまり変りがなく、サ
ンカ人全体に周知徹底ができるわけである。
 その内容は、部外者には一切口外しないことが、またハタムラである。と彼らは勿
体ぶってなかなか言おうとはしない、絶対的な秘密主義を守っている。
 そこで、三角寛先生は「サンカの社会性」の50Pから51Pにかけて、きわめて
判りやすく説明する。その厳しさの中から探採しただけで、ハタムラの全部について
論ずる事はできないが、箇条は成文ではなく、慣習法がヤヘガキであり、ハタムラで
ある。先生はこれをサンカの伝承法といっている。
 箇条書きになっていないものを、組織、総統制、生活などと項目に分類して並べ立
てるのは研究者の仕事であって、そのサンカそのものの社会には分類や項目などとは
區分はされていない。純血日本人として七世紀以前から一致団結しているからである
と考える。
 ハタムラが厳格に守られている一つの例として、一夫一婦制のハタムラの如きは、
我々一般人がとても想像する事をすら許されないほど厳格さで、そのものずばり女上
位なのである。
 武蔵一(明治二十七年八月一日、東京石神井生れ)は、武蔵全体のクズシリ(親分)
である。現在は埼玉県南部の豊岡村附近を縄張(タチバ)に瀬降っているサンカであ
るが、昭和二十七年九月六日、埼玉県熊谷堤のセブリで、その妻テル(明治四十五年、
下谷萬年町の居附セブリの生れ)から三角寛先生がきいた話がある。
 武蔵サンカの寄居一郎(明治四十年七月十日、寄居赤濱生れ)は、七歳年上の花子
と夫婦(マグイ)である。その花子が、サンカには珍しい中風を患って病臥したまま
であった。一郎は寄居に居附の瀬降を作って、そこに病妻を寝かせて、十一年間介抱
し続け、昭和二十六年十一月九日、花子が死ぬまで、妻一人の貞操を守り続けたので
ある。これは普通の男にはとてもできる事ではないが、つまりこれがサンカの掟なの
である。
 ところが、花子が妻としての役目が果たせないのが原因で、一郎は気が荒み、粗暴
になるかと思うと、急に泣き出したりするということを聞いて、武蔵一の妻テルが、
寄居の瀬降に見舞いに行く途中、輩下にあたる箕作りの小山北吉の越生(おごせ)の
セブリを訪ねたとき、待ちかねたように困ったように、その北吉が言うのには、
「一郎は、あのとおりの男前だし、腕がいいので金も取れるから、熊谷邊の呑屋に行
って、こっそり女を買おうとしたが、夫婦(マグイ)の掟(ハタムラ)があるので、
呑屋の女はその気になっていたが、ついに手を出すことができずに、急に泣き出した。
驚いた呑屋のおかみがわけを聞くと、『家(セブリとは云はない)に十年も中風を患
っている家内がいるので、俺ぁ気が狂いそうだ』と言ったという。それで、おかみま
で同情して、『女ならいくらでもいるじゃないか。泊まってゆきな』と云われたが、
『それができるくらいなら泣きやしねぇ』と言って泣く泣く店を出ていった‥‥」
この話を聞いたテルは、
「これだけは貸す事はできないから、中風でも使い方があるんだから、それを教えて
くる」
と言って、北吉の妻のハルを連れて、一郎の瀬降に行って、蓬湯(よもぎゆ)で腰湯
を使わせ、妻のつとめができるようにしてやった。そのお蔭で一郎は頭が狂うことも
なく、最期まで半身不随の花子を大切に見てやる事ができたという。病妻の死後、寄
居一郎は、十七歳の純粋(ハラコ)のサンカ娘キヨ子を妻にしているということであ
る。
 このような自制は、容易な事ではないが、サンカの掟(ハタムラ)として、厳しく
それを守る事が彼らにとっては通念であり、信仰にもなっている一例である。まった
く女を大切にしたのも七世紀に進駐軍から逃げ、手をとりあって脱走しあってからの
掟である。
 こうした諸々の掟に縛られて、この約束(キメゴト)から外れないように彼らは生
きているのである。今ではトケコミで完全に普通人とは変わらぬようになっているの
で、見つけだすのは困難だが、サンカの血脈をひく男を夫に選ぶ事ができたら、半身
不随になっても脊向位や側向位で、あの方の欲望は満たしてくれるし、生涯とても大
切にしてくれて浮気などは全然しない。
 よく中年の男性で、これまで浮気をしたことはありません、というのがいるけれど、
それがもし本当ならば、その男性は明治から「とけこみサンカ」の血を引く証明とも
いえよう。
 現代でさえ香港へ行けば、生涯に九人の妻を持つのが男子としての本懐なりといっ
ている。明治まで「良」と大宝律令でされていた大陸系の血を引く男は、亭主関白で
妻妾同居すら平気である。だから、サンカのような純粋なのは、いわゆる一穴主義を
押し通しているから、
「月給袋を丸ごと封を切らずに妻にわたす」
といった夫も、やはりサンカの血筋をひくとみられる。ということは、三角寛先生の
説くごとく弱小部族ではなく、サンカは人口の二割近い事になる。
 さて、一セブリは夫婦を単位とする子供達との家族制だから、男は食物を探したり、
それを賄う賃仕事をして、家庭は一切赤ネルのオカカが後顧の憂いのないようにして
いた。それが、明治になって警察国家こそ近代国家なりと岩倉訪欧団が帰朝後、亨保
時代から八部衆と呼ばれる古代海人族系の放浪の赤の者等に朱鞘の公刀と取縄を渡し、
鉄火場開帳を黙認して費用に充当させ、逮捕権裁判権の一切を任せていたのを明治政
府は取り上げて、旧士族のポリス制度と改変。徴税と徴兵のために戸口調査を全国的
にやり、無申告のサンカの刈り込みをした。
 ずっと一夫一婦制だったサンカ社会も、このために娘を身売りして税金を払わねば
ならぬような仕儀となった。そのため明治時代の遊郭は殆どサンカの娘達ばかりの有
様となった。
 が、なにしろ、反体制の血をひく彼女らである。そこで有名な東雲(しののめ)楼
の梅鉢お女郎さんのストライキを皮切りにして、各地で待遇改善のゼネストが次々と
起きだして騒ぎが広まったので、
「ウメガイのチョウズバチ叩いてお金がなるならば‥‥」
といったシノノメストライキの唄が全国的に広まってしまった。
 歌詞は、それまで山野または川で自由に用をたしていた娘たちが、一定の狭いとこ
ろで放尿をさせられ、かつては皮屋がアンモニアの代用に小水は買ってくれたものを、
垂れ流しさせるとは何事かというので、きんかくしと呼ばれる板にみな己れらの民族
トーテムの梅鉢つまり焼火箸で五つの穴をあけていたのを叩いて不平を洩らしていた
のが、ストライキの原因だったというのである。
 しかし、サンカの女性は女上位で、お客の下敷きにならずに馬乗りになるのが珍し
く一般うけしていたので、女郎へお客の声援があったのである。
 ウメバチというのは加賀百万石前田家の定紋でもあった。雨が多く雪深い金沢が、
文化都市であるのも、諸国のサンカのメッカで色んな芸能類をもちこんだせいである。
五木寛之も金沢にいたが、泉鏡花のドロドロした夢幻的な小説は、あれはサンカ伝説
によるものが多い。
 また徳川幕府が外様大名を頻りと潰したのに、加賀百万石には手を出さなかったの
は、全国に散らばっていて、秀吉の内乱防止の朝鮮外征に先立って強制執行した刀狩
りにも、ウメガイだけは供出されていず、槍ならば別だが片刃三寸の日本刀ではウメ
ガイに太刀打ちできぬのは当時よく知られていたから、前田家に弾圧を加えたら、諸
国のサンカの一斉蜂起を惧れ、ために幕末まで銭屋五兵衛の事件があっても、国替え
も減封もできなかったといわれる。
 前田の先祖ともいえる前田犬千代利家が、信長に小姓時代から仕えても、今でいう
スパイとして今切浜の今川義元の舶来鉄砲や、ポルトガル硝石輸入に三年も見張り人
の小者に化けて潜入して探っていても、たいして取り立ててはやらず、柴田勝家の寄
騎として僅かに二万石の石川能登城主にしか処置しなかったのも、八の出身の信長に
すれば、契丹系の異民性といった差別が、そこにはあったのだろうか。
 利家に勝家を裏切らせ先遣軍とし、柴田勝家を自滅させた秀吉にしても、やはり八
の出身ゆえ、ねねが若い頃に利家と関係があったとはいえ、その娘の於松を己が側室
に召し出している。
 さすがの前田利家利長父子も、秀吉が死ぬと家康に寝返って百万石に大立身したの
だが、それでも用心して前田利長のごときは、鼻毛を2センチぐらい伸ばし、あえて
阿呆面をし、用心して警戒されぬようにしていたと伝わる。
 しかし、サンカの反骨精神というか、反体制の血の流れというか、徳川二百七十年
間にわたって、「絵本太閤記」とか「秀吉と石川五衛門とは幼馴染み」といった反豊
臣ものは前体制ゆえ許され読み本や芝居になったが、信長ものだけは絶対禁止。
 なのに前田家では、今では活字本になってはいるものの、茶道具の宣伝パンフレッ
トなみの「信長公記」の原本を三世紀にわたって門外不出で匿しとおしてきたのであ
る。万が一にも露見したら、いくら諸国のサンカが蜂起しても、当主の切腹ぐらいは
覚悟せねばならないのに、よくも三世紀近くも隠しも隠していたものである。桑田老
が茶器ばかり書き加えているが、それでも前田家に揃いが一組あったればこそ、今日
の「信長公記」はどうにか読めるのである。


サンカを利用したのはCIA

 足利時代の東西の散所奉行によってなされた、南朝側の遺臣を主にしたアミ掛け式
の特殊部落は、徳川期になると、騎馬系の「四つ」と海洋系の「八つ」を交互に組み
合わせて、毒をもって毒を制するの治安方針をとって、幕末の弥次(八)喜多(北=
四つ)道中記の統一革命の読み本の貸本が、春本壇の浦合戦や、こうもんマン遊記と
共に大いに読まれて御一新となったが、サンカの社会では、今でいう駆け込み寺みた
いに各地から逃亡してきた連中がサンカに入れば女房がもてて、一生セン(賎)ズリ
で自分の事は自分で始末しなくともすむというので、次々と、日本六十余州といわれ
るくらいの数多くの諸民族が入り込んできたので、到底これを部族別には今までどお
り分けられない。 そこで、腹子と雑っぽ(ザボウ)のニ等分にして、出自はいちい
ち詮索しない事にした。
 ハラコというのは、三代を経て、四代めからをハラコという。セブリ生活を三代続
けた先祖をもって、その腹から生れた者だけがハラコである。つまり純血日本人とも
いう。同腹の兄弟姉妹もハラカラであるが、サンカは異腹異父の兄弟はありはしない
し認めないので、ハラコに限ってハラカラと明白にいう。これも一つの掟(ハタムラ)
である。
 このシステムは足利時代、日本原住民にして室町御所に仕えたい者には剃髪させ、
ナムアミダブツを百万ぺん唱える条件で、治安維持上、武技には無関係な花、茶、書
画等をやらせ、「阿弥」といった名をつけ、同朋に近づいた衆として同朋衆とよんだ
のを真似したものであろう。
 ザボというのは、一般人がサンカの部内に転入した者をさしていう。ザボチともい
うが、正確にはザボオチ(一般落ち)である。このザボが三代続いてセブリ生活を続
け、四代目になると、はじめてハラコになる。ハラコはザボより上席である。道を歩
くときも、ザボはハラコの先をゆくことは許されない。(絶対にこれは厳しい戒律で
ある)
 つまり、先輩と後輩といったような区別を、簡単に彼らはなし分けていたのではな
い。ハラコだからといって、ザボといって、年に一回セブリが五つ単位で各国別に集
まる時だけ、その座る際の席順が左右に区別されるだけで、他は別にさほど差別され
るような事はなかった。
 しかし、子供を学校へあげたいとか色々な理由で戸籍を作って「無告の民」の自由
人から、町村役場で戸籍を作ってしまった者は、「シロバケ」つまり素人化けといっ
てウメガイを戻す掟があって、ハラコでもザボでもそうなったらセブリは作れず、居
附サンカになるしかなかった。後悔して戻り新参すれば、かつてはハラコの身分でも
ザボの下の位置となった。
 日露戦争の時、血の気の多いのが進んで兵士になるため戸籍に申告して入籍して出
征した。二○三高地で戦死したサンカも多いが、めでたく金鴻勲章を受けて戻ってき
たのもいた。
 当時としては、栄えある凱旋軍人だったが、サンカの仲間へ戻れば、シロバケモド
リとして、それから子、孫、次の曾孫の代になるまでは前には戻れないし、又、江戸
時代の寺人別帖みたいな町村役場に戸籍を作ってしまっては、もはや束縛されたみた
いで、「自由人でサンカ」ではなくなる。そこで、在郷軍人会にも入れられて住処も
定めねばならぬところから、十二職(トフタベ)となった。
「箕つくり 箕直し 笊つくり ささらつくり(竹細工) 茶筅つくり 釜(鍋)敷
つくり 気込めつくり(杓入れのこと) 矢こぎ ろうつくり 簀の子作り 練子踏
み(鋳かけ屋)」
といった職人になって、居附、つまり町に住まいをもって、そこで家族が暮すように
なった。
 が、漂泊性が強くて一所に定住するのは無理な者達は今でいえば旅芸人となって、
「俵ころばし 小法師通り 四つ竹舞 うずめ(宇受女) さかき(榊)振り てる
(れ)つく(照尽)踊 獅子舞 たまい(田楽とちがい、竹筒と板木で舞う) さる
まい(猿舞) さるめ(猿楽の一種)」今でいえばアングラ演劇である。
 といった門付けの芸人となって、たまいや、さるまいが、デロレン祭文つまり今の
浪花節語りや辻講釈師。
 サルメというのが明治の初めまでは地方の招魂祭にもまだ出ていたところの、
「それ突け、やれ突け」と、細竹の先にタンポをまいたのをもって股倉を広げた太夫
達の女性自身のサネとよぶ中核を、合の手の三味線でうかれて突き、うまく挿入でき
てもぐいっと締めこまれてしまうとお客の負けで、勝てば太夫が抱ける褒美つきだが、
竹のタンポを咥えこんでポキンと折ってしまうところへ己れの一物を入れてポキリと
やられては後が使えぬと、よし巧くいっても客はその侭でへらへら照れ臭がって戻っ
て満足していってしまう。
 こうした遊芸を「十エラ」といって、次々とタカマチ[高市]とよぶ縁日を飛んで
廻らねばならぬから、足が速い連中で若くなくては勤まらぬ。それゆえ、年寄りや病
人や子供の多いのは、「五ツもり」というのをやる。
 三角寛先生の考証では「サンカの生活」の63、63の両頁にかけ、
ヤモリ(山守)、イスケ(池番)、カモリ(川番)、ノモリ(田畑番人)、ウキス
(繋留船の番人)
をば「イツモリ」(五守)という。
(昭和九年三月十三日、泉州岸和田の津田川べり三ツ松の瀬降ならびに、セチゴの池、
貝塚の近木(おぎ)川、佐野川(佐野町)を中心に、泉北、泉南両郡、さらに隣接す
る河内、摂津に亘り、一ヶ月の調査で「池守(イケス)」を確認し、昭和八年七月十
八日から甲斐、北都留、南都留両郡を桂川を中心に、九月十三日まで「山守(ヤモリ)
」セブリ三ヵ所で山守を調査、さらに昭和九年八月十三日から九月七日まで、美濃の
加茂、武儀両郡を、木曽川の上流益田川を中心に調べ、さらに川上にのぼって、飛騨
の益田、郡上両郡の「山守小屋」三セブリを調査して先生ご自身で確認)
 カモリは、今日では禁猟区や個人占有の買切区域などに雇われて見張りをしている。
地方によっては、「川徒」と呼ばれている。彼らは驚くべき魚捕りの名手である。
(昭和十年六月十七日、十八日の両日、播磨の揖保川の上流、因幡街道に添った引原
川の曲里(まがりさと)、嵯峨山のセブリ、さらに同年十一月十日から五日間、長州
の佐波郡と吉敷郡の境になっている佐波川べり。釈々井のセブリでと先生は確認とさ
れている。
 ノモリは関東、関西いたるところに就職して、果樹園などの盗難警戒に従事してい
る。
 ウキスは、東京の河川に多い。繋留船の番人に雇われて無人船の番をする。これは
(昭和九年七月二日より八月十日まで)東京水上暑石井巡査部長の案内で確認した、
と三角寛先生は記録しているのである。
 江戸時代には、国境ともなれば万一を考えて橋をかけず渡し船で往来させた。これ
にサンカが入っていないのは、川番や船番は赤褌をしめた八の部族の限定職業と定ま
っていた為である。
 居附サンカにしてやれた事は、俗にいう頼朝御判二十八種といった源氏系には保護
するような限定職業が決まってあり、皮剥ぎの「四つ」ばかりでなかったし、八母音
の言葉を話す「八つ」の者らは、水に関係した仕事の川越人足から、馬を使わぬ駕か
き車力といった種類の仕事を、褌の色の赤白で一目で判るようにし、互いに分けあっ
ていたから、彼らは幕末までさぞかし苦労をしたろう。
「ええ、竿屋でござい‥‥ベランダにも合う色つきビニールカバーかぶせもございま
す」
と呼ばわってくる竿屋に、今の洋式鍋は、昔の鋳物みたいに孔があかぬから、今では
滅多にみかけぬが、町で火を起こしてフイゴ屋。東京にも一人しか残っていないとい
われる羅宇屋。
 大正時代では道端で広げて直していた洋傘直し。目明けとよばれる鋸の目たて。九
州と信州には今もいるマムシ捕り。それに野師言葉ではドクマといって易竹を用いる
が、それとは違う水晶玉や算盤トランプなどを用いて占いをしたり、呪いをかけたり
予言までするトベナヒ。
 サンカの三のケチつまり区別というのは、最初の十二職(トフタベ)、次の十エラ
(選び)、それにこの八シナの計三十種がサンカの持てる職業ということになる。
 かつて全日本ミノ製作者組合というのが、戦後にあってGHQの許可で生れたけれ
ど、屋台に炭火をおこしてフイゴで風を送り込む鋳かけ屋が昭和三十六年で日本国中
に、もはや未使用の侭で放置されているのも加えて四百余。ピーピー音をたてノボリ
旗をたてるスイタケとよぶ煙管の羅宇直し屋台は、東京だけではもはや一台だが、地
方ではもはや使っていないのを入れれば、五百と、それに数が出ている。
 ついでに書けば、マンションの物干しにはパイプ型の新製品ができたせいか、竿屋
を時々やるというのが全国で約千人。これが昭和四十五年ぐらいから屑紙交換に変わ
ってしまっている。
 砥ぎ屋も、刀をさして歩く武士がいなくなった明治からは、SINOGI、TAI
RA、TWRWGI[ママ]と発音できる当字をつけて戸籍をもっているのは、全国
では二百あまりだというが、TAIRAというのは平氏平民からではなく、ウメガイ
の中央に溝を入れず平べったいナイフみたいな型のものを、契丹のウメガイが来なく
なってきたので、越前来、出雲石井、美濃関、筑前石堂、豊後了我などで、僅かなハ
ガネになる鉄を見つけてきては、江戸時代に鍛造。
 中央に線の入った鎬づくりと平づくりと二種類あるものの、今でこそダイヤやルビ
ーが産出せぬ日本では、刀は美術品として高価に売買でき、贋物がひどいくらい多い
が、マサムネとかオサブネ、コテツといったようにア横列、オ横列の名が多いという
のは、いま考えられているのと違って刀工は部落の限定収容に限られていたからであ
る。
 「楠木正成」980円で、元寇に際して、各部落より都に集めてこられた刀工が、
一定の収容地に押し込められてトッテンカン、トッテンカン。縄が張ってあるのを注
連縄(しめなわ)とよんで、神社にもはってあるので神聖視するような誤解を与えて
いるが、神とか社というのは明治までは「罪なくして謀殺された怨霊が迷い出てきて、
祟りをせぬように」という封じ込めで、縄をはるのは亡霊が外へ出てこぬためのまじ
ない。
 判りやすく言えば、火事場で野次馬が近づかぬように縄を張って通行止めするのと
同じ事。刀匠の仕事場に注連(しめ)がたれ廻してあったのも、この中へは常人は入
れぬ人外の場なりといった掲示だったのが本当のところで、人間を殺傷する刀は、ア
とオの横列姓に定まっていたゆえ、それに入らぬ「ム」の村正などは故意に妖刀とい
った扱いをしたのを講釈でひろめたものらしい。
 風を送り込んで火種を高熱にするフイゴは、元来は紀元前1490年のエジプト
[ペルシャ?]のササン王朝の頃のものである。しかし、そうなると天地水火を拝む
今の平民、かつての平氏である古代海人族の縄張りになってしまう。そこで彼らは
「シナド」「シナタラ」と故意に変えては呼称する。そして、サンカ人間である純血
日本人の彼らシノガラは、「フイゴ祭り」というのを例年十一月八日に、古代海人系
の石工や鍛冶屋が全国的に催すのに対して、元旦に「礼祭」と呼んで、契丹よりの大
山見命によって我々のは伝わったものであって、紅殻塗りの平氏の祇系や夷也(稲荷)
派とは相違すると頑張るのも職業確保の為で、
「クタラタラ、シナドニフケバ、マガネワキ、ツルギモウメニ、ミヨヲサムカモ」
と、中国から但馬方面に採鉱のため、多々良と後には日本名になる契丹人が来ていた
来歴を、彼らはノリトみたいに礼祭の時には大声で唱和する。まぁ、契丹系であれば
祖国ゆえやむを得ぬ話。
 九州延岡の山奥に「天下(あも)り」とよぶ、四国や九州のサンカには聖地にひと
しい秘境がある。ここでは年に一回、山陽道までの国カズ、つまり各地代表親頭衆が
参列して集会をなす。
 その年に一番よくサンカのために尽した功労者とか、全体の頭目だった者の遺体を、
もう死んでいて既に土葬にしてあったものでも、そっと掘り起こして菰包みにして運
んできて、「シナ土送り」と称する、大陸への北東に向けて崖の上におき、サンカの
最高葬の風葬にする。
 菅原道真の梅鉢を刀につけてウメガイにしたり、自分達は漂着してやむなく住み着
いたり、アレキサンダー遠征のため逃亡奴隷となり、難民となって日本へ来たのでは
なく、
「国家目的によって日本海を渡って進攻してきたのに、亡国唐の遺民が支配する国で、
我々戦いに利なく追い散らされはしたが、決して尠(すくな)い同志ではなく、不運
にも東北の荒地へ収容され奴隷百姓となった者らも多いが、我々は亡国唐の藤原を仆
して、やがてとってかわるのだ」
といった意識がサンカには多く、セブリを五つ集めたテンジンでも、彼らがクズシリ
とよぶ親方となって一同を指揮するし、他民族の下にならぬようハラコとザボの二階
級にし、明治以降は、初め無告つまり無申告であったが、日露戦争の一斉狩りこみの、
男子召集の徴兵のための新戸籍の際には、唐字ではない契丹文字の「鈴」を姓につけ
る者が極めて多かった。
 「契丹日本史」の私の本に則天武后の命令で作字された唐字にはいっていない「鈴」
は、契丹二千文字文に明確にあるのを書いておいたが、太田亮の「姓氏辞典」の本は、
「神社には金属を吊るした木があり、そうした飾りつけが鈴木姓のいわれである」
と、まるでクリスマスツリーみたいな嘘っ八が出ているが、加賀へ入った藤原氏が加
藤であるという話と同じデッチ上げである。「クズシリツナギ」で、鈴は彼らの代表
格なのである。
 中国に隣接したインドやアラブ、ソ連にしても「チャイナ」とはいまだに呼ばず、
「キタイ」とか「キタイスカヤ」と契丹の古名を国名として呼んでいる程、契丹人は
優れた人種だったらしい。
 つまり七世紀には、追われた古代海人族や騎馬系の女共を救けて、山や海中の孤島
に逃げ込んでセブリを張っていた純日本人達も、十世紀になって契丹人が反唐という
ので、追い落され逃げ込んできた時から、初めはザボだった彼らも三代たってトケコ
ミをしだした。
 つまり、ハラカラとなると、なにしろ優秀人種の事ゆえ、次々と各テンジン頭とな
り、やがて国一となって勢力を確保してサンカ人を指揮下におき、統制のためずっと
千年たったらしい。
 それでも混血は避け、海人族は海人族と、契丹系は同種とツナガリが縁組みを決め
合っていたから、あくまでサンカのシノガラは今でも純日本人の血を今日まで保ち続
け得たのだ。