1003 サンカ生活体験記 2
散家がサンカか

 己が家系の事を書くと私小説になってしまう。だから山口氏でも血族を書くのに母
方の脇屋を女郎屋だったとしか秘密めかして書いてもいない。やはり書きにくいのだ
ろう。私でも、これを書くのには渋った。できうる事なら誤解されぬよう書きたくは
なかった。
 私の母はフサと万葉仮名で書く名を持った女性だった。昔の女学校を出た年に、今
は亡き矢留節夫、それから何年かたって私を産み、その亡兄の名を冠せていたが、二
人も子を産んだ女とは見えぬくらい若々しく、いつも着飾って外出ばかりしていた。
 だから、私は祖母といつも一緒で、「バアサン子は三文安‥‥」などと、いつも近
所の子供にからかわれていたものだ。
 祖母は世間並な桃太郎の話などはしてくれなかった。桃太郎の絵本を友達から借り
てきて眺めていると祖母は怖い顔をして、
「わしらの頭に角が生えているか‥‥」
と怒って取り上げてしまい、自分で借りた家へ返しに持っていき、
「‥‥変なもん、子供に見せんでちょう」と大声で文句を言って帰ってきた事がある。
詳しくは教えてくれなかったが、善玉と悪玉が逆になっとるとだけはぶつぶつ言って
いた。
 「中ツ国」と呼ばれるのは今の中国地方の岡山。隋を滅ぼした中国の唐が白村江、
朝鮮半島で日本よりの派遣軍を大敗させて九州からの進駐。そして「唐」を「藤」と
替字してからは、滅ぼした隋の人間には「桃」の字をばあてて区別していたと、<野
史辞典>に書くまでは、桃(藤)から生れた桃太郎は凛々しい貴公子で、当時の事ゆ
えコウリャン団子だったのを、新羅系のサル、高麗のイヌ、百済系の戦士のキージー
に食糧を給して、隠忍とよばれていた原住民討伐に行き、彼らが耕していた穀物や干
魚や荒塩を宝物として掠奪してきただけの話だと納得できるようになったのは、私と
しては祖母の亡くなる後年の話だった。当時は、
(まさか幼時から一般庶民の洗脳教育に、そんな童話の絵本が広まっている)
とは知る筈もないから、祖母は臍曲がりだと思っていた。

[例によって、『野史辞典』と『庶民日本史辞典』から『桃源』に関する項を転載し
ておきます。
桃源‥‥<群書類従69>の<唐大和上東征伝>538頁にも、『桃原等四人を留め』
とあり、<日本書紀14雄略帝七年>の条にも、『上ツ桃原下ツ桃原、眞神ノ三所』
とある。トウゲンと読めば、後の藤原とはすぐ判る。西暦663年の白村江の戦いの
後で武装集団が何千もかたまって入ってくる前から、既に日本へは移住してきていた
者が多かったらしいようである。
 唐は七世紀初めの618年の高祖武徳よりとみるなら、それ以前の隋か陳、梁、斉
の年代から入ってきていた人々を桃原とし、唐になってからの集団移住者を藤原と文
字で変えたのかもしれぬ。』(以上は『野史辞典』から)

桃原‥‥凸版は群書類従正篇巻69の『唐大和上東征伝』538頁の一節で、天宝十
二年十月五日、日本国へ行くという(鑑真)和上和尚に吉備の桃原(輩)四人を通弁
につけた一章。中国の天宝十二年は日本の天平勝宝五年で、東大寺大仏開眼の西暦7
52年の次の年にあたります。白人がキリスト教宣教師を先に送り込んで己が植民地
に征服したように、唐の玄宗皇帝も日本へ、大和上を東征させた時の記録ですが、ト
ウを藤と当て字していたのに、何故に吉備地方のトウを桃としたのかといえば、彼ら
は『華夏王国』と昔は呼ばれた唐が滅ぼした隋の者達が移住して建国した者らの子孫。
それゆえ、通辞には便利ゆえ登用したが、旧敵国人の末裔ゆえ『桃の輩』との区別で
す。『桃生』とかき、『桃也』と別称していますのも、原住民を夷とし、『夷也』と
呼んだのと同じ様な用語法なのでありましょう。勝てば官軍、負ければ賊軍とは、こ
の時の言葉でしょうか。
 白村江で大勝した唐が堂々と日本へ進駐して来る前から、墨染めの衣を着た坊さん
を矢面にたてて、石斧や石槍の縄文日本人を攻め、高梁をキビと称して主食にし、中
国の桃の実を植えつける為に、捕らえてきた日本原住民に奴隷課役をさせていた名残
りが、今の岡山ピラミッドとも呼ばれる庚申山なのであります。江戸期になっても奴
隷の子孫は苛められていたゆえ、世直し願望の命令です。
 また、墨染めの黒の本場ですから、今でも岡山には黒住教とか黒住焼などの名称が
あります。明日香と同じ亀石や酒匂石があるのは、先勝品として捕虜奴隷に運ばせて
持ってきて据えつけたもので、割れては散らばったのはそのせい。なお吉川弘分館刊
国史体系日本書紀には「上桃原、下桃原、」とある』
(以上は、『庶民日本史辞典』)

 『凸版は‥‥』とあるのは、本のその個所に写真版で『唐大和上東征伝』の問題の
部分が挿入してありまして、以下の内容です。
『巻第六十九 唐大和上東征傳      五百三十八
 留春桃原等四人、令住學道士法。為此和上名亦奏退。願和上自作方便。弟子等自有
 戴國信物船四舶。行装具足。去亦無難。時和上許諾已竟。時楊州道俗皆云。和上欲
 向日本‥‥』

 実はこの資料は昔、影丸が群書類従をぼんやり読んでいて、八切先生に、『こんな
面白い記事がありますが‥‥』と、問題の部分をコピーして送り問い合わせたもので
して、藤原(地名も人名も)が桃原とも書いていた事もある例証として役に立つので
はないかと思った次第です。ただ氏は、この桃原を『吉備の通訳』とされていますが、
その根拠は判りません。
 日本書紀14雄略帝七年の『上桃原、下桃原』云々という漢字の地名も、十年以上
前に影丸が国史体系の日本書紀を眺めてて見つけて、『桃原』と一緒に先生に問い合
わせたものです。最近、岩波書店の日本書紀を入手しましたので、参考の為に引いて
おきます。P476にあります。
『‥‥天皇詔大伴大連室屋、命東漢直掬、以新漢陶部高貴・鞍部堅貴・畫部因斯羅我
・錦部定案郡錦・譯語卯案那等、遷居于上桃原・下桃原・眞神原三所。‥‥』
 これを『かみつももはら』『しもつももはら』なんぞと読むと、何にもなりません
が‥‥同書では見開きの右側に丹念に全て、これでもかと読み下し文にしてあります
が、はたして書紀を書いた人はここまで訓読みしていたか疑問です。中国人が考える
桃源郷→桃原→藤原という変遷ですが、いかがなものでしょうか‥‥]

 当時、祖父は名古屋市中区神楽坂町という目ぬき通りに、不動貯蓄銀行というのを
やっていて、岐阜の芸妓上がりのおツルさんと、南呉服町で「ひさご」を経営してい
たオクニさんの外妾が二人いて滅多に夜は戻ってこなかった。
 といって、祖母より彼女達の方が綺麗とか愛らしいという事はなかった。これが不
思議で、
「おじいちゃんは、どうして帰ってこんのやろ」
と、中働きの婆にきいた事がある。すると、
「ここの大奥様は上に跨りゃあすから、重とうて身体の自由がきかんとぼやいとるぎ
ゃあ」と教えてくれた。
 つまり、顔はまずくても芸妓上がりの二人は、今いう正常位か下に横たわって相手
の思うままなのに、祖母は反対に上から取っ組んでゆくので祖父は厭がって戻ってこ
ない。
 だから祖母は、一人寝でなかなか眠れぬせいか、私を側へ寝かせては色々と話をし
てくれたのだ。言い伝えの伝承話だろうが、彼女の口にかかると豊臣秀吉もサンカの
一人だった。
「弟の弾正たらいうのが薮塚にいて、その伜の虎之助が安土城を拵えた岡部又左の許
へ弟子入りしたというのは、居付き(今では五木)サンカとなって暮していた証拠。
また秀吉の妹の子の福島市松だって、後には正則とかいう大名になりゃあたが、親父
様が桶のタガ作り、つまり今言やあす箕直しだで、やっぱし居付きサンカ。となると、
秀吉のお婆様は気が強いも道理、サンカ女だぎゃあ‥‥近頃はオカミが変わってサー
ベルが追っかけやぁすが、秀吉かてサンカで、あん頃は大名というか殿様は、みんな
そうだったんじゃがなも」
誇りをもってというか、自信慢々とした寝物語を欲望発散のためにくり返し聞かされ
たものである。私は幼くて判らなくなって途中でいつも寝ついていた。
 サンカが屯しているところを「ヤワタの薮知らず」というくらいだから、薮塚の弾
正の伜の加藤清正がその出身で、今も熊本に残っている清正堤などはサンカ工事で堅
固なのは有名である。
 福島正則がササラ衆の箕作りや竹のタガを編んでいたのは「宿六列伝」にも詳しく
書いたが、清正も他の本に書いてある。彼が長い兜をかぶっていたのは、サンカは夫
婦で一セブリとなって分離しているが、何か集会があって多く集まるようになった時
には、全体の長にあたる者が、「八方めぐり」と呼ぶ、地面に突き刺す自在鉤を外側
から竹で編んだ筒で包み、頭上に乗せ、遠くからでも識別するためで、五セブリを一
天人とよぶ団体が、それを中心に拡がる風習がある。
 現在加藤清正公愛用の長兜といって、藤の編んだのに黒塗りしたのが遺品として残
っているが、好事家の後年の作り物で、本物は弓なりに曲げた四本の青竹を籠のよう
な物でかぶせ、軽くて長かったものであったらしい。と、それに九州へ行くと同和地
帯で「豊臣松園」といったように、豊臣を上につけた地区が多いのも、九州ではサン
カを特に嫌っていたせいであろう。
 また、これから「秀頼薩摩落ち」の講釈が大坂以西では大正から昭和初期まで流行
した。<天の古代史研究>で「世良田事件」の項目に詳述しておいたが、上州世良田
庄徳川が、幕末までは神君発祥の地というので畏敬され、近郷八十ヶ村より納米させ、
部落の頭目の岩佐満次郎がやがて新田男爵になったのに、徳川公爵家では華族会長様
の出身が同和地区では困ると、明治三十年刊にして青山の青山堂より「家康は松平元
康の改名が正しい」とする「松平記」を刊行配布。東大をはじめ各大学の教授で組織
されていた学士院会は、直ちにこれを確定史料と認定した。
 そこで近郷の村々では学士様や文学博士が[世良田と徳川家は無関係と]いうのに、
これまでよくも村々より飯米をとりあげくさった、と世良田の庄を取り巻いた。新田
男爵はロンドンへ留学という恰好で家族もろとも不在だったが、世良田に残っていた
三十四名のところへ近村の三千人が石を投げつけ、鍬や鋤をもって押しかけた。そこ
で近在の鬼石などの部落へ応援を求め一致団結して戦った。
 これが後の水平社運動の始まりだが、村岡素一郎の「史疑徳川家康」によれば、秀
吉がサンカなら、世良田二郎三郎、後の家康とても、出自はどっちもどっちでかわり
はない事になる。

[『天の日本古代史研究』から『世良田事件』を引いておきます。
 幕末瓦解後、初めての反徳川騒動だが、明治三十年に<松平記>なる創作を配布し
たり、<史疑徳川家康>を買い占め、発行停止にした徳川公爵家では知らぬ顔。よっ
て故に今では匿され忘れらる‥‥
 群馬県つまり上州新田庄世良田郷というのは、今も『徳川』の地名が残っている特
殊部落である。
 権現様はここに出身ゆえ、前名は世良田二郎三郎を名乗り、新田の長吏岩佐家の系
図をば、「お借り上げ」と称して召し上げ、その代わりに岩佐を長吏として認められ、
新田郷の人頭税をとらせた。
 農耕を世良田徳川ではしないから、裕福ではないが、近村から上納米を神君の御威
力によって徴収。幕末まで徹底的い搾取してきた。
 さてである。特殊部落出身の成功者ほど、その出身を隠したがると言われる元祖は、
徳川前公爵かもしれぬ。もちろん権現様の血統の尾張の継友、その弟宗春の子供も一
人残らず始末、すっかり根絶やしにして、全羅南道系の徳川将軍の血脈になっていた
せいもあるが、臆面もなく堂々と、『徳川家康は松平蔵人の改名姓名』とするような
徳川神話を、皇室の藩屏たる華族会長の祖先が特殊部落出身をごまかすために発表。
故山岡荘八が、その現代語訳のような大河小説『徳川家康』を、そっくりそのままで
書いているが、さて明治時代まで近郊の者は遠慮し、
『世良田徳川は、権化様の由緒ある地』と、別扱いしていたのが、大正になると徳川
公爵様が否定なさったのが一般にも広まった。
 となると、これまで四百年の、つもりにつもっていた恨みが爆発して、
『二千の近在の者が、僅か二十四人しか住まっていない処へ乱暴して仕返しをした』
のが、この世良田事件である。
 つまり、楠木正成の銅像と一対に建てる筈の新田義貞の銅像が沙汰やみになったの
も、徳川公爵家の圧力であって、世良田事件でも、見舞いどころか、まったく我関せ
ずとして頬かむりした侭なのが、後の差別問題にも大きな影響を与える結果ともなっ
たのである。
 そこで、世良田徳川の者は鬼石その他近くの部落に応援を求めて竹槍隊を組織し、
これが全国水平運動の始まりといわれている。
 ここで留意したい事は、特殊部落から出て世間で立身した者は前身を匿したがるの
か、部落を嫌うということである。世界的に有名な輸出陶器会社も、新入社員は興信
所で身許調査を徹底的にさせてるが、他の同じ部落出身の社長のところも会社側が
(部落主審者を)極度に嫌っている。
 徳川家も、家光以降はこの傾向の先駆であって、臭いものには蓋をしたがるゆえに
有名な『三河風土記』は、沢田源内の偽作だし、大久保彦左とて、(原住民系の多い)
渥美半島出身だが、『三河物語』は家康神話に合わせる為に子孫が加筆した偽作。
なにしろ、『人の一生は重き荷を背負いて、‥‥』の遺訓が、明治になってから勝海
舟ら旧幕臣グループによって偽造されたのを尾張徳川家がバラしているが、みな部落
出身を匿したがるからの、徳川家の御為の最後の御奉公だったろう。
 小田原合戦後に、それまでの三河・遠江・駿河を取り上げられた家康は、上州世良
田徳川の出ゆえ、己れから原住系の彼らも討伐せず、みな召し抱えた。領地が三倍に
増え人手不足もあったろう。尾張の三河は一向宗一揆の名目にはしたが、国中で家康
を目の敵にしたから生涯半月も岡崎城には居らず、浜松城にいたほどの家康であるか
ら、三河島衆を譜代として片っ端から召し使った。
『野史辞典』に、尾張三河出身の旗本は一家のみと出ているのはこのためで、旗本八
万騎はみな三河島の地侍。が、現地採用の彼らに箔をつけるために尾張三河出身と変
えたのか、講談で誤られたか広められて、武鑑すらも間違えている。
 が、三河岡崎が家康の出身なら、徳川家とても家来の水野を五万石の城にずっとす
る筈はない。』以上]

 <天の古代民族の研究>に出てくるような、きわめて温順な奴隷にされてしまった
一般庶民は、「親方日の丸」というか、自民党に投票をすればどうなるか判っていて
も、今のオカミが自民党なら揃って投票場へ行き勝たせてしまう。
 サンカなれば秀吉は京を押さえ天下をとり、家康も徳川十五代の祖になれたのだろ
う。つまり純血の強みがこういうところに出てくるらしい。
 日本列島の原住民というのは、紀元前何世紀も前から漂着して住みつき、海流が日
本を起点としてはどこへも流れていかないので、仕方なく暮していた人々のもとへ、
今日いうところの「古代海人族」、天地水火を拝むアブダビ海方面よりの者が戦火に
追われれ入ってきて飛鳥人。
 その後に裏日本から、大きくても木曽駒くらいな馬を筏や小舟に乗せて入ってきた
騎馬民族。彼らの中に後に白系ロシア人と呼ばれる沿海州からの白人も混じっていた
ので、今も秋田美人、新潟美人というように、肌の白い人も多く見かけられる。が、
どっちも集団で攻め込んできたわけではない。
 共存共栄というか、牧草地の多いところを騎馬系は遊牧して廻り、マレーシアのヤ
バアンや、当時の雲南はベトナムまで延びていたが、そこからの古代海人族は漁や塩
も作ったが、今日のベトナム方式の水田耕作もし、騎馬民族から鹿や兎の肉を貰えば
お返しに穀物を出して、一緒に相互扶助しあい、それゆえ「豊芦原瑞穂の国」という
ことになる。
 騎馬系は主として新羅高麗[系]と沿海州の粛慎と呼ばれる後の白系ロシア人ゆえ、
彼らが白頭山信仰を持ち込んできて加賀の白山を祖神とし、民族カラーを白とするの
が源氏になるのだが、それに対して民族カラーを赤とする後の平氏になる飛鳥人は、
生魚を手掴みで食べて日本へ来た海洋族。
 さて、サンカの女は決まって赤ネルの腰巻姿である。という事は、三角寛先生の説
く「単一民族の日本人とは全く民族を別にする種族」という解明にはならないのであ
る。
 壱岐対馬から大陸よりの、鉄製武器をもって集団進攻してきた全羅南道の百済人に
よって討伐された時に、捕虜になってゲットーへ入れられ、騎馬系は飼戸(しこ)と
して馬飼いの牧夫。海洋系は食物作りの課役奴隷にされた時に、あくまで縄文武器で
戦って逃亡した両方のレジスタンス連中が、やがて一つになって、夫婦単位のセブリ
を営んだものとみるのが至当ではなかろうか。
 サンカの発生について、三角寛先生は、その著の「サンカの定義」の名義考の中で
は、まず、
「サンカの表語は、過去三十三年間における私の随筆ならびに小説等三百余篇の発表
で、山窩の概念が既定されている。しかし、これは活字面の構成上、「山の窩(あな)
」という表示に美的な響きがあるので、ことさらにこれを使用してきた。山の窩の発
音はサンクワである。
 ところが、当のサンカは穴居生活者ではない。また山中深く隠れ住む生活者でもな
いので、山を冠する事も窩を当て字する事も実のところは不適当なのである。
 それではサンカとはどういう意味か?
この言葉の追求には、私自身、三十三年間苦しんできた。それは、サンカは口が堅く、
絶対にその実態について語ろうとしないからである。また、彼らの一味のうち、徒渉
漂雨泊のセブリ生活者は、自分達の事を、殊更にサンカとは絶対に口外せず、何も言
わないからである。
 しかしながら、彼らの事をサンカまたはサンクワと客観的にこの名称をつけられて
いる事には、何かの理由がある筈である」
と序文で述べてから、三角寛先生説では、
「彼らにその理由を訊ねると、まことに不機嫌で、『それは何の事だ?』と横を向い
て答えようともしない。そもそも山の窩とは、彼らの真の生態を知らず、想像で深山
の山窟にでも棲んでいる生活者であろうと断定して呼称したものだからであろう」
とする。
 また、明治八年二月の島根県令井関盛良時代の羅卒文書に、
「山家(さんか)の徒、山窩、浮浪の徒」
などとあり、
「山窩(山家)は雲伯石三国辺偶の深山幽谷を占居する」
とも記載されてある。おそらく、これが文字に書かれた山窩の、そもそも最初である
と思われる。
 この山窩が、明治から大正にかけて特殊な犯罪捜査家達によって研究され、雄弁会
発行の「明治大正犯罪実話」上下二巻となり、彼らはこれを特殊犯罪者の流浪群と誤
断した。しかも、彼らはこの研究を絶対秘密にして、直属の上司にすら報告せず、隠
密や、一般犯罪捜査の手先に「諜者(てふじゃ)」として山に入り込んだのを利用し、
彼らの仲間を犯罪者として検挙していた。
 三角寛先生は、
「私がはじめてサンクワの言葉を耳にしたのは、昭和初年の例の『説教強盗』が、夜
の帝都北郊の住宅街に出没して、東京市の内外が恐怖に襲われていた頃である。『あ
の説教強盗はサンカじゃあるまいか?』という風評が立った。『説教強盗』の命名者
である私は、その風説を聞き捨てにはできなかった。私はその風評の火元を追求する
のに十一日間を費やし、ようやくつきとめた火元は、下谷区萬年町に住んでいた警視
廳捜査課勤務の巡査部長大塚大索氏であった。大塚氏は窃盗係の老刑事であったので、
直接、強力犯の説教強盗の捜査には当たっていなかったが、その出没自在な行動から
推理して、『あるいはサンカじゃあるまいか』と口走ったのが事の起りだ」
と、当時サツ廻りの新聞記者の三角先生には判明した。
 大塚巡査部長は、この萬年町がサンカの居附(ゐつき)地であったので、ここに居
を定め、ここを探索の巣として、この特異な、社会に寄生する浮浪者群の中から多く
の犯罪者を検挙していたが、この里で捕らえてしまうと来なくなるので、ここを立ち
去って次の場所に移ったところで捕らえる事にし、それらの犯罪者をサンカの諜者に
密告させていたのである。
 この特異な社会は内側と外側に分かれ、内側がサンカで、寄生浮浪者群はその外側
であることを知っていた。(大塚氏は後に警部補になって退職した)
 では、その内側のサンカの実態は、はたしてどんなものであったか?(つまり内側
が本物で、密告者や密偵は寄生虫のような贋者)という事になる。
 大塚老刑事の話によると、
「サンクワといっても、あれは当て推量の名稱で、深く研究して呼稱された訳でもな
い。また彼らを訊ねてみても満足な返事は誰もしないから知る由もない。彼らは岩洞
や穴の中に住んではいないのだから、山窩でない事だけは事実である。あの連中は、
箕づくりが生業で、大体が村里や町はずれの林の中や、川べりにと住んでいる。だか
ら、山河者(さんがもの)とでもいう方が適当かも知れない。どうしてあれをサンク
ワというのか自分でさえも納得していないから、報告書にサンクワという文字を使っ
た事は一度もない」
と、三角先生が、はじめて知ったサンクワという名称の知識はこの程度のものであっ
たという。掴んだのは、「その正体が箕つくりである事の事実」だけであったのであ
る。
 農村に生れた者なら、箕つくり、箕直しを知らない者は少ない筈である。三角の生
れた大分県竹田地方では、これらの連中を非人と呼んでいる。彼の母などは非民(ひ
みん)と言っていた。なぜなら、昔から農耕の民を百姓(おおみたから)(世襲私有
財産の大遺宝)といった歴史があるが、あの連中は耕作をしないから非民だというの
だと聞かされて、なるほどと先生も思った事がある。
 この箕つくりの非民あるいは非人のことを、地方によっては、川徒(かはと)、山
徒、またはオゲとかポンズなど、さまざまの方言で呼称されている。地方々々での解
釈があるのだが、いずれも、その正体を掴んではいない観念的、客観呼称にすぎない
のである。サンクワとは、ただ何となくそんな気がするので、あて推量で、山の穴居
者と誤認しているのである。
 また、サンクワは、多くが川の畔(ほとり)の林の中に棲むので、サンカ(散家)
と呼ぶのが正しいと思うのではあるが、これとて観察概念からする呼称にすぎない。
 「かのごとく、サンクワとかサンカについて、何かありそうだと考え、色々追求を
重ねているうちに、昭和十九年になって、彼らの中に、『ミツのケチの掟』といった
厳然たる差別のあることを発見した。これはこの研究の決定的な意義をもつ事になっ
た。この『ケチ』というコトバは、世間でよく云われている処の、
『あいつにケチをつけられた』
などという、あのケチの事だ。

ミツクリの一(かみ) フキタカの一 エラギの一

この三つの系統の差別(ケチ)がそれである。
 そのミツのケチとは、三つの差別、即ち三つの區分(ケチ)ということである。
(ミツクリの一とは、箕つくり系統の統領の事で、家元とか本家などの意味で総元と
もいえる。つまり『夷元』[他書で、八切氏はこれを「家元」のルーツとみる]なの
に、金とり主義に代わったゆえ刃物をふるって花柳玄舟が抗議をしている。)
 フキタカの一とは、笛つくりの系統の統領のことだ。この一味は、太古には笛や琴
を竹で作っていたのだが、今では竹製の楽器や茶筅などを作っている。また竹三味線
も作った。(『四つ』のササラ衆も同じ事をしている)
 エラギの一とは、遊芸者系統の統領の事で、出雲阿国などがその出であった。今も
川原芝居や門附けなどが残され、現存する『俵ころばし』『猿廻し』などが、この系
統に属する。(弾左衛門支配の四ツの猿飼族も入る)
 このエラギの語は、嗤楽(わらいたのしみ)の事で、笛を吹竹(ふきたか)という
古語と併せ考察すると妙味が深い。サンカの語源かもしれない。
 以上の三區分は、その一(かみ)が世襲的に専承されてきたのであるが、大正以後
は、その一(かみ)味の上達者が、次代の一を継承している。このミツのケチのカミ
を彼らはきわめて尊び、セブリのミケ、またはミカと呼んでいる。それが三差(さん
け)、三一(さんか)などと呼ばれ、また三家(みさん)、三家(けさんか)などと
も呼ばれたりするが、理解し合う相手なら、どう呼ぼうと咎めだてはされないのであ
る。
 さらに彼らの中には、その上に、

クズシリ一(かみ) クズコ一 ムレコ一

という三種のカミがいる。
 クズシリは国知り、クズコは国子(くにこ)、つまり都とか郷のこと。ムレコは群
子(むれこ)で、村の事である。それぞれに一人ずつの長がいるので、それを第一人
者の一をカミと呼ぶのである。この他に、さらに統率者として、

アヤタチの一(かみ) ミスカシの一 ツキサシの一

の三つの段階の頭領の身分(ケチ)がある。これは、権力の最高者であると三角寛先
生は、その著書で説明する。
 アヤタチのアヤとは亂、即ち秩序の亂(みだ)れのあやの事で、タチは断(たち)
または裁(たち)を意味する。
 ミスカシは透視を意味し、亂を破る意味が含まれている。
また、ツキサシは突き破る事で、亂脈を引き裂き、突き破る行為を意味する。これが
戦国時代に到って利用され、アヤタチを亂破、ミスカシを透破、ツキサシを突破など
と漢譯され、忍びの者の組織に利用されているという説すらも伝わっている。
 現存の彼らが數を讀むのに、いち、にい、さん、しい、ごう、と我々と同じ數え方
をするにはするが、他人のいない身内同士の時や、何かあらたまった時には、
一(かみ)、ニ(つぎ)、三(さん)、四(しい)
と讀むのである。
 この一(かみ)という表意記號を、頭(かみ)と意味する彼らは、この数字に、物
の肇(はじ)まりと統一を、また指示と統御を信念としていた。ここに特殊さがある。
ここから出發して、三つの差別(ケチ)、三つの一(かみ)を、サンケ、またはサン
カと意発発音してきたのが、いつはなしに外部に漏れて、サンケまたはサンカが山河
と解され、山窩と誤られたのである。音表と意表の合意を誤解された結果が山窩であ
り、山河であると理解されたい。
 結論としてサンカは三一(さんかみ)であり、三區別(さんケチ)であり、強いて
漢字で書くとすれば、三家である。過去三十三年に亘って、三百餘篇の著述の中で山
窩の熟語を故意に社会に押しつけてきた三角寛としては、ここに謹んで、その罪を詫
びて、その不正を正しくしておく次第である」
と、昭和四十年十一月三十日朝日新聞社刊の「サンカの社会」の28−33頁では述
べているのである。これは正しい訂正である。立派なことである。
 しかし、漢字というものは、西暦663年、白村江敗戦の時に進駐軍によって「則
天(漢)唐字使用令」とよぶ強制使用が命令された時から、みな何でも当てはめるだ
けの文字ゆえ、「三」にこだわるのはおかしい。おそらく本当のところは足利中期過
ぎに明国から印度のカースト制度が入り[もっと前からという八切説もある]、日本
列島でも賎民制度を確立した際、「まず前体制の北条一族をゲットーに入れ、次いで
足利創業の際に南朝方として邪魔をした新田、楠木、湯浅、菊池、足助といった連中
の子孫が、東西に設けられた室町御所の新設した散所奉行の役人によって、山とか川
の真ん中の州。つまり橋のない川の中へ、居つき限定収容させられた。これを散所と
よぶ。地方によっては、別所、院(囲)地、界外と色々の名称があるけれど、これが
全て語源である。
 つまり、散所はゲットーでタウンになっているのに、セブリは一世帯ごとゆえ、こ
れを「散家」というのが正しいとも考えられる。足利後期の公卿の「夷詠朗詠集」の
中にさえも、
「奥山にかくれ住むちょう散家ども、人とはみえで隠鬼ならむ」
とまで明白に出ている。この朗詠集は、毎年五月五日、奴隷百姓となっている連中が、
橋のない川の連中へ投石をしにゆき、州の中の鯉を分捕って竿にさしてきて勝ち誇っ
て帰ってくる「院地打ち」の石合戦の歌が数多く詠みこまれていて、夷をもって夷を
制する藤原体制の実体を明らかにするために、菊池山哉の「日本の特殊部落」にも引
用されているものである。


ウメガイの実相

「サンカの生態には、陰陽ニ態がある」
と三角寛先生の説ではいう。そして、
「陽態がセブリ・サンカ」であり、「陰態は居附サンカである」とする。この居附は、
我々の生活に極めて接近し、そ知らぬ顔で一般に中和している。中和とは、サンカが
一般人の中に入り、正しく節度にかなった生活をしていることをいう。彼らは元来が
セブリモノであることを一般人に知られ嫌われるような事は絶対にしないのである、
と説明をしてから、その形態を分けて分類し、中和しているトケコミサンカについて、
「陽態の、セブリ・サンカとはどんな生活者なのであろうか?」と先生の考えを発表
する。

 彼らのコトツ(「言告(ことつけ)」の詰り語で、「つてごと」の意‥‥昭和十八
・七、丹波にて採集)によると、セブリとは、アナイヌケということである。太古の
我々の祖先が穴居生活であった事は論争の余地もなく、明治大正になっても地方の農
家はまだ穴居生活が多かった。これには異論のないところだが、このセブリの始まり
はほぼ、その穴居から地上に出た頃からと、彼らの間では傳承しているのである。
 それまで私は、コトツという言葉は、コットと聞いていた。「コットによりますと」
とか、「コットでは」というふうに聞いていたのである。その意味も、「私どもの一
族では」とか、「我々のセブリでは」という意味に解していた。

 ところが、昭和十八年の夏、戦争たけなわの頃、三角先生は郷里の大分に歸郷した
折り、飯笊(めしざる)を売りに来たセブリの女の口から、
「セブリのはじまりは、タニバのオヤマミという人に聞くと、よくわかります。その
人はコトツの一(かみ)だから」
と、意外な事実を聞いたのである。それは先生にとっては、まことに思いがけない大
収穫であった。
「あんた、いまコトツと云ったが、コットのことですか?」ときくと、
「他人様と話をする時には、はぐらかしを言うことになっているから、コトツのこと
をコットと言うのです」
と、これまた意外な発覚である。それゆえ言葉を次いで、
「コトツとはどんな事でしょうか?」ときくと、
「セブリのできた、そもそもの始まりの事から何から、先祖からの言い伝えをコトツ
というんです」と、教えてくれた。
 タニバとは丹波の古名であるが、鞍馬の山裾にあるというオヤマミのセブリの場所
をきいて、東京に戻る途中、京都から北に入ってタニバのセブリ場を先生は訪ねた。
 セブリは、桂川の水上の大堰川の川縁(かわべり)にあった。セブリの主は、大山
見一(おおやまみはじめ)といって、その時五十九歳で、職業は箕作りであった。こ
こで、コトツの語意について確かめてみると、その意味は「言告(ことつげ)」の語
り語で、「つてごと」という事であるのが判った。これも貴重な一語である。今いう
伝言だからである。
 更に、この大山見さんが、セブリの歴史を一切伝承していることを知って先生は狂
喜した。