1002 サンカ生活体験記 1
日本サンカの源流 「サンカ生活体験記」
1982年 7月23日 日本シェル出版発行

 作品は、前半なかば以上は三角寛の「サンカの社会」(朝日新聞社刊)などを引い
て、八切氏なりの、サンカを中心にした日本先住民史を展開されております。後半三
分の一ぐらいが八切氏の尾張地方でのサンカ生活に関する記述です。

 本の帯にあるキャッチコピーは、
「公害で湖沼の汚染でセブリは減ったがとけこみ彼らは増えている 今は人口の15
%だが、やがて倍増す」
「日本原住民は庶民と純民に分けられシノガラは何世紀の純ヤマト民族」
とあります。
 この「純ヤマト民族」とはおそらく「(特に白村江以降)藤原(唐)系に同化を拒
み続けている純粋な先住系」といった意味合いで、本文中に多く見られる「純血な、
純粋な日本人」という表現も同じでしょう。


[写真数葉がありまして、これらはここではお見せできませんので、簡単な説明のみ
となります。

中扉には『奉納 恵比須大黒天』の旗をたくさん揚げている寺院らしき建物の写真。
これは愛知県海部郡甚目寺町甚目寺に隣接する大徳院という場所の写真です。撮った
のは影丸ですから間違いありませぬ。宗派については不明です。七福神の神々を祀っ
ています。。
 そもそもこの甚目寺町自体が先住系の民の一大拠点のようでして、寺の歴史は古く、
確証はないのですが推古天皇五年(597)の創建と伝わってるそうです。出土した
瓦が奈良時代前期の様式を示している事から、それ以降の歴史は有しているようです。
 『一遍聖絵(いっぺんひじりえ)』に多くの非人、乞食とともに描かれているのが、
この尾張国甚目寺でして、今でも当時の面影を多く残しているそうです。
 なお『一遍聖絵』にたくさん描かれている奇妙な非人・乞食についての考察は、
網野善彦著『日本の歴史をよみなおす』(築摩書房 1991年刊)1100円
がおもしろく、お奨めの一冊です。

 写真ニ葉目は、国府宮の裸祭と、日光川の写真。
『シノガラの古代海人系も加わる津島国府宮裸祭』とキャプションがありますが、津
島ではなく、愛知県稲沢市の『尾張大国霊神社(国府宮、尾張総社とも称する)』の
間違いのようです。

 写真三葉目は、どこの祭か不明ですが、褌と晒し腹巻き姿の男どもの火祭。
『海人系はテンジンごと火祭』とキャプションあり。
もう一つは、セブリ生活での、川か沼での水浴の写真。

 写真四葉目は、のどかな平野にインディアンのテントのようにたち並ぶセブリの群
れらしきものか、あるいは単なる積んである藁の山かもしれません。
 遠くには何処かの山並みが写ってます。キャプションには、『私の行った日光川畔』
とあります。
 この頃、既に八切氏の実家にはカメラがあったのでしょうか。
彼の『日本部落史料』(日本シェル出版)と題する、菊池山哉の『先住民族と賎民族
の研究』の復刻版に、『名古屋中村遊郭の少女女郎の群れ』と題して、年の頃なら1
2〜14歳の遊女達の写真が挿入されていまして、その解説には、
『部落出身の娘に限り12才以上には特別な計らいで、娼妓鑑札が、おかみのお情け
で出され営業できた』
とありますので、当時既にカメラを所持されていて撮ったか、あるいは、どなたか名
古屋の愛読者からの投稿写真かもしれません。
 名古屋中村遊郭とは名古屋駅西側の一画にあった昔の赤線地帯で、そのあたりは今
では古い建物(戦災を受けていないそうです)が建ち並ぶ旅館街とネオン妖しいソー
プ街となってます。
 その左にある写真は、髪をおかっぱにした丸顔の可愛い少女の前身像。年の頃なら
十三〜五歳で、写真が鮮明でないのでよく判らないのですが、和装のようです。
 これらの写真の何枚かは、神保町の古書店立ち読みした三角寛の著書に掲載されて
いたような記憶があります。
 その下には『テンジン』と『大正時代の勝幡城跡』の写真が載ってますが、そこで
はなぜかセブリを張ってます。 ‥‥以上]

                         1996年4月10日登録
                         影丸(PQA43495)

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目次

書く初めに→        序説‥‥前もってかく サンカは反体制集団
散家がサンカか       ウメガイの実相    ハタムラとよぶ掟
サンカを利用したのはCIA 土建業界はシノガラ  サンカのミチのカミ
サンカはフナかアマ     戦争とサンカ     民族融和事業会発表
歴史の中のサンカ      唱門(将門)伝説   天神信仰
セックス・イン・サンカ   セブリは減っても   トケコミで都市生活
世界唯一の純血民族     核家族の起り     死をみること帰するがごとし
サンカは山海族       国分けは川筋     サンカ人が日本防衛
青天の霹靂しょうもん会
サンカ語の藤原王朝前王朝史サンカにつき根本的に研究せねばならぬ本
スメラ語とサンカ語対照表 私のいたセブリ地帯図


書くはじめに

 孔子や孟子が遊説して廻った春秋時代は、紀元前六百年にあたる。そこで重慶へた
てこもり徹底抗戦を叫びだした蒋介石に対しバビロニア王朝を祖とし、紀元は二千六
百年と荒木貞男が定め国民唱歌にまで唱わせた。今は故意にシュメールと呼ばせるが、
スメラ山脈の並ぶ今のアブダビ海沿岸は、当時はスメルと呼称[ラテン語読みで『ス
メル』だそうです]。用紙不足の時代ではあったが、映画でユダヤ人が赤黒く塗って
インディアンとなって悪役。イラン人もターバンをまき顔を隠した悪役に仕立てられ
ていたので、巻末に参考に少し援用させて戴いた私の旧恩師の「知識民族としてのス
メル民族」の本も、日本出版協会承認で刊行できたのである。アラビア語の活字がな
いのでローマ字方式で並べておられるが、私がベイルートへ行っていた時は、うろ覚
えのサンカ語で日常会話は通用。約二年いまのイランのヤスドでも話が通じたもので
ある。
 という事は日本列島は裏日本へベーリング海流で渡ってきた騎馬民族。壱岐対馬経
由の弁髪大陸人より早く西南アジア経由でアラブから黒潮で瀬戸内海を抜けてゆく途
中、這い上がって最初の日本人となった者が、七世紀に進駐軍に制圧されるまで大多
数だったらしい。
 十世紀に日本海から渡ってきてトウ[唐=藤]勢力に追われた契丹人に指導される
まで、彼らは所謂古代海人族で、山に追われても川畔にセブリを張っていたのもオア
シス思考らしい。


序説 前もって書く

 自分の事を書くのは私小説では当り前のことだが、かつて「青春遺書」や五作ほど
は書いた覚えもあり原著も残ってはいるが、若かった前の筆名での三十五年も前の事
でしかない。
 歴史小説を書きだしてからは、信長の青少年時代とくに「英雄誕生」には、己が自
殺未遂の数々や私の生母との繋がりを、その侭で投影しきった。だからなまなましい
のだ。
 若い時はそうでもないが、私ぐらいの年齢になると、過去は他の人に話しても判り
そうもない出鱈目きわまる圧迫も<塩尻百巻>[天野信景著。八切氏の復刻刊行版あ
り]の前の序説に書いた後も、日本セメントがエタパイを乗っ取る為に創立者を追い
出した真相を法廷で明白にしようとして、相手方の顧問弁護士がヤメ検なので罠にか
けられ、先輩の当時の小倉警視総監の許へ掛合いにも行った。
 しかし、巧妙にまんまとはめられてしまった。そうした挫折が、この世には真実な
どというものがはたしてあるかと、自殺するみたいに没頭しすぎ、昭和四十七年から
の流行作家時代の印税稿料もみな調査費につぎ込んでしまった。昔の耶止説夫の名で
出したベストセラーの入金で購わされた渋谷神南や千葉君津の土地の五億円までつぎ
こみ、<野史辞典>と<庶民史辞典>をどうにか、この世に残し得た[共に八切氏の
著書]。前人未到の八切史観をどうにか送り出した。
 私が二十歳ぐらいの時に、「文学建設」を主宰していた故海音寺潮五郎は、「史実」
「史伝」といった冠詞を流行させたが、北畠親房の「神皇正統記」に桓武帝の一切の
国史を焚書すと明記され、北条時宗の対外政策の為の国史禁焚も有名だが、もはや日
本にては、本当の「史実」や「史伝」などというのは、後年に作られた当時の権威に
迎合したものの他は何も残されていないのである。次々の時代に、時の権力者におも
ねったものが筆写され更に直されて、また都合よく次々書き変えられたものだけが、
今度は活字本として出されている。
 はっきり言って明治時代に、売りやすいように「実録」という冠句をつけた講談と
同じものが、歴史では困る創作ばかりだが、それを独自な史観などともち上げる。
 なにしろ調べても調べなくとも稿料は同じゆえ、「駿府記」には明白に、高台院こ
とねねが約束の三万石をと何度も交渉に来るのを、うるさい婆めと家康がうるさがり、
半額の一万五千石にしたのに千石だけイロをつけたような明白な事さえ誰も読まぬの
か書いている者は一人もいぬ。
 さて、参考資料も二十年前から集めはしたものの、書く私の側の頭の中に全部が揃
っていて、順に出してゆくのでもなく、また読者の方でも順番にというようには入手
はできぬから、順序がこんがらかってしまう。これは致し方とてないかもしれぬが、
なにしろ八切史観は順番に読んでいってもらわない事には混乱する。
 はじめの「八切裏返し史セット」の五冊は、ただ判ってもらいたいため、進駐軍は
墨染めの衣を着た宣教師の僧を送り込み、日本原住民を洗脳したので、それに対抗す
る地家としての中国語でいう「不信」つまりブシンとされる奴隷武士団が対抗するの
を白と黒の戦いに書いた。二者選一の書き方は説得力があるので今まで六十万の人に
読んでいただけた。
が、である。新羅系を白木作りの社とし隷属した高麗系をコマ犬として入口におく神
社はカラ神様。日本の庶民の殆どを占める平民つまり平氏は、スメラ山脈のあるアブ
ダビ海より、首都スサよりヤサカ河の上のGIONを奉じて終結させられ、ヤバンこ
とマレーシアのニコパルへ、MIKOTOと古代アラブ語でよぶ耕作奴隷に送られ途
中で黒潮に逃げたのが、古平氏の夷津[伊豆]の夷頭[伊東]の北条一族。
 大進駐して天皇から上皇まで隠岐や佐渡へ配流し土牢へ生涯入れ、藤原の公家は斬
首したから、北条政子ことサンカ人の女上位での女神だったらしいが、今では不敬罪
ゆえ決してサンカ人は、この話は絶対に秘密にして話などせぬ。
 さて、神は明治以降は、アラヒトガミに天皇をしたので、神とは拝むものといった
世に変った。しかし、神社と違って白木作りではなくて紅殻塗りの宮や堂が実に多い。
昔は夷也とか異也とか書かれていたのが、戦国時代以降は「稲荷」の当て字に変わっ
て川柳の中にさえ、「江戸名物、三河屋イナリに犬の糞」と徳川時代には増えて各町
にある。
 稲の御守りなら田圃にあるべきなのに、私の仕事場の日本橋には今も銀杏稲荷、権
太郎稲荷と町内にひしめきあっている。
 そこで第三弾として、白と黒との争いの中に、平[家]の民族カラーの紅を加え、
「しょうもん伝説」がテレビ放映されたのを汐に、日本海からどんどん入ってきたが、
藤原氏の先祖である唐を滅ぼした契丹ゆえ、公家は彼らを忌んで[同じ]大陸系なの
に、賎民として東北へ追ったのが契丹日本人だった。これが判らぬ林陸朗あたりの国
学院歴史派は、将門を同和地区に結び付けるのは論外と目下裁判中。判らぬではつけ
る薬もない。

 「源平藤橘」という太田亮の姓氏辞典のもっともらしいインチキさは、
源=元 平=ペイルシヤ 藤=唐 橘=契丹
とは、各書に詳述して、<天の古代史研究>[八切氏の著書]までを完了した。なに
しろ郭将軍こと日本名藤原鎌足が初め二千、後からも二千の鉄武器をもった進駐軍の
権勢を率い、築城石の供出命令や漢字使用の命令から、すべて当て字だらけでよく判
らぬ。
 ところが、これで庶民はいいつもりだったが、純血日本人の女達が進駐軍の弁髪人
の混血児を次々と産まされる前に伴って逃げた純日本人のサンカ人も明白にせねばな
らない事になった。
「一犬嘘を吠え万犬それを伝う」というが、サンカつまり山海族ぐらい誤解されてい
る例は滅多にない。何故かといえば、サンカ人は絶対に自分の事を用心して他人へは
口外せぬから、謎に包まれた侭で秘密とされてきて、おかみは蔑視して弱小民族みた
いにされる。
 自分こそ唯一の研究者であると言い残して他界した故三角寛先生は、「滅びゆくサ
ンカ」と、その著書にもはっきりと書いている。
 内務省警保局傘下の民族融和事業会によって実体を把握しようとして、各地に箕作
組合を結成させ、セブリ数の申告をさせて統計をばとった。
 もちろん、たてまえ申告ゆえ、実数の百分の一にも満たぬ数字だが、オカミは満足
をした。つまり、明治大正から昭和初期にかけても何も判らず、アイヌや琉球よりも
僅少にみたのだ。
 ところがとんでもない話で、隠れ柳生の埋草はテレビだが、北条期から下克上の戦
国時代へかけてのトケコミ。高成度[高度経済成長]と呼ばれる故池田のアメリカ公
害産業の下請け時代から、河川や湖沼の水が呑めなく、したがってセブリが張れなく
なった時から一斉に都市へトケコミした。
 だから表面的にはサンカ人間は全滅したごとく見えるが、純血日本人どうしの子供
は、成績さえよければ、オオモトさまは原始無政府主義ゆえ、ホンゲとよばれる各戸
よりの上納金を人頭税のごとくせず、代々にわたり公平に保管利殖し、分配金が育英
用にと送られる。
 交通遺児になっても母子家庭になっても、ざっと五兆円を越すという溜めては利殖
してきた資金がシノガラには給付されている。絶対権力反対体制で、弁髪人やオンモ
ン人[朝鮮系]の子種は蔑み、自分らの純血種を減らさぬため、欲望のためでなく日
夜これ女上位にて努力する。
 結婚三組に離婚一組の割合だというが、シノガラの純日本人は死別するまでは連れ
添い、子供を作るため死ねば探してきてツナガリが再婚させる。上原謙さんは七十こ
して子供を作ったが、九十歳で子供作りした者さえもいる。
 なんせ、絶対他人に何も口外はせず誰とも打ち解けようとせず、黙々と産めよ増や
せよとの使命感をもって汗している彼らは、いつかは日本列島は従順きわまる奴隷的
な一般日本人の群れを出産力で追い抜いていき、真の単一民族にする日がやってくる
と想われる。それゆえ、源平藤橘の四民族の他に、私の体験が入るので書き難く渋り
はしたが、思い切って知られざる彼らの実態を説きたいが、私が祖母にきかされた晩
年の話の中には、絶対に口外すべきではない事があるのかもしれぬと、それを気に病
んで、この序説を書いている。觝触するような個所があったら謹んで御詫びする。
 「見ぬもの清し」で、セブリが今では殆ど見られなくなったので、彼らは全滅した
ものと「オカミ」と自称する検事さえも豪語しているが、本当はシノガラの育英資金
で東大を出ている人が多いのは間違いないらしい。最近は負けじと共産党も真似をし
ている話をきく。
 さて、月給袋の封を切らせずまるごと出させる女房がいるという。これがツナガリ
による結婚なら間違いないが、うっかり結婚ならば相手はその血をひいているサンカ
系女性。
 なにしろ私の祖母みたいに二世紀たってもホンゲをツナガリに納めていたくらいで、
私はその孫にあたる。だから各自がよく調べていけば、サンカ人間つまり純日本種に
繋がっているかもしれぬ。となると、何食わぬ顔で会社勤めしている人にもトケコミ
は多い。彼らが人口の半分を占めた時からは、本当に日本は世変りをするだろう事は
判り得るといえる。
 マンションやアパート等でも、隣どうしでも全く口をきかぬ人が多くなったのは、
トケコミが都市集中化の一つの現象とみられぬ事はない。なにしろ、日本歴史なるも
のは、「華族は皇室の藩屏にして」の明治設定で、徳川家達公爵家が華族会長となり、
各大学の歴史教授の学士会がその傘下に入ってから、村岡素一郎の「史疑徳川家康」
がサンカ出身を発表するや[同書では『ササラ者』であって、サンカとは書いてない
のですが]、警保局に対して弾圧をさせ、青山堂より「松平記」を三百部刊行させて
配布したのは、私の「徳川史料集成」[日本シェル出版)に入っているが、庇護をう
けている史学会東大閥が、これを第一級史料に指定した。だから近世に近い徳川期の
真実の解明はタブー化した。
 元禄まで通用の含金量の多い大小判を使用禁止し、銀本意制の京へ送りし堺の中村
内蔵介に銅を倍以上混入の元禄小判金造りを吉良上野介に采配させた柳沢吉保は、隠
居すると申し出る彼が抜刀するよう徴発させ、失敗すると、浪士に「再就職」の甘言
で以って討入りさせた事も匿されている。


サンカは反体制集団

 「前人未踏のサンカについては、尋念すべき文献は全くなく、ただ現存するセブリ
生活者を求めて、その実生活を探求し、その実態を知る以外に研究の方法がなかった。
しかも、それを探求するには危険の伴う事が多々であった。
 研究は、昭和三年から同三十六年まで、三十三年間に及んだが、まだ満足すべきも
のとはいえない。その間には、日支事変や大東亜戦争があったために、セブリの実態
は急変して、神代からの生態を持続してきた珍重なセブリの実態は、日に日に行作遷
流(ぎょうさせんる)に押し流されて消滅しつつある現状である。
 したがって、サンカの実態も、私の生涯と共に絶滅して、私の死後においては、ま
ったく記録することが不可能となることで、ここに三十三年間に得た資料を記録して、
後世の論及に供する事とした」
と、三角寛先生は昭和四十年十一月三十日刊行の朝日新聞社の「サンカの社会」の第
一章の序論篇の冒頭に述べている。だが如何だろうかと、他社刊行の三冊をも共に読
んでみて考える。
 故人とは直接には二回だが、山水楼で菊池寛の給仕役みたいな恰好だが会食もし、
たしか四回は話しているので批判したり論難する気はない。
 しかし、人生座や文芸座を経営している遺族が、再版はおろか、他の何社よりの復
刻についても、どの本についても謝絶。そのため定価千四百円の本が今では三万円を
越え、近く五万円の呼び声さえ古本業界には出ているときく。
 これは死後五十年たっても二等親か、その遺産相続したと称する者が、著作権法を
楯にとって出版不能の額の要求をなし絶版にする怖れがある。著作権放棄の[一連の
八切史観の]補遺のつもりで書くので三角寛の研究について、とやかく言う気は、ま
ったくのところが、さらさらない点を前もってことわっておく。
 私と彼との違いは、朝日新聞社のサツ廻りの新聞記者で、すべて研究の緒口から解
明一切が「警視庁探索課大塚巡査部長からだった」と当人が書き残しているように、
弾圧する側にあったので、古代史や民族学の素養もなく、警察情報から研究に着手し、
のち内務省警保局傘下の「民族融和事業会」といった官制団体に関係してからも、そ
のオカミの肩書きで大威張りに調査した体制的研究であるのに反し、私の場合は、ま
ったく立場を異にしているのである。
 それに、三角寛は、神奈川県から関東地方だけを研究対象にしているのに対し、私
のは、愛知県から三重県といった「八」の本場の東海地方なのである。だから三角の
研究は東、私のは西と思って読んでいただければ、それでよいのではないかと思う。
 それに、彼の方は昭和に入ってからであり、私のは大正時代。また、彼のは警官同
行のオカミの側の徹底調査。私の場合は仲間の一員みたいな立場ゆえ、その点、事が
食い違っている。
 「天の古代史研究」で従順きわまる日本原住民の成立を書いたから、その反対の徹
底的反体制の彼らを今度は書いてみたいと想ったからである。記憶が鮮明なうちに、
サンカ説は三角の独壇場ではないという事を、バビロニア語とサンカ言葉との対象表
を[これはパソコンで表せない記号が含まれているのでカット]つけて後学の参考に
資したいと思うので、書き下しをするのである。私は律義で愚かだが、記憶力だけは
取り柄である。

 「天の古代史研究」の前著で、西暦663年の白村江の敗戦で九州へまず進駐して
きた郭務ソウ[「ソウ」とは心に宗‥‥以下「ムソウ」とします]が、男っけなしの
御所へ入り、各地に築城命令を出したり施政を代り執り行った。
 今の金大中の全羅南道の百済人が新興唐によって滅ぼされかけ、祖国救援に日本原
住民を捕えられるだけ集めて二万七千。宮廷の百済系男子はみな将軍となり将校とな
って壱岐対馬から渡って逆攻したものの、それまで彼らは、今日でも用いられている
ような、「クダラぬやつ[クダラでない‥‥つまらぬ]」「クダラぬ事を言うな」と、
日本原住民を非人扱いの奴隷として酷使していたので、いくら親方が金大中の御先祖
で、将軍や将校だけは頑張っても、戦奴の原住民共はあまり戦意が高揚せず、あっさ
り負けてしまったのかもしれない。
 紙幣の想像画となっている藤原鎌足なる存在は、この時点の郭将軍ではないか?‥
‥ことによったら人口僅かな時代に、男どもがみな向こうへ連れてゆかれて戻ってき
ていなくて、御所も女ばかりだったから居座ってロボットのような方を表面には立て、
自分は闇将軍となって国政一切を指揮していたか、事によると占領軍の第一人者とい
うので日本の国首になっていた疑いすらも今となってみれば推定される。なにしろ武
力で次々と命令を出しているからである。
 しかし、戦奴として徴兵され連れてゆかれた侭戻ってこないのは二万七千でも、山
に隠れ海中の島に身を潜めて隠れていた日本原住民は、その当時の事ゆえ十倍か、も
っと多くて二十倍の余ぐらいはいたとみられる。つまり散らばっていても五十万人ぐ
らいの人口である。
 クダラ王国朝の時でも苛めぬかれてきていたが、今度は青竜刀を持った郭将軍の進
駐である。「捕まったら殺される」と、隠れていた連中が今でいうレジスタンスで、
青竹の先を焼いた竹槍や弓矢をもって奇襲を各地で弁髪進駐軍にしかけていたのが七
世紀の実際の有様だったろう。
 そこで郭将軍は全国に「進駐軍の命令により」と巨石の運搬を命じ、大野城、金田
城、それに高安城まで、判っているだけで14ヵ所に築城。井戸を掘らせ食糧や塩類
などをしまいこませた。
 面白いのは日本歴史で郭将軍が築城用の積石の供出命を布令した項目は、三省堂歴
史年表にも出ているが、これは日本軍が進駐軍撃退の為の本土防衛のものと頭から決
めつけている。
(各地のレジスタンスから身を守る為の退避用の城とはせず、あくまで日本の抗戦の
為だ)
として、よって郭将軍は二千名の追加を朝鮮半島から呼んで、アフガニスタンゲリラ
のような彼らと戦ったものの、あまりにも日本軍が勇ましくて戦に利あらずして九州
より引上げた。
となっているからこそ、往年の本土防衛の功を認められ、最近の事だが、残っている
金田城の遺跡などは国の重要文化財に指定されはしたが、当時の中国の華主席から礼
などこなかった。
「一枚の紙にも表と裏がある」というが、歴史も同じ事だろう。朝鮮半島を悉く占領
し、壱岐対馬から九州へ入り、御所に本陣を敷き、百済美人をずらりと周囲にはべら
し、「テンホウ、テンホウ」と連発している郭将軍らが、いくら竹槍隊が蜂起してき
たからといって、追加軍まで呼んで九州各地から京以西の治安維持を完全にしてのけ
た彼らが、縄文日本人に怖れをなして、すごすごと戻っていくような阿呆らしい事が
現実にまさかあるだろうか。
 郭将軍は応援に呼んだ二千の合計四千の鉄戈や青竜刀をもった弁髪軍によって、く
まなく各地の原住民討伐を敢行。八母音を使う海人族は魚もとるし塩も作る。雲南経
由で漂着した連中は焼畑や水田もできるから、彼らにアワ・コウリャン・米まで耕作
させて食糧確保の奴隷とした。これが「アマ」とか「アメ」の「天」のつく民族で、
現代の庶民の先祖様だった。
 しかし彼らの中にも、いくら追討されても屈せずに頑張り抜き、降参しない連中も
いた。が、郭将軍が一番てこずったのは、遊牧民族として裏日本へ、ベーリング寒流
から押し渡ってきた騎馬民族の徒輩だった。彼らは桑を植えて蚕を飼う事もせず、土
を耕して土毛と当時は呼ばれた農作物を作ろうともせず、放浪して廻っていて仕方が
なく、彼らの降参後、女は開戸とか皆戸とよばれる進駐軍慰安所へ収容したが、男は
役立たずゆえ捕らえて、初めは陸墓の副葬品として扱った。
 のち、外敵侵入の際に防人として血税を払わせるように利用の道がついたので、埴
輪とよぶ素焼きを作らせ身代わりに土中に埋めさせた。そして、彼らは生かして仕え
国のためと九州とか東北へ防人として出発させはしたが戦奴である。外国のように将
校や下士官との間に友情など生れよう筈とてはなく、人間の楯みたいに伴われている
のを諦めてしまって、
「今日よりかえりみなくて大君の御楯となりて、出でたつシコ(飼戸の子)の身、わ
れは」
と、騎馬系の民族ゆえ馬を飼わされていた彼らは賎の身ゆえと、皆が皆揃って行った
わけではない。
 今でいうなら、「徴兵反対」「戦争は厭だ」といったプラカードをもってデモをや
ることはできないから、海から山へと逃げ廻って拒んだものもいたし、武具を持たさ
れたのを誘帯して集団で脱走した反体制の者らも意外に、その当時はきわめて多かっ
たらしい。
 所謂従順な奴隷になるのを拒否して、他の原住民の如く「長いものには捲かれろ」
と弁髪人の毛髪の長い将校の命令に忠実に従おうとはせず、かえって渡された武器で
もって逆襲をかけた連中である。
 もちろん郭将軍の部下は戦奴を使って追いかけ廻し、捕らえると見せしめの為に吊
るした。しかし、脱走した中には運よく木の上に登って身を匿したり、谷底でうまく
追手をまいて逃げまくった者らもいた。
 徹底的に反体制の人間が、こうして奴隷になるのを嫌って独立してしまった集団が、
次々とサンカとなって山野を彷徨しだした。
 元来、彼らは沿海州や羅津方面からベーリング寒流で日本海を渡ってきた先祖を持
っているから、パオと呼ぶ天幕生活をした。
 さて、表日本へ怒涛の如く流れ込んできて、太平洋へ抜けていく黒潮暖流から日本
列島に這い上がって住み着いた者等は、今の静岡・愛知・三重・滋賀あたりに、皆か
たまって助け合っていたゆえ、貧弱な縄文器の石斧、石槍でも何十何万人と集団化し
ていたゆえ討伐を防げ得たらしい。
 しかし、今の千葉県の仁右衛門島の蘇鉄や団扇椰子の茂っている対岸の安房の小湊
あたりに這い上がった連中は難儀したものらしい。なにしろ近くに多賀城とよぶ(中
華)城がある。単身で来ている弁髪兵の連中は、てんでに欲望のために女を捜しに手
分けして、毎日の如く鉄剣を振り廻して巡回をしたのは、<続日本紀>の中にさえ堂
々と記録されている。

 つまり、捕えられ素直に華城の中へつれてこられて慰安所へ収容。初めは将校専用。
その後は一般兵用になるのだが、その内に華城の兵の警備がひろがってくると、城内
へ次々と連行されるのは若い娘か美人だけに限られるようになる。
<野史辞典>や<庶民日本史辞典>[共に八切氏の著書]にあるように、皆戸、海渡、
開戸、垣内といった地名をつけられたタウンというのは、弁髪人兵がくるたびに女は
集まって、それぞれ女隠の戸をひろげねばならぬが、その代り他の日は家事労働でも
できるという仕組みだが、夫がいても占領軍を拒めば「野心を抱く女」として遠くへ
連れてゆかれ、奴隷市場へ売られてしまう羽目になってしまう。占領軍にしてみれば、
原住民は被占領民で、みな奴隷だったから当然である。
[野史辞典より(日本シェル出版)『垣内(かいと)』を転載しておきます。
『かいと、かいち、かいつと読む。騎馬系高麗新羅の官名ではカイは族長をさす。つ
まり、その彼らの非農耕地帯の部落の事。囲地、収容所のゲットーである。藤原王朝
傭兵クダラ帰化軍団によって、信州へ追われたり強制移住させられ収容された当時の
庶民の地域。土地により『海渡』といった当字もされる。また、捕らえられた日本原
住民が数珠つなぎに連行されたのがカイトの街道なりの説もある。拝火宗徒限定地は
焔のホをとってホイトと呼ぶ。<正徳三年己五月長州藩覚え書>によれば、『茶せん、
垣内者、道の者、川田』と連記されて、三味線ひき春駒、小歌うたい猿廻しの同類と
なし、宮番所の堂守りへ右の者に宿を貸してはならぬとある』]

 そこで命懸けで、かつての日本赤軍の永田房子らみたいに、榛名山系を越えて逃げ
込んだのが、裏日本から追われて隠れていた連中と、逃げる者どうしで共に一緒にな
るようになった。
 サンカというと三角が山の字に蜂の巣の窩をあててしまったのを、当人も後になっ
て悔いているが、決して山者つまり騎馬民族の血を引くだけの存在ではなく、逃亡者
達の反体制集団。
 といって、何十何百と固まってしまっては、いくら隠れて逃げまわっても中華兵に
見咎められる惧れがある。それゆえ、せいぜい二十人あまりの一団となって行動し、
移動する時には連絡のため「界石」とよぶ、次の落着く先を人目につかぬよう埋めて
残し、何日かで立ち去って行くのである。
 行動範囲というか縄張りが二ヶ国から三ヶ国に限られていたので、東北サンカが箱
根を越したのはアテルイの原住民大進駐軍の時ぐらいで、せいぜい来たのは茨城あた
りまでなので「イタコの伊太郎ちょっとみなれば」の潮来と、下北半島の恐山のイタ
コが同じサンカだったぐらいは地名で判る。
 なにしろ三角寛説では、日本人化の民族のような考察がされているが、とんでもな
い話で、彼らこそ日本人中の純粋血族で、完全に今もその血を伝えているのである。
というのは、従順に仕方なく奴(ぬ)とされ、奈良時代には百済人に七世紀後半から
は奴隷とされていた庶民の女は、すべて進駐軍の慰安婦とされ、共に黄色人種ゆえ一
見しては判らぬが、混血児を産まされてきている。
 これは「野史辞典」の庭子の項目に詳細に出ているように、女を全て召し上げられ
て、男共は生涯単身で、「先住民」つまり「賎」から言源をとったセンズリでザーメ
ンを垂れ流していたにすぎない。つまり、そうして原住民の男達の血は残らぬように
混血児だけにして単一民族化しようとしたのは明治まで一般では慣行されていた。
 だから松前藩もコシヤマイン蜂起後はアイヌの血を絶やす為に、女は人妻であれ少
女でも和人用にと徴用し、男だけは離島へ隔離して強制労働させて、血を伝えぬよう
に別れさせ粛清を謀ったのである。
[同じく『野史辞典』より「庭子」の項を転載すれば、
『釜子、庭子、やのこ、と地方によって呼称は違うが、大百姓の下男下女とよばれる
農奴に生まれた子供で、寺人別張に入っている奴寺百姓の子らと同じ扱いであった。
幕末までアメリカの奴隷制度と同じで、庭子の娘に旦那が産ませた子でも、やはり奴
の血が流れているのは人買いに売り渡された。つまりテレビの時代物のように、年貢
が払えぬからの娘の身売りなどというのは明治に入ってからの話で、それまでは旦那
種でもヤノ子であれば売られた。大百姓の伜に生まれた吉村寅太郎は、その悲惨さは
非農耕の武士階級がある為だから、彼らを廃し百姓が天皇直属となれば弊害は除ける
と、天誅組の旗上げをした。明治維新は日本の奴隷解放』]

 「白山神信仰」のオシラ様の御神体が男女一対となっているのも、なんとかして原
住民どうしの男と女が一緒に暮せる世の中が来るようにというので、その悲願を込め
て祀ったもの。
 ところが、「白山島」と幕末まで呼ばれた今の新潟では「白」を上につける神社や
御堂はみな古いものは毘を旗にしたイワカメシイ女武者。江戸期のものは黄と黒の楯
縞を着た女人が馬の背に跨るもので、明治からの義務教育で「韓信の股くぐり」が修
身の教科書で教えこまれたので、上杉於虎が父の名を継ぎ景虎、将軍家の名を貰って
輝虎。その死後には、姉阿亀の子の喜平次景勝が跡目を継ぎ、男系相続の徳川期では
「兼信」と、男女兼用の戒名をつけ、それを甲陽軍鑑の今の講談師のはしりが、武田
信虎をやはり戒名の信玄で、張扇を叩いたから、それへの対抗上か、語り口を合わせ
るために、もっともらしく「謙信」にしてしまったのが本当のところ。
 が、学校で「韓信」を教えこまれ、明治三十年代に頭山満指導の桃中軒雲右衛門の
「銘々伝」に「神崎与五郎の馬方の股くぐり」が広まったので、謙信と韓信がごっち
ゃになってしまい、「股くぐり姫」などと新潟は御神体を呼ぶ。死せる子はみめよか
りきで、女は死ぬと美人にしたがるが、おそらく於虎はブスな大女でアバタだらけゆ
え、いつも頭巾をしていたのだろうが、加賀の一向宗道場の坊主の率いる軍勢にいつ
も苛められていたから、女将として対抗したのは、現世では人外の者でも仏果によっ
て来世は常人となると原住民を煽動して攻め込んで来る彼らに、女上位の体制を示し
て畏怖させねば、とても打ち払う事ができなかったからだろう。 サンカ集団として
春日山の鉢形城で天下に怖れられた上杉於虎は、上京のたびに時の将軍足利公方の奥
方の許に滞在している。
 もし通俗歴史でいうごとく男だったら、足利将軍家が、女は他にいくらでもいるか
らと、御台所を滞在中は提供していた事になるが、まさか戦国時代の初めでも、室町
御所の権威というか見得がある。将軍家が妻御台所を在京中は貸している筈はない。
ということは、紛れもなくケンシンと俗称される者は女体だったせいだろう。
 富士山頂に木花咲耶姫を祀ったり、裏日本ではきわめて女上位であったのは、今も
モンゴルでは、長男が嫁取りすれば、弟共は我慢ならぬ時に御裾分けしてもらってい
て、よって女に対しては頭の上がらなかった慣習が裏日本へ入ってきたモンゴール系
の慣習であったからである。それゆえ表日本の静岡あたりには、「姫街道」といって
娘達を集団で連続的に市場へ運ぶ名称が今も残っているが、裏日本には全くそうした
地名は残っていない。男共がみな必死になって女人を守ってきたからである。
 さて、サンカが日本の純血民族であるというのは、その妻や娘を占領軍に渡して己
が命乞いをなさず、日本原住民の中で彼らだけが女と逃げ、同じ先住日本人の子孫を
育て、その血脈を今に伝えているからである。この大切な事を、警察情報をもとに先
入観とした三角寛は、人類学、言語学の基礎教養がなかったので、オカミの指示通り
に考究してゆき誤ったのである。
 娼にされぬ純な女と伴っての逃避行ゆえ、さぞかし追われ追われて苦労したろうが、
彼らの間の子は純日本[原住]系である。そして、その子らも純血を今日まで混血せ
ぬように保ってきている。
 「天の古代日本民族の研究」で太田竜も、やはり日本人は朝鮮や中国の男どもの落
とし種の混血児によって成立しているから、統治者にしては何よりの優秀な奴隷と決
めてかかっている。
 それゆえ三角説のような人外サンカ説。つまり日本人とは全く種族の違う人種みた
いな論説が、唯一のものとして後世に伝わってしまってはとんでもない誤解を招く事
になりかねない。
 それゆえ私は今まで書きたくなくて触れないようにしていた記憶を現世への名残り
の著述の一つとして書き、ついでに古代バビロニア語とサンカ言葉との類似点をも、
彼らが紀元前三世紀から先住日本人だった証明に付け加えて後学の為の参考にする。
 もちろん三角寛先生は、天下の朝日新聞をバックに、官僚機構の警察権力や、後に
は民族事業協和会によって集められた資料をもとにして統計的にも完成されたような
ものである。
 それに対して私のサンカものは、なんらオカミの力を借りる事もなく、ただ一人で
彼らと何ヶ月も同居して、足が遅いのでおぶわれて暮した。当時のサンカ生活の内側
からのものゆえ比較にならぬくらい程度は落ちると思うが、反体制集団の彼らの実体
はつかんでいる。