吉田松陰・外伝   その16
死して不朽の教師
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 価値観が大きく転換した第二次大戦後において、それまで尊王愛国の教育者と
してイメージ付けられてきた松陰は、いわば思想的戦犯者として素直に受け入れ
がたい存在となった。そうした中で昭和二十六年、歴史学者・奈良本辰也氏が岩
波新書の一冊として『吉田松陰』を刊行。「戦闘的な過渡期の革命家の型に属す」
として、革命家松陰をその血の通った人間性の魅力とともに甦(よみがえ)らせ
た。それが信頼性と普及度の高い岩波新書であったことによって広く人々に読ま
れ、皇国史観によって手垢(あか)に汚れた松陰像を一新する大きい役割を果た
したのである。決して、松陰が語る神国天皇絶対思想を見ぬふりをして皇国史観
から救い出したわけではない。松陰の志の拠(よ)り所をナショナリズムの視点
において捕らえ直し、かつ至純にしてヒューマニストとしての人間的な資質に目
を向け、人間の生き方の次元において松陰を復権させたのである。
 以後、革命家、教育者とそのいずれかに比重を置きながらの多くの松陰論が世
に出た。昭和四十八年刊行の寺尾五郎氏の『革命家吉田松陰』(徳間書店、のち
『草莽(もう)吉田松陰』と改題)なども、その革命性を評価し直そうとしたも
ので、死の直前に至って「天朝も幕府、わが藩も要らぬ」と言い切った時点で、
松陰は真の草莽革命の理念に達したとする。
 しかし、なお前述の杉浦明平氏のように、松陰の本質を神国天朝絶対・臣従思
想としてアレルギー的拒否反応を示す人も少なくはない。と同時に、松陰の猛挙
と死を単なる行動の美学として捕らえる人々のあることを危惧(ぐ)する人もあ
る。その杉浦氏にしても、野山獄を“福堂”たらしめようとした同囚の人々との
関係、そしてその人柄の持つ教化力については率直に認めるのである。
 本来、維新の先駆けたる意義と切り離しては考えられないその教師的魅力では
あるのだが、後者だけをもってしても、混乱と荒廃をみせる教育の現状において、
今日松陰が見直されるべき意味があるというべきかもしれない。特に山口県にお
いては、防長教育の原点として松下村塾教育を振り返る意識が強い。今日的なメ
ディアの最前線にある山口放送の近代的な社屋の前庭に、松下村塾の建物が復元
されたことなども、その一つの表れであろう。
 もとより松陰も封建倫理の枠の中に生きた一人の人間である。その思想が先駆
的であるがゆえの撞着(どうちゃく)もある。松陰は決して完成された思想家で
はない。いや思想家としての成長半ばにして命を絶たれたというべきかもしれな
い。しかも実学的な学風を持つ松陰は、時局の展開に即しながら思考の歩みを続
け、その折々の到達点を、誠実かつ綿密に著述や書簡において跡づけている。そ
れだけに、捕らえる時点でかなり多様な顔を示す。時に皇国史観の具とされ、時
代が変われば革命家としての思想的組み立てが行なわれる所以(ゆえん)である。
したがって、松陰の生涯をたどることは容易でも、松陰の思想を論じることは難
しい。しかし、いかなる視点に立とうと、その先駆性は否定できないし、また教
師的資質も認めざるを得ない。
 私はその両者を素直に認めつつ、その生涯をたどることによって、個人的な認
識の押しつけでない松陰像を語ろうとした。その意味で、作家であり歴史家であ
る古川薫氏の冷静な人間性追求の諸著書を大いに参考にさせていただいた。また
資料としては、松陰全集、他に山口県教育会編の『維新の先覚・吉田松陰』を座
右とした。
          <完>