吉田松陰・外伝   その15
死して不朽の教師
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 この連載を終わる前に、松陰評価の変遷についても、振り返っておきたい。
 松陰のまとまった評伝として最初のものは、明治二十六年に刊行された徳富蘇
峰の『吉田松陰』(民友社)であった。蘇峰は、松陰を「実に革命の健児也」と
して「革命の大悲劇を演ずるには、三種の役者を要す。序幕に来るは予言者也、
本幕に来るは革命家也、最後の打出しに来るは建設的革命家也。而して、此の種
別よりすれば、吉田松陰は、実に第二種に属す」と論じているのである。
 ところが、この革命家松陰論が、明治四十一年に至って大幅に書き換えられて
しまった。特に、「革命家としての松陰」と題する第十五章がすっかり削り取ら
れ、代わりに「松陰と団体論」「松陰と帝国主義」といった章が付け加えられ、
松陰のナショナリズムが帝国膨張思想として当時の国策に沿うかたちになったの
である。それは長州人・乃木希典大将の抗議によるものであったとも言われてい
るが、要するに、国内における明治維新に対する意識の変化と時勢を反映させた
ものであろう。
 そして戦前・戦中の松陰像を決定づけたのが、大正半ばに始まる『尋常小学校
修身・巻五』への登場とみられる。その第十七課に「自信」と題して松陰が取り
上げられるのである。
 「吉田松陰は長門の人であります。十一歳の時、始めて藩主に召出されて兵書
の講釈をいひつけられました。家の人たちはいろいろ気づかったが、松陰は藩主
の前に進み出て、大ぜいの家来の列んでゐる中で、少しも臆せず、自分の知って
ゐる通りはっきり講釈したので、藩主をはじめ皆大そう感心しました。松陰は外
国の事情がわかるにつれて、我が国を外国に劣らないやうにするには、全国の人
に尊王愛国の精神を強く吹込まなければならないと、かたく信じて、一身をささ
げて此の事に尽さうと決心しました。二十七歳の時、郷里の松本村に松下村塾を
開いて、弟子たちに内外の事情を説き、一生けんめい尊王愛国の精神を養うこと
につとめました。松陰は至誠を以て人を教へれば、どんな人でも動かされない者
はないと、深く信じて、『松本村は片田舎ではあるが、此の塾からきっと御国の
柱となるやうな人が出る』と言って弟子たちを励ましました。松陰の松下村塾を
開いてゐたのは、僅かに二年半であったが、はたして其の弟子の中からりっぱな
人物が出て、御国の為に大功をたてました」
 と語られ、その末尾に「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和
魂」の辞世の和歌が付け加えられている。ここで強調されたのは言うまでもなく
「尊王愛国の精神」を教えたということであった。さらに、これが第二次大戦下
の国民学校教科書『初等科修身四』となると、三つの章において登場することに
なる。まさに忠君愛国の権化としての松陰であった。
 こうした時代の中で、綿密な実証をもって教育者としての松陰を強くイメージ
付けたのが、昭和十一年に刊行された。当時広島高等師範学校教授の玖村敏雄氏
による『吉田松陰』(岩波書店)で、特に教育者に大きい影響を与えたといわれ
ている。ただ、この本を手にすることができず、内容を十分に知り得なかったが、
幸い山口銀行厚生会が昭和三十四年から同四十一年にかけて行なった玖村氏によ
る職員研修講話をまとめた『吉田松陰の思想と生涯』によって、氏の教育者・松
陰への深い理解を知ることができる。もちろん、戦後における認識の変化は玖村
氏のうえにも反映されたものとなっている。