吉田松陰・外伝   その14
死して不朽の教師
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 最後にもう一度、松陰の維新における位置づけを問わなければならない。ここ
に司馬遼太郎氏の書いた一文(『歴史の中の日本人』)がある。
 「革命というものは薩摩の冷徹な戦略主義だけでできるものではなく土佐脱藩
の士のようないわゆる草莽(もう)の力闘だけでできるものではない。松陰死後
のある時期から長州藩はその穏和な性格を一変させ、全藩ぐるみやぶれかぶれと
いってもいいような暴走をはじめ、その暴走によっておこる巨大な風圧がつぎつ
ぎに物理的な衝撃を情勢にあたえ、さらに進行し、めまぐるしく、新段階をつく
りつつ、ついには自爆寸前になって薩摩と土佐が事態収拾の手をのばし、いわゆ
る維新が成立した。この長州藩の日本史上の壮観ともいうべき暴走の点火者にな
ったのが、吉田松陰である」
 その、松陰死後の長州藩の歩みを振り返ってみよう。
 松陰の死を知った高杉晋作は、「ただ日夜、わが師の影を慕い、激歎するばか
り」と周布に書き送るが、悲憤の思いは高杉のみならず松陰門下生すべてのもの
であり、また長州藩にとっても幕府への新たなる恨みともなった。
 翌万延元年(1860年)、安政の大獄の主役・井伊大老を桜田門外で暗殺、
イギリス公使館襲撃と、尊攘派の過激な行動が活発となるなかで、長州藩は直目
付・長井雅楽を中心に公武合体運動を主導しようとするが、これに松門の久坂玄
瑞らが反対し、長井暗殺を計画。中谷正亮らに制止された松浦松洞が悶々(もん
もん)のうちに割腹自殺。暗殺策を制止した中谷も、四ヶ月後には薩摩の有馬新
七らと京都所司代の襲撃を図って果たさず病死する。また翌文久二年、藩論修正
で長井も責任をとって切腹した。
 そのころ高杉は、幕府使節団に加わって上海に渡るが、清国の半植民地化の現
状に衝撃を受け、帰国後の十二月には同藩の同志十三人で品川御殿山イギリス公
使館を焼き打ちにする。高杉・久坂・伊藤・赤根・有吉ら松陰門下が中心であっ
た。さらに翌三年、長州藩は下関海峡に無謀な攘夷を決行、久坂の率いる光明寺
党が五月十日その第一弾を撃ち出す。
 そして八月十八日の京都における政変で長州藩は京都から追放され、翌元治元
年六月五日、京都・池田屋事件で松門の吉田稔麿・杉山松介が重傷を負って自刃。
これらに激高、長州藩の復権を求めて二千の兵を京に送ったが、蛤御門近くで会
津・薩摩軍と激突、敗退し、この禁門の変で久坂・有吉・寺島・入江の松門四人
が自刃。その年十一月の第一次長州征伐では三家老の首をさし出し、四人の参謀
を斬(ざん)に処して事態の収拾を図るが、このころから藩内俗論派による血の
粛清が始まり、松陰を理解した正義派の多くが悲業の死をとげる。
 ここに高杉が九州の亡命先から帰り、十二月十五日功山寺に決起。以後、高杉
・佐世(前原)・伊藤・山県らに率いられた決起軍は、政府軍と激しい内訌(こ
う)戦を戦い抜いて藩論を統一。慶応二年六月からの第二次長州征伐(四境戦)
では、高杉らの果敢な指揮によって幕府軍を撃破。幕府権威の失墜を天下に示し、
討幕の決定的な要因を導き出すのである。
 その間には、玉木彦介、そして高杉晋作の死もあり、討幕の仕上げともいうべ
き戊辰・函館の戦いでの時山直八・駒井政五郎らの壮烈な死もあった。松陰死後、
長州藩の激走の先頭には常にその門下生がおり、多くの死を積み重ねていった。
高杉に「散り行きし花に色香は劣れども同じ心の散る桜花」という和歌がある。
いずれも亡き師・松陰を思いながら散って行った桜花であり、彼らすべてが今、
下関の桜山神社に松陰招魂碑を中心として祭られている。松陰は、その門下生た
ちの至誠を通じて、まさに維新の魁(さきがけ)となったのである。