吉田松陰・外伝   その13
死して不朽の教師
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 非業の死によって、志半ばに去って行った人々には、何らかの意味で美しい余
韻が残る。だが生き残って生涯を完結した人々の場合は、後世の目と歴史に冷酷
にさらされた清算書がきっちりとつきつけられるものである。例えば、松陰門下
で生き残って栄達した伊藤博文や山県有朋については、これをひどく嫌悪する人
もある。特に反権力思考者において、おおむねそうである。作家であり、批評家
である杉浦明平氏もその一人。
 「松陰がこれだけやっているのに、何とその弟子の中から維新政府の権力者た
ちがぞろぞろ生まれて、松陰を辱しめたか。教育って何だろうか、松陰を読んで
つくづく思いましたよ。弟子に与える根本的な影響という観点から見ると、教育
というのはあり得ないんじゃないか、教育というものは効果ないもんじゃないか
と考えました。松陰の門から伊藤博文や山県有朋なんかが出てこなけりゃ、松陰
ももう少し気持ちよく読めたかもしれません」(『批評日本史・吉田松陰』)
 と、厳しい。『草莽・吉田松陰』の著者、寺尾五郎氏などは、伊藤・山県を背
教者とさえ言い切る。
 門下生とはいえ、短期間だけに人それぞれ、どれほど松陰の精神を吸収し得た
か疑問であり、この両者をもって松陰までも嫌悪することは不当であろうと思う
が、ただ松下村塾から総理大臣になった伊藤が出た、山県も出た。だから松陰は
偉い先生だといった短絡的な評価に対する批評として、こうした見解も厳粛に受
け止める必要があろう。
 教師としての松陰は、個々の才能・能力を引き出し、自負を持たせることに、
その本領があった。その才能・能力によって各自がそれぞれの道を歩んで行く。
そこに多様な足跡が刻まれていくわけである。それは教育の限界というよりも、
それが教育本来の姿ではなかろうか。伊藤・山県が松陰には全く見られない権力
志向を後に持ったからといって、一個人、一教育機関をもってすべての人の性格
・志向までも矯(た)めることは不可能なのである。これは、今日の教育でも同
じことが言える。
 権力の毒については、松陰自身『講孟余話』の中で、
 「余、当今を歴観するに、達するも道を離れざる者少なし、貧賤の際、少壮の
日、書を挟み経を講ずる時の議論と、廟(びょう)堂に登り政事に従ふの功業と、
大抵は当らず」
 と、人間が権力を握ると変わってしまうことを嘆いているのである。さしずめ
伊藤・山県は、この“達して道を離れた者”ということになろうか。
 むしろ、功業なって新政府の大臣位に登った門下生の中では、松陰に愛された
品川弥二郎、野村靖(和作)に、松陰の影響をみるべきかもしれない。品川は、
松陰が「留魂録」に託した「尊攘堂」創設の遺志を継いで、京都に尊攘堂(現・
京都大学所管)を創建し、さらに国元・長州にもと、長府の人・桂弥一に長門尊
攘堂(現・下関市立長府博物館)創建を託した。野村もまた、死後は松陰の墓近
くにと遺言。今も妻と共に松陰に従うごとく、東京の松陰神社境内の松陰墓地に
葬られているのである。
 終生、松陰を師と仰いだ品川・野村に対して、伊藤・山県の松陰への姿勢は「
敬して利する」であったようだ。
 松陰を汚すうんぬんは別として、足軽・中間の軽輩から身を起こし、松陰との
かかわりを一つのバネとして一国の頂点に登りつめた二人が、松門の栄光を利用
したことは否めないまでも、彼らにも討幕と急速な近代国家への推進に功がなか
ったとは言えない。人それぞれ、時代に生きる役割がある。そして二人も、また
明らかに一つの時代をリードする人材として、松陰によって育(はぐく)まれた
人たちであったのだ。