吉田松陰・外伝   その12
死して不朽の教師
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 高杉晋作の死も、病死ではあったが、その生涯の決算として、松陰とはまた異
なった意味で強いインパクトを持った死であった。松陰の門下生の多くが、松陰
によって点火された炎を燃え尽きさせるかのように、次々に劇的な死をとげてい
く。そうしたインパクトを持った劇的な死を思うとき、あえて“激死”という言
葉を用いたくなる。もちろん、そういう慣用語は無いのだが、松陰につながる人
々のいくつかの死の様相に、長州の地における“激死の系譜”といったイメージ
が浮かび上がってくるのである。
 そのイメージは、例えば、吉田松陰−高杉晋作−前原一誠−玉木文之進−乃木
希典とたどることになる。
 前原一誠(佐世八十郎)は安政四年(1857年)以来の、れっきとした松陰
の門下生。松陰も「勇あり、智あり、誠実人に過ぐ」と評して、高杉・久坂と並
ぶ高弟として一目置いた人物。間部要撃策にも血盟して松陰に従おうとした一人
であり、また無謀とされた元治元年十二月の高杉挙兵にも、あえて参加した勇者
である。彼は生き残って、明治元年(1868年)の北越戦に参謀として参戦、
明治新政府の参議となり、さらに兵部大輔(陸軍大臣的位置)にまでなるが、松
陰的精神に固執して新政府と意見が合わず下野。帰国して、ついに明治九年(1
876年)十月、萩において蜂(ほう)起、事敗れて斬首される。西南戦争に先
駆けたいわゆる「萩の乱」の首謀者であるが、時代変革への純粋な理念を失おう
としている新政府に対するアンチテーゼたろうとした非業の死であったとも見ら
れる。
 松陰の師であり、叔父であった玉木文之進の場合は、長男・彦介が高杉らの決
起による内訌戦(ないこうせん・長州藩内における藩政府軍と決起軍との戦い)
に決起軍の一員として戦い、美祢郡絵堂の激戦で重傷を負って没した後、先祖が
初代長門守護職佐々木高綱に発して宗支関係にある乃木家から希典の実弟・真人
(正誼)を養子に迎えていたが、この正誼が前原一誠に加担して戦死。身内はも
とより、前原をはじめ多くの門人・関係者が反乱軍にくみしたことの責任を感じ
て、乱終結後の十一月六日、松陰の墓もある玉木家の墓地において割腹自刃して
果てる。一徹なまでに誠実であった六十七年の生涯を、劇的に自らの手で閉じた
のである。
 次いで乃木希典の死をこの系譜に加えることには疑義もあろうが、彼も自ら求
めて玉木文之進に師事し、松陰につながる山鹿流兵学を信奉。殉死するに際して、
幼い裕仁親王(昭和天皇)に山鹿流の神髄「中朝事実」を将来の帝王道の範とし
て手渡したことは有名な話。明治天皇への殉死も、ある意味で乃木の純粋な魂の
帰結であった。その乃木の死に評価諸説あることは述べるまでもないが、是非い
ずれにしても、わが国の精神史の上に強烈なインパクトを与えたことは否定でき
ない。
 さらにたどれば、昭和維新を標榜(ぼう)して起こった昭和十一年(1936
年)の「二・二六事件」の首謀者の一人、長州人(下関市長府の人)田中勝中尉
も、またその経歴に吉田松陰から影響を受けたことが記されているのである。
 これらの人々の生涯には、さまざまな思想的曲折があったとしても、その死は、
いずれも真摯(し)なる至誠の帰結と考えられ、松陰に発する“激死の系譜”と
してとらえてみることも、あながち不当ではあるまい。
 それを長州人の「狂」の系譜ととらえる見解もある。ただその「狂」が、ヒュ
ーマニズムを根としたロマンチシズム的業であるところに、人々の心をとらえる
「何か」があるのではなかろうか。