吉田松陰・外伝   その11
死して不朽の教師
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 何といっても、長州藩における明治維新の表立った主役は、吉田松陰と高杉晋
作であろう。松陰は種子をまく人であり、高杉は花を開かせた人といえる。
 高杉は、松陰の『留魂録』に「義卿三十、四時巳に備はる。亦秀で亦実る、其
の秕(しいな)たると其の粟たると吾が知る所に非ず。若し同志の士其の微衷を
憐み継紹(けいしょう)の人あらば、乃ち後来の種子未だ絶えず、自ら禾稼(か
か)の有年に恥ちざるなり」というところの、まさに継紹(後を継ぐ)の人であ
り、松陰が世に秀でたところの「種子まく人」であったことの証(あかし)とも
なった。
 高杉晋作の功績としては、奇兵隊創設、四国連合艦隊との講和締結、藩論統一
の功山寺決起、四境戦争(第二次征長)を勝利に導いた指揮などがあげられよう。
しかもその対処の姿勢がいずれも極めて個性的であり、独創的なのである。そう
した個々の個性を育てたというところに松陰における教育の特色があった。
 とにかく、人を観(み)る目、才能を引き出す力の確かさにおいて最高の教育
者であった。そこには若い人たちに期待し、そこから未来を創(つく)り出そう
という意識も感じられる。松陰は決して一つの型を押しつけるような指導はしな
かった。そこに、ある意味では「じゃじゃ馬」的な高杉が、心をゆるして接して
行けた理由もあったのではなかろうか。
 評論家の橋川文三氏は、松陰を評して、いわゆる心情倫理の達人であるという。
つまり心情における誠実を尽くすことによって、それが行動の原理になる。あと
いかなる結果が生まれようと、これは少なくとも自己の良心において恥ずるとこ
ろがない結果には全く責任を取らないし、取る必要を感じないわけである。松陰
はそういうタイプの一つの日本的形象であり、それをわがままといっても、その
心情倫理の純粋さゆえに、とがめ得ないところがある、と言っているが、高杉も
また、それを受け継ぐタイプであるように思える。松陰も高杉も当時の封建社会
にあって己の信ずる道を突っ走り、かなり気ままである。他に迷惑もかけている。
しかし憎めない。そして強い学習意欲に基ずく知識と人一倍優れた感性によって、
結果的には大いなる成果をもたらすことになる。
 ともあれ、高杉はよき師を、松陰はまたよき弟子(後継)を得たことになる。
事実、松下村塾にとっても高杉の存在した意義は大きい。軽輩の子弟の集団に、
れっきとした藩士の子弟で才気かん発な高杉が加わったことによって村塾自体が
一つの輝きを持つ存在となり、藩や世間が認知する。そのいわば余光の中で、他
の塾生たちも活躍の場を得たという感もある。松陰もまたそのことを知ってか、
高杉を大切にし、かつ上手に御している。要するに、松陰門下が維新に貢献する
集団となるためにも、一つの役割を果たした。また高杉にそうした役割を果たさ
せたところに、松陰の教師としての見事さもある。
 その高杉が、死を決して功山寺に決起したのが元治元年(1864年)十二月
十五日。幾度も繰り返すが、この十二月十五日という日は、松陰が東北への亡命、
最初の猛挙の因となった日であり、間部老中要撃策の出発の日と定めた日であっ
た。高杉の功山寺決起はまさに「松陰先生、先生のお論しによる不朽の死を今、
私はここに見定めました。ご照覧あれ」という高杉の、亡き松陰の向かっての心
からの呼びかけではなかったろうか。