吉田松陰・外伝   その10
弔葬・追慕の譜
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 先に紹介した安政六年(1859年)十月二十日に書かれた松陰の「永訣の書」
をもう一度ふり返ってみよう。その中で、実母と養母に対して書かれた遺言とも
いうべき追白に、次のような一節があった。
 「私首は江戸に葬り、家祭には私平生用ひ候硯(すずり)と、去年十月(十一
月の誤り)六日に呈上仕り候書とを神主と成され候様頼み奉り候。硯は己酉(嘉
永二年)の七月か、赤間関(下関)廻浦の節買得せしなり、十年余著述を助けた
る功臣なり。松陰二十一回猛士とのみ御記し頼み奉り候」
 この願いどおり、首は確かに江戸に葬られ、江戸と萩の墓碑には「松陰二十一
回猛士墓」と刻まれた。ここで、いま一つの家祭についても目を向けてみなけれ
ばならない。
 国元の萩では、実家杉家によって百日祭がとり行なわれ、高杉晋作らによって
墓碑が建立されたことはすでに述べたが、その後、文久三年から慶応にかけて防
長の地は戦火のあらしが吹き荒れ、久坂・高杉・吉田(稔麿)・入江といった松
陰を真に師と慕う人々の多くが世を去った。そして明治の新時代を迎えるや、生
き残った松下村塾門下生たちの目も、中央の国事に向けられていくのである。
 そうした中で、松陰ゆかりの前原一誠(佐世八十郎)の乱、玉木文之進の自刃
という劇的な出来事が一時的な波紋を広げるが、かつてその一画、松下村塾を中
心に峻(しゅん)烈に燃えた松陰の誠心も、次第に過去のページに組み込まれる
かのように、萩は静かな城下町の装いをまとい始めていた。
 そうした明治十六年(1883年)、島根県令を辞職して帰った旧門下生・境
二郎(前名斎藤栄蔵)が松下村塾を訪れ、その施設の保存を強く訴えるのである。
そして明治二十三年(1890年)八月、松下村塾の建物が改修されることにな
り、この機会に実家の杉家では、自家の私祠(しし)として村塾の西側に土蔵造
りの小さな祠(ほこら)を建て、松陰の神霊をまつり、その中に遺著や遺品を納
めた。この時、神霊の宿る御霊代(みたましろ)として松陰愛用の赤間硯と安政
五年(1858年)十一月六日付の文とが奉安され、松陰の葬りに関する遺言の
すべてが果たされることになったのである。
 さらに明治四十年(1907年)九月十五日、門下生の伊藤博文と野村靖両名
の名をもって神社の創建が願い出され、同年十月四日に許可された。
 そこで既設の土蔵を神殿としてそのまま村塾の南側に移し、さらに萩城内にあ
ってすでに廃されていた宮崎八幡宮(毛利家の守護神)の拝殿を移築し、萩の松
陰神社創建となる。東京の地に、松陰神社が創建されて二十五年後のことであっ
た。
 以後、同社は県社に列せられ、昭和十二年には王政復古七十周年記念事業とし
て神域の拡張をはかり、千五百坪の敷地を獲得、同十三年より神殿の改築にも着
手し、同十七年に一応檜皮葺(ひわだぶき)の社殿が完成したが、折しも戦局厳
しく、さらに終戦と続いたため、そのままに放置、昭和三十年に至ってようやく
社殿の屋根も銅板に改めるなど改修工事も終わって、十月二十六日に還座を行な
った。
 さらに昭和三十四年、神社境内の一隅に松陰遺墨展示館も完成。同年八月二十
七日に開館し、この年の十月二十七日、松陰の命日に行なわれた松陰百年祭を一
つの区切りとして、ほぼ今日の姿を整えるに至ったのである。
 それにしても、愛用の赤間硯をわが功臣として神主にと願うところに、松陰が
文章に己を託した思いの深さが偲(しの)ばれるのである。