吉田松陰・外伝   その9
弔葬・追慕の譜
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 国元の萩に墓碑を建立し、江戸の小塚原回向院にも墓碑の再建を果たしたとは
いえ、門下生たちの松陰追慕の思いはなお深まり、「小塚原は刑死者を埋める穢
汚(けがれ)の地であって、忠烈の士の骨を安んずべき所ではない」と、高杉晋
作らが熱心に改葬を主張し、ついに藩の許可を得て荏原(えばら)郡若林村の大
夫山(だいぶやま)に改葬することになった。
 この大夫山というのは、延宝二年(1674年)に長州藩第二代藩主毛利綱広
が江戸在府のおり、旗本志村勘右衛門の釆地(さいち・領地のこと)内の農民か
ら土地を購入し、火災時の避難地とし別邸も設けられていた所で、その土地が丘
陵を成していたところから、人々は長州藩主の通称松平大膳大夫にちなんで、大
夫山とか長州山とかいうふうに呼びならわしていた。現在、松陰神社がある東京
都世田谷区若林四丁目がその地である。
 さて、文久三年(1863年)に年が改まった一月五日、いよいよ改葬が決行
される。この日の朝、高杉晋作、堀真五郎、伊藤利助(博文)、山尾庸三、白井
小助、赤根武人、遠藤貞一らを中心とする門下生・知友の一行が、馬に乗った高
杉を先頭とし、柩(ひつぎ)を伴って堂々と列を進めた。
 ここでよく語られる一つの逸話がある。それというのは、一行が上野山下の三
枚橋(三つの橋が並んで架けられているのでこの名がある)の中橋を渡ろうとし
たところ、その橋の番人が、中央の橋は将軍が東叡山寛永寺に参詣(けい)する
ときに渡る橋で、諸侯以下士庶民においては左右の橋を渡るのが決まりであると
して、一行の通行を阻止しようとした。それに対して高杉は鞭(むち)をふりあ
げ、居丈高に「我等長州の同志が朝廷の旨を奉じて忠烈の士の遺骨を葬るのであ
る。その途中この橋を渡るのに何の不都合があるのか」と叱咤(しった)し、番
人が驚いてひるむすきに、ゆうゆうと渡ってしまったというのである。
 いかにも高杉らしい逸話ともいえるが、当時の三枚橋に関する実情、あるいは
この話の出典など詳細に検証していくと、いわゆる講談調英雄伝説として後の人
たちによってつくられた話のようである。ともあれ、一行は江戸の町中を横切っ
て大夫山に至り、改葬を無事すませたのは、その日の夕方であった。
 この折、一行は松陰の遺骨を改葬すると同時に、ともに安政の大獄の犠牲とな
った頼三樹三郎(頼山陽の三男)と小林民部(鷹司家家士)両志士の遺骨をも移
し、松陰の墓に並べて葬った。いわば幕府に対する反骨の改葬とでもいうべきで
あろうか。
 また、小塚原の墓地についても「この墓所は忠死の血痕の残っている聖なる地
であるから、取り壊して無くしてしまうに忍びない」ということで、掘り起こし
た墓を修復し、墓碑も保存、今日に伝えられることになったのである。
 その後、高杉らは、松陰の親友で文久二年八月に桜田藩邸で自刃した来原良蔵
の墓を芝の青松寺から改葬、さらに同年十一月に福原乙之進をこの地に埋葬する。
ところが翌元治元年(1864年)、京都で禁門の変が起こったことから、幕府
は懲罰の意味で、江戸の長州藩上屋敷と下屋敷を没収し、大夫山に火を放って松
陰らの墓を破壊してしまった。
 そして、王政復古の成った明治元年(1868年)、松陰らの墓は新たに建立
され、明治十五年(1882年)にいたって墓所の南側に松陰神社の創建をみた
のである。現在、松陰神社境内となった松陰墓所の同境内には来原良蔵の妻春子、
野村靖夫妻、中谷正亮らも葬られ、今もなお師・松陰を追慕しているかのようで
ある。